第一回弁当会議
第一回弁当会議
翌朝。
「藍ちゃん!」階段を三分の二ほど上った藍を、碧の元気な声が迎えた。
二人の合流場所はいつもと違い、松本駅改札の内側、7番ホームへ通じる階段の上だ。今朝は雨で、しかもかなり強く降っている。明朝まで降り続くとの予報を受け、二人は電話で相談して松本駅から学校までバスを使うことにした。そして、今日は碧も南松本駅から電車に乗ってきたのである。
「おはよう!」階段を上りきった藍に碧が挨拶し、
「おはよう…!」藍も返す。他の乗客は既に改札へと向かっており、通路には二人だけだ。普段は電車の後方車両即ち松本駅7番ホームの階段に近い方に乗る藍だが、今日は碧との合流を円滑にするため、前方車両に乗って人波の最後尾につけたのだ。バスの発車時刻まで間が有るので、ここで急ぐ必要は無い。
二人は並んで改札へと向かった。
「何か新鮮だね!」
「うん…ありがとう…」
「え? 何が?」
「先に来てくれて…」
「そういう時刻表だったからね!」と碧は言うが、彼女が意図して藍より先に松本駅へ着いた、そういう列車を選んだと、藍は確信している。
「うん…」しかし碧がそう言う以上、そういうことにしておくべきだ。藍は心の中でもう一度礼を言った。
「井川先輩よかったね!」
「うん…!」昨日、碧が部活を終えて携帯電話を見てみると、井川から通信が入っており、梨乃から連絡が来たとのことであった。詳細は書かれていなかったが、文面から判断して、紫を喜ばせたことは間違い無い。ということを、食堂から駐輪場まで歩く間に碧が藍に話したのである。
「梨乃さんて、そんなにとっつきにくくないよね?」
「え? うん…」寧ろ、人当たりは柔らかい方だと思う。だが。
「でも、初めて会った時私一人だったら、緊張したと思う…」
「え、そうなの? 何で?」
「え…と…別の世界の人みたいで…」容姿もさることながら、立ち居振る舞いに卒が無さ過ぎる。
「そうなんだー。実は昨日お兄ちゃんから聞いたんだけどね」
「うん…」
兄から聞いたという話を碧が話す間に、二人は改札を通過し、階段を下りてバス乗り場に着いた。改札で、藍は定期券を係員に見せ、碧は切符を自動改札に通したのだが、隣同士で改札を通る時、藍は何だか不思議な心持ちがした。
バス乗り場は階段を下りて右斜め前に在る。松本驛看板から三十mほどの歩行距離だが、時折強く吹く風が激しい雨をバス停の屋根の下まで運んでいる。バス停に立っていては、服が濡れてしまうだろう。二人は開店前の店舗の前に立ち、バスが来るのを待った。付近には、恐らく同じことを考えている人が十数人立っている。
「梨乃さんが近寄りがたいってことないでしょって思ったんだけど、そっかー。言われてみると確かに別世界の人だねー」
「うん…」それをあっさりと同じ世界の住人にしてしまった碧はやはり凄い。
「井川先輩はどうなんだろ?」
「え…?」どう、の意味を汲み取れなかった。
「んーと、別世界だと思ってたらあんなに熱心じゃないよね?」
「あ、うん…あのね…」
「うん、なになに?」
今度は藍が紫の話をした。その間にバスがやって来たので、二人はスカートの裾を軽くはたいてから乗り込み、一番手近な空席に並んで座った。窓を雨が打っているが、一度車内に入ってしまえばそれを見るのも愉快な気がする。
「天使で女神で菩薩…井川先輩も相当メロメロだな…」
「うん…」
「医学部受けようってんだから並みのメロメロじゃないとは思ってたけど」
「うん…」
「梨乃さんから連絡来て本当に良かったね!」
「うん…!」
「じゃあ次回のばらの湯大会は井川先輩も誘ってみよっか。梨乃さんもオッケーしてくれるよね」
「うん…!」まさに自分がそれを切り出そうと思っていたところである。
「井川先輩も大きい方だったよね」
「え…そうだった…?」目線が自分とほぼ同じ高さだったように思うが。
「うん! 梨乃さんよりはだいぶ小さいけど。推定E」
「……」胸のことだったのか。藍は全くそんなところを観察していなかった。今の話の流れから察するに、紫も碧の両手の餌食になるのであろう。
「すごい雨だねー」碧が右側を見ながら言う。話題が変わったようだ。
「うん…」
「今日はバスで正解だね!」
「うん…」こうも雨足が強いと、合羽を着ていても顔には雨滴が当たって濡れてしまうだろう。快適ではないし、危険でもある。
「バス停から歩いてる間にまた濡れそうだけど」
「うん…」バス停-校門-校舎の道のりで百五十か二百mというところであろう。
「道路と校舎、橋でつないでくれたらいいのにね!」また藍の想像もしなかったことを言う。
「え…」
「だって、道路から校舎十メートルもないじゃない?」バス停付近では、路面が校舎の三階の床辺りの高さになる。つまり、三階から橋を架けるということになろう。
「うん、そうだね…でもそれだと簡単に入れちゃうよ…」
「むう、セキュリティの問題か…あ、じゃあ跳ね上げ式にすれば?」
「お城みたいな…?」藍が思い浮かべているのは、西洋の城である。橋の先端に鎖が繋がっていて、鎖を巻き上げることで橋も上がるものだ。
「うん! そうすればセキュリティもバッチリ!」
「あ、えと……誰が上げ下げするの…?」動力が人力なのだったら、かなり大きな梃子や歯車で力を増幅させなければ、自分には絶対無理だ。
「そりゃもちろん当直の人が。ってそんな人いないか!」
「うん…」守衛を雇っているならその人に任せればいいが、松本高校にそんな職員は居ない。
「じゃあ最初に来た人が…ってわたし達!?」
「もっと早い人いると思うけど…」
「その人もバスで来てたらアウトだ…」
「うん…」
「となると、生徒手帳にICチップ入れて、タッチしたら鍵が開く扉つけるか…」急に現代の技術が導入された。
「それなら屋根と手摺も…」そもそも雨に濡れたくないというのが話の起点なのだから屋根は欲しいし、側面に何も無くては落下の危険が有る。
「おお! それ重要! だいぶ快適になるね!」
「うん…あと、横断歩道作らないといけないね…」バス停は学校から見ると道の向こう側になる。
「おお! さすが藍ちゃん、よく気がつく! じゃ、校長に直訴だね!」
「え……」本気だろうか。
「まず竹切ってこないと」
「え…?」
「いやほら、直訴だから手紙挟む竹が要るじゃない。二メートルぐらいでいいかなあ」
「…………」冗談だったのか。実に分かりにくい。いや、本当に冗談なのだろうか。一抹の不安が残る。
「井川先輩の名前珍しいよね。紫でユカリさん」話題が井川に戻った。
「うん…」
「知ってた?」
「読み方は知ってたけど…」
「会ったのは初めて?」
「うん…」
「あだ名ムラサキになりそうだね…」
「うん…中学の時ムラっていう渾名だったんだって…」
「本名村田さん」名前のはずが名字になっている。それがツボに嵌まって藍は小さく吹き出してしまった。
「うん…そんな感じがするね…」
「でも可愛いよね、紫でユカリさん」
「うん…」
「あ、そう言えば英語でもVioletって女の子の名前だよね」
「そうなんだ…」藍はそのことを知らなかった。
「うん。井川先輩より紫先輩の方がいいなー」
「多分いいって言ってくれると思うよ…」
「お、何かありましたな?」
「うん…昨日図書室で話したら、名前で呼んでって言われたから…」
「そうなんだ!」
「うん…ゆかりでもゆかでもムラでもいいって…」
「お! そこで村田さんにつながるわけですな!」
「うん…」先程の笑いがぶり返す。
「で、何て呼ぶことになったの!?」
扉が閉まり、バスが動き出した。行き先についての車内放送が流れる。
「紫さん…」
「うん、イメージ通り! ムラさんだったらどうしようかと思った」
「それは…ちょっと…」くだけ過ぎている気がして、藍には無理だ。
「だよねー…ムラさんって何かベテラン刑事みたいだね!」
「え…うん…」刑事かどうかは分からないが、おじさんぽい響きだと思う。
「リセエンヌ探偵の実力を認め、裏で協力して捜査を進める刑事ムラさん!」
「え…」井川は高校生の設定ではないのか。もしかしたら男なのか。
「となると、梨乃さんにもワンコローズにも出てもらわないと」
「クロは被害者だったね…」
「うん! まずアっちゃんは警察犬ね」
「うん…」妥当なところであろう。警察犬と言えばジャーマンシェパード、刑事と言えばドーベルマンである。
「でラブ子がハンドラー」
「ハンドラーって何…?」
「警察犬に命令して操る人」
「え……」犬を操る役が犬とは。相変わらず、藍の想像を絶する発想である。
「や、今回は人じゃないか」
「何か…あんまり言うこと聞かなさそうだね…」梨乃は年功序列と言っていたが、アスラン本犬にはそのような自覚は全く無いように見受けられた。
「むーん、確かに。…いや待てよ、言うこと聞かないアスランに業を煮やしたラブ子が自ら警察犬として捜査し、証拠を発見。それを見て焦るアスラン。二匹の競争により次々と証拠があがり、その情報をムラさんが流してリセエンヌ探偵が解を導き出す!」
「じゃあ、あとは梨乃さん…?」
「なんだけど、何の役にすればいいのか悩むー!」
「うん…そうだね…」それは分かる。自分たちにとって梨乃は凄過ぎて、何を当てても役不足な気がするのだ。逆に、自分が探偵なのは役が勝ち過ぎている。通行人くらいが丁度合っていると思うのだが。
「今日も来てくれるといいなあ、紫先輩」
「うん…そうだね…」
碧の望み通り、紫はやって来た。二人が教室に入って二、三十秒後である。ちなみに今日は二人の前に、数人の生徒が教室に入っていた。全員、自転車通学の者だ。いつもの順番通りだとすれば、今日の一番は河内ということになる。
「あっ、おはようございます!」「おはようございます…」扉を開けた紫を碧がすぐに認識して挨拶し、席を立ってそちらへ向かう。一呼吸遅れて藍もだ。
「おっはよー」紫は、半開きにした扉から顔を覗かせ、胸の前で右手をひらひらと振った。
「梨乃センパイからメール来た! 二人ともありがとね!」
「よかったです!」碧と藍は廊下に出た。紫も一年生の教室には入りづらいのだろう、と藍は推測した。昨日は藍と碧だけだったが、今日は違う。
「我が人生最良の日!」
「今度は井川先輩も一緒にお風呂行きましょうよ! 日にち未定ですけど」
「マジで!? 行く行く! ところでさ」
「はい」
「よかったら名前で呼んで。藍さんもそうしてくれるってことだし」藍は、一瞬碧の気が自分に向いたのを感じた。藍さん、という呼び方のせいだろう。
「はい! じゃ、紫先輩」
「うん、いいね! それなかなか気分いい」
「わたしも名前でお願いします!」
「うん。じゃ、碧ちゃん」紫は碧の台詞を真似た。
「はい!」
「じゃ、藍さんまた図書室で」
「はい…」
「碧ちゃんもヒマな時に来て」
「はい!」
両手を胸の前でひらひらさせてから、紫は背を向けた。その姿が階段に消えるまで、二人は紫の背を見送った。
「今朝来てたのって井川さんじゃなかった?」一時間目が終わると、二人の許へ女子生徒がやって来た。碧の二つ後ろの席に座る下島小夜である。
「うん。何で…あ、サーヤ図書委員か」下島はサーヤと呼ばれている。恐らく、学級内で最初に渾名で呼ばれるようになったのがこの下島だ。碧は基本的に男子を君、女子をさん付けで呼んでいるが、例外が藍と美奈子、そしてこの下島である。
「うん。そっちこそ何で? 知り合い? 中学同じとか?」
「ううん。藍ちゃんが図書室行って仲良くなったんだよね」
「え…うん…」委細を省き過ぎて誤解されそうだが、説明としては一応間違っていない。
「マジで!? 藍さんすごいな! 井川さんが笑ってんの初めて見たわー」
「たまたま…共通の知り合いがいたから…」
「へー!」
「今度一緒に銭湯行くんだ」
「え、裸の付き合い? もうそんなところまで行ってんの? 大丈夫? 赤ちゃんできちゃったりしない?」下島が茶化すのに対して、
「そうなったら学校に連れてきて育てるからよろしく!」碧はしれっと答えた。藍はこういう会話にはついて行けない。
「オッケー」下島も軽く応えて席に戻った。
昼休み。食事を終え、藍が弁当箱を仕舞っていると、藍の前に高木鈴音という女子生徒がやって来た。藍がまだ言葉を交わしたことの無い同級生だ。
「藍さん、山雅の試合参加だよね?」
「え、うん…」
「相生さんも」
「うん」
「藍さん料理上手なんだって?」
「え…そんなこと…」「うん! すごい上手! わたし毎日食べてるからね!」例によって藍の声は碧の声に掻き消された。
「なに? 相生さん藍さんの扶養家族?」
「お! そう言われればそうだね! えー、その分は体で支払っております、ブフフフ」藍には自転車のことと分かるが、事情を知らないと思われる高木には単なる冗談と受け取られるだろう。
「いっつも一緒にいると思ったけど、そんな仲? 子供できないように気つけなよ」
「もしかしたらもうできてるかも! 生まれたら学校で育てるからよろしくね!」
「マジか! 子守委員新設しないといけないじゃん」下島同様、高木もこういった冗談に免疫が有るらしい。
「よろしく!」
「しゃあないなー。おっと、何しに来たか忘れるとこだったじゃん」
「わたし達がいちゃいちゃするところ見に来たんじゃないの?」
「どんなもの好きでヒマ人よ。や、その山雅の試合の日に女子でお弁当作るって企画したいんだけどさ」
「おお~。気になるカレの心を料理で鷲づかみ、の巻!ってこと?」
「まあそゆことー。女子全員に声かけるけど、美奈子が藍さんを激推しだったから、最初にね」ということは、美奈子と高木は仲が良いということか。藍は学級内の人間関係を全くと言っていいほど把握していない。
「美奈ちゃん分かってるう!」碧が隣の席の美奈子に向かって言うと、美奈子は黙って右拳を突き出し、親指を立てた。
「当日の朝全員一品作って持ち寄る、みたいに考えてるんだけど、詳細未定だから、今日の放課後作戦会議を開きたいんだけど、藍さん部活大丈夫?」
「あ、うん…部活入ってないから…」
「それは好都合」
「はい! はいはいはいはい!? わたしも今日は部活休み!」碧が勢い込んで右手を挙げる。
「え…そうなの…?」夜まで雨の予報であるから休みでも全然おかしくないが。
「の見込み!」
「じゃあホームルームの後、教室に残って」
「らじゃ!」「うん…」
二人の返事を確認して、高木は去っていった。
「楽しくなってきたね!」
「え…と…」藍としては、弁当を作る企画は特別楽しい訳ではない。元々碧と自分の分は作るつもりであったのだが、今の話では余人の分まで作るということだ。碧のためになら積極的に作りたいと思うが、他の者に対してはそのような意欲は湧かない。以前自分の弁当やデザートを美味いと言ってくれた美奈子が、辛うじて「積極的に作りたい」範囲のぎりぎり内側に居るくらいだ。
「あれ? イヤだった?」
「あ、ううん、そんなことないけど…」嘘ではない。積極的に作りたいとは思わないが、作るのが嫌という訳でもないのだ。碧が毎日美味しいと言ってくれるお陰で、味に関して多少自信もついた。
「藍ちゃんのお弁当一人占めしたい気はするけどねー」
「え…ありがとう…」藍にとってはこれ以上無い言葉である。
「でも藍ちゃんのスゴさを知らしめるいい機会だね!」
「え…そんなこと…」
「あるよー。玉子焼き食べたら藍ちゃんに惚れる男子続出だよ!」
「……」言い過ぎである。褒め殺しというやつである。
「まあダンナの座は譲らないけどね!」
「うん…」譲らないでほしい。
「じゃ、英語やりに行こっか」
「うん…」
「起立!」
「礼!」号令が掛かり、放課後となった。藍と碧は自分の席に座り直して高木を待つ。
何となく無言で数十秒待つと、高木だけでなく、他の女子生徒も十人ほどぞろぞろと教室の前方へやって来た。
「おお、けっこういるね! 鈴木君ヒャッハーだ!」
「だねー。男子は女子より多いって言ってたし」と中川。
数分の裡に生徒は教室を後にして部活や自宅や寄り道先にと向かって行き、教室に残ったのは件の女子陣と河内達四人だけとなった。
「あ、そこの男子、席を外していただけるとありがたい」いつも通りトランプを始めようとしていた四人組に向かって高木が言う。
「え、テマエドモのことで?」洞がとぼけた調子で問い返すと、
「いかにも」高木は重々しく頷いた。教室には、他に居残っている男子は居ないのだが。
「しかたないなー。今日は特別なんだからね!」今度は山田が女子のような口調で言って一同を笑わせ、四人は席を立った。
「河内君ごめんねー」碧が声を掛けると河内が軽くお辞儀した。それを見ていると河内と目が合い、藍も慌てて一礼する。
「じゃ、さっそく説明するねー」四人が教室から退出し後ろの扉が閉まるのを見届けてから、高木が教壇に立って話し始めた。
「当日のお弁当を男子の分まで作ろうという企画ー。みんながオッケーしてくれたら明日のホームルームで発表する予定」
「異議ナーシ」美奈子が顔の高さに右手を上げる。
「わたしもー」と碧。
「賛成だけど、作ったことないー」真田美里という女生徒がそう言うと、
「私もー」
「ワタシもー」数人の手が次々と上がり、最後に、
「わたしもー」碧が手を上げた。
「13人中未経験者7人か。大丈夫、6人いれば余裕でしょ。じゃ、基本2人一組で初めての人はアシスタントでどう?」
「異議ナーシ」「いいよー」「オーケー」「それでー」口々に賛意の声が飛び出し、
「けってーい。ここから本題ー。何を作りますか!」
「まず何作れるか出した方がよくない?」と提案したのは宮渕さくら。色白で彫りが深く、髪も目も色が薄い。西洋の血が入っているものと思われるが、もちろん藍は確認していない。
「そだね! 黒板に書いてってー」高木は自らチョークを取り、書き始めた。藍を含む残りの五人もそれぞれに書いていく。
二、三分後、三十品余が書き出された。
「けっこう出たねー。ここから絞りこもう!」
「はいはいはいはい! 藍ちゃんの玉子焼きは絶対入れて下さい!」高木が言い終わるや否や、碧が勢い込んで言った。
高木が美奈子の方をちらりと見てから、藍の書いた「玉子焼き」の左側に赤丸を打つ。
「んー、肉と魚と野菜、最低1つずつはほしいね」高木が先へ進める。
「豚の生姜焼きとか男子喜びそうじゃない?」再び宮渕。生姜焼きは、大村深雪という生徒が書いたものだ。
「うん」「だね」数人が大きく頷き、
「はい、生姜焼きー」高木がまた赤丸をつけた。
「魚は…焼き魚と…焼き魚。藍さんとワダっちがカブってるから、これはワダっちヨロシクー。魚の種類はおまかせでいいよね」
「りょうかーい」和田奈津子が応えた。始業式の日の自己紹介で、ドーピングは許しませんと言っていたことを藍も覚えている。何故その台詞が出てきたのかは解らないが。
「野菜は、野菜炒め…だけか。サラダなら誰でもできるけど、作ってから食べるまで3時間以上…どうかなあ?」
「三十人分のサラダって体積スゴくない?」また宮渕が指摘した。
「あー、そだねー。野菜炒めに決定ー。だけど、これも藍さんか」
「私やるわ」手を上げたのは原あずみ。一年F組の女子では、林に次いで背が高い。
「お、よろしく! あと入ってないのは…煮物、揚げ物か」
「ワタシ、筑前煮食べたい」自分の欲望に正直な発言は下島のものだ。
「はいなー」高木がすぐ丸をつけた。担当は高木自身。
「揚げ物は、コロッケとメンチカツ…」両方とも、片倉弥生という生徒が書いたものだ。藍とは対照的な福々しい体型の生徒である。いつもニコニコしていて話し方も穏やかなので、話したことが無いにも関わらず、藍は片倉に好意を感じている。
「両方いける? コロッケの中身野菜とじゃがいもメインにして」
「大丈夫ー」片倉はのんびりとした口調で答えた。
「よろしく! これで一回りしたしバランスもボチボチかな。あと何かある? 自信のメニューとか。はい、相生さん」藍の隣で碧が黙って右手を挙げていた。
「デザート…欲しくないですか」
「ほしいー」「あったらいいね」口々に要望が飛び出す。
「提供いたしましょう」
「何作るの?」
「レアチーズ! 藍ちゃん、いいよね?」
「うん…」元々、碧のために作ろうと思っていた。
「藍さん、レアチーズ、と」黒板に書き、
「時間的に大丈夫?」高木が訊いてきた。
「あ、うん…レアチーズは夜のうちに作るから…あ、でも、保冷剤が足りないかも…」二十八人分となるとかなりの量だ。一人一合とすると二升八合、五リットル余。青井家の保冷剤を総動員してもまだ不足だろう。
「ほかに保冷剤がいるメニューはない…な? みんな保冷剤持ってきて藍さんに渡してー」
「はーい」「りょうかーい」
「あとね、何か果物あるとおいしさ倍増なんだけど」と碧。
「フルーツねー。んー、それは前日の買い出しの時、何にするか決めよっかー」その時お買い得なものにするということであろう、と藍は理解した。
「あー、そうだねー」
「あとはごはんか…1人1合半炊いてくれば足りるかなあ」
「1合って炊くとどれくらい?」と下島。
「お茶碗2杯くらい?」
「ということは…39杯…男子が2杯として30…女子が1杯として13…いいんじゃないの?」
「余ったら後がメンドーだしね」これは遠藤。
二人の意見に異議は唱えられず、
「んーと、これでメニューは決定でいい? まだ何かある人ー」高木が右手を挙げて募ったが、応えは無かった。
「次は誰と誰が組むかと、器とか集合とかの細かいところなんだけど、どうしよう? 明日にしよっか?」
「うん。部活あるからー」それまで発言の無かった大村が言うと、
「わたしもー」原が続き、
「おっけー。じゃ、続きは明日ー。あっ、と一応確認ー。明日の朝ホームルームで発表するけどいいよねー」
全員が頷き、
「続きは明日の昼休みでヨロシクー」
「はーい」
「またねー」
「おつかれー」女生徒達が次々に教室から出て行き、高木と美奈子、それに碧と藍が残された。
「高木さん、幹事ご苦労さま」と碧。如何にも学級委員長らしい言葉だが、役職上言っているのでないことは、藍には分かっている。
「や? 言い出しっぺだからね。けっこう楽しいし?」
「頼もしいね! わたしも食べるの楽しみ~!」
「その前に作れ」
「うをっ!? ごもっとも! でもわたしごはん作ったことないんだよねー」
「藍さんチョーうまいんでしょ? 弟子入りすればいいじゃん」
「ケーキはこの前弟子入りしたんだけどね」藍の、え…、という声はまたしても完全に掻き消された。
「ほほう。レアチーズは師弟タッグってことだね」
「そうだね! わたしは混ぜるだけだけど!」
「あ、そうなの? ミキサーで混ぜれば?」
「わたしの存在価値が!」
「ミキサー使ったことないから分からないけど…混ぜる順番もあるから…」
「あー、そうだねー」
「とにかく激ウマだから」美奈子の評価に藍は恐縮した。
「楽しみにしてるー」
「うん!」
藍がほぼ不在のまま会話が終了し、二人は教室を後にした。
「図書室寄ってこ!」廊下に出るとすぐ碧が言った。
「あ、うん…!」同じことを切り出そうとしていた藍は、先を越されて一瞬言葉を失った。
二、三分後、碧が図書室の扉を開けて二人は中に入った。
「こんにちはー」
続いて藍が入り、
「こんにちは…」扉を閉める。
「おー、二人とも。早速来てくれてユカリうれしい!」両手を拳にして口の前に置く。
「ここが紫先輩の城…」
「城っていうよりダンジョンな雰囲気だけどね」
「確かに!」
「まあ見てって。いい本あるよー。藍さんは返却だね?」
「あ、はい…あの、面白かったです…」藍は借りていたカフカ短編集を鞄から出し、受付卓に置いた。面白かったというのは社交辞令ではない。多少後味の悪い作品も多かったが、それも含めて、藍が今までに読んだことの無い面白さだった。
「でしょ!? どれがよかった!?」本の裏表紙に貼られたバーコードを機械に読み込ませて返却処理をしながら紫が訊いてくる。
「『橋』です…」渓谷に架かる橋の独り言、というだけの話なら大したことはなかったのだが、その橋が自らの意思で動いてしまうという破天荒さに驚いた。
「お、意外なところを。私は『判決』だね」
「あ、それも面白かったです…! けど、意味はよく分かりませんでした…」
「うん、私も。でもカフカってそんなのばっかりだよね」
「あ、はい…」
「悪いんだけど、戻しといてくれる?」と言って、紫が本を差し戻してきた。紫の方からそう言ってきたということは、身内扱いになったということだろう。
「あ、はい…!」そのことを嬉しく思いながら、藍は本棚へと向かった。碧もついてくる。
「あの…ダンジョンって何…?」聞いたことが有るような言葉だが、意味は知らない。
「元の意味は城の地下牢なんだけど、ゲームとかで地下迷宮って意味で使われてるの。d、u、n、g、e、o、n」
「そうなんだ…」なるほど、そう言われてみれば図書室は薄暗い。あまり直射日光を入れると本が日焼けしてしまうからだろう。しかも今日は分厚い黒雲が空を覆っているので尚更である。もちろん照明はあるのだが、あまり強力ではない。
「また借りてくの?」本棚へ本を戻す藍に碧が訊く。
「うん…」
「何借りるの?」
「これにしようかな…」ドイツ文学の棚から文庫本を一冊取る。
「『ファウスト』。聞いたことあるー。決定?」
「うん…」二冊に分かれているうちの第一部だ。
「一冊だけ?」
「うん…」先日までその主な理由は楽しみを取っておくことだったが、今は違う。この図書室に来る回数をなるべく増やしたいのである。図書室に来るのに口実など不要と分かってはいるが、本を借りていくという儀式はやはり必要だと感じる。
二人は受付に戻り、
「お願いします…」藍は紫に本を差し出した。
「うん」紫は受け取った本のバーコードを機械に読み取らせる。本はすぐ藍の手に戻された。
「今日も一冊だけ?」碧と同じことを訊く。
「はい…」
「そ」反応がそっけなさ過ぎて、自分の意図が見透かされているのかどうか、藍には分からない。
「碧ちゃんは?」
「梨乃さんから借りてる本読んでる最中で。わたし読むの激遅なんですよ」
「梨乃センパイから!? ウラヤマシい!! 何借りてんの!?」
「『黒い兄弟』です」
「あー! 面白いよねー!」
「紫先輩も読んだんですね! 有名なんですか?」
「日本では全然有名じゃないよ。外国は分かんない」
「そうなんですか。藍ちゃんも読んでるんですよねー。ミラノ行ってみたいね、って前話してました」
「マジかー!! 私も呼んで!!」
「はい!」
「やる気でてきたー! 勉強しよっと!」
「では失礼します!」碧が敬礼する。
「また来てねん!」紫も敬礼を返し、お辞儀をする藍には手を振って応えた。
図書室よりさらに薄暗い廊下に出た二人は、下駄箱へと向かった。
「やっぱり帰りもバスだね」
「うん…」




