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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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名前

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 翌朝。いつものように「松本驛」看板の前で落ち合った二人は、播隆上人像の方へ歩いて行った。もちろん碧は自転車を押している。

 「あのね、松江のことなんだけど…」藍は切り出した。言いづらいが、早いうちに話すべきだ。

 「あれ? もしかしてダメだった?」碧が意外そうに訊く。

 「あ、ううん…行くのはいいって言われたんだけど、うちの親も一緒に行きたいって…」

 「おぉ!? それは予想外の展開だね!」

 「うん…ちょうど夏休みに境港に行こうって話してたんだって…」

 「さかいみなとってどこ?」

 「鳥取県の西の端で、松江から車で一時間くらいなんだって…」

 「へー。何があるんだろ?」

 「妖怪だって…」

 「何ですと!? それは気になる!」

 いつも通り、二人は赤信号に止められた。赤に比べると青信号の時間がとても短いので、ここで赤信号に引っ掛からなかったことは一度も無い。

 「でも具体的には聞いてなくて…」藍は妖怪に興味が無い。気になった事と言えば、同じく妖怪になど興味が無いはずの両親がそんな所に行きたがったという事実だ。

 「そっか、残念。でも行ってからのお楽しみだね!」概ね好意的に受け取られているようで藍はほっとした。ここからが大仕事なのだ。

 「それでね…、碧ちゃんと梨乃さんに訊いてみてって言われて…」

 「え? 何を?」

 「一緒に行っていいか…」実に言いづらい。普通親が来るなどと言えば嫌がられるだろう。断られるならまだいいが、渋々承諾だったら事態は最悪である。どのようにしても蟠りが残りそうだからだ。が、

 「え? いいに決まってるよ?」碧はあっさりとそう言い、

 「ありがとう…」藍は心底ほっとした。しかしまだ一安心の段階だ。梨乃が残っている。

 「一応梨乃さんにも聞いとくね」

 「お願いします…」

 「うん!」

 信号が青になり、二人は並んで歩き出した。こちらには会社が少ないのか、それとも時間が早いのか、この信号を待つ人はいつも少ない。今朝も、二人の他にはサラリーマンと見える男が一人いるだけだ。

「あ、梨乃さん家に泊まるのは!?」

 「あ、そっちも大丈夫…」

 「ホント!? じゃ、バッチリだね!」

 「うん…!」

 「うわー、どっちも楽しみー!」

 「うん…!」

 二人は通りを渡って少し進み、左に曲がってから自転車に乗った。


 教室。いつも通り一番乗りした二人は席に着いて話をしていたのだが、河内が入ってくると碧が声を掛けた。

 「河内君、歴史()き?」

 もちろん藍にはその理由が分かっている。昨日梨乃が歴史の面白さについて語ったからだ。

 河内は話し掛けられたことに驚いた様子であったが、

 「いや、あんまり」教室の中央辺りで立ち止まってそう答え、

「歴史やったら(もも)()君やわ」と付け加えた。

 「百瀬君歴史()き?」

 「めっちゃ詳しいからそうなんちゃうかなあ」

 「へー! じゃ、百瀬君に聞いてみよ! ありがとう」

 「ううん」河内は藍の隣の席へと向かってきた。


 その十分ほど後。

 百瀬(とおる)が教室に入って来るのを待ち構え、碧が声を掛けた。

 「百瀬君、歴史()きなんだって?」

 百瀬も河内同様、話し掛けられたことに驚いた様子を見せたが、

 「おー。相生さんも?」鞄を持ったまま碧の席の隣へとやって来た。

 「や、今のところ全然なんだけど。何が面白いのか知りたいと」字面の読み方によっては喧嘩を売っていると取られてもおかしくないが、碧の態度を見ればそうではないと判る。

 「ほほう。色々あるけど、一番は人間ドラマだなあ」

 「例えば?」

 「そうだなあ。本能寺の変を例にとるか。光秀はなんで信長を討とうとしたのかな」

 「えーと、色々ひどい仕打ちをされたから?」

 「本当にそれだけでことに及ぶかな? カッとして刺しちゃったとかいう話じゃないんだよ」

 「あ、そっか。部下を動員してるんだもんね」

 「頭に上った血が下がって冷える時間はあったはずなんだよ。しかも自分だけじゃなくて部下の命まで危険にさらすわけじゃん。それでも光秀は実行した。そこにはそれだけの理由があるはずだろ」

 「なるほどー。そこが人間ドラマなんだ!」

 「面白くないか?」

 「おもしろい!」

 「だろ。てーことの連続で歴史が出来上がってるわけだから」

 「なるほどー。そういうところかー」

 「それとキャラだな」

 「キャラ」

 「ドラマとかアニメとかで好きな登場人物いるだろ」

 「うん」

 「歴史もおんなじだよ。なんつっても登場人物がめちゃめちゃ多いからな」

 「あー。好きな人物が必ず出てくる?」

 「と、思うよー」

 「ちなみに百瀬君の好きなのは?」

 「待ってました、その質問! 聞いて驚けよ、清水宗治と立花宗茂だ」

 「おー…聞いたことすらない名前が出てきたことに驚いたわー」隣で聞いている藍も、そんな人物の名は聞いたことが無い。

 「ちょっと待て!」碧の真後ろから大声が掛かり、碧と百瀬が振り向いた。一呼吸遅れて藍も振り向く。その席に座るのは(なか)(むら)(しげ)(はる)という男子生徒である。

「聞き捨てならん名前が出てきた!」

 「お!? なんか文句でも!?」百瀬は喧嘩を売られたと思ったのだろうか、少し口調が荒くなった。その声音を聞いて、教室中が二人に注目する。

 「全くない!」

 「ないのかよ。じゃあ何」拍子抜けといった感じで百瀬が脱力する。

 「俺の名前その二人から取ったらしいんだ!」

 「お…おー! 茂治だっけ?」

 「そう。なので詳しく教えてくれ!」中村が右手を挙げる。

 「あ、そゆこと…そりゃまたいい名前もらったなあ!」今度は実に楽しげな声だ。

 「誰がいい名前をもらった?」教室の後ろの扉から贄教諭が顔を覗かせた。時計を見てみると、もう朝礼の時間である。

 「中村ー」と百瀬。

 「それについてこれから語ってもらうところでした!」と中村。

 「よし。聞こう」贄教諭が後ろから教室に入り、皆も自席に着く。教諭は教室の隅で折り畳み椅子に座った。いつもはここで碧と藍と河内が前に出るのだが、今日はそのような雰囲気ではない。

「おっと、まずは挨拶か。号令」

 「起立!」中村が号令を掛けた。たまたま、今日の日直だったのである。

「礼!」

「着席!」

 「よし。今日、連絡事項はない。百瀬、前に出て始めてくれ。但し五分以内で頼む」

 「あー、中村、いいか?」と百瀬が訊いたことを藍は少し意外に思った。そんなことに気を遣うようには見えなかったからだ。

 「うん、頼む」

 百瀬は一つ頷いて窓際の席を離れ、教壇に立った。皆を前にしても特に緊張した様子は見られない。碧以外にもそんな心臓の持ち主が同じ学級に居るとは、と藍は驚いた。

「えーと、まず中村の名前茂治は清水宗治と立花宗茂から一文字ずつ取ったそうです。でいいよな?」百瀬が中村を見る。

 「うん」中村は大きく頷いた。

 百瀬は中村を見ながら話し始めた。

 「えー、二人とも戦国時代の武将ですが、まずは…、清水宗治は死に様の男です。備中高松城水攻めの時の城主で、秀吉の降伏勧告を受諾し、自分一人が切腹することで籠城していた部下やその家族の命を守りました」ここで一度言葉を切り、

「対して立花宗茂は生き様の男です。父親の親友戸次鑑連、(のち)の道雪の養子となって家督を継ぎ、龍造寺や島津と戦い、秀吉に臣従してからも戦功を上げ、秀吉から剛勇鎮西一と激賞された猛将です。しかし秀吉の恩を裏切られぬと関ケ原で西軍につき、後改易されて浪人生活。紆余曲折を経て小大名に戻り、大坂夏の陣で秀忠の軍師として活躍。(のち)、旧領の柳川十万石に再び封ぜられました。関ケ原で西軍について改易され、旧領に復した唯一の男」と一気に喋り、中村から視線を外して教室を見渡した。中村は無言、無表情で、動きもしない。

「えー、現代では知名度が高くないですが、どちらも武士の鑑と称された義の男です。以上」百瀬は教壇を降り、自席に向かった。

 教室を何とも言えない変てこな空気が満たしている。本人が名前について調査結果を発表、報告するという企画なら有りそうなことだが、今回解説は赤の他人で、しかも中村と百瀬は特に接点が多いとも言えない間柄なのである。藍も、今回全くの傍観者であるにも関わらず、微妙な居づらさを感じている。

 「御苦労。分かり易い、いい解説だった」しかし贄教諭はそのような空気を意に介していないようである。この空気を感じ取れていないのか、感じつつ無視しているのか藍には判断がつかない。

「今回は中村の名前だったが、みんなも自分の名前の由来は知っておいた方がいいぞ。では日直」

 「あ、はい。起立!」再び中村が号令する。

「礼!」

「着席」

 「では今日も一日がんばってくれ」と言い残して贄教諭は教室を後にした。

 教室には、一時間目の担当教師が来るまで変てこな空気が残った。


 昼休み。いつも通り藍の席で弁当を広げた二人に、高橋が話し掛けてきた。先週辺りから、よく話し掛けてくる。

 「相生さんと藍さん、名前の由来何?」高橋も藍のことは藍さんと呼ぶようになっている。碧の一声が効いている訳だが、最初こそ恥ずかしいと思ったものの、慣れてきた今では、名前で呼ばれるのも存外悪いものではないと藍は感じている。

 「わたしはお母さんが水晶の晶であきらだから石つながりかな」梨乃の指摘をそのまま口にした。両親に確認したのかどうか、藍は聞いていない。

 碧がこちらを見たので、藍はもう自分の順が回ってきたことを知った。

 「え…と、私はお母さんが朱美だから、色なのかな…」両親に確認したことが無いので、これは藍の推測である。梨乃の推測と同じだ。

 「高橋さんは?」

 「わたしのはハズいよー。ビーナスからだって」

 「あ! 愛野美奈子ちゃんと同じだ!」それが誰なのか藍は知らないが、有名な人なのだろう。高橋もその人物を知っているようで、

 「そうそう。でもわたしはビーナスラインから取ったんだって」

 「て何? 道路の案内板に書いてあるよね?」

 「(うつくし)に行く道路」長野県の茅野市街から(うつくし)()(はら)高原を結ぶ道路で、開通当初は有料であったが、現在は無料開放されている。

 「へー、道路にそんなハイカラな名前ついてるんだ」

 「美ヶ原だからじゃない?」

 「あー。あれ? 別に恥ずかしくないよ」

 「ハズカシいよ! ビーナスとか絶対名前負けするじゃん」

 「あー。聞いた人が、自分の理想の女神さまと比べちゃうか」

 「そうでなくても」

 「でも高橋さんダイナマイトだから大丈夫だよ!」と胸をじっと見る。今にも手を伸ばしそうで藍はヒヤヒヤした。

 「腹周りもダイナマイトだからなー」

 「そんなことないよー。ね」

 「うん…」確かに高橋はぽっちゃり型だが、太っているという感じではない。

 「じゃ、まあそれはありがたくそういうことにして、もっとハズいことがあるんだな」

 「ほほう」

 「デートで美に行って、盛り上がった挙句麓のラブホで一発ヤってできたから、ビーナスから名前を取ったと、うちのパパ上ママ上はそうお()かし遊ばされたわけですよ」

 「おおう…それはまた…」碧ですら何と言うべきか困っている。藍は、思考停止状態だ。

 「普通思春期の娘にそういうこと言う?」

 「言わないだろうねー」

 「でしょー?」

 「まあでもあれですよ」

 「どれ」

 「盛り上がらずにできちゃったより盛り上がってできた方がいいですよ」

 「あー、うーん、むー、そ、う、言、わ、れ、れば、そうかー」高橋は腕組みして首を捻る。

 「絶対そっちの方が幸せですよ」碧は至極真面目に言った後、

「お父さんとお母さん、今でもラブラブなの?」一転して野次馬的雰囲気に変わった。

 「仲はいいけど、イチャイチャはしないね。ま、そんなとこ見たくないし」

 「うーん、確かに」藍も二人と概ね同意見である。仲良くあっては欲しいが、自分を含む人前でベタベタして欲しくはない。

「話を総合すると、いい名前だと思うけど」碧が言い、藍も大きく頷く。

 「かなあ?」と言いつつも高橋は満更でもない様子だ。

 「子供が思春期になったら話してやればいいじゃん。わたしの名前はジジ上とババ上が…って」碧が言うと、

 「そんな思春期にわざわざ爆弾投下するしきたりいらんわ!」と高橋は笑ってから、

「あ、メンゴメンゴ、まだごはん食べてないね」席に戻った。

 「じゃあ藍ちゃん、いただきます!」碧が手を合わせ、

 「いただきます…」藍も続いた。

 「お、梨乃さんから返事来た。『トーゼンOK』だって! よーし、これでお義父様お義母様と一緒に旅行決定だね!」

 「うん…ありがとう…!」

 「楽しみ~!」

 「うん…!」


 放課後。部活に向かう碧と別れた藍は、図書室へ向かった。今日は本を借りる予定ではないが、昨日梨乃が言ったことを確かめたいからである。

 図書室の扉を開けると、受付に座っているのは例の三年生であった。図書室の主と言って差し支え無いほど毎日図書室に居ることに、藍は親近感を覚えている。言葉はほとんど交わさないものの先週毎日顔を合わせたことも、それに一役買ったかも知れない。もちろん、向こうが自分をどう思っているかは分からない。

 今日も立ち止まって軽く会釈すると、目礼が返ってきた。

 その遣り取りの後、藍はまず校史を繙くべく、「郷土史」の本棚へと向かう。一昨日、松本高校がいつからこの地に在るのかを調べると約束したからだ。藍としては大して興味の無いことだが、碧との約束は最優先事項だ。

 図書室の一番奥の角に位置するその本棚に「松本高等学校史」という本が収められているのを見たような気がする。そう思って行ってみると、やはり記憶は正しかった。

 藍は鞄を足元に置き、校史を取り出して開いた。目次を見てみると、巻末に年表があるとのこと。推測通りだ。その年表の頁へ移動してざっと見てみると、目的はあっさりと達成された。

 現校舎への移転は昭和十年だった。その前は松本城二の丸に在ったらしい。二の丸への移転は明治二十一年とある。調査としてはこれで完了なのだが、年表の最初に開智学校の名が記載されていることに目を引かれた。松本城と並び松本文化財の双璧を成す開智学校がこの高校の先祖の一つだと知れば、碧はきっと喜ぶだろう。

 藍はその様子を思い浮かべつつ、松本高等学校史を本棚に戻して、南米文学の本棚へ向かった。次は、自分が調べたいことだ。

 伝奇集は藍が戻した場所から動いていない。それを取り出し、藍は受付へと戻った。

 「すみません…あの、この本の貸し出し履歴を見たいのですが、出来ますか…?」訊きながらおずおずと本を差し出すと、女生徒はそれを受け取り、

 「うん、出来るよ。こっち入ってきて」と軽く言った。こっちとは、受付の中ということだろうが、藍は躊躇した。

 「え…いいんですか…?」

 「いいよいいよ、図書委員以外立入禁止とかどこにも書いてないし言われてないし」と言いながら本の裏表紙に貼られたバーコードを機械で読み取る。

 「あ、はい…失礼します…」藍は、壁と受付台との隙間を通って中に入り、上級生の左側に立った。

 「はい」上級生は画面を藍の方へ向けてくれた。

 「ありがとうございます…」一つお辞儀してから藍は画面を覗き込んだ。そんなに顔を近づけなくとも文字は読めるのだが、梨乃の痕跡があると思うと、つい近寄ってしまったのだ。

 画面に表示された履歴は二十件ほど。それを一目見て、藍は「2年D組 高辻梨乃」の表記を見つけた。

「あ、あった…!」

 「アコガレのセンパイとか?」上級生がからかうように言う。冗談で言ったに違い無いが、大正解である。

 「はい…!」

 「へー、誰誰?」上級生は踏み込んでくる。第一印象では、他人のことには興味が無い人に思えたが、どうやら違うらしい。

 「あの、この高辻梨乃さんて人です…」この上級生は三年生であるから、梨乃を知っているかも知れない。

 「え!? 梨乃センパイ!?」上級生の反応は、梨乃を知っているという程度のものではなかった。その大声に押されながら、

 「はい…」と答える。

 「梨乃センパイと知り合いなの!?」藍は、凄い勢いで迫られているのを感じた。

 「あ、はい…」

 「梨乃センパイ元気!?」

 「はい…」

 「最後に会ったのいつ!?」

 「昨日です…」

 「マジで!? いいなあ~!! え!? どういう関係!?」ぐいぐい押してくる。

 「あの、制服を作ってもらった店で梨乃さんがアルバイトしてて、それで…」

 「マジか~! 制服作りに行けばよかったー! え!? 昨日ってその制服屋さんで!?」

 「あ、いえ、家にお邪魔して、その後銭湯に行きました…」

 「えー!? マジで!? 家に!? それもう羨ましいを通り越して妬ましい!!」同じような台詞を聞いたことがある。

 「え……」

 「しかも銭湯ってことは一緒にお風呂!?」

 「はい……」

 「妬ましいも通り越して憎らしい!!」何だかこの上級生が碧に似ている気がしてきたが、

 「え……」これは、家に泊めてもらって同衾までしたとはとても言えない。

 「冗談冗談」

 「あ……」本当に冗談なのか疑問が残る。

 「え!? ちょっと待って。梨乃センパイって銭湯行くの!?」

 「あ、普段は行かないみたいです…同じクラスの友達が誘ったら来てくれました…」

 「マジかー!! わたしも行きたかったー!!」

 「……」

 「あ、写真ない!? 梨乃センパイの」

 「すみません…私携帯電話もカメラも持ってなくて…」

 「マジかー!」地団駄を踏まんばかりの悔しがりようである。それを見て、藍は申し訳ない気持ちになってきた。

 「あの、その友達なら写真持ってると思います…多分ですけど…」

 「マジで!? 明日の朝行くわ! 1-Fだね!?」画面を見て言う。その時漸く、履歴が新しい日付から順に並んでおり、一番上が自分の名前であることを知った。

 「あ、はい…」

 「おっしゃー!!」もの凄い喜びようである。

 「あ、あの、梨乃さんとはどういう…」この上級生が梨乃の崇拝者であることに疑問の余地は無いが、どういうきっかけでそうなったのだろう。藍の言葉は尻切れトンボになってしまったが、上級生は待ち構えていたかのように反応した。

 「いい質問だね! 梨乃センパイ、よくここで本借りててね、週2か3ぐらい。いっつも無言だったからすっごいクールビューティだな♡って思ってたの。でもある時私が本の整頓してたら手伝ってくれて、『一人なのにがんばってるね。ありがとう』って言ってくれて、にっこり笑ってくれて。天使も女神も菩薩も実在するんだって知ったわー。それからは来る度に声かけてくれるようになって。梨乃センパイが卒業して今もすっごい寂しいけど、来年私も信大医学部受けるから!」

 「そうなんですね…」聞いているうちに、この上級生の気持ちが沁み入ってくる気がしてきた。この人は、或いは自分や碧以上に梨乃のことを慕っているかも知れない。恐らく梨乃の卒業以降会っていないのに、こんなにも想っている。自分が来る度ここに居るのも、梨乃との思い出を身近に感じたいからではないか。いや、思い出に浸るだけでなく、彼女はまた会うために努力してもいるようだ。

「あの、銭湯なんですけど…来月また一緒に行こうっていう話になってますので…」碧が何と言うかは分からないが、自分としてはこの上級生に梨乃を会わせてあげたい。

 「マジで!?」

 「はい…日にちはまだ決まってないんですけど…梨乃さんに話してみます…」

 「マジで!? ありがとう!!」上級生は両手を合わせて大声で言った。

 「え、いえ…あの、失礼します…」

 「あれ? 本借りてかないの?」

 「あ…! ちょっと見てきます…」梨乃とこの上級生のことで頭がいっぱいになり、すっかり失念していた。

 「うん」

 藍は、欧米文学の棚へ行き、適当に一冊取り、受付に戻った。

 「お願いします」

 「今日は返却なし?」

 「あ…!」また忘れていた。藍は、金曜に借りた本を慌てて鞄から出した。『狭き門』だ。

「お願いします…」

 「はいー。あ、私3-Aの()(がわ)(ゆかり)! よろしくね!」

 「青井藍です…。よろしくお願いします…」もう名前は知っているはずだが、名乗らなければ失礼に当たる。

「あの…では、失礼します…」

 「またね!」

 「はい…!」

 藍はその場を辞した。


 夕方。藍は、部活を終えた碧と食堂で落ち合い、二人で下駄箱へ向かった。

 藍は図書室の後教室に戻って勉強と読書をし、その合間合間に、校庭を走る碧を窓際から眺めて過ごした。そして、碧が部室に入るのを見て大慌てで食堂へ降りて行ったという次第で、部活が始まって一週間、この過ごし方が定まりつつある。非常に残念なことに、食堂からは校庭が見えないのだ。教室が自分一人のものになるのは最後の三十分くらいだが、その前も特に騒がしくはなく、落ち着いて過ごせるということが分かってきたのも大きい。

 「お疲れさま…今日もずっと走ってたね…」水泳部は、今日もひたすら走って終わったのだった。

 「うん! プールが使えるようになるまでは体力作りだよ!」

 「スキー部もずっと走ってるよね…」

 「うん! 雪がない季節は体力作りだよ!」

 「…体力つきそうだね…」今でも藍から見ると驚異の体力だが。

 「早く泳ぎたいし滑りたいけどね!」

 「あの…プール使えるようになったら、見に行ってもいい…?」きっと楽しそうに泳ぐのだろう。

 「わたしは大歓迎!! なんだけど、先輩に聞いてみるね!」

 「うん…! あ、あのね…」

 「うん」

 「今日図書室に、本の貸し出し履歴を見せてもらいに行ったの…」

 二人は玄関に着き、一年F組の下駄箱へ向かう。

 「うん。?」碧の目に疑問符が浮かんでいるのを見て、貸出履歴については梨乃と二人の時に話したのだということを思い出した。

 「この前借りたボルヘスの本、梨乃さんも借りてたんだって。それで、図書室で履歴見て、って…」

 「へー! 梨乃さんも図書室行ってたんだ!」

 「うん…週二回か三回だって…」

 二人は下駄箱から靴を取り出し、履き替える。

 「おお! 藍ちゃん並みだね! で? あったの?」言い方を変えれば自分が梨乃並みだということである。嬉しいが、それは過大評価だ。

 「うん。見せてもらってたら、図書委員の人に誰の履歴を探してるのかって訊かれたから、高辻梨乃さんて人ですって答えたら、その人が梨乃さんのことすごく好きだったらしくて…」

 「あ、そっか! 三年の人は高校生の梨乃さんを知ってるんだ! え、その先輩、男? 女?」

 「女の人…3-Aのいがわゆかりさんだって…」

 「む、てっきり梨乃さんの色気にやられた男子かと思ったけど、違ったか」

 「うん、図書室で作業してたら手伝ってくれて、それから話しかけてくれるようになった、って…」

 「はー、なるほどねー」

 「信州の医学部受けるんだって…」

 「おお! それはスゴい本気だね!」

 「うん…それでね、梨乃さん元気かとかどうしてるとか話して、写真ある?って訊かれたから、自分は持ってないけど友達が持ってるかも、って言ったら、明日の朝教室に来るって…」

 「おお~、本気だね!」

 「ごめんね…勝手に話しちゃって…いがわさんがすごく熱心だったから…」見ている藍の方が切なくなってくる慕いぶりであった。

 「ううん、全然! わたし達と同じってことでしょ?」

 「うん…ありがとう…」

 「まあ、ヨメの座は渡さないけどね!」

 「うん…」

 漸く藍が靴を履き終わり、二人は並んで校舎を後にした。

 「あ、じゃあテトラグラマトンは解決したの?」

 「うん…」

 「教えて教えて!」

 「うん…」

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