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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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入学式

令和二年六月十三日 修正

 文字化けを修正いたしました。

入学式


 四月五日、午前九時十五分。合格発表の日と同じように坂道を登る藍がいた。

 真新しいセーラー服に身を包み、黒の学生鞄を素手で握りしめている。今日はとても暖かく、念のため手袋を鞄に忍ばせてはいるが、外套は家に置いてきた。先日と同じ髪形、同じ眼鏡で、同じマフラーを緩めに巻き、膝下丈のスカートの下には、黒のタイツに包まれた、不健康なほどに細い脚が見えている。

 一月(ひとつき)半の間に日差しはずいぶんと頼もしさを増し、彼女を右の肩口から優しく包んでいる。口から洩れる吐息も、この前と同じように浅く速いが、もう目には見えない。

 陽射しが暖かいというだけで、坂道を行き交う自動車まで楽しげに走っているように見えるから不思議だ。

 先日は固く結んでいた桜の蕾もすっかり綻んでおり、気の早い花は今日にも咲き始めるのではないだろうかと思われる。

 彼女の前後には、同じセーラー服を着た女学生や学生服の男子がちらほら見える。半数ほどは親と思しき大人と連れ立って坂道を登っており、おしなべて楽しそうな様子だ。県下一の進学校に入学するというのだから、まあ当然と言える。

 だが、その中にあって、独り彼女の横顔には楽しそうな色が認められない。先日のような思い詰めた様子は見られないものの、緊張しているのが傍目にも手に取るように分かる。

 前回と同じように信号を渡り、何組かの親子に追い抜かれながら、校舎を巻くようにして校門に至った。

 校門の脇には「入学式」とだけ大書された看板が置かれている。毎年使い回すために日付を書いていないのだろう、などということは思わずに、彼女は看板を眺め、校門を抜けようとした。その時、

 「藍ちゃーん?」道の先の方から元気な声が呼んだ。慌ててそちらの方を向くと、緩い坂を自転車で駆け上がってくる碧が居た。

 「…碧ちゃん」多分その呟きは碧に届かなかったが、十秒ほどで碧は校門前まで到達し、藍の目の前で自転車を降りた。よくある三段変速の婦人用自転車だ。色は薄めの青。

 余談だが、婦人でない人も多くはこの形式の自転車を使っているし、婦人用自転車ではない自転車に乗る婦人も少なからず居るのだから、現代に於いては「婦人用」というのは適切でなくなっているが、業界では何か呼称があるのだろうか。

 「おはよう、藍ちゃん!」息も乱さず元気な声で言う。斜度が緩いとは言え上り坂を駆け上がってきたのに、なかなか大した有酸素運動能力だ。

 余談が続くが、山間地域で自転車通学する中高生には、時折妖怪じみた速さと持久力で坂を登る強者がいるので、そういう猛者から見ればこの高校の正門前の坂など平地と変わらないかも知れない。

 「…おはよう」微かに微笑んで答えた。先程まで横顔に満ちていた緊張はいつの間にか氷解している。

 「ナイスタイミングだね! 一緒に行こ!」藍の右側につき、自転車を押す。

 「…うん」藍は少し足を速め、二人並んで校門を抜けた。それに気付いた碧が、

 「あ、ごめん。速かった?」歩みを緩めて訊いた。

 「あ、ごめんなさい、私歩くの遅くて…」謙遜ではなく、本当に遅い。駅から学校に至るまで、藍を追い抜いた人は数多く居たが、追い抜かれた人は一人もいなかった。

 「ううん、藍ちゃんのペースで行こ。自転車置いて来るね!」駐輪場に差し掛かったところでそう言い、手近な所に駐めた。今日はガラガラに空いているが、学校が始まればいっぱいになるのかも知れない。

 「お待たせー!」学生鞄を右手に、元気よくそう言って、藍の右隣に戻ってくると、

 「講堂ってそれだよね?」渡り廊下を介して校舎と繋がる二階建ての建物を見ながら言う。

 「うん、多分…」自信は無いが、藍もそう答えた。他の人たちもそちらに向かっている。

 建物の入口まで行ってみると、ガラス扉が二枚開け放たれており、その隣のガラス扉に「入学式  於 二階講堂」と印刷された紙が貼られていた。

 並んで扉を抜けると、薄暗い玄関の奥に空色に塗装された大きな鉄の引き戸と、その両側に上へ向かう階段が見えた。

 一瞬立ち止まった後、碧が左の階段に向かって歩き出し、半歩遅れて藍も続いた。コンクリート作りの素っ気ない階段を登ると、二階はきちんと照明が灯されており、講堂の入口に何組かの親子と、教師らしい若い男がいた。若い教師は二人が階段を登りきったところで、

 「クラスごとに分かれて座ってもらいますので、表でクラスを確認して下さい」と声をかけてきた。

 「うわ、ここでクラス判るんだ!! 一緒でありますように!」碧が少し緊張した声で言い、藍は無言で二度強く頷いた。

 前の親子が確認するのを黙って待ち、開け放された講堂の扉に貼られた長い表を見る。五十音順に名前が並び、それぞれの右側にアルファベットが添えられている。

 「相生…F。…………青井…F!! 藍ちゃん、(おんな)じクラスだよ!!」飛び上がりそうな勢いで碧が言うと、

 「よかった…!」藍は緊張した表情のまま、しかし救われたように溜め息をついた。

 「F組は入って右の方です。中の先生から詳しい位置を聞いて座って下さい」若い教師も笑顔だ。二人を微笑ましく思っているのだろう。今日だけでもこういう遣り取りを何度か見たと思われるが、なかなか飽きるものではないらしい。

 二人はまた並んで講堂に入った。三人掛けの木製の長椅子は、ざっと見たところ半分程度が埋まっている。前半分が新入生席、後半分が保護者席となっているようで、前側は左右二列ずつは使用せず、残り八列を前詰めで使っている。クラスごと、ということだろう。まだ待ち時間だというのにあまり話し声が聞こえてこないのは、知らない者同士が前後左右に座っている割合が高いせいだろうか。

 右側の壁に沿って進むと、半ばを過ぎた辺りに、合格発表の日に紙を貼り出していた教師が立っており、

「おっ、君たちか、入学おめでとう! 同じクラスになれたかい?」にこやかに訊いてきた。先日もそうだったが、友人に話しかけるような気安さなためか、あまり教師という感じはせず、悪く言えば威厳や貫禄が無い。

 「はい、F組です!」碧が元気よく答える。それほど大声ではなかったのだが、周りが静かなためかなり目立ったらしく、後ろの方に座っていた新入生が何人か振り返った。教師は特に驚いた風はなく、

 「Fは右から3番目の列だね。前から詰めて座って」やはり気安い感じにそう言った。

 「はい、ありがとうございます!」「ありがとうございます…」碧に続いて藍もそう言い、会釈して、指示された方へ向かった。

 碧を前に島の右側を進みながら何とはなしに数えてみると、前半部も後半部も椅子十五列から成っており、F組は前から七列までが埋まっていた。

 空席のある八列目まで来たところで、碧は藍を先に通して左端に座らせ、自分はその隣に座った。

 「クラス一緒になったね!」小声だが元気よく碧が言う。心底から嬉しそうな笑顔だ。

 「うん」返事は控えめながら、満面の笑顔で藍も答える。

 「クラス発表でこんなにドキドキしたの初めてだよ~。座るまで忘れてたのに、またドキドキしてきちゃった!」言ってから心臓の辺りに右手を当てた。押さえられたセーラー服がささやかなふくらみを浮き上がらせる。

 それを見て、藍も自分の心臓辺りを右手で押さえる。掌に伝わる鼓動は速く、強かった。

 「私も……」

 そのままの姿勢で十数秒過ごし、

 「あー、やっと治まってきた。藍ちゃんは?」言いながら藍の方を向いてきた。

 「私、まだ……」藍は自分の右手を見つめたままだ。

 そこで、急に碧がくすくすと笑い出した。

 「!?」驚いて碧の方を向くと、笑いを堪えながら、

 「あ、ゴメンゴメン。二人並んでこの姿勢だからね、君が代流れてる時の日本代表みたいと思ったら、なんかおかしくなってきちゃって」余人にとっては何が面白いのかという内容だが、そこは箸が転んでもという年齢だ。そして、転ぶ箸の伝染性はかなり高い。二、三秒の裡にだんだん可笑しく思えてきて、藍もくすりと笑った。

 「碧ちゃん、面白いね…」

 「え、そうかな?」ようやく元の表情に戻り、少し不思議そうに言う。

 「うん…、私だったら絶対思いつかないよ…」

 「いーや、これから君が代流れる度にこれ思い出して笑っちゃうんだよ」また笑いを我慢している表情になっている。波が戻って来たのだろう、肩を微かに震わせている。そしてこの波は再び藍も拐い、

 「……そうかも…」碧に比べればかなり控えめだが、口元が笑いの形に固定されてしまった。

 たっぷり三十秒ほど声を殺して笑った頃、碧の隣に後続が来たことでようやく二人は笑いから解放された。解放者はスポーツ刈りの小柄な男子で、碧が自分の方を向いたのに気づいて軽く会釈をしたが、後は無言で座った。

 「おはようございます」碧が気軽に声をかけると、その男子は緊張した様子で、

 「おはようございます」と挨拶を返してきた。関西方面の抑揚だった。

 男子生徒はそのまま押し黙り、所在無げに前方を眺めている。碧もそれ以上は話しかけず、藍の方に向き直った。

 この間十秒余、藍は前を向きながら、少し不安を感じつつ横目で碧を見ていた。藍は男子が苦手なので、会話にこの男子が入ってくるのを恐れたのである。

 「藍ちゃん、あとどれくらいかな?」何が?と訊き返しても不思議ではない質問だったが、

 「十…七分かな」すぐに左袖を少したくし上げ、腕時計を見ながら答えると、

 「わ! その時計かわいいね!」碧が食いついた。声が多少大きかったのと、急に上体を動かしたのとに驚いて、隣の男子生徒が座った姿勢をそのままにビクッと動いたが、藍の方を向いている碧は気づかなかったようだ。

 「…入学祝にお父さんが買ってくれたの…時刻分からないと通学に不便だろうって…」時計を着けた左手を碧の方に差し出す。女物にしては多少大きなアナログ時計で、文字盤は微かにラメの入ったピンク色の文字盤に黒のローマ数字と簡素だが、長針も短針も細く優美な曲線を描いており、凝った印象を与える。

 「そっかー。藍ちゃんが選んだの?」

 「ううん…」

 「えー! じゃ、お父さん? センスあるね!」

 「そう…かな?」

 「うん、えーと、何て言うか… ! オトナかわいい感じだし、藍ちゃんに似合ってるもん」

 「え? そう……?」

 「うん!」自信たっぷりに言い切った。大人から見れば、藍などとてもオトナには見えないが、同い年の、しかも碧のように元気な人間にとっては、おとなしい=淑やか=オトナという等式が成り立つのかも知れない。

 藍は左手首を碧に預けたまま、頬を赤く染めて俯く。褒められてどうしていいか分からず、困っているのだ。

 「話変わるけど、藍ちゃん歩きで通学なの?」碧は新たな話題を思いついたらしい。

 「松本駅まで松電で、今日は駅から歩いて来たんだけど……すごく時間かかったから、バスの方がいいかも……」松電は松本電気鉄道の略だ。現在は社名変更しているが、松本では未だにその呼び方の方が通りがいい。

 「そっか。家ってどの辺?」

 「渚…。駅と川の間で、駅まで歩いて五分くらい…」普通の高校生女子ならば三~四分、男子なら二~三分といったところか。渚は地名で、松電の渚駅がある。川は奈良井川のことだ。

 「え、うちからけっこう近いよ! わたし、高宮!」興奮して声が大きくなってきた。隣の男子がまたびくっと体を震わせるが、碧はやはり気づいていない。

 「え…! うちの学校に高宮の子いたよ…!」藍も少し声が上ずってきた。

 「え、ホント!? 藍ちゃん中学どこ!?」

 「鎌田…」

 「あー、なるほど~。高宮北とかは鎌田なんだけど、南は信明なんだよね」

 「…碧ちゃんは高宮南なの?」

 「うん! 自衛隊のすぐ横ー」陸上自衛隊松本駐屯地の住所が高宮西、その東側が高宮南、その北側が高宮中、その北側が高宮北、その東側が高宮東と住所が分かれている。

 「…じゃあ、かなり家近いね…」藍は嬉しくなってきた。自分では気づいていないが、珍しくかなりはっきりした笑顔だ。

 「うん! 土日とか一緒に遊びに行こ!!」こちらも満面の笑顔だ。「早速なんだけどね、梨乃さ」と言いかけたところで講堂内に放送が流れ、碧は話すのを()めた。

『間もなく入学式を開始いたします。新入生諸君及びお立ち会いの皆様は、席に着いてお待ち下さい』保護者の皆様、と言わないのは、複雑な家庭環境の入学生がいる可能性を慮ってのことだろうか。

 教師を含む全員が背筋を伸ばしたように、藍には感じられた。自分も前方に向き直り、僅かに浅くなっていた座席位置を改める。隣で、碧も座り直したようだった。

 構内が水を打ったように静まっている。

 さほど待たせず、次の放送が入った。

 『これより入学式を挙行いたします。式次は以下の通りでございます。

 一.国歌斉唱

 一.校歌斉唱

 一.校長挨拶

 なお、式終了後、各種連絡がございます』そこで少し間を取り、

 『国歌斉唱。皆様、脱帽の上、御起立下さい』

 講堂内の全員が立ち上がると、音楽教師らしい女性が舞台の左裾から現れ、ピアノの前に座る。ピアノは既に準備が整っており、教師はすぐに弾き始めた。

 皆一様に神妙な面持ちで歌う。皆が控えめな声で歌う中、碧の歌声は元気よく、かなり目立ったが、本人はそのことに気づいていないようだった。

 『御着席下さい』斉唱が終わると放送が入り、また一斉に席に着いた。

 『続きまして、校歌斉唱。合唱部が斉唱いたします。御清聴下さい』放送が終わると二十人ほどの生徒が左袖から舞台に登場し、一列に並んだ。男女比は一:二というところか。

 整列を確認して前奏が入り、校歌が始まった。山紫水明信濃國(しなののくに)云々……合唱の出来はなかなかだったが、漢文を訓み下したような歌詞で、何と言っているのか判りづらく、残念ながら覚えた新入生は皆無だっただろう。

 合唱部と音楽教師が舞台袖に引っ込むと、『校長挨拶』と放送が入った。

 最前列に座っていた教師が立ち上がり、マイクを持って舞台に上がった。校長と雖も定年前であろうからそれほどの年齢ではないはずだが、白髪白髯のせいか、ものすごい老人に見える。ごく平凡な灰色の背広を着ているが、紋付き袴であったらさぞかし似合っていただろう。

 「本校の校長を務めます、松本信一(まつもとしんいち)でございます。皆さん、入学おめでとうございます。また、お立ち会いの皆様、本日は本校入学式にお越し頂き、(まこと)にありがとうございます。どうぞ、新入生の晴れの姿をお見届け頂きますよう、お願い申し上げます。さて、校長の話など面白いものではありませんので、手短に済ませようと思いますが、入学に当たり、皆さんに一つだけお願いしたいことがあります。それは、何事も、自分で考えてほしいということです。数学の問題にせよ、将来の進路にせよ、好きな人への告白にせよ、馬券の検討…おっと、これはまだ皆さんには早いですね」誰一人として笑わない。いっそ気持ちいいほどのスベりっぷりだった。恐らく毎年こうなのであろう、校長は全く動じることなく言葉を継いだ。

「自分の都合だけで決められないことは多々ありますから、他人の意見を参考にすることも、誰かに相談することも良いと思いますが、何も考えずにそれを丸呑みすることは避けてほしい。それは、皆さんに、幸せになってほしいと思うからです。皆さんの人生は、皆さん自身のものです。御両親のものでも、教師のものでも、友達のものでもありません。ですから、自分で自分の人生を決めてほしい。それが、皆さんが幸せになるために必要なことと、私は考えます。そして、自分で決めるためには、自分で考えることが不可欠です。普段から、自分で考える癖をつけるようにして下さい。これをお願いして、私からの挨拶に代えさせて頂きます」

 軽く一礼して校長が舞台を降り、席に戻ると放送が流れた。

 『以上で、入学式を終了いたします。お立会いの皆様、ありがとうございました。新入生の皆さんは、連絡がありますので、着席のまま待って下さい』

 後方でがたがたと座席を立つ音がし、新入生は緊張が解けたようだった。多くはないが、所々で話し声が上がる。

 「いやー、校長なかなかいいこと言うね~」碧も藍に話しかけてきた。

 「うん…」

 「保護者の前で、人生は親のものではない、とかなかなかやるよね!」

 「! そうだね…かなり言いにくいよね……私…だったら、絶対無理……」自分が話しているところを想像してしまい、言葉が切れてしまった。

「その前に、こんなに人のいる前でしゃべるのが無理、だけど……」また右手で心臓の辺りを押さえた。

 「うん、絶対緊張するよねー」

 「碧ちゃんでも緊張する…?」

 「いやするでしょ普通。改まった場だし」

 「そうなんだ…よかった…」ほっと息をつく。

 「よかったの?」

 「…うん。碧ちゃんでも緊張するなら私が緊張しても当然かなって思ったら気が楽になったから……」

 「あー、うん」何と言えば良いのか分からなかったのだろう、曖昧に頷いた。

 「そう思うと先生ってすごいね…」

 「意外とあれでめっちゃ緊張してたりして…いや、それはそれですごいか」自分で言って自分で感心する。

 「うん、そうだね…」確かに、緊張しているのを悟られないようにするのは難しいだろう、と藍は思った。

 「校長いい人そう。内容もだけど、余計な挨拶とか一切抜きだったし。生徒のこと考えてくれてる気がする」笑いを取ろうとしたところでツルリとスベった話でも、それ以外で評価されることもあるということか。

 「うん」藍にも、本当に生徒のことを思っているのだな、とは感じられた。

 「馬券は検討しなくてもよかったけど」全くその通りだ。

「あ、そうだ、梨乃さ」と言いかけて、また放送に遮られた。

 『これより、新入生の皆さんに、始業式について連絡いたします。プリントを配りますので、前から順に回して下さい』

 放送が終わる前に教師が配り始め、すぐ藍たちの許にもA4の紙が回ってきた。藍の前に座っていた女生徒が振り返り、無言でプリントを手渡す。大柄な、太くはないががっしりした印象の、長い茶髪の女子だ。バレーボールかバスケットボールの選手、と言われればしっくりくる。

 藍も無言で会釈して受け取り、自分の分を取って後ろを向いた。後ろに座っていたのは自分と同じくらいの座高の、やはり長髪の女の子だった。恐らく染髪していない濃い茶色の髪を、ひっつめにして右前に垂らしている。藍が無言で会釈すると彼女も同じようにし、プリントを受け取った。

 ただこれだけのことが、藍には負担だ。前に向き直ると、深く薄い溜め息をついた。

 隣では、碧が既に紙を回し終わり、早速内容を確認している。周りの新入生も同じようだ。

 それに気づき、自分の紙に目を落としたところで放送が入った。

 『プリントは行き渡りましたか。まだ受け取っていない人は手を挙げて下さい。…………では、始業式当日の予定について説明します』

 『始業式当日は、式の前に、8時35分より各教室にてホームルームを行ないます。8時30分までに各教室に集合して下さい。1年生の教室は4階です。9時よりここ講堂にて始業式、約20分の予定です。始業式終了後、再度教室にてホームルームを実施し、終了後、解散とします』

 『なお、教科書は、ホームルーム時に配布します。当日は、それなりの大きさの鞄を持って来て下さい。また、上履きも忘れずに持って来て下さい。安全上問題がなく、床を傷める恐れもないものであれば、種類は問いません。プリントに安全上問題のある例を記載してありますので、参考にして下さい。各クラスの下駄箱の位置についても、プリントで確認しておいて下さい』

 『始業式についての説明は以上です。本日この後、午前中は校内を開放しますので、自由に見て構いません。但し、プール等一部立ち入り禁止の施設もあります』

 『それではこれで終了します。起立』前方で座っていた教師陣が立ち上がり、パイプ椅子がガタガタと音を立てる。少し遅れて新入生も席を立った。

 『礼』全員が軽く礼をし、戻った。

 『各自、解散とします』放送は何の愛想もないまま終わり、新入生はバラバラと講堂から退出し始めた。

 「藍ちゃんこの後予定ある?」座席の前に立ったまま碧が訊いてきて、

 「ううん…」藍もつっ立ったまま答えた。彼女の左側を新入生の列が通って行く。完全に波に乗り損ねた形だ。

 「じゃあ、校内探検隊しよ!」隊は不要だと思ったが、藍はそこには触れず、

 「うん…」微かに微笑んで答えた。

 結局F組が全員通りすぎるのを待って、二人も講堂から出た。扉の前で例の中年教師に行き会い、「失礼します」「失礼します…」と二人揃って挨拶すると、

 「うん。息ピッタリだね。時間があるなら校内を見て行きなさい」多少教師らしい言い方で奨めてきた。

 「はい! そうします!」碧が元気よく答え、藍がお辞儀してその場を辞し、二人並んで階段を降り始めた。碧が右側、藍が左側と自然に決まった感じだ。

 「どこから回ろっか?」碧が訊き、

 「教室…見たいけど、上履き持って来てないから……」

 「うーん、だよねー。とりあえず下駄箱の場所だけでも確認して、あわよくばスリッパとか見つけて借りよ!」

 「…うん…」

 数秒、無言で階段を降り、薄暗いままの玄関を抜ける。

 「わー、外、あったかいね!」

 「うん…」

 実際のところ、気温は摂氏十二、三度で、暖かいというほどではないのだが、太陽の力は偉大だ。二人に先行して外に出た新入生の中にも、その恩恵を受けようと校庭を歩く者が少なくない。

 大半は校門に向かい、既に校外へ出た者もいるようだが、校舎へ向かう者もちらほら見える。二人もそれに続いた。

 「あ、そうそう! 梨乃さ」碧が言いかけたところでピタリと止め、足も止めてきょろきょろと辺りを見回した。最も近い所にいる新入生が距離十五メートルというところか。

「よし」

 「どうしたの…?」

 「今日2回もジャマが入ったからね! もう1回あるんじゃないかと警戒したのー」

 「三度目の正直でよかったね…」

 「うん! ……んがね、乗馬やってるんだって。それで、今度見に行きたいです、って言ったら、来るなら大学が本格的に始まる前がいいから、次の土曜はどう?って。藍ちゃん、土曜予定ある?」

 「ううん…でも、いいのかな…、私も一緒で…」

 「うん、だって梨乃さんに、藍ちゃんと一緒に、って言ってあるし」

 「え……そうなの…?」

 「うん。じゃ、次の土曜お願いしますって連絡するね!」鞄から携帯電話を取り出し、十秒程度で手早く送信した。

 「送信完了! お待たせ!」校舎に向かって歩き始める。

 「ううん……」藍はその左に並んだ。

 校舎の玄関までの約十秒を、二人は何となく無言で歩いた。

 「さて、スリッパあるかな~」玄関の扉を押し開けながら碧が口を開く。

 壁のように立ち並ぶ下駄箱の間を進むと廊下に突き当たった。廊下にはスリッパがたくさん並んでおり、その手前に靴がざっと十数足脱がれていた。

 「読み通り」碧が得意気にニヤリと笑い、

 「うん…」藍も微笑んで応えた。

 「ではさっそく」素早く靴を脱いでスリッパに履き替え、脱いだ靴を揃えて置く。藍も同じようにしたが段違いに遅く、碧が靴を揃えた時、ようやく靴を脱いだところだった。そこから数秒費やしてスリッパを履くと、

 「ごめんなさい、待たせて…」藍はとても申し訳ない気持ちになり、情けなさそうな表情で言った。

 「ええ!? 全然!」確かにたった数秒だ。

「じゃあ行こ! 4階だったよね!」

 「うん…」碧が気を遣ってくれたのだと感じ、藍はぎこちなく微笑んだ。

 碧が左を向いて歩き出し、身体半分ほど遅らせて藍も並んだ。下駄箱のある玄関ホールのすぐ隣に階段はあり、藍はそちらに曲がろうとしたが、

 「藍ちゃん、ちょっと待って。先に1階見て行こ! 職員室とかあるんじゃない?」

 「あ…、うん、そうだね…」碧の方へ戻り、そのまま進んだ。

 階段のすぐ向こうには応接室が位置し、その奥が校長室、職員室となっていた。二人は職員室の前で足を止めたが、

 「……あっさり読み通りだったけど、特に用はないね」

 「…うん…」

 「まあ、場所だけ確認したってことで」すぐに歩き出した。

 職員室の向こうは書道室、美術室、図書室と続き、そして突き当りにもう一つ階段があった。

 その階段を四階まで登ると、階段はそこで終わり、屋上へは梯子状の足場を登るようになっていた。足場の上の天井に押し上げて開く扉が付いていて、そこから屋上に出れるようだが、明らかに平時は使われないものだ。

 四階の廊下に出ると、一年学級の教室が、手前からアルファベット順に並んでいた。

 A、B、C、D、Eと通り過ぎ、F組の教室の扉を前にして、二人は立ち止まった。

 碧が手を掛け、右に引くと、建て付けが良くないのか、扉はガラガラと大きな音を立てて開いた。

 その音に驚いた余韻を引きつつ、何故か忍び足で碧が敷居を跨ぎ、藍も続く。

 中は、当たり前だがごくごく普通の教室だった。

 廊下から見て右側が教室の前方で、その壁の中央に長い黒板が設置され、黒板の両脇は掲示板になっている。黒板の上には如何にも旧式のスピーカーが取り付けられ、そこから少し離して、何の色気もない、白地に黒文字の丸いアナログ時計が掛けられている。

 黒板の前には古びた教壇が据えられており、教壇から見て左右方向に六列、前後方向に七列の机と椅子が並んでいる。机は鉄管の骨組みに木製の天板が載り、その下に本を入れる棚、その両側面に鉤が付いているだけの簡素なものだ。椅子は机に合わせた意匠の、やはり鉄管の骨組みが座面と背板を支えるだけの簡単な構造だ。机も椅子も時代遅れな意匠で使用感もあるが、その割に綺麗に保たれている。

 後方の壁には、中央に小さめの黒板、その左右にやはり掲示板があり、それらの下には教室の端から端まで棚になっていて、棚は縦三段横十数列に分けられ、それぞれに番号が振られている。各生徒に一枡ずつ割り当てられるのだろう。窓際には、掃除用具が入っていると思しき縦長の物入れが窓際に一つ立っていて、棚を一列潰している。

 廊下側の壁には、上の方に小さな窓が並んでいるが、採光ではなく換気用だろう。扉に付いた小さな窓以外からは、廊下から中を覗うことは出来ない。

 それと対照的に、壁の反対側には、前から後ろまでずらずらと窓が並んでおり、唯一中央付近を走っている柱だけが、窓の列を分断している。窓の下辺は床から一メートル、上辺は床から二メートル程度で、南を向いているため、今も春の陽射しが教室の半ば辺りまで射し込んでいる。

 その窓際に、男子生徒が一人立って外を見ていた。男子にしては小さな体躯にスポーツ刈りの頭。入学式で碧の隣に座っていた生徒だ。扉が開いた音に一瞬反応したが、体勢は崩さず、外を眺め続けている。

 碧は教室に入ると、彼の方へと歩きながら声をかけた。藍も何となく後に続く。

 「こんにちはー。さっき隣に座ってましたよね?」

 やや間を置いて男子生徒が振り返った。碧の方を見て、すぐに視線をずらす。

 「こんにちは」とだけ言い、所在無げに立っている。やはり関西弁の抑揚だった。

 「もっとたくさん教室見に来てるかと思ったけど、意外と少ないですね」言い終わると同時くらいに碧は足を止めた。男子生徒との距離は二メートルくらいだ。藍も、碧の後ろで立ち止まる。

 「…そうですね」顔を真っ赤にして答える。女子が苦手なのか、美人に話しかけられて照れているのか。

 「何か、ちょっとレトロな感じの教室ですね。中学の方が設備良かったし。藍ちゃんとこは?」

 「…うちも、ここより新しかったよ…」急に振られて戸惑いながら、そう答えた。

 「…………」男子生徒は黙っている。

 「中学どこですか? わたしは信明で、」言葉を切って藍を見る。藍はやはり戸惑いながら、

 「…鎌田です…」小さな声で言った。

 「…僕は女鳥羽です。…あの」初めて男子生徒が自ら話してきた。

 「はい?」

 「別の中学やのに、知り合いなんですか?」

 「うん! 合格発表の時に初めて会って、その時はちょっと話しただけだったんだけど、制服作りに行った時にまた会って」

 「へえ」何だか間の抜けた反応だが、感心しているのは間違い無いようだ。

 「今日はたまたま校門で会ったから、それから一緒に」

 「へえ。羨ましいな。僕、(おな)(ちゅう)()いへんから」

 「?」

 「あ、同じ中学のやつが居ないので」標準語で言い直すが、抑揚は関西だ。

 「やっぱり知り合いいると安心感あるよね!」藍に向かって言うと、

 「うん…。私も一人だったから……」

 「うちはけっこういたけど…」と碧。

 「そうなの?」

 「うん、15人くらいだったと思う」

 「スゴいな…」男子生徒が呟く。

 「関西出身なんですか?」唐突に話題が変わった。

 「え? はい、中一まで東大阪でした」藍は知らないが、大阪府に東大阪市が在る。

 「やっぱり大阪とこっち、違いますか?」

 「はい。来てすぐショックやったんは、西にも山が見えてることでした」会話に引き摺り込まれた男子生徒は、いつの間にかすらすらと喋っている。

 「?」「?」碧のみならず、それまで緊張の面持ちで二人の会話を、いや、碧の言動を見守っていた藍も、男子生徒の言うことの意味が分からず、彼の方を見た。男子生徒は説明が必要だと悟ったらしく、

 「東大阪は、東の端は山なんですけど、西は(へい)()で、その向こうは海やから」

 「?」「?」二人はまだ話が飲み込めないようだ。

 「生まれてからずっとそういうとこに住んでたから、山の向こうに日が沈むのんにびっくりしました」

 「ああー、なるほどー」ようやく想像力が追いついたらしく、碧が感心した声を出した。藍も得心する。

 「あと、夏涼しいし、冬めっちゃ寒いし」

 「えっ? 涼しい?」

 「大阪に比べたらだいぶ。ジメジメしてへんし」

 「えー、そうなんだー。大阪には住めないなー」

 「僕もこっちの方が過ごしやすいです。冬寒いけど、着込めばええし。あと、水がうまいです」

 「水って水道水?」

 「はい。売ってる水と遜色ないです」

 「確かにコンビニで水買う気にはならないもんね。大阪の水ってまずいの?」

 「カルキ(くさ)いですね」

 「カルキのにおいが分からないけど、まずそう」

 「正月に大阪行って飲んだら、めっちゃまずかったです。こっちの水に慣れてもうたから」

 「へー、松本の水ってそんなにおいしいんだね。全然意識しなかったけど」藍に向かって言う。

 「私も、ずっと松本だから、実感ないけど……」

 「なんか、日本って広いんだね」

 「うん…」

 「じゃあ、僕、これで…」二人の会話になったのを見てか、男子生徒が言った。いつの間にか、顔が赤いのは元に戻っている。

 「はーい。…あ、わたし、相生です」碧の言葉で、誰も名乗っていないことに藍も気づいた。

 「河内(かわち)です」言ってから軽く頭を下げた。

 「…青井です」つられて藍も頭を下げる。

 もう一度軽く会釈して、男子生徒は教室を出た。その後ろ姿を見送って、

 「わたしたちも行こっか」

 「うん…」

  二人も教室を出た。開けっ放しにしていた扉を閉める時、またがらがらと大きな音が轟いた。廊下を右に進み、昇ってきたのとは反対側の階段を降りる。途中、誰にも追いつくことなく、すれ違うこともなく、一階に着いた。

 廊下をまた右に曲がると、二十足分程度のスリッパが散らかっていた。三人で話している間に、それだけの新入生が通り過ぎたということだろう。

 「もう! 誰!? このスリッパ脱ぎっぱ!!」怒りながら碧が揃え始める。手伝いながら、藍はくすりと笑ってしまった。

 「え? 何か面白いのあった?」

 「…うん、碧ちゃんが…」

 「え? わたし?」

 「…その、今の、スリッパ脱ぎっぱっていうのが……」

 「?」

 「韻を踏んでたから……」

 「あ、アー、ナルホドー」全く予測しなかった返答だったのか、碧の反応はぎこちない。

 「わたし、普段から普通に言ってるから、何とも思ってなかったよー」

 「普段から……?」

 「うん、お兄ちゃんがね、いっつもスリッパ脱ぎっぱなの、家で! その度に揃えろっつってんのにまるで聞かないの!」思い出して怒りが湧いてきたのか、スリッパを揃える手が止まった。

 「…碧ちゃん、お兄さんいるんだ…」つられて藍の手も止まる。

 「え? うん、二つ上のが一人」また予測しない質問だったらしい。いや、普通なら予測して然るべきだが、それだけスリッパ脱ぎっぱに対する怒りが大きかったということか。人間、堪忍袋の緒がどこで切れるのかは分かりづらいものだ。

 「…ちょっと羨ましいな…私、一人っ子だから…」

 「そうなんだ。正直、そんないいもんでもないけど、役に立つこともあるね」妹のために兄が存在する訳ではないのでえらい言われようと言えばえらい言われようだが、兄弟姉妹に対する感覚としては平均的なところではないだろうか。高校生になって「?お兄ちゃん大好き?」などという妹は、ほぼ虚構の世界にしか存在しない。

 「……えっと、例えば…?」

 「受験の時、勉強見てもらいました! ……兄上、かたじけない」使い方は合っているが、漢字「忝い」も覚えてほしいところだ。

 「……お世話に、なったんだね…」

 「…はい。でも、それとスリッパ片付けないのは別!!」正論だ。が、片付けなどというものは、片付いていない状態に我慢ならない人間に全ておっかぶさってくるものである。いずれ碧にも、そのことを理解する時が来るのだろう。

 「あ、うん、…そうだね……」手が止まっているのに気付き、藍は再びスリッパを揃え始めた。それを見て碧も手を動かす。

 ちょうどその時、少し向こうの扉が開いて教師が廊下に出て来た。二人を見て、

 「おう、これは感心感心。片付けてくれてありがとう」紺の背広に白髪白髯。校長だった。

 「あっ! 校長先生!」碧が小さく叫び、藍は固まったまま手だけ動かしている。

 「おっ、覚えていてくれたか。ますます感心」校長はペタペタとスリッパの音をさせながら二人のそばまでやってきて、一緒にスリッパを揃え出した。

 無言でスリッパを並べ終わると、しゃがんだまま碧が口を開いた。

 「あの、入学式のスピーチ、すてきでした!」

 「おお? そんなこと言われたのは初めてだね」校長も膝をついた姿勢のまま応じる。藍は、いつの間にか隣で正座になっている。

 「どこがよかったかね?」

 「自分で決めるために自分で考えなさい、ってところです。中学では全くそんなこと言われませんでした」

 校長は少し眉を顰めて、「そうか、それはいかんね。本当は小学校や幼稚園から言って聞かせなければならんのだがなあ」と言い、すぐ笑顔になって、

「でも私の言葉に頷いてくれる生徒もいるってことだね。勇気づけられるよ、ありがとう」

 「え、いえ……」礼を言われるとは思っていなかったのか、碧が少し面映ゆい表情になり、

「青井さんも同じだって……」と藍の方に左手を振った。

 「…………」藍は緊張と恥ずかしさで真っ赤になる。

 「その君たちを見込んでもう少し感想を聞きたいんだが」

 「…えーと、人生は親のものではない、っていうのに驚きました。親とかめっちゃ来てるのに」

 「挑発的であることは分かってるんだが、保護者の方にも御理解戴きたいからね、敢えて入れたんだ。いやあ、伝わるもんだなあ、嬉しいよ。ほかには?」

 「あ、えーと」言いにくそうな素振りを見せた。ありません、としれっと言えない性格なのだろう。

 「言いにくいことこそ言ってくれると有り難いね」校長に押され、

 「あー、あの、馬券の検討は要らなかったかなー、と」

 「ええ!? マジでございますか!?」校長が急に砕けた話し方になった。見た目に似合わず、仕事を離れるとチャラけた人なのかも知れない。

 「あ、はい…マジでございます…」つられて碧もそういう物言いになる。もちろん本人の表情は至って真面目だ。

 その遣り取りがツボにはまってしまい、藍はまたくすりと笑ってしまった。

 「あ、あれ? 藍ちゃん、おかしかった?」救いを得たように碧が話しかける。

 「え…、あ、ごめんなさい……」顔をまた真っ赤にして、下を向いた。藍の姿だけを切り取ると、罰を受けているような絵だ。

 「いやいや、謝ることではないよ。しかし、私があれ聞いた時は大受けして、笑いを堪えるのに苦労したんだがなあ」

 「え、どなたかのスピーチで、ですか?」碧が食いついた。この状況で、かなりの図太さと言えるだろう。

 「そう。高校の入学式でね。その時の校長が言ったんだ。いつか使ってやろうと思っててね、自分が校長になってから毎年入れてるんだ」

 「そうだったんですか……」碧がそう言う。もちろん、感動して、などではなく、ダメだこりゃ的な感じで、何と言えばいいのか分からなかっただけだろう。藍は無言のまま、顔だけ上げた。

 「いやあ、じゃあ、来年からはやめた方がいいかねえ?」

 「あ…、はい…、そう思います。全体的に、真面目な口調でしたし……ね?」最後の「ね?」が自分に向けられたものだと分かり、

 「はい……」藍は、何とかそれだけ口にした。

 「なるほど、笑いを入れるならもっと緊張を解かないと、ということだね」少ない言葉から相手の意図を読み取ることには秀でているようだが、十五歳から聞かなければ分からない時点で、笑いをとるのは諦めた方がいいと気づくべきだ。

「いやあ、貴重な御意見有り難う。今後に生かすとするよ。…おっと、名前を聞いておかないと」

 「え? 相生碧、です…」碧が藍の方を見、校長もそうした。

 「あ、青井…藍です……」

 「相生君と青井君…ああ! 合格発表張り出すより前に学校に来てた二人か!」

 「あ、いえ、わたしは発表が貼り出された後で……」

 「え……そんなに変わらなかったよ……」

 「いやいや、褒めてるんだよ。あんな早く来たの初めてで、しかも二人もだ、気合入ってるなって職員室で話題になったんだ」

 「はあ……」表情から察するに、碧は褒められている気など全くしていない。藍も同じだが。

 「いやあ、有意義な時間だった。二人とも、御苦労様」校長は立ち上がると、来た時同様、ペタペタと音をさせて校長室に戻った。

 二人は姿勢をそのままに、長い溜め息をついた。

 「あー、緊張したー」

 「……うん……」

 「…帰ろっか」

 「うん…」立ち上がって、二人はそれぞれ靴を履いた。また藍が碧を待たせたが、今度は二人ともまったくそれには触れなかった。気を遣った遣われたではなく、藍はそこに気が至らなかっただけである。恐らく碧も同じだろう。

 校舎を出る時にも、春の日差しは惜しみなく降り注がれていた。

 「緊張したけど、校長、いい人だったね」歩きながら、顔だけ藍の方を向いて碧が言う。

 「うん…私、動転してたけど、今思うと気さくな先生だったかも…」藍も碧の方を向いたまま歩く。

 「河内君もいい人っぽかった」

 「……うん…」何となく応えにくい。そこに何を感じたか分からないが、碧はそれ以上彼について話題にせず、その代わり、

 「すっごい期待できるよね、この学校!」

 「うん…」

 「やっぱり受験頑張ってよかった!」

 「私も…」

 「学校始まっても、藍ちゃんがいるから心強いし」

 「え…? 碧ちゃんの方が、よっぽど頼もしいよ……」誰がどう見てもそう思うだろう。

 「え? そう? 照れるな」右手で頬を覆った。わざとらしい仕草をして見せるのは、本当に照れているからかも知れない。

 そうしている間に自転車置き場まで来た。碧が自転車を解錠するのを待ち、再び並んで校門へ向かう。

 「やー、今日ホント、藍ちゃんが一緒でよかったよー」

 「緊張したね……」

 「うん。でも、これでほかの先生の時に緊張しないで済むかな!」

 「え…私は、無理…かな…」

 「いやいや、大丈夫だよ!」朗らかに言われ、

 「…うん…」不思議と少し気が楽になる。微笑みながら小さくそう言った時、ちょうど校門を通り過ぎた。

 「藍ちゃん、駅まで行くの?」

 「うん…」

 「じゃ、後ろ乗ってきなよ! 駅まで一緒に行こ!」

 「え…、でも……」

 「大丈夫! 転んだりしないって! 大きい道通らないから、警察も大丈夫!」本当に大丈夫なのかは怪しいが、松本高校から駅まで、車が入りづらい道は確かにある。

 「…うん…じゃあ、お願いします…」

 「うん! 任せて!」

 校門を出て道を渡ったところで藍を荷台に座らせ、碧は自転車を漕ぎ始めた。右腕を碧の腰に回した藍は、想像していたよりずっと筋肉質であることに驚いたが、それを口には出さなかった。

 学校の外周に沿って右に曲がり、すぐまた左に曲がる。藍が朝登ってきた道の、一本東の道だ。

 住宅街の狭い道を、ブレーキをかけながら、碧はゆっくり、しかしすいすいと下って行く。漕ぐ労力は大きくないだろうから、もっと速い方が左右にぶれにくいはずだが、藍に気を遣っているのだろう。

 坂を下りきると城の北側を通る太い通りに突き当たる。そこを左に曲がり、歩道に乗り上げる。すぐ現れた信号が青なのを確認して通りを渡り、また歩道のない道に入る。ここはもうほぼ平地になっており、碧は少し力を入れて漕いでいるようだ。

 そのまままっすぐ進むと、川を渡ったところで赤信号につかまり、碧は自転車を降りた。ずっと碧の腰にしがみついていた藍も、碧に引っ張られる形で荷台から腰を上げ、地面に立つ。

 「けっこう一気に来れたね!」

 「うん…ありがとう……」自転車を漕ぎ始めてからここまで、二人は無言だった。

 「怖くなかったでしょ?」

 「……あの、…ちょっとだけ……」

 「え!? ホント!? ぎりぎりまでスピード落としたんだけど」

 「…あの、左に曲がってすぐ右に曲がった時…、あの時だけ、ちょっと……」

 「そっか。止まらずに行こうと思ったら、曲がる前ちょっと出さないといけないんだよねー」

 信号が青になり、碧が自転車を押して歩き始める。この信号の一本向こうから繁華街になっているため、二人乗りはここまでと判断したのだろう。まだ碧の腰に右腕を回していた藍は、歩き出しながら腕を離した。

 「…あの、ごめんなさい…」藍が消え入りそうな声で言い、

 「えっ、何が!?」碧が驚いて振り向く。

 「せっかく、乗せて来てくれたのに……」

 「えっ!! や、怖くなかったでしょ、って訊いたの私だし。藍ちゃん、正直に言ってくれただけでしょ」

 「…うん、…そうだけど……」その通りなのだが、やはり申し訳なくて下を向いてしまう。

 「また後ろ乗ってよ、ね!」

 「うん…!」何か礼を言いたいが、何と言えばよいか分からない。その間に碧は、

 「やー、今の道初めて走ったけど、信号少なくてよかったなー」話を続けた。

 「…突き当たりまで一つしかなかったね…」

 「下りはなるべく止まりたくないもんね。ね、藍ちゃん、途中に銭湯あったの見た?」

 「…え、…ごめんなさい、気づかなかったよ…」

 「んー、右側だったからねー、藍ちゃんからは見えなかったかー」実際には、碧の腰にしがみつくのに必死だったので、左側にあっても見てはいなかっただろう。

「まあ普通の銭湯っぽいところだったんだけど、名前がね、ばらの湯だったの」

 「…薔薇…?」

 「うん、ひらがなだったけど、多分roseのバラだよね」

 「…珍しいね…」

 「だよねー! 松の湯とか梅の湯とか、植物の名前多い気はするけど、バラ初めて見たー」

 「…私も、初めて聞いたよ…」

 「どんなところか気になるー。お風呂にバラの花びらとか浮かべてんのかなー」

 「それは素敵かも……」その様子を想像する。藍は薔薇が好きなので、とても魅力的に思える。

 「お風呂あがってもいい匂いしそうだよね!」

 「…うん…」またそれを想像し、藍は少し陶酔を感じた。

 「ね、今度行ってみよ? ばらの湯」

 「…え、私、銭湯、行ったことないから…」

 「わたしもないけど、でもきっと温泉と似たようなもんだよ!」

 「…うん…」と言ったものの、乗り気にはなれない。見知らぬ他人がいることに抵抗を感じるからだ。

 「バラの時期っていつ頃かなあ」

 「…5月か6月くらい…」

 「その頃に行ってみようよ! きっとバラ風呂やってるよ!」

 「うん…」今度は即答した。やはり薔薇風呂は魅力的だ。

 ばらの湯について話しているうちに、二人は駅前のロータリーへと延びる大通りに出ていた。二本ほど向こうの通りには、二人が制服を作った百貨店が見えている。碧に引き摺られる形で、藍にしてはすごい速さで歩いて来たことになる。

 右に曲がって大通りを駅の方に歩きながら、藍は鞄を開き、中から文庫本を一冊取り出した。ツルゲーネフ作「片恋」である。

 「これ……」

 「あっ、忘れてた! わたしも持って来たんだった! ちょっと待ってね!」自転車を歩道の端にとめ、前籠に置いた鞄を開けて文庫本を抜き出す。それを藍の方に差し出しながら、藍の差し出す本を受け取った。少し遅れて、藍も碧の手から文庫本を取った。「姑獲鳥の夏」と書かれている。

 「面白かったら言ってね! 続き持って来るから」本を鞄に仕舞い、鞄を閉じながら言う。

 「うん、ありがとう……」藍も本を鞄に入れながらそう応えた。

 歩き出した二人は駅舎に目をやって少しの間沈黙し、その後、ほぼ同時にお互いの顔を見た。藍がぎこちなく笑って、

 「……あの、今日、ありがとう……」と言うと、碧は、

 「え、全然!! また一緒に帰ろ!」と応えた。

 「……」自転車で送ってくれたことに対してのありがとうではなかったのだが、

「うん……」それを説明することは出来なかった。

 二人は駅まであと信号一つを残すところまで来ている。駅へ向かう方向の信号が青になり、碧が藍に声をかけた。

 「じゃ、またね! 梨乃さんに乗馬見学のこと言っとくから、細かいこと決まったら電話するね!」

 「…うん、ありがとう…」

 「うん! ほら、信号変わっちゃうよ!」碧に急かされ、

 「…うん、じゃあ…」信号を渡り始める。信号が変わると言ってくれた碧の気遣いに応えるため、全速力。それでも大して速くはないのだが。

 歩行者信号が点滅して藍は小走りに横断歩道を渡り切り、足を止めて振り向いた。その間に自転車に跨っていた碧が笑顔で大きく右手を振り、藍も肩口の辺りで右手を振った。

 信号が変わって碧が自転車を漕ぐのをじっと見つめ、彼女が視界から消えると、藍は駅に向かって歩き始めた。

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