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リセエンヌ  作者: 松本龍介
30/62

緑装具1(/2)

緑装具


 翌日。藍は午前中を読書と勉強、そして昼食作りの手伝いに費やした後、両親と昼食を摂り、出掛ける準備に取り掛かった。

 準備と言っても大したことではない。昨夜作って寝かせておいたレアチーズを冷蔵庫から取り出して保温容器の蓋を閉め、使い捨てコップとスプーンを添えて手提げに入れる。バスタオル二枚と着替えを厚手のポリプロピレン袋に詰める。そしてそれらを紙袋に入れて一元化する。以上である。

 十二時三十五分にこれを終えた藍は、門の前で梨乃を待つことにし、家を出た。

 門を開けると同時に踏切の方から高辻家の自動車がやって来るのが見え、十秒後には藍の目の前に停止していた。碧といい梨乃といい、自分の行動を遠隔監視でもしているのかと思うほどのタイミングである。

 助手席の扉を開けようとした時、座席の上で先客が丸くなっているのが開いた窓越しに見えた。

 「あー、ごめんねー、動かすとうるさいから後ろに座ってー」

 「あ、はい…」藍にとっては後部座席の方が違和感が無い。両親と乗る時も、藍は後部左側が指定席だ。

 後ろの席にはアスランが座り、運転席と助手席の間から顔を出している。

 そのアスランに目で挨拶し、藍は後ろの扉を開けて中に入った。

 藍が座るや否やアスランが顎を腿に乗せてくる。紙袋を足元に置きながら、

 「お願いします…」と言うと、

 「うん」助手席の窓を閉じながら自動車が動き始めた。

「昨日色々回ったんだって?」

 「あ、はい…orangeに出てくるところを…」

 「で、あがたの森も行ったのね?」

 「はい…」

 「あの校舎なかなか素敵だよね」

 「はい…昔の学校ってあんな風だったんですね…」

 「ねー。文化財を現役で使うという」

 「あ…! そうですね…」言われるまで気付いていなかった。

 「殺人事件とか起きそうな雰囲気だよね」

 「碧ちゃんも同じこと言ってました…」

 「やっぱり? 『松本を嵐が襲った夜、校舎に女の叫び声が響く。駆けつけた皆が見たのは、玄関ホールに倒れ血を流す女生徒だった』とか」

 「そんな感じです…」創作した話の内容は違うが、語りの口調が碧とよく似ているので、藍は吹き出してしまった。梨乃はかなり正確に碧のことを把握しているようだ。

 「そんなに似てた?」

 「はい…!」

 「よし、では後で語ってもらうとしましょう」

 「はい…」

 「蔵シック館はどうだった? 私入ったことないのよね」

 「え…と、古い建物なんですけど、中の部屋はリフォームしてあって、会議室として借りられるらしいです…」

 「へえ」

 「でもその建物は蔵じゃなくて母屋だったんだそうです…」

 「『蔵シック館』なのに?」

 「はい…隣の喫茶店は蔵を改装したそうです…」

 「あー、そっちが蔵なのね。扉がいかにもだもんね」見たことは有るらしい。

 「はい…すごく分厚くてびっくりしました…」

 「重くて開けられなさそう?」

 「はい…」冗談や誇張ではなく、本当に開けられないだろうと藍は思う。

 「閉じ籠められたら大変だね」

 「はい…!」

 「縄手通りは? 何か買った?」

 「いえ…話に夢中になっちゃって…店の前を往復しただけでした…」

 「それはおトクだったわね」梨乃が如何にも愉快そうに言うので、

 「はい…」藍も本当に得したような気がしてきた。

「あ、それと上土通りで映画館があったところを探しました…」

 「碧ちゃん映画好きだもんね」

 「はい…」

 「まだ一軒現役だよね。今は劇場だけど」

 「はい…行ったことあるんですか…?」

 「ううん、前通っただけ。演劇のポスター貼ってあったし、日にちが未来の日付だったからね」

 「あ、なるほど…」

 「スクリーン一つとか二つの映画館がいっぱいあったって、何か不思議だよね」

 「はい…」

 「変な話だけど、駅前の方にはエロい映画やってる映画館とかもあったらしいし」

 「そうなんですか…」その画像を見た訳でなく、想像すらしていないのに藍は赤面し、声も少し震えた。

 「らしいよ。で? 上土の次は?」

 「あ、はい…縄手通りに戻って、碧ちゃんが細い道行ってみたいってそっちへ…」

 「碧ちゃんらしいね」

 「はい…」

 「でもその道が最後階段になってて、登ったらホテルの前でした…」

 「花月?」

 「あ、はい…」そんな名前の看板が出ていたように思う。

 「それからその向かいの喫茶店に入って…」

 「喫茶店あったっけ?」

 「はい…想雲堂っていう名前で…喫茶店と古本屋を同時にやってる店でした…」

 「喫茶店だけど店内に古本が置いてあるってこと?」

 「はい…」

 「それは面白いね」

 「はい…初めて見ました…」

 「本屋の中に喫茶店があるってのはあるけどね」

 「え…そうなんですか…?」それも素敵だ。

 「うん。私のバイト先の西側にあるよ。買ってすぐお茶飲みながら読めるのっていいよね」

 「はい…!」

 「学校の図書室にもお茶置いてくれたらいいのにって思ったわ」図書室という単語で訊きたかったことを思い出した。

 「あ…、梨乃さん、テトラグラマトンって何ですか…? 借りた本に載ってたんですけど、よく分からなくて…」

 「ボルヘス?」急に話題が変わったにも関わらず、梨乃の反応は素早かった。

 「あ、はい…」

 「もしかして、学校の図書室で借りた?」

 「あ、はい…」

 「私も学校で借りたわー」

 「え…そうなんですか…?」

 「うん。貸し出し履歴見てみて」

 「はい…!」

 「テトラグラマトンはギリシャ語で『四文字』か『四文字の』。名詞か形容詞かは分からないわー。テトラが四なのは間違いないと思う」

 「じゃ、テトラポッドって…」昨日の碧の言葉を思い出す。

 「突起が四つだからだろうね。突起の頂点結ぶと正四面体だし」

 「……?」

 「幾何学(イコール)ギリシャみたいなイメージあるじゃない?」

 「あ、はい…」

 「単位にもギリシャ語使われてるしね」

 「何の単位ですか…?」

 「デカとかキロとかメガとか、デシとかセンチとかミリとか」

 「ギリシャ語なんですね…」

 「うん。キロとか厳密にはギリシャ語そのままじゃないけど。メガは単に『大きい』って意味もあるよ」

 「へえ…」

 「アレクサンドロス知ってるでしょ?」

 「アレキサンダー大王ですか…?」名前は聞いたことが有る。

 「うん。その大王、ギリシャ語ではメガス・アレクサンドロスって言うんだって」

 「『大』王なんですね…」

 「ね。で、直訳では『四文字』なんだけど、それが何のことかっていうと」

 「はい…」

 「神の名前。ユダヤ教とかキリスト教の」

 「『四文字』っていう名前なんですか…?」

 「ではないんだけど。ヤハウェって聞いたことない?」

 「はい…」

 「それが神の名前。で、それをヘブライ語で書くと四文字なの。無理矢理英語のアルファベットに直すとYHWH」

 「へぶらいごって何ですか…?」

 「旧約聖書の時代のその地方の言葉。現代のイスラエルでも使ってるけど、それは現代ヘブライ語って言ってるね。何がどう違うのか知らないけど」

 「初めて聞きました…」

 「まあそれが普通じゃない? 大人でも知らない人はけっこういると思うよ」

 「…じゃあ、神様の名前を指してテトラグラマトンって言ってるんですね…」

 「うん。それと多分、神自身のこともね。回りくどいよね」

 「はい…」

 「でもね、それけっこう普通のことだと思うよ。藍ちゃんたちの担任贄先生だっけ?」

 「あ、はい…」

 「呼び掛ける時、何て言う?」

 「先生……あ!」

 「うん。人間同士でもそれなんだから、教徒からすると神様の名前を呼ぶのは畏れ多いよね、きっと。だから称号で呼んでるの。『主』とか『神』とか。他にも色々あるんだろうけど」

 「はい…」

 「その称号の一つがテトラグラマトンなんじゃないかな」

 「あ、なるほど…!」腑に落ちた。

 「随分凝ったと言うか捻った称号だけどねー」

「そうですね…ありがとうございます…!」

 「あくまでも私の推測だからね。間違ってるかも知れないし、全部鵜呑みにするのはダメだよ」

 「はい…」

 「お、あれ碧ちゃんかな?」

 「え…」

 梨乃との会話に夢中になっていたため、自動車に乗り込んでからどこをどう通って行ったのか全く見ておらず、気付いたら相生邸近くの信号を通過していた。梨乃のことであるから、もしかするとちょうどその辺りで話が終わるように調整したのかも知れない。

 「碧ちゃんの家の前」見てみると、確かに碧らしき人物が立って、こちらとは反対方向を見ている。

 その人物がこちらを向き、すぐ頭上で大きく両手を振る。間違いなく碧だ。

 梨乃が運転席の窓を開けた。四月の爽やかな風が藍の面貌と髪を撫でる。アスランが起き上がり、梨乃の頭と車体の間に鼻を捻じ込むが、

 「アス! Down !」梨乃に叱られ、藍の膝に戻ってきた。

 「風気持ちいいもんね」その頭を撫でながら藍が呟くと、アスランは耳をぴくりと動かして応えた。

 「梨乃さん、中入って下さい!」碧の楽しげな声が後部座席にも届いた。

 梨乃は子細を尋ねることなく碧の誘導に従い、相生家の敷地に乗り入れ、玄関前に自動車を停めた。途端にアスランが起き上がり、ずっと寝ていたラブまで身を起こした。

 「クロ見せたいんで、家の中まで来て下さい!」

 「うん」梨乃がシートベルトを解除したので藍も倣い、車外に出た。アスランが足取り軽くついてくる。連れていっていいものかと一瞬悩んだが、駄目ならば碧か梨乃のどちらかがそう言うだろうと思い、そのままにした。

 「こんにちは…!」藍が挨拶すると、

 「こんにちは! って何か違和感あるね!」

 「うん…」挨拶しながら藍もそれを感じた。碧に対してこんにちはと言ったのは初めてではないだろうか。

 置いて行かれたラブが運転席の窓から顔を出したと思ったら、扉によじ登って飛び降りた。

 「ラブ子ムダに能力高いなあ」碧が呆れ加減で言うが、ラブは何事も無かったかのように碧の足元へ歩いていった。

 「でしょ」梨乃も呆れ顔だが、当のラブは得意顔である。

「この子たちも一緒でいいの?」

 「はい! ワンコローズにも会わせたいんで!」

 「そう。よかったわね」梨乃がワンコローズに向かって言う。

 「じゃ、来て下さい来て下さい!」

 碧の後ろについて相生邸に入る。順番は、碧、ラブ、梨乃、アスラン、藍だ。

 藍が玄関の扉を閉めた時、碧はもう靴を脱いで廊下に上がっていた。

 その後について行こうとしたラブの首輪を梨乃が握る。ラブは二、三歩分じたばたしてから大人しくなった。

 「クロ連れて来るんでちょっと待ってて下さいね!」

 「うん」「うん…」

 碧は廊下の突き当たりにある扉の向こうへと消えていき、十数秒で再び姿を現した。左腕に黒猫を抱えている。

 「相生クロ秀だニゃ。撫でるがいいニゃ」碧は、クロの両脇を両手で支えて梨乃の前にぶら下げた。

 梨乃はクロの頭をぐりぐりと撫でる。

 「おー、いい撫で心地ねー」

 「でしょー!? 町内一の撫で心地です! 藍ちゃんもさわってさわって!」

 「うん…!」

 頭から背中まで通して撫でてみる。まるでベルベットのような感触だ。しかも温かい。

「すごく滑らかだね…! 気持ちいい…!」碧が自慢するだけのことはある。

 「でしょでしょ! よーし次はラブ子だ。おばちゃん、よろしくニゃ」ラブの鼻先にクロを持っていく。

 「誰がババアじゃ」

 「ババア言ってないニゃー!」

 ラブはクロの腹を鼻で押した。クロは為すがままにされている。

 「クロ大人しいね…」碧の話から、暴れん坊を想像していたのだが、拍子抜けである。

 「知らない人が来てるからかな? 最後はアっちゃんだ! おじちゃんもよろしくニゃー」

 アスランの前にクロをぶら下げる。と、

「およよ」急にクロが暴れだし、碧の手から抜け出してアスランの前に着地すると、アスランの左前脚に顔を擦り付け始めた。

 アスランも頭を下げてクロの首を甘噛みする。

 「アっちゃん、さすがの人徳だ! あっという間にクロを手なづけるとは!」

 「…碧ちゃん、クロ紹介した人の名前分かる?」

 「えーと、お母さんなら。ちょっと待ってて下さい!」

 碧は再び扉の向こうに消え、今度は母親を伴って戻ってきた。碧が言っていた通り、碧とはあまり似ていない。背は藍より少し高いくらいだし、体型もふっくらとしている。太っているという程ではなく、年相応の肉付きだ。

 「お邪魔してます、高辻です」

 「お邪魔してます…青井です…」

 「梨乃さんと藍ちゃんね? 碧がいつもお世話になってます」母親は軽く頭を下げた。

 「こちらこそ」「いえ…こちらこそ…」梨乃は普段通りに挨拶したが、藍は恐縮し、ただでさえ小さい声がさらに弱々しくなった。

「あの、変なことを伺いますが、クロちゃんを紹介した人、(ふり)(はた)()()()さんって方ではありませんか?」

 「ええ、そうですけど」確かに変なことを訊く、といった表情である。

 「あ…!」分かった。そういうことだったのか。

 「え、何なに!?」碧はまだ気づいていないらしい。

 「梨乃さんに黒猫預けた人がその降旗さんなんですね…!」

 「えー!? じゃあクロ梨乃さん家にお世話になってたってこと!?」

 「状況証拠はそう言ってるわね。時期も同じ、紹介した人の名前も同じ、二匹(ふたり)の仕草も同じ」

 「間違いないですね! このなつき方普通じゃないですもん。そっかー、アっちゃんの方が先にクロに会ってたのかー」碧がその二匹を見る。いつの間にかアスランが床に伏せ、その頭の上にクロが自分の頭を乗せてすりすりしている。ラブは手持ち無沙汰なようで、座って後ろ足で頭を掻いている。

 「大体分かったけど一応説明ヲ求ム」碧の母親が会話に戻ってきた。

 「えーと、一年ぐらい前に、生後二週間の黒猫を梨乃さんが降旗さんから預かってー、その間そこのシェパードのアスランが黒猫の面倒見てて、黒猫がすんごいなついてたんだって!」

 「そういうことね。じゃ間違いないんじゃない?」

 「うん」

 「いやいやびっくりだわー。お父さん達に話してくる」あまりびっくりしていない口調で言って、母親は扉の向こうへと戻っていった。

 「ホントびっくりです!」碧はしばらくクロとアスランを眺めてから、

「ちょっとかわいそうだけど」と言ってクロを抱き上げ、

「くら、暴れんな! またアっちゃんに来てもらお!」逃れてアスランの許へ向かおうとするクロをしっかり持ち、奥の扉へと向かった。

 アスランはアスランで、立ち上がって寂しそうに碧の後ろ姿を見送る。

 「だって。また来よ」梨乃に頭を撫でられて、その場に座った。

 藍は無言でその頭を撫でる。するとラブがやって来て、自分も撫でろと鼻先で要求するので、藍はしゃがみこみ両手で二匹を撫でた。

 「お待たせしました! 行きましょー!」一頻り撫でた頃、碧が玄関に戻ってきた。そして、立ち止まらずに靴を履き、玄関の扉を大きく開いて外に出る。ラブがその後を追った。

 扉が閉まろうとするのを碧が身体で押さえる。

 「お邪魔しました」それを見て梨乃がすっと外に出、さらにそれを見てアスランが立ち上がった。

 それから藍が立ち上がってアスランを先に出させ、

「お邪魔しました…」奥に向かって軽く一礼し外に出た。

 扉を押さえていた碧が隣に並んできたが、自動車は目の前だ。碧が助手席の扉を開いてラブを乗り込ませている間に、藍は後部座席に座った。ほぼ同時にアスランも反対側から乗り込んでくる。腿に乗せられた頭を藍は半ば自動的に撫でた。

 すぐに碧も入ってくると思ったのだが、ラブが乗っただけで助手席の扉が閉まった。碧が藍の横を通り過ぎ、藍は体の向きを変えて碧を見た。

 碧はそのまま自動車の後ろの方へ歩いて行き、相生家の敷地から出た辺りでこちらの方を振り向いた。

 碧が両手で大きく頭上に輪を作り、梨乃が自動車を後退させ始める。ここで漸く藍は碧の意図を理解した。

 自動車はゆっくりと敷地から出ると、碧の誘導に従って向きを変え、道路の方を向いた。相生邸と道路の間には空地があり、そこを利用したのだ。

 一仕事終えた碧が助手席側の扉を開け、

 「はいラブ子さんどいてどいて~」ラブを持ち上げて自分が助手席に座り、

「うわ、ぬくっ!」と言ってラブを足元に置いて扉を閉めた。

 「温めておいたのじゃ、殿」ラブ用の声音を使いながら、梨乃が自動車を発進させる。

 「いやそれサルでしょ! いやいやそれより温めなくていいから! 冬じゃないし。眠くなるでしょ!」碧はシートベルトを締めた。

 「乗ーせーるーのーじゃー」梨乃がラブ声を続ける。藍からは見えないが、またラブが膝に乗せろと要求しているのだろう。

 「余計眠くなる!」と言いつつも抱き上げ、膝の上に置いた。すぐ丸くなるのかと思われたが、

「おりょ、ラブ子寝るんじゃないのか」碧の声に、何事かと思って覗いてみると、ラブが立ち上がって窓ガラスに前足でもたれていた。

 「窓開けてほしいのかな」梨乃が呟き、助手席の窓硝子が下がっていく。押し当てたラブの前足も下がっていき、それにつれて尻が後ろに出る。窓硝子が下がりきる少し前、ラブはその姿勢に耐え切れなくなって後ろに転がった。放っておけば転がって梨乃の腿に頭が着いただろうが、その前に碧が右手で支えた。

 「ラブ子、面白かったぞ!」と言いながらラブを元に戻す。ラブは何事もなかったかのように碧の左腿に乗り、今度は扉の縁に前足を置いて顔を外に出した。そのすまし方が可笑しく、藍は小さく噴き出してしまった。

 その直後、急にアスランが起き上がり、先程と同じように梨乃の頭と車体の間に鼻を捻じ込んだ。

「分かった分かった」梨乃が言い、今度は右後の窓硝子が下がり始めた。アスランは下がりきるのを待ち切れず、隙間に鼻を入れる。

 ラブの時とは違い、頭が全部出たところで窓硝子は止まった。

 「全部開けてあげないんですか?」

 「足が通ったら外に出ちゃうかも知れないからね。この子前科者だから」

 「大丈夫だったんですか…?」

 「駐車場で徐行中だったから怪我はなかったよ」

 「よかった…」藍は右腕を伸ばしてアスランの背中を撫でた。頭を外に出しながら、尻尾が左右に動く。

 「でも後ろの車止めたり、歩いてる人ビビらせたり、周りに迷惑かけちゃったからね」

 「あ……」それはよろしくない。

 「意外ですね。アっちゃんおとなしそうなのに」碧が振り向いて会話に加わってきた。

 「たまーになっちゃうんだけど、いつも突然だから油断できないんだよね」

 「それはまた…ラブ子とは違う油断できなさですね」

 「うん」

 「でも、ヒャッハー!!てなってるアっちゃん見てみたいな」

 「うん…!」

 「サッカーに乱入してる時がそんな感じかな」

 「あー」「ああ…」二人の声が揃った。

 「ボール好きだからそれだけで盛り上がるけど、あの子たちの中に乱入しに行く時は一際だね」

 「大人気でしたもんね」

 「アスランもあの子たちには心を許してるみたいだから、可愛がってくれるのは嬉しいわ」

 「ラブ子の人気がイマイチなのが残念です」

 「ラブもそれなりに可愛がってくれてるんだけどねー。ま、男の子はかっこいいのが好きだから」

 「中学生男子にはラブ子の味は分かんないですかねー」

 「そうねえ、少数派だろうね。二枚目が好きか三枚目が好きか、って話だから」その区分があまりにしっくり合い過ぎて、藍はふふっと笑ってしまった。

 「ですねえ。前から疑問だったんですけど、一枚目って言いませんよね? 何でですか?」梨乃が何でも知っている前提で碧は質問しているようだ、と藍は思ったが、自分も同じだとすぐ気づいた。

 「さあ。でも一枚看板って言葉は一般でも使うよ」

 「看板?」

 「歌舞伎の役者の名前書いてる看板。立看板になっててめくっていくやつ、知らない?」

 「えーと、落語なら」

 「うん、構造は同じだよ。その名前の順が、一枚目は主役、二枚目が男前、三枚目が剽軽者」

 「おー、なるほどー! だから二枚目っていうんだ! 何枚目まであるんですか?」

 「普通八枚」

 「四枚目以降は?」

 「四枚目は覚えてないけど、五枚目から七枚目が悪役で、八枚目は座長」四枚目は中堅の役者で地味な役のことが多い。

 「悪役も三枚いるんですね」

 「ね。まあ、いないと話にならないから、悪役大事だよね」

 「あ、そうですよね」

 「それに悪役って演技上手なベテランがやってそうだし」

 「そうなんですか?」

 「年齢は関係薄いかも知れないけど、演技力は絶対必要だよね」

 「そうなんですか?」

 「悪役になりきるのって難しいと思うよ。嫌われよう嫌われようって努力なんかしないもんね、普段」

 「あー。そう言えば、武士の一分の悪役めちゃめちゃイヤなヤツだったんですけど、歌舞伎の名優なんだって聞きました」

 「あれは悪い奴だったねー」

 「梨乃さんも観ました!? 奥さんはめちゃめちゃ可愛くていい人でしたねー」

 「藍ちゃんみたいな感じの人だったよね」

 「え…」「あー! 私が言おうと思ってたのにー!」藍の声は碧の叫びに掻き消され、驚いたアスランが窓の隙間から頭を抜いて碧の方を見た。

 武士の一分を知らないので詳しいことは分からないが、どうやらまたしても過大評価されているようである。藍は後部座席で一人恐縮した。

 特に問題無しと判断したのだろう、アスランがまた窓の外に顔を出す。それを見て、ラブはどのような状態で外を見ているのかと気になり、藍は運転席と助手席の間から覗いてみた。

 そのラブは、座席の上に後ろ足で立って前足を扉に掛け、顔の前半分くらいが車体の外に出ているという姿勢だった。碧が軽く脚を開いてラブの足場を確保している。先程は腿に乗せていたが、こちらの方が楽だと判断したのだろう。

 「ラブも外好きなんですか…?」

 「そうだね、好きだと思うよ。でも寝るのも好き」

 「気分次第ですか…?」

 「うん、多分ね」

 「ラブ子らしいです!」碧の言葉に、藍も頷いた。

「でも腰が悪くなりそうですね」

 「たまのことだから大丈夫だと思うけど」

 「立ってると腰が悪くなるの…?」

 「て聞いたよー。明らかに普段の姿勢ではないもんね」

 「あ、そうだね…」

 「柴くらいならまだいいけど、大型犬とダックスは負担が大きいからさせない方がいいわね」

 「ダックス負担掛かりそうですね!」

 「飼ってる人から聞いたんだけど、階段の昇り降りもさせないんだって」

 「あー。胴長いから無理ありますよねー」

 「その点猫は体柔らかいからいいよね」

 「ですね! でも柔らかいもんだから色んな所に入り込んで大変です」

 「狭いところ好きだもんね」

 「そうなの…?」

 「うん。隙間大好き。パソコン机のパソコン置いてある横とか、本棚の本と棚板の間とか、ソファのクッションとクッションの継ぎ目とか」最後のは最早隙間ではないと藍は思うが、そんな所に身体を捻じ込んでしまうほど狭い所が好きだということだろう。

「そんなんだから閉じこめ事件も多発」

 「どこに閉じ込めちゃったの…?」

 「毎回違うんだよねー。風呂場、トイレ、押し入れ、クローゼット、下駄箱、たんす、洗濯機、ボストンバッグ、一番びっくりしたのは私の学校かばんに入ってたことかな。朝持ってこうとしたら妙に重いから開けたら中で寝てるんだよ!」

 「そのまま連れてってたら面白かったね」

 「今なら面白いで済みそうですけど、中学の時だったんで」碧の言う通り、今の学校ならば猫が一匹教室にいても「カワイイ~!」で済みそうな雰囲気が有る。藍にはそれが良いことなのかどうか分からないが。

 「大事件になるとこだったのね」

 「なってたらわたし松高に入れなかったかも」

 「内申?」

 「はい。成績ギリギリだったし、試験も多分ギリギリでした」

 「じゃあ見つかってよかったね」

 「はい! 落ちてたら灰色の高校生活でした!」もしそうだったら灰色だったのは自分だと藍は思う。碧ならどこでも楽しく過ごせそうだが、自分は違う。実際、入学するまでこのような毎日になるとは思ってもみなかった。中学時代が苦痛だった訳ではなく、時々楽しいことがある穏やかな一日の繰り返しだったのだが、高校入学からこっち、穏やかが半減した代わりに楽しいが数十倍に増えた。どちらがいいかと問われれば、断然、圧倒的に今である。

 「藍ちゃんとも出会ってないだろうしね」

 「そうなんですよ! 梨乃さんとも会えてなかったかも知れないし、会ってても話続かなかったかも知れないし。って考えるとあの朝が人生最大の分岐点…かばんが重いと思ったわたしエラい!」これを自画自賛と言うべきなのかどうかはともかく、言っている内容には全面賛成だ。藍は大きく二度頷いた。

 「話戻るけど、洗濯機に閉じ込めちゃったの?」

 「はい。クロ的にはあれが猫生(じんせい)最大の危機でしたね!」

 「……」梨乃が無言で先を促す。

 「あれはよく晴れた秋の日曜日のこと…相生(あきら)当時39歳は洗濯機のスタートボタンを押し、脱衣所を離れようとしたところだった。かすかに聞こえるニゃーニゃーという呼び声」

「こりゃまたどこかにはまったか閉じこめられたなと思った晶は、戻って風呂場の扉を開け浴槽の中まで確かめるが、猫の子一匹いない」

「それもそのはず、猫の子は洗濯機の中の洗濯物の間にいたからである。頭上から注がれる水が洗濯物に染み入って少しずつクロを濡らしていき、同時に足元からも水が迫る」

「クロは助けてくれと声をあげるが、洗濯機の蓋は開かない。後ろ足が直接水に浸かった時、クロは叫び声をあげた」

「『ギニゃー!!』」その声が予測を遥かに上回る大声だったので、藍は後部座席でビクンと身体を震わせた。アスランだけでなく、ラブも振り向いた。もし歩行者が近くにいたら、その人までが何事かと驚いたに違い無い。

「幸運なるかな、恐怖の叫びは晶の耳にはっきりと届き、ようやく事態を理解した晶がまずスタートボタンを押して水を止め、蓋を開けて洗濯物の中からクロを救出した」

「というわけなんですよー」

 「講談師になれそうね」梨乃の感想は話の内容に対するものではなかった。

 「はい…」

 「実際のところは、どうやってクロが洗濯機の中に入り込んだのか分からないんですよねー。洗剤を取るためにかがんだ、まさに一瞬の隙に飛び込んだとしか」

 「さすが猫ね」

 「はい」

 「クロ大丈夫だったの…? 洗剤も入ってたんだよね…?」

 「頭は沈んでなかったから大丈夫だったよ。ついでにわたしが呼ばれてお風呂でクロ洗ったんだけど、めっちゃシャワーに怯えてたー」

 「洗濯機の中で怖い思いしたんだね…」

 「あれから脱衣所には入らなくなったねー」

 「懲りたならよかったんじゃない?」

 「はい! あと危険なのは電子レンジですけど、自分で扉閉めることはできないからまあ大丈夫ですね」

 「電子レンジの中入るの…?」衛生上も問題だと藍は思う。

 「クロにとってはただの箱なんだろね」

 「猫は猫でなかなか大変ね」

 「クロが特別行儀悪いのか、みんなあんなもんなのかわからないですけど。あ、でも散歩には行かなくていいですね」

 「そこは犬より楽ね」

 「面倒ですか?」

 「そんなことないけど、学校の都合で帰れない時もあるからねー」

 「あー」

 「本当は一日四、五時間散歩しないといけないらしいんだけど」

 「え!? そんなに!?」

 「ジャーマンはね。ドイツなんか、法律で一日何時間以上とかって決まってるらしいよ」

 「ひゃー! あ、もうあがたの森」今、自動車は赤信号に止められているのだが、道の向こうに旧制松本高校の建物が見える。

 「奥の駐車場に入るから、あと百メートルくらいかな」アスランが出していた頭を引っ込めた。降りる態勢に入ったのだろう。ラブはどうかと見てみると、まだ前足を扉に置いて外を見ている。

「でね、飼い主の義務が重い代わりに、大体の場所は犬連れで入れるんだって」

 「あー、それはいいですねー。ワンコローズ連れて電車乗ってみたい!」碧の言葉に藍も大きく頷く。もっと言うなら、学校にも連れて行けたらいいのに、と思う。

「日本ではダメなんですか?」

 「なかなかないねー。公共交通機関はほぼ全滅。ドッグカフェ以外だと、オープンカフェの外の席とかがぎりぎりセーフかな」

 「夏暑く冬寒いですね」

 「犬的には寒い方はまだいいけど、夏は辛いだろうね」

 「そうなんですか?」

 「犬にはエックリン汗腺ていう汗腺がほとんどなくて、人間みたいに汗かけないからね」肉球や鼻にはその汗腺が存在するらしいが、面積が小さいので放熱機能としては無いに等しい。

 「そうなんですか。知らなかったー」藍も頷く。藍は、犬猫に関しては全くと言っていいほど知識が無い。

「梨乃さん、猫は?」

 「猫も」

 「おおー」

 「はい、到着」駐車場で自動車を停止させ、梨乃は下りていた窓を上げる操作をした。ラブは碧の右腕に抱えられ後ろ足を前方に投げ出した状態で碧の腿の上に座っている。遠目に見ると、碧がぬいぐるみを抱えているように見えるかも知れない。

 「ありがとうございましたー!」「ありがとうございました…」二人の声が揃う。

 シートベルトを外し、手提げを掴み、扉を開けて外に出ると、間髪入れずにアスランも降りてきた。碧はラブを抱えたまま、藍より先に出ている。

 「梨乃さん、リード後ろですか?」

 「うん、ありがとう」

 藍と碧は後部ハッチを開けて曳き綱と首輪を取り出し、ワンコローズに首輪を着けた。ラブの首輪は普通のものだが、アスランは輪になった鎖を首に掛けるだけなので、かなり緩い。

 「じゃ、案内は二人に任せるわ」

 「はい! じゃまずは旧制松高の方から!」碧がラブと歩き出し、その左に藍、アスラン、梨乃が並ぶ。

 「碧ちゃん、あきらってお父さん? お母さん?」

 「お母さんです! 水晶の晶であきら!」

 「藍ちゃんのお母さんは?」

 「え…」自分に質問がやって来たことが寝耳に水で、藍は慌てた。「朱美(あけみ)です…朱に美しいであけみ…」

 「そう…二人ともお母さんと名前の関連があっていいね」

 「関連?」

 「碧ちゃんとお母さんは二人とも宝石で藍ちゃん家は色だよね。正確には着色の材料か」

 「おお! 全然気づいてなかった! そう言われればそうですね! あ! 梨乃さん、ここ、推定orange1巻の表紙のベンチですよ!」昨日、藍と二人で座った長椅子を指差した。梨乃が立ち止まってそちらを見たので二人も立ち止まる。アスランはすぐ止まったが、ラブはそのまま歩き続ける。

 「うん。うろ覚えだけど、こんな感じだった」

 「でしょー! あ、ちなみに須和の家、沢村ですよ!」

 「そうね、手紙の住所沢村だったね」

 「くっはー! やっぱり見てましたか、そこまで!」話している間に、曳き綱に止められたラブが戻ってきた。

 「沢村じゃなかったら見落としてたかも」

 「あ、後で行くんですけど、向こうの池にカモがいてかわいいんですよ!」梨乃の語尾を受けての発言と、昨日何度も聞いた藍には分かる。

 「うん」

 碧が歩き出し、全員また並んで歩く。

 「…あの…」話が一段落したと判断した藍は、名前の件で気になったことを訊こうと口を開いた。

 「うん」

 「梨乃さんとお母さんは名前に関連ないんですか…?」

 「ちょっと思い当たらないねー。うちの母親は博士の子で博子なんだけど」

 「う~~~ん、確かにムズい…」

 「うん…」

 「ちなみにお父さんは?」

 「()()(ひこ)。利用の利、世の中の世と彦。世を利用する彦」

 「うわ、悪そう!」

 「世に利する、ですよね…」

 「うん、多分ね」

 「うわ! じゃあ名は体を表すじゃないですか! お医者さんだし!」

 「その医者の立場を利用して製薬会社から接待を受けまくる」

 「え? それダメなんですか?」

 「意外と現実的だったか。じゃあ、麻薬を購入し裏で売り捌く」

 「え! お医者さんって麻薬買えるんですか!?」

 「可能は可能だよ。麻酔とかに使うから。大病院行ったら覚醒剤も置いてあるよ」無論、法律で厳しく規制されており、治療目的であってもホイホイ買えるものではない。

 「でもそれだと小悪党っぽいですね。梨乃さんのお父さんなんだから、悪いことするなら超悪い人じゃないと!」その意見には賛同しかねるが、碧の言いたいことは藍にも分かる。この梨乃の親が普通の人であるはずが無い。

 「うーん、そういう御意見は初めて頂いたわ。参考にさせて頂きます」

 「ゼヒ! で、中に入りたいんですけど…」と、ラブの方を見る。中とは、旧制松本高校本館のことだ。一行は、玄関へと続く石段の前に居る。

 「ふむ」梨乃は辺りを見回し、

「あれかな」と、公園の案内図を指差した。旧制松本高校本館から見て、今通ってきた道の向こうに在る。道幅が数m、石段から道が二、三mであるから、つまり石段からそのくらいの距離だ。

 「はい!」碧が応え、梨乃と案内図へ向かう。藍も隣に並んだ。ラブもアスランも楽しげについてくる。

 しかしついていったその先でワンコローズは案内図の脚に繋がれた。

 「ゴメンな、すぐ戻るから」碧が二匹に向かって言い、梨乃と踵を返した。アスランが一緒に戻ろうとして鎖に阻まれる。藍はその頭を一撫でして二人の後を追った。

 「すぐ戻るの?」梨乃は意外そうだ。予測と違ったらしい。

 「のつもりです!」

 藍も碧がどこへ行って何を見せようとしているのか分からない。とりあえず二人の後について建物の中に入ると、そのまま正面の階段を昇って二階へ連れて行かれた。今日も付近に人の気配は無い。

 「昨日藍ちゃんとここでブルースシスターズの練習したんで、見て下さい!」

 「え…」「それは楽しみね」またしても藍の声は掻き消された。

 「じゃ藍ちゃん位置についてー」

 「え…うん…」恥ずかしいが、梨乃の期待を裏切る訳にはいかない。藍は右側の階段の前に立った。

 「梨乃さん上から見てて下さいねー」

 「うん」梨乃が手摺に凭れる。

 「いくよー。せーの」

 二人は昨日の動作を繰り返した。階段を降り、踊り場で手を繋いでまた降りる。三段残したところで碧が立ち止まり、梨乃を見上げた。

 梨乃は頷いて階段を降り始めた。

 「歌いながら降りるのね?」

 「はい! で、梨乃さんは、わたし達が踊り場で向き合った時に上から降ってきます」

 「降ってきます?」

 「はい! 2階の手すりを踏み台にして、伸身3回転半ひねりで!」

 「どこのケンゾーよ」梨乃は呆れ顔だ。それはそうだろう。よくそんなことを思いつくと、藍も呆れつつ感心しているのである。

「あの位置から踏み切って伸身で回ったら足が天井に当たっちゃうかも知れないでしょ」

 「え…」「あ、そっか」碧は指摘に納得の様子だが、藍から見れば論点はそこではない。

 「じゃあ、抱え込み4回転半ひねりで!」

 「で、二人の間に入るの?」梨乃が話を流しているのは、実現性が剰りに低いからか、それとも。

 「はい! わたし達が両側から梨乃さんの腰に腕を回して、梨乃さんは両手でマイク持って降りるんです!」

 「問題が一つあるわね」そうだろう。登場に無理が有り過ぎる。

 「何ですか?」碧は意外そうな表情だ。

 「私、歌は苦手なのよね」

 「ん何ですと!」「え…!」碧だけでなく、これには藍も驚いた。まさか梨乃に苦手なことが有ろうとは。

 「音痴ではないと思うんだけど、どうも思ってるように声が出ないんだよね」梨乃が二人に合流し、三人一緒に一階へと降りる。

 「えー!? わたしと似ている…」

 「そうなの?」

 「わたしも苦手なんですよー。でも藍ちゃんは上手です!」

 「え…」「昨日聞きました!」今日は何度も藍の声が掻き消される。

 「じゃ、センターは藍ちゃんで決まりね」

 「え…」「はい! わたし達は楽器でがんばりましょう! あ、でもそうなると藍ちゃんの登場方法が…」

 「四回転半捻りでいいんじゃないの?」

 「そんな危険なことわたしの奥さんにさせられますか!」

 「ダンナにはさせるのにね」

 「旦那様ですから大丈夫です!」三人は屋外に出て石段を降りた。その姿を見つけたアスランが素早く立ち上がり、向かってこようとしてまた鎖に阻まれる。藍はアスランに向かって小さく手を振った。

 「じゃあまず藍ちゃんが一人で踊り場まで降りて、その後私たちが両側から合流するのは?」

 「三回転ひねりですか?」

 「普通でいいんじゃない? 両側からだし」

 「そうですね」

 「ということになったわ。藍ちゃんが主力よ、がんばってね」

 「え…」

 「私たちは楽器とコーラスでがんばるから!」三人は案内図まで戻ってきて、ワンコローズの曳き綱と鎖を解いた。アスランが梨乃の周りを一周した後、ラブがのそりと起き上がった。

 「いやいや、コーラスだって歌唱力要るのよ。いや、寧ろコーラスの方が要るかも」

 「え、そうなんですか!?」碧がラブを連れて駐車場方面へ歩き出し、梨乃と藍、アスランも並ぶ。

 「うん」

 「じゃ、歌はほぼ藍ちゃんに任せます!」

 「え…」無理である。想像しただけで恥ずかしくて足が竦んでしまう。

 「いつか出来るといいわね」

 「ここあんまり人来ないっぽいですから、いつでも練習できますよ!」そう言いながら右側の校舎を見る。

 「じゃあまずは曲を決めないとね」

 「藍ちゃんが好きな曲がいいですね!」

 「そうね」

 二人が両側から藍を見る。

 「え…と…歌はあまり聞かなくて…」

 「あ、そっか。クラシックだもんね」

 「うん…」

 「藍ちゃんはクラシックを愛聴してるんです!」

 「イメージ通りね」

 「はい!」

 「イメージでいくと、好きな曲はG線上のアリア、パッヘルベルのカノンあたりだね」

 「え…! 両方とも好きです…!」

 「梨乃さんスゴい! 昨日、その曲が好きだって、歌ってくれたんですよ!」

 「見事にイメージ通りだったと。すごいのは私じゃなくて藍ちゃんね」

 「どっちもスゴいです! あ! そこです! ワンコローズと散歩したいところ!」碧は池にかかる橋を指差し、速足で向かった。ラブは常歩のまま回転数を上げてついていく。速歩にならないところがラブらしいと、藍は可笑しく思った。

 藍達が追いつくのを待ち、

 「ほら! カモカモズが気持ちよさそうですよ!」池に浮かぶ鴨の群れを眺めて碧がうきうきした調子で言うと、

 「本当ね」欄干に手を置き、梨乃も楽しげな声で答えた。

 昨日と同じように、鴨はゆっくりと水面を滑っている。こんな日は、ただ水に浮かんで漂っているだけで快適なのだろう。

 「見てる方も気持ちよくなりますよね」

 「そうね」梨乃の答えに藍も頷く。

 「快適連鎖ですね!」

 「そうね。お得な連鎖ね」

 「はい! カモって独特の愛嬌がありますよねー」

 「動きがユーモラスよね。本鳥(ほんにん)はそんなつもりないんだろうけど」

 「ですよねー。では参りましょー!」碧が歩き出し、一行がついていったが、すぐまた四阿で碧は止まり、長椅子に腰掛けた。梨乃と藍もその隣に座る。ラブは碧の足元で丸くなり、アスランは梨乃と藍の足元に寝そべった。四阿には先客が居らず、気兼ね無く寝転がらせてやれる。

 「ここ、夏涼しそうじゃないですか!?」

 「そうね、日陰だし水辺だし、風が吹いたらかなり涼しそうね」

 「なので、夏になったらまたワンコローズ連れて来ましょー!」

 「うん。この子たちも喜ぶわ」

 「やったね!」

 「うん…!」

 「ここ、向こうに芝もあったよね」

 「ありました!」

 「後でちょっとボール遊びしてあげてくれる?」

 「はい! で、話戻るんですけど」

 「どこまで?」

 「アリアかカノンかキャロルかノエルか」

 「増えたわね。後ろの二つは?」

 「何となくです! アリアちゃんもカノンちゃんも女の子の名前っぽいじゃないですか!」

 「うん…まあ、そんな感じはあるね」

 「なので足してみました!」

 「ノエルは男の子っぽいけど」

 「そうですか? じゃあノエル君で! む!…アリノ、リノン、リノエル…何でも使えるじゃないですか! 梨乃さんズルい!」

 「ズルくない」

 「リノエルって何か天使の名前みたいですね!」

 「う…ん、まあ、天使はなんとかエルって多いね」

 「エロかわ天使リノエル」

 「エロいアニメのタイトルかAV女優のキャッチコピーみたいなんだけど」

 「ええ!? そうですか!? 名が体を表すいいコピーだと思ったんですけど…分かりました。じゃあ、おっぱい天使」

 「よりAVに近づいたんだけど」

 「巨乳天使」

 「ほぼ同じでしょ。もはやセクハラの域よ。それに、天使の外観ってどっちかって言うと男でしょ」

 「む、そう言われるとそんなような…」

 「で、アリアとカノンが何だっけ」放っておくといつまで経っても本題に辿り着かないと判断したか、梨乃が話を先に進めた。

 「藍ちゃんが歌う曲ですよう!」

 「え…!」藍は驚いたが、悲しいかな、二人の会話に割って入る勢いは無い。

 「カノンかG線上のアリアでいいんじゃないですか!? 梨乃さんがヴァイオリン弾いて!」

 「それならG線上のアリアね。一人でも何とかなるから。けど歌詞は?」

 「これから作りましょう!」

 「うん、まあ不可能ではないわね」

 「出来るんですか…?」ようやく割って入ったが、最早「歌わない」という選択肢は失われた感が有る。

 「人に聴かせてお金取ろうって訳じゃないからね、自分たちが楽しい歌詞を適当に作ればいいんだもの」と梨乃は簡単に言うが、藍にはやはり難しく思える。

 「そうだよ! 例えば…えーと、出だしのメロディ歌って~」

 「え…うん…」碧や梨乃相手でも凄く恥ずかしいのだが、断れる雰囲気ではない。

 周囲を見回して付近に余人の居ないことを確認し、藍は昨日と同じように口遊んだ。最初の八小節辺りまで進んだ時、

 「ありがとう! じゃあいきますよ!」碧の声が掛かり、藍はほっとしながら歌を止めた。

「あーーーー」碧が歌い始めた。碧の自己申告から想像していたよりもずっと落ち着いた声で、音程もとれている。

「胸を揉みたいー」しかし歌詞は奇天烈であった。梨乃の予測をも超えていたらしく、ぎょっとした顔で碧を見る。藍は恥ずかしくて真っ赤になった。

「梨ー乃ーさーーんのー大きな胸をーーーーGカップの胸をーーー後ろーから両手で鷲掴みにしてー」歌い終えた碧は満足げに、

「どうですか!?」

 「いやどうもこうも、ねえ」呆れた声の梨乃にそう言われても、

 「はい…」そう応えるのが藍には精一杯であった。

 「えー!? 『そんなに好きなんだったら思う存分揉みなさい』じゃないんですか!?」碧は驚いた様子である。

 「じゃないねー」

 「梨乃さんが…梨乃さんが冷たい…」しゅんとする碧を見て藍は少し可哀想に思った。しかし梨乃は、

 「普通だし、そんな三文芝居は通用しません」いや、藍には通用した。

 「えー! アオデミー賞主演女優賞の演技だったのに!」

 「それノミネートされてるの全部碧ちゃんでしょ」

 「んなぜそれを…! あ、でも吹替賞は梨乃さんですよ! ワンコローズの!」

 「ありがたく受賞しとくわ」それについては満更でもないらしい。

「ま、歌詞の内容はともかく、ああやって適当に歌詞をつければいいってこと」また脱線し始めたところを梨乃が修正した。

 「あ、はい…」確かに、文才の無い自分でも、今の歌詞よりはまともな詞を作れるだろう。

 「三人で考えましょう」

 「はい…!」

 「で、碧ちゃんは?」

 「へ?」

 「何するの?」

 「……おお!?」

 「忘れてたのね」

 「えーと、じゃあ、タンバリンとか」昨日もそう言っていた。

 「この曲には合わないね。キーボードがいいかな」

 「え? 私ピアノとか弾いたことないですよ」

 「和音押さえるだけなら、ちょっと練習すれば出来るわよ」

 「そうなんですか!? じゃあそれで!」あっさりと碧は決めた。やってみる前に色々考えてしまう藍から見ると驚異の決断力だ。

「あ、そうだ。梨乃さん、昨日蔵シック館で湧き水のパンフレットもらったんですけど」

 「うん」

 「お城の近くにいっぱいあるんで、今度ワンコローズ連れて飲み比べツアーしましょうよ!」

 「飲み比べツアーって…この子たちも喜びそうだから有り難いけど、あんまり暑い時は避けてね。特にアスラン暑いの苦手だから。夏だったら早朝か夕方ね」

 「はーい! 連休明けはどうですか⁉」

 「いいわね。それぐらいの時期なら昼間でも大丈夫」

 「やったね!」

 「うん…!」

 「よし! 話もまとまったところで、芝生行きますか!」

 「その前にボール取ってくるわ。ちょっと待ってて」

 「はーい!」「はい…」

 席を立った梨乃を追いかけようと慌てて起き上がったアスランの背に藍が手を置くと、アスランはその場に留まった。

 「アっちゃんは忠犬だねー」

 「うん…!」背中を撫でると、尻尾が揺れる。触り心地の良さではクロに及ばないものの、大きな身体はとにかく撫で甲斐が有る。

 「ラブ子は自由犬」碧も寝ているラブの背中に手を乗せ、荒っぽく往復させている。丸くなっていたラブが身を伸ばし、振り向いて碧の方を見ている。

 「うん…」

 「しかしワンコローズがクロと知り合いだったとは驚いたー」

 「うん…!」

 「あんなになついてるんだから、高辻家からうちにやって来た時さびしかっただろうなー」珍しくしみじみと言う。

 「うん…」

 「『明日海外に引っ越すからもう藍ちゃんと梨乃さんに会えないよ』みたいな感じだもんねー」

 「うん…」それは怖い。想像すらしたくない。

「再会できてよかったね…」衷心からそう思う。

 「ね! 梨乃さんにお願いして入り浸ってもらわないと!」

 「うん…そうだね…!」

 「ラブ子もクロと仲よくしてやってくれよ!」ポンポンとラブの頭を叩く。

 それまで後ろを向いて碧を見上げていたラブが急に前に向き直り、カクンと頭を下げた。

 「え…」まさか、頷いたのだろうか。

 「藍ちゃん、今の見た!? うん、てしたよね!?」

 「うん…」そう思ってもおかしくないほどのタイミングだった。

 衝撃を受ける二人を尻目に、当の本犬(ほんにん)奇態(けったい)な動作に入った。前足と尻を地面に付け、後足を顔の辺りまで持ち上げた姿勢で、尻を引き摺って前に進むのである。

 「何だろ?」碧が訝しんでいるが、

 「うん…」碧に分からないのに藍に分かるはずも無い。

 黙って見ていると、曳き綱を引き摺って、ラブは左回りに直径一mほどの円を描いてその動作を続けた。二周目に入ろうかという時、藍の手を背中に乗せたままアスランが立ち上がり、藍は梨乃がすぐそこまで来ていることを知った。

 「またケツ行進して」梨乃が咎めるように言うが、ラブは知らぬ顔で続けている。

 「ケツ行進!」ブフっと碧が噴き出した。藍も、噴き出しはしなかったものの、ぴったりな呼び方だと可笑しく思う。ケツ移動でもケツ歩行でもなく、尻行進でも臀部行進でもなく、ケツ行進。実にぴったりだ。

「これはどういう…?」

 「分からないのよねー。お尻痒いのかとも思ったけど、どうも違うみたいだし」

 「犬は普通にするんですか?」

 「アスランはしないね。他所でも見たことないなあ」名前を呼ばれたアスランが、梨乃を見上げたまま尻尾を振る。

 「じゃあラブ子オリジナル振り付けですか! やるなラブ子」

 「いや、やらなくていいから。じゃ、行きましょうか」

 「はい!」「はい…」応えて立ち上がった時。

 突如としてアスランが梨乃の周りを回り始めた。引き摺られた鎖がチャリチャリと鳴る。

 「お、今度はアっちゃんが」

 「うん…」

 「これが目に入ったのね」音を立てている鎖を掴んでから、梨乃が黒く丸い袋を持ち上げて二人に見せる。

 「あ…」なるほど。きっとサッカーボールが入っていて、アスランはそれを知っているのだろう。

 「てことは、今アっちゃんヒャッハー状態!?」鎖を握られてもアスランは止まらず、

 「と推測されるわね」梨乃に首輪を掴まれてようやく回るのをやめた。梨乃が歩きだし、全員がそうする。

 「確かに突然ですね!」

 「でしょ。今のは予測してたけど、ごくたまーに、何もないのにこうなるのよね」

 「むーん、なかなか厄介ですね」

 「うん。危害加える気がなくても、その場にいる人怖がらせちゃうからねー」

 「あの…アルプス公園の時は…?」ボールを見ても、こんなに我を忘れる様子は無かった。

 「その前がインパクトあり過ぎたのかな」

 「え? そんなスゴいことありましたっけ」碧が不思議そうに言う。

 「滑り台。アスランにはかなり怖かったと思うよ」

 「そう言われれば、乗るの渋ってましたね」

 「色々不器用なのよ」

 「でもボール取るのは上手ですよね!」

 「そうね」

 「ラブ子はボール好きじゃないんですか?」

 「軟式野球のボールをかじるのは好きね」

 「さすがだな、ラブ子! 運動神経いいのに運動嫌い」

 「強いて挙げるなら乗り物系は好きだけど」

 「じゃ一緒にスキーやるか、ラブ子!」

 「スノーボードだったら喜ぶかも」

 「え!? どういうことですか!?」

 「足の間にその子置くか、急ターンしないないなら板の先に乗っけてもいいかな」

 「おー、楽しそう! モノスキーだったら転ばずに滑れると思います!」

 「碧ちゃんならボードもすぐ出来るようになると思うけど。スノースクートもいいわね」

 「え、何ですか、それ?」

 「雪上自転車とでも言えばいいのかな。車輪の部分が橇になってると思って」

 「うわ、面白そう!」

 「荷台も籠も自分でつけないといけないけど」

 「アっちゃんはそりに乗せてもダメですか?」

 「ゆっくり下ればいけるかも」

 「よーし、冬になったら一緒にスキー行きましょう!」

 「いいわね。藍ちゃんは?」

 「全然滑れないです…」小学生の時に連れて行かれたことが有るが、滑り出した途端怖くなって泣いてしまい、結局総滑降距離三十mほどで終了となってしまった。

 「藍ちゃんはわたしが手取り腰取りするので大丈夫です!」

 「足じゃなくって?」

 「腰ですね。滑ってる時に足取るのは難しいし、危ないです」またしても軽口なのかと藍も思ったが、至極真面目に碧は答えた。

 「なるほど。後ろから藍ちゃんの腰を支えて一緒に滑るのね」

 「そうです! さすが梨乃さん!」碧は感心しているが、藍にとっては不可解である。あれだけの情報で何故そんなことが分かるのか。

 話している間に、一行は芝生の縁に着いた。

 「お願いします!」

 「あ、はい…」碧からラブの曳き手綱を受け取ると、ラブが構えと鼻を押し当ててきたので、藍はしゃがんで頭から尻尾の付け根まで右手を往復させた。

 その間に碧はアスランの首輪を外し、梨乃はボールを袋から出す。アスランの尻尾が凄い勢いで振られる。

 「よーし、アっちゃん、いくぞ!」ボールを受け取った碧は無造作に芝生へ蹴り入れた。

 ボールは速いゴロで芝の上を転がり、アスランがそれを追う。どれぐらい本気で走っているのかは分からないが、やはり犬は速い。勢いを失ったボールにすぐ追いつき、大きな口に咥えて戻ってきた。追う時は無論襲歩だが、戻りは速歩だ。

 アスランが足元に置いたボールを碧がすぐに拾い上げ、また蹴る。今度はゴロではなく、腰くらいまでの低い弾道で、飛距離は十mほどだ。アスランが走り、また碧の足元にボールを置く。

 次は胸くらいの高さ、その次は頭くらいの高さ、その次は推定二m半くらいの高さ、と放物線を深くしていく。着地点はほぼ同じだ。滞空時間が長くなるに従い、ボールの着地からアスランが拾うまでの時間はだんだん短くなっている。

 「よし! 次はキャッチだぞ、アっちゃん!」呼び掛けて碧は大きく蹴る。ボールは推定五mくらいまで上がった。

「あ、ちょっと短かったな。アっちゃんがんばれー!」碧が呟いた通り、飛距離は五、六mといったところだろう。アスランは落ちてくるボールに飛びつき、見事ボールを咥えた。

 「おー! アっちゃん、スゴいぞ!」碧が拍手する。藍も倣ったが、ラブに鼻で苦情を言われ、また撫でる方へ戻った。

 アスランが戻り、またボールを置く。

 「よっし! 今度はいっぱいまで上に蹴るぞ! お気張りやす!!」どこで覚えたのかインチキ京都弁で気合をつけ、碧はさらに大きく足を上げてボールを蹴った。蹴り終わった後、胸に膝が付くほどの勢いだ。その結果、

 「碧ちゃん! パンツ!」梨乃が叫んだ。見事に丸見えだったのである。恐らく、スカートであることを忘れていたのだろう。幸いにして、近くには人が居らず、遠くの人もこちらを見ていた様子は無い。

 「え? おお!」やはり忘れていたようだ。

 その間にもボールは上昇し、下降に移っていた。推定飛距離は二、三m。アスランは最初の二、三歩走っただけで動きを止め、じっとボールを見詰めている。そして地上二mまで落下してきた時に飛びついたが、ボールの速度が速かったか、咥えきれずに弾いてしまった。

 ボールが藍の方へ転がってくる。藍は拾おうと両手を前に出したが、ラブがやおら起き上がり、勢いの死んだボールを鼻で止めた。更に、頭を低く下げてから勢いよく振り上げ、鼻でボールを押して碧の方へ寄越した。距離は三mくらいだろうか。

 「アっちゃん、残念! ラブ子、さんきゅう!」礼を言われたと分かったのか、ラブは満足げである。

 「じゃ、も一回な!」また大きく蹴り上げ、アスランを走らせる。

 「ラブすごいですね…!」碧は当たり前のようにボールを受け取ったが、藍は驚いている。犬は誰でもあんなことをするのだろうか。或いは出来るのだろうか。

 「うまいでしょ。昔けっこうやったからね」

 「え…!」またまた驚いた。ラブにそんな時が有ったとは。

 「あんな大きなボール咥えるのはできないけど」

 「あの…いつぐらいの時ですか…?」

 「アスランが来るまでかな。ボール投げても全部アスランが持ってっちゃうから嫌になったみたい」

 「そうなんですか……」先輩であるラブにそのような迷惑をかけていたとは。アスラン贔屓の藍は少し複雑な気持ちである。

 「まあ元々ボールが好きって訳じゃなかったみたいだし」藍の気持ちを慮ってか、梨乃が付け足した。

 「そうなんですか…?」

 「うん。乗り物に比べれば全然」

 「自転車ですか…?」

 「一番は原チャかな」

 「げんちゃって何ですか…?」

 「原動機付自転車。郵便屋さんとか乗ってるやつ」

 「あ…」なるほど分かった。「梨乃さん、乗るんですか…?」

 「急いでる時と、微妙な距離の時は便利だよ。それと、たまーにラブが連れて行けって言うから」

 「その時はアスラン留守番ですか…?」

 「うん。そこいら辺一周するだけだから」

 「あ、なるほど…」

 「最初はラブだけ連れて外出ようとしたら半狂乱だったけどねー」

 「……」その様子が目に浮かぶようだ。

 「今は、すぐ帰ってくるって分かったみたいで、大人しくしてるよ。玄関で寝て待ってる」

 「あの…学校行ってる間も玄関で待ってるんですか…?」まさかとは思うが、アスランの忠犬ぶりなら有り得る。高辻邸に行った時も玄関で待っていた。

 「基本そうみたいだけど、たまに家の中ウロウロしてるんだって」

 「へえ…」

 「ラブは三階で寝てる」やはりか。

「と思うでしょ?」

 「違うんですか…?」

 「ウロウロしてはおやつくれーってねだってるんだって」

 「あ…」それはそれでラブらしい。

 「梨乃さん、アっちゃんとラブ子交替!」碧が呼び掛けてきた。

 「はいはい。アスラン!」梨乃が呼ぶとアスランは尻尾振り振り速歩でやってくる。

 「ラブ子!」少しだけ間を置いて碧が呼ぶと、ラブは藍の手からするりと抜け、てこてこと歩いて行った。

 「アス、Down」梨乃と藍の間にやってきたアスランが梨乃に言われて寝そべると、早速藍は撫で始めた。ラブには悪いが、やはり撫でて楽しいのは圧倒的にアスランだ。

 それにしても、と藍は思う。大人しいアスランが我を忘れるほど好きなサッカーボールで遊んでいる最中でも、梨乃が呼べばすぐにやって来るのだ。

 「ラブはホント碧ちゃんが好きねえ」梨乃の言葉に藍は物思いから引き戻された。

 「はい…」藍にも段々とそれが分かってきた。その二人は、ゴロでキャッチボールをしている。

 「アスランは藍ちゃんのことが好きだし」

 「え…そうですか…?」だとするととても嬉しい。

 「うん。私以外に懐いたの初めて」

 「え…そうなんですか…」

 「基本的に人間不信。虐待されてたみたいだから仕方ないと思うけど」

 「はい…」

 「でも藍ちゃんには初見で懐いたからね。何か感じるところがあったんだろうね」

 「そうなんでしょうか…」

 「何にしても、あの子たちに友達ができてよかったわ。私は友達というよりボスになっちゃうから」

 「そうなんですか…?」

 「躾けようと思ったらどうしてもね」

 「あ…」少し考えれば当然である。ワンコローズがいい子なのは、ある程度厳しく躾けられたからに決まっている。

 「これからも時々遊んでやって」

 「はい…!」

 「藍ちゃん、動物飼ったことある?」

 「はい…小学二年の時にインコを飼ったことがあるんですけど、餌あげる時に逃がしちゃって…」セキセイインコで、ピー子という名をつけていた。

 「あらら」

 「一度はお父さんが家の近くで見つけて捕まえてくれたんですけど、また逃がしちゃって、それきりです…」

 「縁がなかったのね」

 「お父さんもそう言ってくれましたけど、あの子が生き延びたかどうか今でも気になります…」

 「無事だといいね」

 「はい…」セキセイインコの寿命は飼育下でも六、七年。無事に過ごしていたとしても、もうこの世に居ない蓋然性の方が高い。

 「うちに来てたあの子がクロだったとは驚いたわ」突如話題を変え、梨乃は先程の碧と同じことを言った。

 「はい…!」

 「うちに来たその日からアスランがメロメロだったから、ずっと気になってたのよね」

 「そうなんですか…」

 「クロ連れて家出る時のアスランの顔は思い出したくないわー」藍も想像したくない。

 「クロは暴れなかったんですか…?」

 「うん。どうなるのか分かってなかったんだろうね」

 「その後アスランは大丈夫だったんですか…?」

 「ううん、一週間ぐらい無気力だった。ボール遊びも、私が連れて行くから仕方なく、って感じで」

 「え……!」それはかなりの重症だろう。

 「ごはんは食べてたから、死ぬかもとは思わなかったけど。でもラブですら気遣ってた」

 「え…!」

 「普段あの子から寄ってくことないんだけど、あの時は夜アスランのすぐ隣で寝てた」

 「え…!」ラブにそんな芸当が出来ようとは。藍は、それまで何となく眺めていたラブを凝視した。今は、碧の蹴ったボールを鼻ドリブルで持ち帰っている最中だ。

 「その代わりこの子のおやつかっぱらってた」

 「え…」

 「でもそれも気を遣ってたのかも」

 「え…?」どういうことだ。

 「それも普段はしないからね。私たちにくれくれとは言うけど」

 「……」まだ分からない。

 「『儂に食われたくなかったらさっさと食うのじゃ』」

 「あ……」なるほど。

 「クロがどんな家に行ったのかも気になってたけど、相生家で本当によかった」

 「はい…!」

 「今思うと、別々の家に行って結果的にはよかったのかも」

 「え…?」また分からない。

 「一緒に住んでると家族になっちゃって、それが当たり前になっちゃうじゃない?」

 「はい…」

 「離れてる方が有り難みが分かるかな、って。すごく相思相愛だったから、お互いずっと大事に思ってほしい」

 「はい…」なるほど。

 「私に都合よくそう思ってるだけの話だし、結果論でもあるけど。でも、この子たちに友達もできてほしいし」

 「友達…ですか…?」さっきもその単語が出てきた。

 「友達は幸せの大きな要因だから」

 「はい…」それは、この(ひと)(つき)ほどで藍も身に沁みている。

 「なのにこの子たち、人間以外の友達がいないから」

 「え…そうなんですか…?」ラブなど、行く先々で図々しさを発揮して友達になっていそうに思えるが。

 「うん。アスランは私にべったりだし、ラブは犬がいても我関せずだし」

 「そうなんですか…」

 「人間の友達だって、藍ちゃんたちとこの前のサッカー少年たちだけだし」

 「そう…ですか…」それでも、自分よりは多い。

 「重要なのは数じゃないけど、一匹もいないのはさすがにね」

 「そうですね…」

 「だから、お言葉に甘えて時々遊びに行かせてもらうわ」

 「はい…!」自分も一緒に行きたい。

 「え!? どこに遊びに行くんですか!?」ラブを引き連れた碧が戻ってきた。

 「碧ちゃん家」梨乃が立ち上がったのを見てアスランも起き上がり、少し遅れて藍も立った。

 「おおーう! じゃんじゃん来て下さい! 毎日来て下さい! いっそ一緒に住んで下さい!」

 「それじゃ家族になっちゃうからね」

 「えー!? 夫婦になったら家族じゃないですかー!」話の流れを分かっていない碧が混ぜ返した。

「ラブ子スゴいです! ドリブルもできるんですね!」

 「うん。昔執った杵柄」

 「やっぱりですか。あっ、そうそう! 話変わるんですけど!」

 「うん」

 「あの扉何ですかね」旧制松本高校の校舎を指差す。昨日、二人で不思議がった扉だ。

 「ああ、あれ」

 「知ってるんですか!?」

 「トラップよ」

 「トラップ!」

 「攫ってきた若い娘を閉じ込めて追い回し、あの扉の方へ追い詰めるの」

 「扉の向こうへ飛び込んだつもりが、実際には外に飛び出していて、娘はそのまま下に落ちる…」碧が話を引き継いだ。

 「というために作られたので、外には何もないのよ」

 「なるほど…!」

 「さ、行きましょうか」梨乃が歩き出す。

 「え!? 正解は!?」隣に並んだ碧が訊くが、

 「さあ」

 「梨乃さんですら知らないとは、何という扉…!」

 「そのうち解けるといいわね、謎」

 「はい! 次は梨乃さん家ですか!?」

 「そうね、お風呂屋さんの開店まではまだあるし」

 「開店何時ですか?」

 「三時」

 「え!? 早いですね!」碧同様、藍も驚いている。物心ついてから毎日規則正しく夜八時頃入浴してきた彼女にとって、風呂とは日が暮れてから入るものなのである。乗馬の後の温泉にも微かな違和感を持ったが、露天風呂が非日常だったからか、風呂という感じは薄かった。

 「そうだね」

 「そんなに早く行く人いるんですかね?」

 「いるんだろうね、やってるってことは」

 「確かめてみたい!」

 「じゃ、行って開店まで待つ?」

 「うーん…やめときます!」

 「あら」

 「開店から行くのは上級者な気がするので、せめて中級者になってからにします!」

 「なるほどね。いいんじゃない?」

 「はい! てことで梨乃さん家でお願いします!」

 「諒解。じゃ、またロンポアン寄ってシュークリームでも買っていきましょうか」

 「あ…!」

 「何なに!? …! もしかして今日もパティスリー藍の!?」

 「うん…またレアチーズだけど…」

 「イヤッホホーゥ!!」歩きながら碧は跳ね、右腕を振り上げ振り下ろした。

 「すごいジャンプ力ね」

 「はい…」七十cmくらい跳んでいた。昨年五月の測定における藍の記録は四十二cm。碧が本気を出したら自分の倍を超えるだろう、と藍は思った。

 「あれ? じゃあ車に置いてきたの?」

 「うん…発泡スチロールの箱に保冷剤入れてきたから大丈夫かな、って…」

 「そっか! 早く食べたいから急ぎましょー!」碧は倍くらいの速さで歩き始めた。引っ張られたラブが迷惑そうな顔で速歩になる。

 「『待て』が効きそうにないわね」梨乃も合わせる。無論アスランもぴったりとついて行く。

 「はい…」藍は歩行ではついて行けそうにないので、走ることにした。自分のレアチーズをそんなに気に入ってもらえて本当に嬉しい。我知らず口元が綻んだ。

 駐車場に着いてからも碧に急き立てられて自動車に乗り込み、藍がシートベルトを装着するより先に梨乃が自動車を発進させた。そして、自動車が発進するより先にアスランの顎が腿に乗ってきた。一緒に出かけるのは今日でまだ二度目なのに、もうすっかり定位置になっていて、藍は嬉しい。

 「梨乃さん、マッハでお願いします!」

 「はいはい。マッハ三十分の一くらいで行くわ」

 「えーと、時速どれくらいですか?」碧が訊く。藍にも分からない。

 「四十キロくらい」

 「ということは、マッハ1は時速1200キロですか?」

 「だいたいね。秒速三百四十メートルだったかな」

 「そもそもマッハってどういう定義なんですか?」

 「音速との比。マッハ一が音速」

 「あー、なるほど」

 「でも条件で音速は変わるから、マッハ一がいつでも秒速三百四十メートルって訳じゃないよ。えーと、一気圧摂氏十五度だったかな」

 「そんなに変わるんですか?」

 「絶対温度の平方根と気圧の平方根に比例するから、高所に行くとだいぶ変わる計算だよね」

 「はー」碧は感心した様子で、

「さすが梨乃さん」とだけ言った。藍も頷く。

 「去年学校で習ったからね」

 「え!? 医学部ってそんなこともやるんですか!?」

 「ううん。一年の時は専門以外の授業を受けるの。今のは物理の授業で言ってた」

 「へー! 何受けてもいいんですか?」

 「いいけど、どの分野でどれだけ単位取らないといけないとか、この講義は必修とかって縛りがあるから、実際には選択肢は絞られるね」

 「へー」

 「興味あったらウェブサイト見てみたら? 多分載ってるよ」

 「はい! 梨乃さんが受けた中で一番面白かったのは?」

 「そうねえ……世界史かな」藍にとっては意外な回答であった。てっきり、数学か理科の分野だと思っていた。

「実際には古代オリエント史だったけど」

 「世界史ですか…」碧が平坦な調子で言う。碧も理系の科目を期待していたのだろう。

 「あら、興味なかったみたいね」

 「だって歴史ってひたすら暗記するだけですもん」碧の言う通りである。いつ何が起こったのかを覚えるだけで、面白くも何ともない。

 「うーん、まあ中学までだと特にそうだよね。時間ないから仕方ないんだけど、『何故か』を教えてくれないからね」

 「なぜか?」碧が訊く。この話に興味を持ち始めた証拠だ、と他人事のように藍は思ったが、自分も同じ状態であることにすぐ気づいた。

 「例えば、何故蘇我入鹿は暗殺されたのか。何故壬申の乱は起こったのか。何故源頼朝は幕府を開くことができたのか。何故戦国時代に突入したのか。本能寺は? 関ケ原は? 明治維新は? 世界大戦は?」

 「うーん、ほとんど知りません」藍も同じである。興味が湧かないので本も読まない。

 「そこが歴史の面白いところなんだけど、学校ではそこまで話す時間がないのよね」

 「面白いですか」まだ碧は梨乃の言い分を信じていない様子だ。

 「私はそう思うよ。…そうね、例えるならニュースと推理小説の違い」

 「とは?」碧の声が変わった。明らかに今、前のめりになった。

 「魍魎の匣、面白かったよね」

 「はい!」藍も借りて読んだが、確かに面白い。藍の嗜好に合っていないにも関わらず、一気に読んでしまった。

 「あの話の最後の部分をニュース風にしてみましょう。『昨夜遅く、相模湖付近の施設で少女が一人行方不明になりました。関係者が不審な男を目撃しており、警察はその男の行方を追っています。』どう?」

 「どうもこうも、それじゃあ面白いところ全部はしょられてますよ。……あ!!」碧の「あ」に合わせて藍も小さく叫んでしまった。なるほど、それではつまらなくて当然だ。

 「うん。そういうこと。歴史が好きな子は、多分全員その道中を聞いたり読んだりして好きになってるはず」

 「はい! 興味出てきました!」

 「それはよかったわ。どこを面白いと思うかは何ともだけど」

 「梨乃さんはどこが好きなんですか?」

 「古代オリエント」

 「オリエントってどこですか?」

 「今のトルコからシリア、イラン、イラク、イスラエル、エジプト辺り。厳密な定義はないかなあ」

 「どれぐらい昔ですか?」

 「紀元前数千年から紀元前数百年の間」

 「古っ!」

 「そんなに古いのにすごく高度な文明だったのよ。ピラミッド見れば分かるよね。あの石吊り上げられる機械、現代でも世界に何台もないんだって」

 「えー!?」

 「そんな文明だから当然文献も残してて、歴史がある程度分かってるの」

 「面白いですか!?」

 「うん。話だけならもっと面白いところあるんだろうけど、プラス古代のロマンがあるからね」

 「巨大なマロン…いいですね!」

 「でしょ。想像で埋めるのがまた楽しいの」

 「はい! 楽しそうです!」碧の得意分野だ、と藍も思う。

 「オリエントは少数派だろうけど、日本の戦国時代だったら好きな子クラスに絶対いるわよ」

 「はい! 明日学校で聞いてみます! えーと、それで、大学の授業は『なぜ』を教えてくれるんですか?」

 「そうだね、私が取ってた講義は面白かったね。興が乗ってくると五七調になって、掌で机叩きながら話すの。拍子木持ってたら完全に講談」碧みたいだ、と藍は思った。

 「へー! それだけで面白そうですね!」

 「しかも、仮にも大学教授だからね、よく知ってる。一つ質問したら、知りたいことの三倍ぐらい答えが返ってくるの」

 「へー!」

 「三年後には是非世界史をお選び下さい」

 「はい!」「はい…」藍は、碧も自分もたった数分の会話で完全に言いくるめられていることに気づいた。この場合は良いことのように思うが。

 「あの…高校ではどうですか…? 歴史の授業…」話が(ひと)段落したようなので、藍は気になっていることを訊いた。正直今のところ、歴史の授業は面白くない。

 「そうね…残念ながら世界史は暗記だね」

 「そうですか…」それは本当に残念だ。

 「まあ仕方ないよ。全体の順番を教える方が優先になっちゃうから。でも日本史はみんなある程度知ってるから、語ってくれる先生もいるんじゃない?」

 「梨乃さんの時はいました?」

 「うん。二年の時は面白かったよ。(ある)()先生」

 「当たりたいね!」

 「うん…」

 「それと地理の小田(おだ)(ちゅう)

 「おだちゅう先生?」

 「あー、小田さん。小田(おだ)(ちゅう)一郎(いちろう)を略してみんな小田忠って呼んでたの」

 「面白いんですね!?」

 「面白かったよ。毎回必ずゴルゴを引き合いに出すの」

 「へー!」

 「あの…ごるごって何ですか…?」

 「ゴルゴ13って漫画。主人公が殺し屋なんだけど、面白いよ。世界中が舞台になるから勉強にもなるし。あ、でもエロいシーンも多いから、藍ちゃんにはお勧めできないか」

 「そうですか…」それはお勧めされない方がいいだろう。

 「もちろん授業ではエロいシーンは出てこないよ」

 「はい…」当然である。そんなことをしたら生徒の親から何を言われるか。

 「さて、そろそろかな」

 「え? 何がですか?」

 「うん」とだけ言って梨乃がハンドルを切り、自動車は左に曲がった。ロンポアンの前の道である。

 アスランが顔を上げ、起き上がった。撫でていた藍の手も一緒に持ち上げられる。

 「アスランですか…?」

 「うん。さっきの角曲がると大体起きてくるんだよね。ラブは次左に曲がったら起きるけど、ちょっと寄ってくね。二人は待ってて」

 「はーい」「はい…」

 梨乃は店の前に自動車を横づけし、店に入った。アスランがすぐまた顎を藍の腿に乗せる。

 「アっちゃんはボール取るのが上手いけど、ラブ子は返すのが上手いね!」碧が右側に身を乗り出し、振り返ってそう言った。シートベルトは外したのだろう。

 「うん…! びっくりしたよ…。器用だよね…」

 「コンビネーションでやれたらスゴく楽しそう!」

 「コンビネーション…?」

 「アっちゃんがボールキャッチしてラブ子のところに持ってってー、それをラブ子が鼻パスするの!」

 「あ…なるほど…! 楽しそう…!」ワンコローズも楽しんでくれそうだし、しかも二匹(ふたり)同時に遊べる。

 「よし! 梨乃さんに相談!」

 「うん…!」

 「それにしても高辻三兄弟有能すぎだよね!」

 「うん…」

 「梨乃さんに仕込んでもらったらクロも芸できるようになるかな⁉」

 「え…猫も芸できるの…?」

 「犬ほどじゃないけどねー。だるまさんがころんだとか」

 「へえ…」恐らく、合図で猫が動きを止めるという事だろう。

「楽しそうだね…」

 「でしょでしょ⁉ これも梨乃さんに相談!」

 「うん…」

 その時、伏せていたアスランが頭を上げた。店の方を見てみると、一秒も経たないうちに扉が開き、梨乃が出てきた。絶対に見えていなかったはずなのに犬はすごいなと、藍は改めて実感し、感心した。

 「お待たせ。あ、藍ちゃん、これお願いします」扉を開けた梨乃がケーキ箱を差し出してくる。

 「あ…はい…!」

 「速っ⁉ 梨乃さんもだけど、店の人も手際よすぎ!」碧の言葉に、藍も後ろで頷く。

 「だね」自動車がゆっくりと動き出す。

 「安い速い旨いですね!」

 「うーん、その通りなんだけど、ケーキ屋の誉め言葉としては失格かな」

 「えー⁉ 何でですか⁉」

 「安いを前面に出しちゃダメな気がしない?」

 「む、むー…確かに…あ、さっきラブ子は次の角で起きてくるって言ってましたけど…」

 「うん。大体だけどね」

 「見えてないのに?」

 「うん」

 「スゴいですね…」

 「何で分かるのか分からないけど、どこから帰ってきてもその辺で起きるんだよね」

 「匂いですかね」

 「かなあ」

 「私だったら絶対起きない自信があります! ってホントに起きてきた!」

 「でしょ」

 右から助手席を覗きこむと、ラブが立ち上がって碧の膝に前足を置いているのが見えた。

 「謎の能力だ!」

 「でしょ」

 「そして無駄に高い能力だ!」

 「まあ、起こしても起きないよりずっといいけど」

 「確かに!」

 「はい、到着ー」高辻家の敷地に後ろ向きで自動車を入れ、梨乃は電源を切った。

 「ありがとうございます!」「ありがとうございます…」

 「じゃあラブとアスランお願いね。あ、藍ちゃん、ケーキも」

 「はい!」「はい…!」二人はそれぞれ扉を開けて車外に出、ワンコローズもついてきた。

 梨乃は一足先に家に入り、ワンコローズの足を拭く準備をする。そこにラブが行こうとしたが、アスランの大きな身体が割って入った。

 「わん!」ラブが怒りの声を上げ、

 「アス、Down!」梨乃にも叱られてアスランはその場に伏せた。

 梨乃はラブの足を雑巾で拭いていく。

 「ラブ子からって決まってるんですか?」碧が不思議そうに訊く。

 「うん。年功序列。順番決めとかないと何かと良くないからね」

 「そうなんですか?」

 「うん。アスランの方が圧倒的に大きくて強いからね。その辺ちゃんしとかないと、勘違いして言うこと聞かなくなるかも知れないから」

 「はあー、なるほどー。うちはすでにぐちゃぐちゃです」

 ラブが解放され、独り階段を昇っていった。アスランがその後に入り、梨乃に左前足を持ち上げられる。

 「犬に比べれば猫は言うこと聞かないよね。仕方ないんじゃない?」

 「イヤー、どんな悪さしてもうちの親が許しちゃうのがダメなんですよ」

 「あー、それはダメだねー。やっていいことと悪いことはちゃんと理解させないと」

 「ですよねー。一応昨日正座させて一時間説教したんですけど、今朝見たらもう甘やかしてましたからね」

 梨乃はアスランを先に行かせてから、

 「ごめんね、お待たせ」左手を階段の方に向けて、二人に上がるよう促した。

 「お邪魔します!」「お邪魔します…」二人は靴を脱ぎ、梨乃について階段を上がった。

 「まあ繰り返し言って聞かせるしかないね。私も親の教育には苦労したもの」

 「梨乃さんもですか!」

 「おやつやり過ぎるなって言っても全然聞かなかったのよね。今思うとよくグレなかったわ」

 「二匹とも梨乃さん大好きだからグレたりしなさそうですけど」前を昇る碧の意見に藍も頷く。

 「違う違う。よくグレなかったのは私」

 「えー! じゃわたしも危ないじゃないですか!」

 「がんばれー」梨乃が棒読みで言い、自室の扉を開けた。開ききる前にラブがするりと中へ入り、アスランも続く。

 碧と藍を先に入れてから自らも入り、梨乃は扉を閉めた。

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