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リセエンヌ  作者: 松本龍介
31/62

緑装具2(/2)

二分割の二つ目です。

 「おお! あれですか!?」碧が部屋の隅を指差すので見てみると、布団の上に緑色の物が置いてある。

 「うん。アイルランドで買ったおみやげ。見てみて」

 「はい!」

 「あの…これ、机に置いてもいいですか…?」ケーキ箱と、レアチーズの入った手提げのことである。

 「うん、ありがとう」

 藍はケーキ箱と手提げを置いてから、碧の隣に立った。

 「わたしこれ! これ貸して下さい!」碧が拾い上げたのは毛糸帽である。緑色の見本のような色の地に白糸でIRELANDと書かれ、その上に三つ葉のクローバーの小さな絵を紋章風にあしらった半円形の帽子で、湾曲した白い角が左右についている。

 「うん、それを選ぶと思ってた」

 「この絶妙に控えめなバカっぽさがたまりません!」

 「うん、分かるわ」いや、藍には全然分からない。控えめな馬鹿とは。

「ダブリンの街中でこれかぶってる人見てね、近くのおみやげ屋を探し回って一つだけ見つけたのよね」

 「レアものじゃないですか! 大事に使います!」こういうところが碧の凄いところだと藍は思う。自分だったら、そんなことを聞けば借りるのを遠慮してしまう。

 「うん。かぶってみて」

 「はい!」文字の書かれた方を前にして被る。全体的に碧の頭よりやや大きいらしく、眉が全て隠れてしまっている。

 「目深過ぎだね」

 「はい…ちょっと裾が長いです」

 「じゃあこうしてみましょう」梨乃が帽子の縁に手を掛ける。

「目開けてていいわよ」

 「え? これ帽子をとってキスするやつじゃないんですか?」目を閉じたまま碧が言う。

 「それ帽子じゃなくてヴェイルでしょ」

 また脱線しかかっているということは藍にも分かるのだが、話の内容が分からない。

 「あの、ヴェイルって何ですか…?」

 「洋式の結婚式で、花嫁の顔を覆ってるヴェイルを花婿が上げて、誓いのキスするじゃない?」

 「あ…そうなんですか…」藍は結婚式に出席したことが無く、テレビや映画もほとんど見ないので、そのような作法は知らなかった。

 「早くぅ」碧は目を開けず、唇まで突き出している。

 梨乃は右手の人差し指を立てて自分の唇に当て、藍に目配せすると、足元で丸くなっているラブをそっと抱え上げ、口を碧の鼻先へと近づけた。

 「くっさ!」碧が叫んで目を開き、ラブが吊るされているのを見て、

「ホントに口臭いですね! いやー、びっくりしました! クロこんなに臭くないです! アっちゃんは?」

 「ラブほどひどくないよ。昔は臭くなかったから年のせいかな」

 「え? まだ7歳ですよね?」

 「もう中年だもの。臭くなり始めてもおかしくないわ」梨乃は改めて帽子の縁を持ち、上に折り返した。文字と絵が内側に隠れる。

「これでどう?」

 「おー、すっきりです!」

 「字も見えなくなってちょうどいいんじゃない?」

 「そうですか?」裾を折ったまま帽子を脱いで見た碧は、

「ホントだ! さすが梨乃さん! これで行きます!」と言った。

 「うん。じゃあ藍ちゃん」

 「はい…」

 「そのスカートじゃ短い?」梨乃が指差すのはセーラー服のように幾つも折り目の入ったスカートで、碧が選択した帽子とほぼ同じ色である。

 「ちょっと…」膝が出るか出ないかくらいの丈なので一般的には短いと言わないだろうが、藍は小学五年以降膝が見えるようなスカートを穿いていない。

 「でも藍ちゃんタイツ穿くよね?」

 「あ、はい…」藍は真夏でもタイツを着用する。もちろん今も穿いている。

 「じゃあ大丈夫でしょ」

 「え…と…はい」膝が出ていることに抵抗は感じるが、わざわざ梨乃が用意してくれたものであるから、有り難く借り受けよう。

 「はいてみて~」と言う碧は再び帽子を被っている。

 「え…うん…」藍は布団の上からスカートを拾い上げ、今着用しているスカートの下に穿いてから、自前の方を脱いだ。やはり膝が全部出ている。

 「わ! かわいい!」

 「うん。いいんじゃない?」

 「あの…お借りします…」藍は梨乃に向かって頭を下げた。

 「お借りします!」碧も元気よく頭を下げる。

 「うん。がんばって応援してきて」

 「はい!」「はい…」

 応えて藍は自分のスカートを穿こうとしたが、

 「あ! そのままお風呂行こ!」碧に止められた。

「いいですよね?」

 「うん。試合以外でも使ってくれれば嬉しいわ」

 「だって!」

 「え…うん…」少し恥ずかしいが、ここから風呂屋までは車で直行のはずだから、他人に見られる時間は僅かであろう。そもそも、試合の日にはこれを穿いて球技場に行くのだから、恥ずかしいなどと言ってはいられない。

 「では藍先生、おやつをお願いします!」

 「あ、はい…!」藍は自分のスカートを擱いてアスランの隣に戻り、レアチーズの容器とコップ、スプーンを手提げから取り出した。

 「お、ということはゼラチン抜きですな?」碧もラブの隣に腰を下ろす。

 「うん…」

 「へえ、それもいいわね」梨乃はまだ立ったままだ。

 「果物つけて食べたらたまりませんよ!」

 「うん、美味しそう。冷蔵庫に苺あったから持ってくるわ」梨乃が扉の方を向くと、アスランが素早く起き上がった。

 「ヒャッホーゥ!」「え…いいんですか…?」またしても藍の声は碧の声に隠れたが、

 「うん。ちょっと待ってて」梨乃はちゃんと聞き取っていた。

 アスランを従えて梨乃が部屋を後にし、藍は準備を続けた。

 碧は布団の方へ躄り、藍のスカートを取って畳み始める。

 「あ…。ありがとう…」

 「ううん! おやつ出してもらってるから! アイルランドの色って緑なのかなあ。国旗は三色だけど」

 「そうだっけ…」三色旗の国は多いので、どこがどれだか覚えていない。

 「橙白緑だったかな。自信ないけど」右からであれば正解である。

「アイルランドってどんなところかなあ。わたし、バンシーしか知らないー」

 「それ何…?」藍にとっては初耳の単語だ。

 「ダブリンの名家に死人が出る時に現れて泣く、妖怪と言うか妖精と言うか。若い女の姿なんだって」

 「へえ…」藍はレアチーズの準備を完了させた。ポリプロピレンの透明なコップにレアチーズを二・五等分し、同じ材質の白い匙を隣に置いたのである。無論、二・五等分のうち〇・五が藍の分だ。

 「藍ちゃん、アイルランドのこと何か知ってる?」

 「えーと…あ、小泉八雲がダブリンに住んでたって本に書いてあったよ…」

 「えー、そうなんだ! アイルランドの人なんだね!」

 「あ、生まれはギリシャなんだって…」

 「えー! そうなの!? 知らなかった!」

 「何を知らなかったの?」苺を盛った透明な樹脂の器を右手に梨乃が扉を開けた。アスランが足元を抜けて藍の方へ向かってくる。

 「梨乃さん速っ!」

 「そう? で、何の話だったの?」

 「小泉八雲がギリシャ人でダブリンに住んでたって話です!」

 「そうそう。子供の頃ダブリンに移ってきたんだよね」アスランとラブの間に座って、梨乃は苺の器を床に置いた。

 「やっぱり梨乃さんは知ってるんだ」

 「うん…」

 「住んでたところ、泊まったしね。藍ちゃん、いただきます」苺を一つ抓んでレアチーズにつける。

 「いただきます!」「いただきます…」碧と藍も苺を取った。

 「泊まれるんですか!?」

 「うん。今はゲストハウスになってるから。美味しいわね!」

 「でしょー!」自分が作った訳でもないのだが、碧は得意顔だ。藍はその隣で恐縮する。

「えーと、ゲストハウスって何ですか?」

 「民宿とかペンションかな、日本でいうと」

 「じゃあ普通に予約できるんですか?」

 「うん。ウェブサイトから予約したよ。小泉八雲好きだから、行ってみたかったの」

 「どんなところでした!?」碧が興味津々といった様子で訊く。藍も、知らないうちに上体を前に傾けている。

 「写真あるよ」梨乃は立ち上がって机の隣の本棚から一冊のファイルを取り出した。五㎝程度の厚さの青いチューブファイルである。

 元の位置に座った梨乃はファイルを広げて二人に差し出した。

 「おお~! 外国って感じ!」実に大まかな分類であるが、如何にも洋風ということだろう。藍も同じ印象だ。

 「うん、まあヨーロッパだからね」

 「あの…どこもこんな感じなんですか…?」開かれた頁に収められているのは建物内部の写真だ。廊下や部屋の構造、調度品の種類は自分の家とそれほど変わらないのに、受ける印象は全然違う。何がどうとは説明出来ないが、全然違うのだ。

 「そうだね。このゲストハウスは普通だね。特別感があるのはここだけ」梨乃はファイルの写真を二枚捲った。

 現れたのは、額に入れられた白黒写真が黒っぽい壁に飾ってある写真だった。この壁は廊下だろうか。

 「小泉八雲の写真ですか…?」

 「うん。一階の廊下の突き当たりに飾ってあったの。写真以外にも、日本人が書いた論文とか置いてあってね。ホントにちょっとだけだけど、ちゃんと記念してあるのが嬉しかった。見てる人いなかったから、その分たっぷり堪能できてよかったわ」

 「分かるー! わたしもラヴクラフトの家、跡地でもいいから行ってみたいです!」

 「プロヴィデンスだったわよね」

 「はい! 大学生になったらバイトして行きたいです!」

 「いいわね。でもその前に松江に行くのはどう?」

 「松江って何県でしたっけ」

 「島根」地味な印象の県だが、県庁所在地くらいは覚えておいてほしいものである。

 「おお! 吉田君の! 何で松江ですか?」

 「小泉八雲が住んでたのよ」

 「なるほど~。藍ちゃん知ってた?」

 「うん…」

 「やっぱりか! 藍ちゃん小泉八雲読んでるよね。何が一番面白かった?」

 「え…と、雪女かな…」

 「おお! わたしでも知ってる! あれって小泉八雲なの!?」

 「え…と、創作じゃなくて、集めた民話を再構成したもの、かな…」

 「武蔵国の話よね」

 「はい…」

 「と言うと、東京都? え!? 東北の話じゃないんですか!?」

 「そんなイメージあるけど、雪降るところなんて沢山あるからね」

 「あ、そっか。信州にもスキー場いっぱいありますもんね」

 「うん」松本の市街地が吹雪に襲われることはまず無いが、旧奈川村など山間地区は年に何度か吹雪に見舞われるし、長野県全体にまで範囲を広げれば、吹雪く所などいくらでも有る。

 「そっかー。小泉八雲って昔話が好きだったんだ」

 「八雲にとっては外国の話だから、余計面白かったんだろうね」

 「わたしも妖怪の話とか好きなんで、親近感湧いてきました!」

 「あー、じゃあアイルランドの民話読む? 向こうで買ってきたやつ」

 「え! 見せて下さい!」

 「うん。取ってくるから、その間にシュークリーム出しといてくれる?」梨乃は再び立ち上がった。それを見て、アスランが慌てて身を起こす。

 「わ! ありがとうございます!」「ありがとうございます…」

 梨乃は部屋を出て行った。無論アスランもお供する。

 碧も立ち上がり、

 「やっぱり梨乃さんスゴいね! 後から後から出てくるよ」机からケーキ箱を取って藍の隣に戻ってきた。

 「うん…!」全くである。

 碧がケーキ箱を開け、中からシュークリームを取り出し、各人のコップの横に一つずつ置いた。碧のコップからも梨乃のコップからもレアチーズが無くなっているのが藍には嬉しい。

 隣の部屋ではごそごそいう音がしている。

 暫くして音が止み、少し後に扉が開いた。

 「これ」と梨乃が碧に二冊の本を手渡す。

 「ありがとうございます! 『Irish Ghosts』、『Ancient Tara Legends』。こっちの本サイン入りじゃないですか!」後者の表紙を開いた碧は驚いた様子で言った。

 「あー、それタラの丘の本屋で買ったんだけど、レジに持ってったら店のおじいちゃんが喜んでね。『この本儂が書いた』って言うから『じゃサイン頂戴』って言ったらサインしてくれたの。えーと、このおじいちゃん」梨乃はアルバムを捲り、ハンチングを被り眼鏡を掛けて椅子に座る老人を指し示した。

 「おおー、ステキー! ハリー・ポッターに出てきそう!」老人の写真の右側に店舗の外と内の写真が収められているのだが、石壁の外装と漆喰の内装が中世欧風っぽい。本屋と言っても古本屋のようで、棚に入りきらない本が雑然と積まれているのも手伝って、魔法使いの家という印象だ。

 「だねー」

 「ところでタラの丘って何ですか? この本のTaraと同じですか?」

 「うん。そういう名前の丘。アイルランド一番の聖地かな」

 「キリスト教の聖地ですか?」

 「ううん、もっと昔。ケルト人の聖地」

 「ケルト人って何ですか?」碧同様、藍も知らない。

 「そういう民族。一時はヨーロッパ全域に住んでたんだけど、他の民族にだんだん西に追いやられて、最後まで残ったのがアイルランドとスコットランドなんだって」

 「スコットランドってどこですか? よく聞きますけど」

 「イギリス北部。イギリスの正式国名は?」

 「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」すらすらと答える。正式国名だから当然英語ということだろう。

 「そう。そのUnitedしてるKingdomの一つがScotland」

 「あ! じゃイングランドも!?」

 「流石ね。そう、Britain島はEnglandとScotlandとWalesの三つのKingdomに分かれてるの。それを一人の王が治めてるからUnited Kingdom」

 「な、る、ほ、どー! 学校では教えてくれませんでした!」

 「まあ、国の成り立ちを全部教えてたらそれだけで三年終わっちゃうからね」

 「確かに」

 「でも歴史を知ってると知らないとでは面白さが段違いだからね。プロヴィデンスに行くまでにアメリカの歴史勉強するといいよ」

 「梨乃さん教えて下さいよう!」

 「いや私もあんまり知らないから。アメリカ行ったことないし」

 「えー!?」「え…!?」碧だけでなく、これには藍も驚いた。梨乃は世界中の国に行っているような気がしていたからだ。

 「古い遺跡ないからね」

 「あ、そうなんですか。じゃ、一緒に行きましょうよ、プロヴィデンス!」

 「いいわね」

 「藍ちゃんもだよ!」

 「え…うん…」勢いに押されて返事をしてしまった。普通ならこんな話は空手形だろうが、碧の実行力は半端ではない。きっといつか行くことになるのだろう。

 「松江はいつ行くんですか?」

 「そうねえ。夏休みはどう?」

 「はい! 大丈夫です! 部活の日程見て、ですけど」

 「シーズンだもんね、水泳」

 「はい! 藍ちゃんは!?」

 「え…と、親に相談します…」

 「うん」

 「がんばって説得してね!」

 「うん…」同行者については何も問題が無いと思われるが、遠方での泊まりだ。許してくれるかどうか全く分からない。

 「ワンコローズも来ますか!?」

 「泊まれるところがあればね」

 「やったね!」

 「うん…!」これは、説得のし甲斐が有るというものだ。藍はシュークリームを右手に持ちながら、左側に寝そべるアスランを撫でた。すぐに太い尻尾が振られる。

 「わ! ここスゴいですね!」ファイルを(めく)り始めた碧がすぐに手を止めて叫んだ。

 覗き込んでみると、崖の写真だ。大きさが今一つ掴めないが、ほぼ垂直に切り立った崖が、多分何百mにも亘って続いている。その下は恐らく海だろう、鉛色の水面が写っている。

 「断崖絶壁の見本みたいでしょ」

 「はい! 二時間ドラマで人形落ちてそうです!」

 「いやー、日本にはこんな落差の崖無いんじゃないかな」

 「そんなに高いですか!?」

 「どれだけか分からないけど、百メートルじゃきかないのは間違いないね。しかもすごい風なの、陸から海に向かって」

 「ぎゃー!」碧が叫んだ。風に煽られるところを想像したに違い無い。藍には想像が及ばなかったが、今は想像力に乏しくて良かったと思う。

「さ、柵は!? 柵はないんですか!?」

 「崖から五、六メートル内側にあるけど、みんな柵の外に出てたね」

 「梨乃さんもですか!?」

 「うん。怖かったから写真撮ってすぐ柵の内側に入ったけどねー」

 「梨乃さんですら恐れさせるとは何という…!」

 「うん…」

 「でもここに座ってお弁当食べてる人いたよ。ほら」梨乃がファイルを捲ると、若い女が崖に腰掛けているところを右斜め後ろから撮った写真が現れた。

 「まさに崖っぷち…!」

 「うん…」

 「しかもこれ! ホントにスゴい風だよ!」碧が写真の女の髪を指差す。長い金髪がほぼ真横に靡いている。

 「うん…」

 「座ってる間はいいけど、立つ時絶対怖いよね」

 「わたしなら這って行きますね…」碧の震え声に、藍も頷く。尤も、自分ならば最初から柵の外には出ない。

 「だよね。でもちゃんと柵のある展望台もあるから、そこからなら安心して崖を楽しめるよ」梨乃がまた捲った。

 「Extreme Dangerって書いてありますよ!」

 「誇張無しだね」

 「でも写真で見る分にはステキな景色ですね!」

 「でしょ。夏は風も無くて海も綺麗なんだってカフェのおじさんが言ってた」

 「梨乃さんは冬行ったんですか?」

 「うん。この前の年末年始」

 「最近ですね! どれぐらい行ってたんですか?」

 「現地七日かな。休みはもっと長いけど、路銀がね。それに、この子たちと会ってないと寂しいし」

 「ですねー」碧の隣で藍も頷いた。

 「この子たちも拗ねるしね」

 「すねますか」

 「拗ねるねー。ラブは特に」

 「へー!」碧は意外そうであるが、藍には何となく分かる気がした。

 「帰ってきても暫く無視してくるからね」

 「うわ、かわいくないけどかわいい!」

 「でしょ」

 「アスランは大喜びですか?」

 「の時もあるしラブと歩調を合わせる時もあるね」

 「えー!? アっちゃんが!」碧はまた意外そうで、今回は藍もそう感じた。

 「アスランは構いだせばすぐ機嫌直るけど」

 「アっちゃんはかわいいけどかわいいやつだ!」碧が手を伸ばしてアスランの頭を撫でる。アスランも嬉しそうに尻尾を揺らした。

 その碧の右腕をラブが鼻で(つつ)く。

 「分かった分かった。ホントにお前は」と言ってラブの頭も撫でる。

「あ、そうだ! アイルランドって何でも緑なんですか?」

 「そんなことないけど、アイルランドのテーマカラーは緑だね。どんなスポーツでもナショナルチームは緑の服なんじゃない?」

 「へー! 何でですか!?」

 「ちゃんとした由来があるのかどうか知らないけど、国中緑の牧草だらけだから、と私は思ってる。ダブリンから電車乗って十分もしたらもう緑。んーと、こんな感じ」

  梨乃がアルバムを捲った。どうやら車窓からの風景のようで、緑の草が一面に広がり、遠くに住宅が何軒か並んでいる。

 「うわ、ホントだ! え!? 冬だったんですよね?」

 「冬だけど緑。次の街までひたすら緑」

 「雪積もらないんですか?」

 「ほぼ積もらないって地元の人は言ってたよ。多分暖流のせいだけど、松本より全然暖かいし」実際のところ、松本どころか東京や大阪より暖かいくらいだ。

 「えー!?」

 「北海道より全然北なのにね。地球って凄いよね」

 「はい…」藍と碧の驚きが重なった。

 「で、お土産も緑が一杯って訳」

 「なるほどー。帽子とスカートが緑なのは偶然じゃないんですね!」

 「アイルランドに行ったのは偶然だったけどね。眠ってたアイテムが日の目を見てよかったわ」

 「やる気出てきたー! 応援がんばろ!」

 「うん…」と言ったものの、どう頑張るのかはよく分からない。

 「あ、もしかしてこの牧草ってこれですか?」碧は被っていた帽子を取り、紋章風の絵を指した。

 「うん、多分ね。シャムロック」

 「シャムロックって草ですか?」

 「うん。三つ葉の草の総称だったと思う。アイルランドの国花?国草?なの。日本にとっての桜」

 「へー!」

 「しかもこの紋章、アイルランド政府が商標登録してるの」

 「えー!! じゃ、この帽子アイルランド政府が売ってるんですか!?」

 「うーん、多分、作ってる会社か売ってる会社が政府にお金払って使ってるんじゃないかな。アイルランドに関連する物とかだと許可が下りるらしいけど」

 「この帽子思いっきりIRELANDって書いてありますもんね!」

 「うん。他にもこの紋章入ってる商品沢山あったよ」

 「へー! アルバム見ていいですか!?」

 「うん」

 碧は頁を一枚捲った。

 「うわ! 墓地も緑!」

 「うん…」牧草地の隣の頁は墓地の写真のようだが、芝生の中に墓石が立っている。

 「そして十字架かっこいい! お墓はみんなこの十字架なんですか?」十字の交差する点を中心にした円が追加された形状で、円の部分は奥行き方向が少し薄く作られている。

 「うーん、墓石に限らずこの十字架だったね。凝ってるのも一杯あったよ」

 梨乃がアルバムを捲ると、また別の十字架の写真が現れた。十字の前面にも側面にも彫刻が施されている。

 「ホントだ! しかも(おっ)きい!」隣に立つ人と比較すると、高さ数mは有りそうだ。

 「大きいよねー。HIgh Crossって言うの」

 「そのままな呼び方なのにカッコイイ!」

 「ね」

 「わ! 何ですか、このGhostBusって!」捲った頁の観光バスの写真なのだが、The Dublin GhostBus Tourと書いてある。

 「日本で言うミステリーツアーなんだけど、行き先知らずにバス乗って、移動しながら怖い話聞いて、多分近くの墓地行って肝試し的なことをするの」

 「え⁉ 夜ですか⁉」

 「うん、まあ昼間じゃ肝試しにならないもんね」

 「うわー、わたしムリ! バスで怖い話はいいけど、肝試しはムリです!」

 「や、ツアー客全員でゾロゾロ行くから、怖いの先頭の人だけっぽかったよ」

 「そんなにいっぱい来てたんですか?」

 「うん、予約していったのは私だけっぽかったんだけどね、バスが来たら途端に観光客が集まってきて、あっと言う間に満席」

 「えー、スゴい! 予約してよかったですね!」

 「うん」

 「で、梨乃さん先頭じゃなかったんですか?」

 「うん、成り行きで後ろから三人目だった。ああ、それにね、バスから降りた時点で向かいのアパートの女の子が二階からこっち見てたから、それで怖さ半減」

 「やー、わたしそれでもダメっぽいです」

 「そう? 私もお化け屋敷とか苦手な方だけど、面白かったよ。夜の墓地なんて日本でもなかなか行かないし。ほら、こんな感じ」梨乃が頁を捲った。教会の敷地内の写真らしい。

 「いやいや、めっちゃコワそうじゃないですか! このアベックは楽しそうだけど!」写真に写っている若い男女は、談笑しながら歩いている。

 「そうだね。みんな、『茶番を楽しむ』みたいな雰囲気だったよ」

 「茶番だったんですか?」

 「一箇所だけね。上から人形が降ってきたけど、それも先頭の人しかビビらないし」

 「うーん、1人じゃなければ大丈夫な気がしてきました」

 「でしょ。怖い話っていうのも、フランケンシュタインとかドラキュラとかだったし」

 「両方読みました!」古典とも言える作品であるが、藍は両方とも読んでいない。

 「私も。バスの中で茶番だったのがね、運転手」

 「え? どういうことですか?」

 「まず、バスは二階建てで、客席は二階だけなの。で、このおじさんがガイドで怖い話をするんだけど」と言って梨乃は前の頁に戻り、黒革の上着に黒い帽子と黒ぶち眼鏡という恰好の男を示した。楽しそうな笑顔で写っている。

 「運転手は奴隷っていう設定でね、話の途中で時々おじさんが『そうだよな、ジェイムズ!』って呼びかけると、『Yes, Master !!』って返事するの。ガイドのおじさんはマイク使ってるけどジェイムズは一階から大声で返事するのね。真剣に大声出してるのは分かるんだけどそれがかえって笑えちゃって」

 「あー、何となく分かります」碧が半分笑いながら言う。藍も、その場面を想像して可笑しくなってしまった。

「ホラーっぽくしたエンターテイメントなんですね!」

 「うん。夜の遊びとしてはなかなかよかったわ。多分九時には解散してたし」

 「えー! 深夜っぽいのに!」

 「うん。日没早いから、九時でもけっこう深夜感あるよ」

 「あ、そっか、年末年始ですもんね」

 「しかも緯度高いからね」

 「そんなに違うんですか?」

 「四時くらいには暗くなってたと思うよ」

 「うわー、外国っぽい!」碧の感想に藍も頷く。

 「日本でも北海道行くとそんな感じらしいよ」

 「へー! 日本広い!」

 「広いというか長いよね。北は亜寒帯から南は亜熱帯までだもんね」

 「ですね! あ、ホントだ! 並んでるね!」捲った頁にはバスに乗るのを待っている人達の写真。

 「うん…」

 「ほかには夜どこ行ったんですか⁉」

 「劇場とか」梨乃が捲るとその写真が現れた。客席から撮った写真だ。

 「スゴい! オペラとかやってそう!」それほど大きくない劇場のようだが、落下防止の壁に彫刻が入っていたりと細部まで凝った造りだ。

「ボックス席もある!」

 「うん」

 「あの…ボックス席って何ですか…?」

 「こういう席」梨乃が写真を指差す。舞台のすぐ脇の二階席で、四人の観客が席を並べている。

「一般席と違って部屋になってるの」

 「あ…なるほど…」箱のようになっているからボックス席というのだろう。

 「こういう劇場かっこいいですよねー。この二階の客席の曲線が! 日本にはないのかなー」一階席後方の天井即ち二階席の床は、舞台に平行な直線ではなく、舞台を囲むような曲線を描いている。座席に座ると、正面に舞台が来るように設計されているのだろう。

 「あるよ。市民芸術館」

 「え!? 深志神社の横の!?」碧が驚く隣で藍は、昨日碧が「芸術館」と言っていたことと建物脇の水路で鯉が泳いでいたことを思い出した。

 「うん。ボックス席はないけど、二階から上はこういう客席の配置だよ」

 「えー!? めっちゃ行きたくなってきました! 昨日前通ったのに!」

 「あー、巡礼で深志神社行ったのね」

 「そうなんです!」

 「ま、近くだしチャンスはあるんじゃない?」

 「はい! 三人で行きましょうね!」

 「うん」「うん…」梨乃と同時に、藍も頷いた。

 「シンデレラやってたんですか?」次の頁の写真にそう出ている。

 「うん。この劇場格式高い方なんだけど、この期間は親子向けだったんだよね」

 「シンデレラだったら台詞分からなくても観れそうです…」筋を知らないと最初から最後まで訳が分からないまま終わってしまう、と藍は自信を持って言える。

 「あ、そうだよね! 全部英語なんですよね!」

 「うん、まあ。ゲール語だったらさっぱり何言ってるか分からなかったと思うわ」

 「ゲール語って何ですか?」碧同様、藍もそのような言語の名を聞いたことが無い。

 「ケルト人の言葉。アイルランドとスコットランドでしか使わないのかな。私は旅行中に一度も聞かなかったけど、駅名板には両方で駅名が書いてあったよ」

 「へー!」

 「えーと、こんな風」梨乃はパラパラとアルバムを捲り、あるところでピタっと止めた。石造りの建物の外壁にGALWAYと書かれた銘板と、その左にGAILLIMHと書かれた銘板が掲げられている。

 「GALWAY(ゴールウェイ)って駅なんだけど、左がゲール語で右が英語。ゲール語名は何て発音するのか知らないわー」

 「固有名詞なのに違う名前なんですか!?」

 「みたいだねー。これどう見てもゴールウェイって読めないよね」

 「はい…」藍と碧の声が重なる。

 「シンデレラに戻りますけど、子供向けって、台詞が簡単だったりするんですか?」

 「うーん、簡単というか、はっきりした発音だったような気はするね。おかあさんといっしょ、みたいに」

 「あー、なるほど」

 「演劇は本格的だったと思うよ。でも、一番最後に観客も全員席立って踊りながら歌ったのが親子劇場だったね」

 「へー! 小さい子も喜びそうですね!」

 「うん。でもお母さんの方がノリノリな人多かったよ」

 「へー! 松本だとあんまりウケなさそうですけど…。梨乃さんも踊ったんですか?」

 「うん、せっかくだからやらないともったいないでしょ。それに、みんな踊ってるのに自分だけやらなかったらその方が恥ずかしいし」

 「うわー! 踊ってるところ誰か盗撮して流してくれればよかったのに!」

 「いやダメでしょ」梨乃の意見に藍も全面賛成だが、碧の気持ちも分かる。そんな状況で梨乃が踊っているところを見てみたい。

 「あの…このゴールウェイっていうのは何がある所なんですか…?」何となく名前の響きが心に引っかかったので訊いてみる。

 「うーん、この街自体には見たいところなかったんだけど、大都市だから、ここからバスツアー乗ってさっきの断崖絶壁とか行ったんだよね。それと離島」

 「へー!」碧がアルバムを捲る。

「あ、馬かわいい!」白い馬と焦げ茶の馬が牧草地に立っている写真だ。

 「うん…」

 「牛かわいい!」今度は牛の群れが道路を横断している写真。

 「うん…」

 「あ、馬乗ってる!」群れの横に一組の人馬が佇んでいる。

 「うん…」

 「多分カウボーイだよ」

 「えー、カッコいい! 今でもそんな職業あるんですね!」

 「ね。この人、馬操るの上手だったよ。流石プロ」

 「えー、ますますカッコいい!」

 「牛追って自分が車にはねられたらダメだもんね」

 「あ、ホントだ車待ってる! 早く渡らないと!」隣の写真には、群れが横断するのを待っている自動車も写っているが、最後尾の牛は悠長に渡っているように見える。

 「まあ地元の人にとっては普通のことなんじゃない?」

 「うーん、スゴいですねー。世の中広いって感じ!」

 「うん…」藍もそう思う。自分の想像もしなかった風景が、この一冊だけでも沢山収められている。

 「この岩テーブルも!」碧が指すのは、板状の岩を組み合わせて卓状にしたもので、一般に支石墓(ドルメン)と呼ばれる。

 「これは日本にはなさそうだよね」

 「そうなんですか?」

 「多分これ乗せてあるだけだから、地震ですぐ倒れそうじゃない?」

 「え!? てことは向こう地震ないんですか!?」

 「じゃないかな。石積んであるだけの壁とか普通にあるっぽかったし」梨乃がまたアルバムを捲る。

「こんな感じ」近距離から馬がこちらを見ている写真だが、その前後に石垣が写っていて、梨乃の言う通りそこらの石をただ積んだだけのように見える。

 「わ! この子もカワイイ! めっちゃこっち見てますね!」が、碧は大きく写った馬の方に目を引かれているようだ。そして藍にもそれは当てはまった。

 「でしょ。前通ったらこっちに来てくれたの」

 「うおー、さすが梨乃さん! てホントにテキトーに積んだっぽいですよ!」

 「でしょ。だから地震はないんじゃないかなあ」

 「ですね! あ! 離島っていうのはどんなですか?」

 「あー、この写真がその離島。Inishmore(イニッシュモア)っていう島。そんなに古くないけど、世界遺産の遺跡が崖の上にあるの」頁を捲ると断崖の写真が現れた。

 「崖怖い! でも牛かわいい!」今度は、金網越しに牛がこちらを見ている写真だ。

 「さっきの崖ほど高くないけど、落ちたら助からなさそうだね」

 「えーと、離島って船で行くんですか? 飛行機ですか?」

 「高速船で三十分くらいだったかな。海の上でもそんなに寒くなくて、これが暖流か、って実感したよ」

 「へー! わたしなんか海見たことすらないです!」

 「あ、そうなのね」梨乃は少し驚いた様子だが、藍は驚かない。県外に出たことすらほとんど無いと聞いていたし、自分も似たようなものだからだ。藍は一度だけ、福岡に行った時に海を見たのみ。それでも、向こう岸が見えないことに衝撃を受けはした。

 「長野県民のカガミです!」

 「うーん、それはどうかと思うけど、じゃあ松江に行く時が初めてになるかも知れないのね」

 「おお! そうですね!! わたしの初めては梨乃さんと藍ちゃんです!」

 「またそんな言い回しして」

 「でへへへ。でも松江ツアーの楽しみが増えました! 藍ちゃん、ゼヒよろしくお願いします!」

 「うん…! がんばるね…!」

 「ふー! 堪能しました!」碧の言葉に、藍も大きく頷く。

 「それはよかったわ」

 「アイルランドおもしろそうですね! 行ってみたくなってきました!」

 「うん、景色のいいところ多いし、物価もすごーく高くはないし、治安もよさそうだったからおすすめするよ」

 「えー! オススメじゃなくて一緒に行きましょうよ!」

 「そうね。行くところ多くて楽しみだね」

 「ですです!」

 「藍ちゃん、頂きました。今日も美味しかった」話している間に、シュークリームも無くなっている。藍は、話が終わるまでに食べ終わるようにと、少しだけ意識した。

 「あ、よかったです…こちらこそごちそうになりました…」褒められると恥ずかしいが、もちろん嬉しい。

 「藍ちゃんも梨乃さんも、いただきました! おいしかったです! 藍ちゃん、またお願いします!」

 「あ、うん…!」

 「じゃ、お風呂行きましょうか」

 「はーい!」「はい…」

 おやつの後片付けをし、三人は部屋を出た。当然のようにアスランがついてこようとする。

 「アス、Down」梨乃に命じられその場に伏せるが、今度は目で訴えてくる。藍はその視線に耐え切れなかった。

 「あの…一緒に行ってもいいですか…?」ダメ元で訊いてみる。

 「うーん、藍ちゃんがそう言うなら。アス!」梨乃が声を掛けると、アスランは飛び起きて梨乃の傍に来た。そして、いつの間にかラブもアスランの後ろにつけている。

 「ちゃっかりしてるなあ、ラブ子」

 「じゃ、行きましょうか」

 「はい!」「はい…」

一行は下に降り、また高辻家の自家用車に乗り込んだ。すぐに梨乃が発車させ、自動車はゆっくりと住宅街を抜けていく。

 「梨乃さん、銭湯行ったことあります?」

 「うん。昔、家の風呂釜が壊れたことあってばらの湯行ってたよ」

 「えー! そうなんですか!? わたしないですー! 藍ちゃんは?」

 「私も…」

 「システムはこの前の温泉とそんなに変わらないよ。番台で直接お金払うのと時間制限がないくらいかな」

 「何でばらの湯って名前か知ってますか?」

 「うん」

 「何でですか?」

 「すぐに分かるわ。ばらの湯って珍しい名前よね。名古屋から来た子も徳島から来た子も尾道から来た子も初めて見たって言ってた」

 「おのみちって何県ですか?」

 「広島」

 「広島県って竹原しか知りません!」

 「いや広島市は知ってるでしょ。で竹原とはまた渋いわね。マッサン? たまゆら?」

 「たまゆらです! 梨乃さん行ったことあるんですか!?」

 「うん。去年のゴールデンウィークにね。あ、マッサンはドラマでたまゆらはアニメのタイトル。どっちも竹原が舞台なの」藍のために説明してくれた。厳密には舞台の一部、であるが。

 「あ、そうなんですか…」何語の会話が交わされたのかと思った。

 「どんな感じでした!?」

 「歴史保存地区はすごくいいわよ、古い建物がたくさん残ってて。端っこにある神社というか祠は四百年以上前に建てられたって言ってた。僅か数百メートルの道だけど、高校卒業しても鞄抱えて出て行きたくはならないわね」

 「わー! 行ってみたくなってきた!」

 「私も…!」藍は神社仏閣城郭等古い建物に興味は無いのだが、梨乃が絶賛する所ならば素敵に決まっている。

 「じゃ、今度一緒にたまゆら観よ!」碧から思わぬ提案が出された。

 「え…うん…」

 「いいわね」

 「梨乃さんも一緒に!」

 「じゃ、うちに泊まって、いけるところまで一気見しましょう」

 「うひョー! ステキー!」

 「連休明けの金曜はどう? 学校七時には終わるはずだから。翌日湧き水ツアーに行けばいいじゃない?」

 「わー、梨乃さん天才! 藍ちゃん、がんばって!」

 「え…うん…!」親を説得しろということだろう。件数が増えたが、望むところである。

 「あれ? 梨乃さん、今のところ曲がるんじゃないんですか?」自動車はこまくさ道路を駅に向かって下っており、今、「蟻ケ崎」交差点を通過したところだ。

 「ばらの湯の前の道一通だからね」

 「いっつうって何ですか?」

 「一方通行」

 「あー。上りに一方通行なんですか?」

 「うん。だから一旦通り過ぎて下から上がるの」と言って梨乃はハンドルを左にきった。城の北側を通る道へと自動車が曲がる。

 「はー。車はそういうのめんどくさいですねー」

 「自転車みたいに細くないからね」

百mほど走って、自動車はまた左へ曲がった。二人の通学路である。

 「いつもの道に入りました!」

 「ここ(とお)ってるのね」

 「はい! それでばらの湯が気になってたんです! 部活終わってからだと、看板光ってるし!」

 「光ってるね」今はまだ西の空に太陽が残っていて、残念ながら看板に灯は入っていない。

 「楽しみー!!」碧は本当に楽しそうである。藍も何だかわくわくしてきた。

 「はい、到着、っと。ちょうど一台空いててよかった」梨乃が言っているのは駐車場のことである。建物の前の駐車枠のうち、入口に一番近いところだけ空いている。恐らく、開店と同時に入った人がもう出て行ったのだろう。

 梨乃は後ろ向きに駐車し、後部座席の窓を二cmほど開けてから自動車の電源を切った。藍の隣では、既にアスランが立ち上がって外に出ようと待ち構えている。見えないが、ラブも同じと思われる。

 「アス、Sit!」梨乃の号令が掛かり、アスランはその場にお座りした。

「藍ちゃん、今のうちに」

 「あ、はい…」アスラン達を残していくことに後ろ髪引かれる思いで、藍は扉を開け車外に出た。すぐに碧も出てくる。どこに置いていたのか、手提げを持っている。藍の手提げよりかなり大きいのは、着替えだけでなく風呂道具も入っているからであろう。

 最後に梨乃が出て、自動車の鍵を掛けた。

 梨乃に随って入口へと向かう時窓越しにアスランを見ると、意外とケロリとした顔でこちらを見ていた。梨乃の部屋から出る時のような目をしているかと思った藍にとっては意外であったが、これはよく有る状況なのだろう、と思い至った。ちなみにラブは、既に助手席の上で丸くなっている。

 入口の硝子扉を抜けると玄関で、左手に下駄箱が在った。一つの枠が二十cm四方くらいで、縦に十、横に二十ほどびっしりと並んでいる。それぞれの枠には扉が付き、施錠出来るようになっている。鍵は、銭湯には付き物の、溝の入った大きな木の札だが、藍はこれを初めて見る。

 靴を脱いで下駄箱に仕舞い、木札を抜く。

 「この鍵面白いね!」少し早く木札を抜いた碧が言う。彼女も初めてなのだろう。

 「うん…」

 「抜く時の感触がいいよね」と梨乃が振り返る。

 「はい!」「はい…!」藍もそう感じていた。

 梨乃は次の硝子扉を開けた。今度は引き戸である。

 その向こうは十畳ほどの部屋で、向かいの壁際に冷凍庫、飲料の自動販売機、冷蔵庫、テレビが設置されている。冷蔵庫は縦に細長い硝子製で、中に瓶が並んでいるのが見える。冷凍庫はよく有る業務用の、上面に硝子の引き戸が付いた横長のもので、中身はアイスクリームであろう。入ってすぐの左側には椅子と卓が置かれ、その奥に浴室への入口が在る。無論男女別だ。入口と入口の間には受付が在り、年配の婦人が座っている。初めて見るのは無論のこと、藍は番台という単語すら知らない。

 「三人お願いします」梨乃が番台に料金を置くと、

 「はい。どうぞ」柔和な表情と声で返事が返ってきた。

 梨乃が入口に掛かる暖簾の向こうへ消えたので、碧と藍も婦人に会釈して中に入った。

 暖簾の一m奥はもう壁だ。外から見えないようにわざと通路を曲げてあるのだろう。

 「梨乃さん、お金」脱衣所に入ってすぐ碧がポシェットから財布を取り出したが、

 「ううん」一言で一蹴されてしまい、藍も取り出しかけた財布を引っ込めることになった。

「先週の温泉とだいたい同じでしょ」梨乃が浴室への扉の傍にあるロッカーの方へ向かいながら言う。

 「ですね!」碧はその二つ左のロッカーを開ける。すぐ隣は鍵が差さっていないから仕方無くそうしたのだろう。入口付近で少し立ち止まっていた藍もそちらへ向かった。

 脱衣所は十二畳ほどの部屋で、藍達の他に三組四人の客がいた。一組は親子でこれから入ろうというところ、残りの二人は風呂から上がってきたところだ。

 幸い碧の隣が空いていたので、藍はそこを使うことにした。まずは着替えとバスタオルを袋から出してロッカーに入れ、既に後れをとっているので急いで服を脱ぎ、大雑把に畳んで袋に入れる。本当はきちんと畳みたいが、床に置くのは憚られるし、急いでもいる。脱いでは畳んで袋へ入れを繰り返し、上半身が裸になったところで再び眼鏡を装着。裸眼でも見えることは見えるが、眼鏡着用とでは雲泥の差と言っていい。先週は温泉だったので眼鏡の傷みを気にして外したが、本当は勝手の分からない場所ではなるべく外したくないのである。

 下着まで全て袋に入れてロッカーに仕舞い、鍵を掛けると入浴準備完了だ。藍としては全速力だったが二人には及ばず、やはり少し遅れてしまった。二人は先に入らず藍を待ってくれていた。

 「お待たせしました……」

 「ううん」梨乃が軽く応えて扉を開け、三人は浴室へと入った。

 身体に纏わりついてくる湯気が心地良い。

 「わ! 富士山!」奥の壁一面に大きな富士が描かれているのが見える。富士の前には三つに分かれた湯舟が並び、それぞれに一人ずつが入っている。浴室の中央には高さ一mほどの壁が立ち、両面に五組ずつ、水と湯の蛇口、それにシャワーが設置されている。このシャワーヘッドは壁に固定されていて、根元の関節を中心に向きを変えることだけが出来るようだ。浴室左側の壁にも同じものが五組、計十五組だ。右側の壁にもシャワーが見えるが、設置位置が高いので、立って浴びるものであろう。そして、隣と壁で仕切られている。浴室に入ってすぐの左側には小さな湯舟。入浴剤が入っているらしく、薄い緑の湯だ。扉の右側には黄色い桶と緑の椅子がピラミッド形に積み上げられている。椅子は、コの字の中央部を窪ませた形状で、M字型とも言える形だ。

「やっぱり富士山なんですね!」

 「ね」

 「富士山が多いんですか…?」やっぱり、ということはそういうことだろう。

 「実際どうなのか知らないけど、富士山ってイメージだよね」

 「はい!」実際どうなのか、どなたか統計をとって頂きたいものだ。

「おお! ケロリン!!」桶を取った碧が叫んだ。

 「どうしたの?」

 「いや、お父さんから、桶がケロリンかどうか見て来いって言われてて」

 「へえ。ケロリンが定番なのかな?」

 「昔はそうだったって言ってました」その通りである。ついでに言うと、緑のM型椅子もだ。

 桶と椅子を持って梨乃が左へと向かい、碧と藍も倣った。中央の洗い場には片面に一人、反対面に先ほどの親子が座っているが、壁沿いの洗い場は無人であった。

 「じゃ、梨乃さんからいきますか!」碧の言葉の意図は藍にはすぐ分かった。

 「梨乃さん座って座って」三席のうち中央の鏡を左手で示す。

 「はいはい」梨乃にも何のことかは分かっているらしい。何も訊かず椅子を置いて碧の言葉に従った。桶は目の前に置く。

 碧と藍もその両側に椅子と桶を置く。碧は座ったが藍は座らない。

 藍は桶に湯を注いだ。把手を倒して湯を出すという構造にまず驚き、次に想像の倍以上の流量に驚く。湯の温度を確かめてから、

 「いきますね…」と前置きして梨乃の後ろに立ち、少しずつ頭に湯を掛ける。隣では碧が次の桶に湯を貯める。

 それを三回繰り返し、準備完了だ。碧が差し出す容器を受け取って左手にシャンプーを出し、容器を碧に返して、

 「シャンプーつけますね…」と言うと、

 「うん」応えて梨乃は少しだけ顔を上に向けた。先程から目は閉じている。

 藍は左手を梨乃の頭頂辺りに置いて髪にシャンプーをつけてから、十本の指で梨乃の頭を洗い始めた。爪を当てないよう、且つシャンプーが顔の方へ流れて行かないよう、細心の注意を払って指を動かす。

 「うーん、気持ちいいわー」と梨乃。その声が本当に気持ち良さそうなので藍は嬉しくなった。しかも、やっている藍の方も気持ち良い。

 「梨乃さん、こっちもいきますよー」隣で碧がタオルにボディシャンプーを出し、梨乃の右腕を取った。

 「あら、今日は私がお姫様?」

 「梨乃さんは女王様ですね」右腕を洗いながら、特に冗談といった感じでもなく碧が返した。藍も、梨乃は姫よりも王だと同意するが、

 「まだ二十歳(はたち)なんだけ()」本人は不服のようだ。女王=年増という印象らしい。梨乃も年齢のことを気にするのか、と藍は少し驚き、それから梨乃のことを可愛らしく思った。

 「年齢(とし)は関係ないです」碧は何事も無いかのように応じる。

「お姫様は守ってあげたくなる人ですけど、女王様は手下になりたくなる人です!」なるほどその定義であれば梨乃は確実に女王様だ、と藍は頷く。その気になればあっという間に手下が集まるはず。

 「うーん、喜んでいいのか悪いのか」梨乃が迷うとは珍しい。碧の論に納得した証左であろう。初めて碧が梨乃から一本取った、と藍は思った。

 「反対いきまーす」藍の背後を碧が移動した。

 藍は黙って梨乃の頭皮を指の腹で揉み続ける。

 「梨乃さん今日も乗馬行ったんですか?」

「うん、朝一でね」

 「その後は?」

 「レポート書いてた」

 「バイトは行ってないんですか?」

 「今週はね。そうそう、夏服が出来上がりましたら御連絡差し上げますので、お越し下さい」藍は、冬服と夏服を纏めて注文したが、夏服はまだ受け取っていない。碧も同じなのだろう。

 「あー、もう夏服ですか。全然考えてませんでした!」藍も概ね碧と同じである。入学して二週間余、六月はまだまだ先と感じている。

 「合わない所あったら直さないといけないからね。本当は冬服と一緒に渡せるといいんだけど、そこまでは手が回らないんだって」

 「服作る人が少ないんですか?」

 「そうだね。それと平準化」

 「へいじゅんかって何ですか?」

 「(たいら)に準備の準、化けるで平準化」藍も初めて聞く単語だ。

「均して平たくすること。この場合は仕事の量だね。入学前に一気に作らずに五月まで持ち越すことで、職人さんはより長い期間仕事を確保出来るし、会社は確保しないといけない職人さんの数を減らせるでしょ」

 「あー」「あ…」言われてみれば当然のことであるが、今までそんな事を考えたことは無かった。

 「まあそういう事情で、夏服はゴールデンウィーク以降にお渡しさせて頂いております」

 「なるほどー。了解です! あ、藍ちゃん、そこいい?」

 「あ、うん…」梨乃の背中を洗うのだと察した藍は立ち位置を右にずらし、今度は耳の後ろから裾の生え際を洗うことにした。代わって碧が梨乃の後ろに椅子を動かし、座る。

 「いかがでございますか? 陛下」梨乃の背中にタオルを走らせながら碧が訊く。陛下の称号は、無論、女王様だからであろう。

 「うむ、苦しゅうない」また始まった、と藍は思った。二人のふざけ劇場にも慣れてきて、藍はこれを楽しみに思い始めている。

 「前もいかがでございますか? 陛下」この流れで胸に触ろうという作戦であろう。その執念に藍は呆れた。確かに梨乃の胸の触り心地は素晴らしかったが。

 「うむ、苦しい」予想通り一蹴された。しかし碧もめげない。

 「苦しゅうございますか? それはいけません。さすって差し上げます」返事する間を与えず、梨乃の身体を抱えるようにして両掌を胸に当てた。

 「もう。そんなことだろうと思ったわ」梨乃の声は呆れているが怒ってはいない。こうなることは織り込み済みなのだろう。

 「ブフフフフ」と言って碧は本当に両胸を摩る。数秒碧の好きにさせて、

 「はい終了」梨乃が碧の腕を掴んで引き下ろした。

 「ありがとうございました!」碧は座ったまま僅かに頭を傾けて一礼する。

 「はいはいどういたしまして」漸く一段落着いたようだ。藍は一旦梨乃の髪を下ろした。

 「シャワー使う?」碧が真面目な口調に戻って訊いてくる。

 「うん…」ここはシャワーの方が使い勝手がいいだろう。

 碧は素早く立ち上がって梨乃の右側へ移動し、壁のシャワーヘッドに手を添えた。

 「あの…流しますね…」藍の言葉が終わると同時に湯が出、碧が向きを調整する。

 「うん」

 藍は梨乃の頭を湯で流し始めた。シャンプーの白い泡が髪の表面を滑り落ちていく。

 「うーん、気持ちいいわー」梨乃は先程の言葉を繰り返した。

 たっぷり二分ほど時間をかけ、藍はシャンプーを流した。髪を持ち上げたり分けたりして、特に根本付近は念入りに濯ぐ。

 納得のいくところまで流し、碧の方を見ると、碧がすぐ湯を止めた。

 「ありがと、二人とも」目を瞑っていても二人が共同で作業したと分かっているらしい。

 「え…いえ…」「ブフフフフ」

 「じゃ藍ちゃん、選手交代! ここからはワタクシが!」

 「うん…」藍は梨乃の左に腰掛けた。次はトリートメントだろうと思うが、藍は普段トリートメント剤を使わないのでどのようにするのが良いのか知らない。交替は正解だ。

 「あ、次藍ちゃんだから先に体だけ洗っといて~」

 「え…」私はいいよ、と言いかけたがどうせそのようなことは通用しない。藍は言われた通りにすることにした。

 身体を洗いながら見ていると、碧はまず梨乃の髪を絞り始めた。根元に近い方から徐々に先の方へ。それを三度繰り返し、当面毛先から水が滴り落ちなくなったところで、碧は髪から手を放し、トリートメント剤を取った。

 藍が予測したよりもかなり少ない量を左手に出し、束ねた髪の毛先をその左手で撫で、両手で挟んで軽く叩く。それをまた三回繰り返してから、髪の束を両手で握って交互に揉む。毛先から根元の方へゆっくりと進め、根元近くまで進んだら手を放す。これも三回繰り返し、

 「完了いたしました」と宣言した。

 「ありがとう。二人とも丁寧にやってくれて嬉しいわ」

 「でへへへ。じゃ次は藍ちゃん!」

 「うん…よろしくお願いします…」

 「シャンプーは私が相務めさせて頂きますわ、旦那様♡ 碧ちゃんその間に身体洗っといて」

 「はーい」

 「あの…よろしくお願いします…」後ろに立つ梨乃に対して藍は少し頭を下げた。

 「はい! 旦那様♡」梨乃の演技力は尋常ではない。普段の落ち着いた梨乃からは想像出来ない、喜びの弾けそうなその声に、後ろに居るのは本当に梨乃かと藍は鏡越しに確認してしまった。そして、藍は気づかなかったが、碧も愕然として梨乃の方を見た。

 梨乃がそっと眼鏡に両手を掛けて上に持ち上げた。普段自宅で入浴する時は外してから浴室に入るので、着用していることをすっかり忘れていたのだ。

 「あ、すみません…」

 「いいえ、旦那様♡」引き続き、夫に尽くすことを喜ぶ新妻の声で応え、梨乃は藍の目の前に眼鏡を置いた。

 湯で髪を濡らしてから、梨乃は、藍がしたのと同じ手順で頭皮と髪を洗い、濯いだ。温泉でも思ったが、実に気持ちがいい。目を閉じてうっとりしているうちに数分が過ぎ、

 「じゃ選手交替!」碧の声で目を開けた。

 「ありがとうございました…」藍の背後から左隣へと移動する梨乃に礼を言い、

 「いいえ、いつでもお申し付けくださいませ♡」

 「よろしくお願いします…」代わって背後に立つ碧に挨拶して、藍はまた目を閉じた。

 「お任せあれ!」

 シャンプーと違って直接頭に指が触れることは無いが、髪を撫でられたり揉まれたりしているのはもちろん分かる。時々、とても弱い力で髪が引っ張られるのも心地良い。

 「いやー、梨乃さんも藍ちゃんも髪が長くてやりがいありますね!」

 「そう? 短い方が楽じゃない?」

 「自分のは短い方が楽でいいですけど、他人のは長い方が楽しいです!」

 「そうね。藍ちゃんの髪洗ってて楽しいもの」

 「ですよねー」

 「……」藍は無言で恐縮する。

 「…! てことはわたし楽しくないですか!?」

 「藍ちゃんに比べればね」

 「え…」「やややっぱり!?」

 「仕方ないでしょ、長さの問題なんだから」

 「ですね」であれば致し方無い。藍は何となく申し訳無い気がするが。

「でね、トリートメントが楽しいんですよ! シャンプーと違って、何て言うんですか、トリートメントと一緒にわたしがしみてくっていうんですか?」

 「なるほどね。碧ちゃんが沁みてったら元気な髪になりそうね」

 「はい…!」

 「そうですか? ブフフフフ。よーし、しみこめ、わたしー!」

 「沁み込んだ分本体が減っていくのね」

 「怖っ! 何ですかそれ! いやいやそれでもしみこめわたし~!」

 「うむ、その意気やよし!」

 「ブフフフ。藍ちゃん、もうちょっと待ってね」

 「うん…ありがとう…」

 そこから二分ほど碧の手に髪を任せると、

 「よし、完了! そのまま五分くらいおいて!」

 「うん…ありがとう…碧ちゃんのシャンプーするね…」藍は眼鏡を掛け、椅子から立った。

 「うん!」入れ替わって碧が座り、

「よろしくお願いします!」

 「はい…」藍はシャンプーを取って左手に出した。梨乃の時と同じように頭皮を指で揉み始めると、

 「むううーん、気持ちいい~」ダラっとした声が碧の口から洩れた。

 「美容院並みに気持ちいいよね」

 「え!? 美容院でマッサージしてもらったことないです! いっつも切ってもらうだけー」

 「あ、そうなのね」

 「藍ちゃんやっぱりテクニシャンですか」

 「テクニックは分からないけど、力加減と丁寧さがね。藍ちゃんの愛を感じるもの」藍にとってはこの上無い誉め言葉だ。

 「ですよねー。わたし今まさに感じてるところです!」

 「そうね」ふふっ、と笑ってから梨乃はそう返した。

 そうして藍は数分碧の頭を揉み、

 「流すね…」湯を出した。

 「はーい!」

 濯ぎも、梨乃の時と同じくシャンプーが残らないよう念を入れた。

 「出来ました…」湯を止めて宣言すると、碧が振り向いて、

 「ありがとう! ホント気持ちよかったー!」

 「うん…よかった…」

 「藍ちゃん、代わるわ」梨乃が椅子から立ち上がる。

 「あ、はい…」藍は右にずれて座った。

 「やだもう♡ 入れ代わり立ち代わりじゃないですか♡」

 「じゃやめときますか」梨乃が、手に取ったトリートメント材の容器を目の前に置く。

 「わー! 梨乃さんのいけずー! わたしもやって下さいー!」

 「はいはい」置いた容器をまた取る。

 梨乃がどのようにするのか興味津々の藍は、手元をじっと見る。

 梨乃は左手に出した大匙一杯程度のトリートメント材を両手で挟んでから、その両掌で碧の髪を後ろの裾の方から軽く撫で始めた。下から上へ髪の流れに逆らって何度か撫で上げ、トリートメント材を手に出す。また何度か撫で、次は頭を指の腹で揉む。

 「むおー、気持ちいー」かなりだらけた声であるから、相当心地好いものと推測される。

 碧を唸らせること数分で梨乃は手を止めた。

 「こんなもんかな」

 「ありがとうございます!」

 「うん。じゃ、次は濯ぎだね」梨乃が左の椅子に座る。また自分の出番だ。一瞬遅れて藍は立ち上がり、梨乃の後ろに移動した。が、一つ疑問が湧いてきた。

 「あの…トリートメントって全部洗い流していいんですか…?」先週の温泉で思い当たってもよい疑問だが。

 「うん」梨乃の回答は簡潔であった。ならば手順はシャンプーの時と全く同じだ。

 数分かけてトリートメント剤を全て洗い流し、髪を簡単に纏めて、

 「終わりました…」

 「ありがとう」

 「あ、はい…」

 「次は旦那様の番ですわ。お掛け下さいまし♡」梨乃がまた新妻になった。いつの間にか立ち上がっている。

 「あ、はい…お願いします…」藍は梨乃が座っていた椅子に腰掛けた。

 「はい♡」梨乃が藍の顔から眼鏡を外す。また忘れていたのだ。

 「あ、すみません…」藍が慌てて言った時には、梨乃は眼鏡を藍の目の前に置いていた。

 「いいえ♡ 流しますね」

 「お願いします…」

 梨乃の手順もシャンプーを流す時と同じであった。髪に触れられる心地好さを感じて目を閉じているうちに湯が止まったが、髪を持ち上げられる感覚が続き、それも終わると、

 「終わりましたわ、旦那様♡」梨乃が耳元で囁いた。

 「あ、はい…!」慌てて目を開け返事する。

 「碧ちゃん流してあげてくれる?」新妻が梨乃に戻った。

 「はい…」

 「お願いします!」碧はもう目を閉じている。

 「うん…」

 碧は梨乃の半分ほどの時間で流し終わった。湯を止めると、

 「ありがとう!」

 「うん…」

 「じゃ、お湯に入りましょー!」と言っておきながら碧は湯舟ではなく背後の洗い場に向かった。続く梨乃の髪がゴムで縛られているのを見て、自分の髪もそうなっているのだと藍は分かった。

 眼鏡を装着して藍もついて行こうとしたが、二人は浴室中央の壁の上に風呂道具を置くと、すぐ富士山の方へ向かった。

 「わ! これ泡が出るやつですか!?」富士山の麓に在る湯舟を碧が覗き込む。壁には「超音波ジェットマッサージ」の表示と、その上に黒いボタンが二つ。直径数cmのステンレス管で手摺を作ってあり、定員二名であることは明白だが、今は誰も入っていない。

 「うん」

 「やってみよっと!」碧は湯舟に入り、

「梨乃さんも!」と指名した。

 「はいはい」梨乃も入って壁に背を向ける。藍は向かって右隣の大きな湯舟に入り、二人の方を向いて体育座りで座った。

 「じゃ、スタート!」碧が二つのボタンを同時に押し、壁に背を向けて座った。湯舟の中に段差が在り、腰掛けて利用するものらしい。

 二、三秒置いて、泡が勢いよく水面に上がってきたのが藍からも見えた。

 「おー、面白い!」

 泡の流れから判断して、壁から水平に空気が噴出しているようだ。

「でも足の裏くすぐったい!」ということは、下からも出ているのか。

 「そうね」梨乃も微妙な表情である。本当にくすぐったいのだろう。

 湯に浸かりながら碧と梨乃を眺めていると、一分ほどだろうか、唐突に泡は止まった。

 「わたしもう一回!」

 「じゃ、藍ちゃん私と交替ね」

 「あ、はい…!」藍は立ち上がり湯舟から出た。梨乃も一旦湯舟の外に出てから藍のいた湯舟へと入った。

 隣の泡風呂は、入ってみると深かった。床に立った状態で水面が臍より高い。藍は二人に倣い、壁に背を向け段差に腰掛けた。

 「じゃいくよー!」

 「うん…」

 「スタート!」

 碧の声から一、二秒で壁から空気が噴出してきた。両足の脹脛と腰、それと足の裏に勢いよく泡が当たる。想像を大きく上回る勢いだ。これはなかなかいいかも知れない。

 藍は両足を上げ下げし且つ前後にも滑らせて空気の当たり具合を調節した。踵近くに泡が当たるととてもくすぐったい。藍自身は気づいていないが、先ほどの二人と同じ表情だ。

 「気持ちいいよね!」

 「うん…!」

 「家にあったらいいのにー!」

 「うん…でもこんなに深いお風呂売ってるのかな…?」

 「売ってますか? 解説の梨乃山親方」

 「誰が親方か。流石に量産品は無いんじゃない? ここの浴槽は一点物で作ったんだと思うよ。ボタンと吐出口は量産品だろうけど」

 「やっぱり無いですか」碧は残念そうである。

 「まさか買おうと思ったの?」

 「やー、あったらいいなーくらいです!」

 ここで空気の噴出が止まった。碧は右側を見、

「隣行きましょう!」と言った。残念ながら隣も定員二名だ。

 「うん」梨乃が応じ、二人は隣の湯舟へと移った。藍はもう一度泡風呂に掛かることにした。

 隣は寝風呂だ。右から梨乃、碧の順に横たわる。

 「これもいいですねー」

 「長く入ってられそうね」

 「ぬるいんですか…?」

 「これが冷たいんだよー」碧が、頭を乗せている直径十cm程度のステンレス管を指した。水が流れているのだろう。

 「話戻りますけど、買えませんか? ジェットバス」

 「お小遣いでは無理じゃない? 機械も要るし」

 「と言うと?」

 「コンプレッサー。ここからは見えてないけど」

 「コンプレッサーって何ですか?」

 「空気を圧縮する機械」

 「あー。自転車の空気入れでシャカシャカやっちゃダメですか?」

 「原理的にはいけるけど、圧縮空気を貯めるタンクが要るよ。それに、一回分出すのに何回ポンプで押さないといけないか」

 「千回くらいですか?」

 「いやちょっと想像つかないけど、何万回とか何百万回とかじゃない?」

 「え!?」

 「そもそもそんな圧まで人力で圧縮できるのかな」

 「分かりました…シャカシャカは諦めます…」

 「うん。あと、超音波って書いてあるから、超音波発生機も」

 「てことは合計おいくら万円くらいになりますか?」

 「さあ? 百万円では全然足りないけど一千万ならお釣りが来るくらいじゃない?」かなり大まかだが、梨乃にも想像がつかないということだろう。

 「分かりました…毎日ここに通うよりも全然お高いんですね…」

 「と思うよ」

 「そうと分かれば時々来よっと! と言っても決して安くは…」

 「うちの高校の定食より高いもんね」

 「はい…」

 「でも月に一回なら来れるでしょ」

 「ですね! じゃ、次回は来月!」

 「うん。いいんじゃない?」

 「藍ちゃんも!」

 「うん…」そのくらいならば親も咎めはすまい。

 「あ! でもこれは家でもできますよ!」と、頭の下の冷たい配管を指差す。

 「そうね。ペットボトルに水入れて凍らせればいいね」

 「ですよね! よーし、やってみよっと! あ、チャーンス! あれ行きましょう!」碧は素早く身を起こし、立ち上がった。チャンスとは、扉横の湯舟に入っていた婦人が今立ち上がったからだろう。因みに、三人の少し前に浴室へ入った親子連れは、まだ母親が娘の頭を洗っている途中だ。

 「はいはい」梨乃もすっと立ち上がる。藍は泡が出ている途中だったので終わるまで待ち、後を追った。

 この銭湯で最も小さな湯舟は、これも定員二名といったところだが、手前の壁二辺に沿って一段下がった腰掛けがあり、そこに座れば三人入れそうである。扉の一番近くに藍、その右に碧、その右側の短辺に梨乃が座って、三人巧く収まった。

 「はー、いい匂い。しょうぶフレイヴァーですか。青い入浴剤がよかったですけどねー」

 「絶対一般受けしないわね」

 「えー!? 青好きな人なんて世の中にゴマンといますよう!」

 「だってお風呂だもの。青だと冷たい感じがするじゃない」

 「むー、そんなもんですかねー」

 「と思うけど。ね?」

 「はい…」一般論としては梨乃の意見が正しいだろう。

 「むー」

 「でも、青いお風呂入ってみたいな…」きっと綺麗だろう。

 「確かにね」

 「で、す、よ、ね! あ! 昨日開智学校の横の司祭館行ったんですよ」

 「水色の可愛い(とこ)?」

 「はい! お風呂のランプシェードが花の形で、しかも青のすりガラス製なんですよ!」

 「へえ、いいわね」

 「でしょでしょ!? しかも電球が黄色だから、つけると緑色っぽい光なんです! て言うか、入った時ついてて、消したら青かったんでびっくりしたんですけど」

 「それはちょっと欲しいわね」

 「梨乃さんも!? これ欲しいねって言ってたんですよ!」

 「白い電球なら青い光になるだろうしね」

 「あ、そうですね! それもステキ!」碧の感想に藍も全面賛成で大きく頷いた。

「それで青の入浴剤だったらさらにステキじゃないですか!?」

 「きれいだろうね」

 「でしょー!? 頼んだらやってくれませんかね!?」

 「や、だから一般受けはしないって」

 「むー。あ!! じゃあバラの香りは!? ここばらの湯だし!」

 「それなら普通に売ってそうね」

 「はい…売ってます…」実際、青井家では定期的に購入している。

 「さすが藍ちゃんバラ好き!」

 「へー、藍ちゃんバラが好きなのね。そう言えば藍ちゃん家、バラが植わってたね」

 「はい…」流石は梨乃、よく見ている。まだ蕾も現れていないのだが。

 「え!? 全然気づかなかったー!」

 「棘があったからね」

 「梨乃さんスゴい! じゃあじゃあ、咲いたら藍ちゃん家でバラ見ですね!」

 「バラみって…肉みたいなんだけど」

 「はい…」

 「でもいいわね、バラ見。私も見たいわ」

 「花はほんの少しですけど…」

 「少しでも、いい匂いするでしょ?」

 「え…はい…」

 「そうなの!? 楽しみ~! でもここのバラ風呂もやってほしい~!」

 「そうね。いいわね、薔薇風呂」

 「梨乃さんもバラ入浴剤好きなんですか?」

 「や、それは使ったことないから分からないけど。じゃなくて、本物の薔薇風呂」

 「あー!」以前、碧は自分でも言っていたのだが。

「やってほしいです!」と言って藍の方を見る。

 「私も…!」

 「バラのシーズン中に一日だけ、女風呂限定のイベントっていうのはどうですか!?」

 「うん、いいわね」珍しく、実現性の低い話に梨乃が乗り気になっている。

 「当日激混み間違いなしですよ!」

 「ふふ、そうね」

 「よし、そうと決まればおばさんに提案ですね!」

 「え…」「番台の?」今度は梨乃の声に掻き消された。本気で提案するつもりなのかと驚いたが、碧なのだから本気に決まっている。

 「はい!」

 「じゃ、出たら話してみましょう」もちろん梨乃は、そんなに簡単に実施されるとは思っていないだろうが。

 「はい! うおー、やる気出てきたー! もう一回ジェットバス行ってきます!」碧はさっと立って奥へ戻っていった。

 「やる気だとジェットバスなのね…」

 「はい…」

 「私たちは隣で寝転びましょうか」

 「はい…!」まだ入っていない寝風呂は気になっている。

 「これやっぱり気持ちいいです!」浴槽の前まで行った時、碧が言った。

 「そうね。来るのが楽しみね」

 「はい! あ! だから家にお風呂あっても銭湯来るんですね!」

 「その要因の一つだよね」

 「ほかの要因は何ですか?」

 「いろいろあると思うけど。藍ちゃんだったら?」

 「え…と、湯舟が大きいのがいいです…」

 「確かに! 手足伸ばせるもんね!」

 「うん…それと…大きいと、みんなで入れるから…」我が言葉に藍は驚いた。自分の口からそんな言葉が出るとは。十日前には、他人に肌を晒すなど絶対にしたくないと思っていたのに。

 「そうだね! じゃ、最後はそこで三人一緒に入ろ!」そこ、とは一番大きな湯舟である。壁際に設置された吐出口から湯舟に湯が注がれている。

 「うん」「うん…!」多分初めて、梨乃と藍の声が重なった。

 「梨乃さん、ほかには? 要因」

 「そうねえ。フルーツ牛乳」

 「フルーツ牛乳! そんなのあるんですね!? 藍ちゃん知ってた?」

 「ううん…」コーヒー牛乳なら知っているが。

 「これが美味しいのよねー。出たら飲んでみましょう」

 「はーい!!」

 「普通の牛乳でも、瓶牛乳っておいしいよね」

 「そうですね! フルーツ牛乳もビンなんですか?」

 「うん」

 「じゃ、同時に楽しめるじゃないですか!」

 「そうだね」

 「ますます楽しみ! ね!」

 「うん…」夕食前なので控えようと思っていたのだが、どうもそうはいかないようだ。それに、フルーツ牛乳なるものには藍も興味を覚える。

 「よーし! じゃ、これ終わったら隣入って、出ましょう!」

 「はいはい」

 じきに泡が止まり、三人で大きな湯舟に入った。詰めれば六、七人くらいは入れそうな大きさだ。隅の方だけ、下から空気がポコポコと出ている。成り行きで藍はその上に座ったのだが、ほんの少しの量の空気であるにも関わらず、撫でられる感触の強いことに驚いた。

 「ここが一番熱いですね!」碧の言う通りだ。入浴剤の湯がぬるめだっただけに、かなり熱く感じる。

 「ここが元だからね」梨乃か隣の湯舟との間を仕切る壁を指差した。壁は水面より僅かに低く、故に、こちらから隣の超音波泡風呂へ湯が溢れ出ている。その向こうも同じで、最後に、寝風呂から湯が零れ落ちている。

 「源泉かけ流しってやつですか!」

 「違うと思うよ。掛け流したら水道代もの凄い金額になるんじゃない?」

 「えーと、じゃあ?」

 「こぼれた水を回収して、フィルターで濾して、殺菌してから再使用」

 「はあー、なるほどー、水を大事に使ってるんですねー。…あれ? じゃあ何で温泉はかけ流しなんですか?」

 「そりゃ温泉は放っといてもどんどん湧いてくるからでしょ」

 「あ、そっか。じゃあここも湧き水引いてくれば!」

 「うん、それなら沸かすだけでいいね。燃料代いくらくらいか分からないけど。松本は地下水豊富らしいから掘ったら水出るかもね」

 「おおー。城の周り、湧き水だらけですもんね」

 「あれも掘ったらしいよ」

 「へー! 昔からあるわけじゃないんですか」

 「みたいだね」その通りである。殆どは平成になってから掘ったものだ。

「もちろん、造り酒屋の井戸なんかは昔からあるんだろうけど」

 「蔵シック館の人も造り酒屋あるって言ってました! ね!」

 「うん…」

 「でもどこにあるのかは聞いてないんですよー」

 「女鳥羽川沿いに一軒あるよ。それと、松本インターの向こうに二軒」

 「女鳥羽川って縄手通りの横の川ですよね?」

 「うん」

 「松本インターってどこですか?」

 「渚一丁目の交差点分かる?」

 「ツルヤの横ですか?」

 「そうそう。あれを西にまっすぐ一キロくらいかな。造り酒屋はそこからさらに数百メートル」

 「自転車でも行ける範囲ですね?」

 「うん、碧ちゃんなら余裕だけど、行くの? 見せてくれるとは限らないから調べてからの方がいいよ」

 「はい!」

 「うん。じゃ、そろそろ出ましょうか」

 「はい!」「はい…」

 梨乃を先頭に、三人は風呂から上がった。

 碧は身体に付いた水滴を軽く手で拭くと、すぐにロッカーを開けてバスタオルを取り出し、髪を拭き始めたが、藍や梨乃の長さでそれをすると、それだけでバスタオルが一枚必要になるし、何より床を濡らしてしまう。二人とも軽く髪を絞ってからロッカーを開けたが、梨乃と違って藍は手際が悪い。浴室に入った時同様、脱衣所の床を踏むのも一番最後になった。

 藍がロッカーの扉を開けた時には碧は身体を拭き終わり、パンツも穿いたところだった。

 「藍ちゃん、髪の毛拭くよ」パンツ一丁の碧が言う。

 「え…ありがとう…」反射的にいいよと言いそうになったが、自分独りで拭いていたら二人を待たせる時間が延びる。そう思って有り難く申し出を受けることにした。

「あの…じゃ、すぐ体拭くから…」

 「うん」

 藍は全速で身体を拭き、下着を身に着けた。隣では、梨乃も同じ工程まで進んでいる。ただ、梨乃はタオルに髪を包んだ状態だ。

 「あの…これ…お願いします…」藍はロッカーから予備のバスタオルを出して碧に差し出した。碧が用意を忘れた時のために持ってきたものだが、予想とは違う役立ち方となった。

 「おー、準備いいね! いつも二枚使うの?」受け取ったバスタオルを広げる碧は、長袖のTシャツを着て、下はパンツのままだ。

 「ううん、今日は予備のつもりで…」

 「じゃ、先見の明ってやつだね!」

 「え…」事実は全然違うのだが、碧が忘れることを前提にしたとは言いにくい。何と言おうか迷っている間に、

 「じゃ、座って座って」籐の丸い椅子を差し出された。

 「あ、うん…」言われるままに腰を掛ける。

 「梨乃さんも! 藍ちゃんの前に座って下さい!」

 「はいはい」碧から椅子を受け取って梨乃も腰掛ける。

 「じゃ、藍ちゃん、よろしくね!」

 「うん…」梨乃の髪を拭けということだろう。梨乃が自分で拭いた方が速いかも知れないが、藍にとってはこの方が楽しくていい。

「失礼します…」タオルを解いて髪を下ろす。同時に、後ろでも碧が自分の髪を持ち上げたのを感じる。

 「ありがとう」向こうを向いたまま梨乃が言う。

 「いえ…碧ちゃん、ありがとう…」

 梨乃の髪を改めてタオルで挟んで両手で叩く。それだけですぐタオルが湿ってきた。

 それを何度も繰り返し、もう叩くだけではこれ以上吸い取れないというところまで吸った辺りで、

 「藍ちゃん、括ってくれる?」梨乃が後ろ手にゴムを差し出してきた。

 「あ、はい…」受け取って根元の方で髪を縛る。

「あの…きつくないですか?」

 「もうちょい緩い方がいいかな」

 「はい…」一㎝ほど毛先側へずらすと、

 「うん。ありがとう」

 「いえ…あの、梨乃さんドライヤー使わないんですか…?」

 「うん。今日はいいわ。有料だしね」

 「あ、そうなんですか…」先週の温泉同様無料だと思っていた。

 「銭湯は有料が標準らしいよ。安いけどね」

 「いくらですか?」碧が割って入る。

 「何分か知らないけど二十円」二分と少しである。

 「あー、確かに安いですね。で、藍ちゃんは縛らないの?」耳元に顔を近づけ碧が訊いてくる。

 「あ、お願いします…」腕を通していたゴムを外して碧に渡す。

 碧はゴムを受け取ると軽く藍の髪を引いて縛った。普段髪を縛らない藍は少し違和感と言うか窮屈さを感じるが、梨乃提供のゴムで碧が縛ってくれたのだと思うと、その窮屈さが愛おしく感じられる。

 「これぐらいでいい?」

 「うん…ありがとう…!」碧も髪を縛ることは無いはずだが、加減が上手だ。

 「ううん」

 「梨乃さんも、ありがとうございます…!」

 「うん。藍ちゃん、タオルいい?」

 「あ、はい…!」慌ててバスタオルを畳み、梨乃に渡す。今度は自分が碧から受け取ろうと振り向くと、もうバスタオルは畳まれていた。

 「ありがとう…」

 「ううん」

 「じゃ、服着て出ましょうか」

 「はい…」「はい! フルーツぎうにう~!」

 また全速力で服を着ようと意気込んだ藍だが、急ぐ剰り眼鏡を外すのを忘れて肌着の首穴の縁に眼鏡を引っ掛かけるという失敗を犯してしまった。慌てる藍。ここは急がば回れだと焦る自分に言い聞かせ、着かけた肌着を一度脱ごうとするが、今度は肌着と一緒に眼鏡が外れてしまいそうになる。さらに慌てる藍。服の中に頭が入っているため、眼鏡がどういう状態で頭に載っているのか分からない。見えないまま探ろうと両手を頭に持って行きかけた時、

 「藍ちゃん、そのままそのまま。動くと落ちちゃうよ!」碧の声がそれを止めた。待っていると、手が頭に触れる感触がして、

 「いいよ! そのまま着て~」

 「うん…」肌着の裾を引いて頭を通した藍に眼鏡が差し出される。

「ありがとう…」それを受け取りながら、藍は申し訳ない気持ちと情けない気持ちでいっぱいになった。が、とりあえずこれ以上余計な手間を掛けさせないためにブラウスを着始める。

 「ううん!」

 「藍ちゃん、そんなに慌てなくてもフルーツ牛乳は逃げないわよ」梨乃がからかうように言う。

 「いやいや、何言ってるんですか! 早く行かないとなくなっちゃいますよ!」

 「長風呂最大の原因だった人がこんなこと言ってるよ」わざとらしく藍の耳元で言い、

「二本しか残ってなかったら私と藍ちゃんで飲むからね」

 「え…」「んにゃんですとぉ~! わたしと藍ちゃんです!」

 「え…あの、梨乃さんと碧ちゃんで…」

 「藍ちゃん…いい人だ…」

 「では私と半分ずつ飲みましょう、旦那様♡」

 「あっ、ずるい!」

 「ずるくない」

 「あ…え、と…」

 「ほら、うちの奥さんが困ってるじゃないですか!」

 「うちの旦那様を困らせてるのは碧ちゃんでしょ」

 「あ…えと…」おろおろしながらもスカートを穿いているうちに、藍ははっと気づいた。これが二人の出任せ劇場であることは最初の時点から疑っていないが、それはもしかしたら自分が暗い顔をしていたからではないか。そう思うと今度は二人に対する感謝で胸がいっぱいになってきた。となると、恥ずかしいがここは自分も舞台に上がらなければ。

「あ、あの…それじゃ、一本だけ買ってみんなで飲んだら…」

 「はい♡」

 「さすが藍ちゃん! それで!」

 出任せ劇場の間に藍はスカートまで穿き終わり、靴下を残すのみとなっている。梨乃も同じだ。対して碧はまだスカートを穿いていない。出任せ劇場中、手を止めていたからだ。

 「旦那様、やっぱり先に出て二人で飲みましょうか♡」靴下に右足を通しながら梨乃が言う。

 「え…」「わー! 梨乃さんの裏切り者~!」碧はスカートのホックを留めたところだ。

 「もう、碧ちゃんは。藍ちゃんがそんなこと『はい』って言うわけないでしょ」

 「……」「ですよねー! 知ってました!」

 「『はい』って仰って下さいましたら今すぐ碧ちゃんを見捨てますけれど♡」

 「……」「ですよねー! 知ってました!」

 出任せでよくこれだけ息の合った遣り取りが出来るものだ。藍は改めて感心した。

 結局三人ほぼ同時に靴下を履き終わり、碧を先頭に脱衣所を出た。碧は、部屋の隅に設置された冷蔵庫へとまっすぐ向かう。

 「ある?」

 「これですね!?」碧が瓶を一本取り出して二人に見せた。

 「そう」

 「バッチリありますよー!」

 「そう、よかった。すみません、三本お願いします」梨乃が番台に向かって言うが、

 「あー! ダメですよう! ここはわたし達が!」碧が制止し、藍は慌ててポケットから財布を取り出した。

 「三百円ですー」番台の老婦人に言われ、

 「お願いします…」あたふたと小銭を取り出して番台に置く。

 「ありがとうございます」

 「では各方」番台と入口の間にある卓の上に瓶を置いて碧がそう言った。

 碧は立ったまま自分の前の瓶を取ってフィルムを剥がし始め、二人も倣った。フィルムの後は蓋を取り、

「カンパイしましょう!」

 「何に?」

 「えええーと…、三人でばらの湯に来れたことに!」

 「うん、いいわね」梨乃が同意し、

 藍は無言で大きく頷いた。

 「かんぱーい!」碧が瓶を前に突き出す。

 「乾杯」梨乃がそれに自分の瓶を当て、カチン、と高い音が鳴る。

 「かんぱい…」藍は乾杯というものをしたことが無いので、恥ずかしくて小声になってしまったが、瓶は同じ高い音を立てた。

 碧が豪快に瓶を持ち上げて飲む。が、一口飲んだだけで瓶を卓に置いた。

 「おいしいですね!」

 「でしょ」待合室と男風呂の脱衣所とを仕切る壁を背に、梨乃は椅子に腰掛けた。藍と碧はその向かいに座る。

 「危うく一気にゴキャゴキャっていっちゃうところでした!」

 「うん、一気飲みすると思った」梨乃の感想に藍も頷く。

 「味わわないともったいないですよう!」

 「うん、まあそうね」

 「しかしこんなものを知っているとはさすが梨乃さんオトナですなあ!」

 「いやどっちかって言うと子供の飲み物でしょ」確かに。しかし三人とも知らないことだが、子供がほぼ来ないサウナやカプセルホテルなどにも置いてあり、いい歳の大人に愛飲されている。

 「そしてやっぱり瓶はいい感触ですね!」藍も碧と同じことを思った。

 「でしょ。中身が同じでもコップよりこっちの方がおいしい気がするのよねー」

 「この厚さですかね?」

 「厚さや表面粗さを含めた形状と、材質だろうね。地味な大発明だと私は思ってる」

 「む! 確かに! しかも洗って再使用ですよ!」

 「ね。重くて嵩張る分、輸送のエネルギーはペットボトルより掛かるだろうから、どっちの方が省エネかは分からないけど」梨乃が碧の先回りをした。

 「むー、そっかー」

 「ま、仮に省エネで負けてたとしても銭湯では瓶の方がいいわ」

 「ですね!」藍も二人に全面賛成だ。

「あ! ばらの湯の由来、書いてありますね!」梨乃の背後の壁を見上げた碧が言った。藍も、薔薇の白黒写真が掛けてあることには気づいていたが、隣の説明文までは読んでいなかった。説明によると、以前は建物の前に薔薇を植えていて、そのためばらの湯を屋号としたらしい。

 「うん」梨乃の応えは短くそっけないが、梨乃が説明書きを背に座ったのは自分達にこれを見せるためだろうと藍は思った。如何にも梨乃らしい気の遣い方である。

 「けっこう立派なバラだったんですねえ。もったいない…」

 「ね」

 「藍ちゃん家のバラもこんな感じ?」

 「え…こんなに立派じゃないよ…この半分くらいかな…」と指差した写真には、幾つもの白い花が写っている。

 「色は?」

 「赤と白…」

 「両方あるの!?」

 「うん…一本ずつ…」

 「同時に咲くの?」と梨乃。

 「はい…だいたい同時に咲きます…」

 「藍ちゃんが育ててるの!?」今度は碧。

 「ううん…水はあげたりするけど、特には…」

 「そっかー。でも咲くの楽しみだね!」

 「うん…!」碧の言う通り、藍は毎年薔薇が咲くのを楽しみにしている。好きな花が薔薇なのも、幼い頃から近くで見ていることと無縁ではあるまい、と自分でもそう分析している。

 「あ! バラと言えば!」碧は立ち上がった。

 「そうね」梨乃も立ち上がる。

 自分だけ座っている訳にはいかない。藍も二人の後ろに付いた。

 「すみません!」碧が瓶を片手に番台の老婦人に話し掛けた。

 「はい」

 「あの、さっき中で話してたんですけど」

 「はい」

 「バラ風呂ってやってもらえませんか?」

 「ばら風呂」

 「はい! お湯にバラの花びら浮かべるやつです! ここ、ばらの湯だから」

 「はあ、なるほど、面白いですね。そんなこと考えたこともなかったわ」

 「ダメですか? バラの時期に一晩だけ、女風呂だけのイベントとか。入浴剤のお風呂だったら大きさもちょうどいいね、って話してたんですけど」

 「はあ、なるほど、面白いですね」と繰り返し、

「今ここでは決められないけど、検討してみますね。正直、できるかどうか分からないですけど」

 「はい! ありがとうございます!」碧は勢いよく一礼した。梨乃も軽く頭を下げ、藍も慌てて礼をする。

 「いいえー、こちらこそありがとうございます。そんなこと言ってもらったの初めてです」

 「よろしくお願いします!」碧がもう一度一礼し、

 「よろしくお願いします」梨乃も重ねて礼をした。

 「お願いします…」藍はまた慌てて頭を下げる。

 「はい」老婦人ににこやかに応えられ、三人は元の席に戻った。

 「では実現を祈って」梨乃が牛乳瓶を取って顎の高さに上げた。

 碧が素早く反応し、瓶を持って同じ高さに合わせる。

 藍も慌てて、それでも一秒ほど遅れて瓶を取った。そして、二人の牛乳瓶と同じ高さまで持ち上げた時、

「乾杯」梨乃が発声した。

 「かんぱい!」「かんぱい…」三人一緒に飲む。

 その時、男風呂の脱衣所から中年の男が一人出てきて、梨乃と碧の横を通り、冷蔵庫へ向かった。数秒後、番台へ向かうその男を梨乃が視線で示したので、梨乃同様顔を動かさず目だけで見てみると、男が持っているのもフルーツ牛乳であった。

 三人は声に出さず目だけで笑い合った。

 男はほぼ一息に飲むと、冷蔵庫の前に置かれた回収籠に瓶を置き、番台に向かって「いただきました」と言い、外へ出て行った。

 「ありがとうございました」番台からの声が男を追いかける。

 「フルーツぎうにう人気ですね!」

 「ね」

 「おいしいです…」程よい酸味でくどくない。

 「でしょ」

 「このために銭湯に来る人いそうですね!」

 「小さい子はそうかもね」

 「わたしが子供だったら毎日所望ですね! いや、今でも毎日飲みたいな」

 「碧ちゃんらしいわね」梨乃が笑って言う。言葉に、からかうような調子は全く無い。

 「はい…!」藍もそう思う。

 「こんなにおいしいのに何でスーパーには置いてないんですかねー」

 「そう言われればそうね。まあ何か理由はあるんだろうけど」

 「! お風呂業界のためにはこの方がいいかも!」

 「そうね。また来ましょう」

 「はい!」

 藍は二人の会話を聞きながらちびちびと飲んでいたのだが、二人の瓶が空になっていることに気づいて慌てた。

 「藍ちゃん、慌てなくていいよ」落ち着いた声で梨乃が言う。

 「そうそう。急いで飲んだらもったいないよ?」碧にも言われ、藍は一旦瓶を口から離した。

 「はい…」全く碧の言う通りだ。藍は焦る自分を追いやることが出来たが、それでもゆっくりとはしていられない。

 「おっと、忘れるところだった」と言って碧は財布から百五十円を出し藍の前に置いた。

 飲んでいる途中だったので返事出来なかったが、藍も財布を取り出し、そのお金を仕舞った。

 そして、味わいつつ急ぎつつ、藍はフルーツ牛乳を飲んだ。

 「あの…頂きました…」

 「いただきました!」

 「二人とも、ごちそうさま」

 「いえ、こっちこそ! ね!」

 「うん…!」

 空き瓶を三つまとめて回収籠へ持っていった後、碧は番台に向かって、

 「いただきました! また来ます!」元気よく言い、

 「ありがとうございました。お待ちしております」老婦人もにこやかに応えた。

 そして三人は、梨乃を先頭に待合を出た。

 下駄箱の錠に木札を挿す感触が心地好い。

 「わ! 外涼しい!」碧の言ったことを藍も感じた。屋内が暑いとは思わなかったが、やはり湯はそれなりの温度で、それに身体が慣れていたのだろう。

 「気持ちいいわね」自動車の鍵をリモコンで開錠しながら梨乃が言う。その音に反応したのだろう、アスランが起き上がってキョロキョロしている。

 「ちょっと前まで寒かったのに」

 「桜も散っちゃったしね。ま、朝晩冷える日はまだあるんだろうけど」

 「油断できませんね。あ! 光ってますよ!」『ばらの湯』の看板である。所謂ネオンサインだが、藍はその言葉を知らない。

 「光ってるね。はいはい、お待たせ」運転席の扉を開けて梨乃がアスランに言う。アスランは、座席と座席の間から身を乗り出し、前に移らんという勢いだ。

 梨乃に頭を撫でられたアスランの尻尾が高速で振られる。

 藍と碧は車両の左側に回り、ほぼ同時に扉を開けた。

 「はい、ごめんよ」碧は助手席で寝ていたラブの両脇を持って抱き上げてから座席に座った。藍は、それを見てから後部座席に座った。

 梨乃の方に頭を出していたアスランが後ろに戻り、お座りをする。その頭から背中を通して撫でると、尻尾を振ってから座席に寝そべった。もちろん顎を藍の腿に乗せている。また頭から尻まで撫でると、今度は気持ちよさそうに目を閉じた。

 藍はシートベルトを締めていないことに気づき、慌てて装着した。

 少し間を置いて、自動車が発進した。学校に向かい坂を上る方向だ。

 「あ、梨乃さん、今年もゴールデンウィークどこか行くんですか?」

 「うん。マルタ」先週の段階では未定とのことだったが、流石は梨乃だと藍は思った。自分だったら、そんなに色々な所へ出かけようと思わないだろう。

 「京都ですか?」

 「それは丸太町でしょ。何でそんな細かい地名知ってるの」

 「修学旅行のバスで通りました!」

 「よくそれだけで覚えてるわね」梨乃が半分感心半分呆れた調子で言うが、その感じは藍にも分かる。

 「地下鉄の駅見たの初めてだったんでインパクトが」

 「なるほどね」

 「丸田って何県ですか?」

 「ヨーロッパよ。マルタ共和国」

 「え! 外国ですか!?」驚く碧。後ろで、藍も驚いている。昨年竹原に行ったと言っていたから、今年も国内だと思っていたのだ。

 「うん。安い飛行機あったから」

 「遺跡あるんですね?」以前、梨乃は古代遺跡が在る国を旅行すると言っていた。

 「うん、古いのがいっぱい。世界遺産もけっこうあるよ。しかも国が狭いから移動が簡単みたい」

 「日本より狭いですか?」

 「日本どころか松本より狭いんじゃないかな」マルタ共和国の面積は松本市の三分の一に満たない。

 「え!?」「え…!?」そんなに狭い国が在るのか、と藍は驚いた。碧も同じだろう。実際には、世界の国々の半数以上は日本より狭いのだが。

 「そんな国もあるのね。だからバス移動でも一時間半くらいで島の端まで行けるんだって」

 「島なんですか?」

 「うん。有人島が三つと無人島。三つって言ってもうち一つはホテルが二軒あるだけで家は無いらしいけどね」

 「え!? じゃ、巨大な密室じゃないですか!」碧が梨乃の方へ身を寄せる。

 「密室好きねえ。地図で見た限りでは、隣の島まで泳いで行けそうだったけど」

 「じゃ、暴風雨の日ですね!」

 「何が何でも密室にしたいのね」

 「その島に泊まりますか!?」

 「ううん、ちょっとお高いから」

 「残念。殺人事件に巻き込まれてほしかったのに」心底残念そうに碧が言う。

 「物騒ね」

 「そしたらリセエンヌ探偵の出番だったのに」

 「どこに出番があるの」

 「梨乃さんとケータイでやり取りして、松本にいながらマルタの事件を解決するんです!」

 「うーん、まあ、理屈的には可能だけど」

 「でしょ! 理詰めの藍、閃きの碧が解決しますよ!」と碧は言うが、自分達に解決出来る事件なら梨乃が現場で解決してしまう、と藍は思う。

 「その時はお願いするわ」梨乃は付き合いがいい。

 「らじゃ! 報酬は体で払ってくれればいいです!」

 「セクハラ探偵ね」

 「お! いいですね、それ! セクハラ探偵梨乃! 映画一本できますよ!」

 「何で私なの」

 「セクシーなお(なか)の探偵」

 「何そのフェチ」

 「でも梨乃さんはやっぱり胸ですね!」

 「いや胸はいいから」

 「藍ちゃんはどこが好き?」

 「え…!?」急に話を振られて藍は慌てた。

 「梨乃さんの体で」

 「続セクハラ探偵」

 「え…と、首と肩が綺麗だなって…髪洗ってる時に…」

 「もう…藍ちゃんまで」梨乃の声は、碧に対する時よりは優しい。

 「ほほう。また今度じっくり堪能させてもらいますかな」

 「続々セクハラ探偵」

 「今気づいたんですけど」

 「うん」

 「梨乃さん、藍ちゃんには優しいのにわたしにはツンツンですよ!」

 「そりゃあ藍ちゃんは旦那様だもの」

 「うっ…!」

 「うちは亭主関白だから」

 「うう…!」

 「嫁に厳しく旦那に優しく」

 「何ですか、その前時代的な夫婦!」

 「碧ちゃんもそうすればいいじゃない?」

 「ム、無理です…」

 「亭主関白でも嫁帝だもんね」

 「そ、その通りでございます…」

 「……え……」帝が自分のことだと気づくまでに二秒ほど掛かった。

 「と言うか、亭主舎人」

 「え……」関白からもの凄い降格である。

 「そ、その通りでございます…」

 「という訳でセクハラ舎人に罰を、帝」

 「え…!?」また自分に振られるとは思っていなかった。

「あ……え……と……、あの、お咎めなしではだめですか…?」

 「帝がそう仰るなら」

 「お、おお…後光が…!」碧が藍の方に振り向いて手を合わせる。

 「では舎人、以後セクハラには及ぶでない」厳かな調子で梨乃が言い、

 「ははーっ!」伸ばした両手を前に差し出しながら下を向いて碧はそう返事したが、

 「返事はいいけどまたやるパターンね」梨乃が普段の調子で言い、

 「でへへへへ」碧の声は間違い無く改心していなかった。

「何日間ですか? マルタ」

 「現地八日かな。ほぼ遺跡巡りだけど、乗馬と競馬も行けたら行くつもり」

 「え!? 梨乃さんレースに出るんですか!?」

 「そんな訳ないでしょ。観戦。夜やってれば、だけどね」

 「ウェブサイトとかないんですか?」

 「あると思うけど、何でもかんでも調べてから行ったら楽しくないからね。詳しく調べるのはどうしても行きたいところだけ」

 「おぉー、分かりますそれ! 今回調べたところはあるんですか?」

 「あるよ。調べたというか、事前に申し込みをしとかないと入れない遺跡があるから、それだけはね」

 「すっごい古いんですか?」

 「古いし、場所が特殊なの」

 「とは!?」碧は興味津々の様子だが、藍もそうだ。

 「地下。人数制限の理由は知らないけど」

 「カッパドキアみたいなやつですか!?」

 「そんな大規模じゃないと思うけど、まあ見てからレポートするわ」

 「お願いします! どんなのか楽しみだね!」

 「うん…!」どのような遺跡なのか藍には想像もつかない。

 気付くと、いつの間にか自動車は渚駅へと向かう線路沿いの道を走っており、その一分半ほど後には、もう青井邸前に着いていた。

 「ありがとうございました…!」

 「ううん。またね」

 「はい…!」

 「また明日!」

 「うん…!」

 先週と同じように、自動車が見えなくなるまで見送ってから、藍は家に向かった。これから、両親に頼まなければならないことが複数有る。




附 作中における虚実の説明


 現実世界についての説明は、個別に記述していない限り、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。

 作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。


 ダブリンで小泉八雲が住んでいた家

 実在します。The Townhouseという宿になっています。梨乃が撮った写真は、現実世界の平成二十一(西暦二○○九)年の年始頃の様子と同じです。

 作中では、この状態が保たれています。

梨乃が本を買った本屋

 実在します。Hill of Taraの近くにあるThe Old Bookshopです。

The Dublin Ghostbus Tour

 実在します。梨乃が語ったのは、平成二十一年年始頃のツアー内容と同じです。

梨乃が行ったダブリンの劇場

 実在します。The Gaiety Theatreです。

Galway駅

 実在します。

梨乃が乗ったバスツアー

 実在します。Galway Bus Toursです。

ばらの湯

  (令和三年五月二十一日追記)

   実在しました。残念ながら令和三年五月十七日を以て閉店したそうです。

  (以下、元の記述)

 実在しますが、平成三十年一月頃より薬湯は停止しています。

フルーツ牛乳

 実在しますが、平成三十一年四月、瓶入りのものは生産が中止されました。

 作中では、ずっと瓶入りが存在しています。

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