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リセエンヌ  作者: 松本龍介
27/62

巡礼1(/2)

巡礼


 土曜日、午前九時十三分。

 いつもの時刻に起床し、たっぷり手間をかけて弁当を作った藍は、一旦自室に戻り、今、外出着に着替えている。

 今日も先週と大差無い服装だ。おしゃれに興味の無い彼女はそもそも衣裳をあまり持っていないのだが、その少ない服がほぼ紺のブラウスとスカートで統一されているので、どれを選んでも似たような印象になるのである。無論、彼女にとってはそれで何の問題も無い。

 スカートのポケットに財布とハンカチ、ティッシュを入れ、腕時計を装着して完装。

 台所へと戻り、湯気の抜けた弁当に蓋をし、弁当箱を小風呂敷に包んで手提げに入れる。これで準備完了、藍は玄関に行って靴を履いた。

 玄関を出て扉を閉めた時、自転車でやって来た碧が門の前で止まった。水色の運動靴を履き、その上はジーパンに青のブラウス、それに先週と同じポシェットという出立ちだ。

 「わ! ナイスタイミング!!」碧が嬉しそうに言う。約束の時間より三分ほど早いから、藍が出てくるとは予測していなかったであろう。

 「おはよう…!」

 「おはよう! 今日回る所なんだけどね」

 「うん…」

 「まだ行ってない所行こ! (あがた)とか(なわ)()とか駅前とか!」

 「うん…」

 「南から北に向かってって、時間余ったら図書館も行こ!」

 「うん…あ、これお願いします…」弁当の入った手提げを前籠に入れようとすると、

 「お弁当!?」碧が目を輝かせた。

 「うん…」既に籠に入っている紙袋をずらして場所を作り、そっと置く。

 「やった! ささ、乗って乗って!」と言って自転車の向きを変える。

 「うん…」荷台に座り、碧の腰に右腕を回して、

「お願いします…」と言うと、自転車はゆっくりと動き出した。

 突き当たりを左へ、その先の踏切を渡ってすぐ右へ。先日二人でワッフルを買ったアサワの前を通り過ぎる。と藍は思ったが、自転車は店の出入口へと向かい、扉の斜め前で止まった。

 「おやつにワッフル買ってこ!」振り向いて碧が言う。

 「うん…!」藍は荷台を降りた。九時半出発というのは少し遅いなと藍は思っていたのだが、なるほどこのためだったのか。自分の好きなワッフルを碧も好きになってくれたようで、藍は嬉しい。

 店の出入口と路面との間には十cmほどの段差が在る。その段差に自転車の前輪を突き当ててからスタンドを立て、碧は自転車を離れて店の扉の前に立った。少しの間を置いて自動扉が開く。

 中に入ると、ワッフル生地の焼ける甘い匂いが漂っていた。

 碧は正面奥へ向かいつつ、

 「おはようございます!」今朝もレジの傍に立つ店主に挨拶した。

 「おはようございます…」藍が碧に倣うと、

 「いらっしゃい!」店主もにこやかに挨拶を返してきた。

 ワッフル用窓口の前にはまだワッフルが並んでおらず、小窓の向こうで店主の妻がワッフル生地を鉄板から剥がしているところだ。

 「いらっしゃい。ちょうど今焼けたところよ。何にしましょう?」

 「ヨーグルトとフルーツ一つずつ!」嬉しそうに碧が注文する。

 「はい。ちょっと待ってね」

 待つこと二分、淀み無い作業で二つのワッフルが形になり、差し出された。

 「わ、おいしそう! いただきます!」

 「ありがとうございます」

 碧がレジで会計を済ませ、藍は碧について出入口に向かう。その背中に、

 「藍ちゃん、また来てな」店主が声を掛け、

 「うん」藍は振り向き、微笑んで頷いた。

 店を出て、ワッフルの代金を渡すため藍はポケットから財布を取り出した。しかし、財布を開きかけたところで碧が、

 「あ、藍ちゃん、ダメだよー。お弁当作ってもらってるんだから、おやつはわたしー」

 「え…でも…」一応抵抗を試みるが、

 「ダメです」

 「はい…」あっさりと敗れ去った。

 「さ、乗って乗って」自転車の向きを変え、荷台をぽんぽんと右手で叩く。

 「うん…」藍が荷台に腰掛けると碧もサドルに座り、いつものように、藍が碧の腰に右腕を回したのを合図に自転車は滑り出した。

 そのままゆっくりと進み、二百メートルほど先の国道との交差点で赤信号に止められた。藍は荷台を降りる。

 「どうしたの?」碧は怪訝顔だが、

 「そこ、警察署だから…時々お巡りさん通るの…」と言うと、

 「えっ、そうなの!?」大袈裟な手振りで驚いた。

 「うん…今、門の前通ってきたよ…」

 「えー!?」知らぬが仏というやつだ。

「くわばらくわばら」

 碧の唱えた(まじな)いが効いたのかどうかは分からないが、信号が青に変わるまで制服警官が現れることは無く、二人は歩いて国道を渡り、小さな川を渡るまでそのまま進んでから自転車に乗った。余談だが、くわばらというのは、元々は落雷除けの呪文である。

 この辺りは松本高校付近と違い、土地の起伏が小さい。碧は全く力を入れる様子無く、軽々とペダルを回し始めた。

 先程の川から二、三十メートル、今度はかなり幅の広い川に出た。その上を跨ぐ橋の長さが五十メートルほどになるだろうか。川底が掘り下げられて水面が地面より数m下に位置しているため、橋は平たい。両岸に沿って道路が走っている。

 橋を渡ると、すぐ先で丁字路に突き当たり、碧はハンドルを右に切った。

 「あ、線路…と、駅。松電だよね?」

 「うん…西松本…」

 「あ、そんな駅あったっけ? 話に夢中で全然見てなかったよ~」先週乗った時のことであろう。

 「碧ちゃんでもそんなことあるんだね…」藍にとっては意外なことであった。梨乃といい碧といい、話しながらでも周囲をよく観察している印象だ。

 「えー、しょっちゅうだよー。昨日じっくり地図見たのに線路あるの見落としてたし」

 「え…この道、初めて通るの…?」それだけでこんなにすいすい進んで行けるものだろうか。

 「うん。地図で川ばっかり気にして線路全然見てなかったー」

 「川…?」

 「うん。この先で川が合流するから間違えないようにって」

 「あ、そうなんだ…」

 「あ、踏切だよ。お尻注意!」線路が道路より一メートル以上高いところを通っているため、踏み切り手前数メートルは急な登り坂になっているが、碧はそれまでの勢いを生かして楽々と登りきった。

 「あ、はい…」藍は衝撃が来るのを覚悟したが、踏み切りは意外と平坦で、少し揺れただけで済んだ。

 「ホントだ、西松本!」線路を越えると右側に駅がある。渚同様、無人駅だ。

「北松本と南松本はJRで西松本は松電…。東松本ってないよね?」

 「え…うん…ないと思う…東の方、線路ないし…」嘗ては松本駅と松本市北東部に位置する浅間温泉との間を路面電車が結んでいたのだが、昭和三十七年に廃線となっている。ちなみに、この浅間線にも東松本という駅は無かった。

 「そっか…一つだけ揃ってないとなると何か残念…」

 「うん…」言われてみるとそんな気がしてきた。

 「藍ちゃん毎日図書室行ってる?」突如話題が変わったが、藍ももうすっかり慣れた。

 「うん…」

 「もしかして毎日本借りてる?」

 「うん…一冊ずつ…」

 「てことは毎日一冊読んでる?」

 「うん…」

 「やっぱりか! 藍ちゃん超人」

 「え…短編集とかの薄い本ばかりだったから…」

 「それでも超人だよー! わたしなんて黒い兄弟まだ100ページくらいだもん。どんなの借りたの?」

 「ボルヘスと、サキ短編集と、フランダースの犬と、狭き門…」

 「わー、フランダースの犬以外全然聞いたことなーい。フランダースの犬って短編なの?」

 「え…と…短編って言うには長いけど…多分百ページくらい…」

 「えー、そうなんだー。昔アニメでやってたから、長編なのかと思ってたよー」

 「そうなんだ…」

 「うん、本放送は昭和だけどねー。パトラッシュってアっちゃんみたいだよね!」

 「うん…!」藍もそう思っていた。彼女の想像の中では、パトラッシュはジャーマンシェパードの姿をしている。

 「アっちゃん忠犬だもんなー。うちのクロに爪の垢煎じて飲ませてやりたいよー」

 「わがままなの…?」

 「んー、猫だからある程度ワガママなのは仕方ないんだけど、うちの親とお兄ちゃんがみんなして甘やかすもんだからねー」以前にもそんなことを言っていた。

 「そうなんだ…」

 「悪さしても全然怒らないからどんどんつけあがっちゃって。梨乃さんを見習って、どっかで半殺しにしてやらないと」どう聞いても物騒な言い方である。

 「え…それは…」具体的にどうするのかは藍の想像力の埒外だが、クロが大丈夫なのか、虐待にならないかという二点で心配だ。

 「ついでに親とお兄ちゃんも怒っとかないと! と言うよりこっちの方が本命だね!」

 「え…大丈夫なの…?」藍は大きな衝撃を受けた。家族を半殺しにしてしまっては、考えるまでも無く犯罪である。

 「うん、クロに関してはわたしが責任者だからね! 今日にでも正座させて説教するよ!」

 「あ……」少し考えれば当然のことだが、動揺して半殺しの方にしか考えが向かなかった。ほっとしたやら恥ずかしいやらで、藍は顔を真っ赤にしている。

 「藍ちゃん大丈夫? 怖かった?」碧の声で藍は我に返った。知らぬうちに、右腕に力が入っていたらしい。ちょうど今短い下りのS字を通過したので、藍が怖くてしがみついたと思ったのだろう。実際には、恥ずかしくて力が籠ってしまっただけで、全く意識せずS字の動きに合わせて重心移動していたのだが。それだけ二人乗りに慣れてしまったのである。

 「あ、ううん…大丈夫…」意識して力を抜きながら、藍は答えた。

 「そう? 無理は禁物だよ!」と言いながら速度を緩めないということは、藍の言葉に嘘が無いと判断したのであろう。

「あ、で、ほかの本おもしろかった? 伝奇集だっけ? 最初に借りてたの」

 「うん…それも短編集なんだけど、その中の『バベルの図書館』が、面白いっていうのとは違うんだけど、よくこんなこと思いついたな、って…」

 「えー!? どんなのどんなの!?」

 「あ…言ってもいいの…?」

 「うんうん! わたしが読むとしてもすっごい先になっちゃうし!」

 「じゃあ…え、と…現実にはありえない図書館でね」

 「うんうん」

 「存在しうる全ての本が収蔵されてるの…」

 「えーと…?」

 「え…と…例えば、姑獲鳥の夏が収蔵されてて、その隣に、姑獲鳥の夏と一文字だけ違う本が置いてあるの」

 「『姑獲鳥の冬』みたいな?」

 「うん…またその隣には別の一文字が違う本が並んでて…」

 「なるほど! 全ての文字の全ての組み合わせだけ本があるわけだ!」察しの良い碧にはもう飲み込めてしまったようだ。

 「うん…」

 「じゃあその図書館には無限に本があるんだ!」作中では本の頁数、行数、行当たり文字数に規格が有ることを述べているが、本の数は「文字の種類」数の「総文字数」乗なのだから、譬喩としては無限と言ってよかろう。

 「うん…」

 「で、中には全く文章になってない本もあると。て言うか、そういう本の方が多いと」

 「うん…そうなるね…」

 「そんなスゴいけどバカっぽいこと、よく考え付いたね!」

 「うん…」藍も全く同じ感想である。

「作者誰だっけ?」

 「ボルヘス…」

 「それがボルヘスさんか! どこの人? なんかスペインっぽい響きー」

 「アルゼンチンだって…」

 「全然違った! アルゼンチンって南米だよね?」確かに場所は遠く離れているが、アルゼンチンもスペイン語を公用語としているから、碧の印象も的外れではない。

 「うん…」

 「アルゼンチンと言えばパンパ!」

 「うん…」

 「中学の先生がアルゼンチン、パンパ、アルゼンチン、パンパ、って繰り返すから興味ないのに覚えちゃったよ~」

 「そうなんだ…あ、パンパの話もあったよ…」

 「ホント!? ちょっと興味出てきた!」それは、中学の先生もパンパを繰り返した甲斐が有ったというものだ。

 「あ…でも血生臭い話だったけど…」ナイフで決闘する話である。

 「え……」中学の先生、残念。

 「あ、碧ちゃん、テトラグラマトンって分かる…?」

 「え…テトラポッドなら分かるけど…それも本に出てきたの?」

 「うん…主の名前を示す四文字って書いてあったけど、何のことか分からなくて…」

 「うーん、サッパリ…明日梨乃さんにきいてみよ!」

 「うん…!」

 「いやー、いい風だねー」本の話題は終わったらしい。碧の言う通り、自転車の進行方向、藍にとっての右側から爽やかな風が吹いている。

 「うん…! 今、川沿いなの…?」目の前を通り過ぎていく民家がいつの間にか目線より低くなっているから、堤防の上でも走っているのかと推測する。

 「うん、(すすき)(がわ)ー。もうすぐ最初の巡礼地点だよー!」

 「すすき川って、どの辺通ってるの…?」名前は聞いたことがあるのだが。

 「駅とか県の少し南ー。えーっと、確か鎌田と同じくらいの緯度だよ」東から西に向かって流れている。

 「碧ちゃん、よく知ってるね…」

 「でへへへ、昨日地図すんごい見たからねー」付け焼き刃でこれだけ覚えられることにもだが、地図を見て覚えられること自体に藍は驚く。藍は、文字情報を暗記するのは得意だが、画像情報となるとサッパリなのだ。

「ケータイで地図見れば分かるけど、いちいち取り出すの面倒だから。ケータイは迷った時の非常手段!」

 「うん…」如何にも碧らしいと思い、藍は微笑んだ。

 「あ、あれだ!」とある橋の手前で碧が声をあげた。

「次の信号で右に曲がるね」

 「うん…」ということは、目的地は川向こうか。そちらの方に首を捻ってみると、神社らしい木立が目に入った。作中に神社の場面があるから、これだろうか。確か、深志神社。

 予告通り自転車は次の信号を渡ってから右折して横断歩道を渡り、橋の歩道に乗った。

 そのまま橋を渡るのだろうと藍は思ったが、橋の半ばで自転車は止まり、碧はサドルから降りた。ということは、この橋がそうなのだろう。藍も荷台から降りた。

 碧は自転車のスタンドを立てると、前籠に入っている紙袋から本を取り出した。

 「じゃーん! 最初の巡礼地点はこの筑摩(つかま)(ばし)でーす!」本を開いて藍に見せる。見開きで絵が描かれており、その背景は今ここから見える景色を模写したものだ。

「第1話の見開きだよ!」

 「うん…!」orangeを読んでいて城山公園が出てきた時にも感じたのだが、何だか不思議な心持ちである。自分の住む街の景色がこのように描かれて全国に出回っているのだ。藍は絵と景色を何度も見比べた。今自分達二人が立っているこの橋が、まさに描かれている。それも何だか不思議な気がした。

「上手に()いてるね…」

 「ね! ちなみにアニメでは一本向こうの()(はらし)(ばし)が使われてます! てわけで、行ってみましょー!」

 「うん…」

 二人はまた自転車に乗った。一旦橋を渡りきってから左に曲がり、見晴橋に向かう。一本向こうと言っても、四百mほど離れているので、二分ほどの間、吹き渡る風の爽やかさと目の前を流れる薄川の清らかさ、河川敷一杯に広がる草の緑を藍は楽しんだ。

 「じゃじゃーん! こちらが見晴橋でございます~!」碧は橋の袂で自転車を止めて押し始めた。藍も慌てて降りる。見晴橋は筑摩橋と違い、自動車の通行が出来ない、細い橋だった。

 「きれいな橋だね…」橋の形状や照明の装飾など、なかなか凝っている。橋の袂には、浮き彫りの道祖神が仲睦まじく並んでいる。

 「ね! 絵的に見栄えするからアニメではこっち使ってたのかな」

 「うん…きっとそうだね…」

 「山近い! いい景色だね!」

 「うん…!」青井邸の近くにも()()()(がわ)という大きな川があり、橋の上から景色を見たことももちろんあるが、何と言うか、山と川の大きさの比率が全然違う。碧の言う通り、ここからは山が近い。自宅からさほど離れていないのにこんなにも違うのか、と藍は驚いている。頑張れば自分でも自転車で来ることの出来る距離なのに。

 「あとね、最終話の見開きがこの辺のどっかなんじゃないかなって思ってるんだけど」と言って、五巻を取り出し、開いてみせた。草っ原で、水鉄砲で遊んでいる場面だ。

 「あ、下の河原…?」先ほども見えていたが、欄干の際に立ってみると、眼下にも河川敷があり、草が生えている。

 「うん。でもこれはちょっと特定できてないんだ。別の場所かも」

 「うん…実際に降りてみないと分からなさそうだね…」

 「そうなのー。じゃ、次、行こっか!」

 「うん…」

 二人はまた橋を渡りきってから自転車に乗った。ちょうど川と車道との間に自転車道がある。今度は川を下る方向であるが、

 「信号右に曲がるね」走り出して暫くすると碧がそう告げた。筑摩橋の交差点を橋と反対方向に、ということになる。

 「うん…」藍は、右腕に少し力を入れて碧の腰につかまった。自分の背中方向に曲がっていく右折は、先が見えないせいで少し怖い。通学路はもう慣れてしまったが、ここは初めて通る道である。

 曲がった先は下り坂だ。碧はブレーキを使ってゆっくりと下る。

 下り坂の先はごく普通の住宅街だった。自宅付近とさほど変わらないなと藍が思っていると、自転車は広い歩道に乗り上げ、少し走ってから止まった。

 ちょうど藍の目の前から一本の道がまっすぐ延びている。かなりの真直度で、突き当たりの建物が見えているが、遠すぎて藍には何だか判らなかった。

 「じゃじゃじゃーん! あがたの森公園でーす!」碧の言葉に、藍は荷台から降りて振り向いた。真後ろに半円形の空間、その奥にコンクリートタイル敷の歩道が伸び、その境に二本の門柱が立っている。門柱は石造りだ。さらに歩道の両側には木造洋風建築が立っている。向かって右側の建物は、二人が走ってきた道に沿う方向と石柱の奥の歩道に沿う方向の二手に向かって延び、その両棟を玄関が均等な角度即ち百三十五度で繋いでいる。一方で玄関は、今二人の居る半円形の空間にも接している。左手の建物は少し奥まったところに立っていて、歩道に沿って延びている。どちらの建物も薄い水色できれいに塗装されているが、かなり古い建築という印象を受ける。

「ここは何回か出てくるよねー」

 「そうなんだ…」

 「うん! 早速行ってみましょー!」碧は自転車を押して石柱門の方へ向かった。

 「うん…」

 「「旧制松本高等学校』! え!? うちの学校って昔ここにあったの!?」石柱に嵌め込まれた銘板の文字を読み上げた碧が驚く。

 「旧制だから今の大学かな…?」

 「そうなの?」

 「そんなことを聞いたような気が…」旧制中学が今の高校で旧制高校が今の大学だったような気がするが、興味が無いためうろ覚えで、全く自信は無い。

 「てことは今の信州大学…?」

 「かな…?」

 「なんかこれは解決しないと気持ち悪い! ここで分からなかったら後でネットで調べよ!」

 「うん…」

 「では気を取り直して! この道、実写で通学シーンに使われてました!」

 「そうなんだ…」水色の木造建築とその前に並ぶヒマラヤ杉、さらにその前に設置された木製の長椅子が風情たっぷりだ。

 「もちろん原作にも出てくるよー!」

 「うん…何か、日本じゃないみたいだね…」では何処かと訊かれても答えられないが、何となく欧州のような印象だ。

 「言われてみるとそうだね! なんかオシャレだもんね! 左の建物、教会っぽいし!」

 「あ、(ほん)()だ…」今まさにこの建物が使われているらしく、内部の照明が漏れてきているのだが、窓から見える内装は木のように見受けられる。藍がキリスト教の教会に入ったことは無く、恐らくどこか海外の教会を写真で見たことが有るだけなのだが、そこが重厚な木の内装であった。

 「これがその旧松本高校の校舎だったんだよね?」

 「あ…うん…多分…」

 「昔の高校?大学?の方がオシャレとはくやしい!」

 「え……」またしても、藍が考えもしないことであった。

 「うちの高校なんて門構えはちょっとエラそうだけど、校舎は四角い鉄筋コンクリートだし! そのくせ一階の廊下暗くて怖いし!」

 「うん…そうだね…でも、木造だと廊下歩いただけでぎしぎしいいそう…」

 「え…そうなの?」碧は木造建築に入ったことが無いらしい。

 「うん…古くなると特にそうなんだって…」

 「夜だったらけっこう怖いね…」碧は歩みを止めた。自然、藍も止まる。

 「家鳴りとかもひどいって言うよ…」

 「やなりって何?」

 「建物が鳴ること…」

 「え!? ラップ現象!? 怖い!!」

 「気温の変化で建材が伸び縮みする時に鳴るんだって…」

 「あー、なるほど! でも誰もいないのにギシギシ鳴ると怖いね…」

 「うん…実際に聞いたことないけど…夜、一人の時に鳴ったら…」

 「うわ、ムリムリ! わたし即パニック!」

 「うん…」

 「それが原因で不登校になっちゃうよ~」

 「うん…」それはまた可愛らしい不登校だと藍は思うが、恐らく碧は真剣に言っている。

 「分かりました! 鉄筋万歳!」

 「うん…」

 「はー、コワいシミュレーションだった! あ、なんか看板立ってるよ!」二人の歩く歩道沿いにも左側の建物の玄関があり、そこに何かの案内板が立っている。

「『講堂は見学施設ではありません。本館の復元校長室、復元教室はご自由に見学できます』だって! ここ、講堂なんだね!」

 「そうなんだ…」そう聞けば、如何にもそんな大きさの建物である。

 「あとで本館行ってみよ!」

 「うん…」

 「あれは何だろ?」二人から見て本館の左側にある、煉瓦風な外観の建物を碧は指差している。

 「新しいっぽいね…」先ほどの木造校舎に比べればごく最近に建てられた、鉄筋造りの建物のように見受けられる。

 「ちょっと見てみましょー!」

 「うん…」

 二人は入口の前まで行き、

 「『旧制高等学校記念館』」入口の上に打たれた銘を碧が読み上げた。

「さっきの分かるかも!」と言って自転車を入口の脇にとめる。

 「うん…」硝子扉の向こうに、変わった格好の男を描いた看板が立っているのが見える。鍔の割れた学帽を被り、学生服に高下駄、それに黒マント。所謂蛮カラだが、藍はその言葉も過去にそのような文化が存在したことも知らないので、ただ珍妙な格好というだけの印象を受けた。

 その少し奥にまた硝子扉、その向こうに狭いロビーが見えているが、中を観察する前に碧が扉の前に立ち、自動扉が開いた。

 藍も慌てて自転車の前籠から手提げを取り、後に続く。

 二枚の硝子扉の奥は外から見えた通りのロビーで、入ってすぐの左手に部屋があった。碧は何か見つけたらしく、部屋の入口辺りに立ち止まった。

 隣に立って見てみると、碧の読みがズバリ的中、「松本高等学校のあゆみ」と題された年表であった。大正八年の設立から読んでいくと、旧制松本高校は現松本高校ではなく、信州大学の前身であることが分かった。

 「大学だったね!」

 「うん…」

 「スッキリしたけど、うちの高校はずっとあそこにあるってことかな?」

 「さあ…でも、学校に資料あるんじゃないかな…」

 「あ、そっか」

 「月曜調べてみるね…」藍自身はあまり興味を覚えないが、調べれば碧が喜んでくれるだろう。幸い、放課後の時間はたっぷり有る。

 「わー、ありがとう!」

 「……」

 「じゃ、スッキリしたところで次行きますか!」室内には十点ほどの絵画が飾られているが、碧はそれには惹かれなかったらしい。

 「うん…」藍も、芸術にはほとんど興味が無い。

 二人は館外に出てまた歩道を歩き始めた。が、旧制高等学校記念館を通り過ぎて十五メートルほどで、

 「あ! ここ!」右手を見ながら碧が立ち止まった。自転車のスタンドを立て、籠からorange 一巻を取り出してカバーを取り外し、

「これ、ここじゃない!?」そのカバーを開いて藍に見せた。主人公逹六人が二つの長椅子に分かれて座っているところだ。

 「え…えーと…」確かに、長椅子はこれのようだが、同じものが何箇所か設置されている。

 「ほら、このテーブル! それじゃない!?」碧は絵の端に描かれた木製の卓を示した。

 「あ、本当だ…」確かに配置が合っている。きっとここなのだろう。

 「よし! じゃ、わたしたち的にはここで決定!」

 「うん…!」仮に間違っていても、碧がそれでいいなら藍に異議は無い。

 「という訳で座ってみましょー!」

 「あ、うん…」

 碧は自転車を歩道の端に置き、向かって右の長椅子に向かった。

 「あ、そっちなんだ…」藍はてっきりもう片方に座ると思っていた。表紙では主人公二人がそちらに座っているからである。

 「うん! さあさあこちらへ!」長椅子の端を一人分空けて座り、そこを右手でバンバンと叩く。自分が碧の右側に座ることに凄く違和感を感じるが、とりあえず言われた通りにする。

 と、碧が軽くもたれかかり、腕を組んできた。藍もほんの少しだけ寄りかかってみる。

 「藍ちゃん、脚組んで! 右脚が上ね!」

 「え…うん…」とにかく言われた通りにしてみる。

 「完璧! この状態です!」碧は左手で一巻のカバーを持って裏表紙の部分を見せる。

 「あ、本当だ…!」見事にその絵が今の二人の格好を再現している。いや、逆だ。二人が絵の構図を再現している。

 「梨乃さんもいたらよかったなー」

 「うん、そうだね…」

 「! や、ダメだ! 梨乃さんがいたら絶対アズの役取られてわたしハギタの役だ!」そのハギタは二人と同じ長椅子の、反対側の端に座っている。表情からすると、二人にからかわれているようだ。

 「あ、うん……そうだね…」その場面が実に鮮明に脳裡に浮かぶ。

 「なので今日はこれでオッケーってことで!」

 「うん……!」無論藍には不満など無い。

 二人は何となく無言で空を見上げた。晴れ間と雲の割合は半々といったところで、太陽が隠れたり顔を出したり。そのせいで少し暑くなったり少し寒くなったりするが、その変化が却って快適だ。orange の登場人物もこんな日にこのベンチでのんびり過ごしたのかなと考え、物語の中の彼らが恰も実在しているかのように錯覚した自分に藍は驚いた。

 暫し春の陽気を満喫して席を立ち、二人は歩道に戻った。

 二、三十メートルも行かないうちに斜め右に道が枝分かれし、その先に小さな池とその上を縦断する橋が目に入った。橋の途中には屋根が架かり、四阿のようになっている。

 「あ、この橋! 雨宿りしてた所だ!」

 「手紙出す相談もしてたね…」

 「うん、そうだね! この橋いいねー!」

 「うん…!」池の上に平たい橋を渡し遊歩道の一部としてあるだけなのだが、なかなか趣が有る。

 二人は橋の袂まで来た。

 「『あがたの橋』」橋に書かれた文字を碧が読む。

「自転車大丈夫だよね?」

 「うん…コンクリートだし…」幅もかなり広い。三メートルも有るだろうか。

 「あ、カモいる!! かわいいね~!」

 「うん…!」水面を、鴨が数羽かたまって泳いでいく。それが池のあちらこちらで数箇所。皆気持ち良さそうで、見ているだけで楽しい気分になる。

 「今だけカモになれたらな~!」また藍の想像範囲外のことを言う。

 「うん…そうだね…」さぞかし心地好いであろう。

 二人は鴨を眺めながら中程に在る四阿まで来た。設置されている長椅子の前に自転車を置いてから碧が腰掛け、藍も隣に座る。

 「うーん、快適!」

 「うん…」

 「こーれは何回も来るわ」主語は、orange の主人公達であろう。

 「うん…」

 「冬以外はいいね、ここ!」

 「うん…蚊が出ないか心配だけど…」

 「うわっ、そうだね! 水流れてなさそうだもんね!」

 「うん…」流れていればかなり安心なのだが。

 「夏場は念のため蚊取線香持参だね!」

 「うん…」防虫スプレーではなく蚊取線香というのが碧らしい。

 「梨乃さんとワンコローズ連れてきたいなー」

 「うん…!」連れてきて何をするという訳でもないが、一緒に歩いて休むだけでもきっと楽しいだろう。アスラン達も楽しんでくれるような気がする。

 「でもちょっと遠いねー」

 「うん…」ここから高辻邸まで如何ほどの距離なのか判らないが、徒歩であるならば藍にとって「ちょっと遠い」程度の道のりでないことは分かる。

 「梨乃さんに相談だね!」

 「うん…!」

 「向こうも見てみよ!」と言って碧は立ち上がった。

 「うん…」

 橋を渡った向こう側にも遊歩道が続いていたが、進んでいくと児童公園に突き当たり、何組もの親子が遊んでいた。その向こうには道路が見える。

 「端っこまで来たね」

 「うん…」

 「戻って校長室見に行こ!」

 「うん…」

 二人は旧制松本高校本館の玄関前まで、来た道を戻った。

 改めて見ると、学校というよりも屋敷のようだ。推理小説をほとんど読まない藍ですら、ナントカ殺人事件の舞台のようだ、と思う。如何にも昔風な建物であるし、外から見る限り建物内部は薄暗い。

 しかし碧は特に恐れる様子無く、

 「行こ!」と言って玄関への階段を上がった。藍はいつも通りの間隔でついていく。

 石造りの階段を三段登ると玄関で、さらに二段上が廊下だった。左右それぞれに延びているが、どちらもすぐ曲がっていて先は見えない。正面には二階への階段がどっしりと控えている。

 「わ、雰囲気ある~」

 「うん…」

 「めっちゃ殺人事件とか起きてそう!」

 「え…うん…」何十秒か前に同じことを考えていたのに、口に出すと物凄く不謹慎なように思えてきた。誰に対してか分からないが、藍は胸中でごめんなさいと謝った。

 「松本高校殺人事件…いや生々しすぎるか…。あがたの森殺人事件…これだね! 嵐の晩、藍と碧が校長室に入ると、そこには死体が! 死んでいるのは相生クロ秀オス一歳。慌てて電話のある部屋に移動し通報して戻ってみると死体は消えていた! 館は嵐のため陸の孤島、容疑者はこの夜学校にいた四十七名…この謎にリセエンヌ探偵の二人が挑む!」またスイッチが入ったらしい。しかし死んでいるのがクロでは殺人ではない。

 「え…クロ死んじゃったの…」

 「それが実は待て次号!」

 「容疑者多いね…」

 「学校だからね! それを藍の頭脳と碧の勘で絞り込んで行く! 待て次号!」いや、次があるとは思えない。

「で、えーと、どこから行こうかな? むーん、こっちだ!」選択肢は右、左、上の三つだ。一秒ほど考えてから、碧は右を選んだ。階段の脇に館内案内が立っていたのだが、気づかなかったのか無視したのか。

 階段の斜向かい、廊下が斜めに折れる手前の右側に三畳ばかりの細長い部屋が在り、室内に設置された長机に催し物や文化サークルのチラシが多数置いてあった。玄関に隣接する位置で、玄関との間に窓が在るところを見ると、往時は受付か守衛室として使われていたのだろう。

 廊下が折れた先には、左手に部屋が、右手に窓が並んでいた。

 「外から見るより学校っぽいね!」

 「うん…」確かに。学校と言われて違和感は無い。ただ、扉の上の壁から出ている、部屋の名称を書いた札は明らかに近年取り付けられた物だ。元々の標札は扉の隣に掛けられていたようで、その状態が再現されている。標札は黒の硬そうな樹脂板に白文字だ。

 一番手前の部屋は「應接室」、しかし扉は閉まっており、二人は素通りした。

 次は「教務課」。こちらも扉は閉まっている。

 次に「教官室」。扉の前に「あがたの森図書館」の看板が立てられ、扉は閉じられているが、「開館中」と小さな札が告げている。

 「図書館だって!」

 「うん…!」

 二人は室内に入った。

 「おはようございます」入って右手の受付から、若い女の係員が声を掛けてきた。

 「おはようございます!」「おはようございます…」二人は挨拶を返して中を見渡した。

 隣の教務課と合わせて二部屋が図書館として使われており、教務課は子供用の部屋になっているようだ。先週行った両島の西部図書館よりさらに狭く、小学校の図書室と大差無い蔵書数だが、居心地は良い。

 「かわいくていいね、ここ!」

 「うん…!」碧の言うように、可愛いという形容がぴったりくる。

 部屋の中央に大きめの卓が置かれ、座って読書したり勉強したり出来るようになっているが、今は必要無い。

 ざっと室内を一周して廊下に戻る。すぐ先に二階への階段が見えるが、廊下はそこで終わりではなく、階段の手前で左に折れていた。今度は直角である。

 曲がると今度は教室が右手、窓が左手という配置だ。窓の向こうには立派な植え込みの中庭、その向こうに校舎が見えている。

 「ここ、L字じゃなくてコの字型なんだね!」上から見た校舎の形状のことである。もう少し正確には、コの字の下の方の角がC面取りされた形状だ。

 「うん…」

 「あ、復元教室! 理科第三學年乙組だって! 乙組って昔っぽいね!」

 「うん…」

 「昔って通知表とか甲乙丙ってつけてたんだよね?」

 「うん…何かで読んだよ…」

 「それって何だろ? 甲乙丙って」

 「えーと、暦かな…」

 「暦? カレンダー?」

 「子丑寅卯みたいに甲乙丙丁ってあって、十年で一周するの…」藍は知らないが、年だけではなく、月にも日にも当てられる。

 「えー! 初めて聞いた! どんな字?」

 「十と干す…」

 「ふーん…え⁉ もしかしたら、だから干支って干す支えるって書くの⁉」

 「うん…多分…」

 「その十干はやっぱり動物なの?」

 「ううん…え…と、なんて言えばいいのかな…二つ一組で、(もっ)()()(ごん)(すい)の順番なの…」

 「もっかどごんすい…」

 「きのえ、きのと、ひのえ、ひのとって…」

 「へー! 続きは!?」

 「つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」

 「かのえ、かのとって? 木火土水は分かったけど」

 「金属の金…」

 「おー!」碧は納得の表情である。

 「十二支と組み合わせて六十年で一周するの…」十と十二の最小公倍数である。

 「へー。あ! だから六十歳のこと還暦って言うの!?」

 「うん…多分…」

 「あ、時代劇でひのえうまの生まれはどうのって言ってたのがそれかー!」

 「そう、かな…」

 「『え』と『と』は何のことなの?」

 「えが兄でとが弟なんだって…」

 「へー…え⁉ だから『えと』って言うの⁉」

 「あ…! そうかも…!」そこまでは考えなかった。やはり碧の洞察力は凄い。

 「うわー、賢くなっちゃった! 藍ちゃんスゴい!」

 「え…たまたま本に出てきたから…」藍から見れば、教室の標札からそんな疑問を引き出してきた上に、教えた側も気づいていなかった事へ辿り着く碧の方がよほど凄い。

 「いやいやスゴいよ! 疑問スッキリ解消! さあ入ろ!」言うが早いか碧はもう中に入っている。

「わー、昔はこんな机と椅子だったんだね!」

 「うん…」机も椅子も教卓も全て木製だ。実際にどこかで使用されたものを置いてあるらしく、どれも使用感を漂わせている。

 「あれ先生だよね?」

 「うん…」教壇の上に背広姿の年配の男を描いた看板が置かれている。丸い眼鏡が如何にも教師風だ。藍が掛けている眼鏡と同じような黒縁で、藍の眼鏡よりも二回りほど径が小さいだろうか。

 「『ここは高等学校なのだから、ただ教わるのでなく、自ら考えて学びとって欲しい。そして、教室の外ではおおいに羽目をはずすこと!』 いいこと言うなあ!」

 「校長先生も同じこと言ってたね…」

 「自分で考えろって言ってたよね! でもこれその後の『おおいに羽目をはずすこと!』がいいなあ!」

 「……」羽目を外したことの無い藍には今一つ分からない。それに、羽目を外すのは悪いことという気がするが。

 「そんなこと言う先生小学校にも中学にもいなかったよー」

 「うん、そうだね…」まあ、教育と同時に躾も行わなければならない義務教育中に言う台詞ではない。

 「でもうちの校長言いそう!」

 「うん…」確かに言いそうだ。ということは、碧は随分と校長を買っているようだ。

 「よっし! 次行こっか」

 「うん…」

 二人は教室前方の扉から廊下へ戻った。その途端、

 「あっ、これ! 全然気づいてなかった!」碧が窓際に寄った。扉の正面に、帽子や上着を掛けるような金具が二十ほど設置されている。

 「あ、本当だ…」藍も全く気に留めていなかった。

 「帽子とかかけてたのかな?」

 「うん…冬、コート掛けたりとか…」

 「あ、なるほど! そっちのが必要性高いね! 昔は廊下にこういうのあったんだー。おもしろいね!」

 「うん…」旧制でない方の松本高校の廊下窓側に設置されているのは火災報知器くらいのものである。

 二人は歩き始めた。その数秒後、

 「あ、トイレだって。藍ちゃん行かなくていい?」碧は歩きながら廊下の先の方を見ている。視線を追うと、「図書館」や「復元教室」と同じ形状、色の標札が左の壁から出ていた。

 「うん、大丈夫…」

 「オッケー! あ、あの電球かっこいい!」と言って指差す。「化粧室」の標札の少し手前、天井から小さな傘を被った裸電球が下がっている。

 「……」かっこいいという形容は当たらないと藍は思うが、時代感を出しているのは確かだ。

 「やっぱあれかな! 黄色っぽい光なのかな!?」電球の下に来て見上げる。

 「うん…多分…」

 「かっこいいだろうねー。夜来てみたいね!」

 「うん、そうだね…」夜になれば、この建物の見え方も随分と変わるだろう。

 「でも殺人事件に巻き込まれるけどね!」

 「うん…」碧の殺人事件への執心ぶりが可笑しく、藍はぷっと噴き出した。

 それから元教室の前を通り過ぎ、廊下の終点まで来た。突き当たりは音楽室らしき部屋、右手に「生徒主事室」、その手前に二階への階段。

 生徒主事室の扉は閉ざされているが、突き当たりの部屋の扉が開いており、碧が中に入る。勝手に入って大丈夫かと心配しつつ藍も入った。

 「あ、ピアノ! やっぱり音楽室だったのかな!?」二十畳ほどの部屋には音響機器も設置され、現在その用途に使われているのは間違い無い。

 「う…ん…どうかな…」

 「と言うと?」

 「窓が多いから…音楽室ってもっと密閉されてる感じがして…」硝子窓が部屋の三面に多数配置されているところから、当初は違う用途だったのではないかという気がする。部屋の壁に使われている木材も、教室に比べると何だか華やかな色合いだ。

 「む、確かに。同じ音楽でも、パーティーの生演奏みたいな?」

 「うん…」まさにその印象である。

 「学校でそんなのあったのかな?」

 「え…どうかな…」藍の知識に全く無い世界である。

 「学園祭みたいな!」

 「うん…」

 「ちょっとロマンチック!」

 「うん…」恋愛事に疎いと言うか積極的に距離を置く藍にはよく分からないが、世間的にはそうなのだろう。しかし、二人とも知らないことだが、旧制松本高校の学生はその歴史の中でただ一人を除いて全員男子であったので、碧の想像するような恋愛事(ロマンス)は存在しなかった蓋然性が高い。

 「ここも夜見てみたいね!」

 「うん…でも、蛍光灯だね…」この部屋の木目は電球の橙色の光によく映えるだろうが、残念ながら現在の照明は藍の言う通りだ。

 「ありゃ、ホントだ。残念!」

 二人は部屋を出た。

 「『生徒主事室』……。生徒会長室みたいな?」

 「うん…かな…?」残念ながら違う。生徒主事とは、主に戦時中、生徒の思想等の監督、指導を担った職員のことだ。余談であるが、現在あがたの森文化会館の部屋に貼られている黒い標札は、昭和十四年当時の室名である。

 碧がもう一度奥の部屋を見て、

 「あ、書いてあった! 生徒課だって!」と標札を指差した。

「生徒課って何するところだろ?」

 「うん…何かな…」

 「また新たな疑問が」と言いつつ碧は生徒課から離れた。

 その時、二階で吹奏楽器の音が鳴った。音楽ではなく、ただ吹いただけの音。

 「練習かな!?」碧の目が好奇心に光る。

 「うん…」藍の声を掻き消すようにまた鳴った。今度は高い音だ。先程と別の楽器であることは疑い無い。

 「行ってみよ!」

 「うん…」

 二人は階段を登った。しかし踊り場で碧がピタリと立ち止まり、首を傾げた。

 「この扉…何だろ?」踊り場の壁に扉が嵌め込まれている。

 「うん…」

 「向こう、もう外だよね?」

 「うん…多分…」

 「ここだけ部屋増築してあるのかな?」

 「階段の下に扉あったからそうかも…」

 「だよねー。ちょっと待ってて」碧は速足で階段を降り、再び登ってきた。

「下の扉は外に出る用の扉っぽかったよ! 両開きだし窓あったし」屋外が見えていたということだろう。

 「うん…」目の前の扉に窓は無く、如何にも隣の部屋に通じる扉、という感じである。

 「謎だねー」

 「うん…」

 「これが事件解決の決め手だね!」

 「……」どうにも殺人事件から離れられないようだ。

 「どうなってるか後で見てみよ!」

 「うん…」一体向こうがどうなっているのか、藍も気になる。

 しかしそれを一時措いて、二人は二階に上がった。二階から聞こえる音はその数を増して、何種類の楽器が鳴っているのか判らない。

 しかし、藍が二階の廊下に立って音源である突き当たりの部屋の方を見た瞬間、煩い程に鳴っていた音が一斉に止んだ。

 碧と顔を見合わせ、部屋の方に向き直って、身動きせずに待つこと十数秒、一斉に楽器が鳴った。今度は音楽になっている。恐らくクラシック音楽ではない、明るく軽妙な曲。

 二人はその曲が終わるまで、その場でじっと聴いた。

 「ブラスバンドかな?」碧が小声で訊いてきた。

 「うん、多分…弦楽器の音聞こえなかったから…」

 「上手だったね!」

 「うん…」演奏技術の優劣は藍には分からないが、気持ちよく聴けたから、きっと上手なのだろう。

 「行こっか」

 「うん…」二人はそっと歩き始めた。

 二階は一階とほぼ同じ構造で、三部屋が使用中だった。入れる部屋は無く、二人は廊下の窓から中庭を見渡しながら反対側の終点まで歩いたが、そこには階段が無かったので、玄関の真上に当たる位置まで戻った。

 「やっぱりこの階段かっこいい!」

 「うん…」正面玄関から上がってくる階段のことである。二階から下る左右二本の階段が踊り場で合流して玄関前に向かう、大きな洋館に在りがちな構造。二人が上がってきた奥の階段とは違い、手摺や柱に多少の装飾が施されている。

 「よっし! ちょっとブルースシスターズの練習しよ!」

 「え……?」また碧が何か思いついたようだが、藍には想像がつかない。

 「藍ちゃんここ立って!」二人から見て右側の階段の前で碧が指示する。

 「うん…」藍は訳も分からず言われた通りにする。

 碧は左側の階段の前に立ち、

 「荷物左手に持ってー」

 「うん…」わざわざ指定するということは右手で何かするのであろうが、それが何なのか皆目見当がつかない。

 「声かけるからわたしと一緒にゆっくり階段降りて! 左足からね!」

 「うん…」

 「せーの、いち!」碧の号令に合わせて藍は左足を踏み出す。一秒ほど置いて碧が、

「に!」右足。

「いち!」左足。

「に!」右足。

「いち!」左足。

「に!」右足。

「いち!」左足。

「に!」右足。

「いち!」左足。

「に!」右足。

「いち!」左足が踊り場に着いた。

「に! じゃあ次足出したら体ごとこっち向いてー」

 「うん…」

 「いち!」左足を出してから左を向くと、碧もこちらを向いたところだった。

「そのまままっすぐー。に!」右足。

「いち!」左足。

「に!」右足。二人は目の前で向かい合った。

「右手出してー」と言って左手を腰の前に出してくる。真似をして出した右手が碧に握られた。

「一階の方向いてー」二人は揃って玄関の方を向いた。

「藍ちゃん左足からねー。二歩目から階段降りるよー」

 「うん…」

「いち!」言われた通り左足を出す。碧が出したのは右足だ。

「に!」

「いち!」

「に!」

「いち!」

「に!」

「いち!」

「に!」

「いち!」

「に!」

「いち!」

「に!」

「いち!」

「に!」

「いち!」左足が一階の廊下に着いた。

「次で足揃えるよー。に!」

 二人がきれいに並んで止まった。いや、実際どうなのかは分からないが、揃っている気がする。

「バッチリだね!」教官から合格の旨が告げられたので藍はほっとした。が、それも一瞬、

「じゃ、本番いこっか!」

 手を引かれ、二階に戻された。

「じゃ、また左足からね! せーの」その一言で今回は号令が掛からないと理解した藍は、歩調を合わせるために碧の方を見た。

 碧もこちらを見ている。急に気が楽になるのを感じながら、藍は左足を踏み出した。

 右、左、右、左。何かに操られるような感覚を奇異に感じながら階段を踏む。

 右、左、右、左、右、左。

 踊り場に足を置いた藍は、碧に向かって引き寄せられるのを感じながら前に出た。

 碧の前で向きを変えるとすぐに手が握られ、今度は碧に操られながら階段を降りる。

 一階に立った藍は最後に両足を揃えて止まった。

 「一発で決まったね! さすがわたし達! ピッタリぴた子!」自画自賛である。ということは、碧も揃っていると感じたのであろう。

「階段降りてる間、めっちゃ藍ちゃんに操られたよー!」

 「え…!」藍の感覚では全く逆である。

 「藍ちゃんテクニシャンー!」いや、それは碧のはずだ。

「めっちゃ気持ちよかった! こんなの初めて!」

 「うん…私も…!」そこは完全に同意出来る。

 「藍ちゃんも!? ではもしかしたら何かの神が…!」

 「え……」それには同意出来ないが、碧が本気で言っているのかそれとも冗談なのか分からないので特に反論はしない。

 「ダンスする人っていっつもあんな感じなのかなあ?」

 「え…さあ…」藍はダンスなどしたことが無い。運動会で行進する時ですらズレていると言われる程なのである。

 「ブルースシスターズ的にも大成功だね!」

 「え…?」階段がどう関わっているのだろう。

 「定番でしょ! 階段降りながら登場するの! ホントは歌いながらやりたかったけどねー」なるほどそういうことか。

 「……」しかし実現されなくて本当によかった。そんなことを言われていたら、誰か人が来たらと気になって階段を踏み外していたかも知れない。

 「梨乃さんにジマンしよ!」碧は本当に嬉しそうである。藍は、動きが揃った上に碧がこんなに喜んでくれて二重に嬉しい。

「じゃあいよいよ校長室ですか!」

 「うん…」

 碧は踊り場から藍の手を離しておらず、そのまま手を引いて廊下を右方向に歩き始めた。

 曲がってすぐが「會計課」、ここも扉は閉ざされているが、中では照明が点いている。現在は事務所として使われているのである。そしてその隣に「校長室」の標札が見えている。

 「わっ、スゴい!」部屋に入る前から碧が声を上げた。

 「うん…」中を覗いた藍も相槌を打つ。二十畳ほどの部屋で、窓際に事務机と椅子が置かれ、その正面に円卓と四脚の椅子。椅子は、五脚とも同じ、肘掛け付きのものだ。机の斜め後ろには扉付きの棚。入り口から見て右手の壁に本棚と二脚の椅子、大きな鏡。この椅子には肘掛けはない。部屋と廊下を隔てる壁には化粧台らしき家具と暖房器具。ただそれだけで、調度品も特別高級という感じはしないが、如何にも偉い人の部屋という雰囲気が漂っている。

 「偉そうだねー!」部屋に入った碧が周囲を見回しながら言う。

 「うん…」

 「うちの校長室もこんなに偉そうなのかな?」

 「多分…違うんじゃないかな…」豪華絢爛ではないが、現代の感覚からすればやはり多少金をかけ過ぎている感が有る。

 「だよねー。ちょっと偉そう過ぎだよねー」

 「うん…」

 「応接室は別にあるし、もっと質素でいいよね」

 「うん…ここの応接室ってどんなだったのかな…?」

 「え? 応接室なんてあった?」

 「うん…最初に前通った部屋…」

 「あ、あー! あれ、おうって読むんだ!」

 「うん…旧字体…」應のことである。

 「じゃ、ダンスホールの上の部屋は?」

 「会議室…」會議室という表記であった。

 「こっち側の二階の奥は?」

 「図画教室…」圖畫教室。

 「スゴい! 藍ちゃんよく知ってるね! また梨乃さんみたい!」

 「え…そんなこと…」

 「あるあるー! 旧字体とか習わないもん、学校で」

 「うん…そうだね…」確かに、学校では習っていない。本から得た知識だ。

 「で、ここより偉そうなのかな、応接室」

 「うん…」来客向けであるから、もう少し華美な装飾だったかも知れない、と藍は想像した。

 「机と椅子はこれぐらいでいいね」机は抽斗の把手以外総木製で、大きいが手の込んだ装飾は無い。椅子も木製で、座面と背もたれが皮張りだが、やはり装飾性は無い。

 「うん…」

 「これ以上は、うちの校長にはゼータクだね!」

 「うん…」

 校長は今頃くしゃみでもしているだろう。

 「ちょっと座ってみよ!」碧が机の向こう側に向かって歩きだし、藍は手を引かれる。

 「え…いいのかな…」

 「座るなって書いてないよね?」

 「え…と、うん…」確かにそのような注意書は無い。

 「じゃ、大丈夫! よいしょっと」碧は腰掛けて凭れた。まだ手を放さないので、藍はすぐ隣で立つ格好だ。

「ふうー。いいね、これ! 椅子はいいし隣には有能な美人秘書」また始まったようだが、有能でも美人でもない、と藍は思った。

「ここ座りなさい、ここ!」ついに手を放したと思ったら、その左手で自分の腿をパンパンと叩く。完全にセクハラ上司の言動であるが、受け側が嫌がらなければハラスメントは成立しない。

 躊躇したものの、結局藍は机に手提げを置き、碧の腿の上に座った。横向きに座りたかったのだが、肘掛けに阻まれたため右斜めを向いている。碧が左腕を回して、背を支えてくれた。

 「ブフフフフ、これはたまりませんなあ!」二、三秒そのままの姿勢で止まってから、

「じゃあ交代ね!」

 「え…!?」自分が碧を膝に乗せろということか? 藍は焦った。

 「藍ちゃんも椅子座ってみて!」

 「あ…うん…」そういうことかとほっとして、藍はまだ自分が碧の上に座っていることに気づき、慌てて降りた。

 碧も椅子から立ち上がって脇にどき、代わって藍が腰掛ける。ほぼ見た目から想像していた通りの座り心地だった。正直、すごく快適、という訳ではない。

 「じゃあわたしも抱っこねー」

 「え…」と藍が言いかけた時にはもう碧が腿の上に尻を乗せていた。

 慌てて右手を出して碧の背中を支える。が、一秒も経たずに腕が限界を迎え、碧の上体が後ろへと倒れた。

 碧が後ろに転ぶと思った藍は恐慌に陥ったが、その碧が乗っているため体が動かない。

 しかし藍の危惧を裏切って碧の上半身は斜め四十五度ほどで停止した。恐慌中の藍は何故止まったのか分からず、動けないまま意識だけがおろおろしたが、碧が転がらなかったことに安心して漸く、肘置きが彼女を支えているのだと理解した。

 「藍ちゃん抱っこー」姿勢を維持しながら碧が要求する。

 「え…うん…」藍は再び右腕を碧の背中に回すが、今度は腕に荷重がほとんどかからない。碧が凭れ具合を調節しているに違い無い。

 藍は右腕に力を入れて、少しだけ碧の上体を引き寄せた。碧が嬉しそうに口の端を上げ、腕に凭れかかってくる。

 その結果、藍の腕がすぐまた限界に達し、力が抜けた。碧は鋭敏にそれを察し、倒れないようバランスを取ってから、藍の膝を降りた。

 「美人秘書との秘密の一時、たまりませんなあ! ブフフフフ」

 「……」何と言うべきか藍には分からない。碧と触れ合って悪い気はしないと言うか、もっと率直に言えば嬉しいのだが、ここは公共の場である。誰か来たらと思うと気が気ではない。

 「堪能したことだし、行きますか!」

 「うん…」藍は弁当の入った手提げを取って立ち上がった。

 机の横にある校長の絵の看板と壁沿いの本棚については言及せが、碧は部屋を出て右に向かった。

 突き当たりには扉が在り、開け放されている。その向こうはもう屋外のようで、先程訪れた旧制高等学校記念館の壁が見えている。

 二人は外に出て右に折れた。中庭の向こうに校舎が見える。

 中庭は、二階の窓越しに眺めた時よりも狭く見えた。植え込みの背が高く、視界が遮られているからだろうか。應接室の窓の前辺りに立派な桜が植わっていて、鮮やかな若葉が繁っている。

 しかし碧はそれらを迂回して向かいの校舎の端の方へ向かった。

 「あの扉の向こうどうなってるかな!?」碧はワクワクした様子だ。

 「どんな部屋かな…?」

 「絶対後付けだよね」

 「うん…下には何もなさそうだったんだよね…?」

 「うん。で、行ってみたら何もなかったりして」

 「え…それは…」扉の向こうに何もなくては危険と言うほか無い。

 そして反対側に回ってみると…。

 「ないね、部屋…」

 「扉はあるのにね…」

 屋外側からも確認出来るということは、あの扉はただの騙し絵的な存在ではあるまい。

 「めっちゃ危ないね!!」

 「うん…」

 「扉があると思って歩いたら落ちちゃうよ!」

 「うん…」

 「気づかなかったら落ちないけど、いつか気づくよね!」

 「え…?」気づかなくても落ちるに決まっている。

 「トムとジェリーでよくあるよね! 鉄骨の上とか歩いてて、気づかずにそのまま空中歩いて、気づいたら落ちるやつ!」

 「あ、うん…」言われてみれば、小さい頃に観たような気がする。

 「まさか最初からああじゃないだろうけど、何があったんだろうね?」

 「うん…」

 「気になるー!」

 「うん…」これは藍も気になる。一体どういう用途だったのか、どういう経緯で現状の姿になったのか。

 「間違いないのは、あれが事件のトリックだってことだけだね!」

 「え……」

 「あからさまに怪しい…しかしこの扉をどう使ったのかが分からない…理詰めの藍、閃きの碧。二人は事件を解決できるのか? 今春、二人の推理が銀幕に火花を散らす!」

 「え…映画だったの…? 小説だと思ってた…」こんな質問をするくらいだから、藍はすっかり碧の世界に引き込まれている。

 「そうだよー! 公開初日はシネマライツで舞台挨拶があります」シネマライツとは、碧の家の近くにある映画館の名である。正式名称は「シネマライツ8」。

 「舞台挨拶って…?」

 「上映と上映の間に監督とか出演者が出てミニトークショー。つまりわたし達も登壇!」

 「あ、そうなんだ…」空想の話なので藍も焦ったりはしない。

 「いや待てよ、場所的にはイオンシネマが圧倒的に近い…しかしなじみがあるのはシネマライツ…むーん…」イオンシネマ松本はあがたの森から信号一つ分しか離れていない。

「あ、そっか、両方やればいいんだ」

 「忙しいね…」

 「いやいや、アニメ映画の舞台挨拶とか、一日で東京大阪福岡なんてのもあるんだよ! それに比べたら楽勝!」

 「あ…そうなんだ…すごいね…」

 「新幹線様様だよね!」

 「うん…」

 「松本には新幹線ないからなー」

 「うん…」

 「ま、初日は松本松本長野の三回くらいでいいや! 翌日東京大阪。翌週ニューヨーク、ロンドン、パリ」

 「え…」まさか海外の都市名が出てくるとは思わなかった。

 「二月にはハリウッドにも行かないといけないよ!」

 「え…何があるの…?」

 「アカデミー賞! や、てことはその前にカンヌとベルリンにも行かないといけないな…」

 「忙しいね…」

 「だね! まずはパスポート取らないと!」

 「うん…そうだね…」こんなに妄想を広げて盛り上がれる碧の集中力は凄い。自分だったら、途中で我に返ってしまう。

 「やる気でてきたー! でも扉の謎が解けてないのが気持ち悪いー!」

 「うん…そうだね…」

 「次行きますか!」

 「うん…」

 二人は玄関前まで戻った。

 藍が荷台に腰掛けると碧はすぐに自転車を発進させ、目の前の交差点を渡った。たまたま信号が青だったのである。そのまま、まっすぐに延びる道の左側の歩道を走る。

 一つ先の信号を境に、道幅が倍くらいに太くなり、両側の建物も民家から店舗や事務所に変わった。なのに、通り過ぎる車の音があまり聞こえてこない。筑摩橋の方が交通量が多いのではないか。

 「碧ちゃん、この道って…」

 「うん、突き当たりは駅だよー」即答されたが、藍が訊こうとした内容ではなかった。そして、

「でもその割にガラガラだね。何でだろ?」碧にも理由は分からないようだ。

 「うん…」

 「あ、NHK。で芸術館っと。次曲がるねー」

 「うん…」

 劇場のような印象を与える建物を通り過ぎると、自転車は左へ曲がった。藍の目の前の建物を碧は芸術館と呼んだが、芸術という名に相応しい意匠だと藍は思った。

 そして、少し進むと建物の足許にごく浅い水路が現れた。中では鯉が泳いでいる。道の先は行き止まりのようで、人通りが多いとも思えないこの道でこのように凝ったことをしているのがまた芸術っぽい。

 などと考えていると自転車は右へと曲がっていき、神社の玉垣が目に入った。その向こうに社殿。どうやら神社の裏手らしい。同時に、芸術館沿いの道がごく細い未舗装の道になって続いていることも判ったが、藍がその道を使うことは有るまいと思われる。

 そしてすぐ自転車は停止した。ちょうど藍の目の前から石畳の歩道が始まっている。藍は荷台から降りた。

 すぐに碧もサドルから降り、

 「じゃじゃじゃじゃーん! 深志神社でございまーす!」

 「あ、ここがそうなんだ…」では薄川の向こうに見えていた木立は別の神社なのか。

 「二年参りに来てたよね!」

 「うん…」

 碧が自転車を押し始める。階段や段差が在る訳ではないので自転車に乗ったまま境内を通行することは可能であるし実際そのようにする人も多いのだが、碧は降りて通行する方を選んだ。神社に対して碧が多少なりとも畏敬の念を抱いているということであろう。そしてこの行動は藍にとっても当然のことであった。藍の場合、その動機は「自転車に乗ったまま境内に入るのは神社の関係者に対して失礼に当たる」という観念である。

 そんな訳で二人は神社正面の鳥居に向かって歩いた。境内に人影は無い。

 「カラフルだね!」

 「うん…」社殿も神楽殿も手水舍も、朱を基調に青、黄、紫、緑、白、金と多くの色で装飾されていて、地味を好む藍は何だか落ち着かない。

 「今日お祭りとかじゃないよね?」

 「うん…多分…誰もいないし…」

 「だよねー。じゃ、こういう神社なんだね。初めて見たよー」

 「私も…」

 「鳥居が赤いのは見たことあるけど」

 「うん…」

 碧はキョロキョロと周囲を見回しながら自転車を押し、藍はそんな碧を見ながら歩いて、二人で石造りの鳥居を(くぐ)った。

 「ここ大丈夫だよね?」道路脇に自転車を寄せてスタンドを立てる。

 「うん…」建物の前だが、扉の前は避けているので大目に見てもらおう。

 二人はそれぞれ自転車の籠から荷物を取り、改めて鳥居を潜った。まずは十数m先の左手に建っている手水舍だ。

 「ここも凝ってるー!」手水舍の屋根の下に入るなり碧が言った。

 「うん…」天井の中央から吊り燈籠が下がり、四方には彫刻と塗装の施された派手な欄間が巡らされている。如何にも格の高そうな印象だが、藍の好みではない。木目剥き出しの茶色の方が、彼女にとっては好感が持てる。

 「じゃ、藍ちゃん、お願いします!」

 「あ…はい…」

 二人は鹽竈神社の時と同じように手を洗い口を漱いだ。正しい作法としては最後に柄杓の柄に水を流して濯ぐのだが、碧はもちろん藍もそれを知らない。藍が作法を覚えた神社の手水舍にその事が書かれていなかったからである。尤も、もしかしたら神社によっては作法が違うところも在るのかも知れない。

 「あ、看板あるよ! 御祭神、(たけ)()()(かた)(とみの)(みこと)、菅原道真公。二人なんだー」碧は由緒書の前から動かない。続きを読んでいるのであろう。藍も読むことにした。

「ふむふむ」藍は、ふむふむという言葉が実際に口に出されるのを初めて耳にした。

「…はー、ここ二つの神社が同居してるんだね!」

 「うん…本殿に両方祀られてるのかな…?」

 「かな? 仲良しだといいね、神様!」

 「うん…そうだね…」神同士が仲良く、などと藍は考えたことも無かったが、日本の神は総じて人間と変わらない性格で、その上八百万も居ると言うのだから、中には反りの合わない神も居るだろう。

 「あ、でも、建御名方富命ってどんな神様? お諏訪様って書いてあるけど」

 「私も全然…」藍は好んで古典を読むが、神話を扱った古事記や日本書記は読んでおらず、断片的に話を知っているのみだ。

 「そっかー。菅原道真は学問の神様だよね」

 「うん…」

 「じゃあお諏訪様は武道担当かな!? 二人とも学問の神様だったら口げんかになりそう」

 「え…うん…そうだね…」毎度毎度よくそんなことがすぐ思い浮かんでくるものだと藍は感心する。碧の中では、瞬時に人物像が組み立てられているのだろう。きっと、どんな服を着ているかと訊けば、タケミナカタはああでミチザネはこうだ、とすらすら答えるに違い無い。

 「よーし、今回は神様の名前も分かったし、バッチリお詣りするぞー!」

 「うん…そうだね…」

 二人は参道を先へ進んだ。正面に高床の建物が在り、参道は左右に分かれてその建物を迂回している。その建物には壁がないため、奥に本殿が見えている。

 碧が左に進む気配を見せたので藍もそちらに流れた。

 「これ、何かな!?」建物の傍で碧は立ち止まった。

 「神楽殿かな…」

 「あ、神楽舞うところ!?」

 「多分…」

 「あー、なるほどね! ちょうど神様から見やすい高さになってるんだ!」

 「あ、そうだね…」そこまでは考えなかった。やはり碧の観察眼は自分より遥かに鋭い。

 「すごいね! さすが神様、すごいおもてなしされてるね!」

 「うん…」

 「神楽ってどんなのかなあ!? 見たことないよ~」

 「私も…」

 「あれかな? 卑弥呼みたいな服着てやるのかな?」

 「え…それ逆じゃないかな…?」

 「え!? どういうこと!?」

 「卑弥呼が巫女だから巫女の服着てるっていう想像図なんじゃないかな…」

 「え!? あの服って想像なの!?」

 「多分…卑弥呼のことは文字でしか伝わってないって小学校の先生が言ってたよ…」

 「あ、あれか! 魏志倭人伝!」

 「うん…」その中で当時の倭人の衣服が描写されているが、布を二枚縫い合わせただけのごく簡単な服であったらしいから、そうだとすれば袖無しシャツ一枚みたいな格好であり、現代の巫女の衣装からはかなりかけ離れている。尤も、魏から錦を下賜された旨の記述が在るのでそれを服に仕立てて着用していたことは十分考えられるし、服自体を大陸から持ち帰っていた可能性も有るから、もしかしたら想像図通りの格好をしていたのかも知れない。いずれにせよ、遺されているのは文字情報のみである。そして、また余談であるが、魏志倭人伝という名は通称であり、「三国志」の中の「魏書」の中の「東夷伝」のそのまた中に在る「倭人伝」という項目のことだ。

 「そっか、卑弥呼の服は想像図かー。すっかりダマされてたよー。刷り込みってコワいね!」

 「うん…」

 「では気を取り直してお詣りしましょー!」

 「うん…」

 二人は神楽殿と拝殿のちょうど中間辺りまで歩いて立ち止まった。

 「立派なお宮だね!」

 「うん…」

 「なんか神社って色塗ってないイメージなんだけど、ここはカラフルだね!」

 「うん…そうだね…」神社の社殿というと木の地肌をそのまま使っているような印象或いは先入観が有ったが、ここ深志神社の拝殿は柱や梁に朱塗が施され、扉も真鍮か何かで装飾されている。手水舎も全体的に塗られていた。

 そういった装飾に目を走らせながら、賽銭箱の前まで来てみると、鈴から垂れる綱も赤、青、白の三本から出来ていて色鮮やかだ。鈴の向こうに掲げられている扁額には、浮き彫りにされた「深志神社」の四文字に金箔が押されている。一目見た時に豪華と感じたが、細部を見れば見るほどそれが裏付けられていく。

 それに比べると社殿の内側は飾り気が無いが、建物自体が大きいためか、質素という感じは全くしない。

 「よっし! 藍先生、よろしくお願いします!」

 「え…あ、はい…じゃ、まずお賽銭を…」

 「はい!」手に持った硬貨を碧は賽銭箱へ落とした。乾いた金属音が、妙に大きく聞こえる。藍もかなり遅れて百円玉を入れた。

 「鈴を…」

 「はい!」上から垂れた綱を振ると、ガラガラと音がした。

 碧が気をつけの姿勢に戻るのを待って、藍は深々と一礼した。自分としては、脚と上体が直角になっているつもりだ。

 隣で碧も同じようにしている。気をつけに戻り、二人はもう一度礼を繰り返した。

 それから柏手。パン、…パン、と二人の音がきれいに重なる。碧が横目で見て藍に合わせたに違い無い。

 「頭がよくなりますように!」碧が声を出したので藍は驚いた。しかも、何となく頭の悪い言い回しである。

 碧は手を合わせた姿勢で二、三秒止まり、藍が一礼を終えてから礼をした。

 「藍ちゃんは何お願いしたの!?」鳥居の方に向かいつつ碧が訊いてきた。

 「え…お願いって言うか…勉強頑張りますって…」

 「ん何ですとぉ!? 何そのわたしとの違い! 神様に頼ってる時点でダメか!」

 「え…そんなことない…と思うけど…私、お願い思いつかなかったから…」受験であれば合格、と願い事も具体的になるが、今の藍には具体的な目標がまだ無い。

 「いーや、何か姿勢の違いを感じた! よし、わたしも勉強がんばります!」拝殿の方に振り向いて碧は宣言した。

「でもさっきのお願いは、あれはあれで!」その台詞が可笑しく、藍は噴き出してしまった。きっと道真公も失笑していることだろう。

「あれ!? 変だった?」

 「え、ううん…お願い、聞いてくれるといいね」

 「うん!」

 二人は鳥居の向こうまで戻り、自転車に乗った。この周囲も住宅街だったが、深志神社が道を曲げているせいか、或は神社自体の醸し出す雰囲気のせいか、他所とは違う感じがした。

 その住宅街の間を通り、車両用の点滅信号を右に曲がって少し走ると広い通りに出た。藍はどちらに向いているのかもう分からなくなっていたが、ちょうど自分の正面に駅が見え、この道が先ほどの大通りで自転車は今北に向いているのだと分かった。

 大通りを渡った歩道上で自転車が止まり、藍は荷台から降りた。次の目的地はここかと思ったが、

 「ごめーん、ちょっと危なそうだったから待ってるだけー。乗って乗ってー」

 「あ…、うん…」言われるがままに荷台に座り直す。

 数台の自動車が通り過ぎてから、自転車は動き出した。なるほどこの道幅で自動車の横をすり抜けるのは危ない。せめて藍が前を向いて乗っていれば碧もそのまま走ったかも知れないが、スカートでは横向きに座らざるを得ない。

 そこから進むこと百数十メートル、碧は道の左側にある広場へと自転車を乗り入れ、井戸らしきポンプの前で停止すると、藍の方を振り向いた。

 「じゃじゃじゃじゃじゃーん! 蔵シック館前でーす!」

 「深志神社に行く打合せしてたところだね…」うろ覚えだが、今目にしているこの建物が描かれていたと思う。

 「そうでーす! でもこんな井戸あるって知らなかったよー」

 「うん…」ポンプの下部に設置された管から水が流れ出ている。ということはポンプは飾りだろうか。

 「ちょっと飲んでみよ!」碧がサドルから降りたので、藍も慌てて立つ。

 碧はスタンドを立てて自転車から離れ、ポンプのハンドルを数回上下させた。ポンプはちゃんと生きており、高さ一メートルほどの所に在る吐出口から水が流れ落ちる。碧はそれを両手で掬って口に運んだ。

「うーん、普通」碧の評価は辛口だが、これは、碧の口が肥えているからである。松本の水道水は他地域に比べると格段に美味しいのだ。取水源が湧水や雪解け水と、好条件が揃っているからだろう。首都圏や京阪神から来た人がこの湧き水を飲めば「うまい!」と感じること請け合いである。

「でも、蔵シック館て何なんだろ? 蔵なのは分かるけど…」ポケットからハンカチを取り出して手を拭きながら言う。

 「あ、『くらしっく』の『くら』ってその蔵なんだ…」ここで初めて藍は前方を見渡した。広場の南側に家か蔵か判断に迷う建物、西側に土蔵のような建物が、それぞれ北を向いて建っている。南側の建物のすぐ傍には縁台、土蔵の前には木製の長椅子が設置されており、長椅子には観光客と覚しき中年の男女が座り、背凭れに身体を預けて地図を広げている。

 「うん! シックはカタカナ! ちょっと偵察行こ!」と言って自転車のハンドルに手を掛けた。

 「え…うん…」

 碧が南側の黒っぽい建物に向かって自転車を押し始めたので、藍も続く。

 「むう…」引き戸の横に掛けられた標札を見つめ、自転車のハンドルに手を置いたまま碧は何やら考えている様子だ。表札の文字は、「松本市中町蔵の会館」。

 「……?」

 「これ…どこで切ったらいいのかな?」

 「?」

 「松本市、(なか)(まち)、蔵、なのか…松本、()(ちゅう)(まち)(くら)、なのか、どっちだと思う?」

 「え…松本市、中町だと思ったけど…」何も考えずにそう読んでいたが、改めて訊かれると自信は無い。もしかすると、自分の知らない「町蔵」という単語が存在するのかも知れない。

 「やっぱり!? よし! じゃ、それで!」

 「え…?」それで間違っていたら何だか責任を感じてしまう。

 しかし碧はそれで満足したらしく、標札の前に自転車をとめ、鍵を掛けて、籠から取り出した手提げを両手に引き戸へ向かった。藍は慌てて先回りし、戸を開ける。

 「ありがとう!」

 「え…ううん…」碧は自転車を漕いであちこち回り、今は自分の荷物まで持ってくれている。藍からすれば、こちらこそありがとうである。

 碧に続いて入ると、中はひんやりしていた。直射日光が入らないのであろう。薄暗いと思ったが、戸を閉めるまでに目が慣れ、足元はコンクリートに土色の塗装を施していることが分かった。

 右手に受付のような小部屋があり、硝子戸の向こうに、自分の母親と同じくらいの歳と見受けられる品の良い婦人がこちらを向いて座っている。

 彼女は藍と目が合うと、ごく軽く会釈して右手で奥へ進むよう促した。無料解放されているということだろう。藍は歩を速めて二歩ほど先にいる碧に並んだ。

 「天井高いねー」碧は斜め上を見上げている。

 「うん…」二階の高さまでが吹き抜けになっている。その上には三本の太い梁、さらにその上には何本もの細い梁が格子状に走っている。何を支えるためにあんなに梁が必要なのだろう、と藍は疑問に思う。一番上に屋根。天井は無いようだから、碧の言葉は厳密にはおかしい。

 「外から見た時家かなって思ったけど、中も家っぽいね」

 「そう、だね…」

 「しかし名前は蔵シック館…むう…」

 「うん…」藍には蔵と家、どちらとも思える。

 「やっぱり蔵かなあ。こんな天井高かったら冬めっちゃ寒いよね!」

 「うん…」全くその通りである。松本は夏の暑さよりも冬の寒さが厳しい土地なのに。

 「床、板だし」右側に視線を移す。二人の正面に土間が壁際まで続き、その右側が板間になっていて、階段二段分の段差が在る。

 「うん…裸足は辛そう…」

 「指先痛くなるよね、絶対!」

 「うん…」

 「昔はふかふかスリッパとかないし」

 「うん…」

 「ここ、上がっていいのかな?」板間のことであろう。

 「え…訊いてみる…?」藍は入り口の隣の部屋をちらりと見た。その時、板間の奥の階段から二人連れが降りてきた。中年というには少し若い男女で、どう見ても観光客だ。

 「大丈夫そうだね!」

 「うん…」

 二人は靴を脱いで板間に上がった。何十畳かある床には、藍達四人を除いて全く何も載っていない。隣に十二畳の畳部屋が二部屋並んでいるが、こちらも中は空のようだ。

 「(うえ)()がろ!」碧に促され、藍も幅の狭い階段を登った。

 ごく狭い踊り場で折り返して上がった左手に部屋があり、こちらもがらんとした板間だったが、頭上すぐのところを例の梁が縦横に走っているのと壁にエアコンが取り付けられているのが違和感を生み出している。明らかに何らかの用途に使われている部屋だが、一体何なのか全く想像出来ない。

 特に見るべきものが無いと判断したのか、碧は足を踏み入れず、右手にある手摺から下を覗き込んだ。

 藍も隣で倣う。長い土間に先程階段を降りてきた男女が立っているのが見えるだけだった。

 「これすごいね! ジャングルジムみたい」

目線を上げた碧が言う。梁のことであろうが、ジャングルジムと言うには密度が低い。梁と梁の間隔が一m以上空いている。しかも床から三m以上の高さだ。

 「え…うん…」藍なら絶対遊ぶ気にならないジャングルジムだが、碧は喜んで遊びそうな気がする。

 「これで遊んだら楽しそう!」やっぱり。

「でもめっちゃ怒られそう!」

 「うん…」間違い無い。

 「絶対誰かやって怒られてるよね!」

 「え……」それはどうであろう。

 碧は先に進んだ。先と言っても、二mほど先で廊下は終わり、階段が下に向かって延びている。

 「うわっ、頭上注意! わたしでも当たるってすごい低いな!」降り始めてすぐ碧が叫んだ。階段は数段で終わって部屋に繋がっており、その間の鴨居がとても低いのである。注意喚起のためだろう、細い紙が数本垂らされている。

 「(ほん)()だ…すごく低いね…」身長百五十八㎝の藍がかなり頭を下げないと当たってしまう。

 「あ、なんかこの部屋いい!」先に部屋に入った碧が小さく叫んだ。

 「うん…」四方を壁に囲まれ、正面に窓のある、普通と言えば普通の部屋なのだが、何だか落ち着く。窓と障子を除く全面が木で出来ているからだろうか、狭さがちょうどいいからだろうか。

 「あっ! 藍ちゃん正解!!」早速窓に歩み寄り外を見た碧がまた叫んだ。

 「え…?」一体何のことだろう。

 「中町だった! あれ!」碧が外を指差す。

 窓から外を眺めてみると、この蔵シック館前の広場と通り、向かいの建物が見える。その中で碧が指差しているのは何かと探すと、案内板を支える柱に「中町通り」と書かれているのが見て取れた。

 「あ、(ほん)()だ…!」

 「裏がとれましたな」外を見たまま何故か後ろで手を組み、

「これで残る謎は一つ」

 「え…と…」

 「ここが家か蔵か」

 「あ……」正直どちらでもいいと思っていたのだが、碧にとってはそうではなかったのか。

 「ここの人に聞いてみよ!」

 「うん…」まあ妥当な線である。

 二人は同時に振り向いた。そこで初めて、藍は後ろの壁に、正面と同じ大きさの窓が設置されていることに気づいた。採光用だろう。但し、硝子ではなく障子だ。

 「わ! これかっこいい!」碧が壁に向かう。藍も碧に賛成だ。全開にされた窓から、向こう側の壁や先程登った階段、それに梁が見えているのだが、それが何とも恰好良いのだ。

 「うわー、わたしここで藍ちゃんと住みたい!」

 「え…!」また妙なことを言い出したが、そんなことならば藍も望むところである。

 「奥に大っきいベッド置いてー、ここに机二つ並べてー、テレビとゲームはベッドの上に棚作って置いてー。…いやいや、いっそのこと高辻三兄弟も呼ぶか」

 「うん、そうだね…!」もしそんなことが実現したらどんなに楽しいだろう。

 「いやでもそれ、梨乃さん家に泊まるのとほぼ同じか」

 「あ、うん、そうだね…」

 「よし! 梨乃さん家に住もう!」

 「え……」

 「だってここに住むのは実際無理っぽいし」

 「うん…そうだね…」それはそうだが。

 「梨乃さん家なら交渉の余地あるし!」

 「…うん…」猫の額の如き余地と思われるが、碧のことであるから、本気で言っているのかも知れない。

 「よし! 明日交渉しよう!」

 「え……」

 「がんばろう!!」

 「え…!?」自分も一緒に交渉することになっている。

 「よし! じゃ、次行こう!」

 「え…うん…」

 二人はまた別の階段を下って一階の広い板間に戻り、靴を履いた。

 「ごめんね、待たせて…」藍は今日も紐靴である。

 「ううん、全然!!」碧はいつものようにそう言ってくれるが、やはり藍としては心苦しい。なるべく急いで靴紐を結ぶが、一分くらいはかかってしまった。

 「お待たせしました…」

 「じゃ、聞いてみましょー! すみませーん」碧は受付の前に移動して硝子窓越しに呼び掛けた。先ほどの婦人がすぐに窓を開く。

 「はい」

 「教えてもらいたいんですが」

 「はい」

 「ここって蔵だったんですか? 家だったんですか?」

 「家です。元はすぐ近くにある造酒屋だったんですけど、廃業した際に松本市が買い取ってここに移築したんです。ここが母屋でトイレの向こうが離れ、隣のなまこ壁が蔵でした」

 「なまこかべって何ですか?」

 「えー、平たい瓦を並べて、継ぎ目の上に漆喰を塗るんです。隣に白い土蔵があったでしょう?」

 「はい」

 「その壁を見てもらえばすぐ分かります」

 「見てみます! あの、トイレの奥ってどこですか?」

 「そこの奥に階段がありますよね」婦人は、先ほど二人が昇った階段を指した。

「その右側の通路を行くと別棟があって、それが離れだったらしいです」

 「へー! 行ってきます! ありがとうございました!」碧はぺこりと一礼した。

 「いいえ、若い人が興味持ってくれて嬉しいです」婦人はにこりと笑って窓を閉めた。

 「藍ちゃんごめん、靴はいちゃったけどもう一回!」

 「うん…」靴の脱着の手間は特に問題ではない。碧を待たせるのが心苦しいだけだ。

 二人はまた板間に上がり、言われた通りに進んだ。通路を数メートル進むと左手に玄関が現れたが、明らかに母屋より新しい感じがした。

 玄関の前で廊下は右に折れ、廊下に沿って中庭が見えた。左には部屋が三つ並んでいるが、一番手前は襖が閉まっていた。残りの二部屋は微妙に生活感漂う六畳間で、

 「うわ、この部屋もいいな!」碧の好みらしかった。

「ぬらりひょんがお茶すすってそう!」

 「え…ぬらりひょん…?」

 「妖怪の頭領でね、師走の忙しい家に勝手に上がってお茶飲んだりするだって!」

 「え…それだけ…?」

 「それだけー。なのに妖怪の頭領って面白いよねー」漢字では滑瓢と書くらしい。字面からも捉えどころの無い感じが窺える。

 「うん…」

 「で、ほら、この部屋ちょっと置き去られ感あるじゃない? なんか、母屋で忙しくゴハンの用意とかしてるのに、そんなの対岸の火事ーみたいな」

 「あ…うん…!」言われてみればそんな感じで、なるほど今聞いたぬらりひょんが現れるとしたらこの部屋だろう。

 「で、あれが土蔵だったってところだよね?」話が変わった。碧は中庭の向こうの建物を見ている。壁の一部が大きな硝子に作り替えられており、中は暗いながらテーブルと椅子が何組か見える。

 「うん…そうだね…」

 「なんか喫茶店っぽくない?」

 「うん…」

 「後で見てみよ!」

 「うん…」

 「じゃ、行こっか」

 「うん…」

 戻った二人は靴を履き、受付の婦人に会釈して建物を出た。

 「あ、あれ、なまこ壁って言うんだ」左手に立つ土蔵を見て言い、碧はそちらに向かう。それを予測していた藍もいつもの位置でついていく。黒地に白の斜め格子の模様は何度も目にしているが、それを海鼠壁と呼ぶとは、藍も知らなかった。

 「これ瓦だったんだねー」碧が爪で軽く叩くと、カツカツ、と硬い音がした。

 「うん…私漆喰に色塗ってあるんだと思ってた…」

 「あー、なるほどー。上は漆喰だもんね!」建物の上半分は漆喰の白が眩しい程である。

 「うん…」

 「さて、何屋さんかなー?」

 「うん…」

 二人は通りの方にある入り口の前へ回った。

 「『茶房 蔵シック』。やっぱり喫茶店だったね!」

 「うん…」

 「わー、蔵の扉ってホントにこんなに分厚いんだね! 時代劇でしか見たことなかったよー」蔵の扉は開け放たれ、その代わり内側に硝子の引き戸が設置されている。蔵の扉は厚さ二十cmでは収まるまい。

 「うん…初めて見たよ…」

 「壁も同じ厚さだってことだよね?」

 「うん…多分…」

 「これなら火事でも生き残れそう!」

 「うん…」

 「座敷牢に軟禁されていた娘が、ある時扉が施錠されていないことに気づき、外に出てみると辺りは一面焼け野原であった。彼女が閉じ籠められている間に、果たして外では何があったのか?」

 「え…何があったの…?」

 「…待て次号!」ということは、今この場で碧が考えたということか。

 「碧ちゃん、すごいね…」

 「え? 何が?」碧にとって予想外の言葉だったようだ。

 「そういう話がすぐ浮かんでくるの…」

 「妄想力には自信があります、ブフフフ」それが誉められることなのかどうかは分からないが、藍は素直に凄いと思う。自分には全く真似の出来ないことだ。

「あっ! あれ何!?」碧が突然斜め上を指差したので見上げると、母屋の正面、玄関の上の方で、屋根から茶色がかった緑色の球体が吊り下げられていた。飾りか実用か不明だが、その上に小さな屋根を被っている。

 「あ…何だろうね…」藍も初めて目にする。

 「聞いてみよ!」言いながらもう碧は玄関に向かっている。

 「うん…」

 二人は再び母屋へ入った。

 「すみませーん」碧が呼ぶと先ほどの婦人がまた硝子戸を開けた。

「あの、ここの上にある丸いのって何ですか?」右手の人差し指で天井の方を指す。両手に荷物を持っているので、orangeの入った手提げも一緒に持ち上げられる。

 「杉玉ですね? 杉の葉を丸くまとめて吊ってあるんです。造り酒屋にはだいたい置いてあって、新酒が出ると新しいものに替えるんですよ」

 「へー! だから今はビミョーな色なんですね!」

 ぶふっと婦人は噴き出した。恐らく、ビミョーな色、という表現がツボに嵌まったのであろう。

 「そうですね。初めて見ましたか?」

 「はい!」碧が元気よく答える傍ら、藍は黙って頷いた。

 「市内に造り酒屋が何軒かありますから、近くを通る時ついでに見てみて下さい。パンフレットがそこに…」婦人は窓から顔を出して窓のすぐ下にある机を覗いた。この蔵シック館の紹介チラシや観光案内が置いてある。

「これです」婦人はその中から一枚を取り出して碧に差し出したが、両手が塞がっているのを見て標的を藍に変更した。藍は一歩前に出て受け取る。

「すぐ近くにもありますから。この、(よい)(かな)ってところです。ただ、私も直接見に行ってませんので、本当に置いてあるかどうかは何とも言えないんですが」

 「分かりました! ありがとうございます!」碧はぺこりとお辞儀をして扉の方を向いた。

 「ありがとうございました…」藍も頭を下げ、慌てて碧の後を追う。

 「いやー、なかなか面白かったね!」

 「うん…!」

 「おなかすいたー!」

 「うん、そこで…あ、ベンチの方がいいかな…?」縁台とどちらがよいか、藍は迷った。より平たいのは縁台だが、長椅子には背凭れがある。

 「えーと、ベンチにしましょー!」碧は藍に弁当袋を渡して自転車を取りに行った。僅かな距離だが、自転車の籠に荷物を入れたいのであろう。

 藍は少しでも碧の待ち時間を短縮するべく、先に長椅子に向かって弁当の包みを解いた。

 その碧が左足だけ自転車のペダルに乗せて藍の目の前に滑り込み、その場にとめて長椅子に座る。いや、座る、よりも吸い込まれる、と言いたくなるような滑らかさだった。

 「今日のゴハンは何かなー! 楽しみ!!」毎日のことだが、碧は本当に弁当を楽しみにしてくれているようで、藍も作り甲斐を感じる。まだまだ作れる品が限られているので、少しでも早くその範囲を広げたい。

 寄り添って座りたいところだが、大きく間を空け、そこに弁当を広げる。碧が目を輝かせて待っているので、少し慌て気味になってしまう。

 今日の献立は、ハンバーグ、ササミのオリーブオイル焼き、肉じゃが、焼き鯖、野菜炒め、麻婆豆腐、餃子、焼きビーフン、そしていつもの卵焼きだ。

 「うおー! 今日もステキ!!」と言う碧は、既に箸箱から箸を取り出して右手に持っている。

 「どうぞ…」全ての弁当箱の蓋を外して藍がそう言うと、

 「いただきます!」碧は白米の入った弁当箱を左手に取った。

 「いただきます…」と言ったがまだ箸は手にせす、水筒から茶を注いで弁当の横に置く。もちろん碧の分からだ。

 「あ、ありがと! あ!! 今日のお弁当全部藍ちゃんが作ってくれたの!?」

 「うん…朝、時間があったから…」昨日までは、ツルヤの野沢菜に一席占めてもらっていたが、今日は違う。初めて、全品を自分が調理したのだ。

 「うひょー! スゴすぎ! 今日のわたし世界一ゼータク!」と言って碧は食べ始めた。

 そして今日は途中一言も無く、藍にとってはあっという間に弁当箱を空にした。藍はまだ三分の一も食べていない。

 「おいしかったー!! 藍ちゃん天才!」過分な言葉に藍は恐縮する。

「スゴいね! レパートリーどんどん増やしてるんでしょ!?」

 「え、(ほん)()にちょっとずつだよ…応用できるメニューから…でもまだ揚げ物をしたことなくて…」

 「逆に、揚げ物ないのにこれだけ作るのスゴいよー!」こういう時、碧の発想は藍にとって驚異且つ脅威である。何を言っても誉められてしまうのだ。嬉しいのは無論だが、誉め殺しの状態でもある。

「む~ん、早くビストロ藍に食べに行きたい!」

 「まだ速く作るのは出来ないけど…がんばるね…」弁当は冷めることが前提なので多少時間が掛かってもいいが、作ってすぐ出す食事はそうはいかない。現状、藍の手際は、複数の品を同時進行させられるまでには達していない。

 「楽しみにしてます!」

 「うん…」ここで藍は誉め殺し地獄天国から解放され、弁当に戻った。

 隣で碧はもらったパンフレットを広げる。

 「あー、ホントに近いところあるね」

 「そうなの…?」

 「うん。十分はかからないんじゃないかな。ナワテぶらぶらして時間が余ったら行ってみよ!」

 「うん…」

 「話変わるけど」

 「うん…」

 「何でなまこ壁って言うのかな?」

 「うん…」受付の婦人がなまこ壁という言葉を口に出した瞬間にその質問は予想していたが、藍も答えを知らない。

 「なまこって魚だっけ?」

 「ううん…海の動物だけど…何動物になるのかな…無脊椎動物の…」

 「よし! 今から調べます! 今日は教えてもらってばっかりだからね!」

 「うん…お願いします…」

 碧は携帯電話を取り出して操作し始め、二十秒もしないうちに、

 「出ました! でも読めなーい! とげかわ動物ってなんて読むの?」

 「きょくひ…」

 「おお、さすが藍ちゃん。棘皮動物門ナマコ綱! あれ? 何々科何々目とかじゃないんだ。まあいいや、写真は…あー、これかー、テレビで見たことあるなー。食用って書いてあるけど、最初に食べた人スゴいな」

 藍は黙って頷く。口の中に食べ物が入っているからである。

「藍ちゃん食べたことある?」

 首を横に振る。

「もしかしたらスゴいおいしいのかな? 見た目が悪いものっておいしいこと多いし」

 藍は首を傾げて、全く想像出来ない旨を表現した。

「棘皮動物なのに棘はないんだって」

 また黙って頷く。藍もテレビや本でしか見たことが無いが、棘は無かったと記憶している。

「でもこれのどこがなまこなんだろ?」と上半身を反らして背後の土蔵を見る。

 「うん…」ちょうど飲み込んだところだったので返事した。

 「じゃ次はなまこ壁だね。…………ふむふむ……ほうほう……」藍は、ほうほうという言葉が実際に口に出されるのを初めて耳にした。

「瓦の継ぎ目がなまこに似てるからって書いてあるけど…これのどこがなまこ…」

 藍は頷いた。白い斜め格子を描く目地が丸く盛り上がっているが、形が整い過ぎていて、とても海鼠には見えない。

「『そのうち解決したい疑問リスト』入り決定! 今日だけで二つ目だー」

 藍は考える。そのリストに入ると忘却の門へと直行しそうな気がするが、碧の好奇心と行動力は人並み外れている。海鼠壁そのものよりも、碧の疑問が解決を見るのかどうかが気になってきた。

 考えているうちに食は進み、弁当箱が空になった。

 「いただきました! 今日もおいしかったー!」藍が弁当箱を包み始めたところで碧が言う。

 「おそまつさまでした…」定型句を口にすると、

 「何が粗末ですか!」怒られた。

「超ゴージャスです!」

 「ありがとう…」美味しそうに食べてくれるだけで十分嬉しいのだが、褒められればそれはそれでまた嬉しい。

 「いつもいつもかたじけない」珍しく、済まなそうな声音と口調である。

 「え…そんなこと…」

 「でもまたよろしく!」いつもの口調と声に戻った。

「もう藍ちゃんなしでは生きていけない体になっちゃったの…」今度は甘えた声だ。台詞の字面はいかがわしいが、碧が弁当を気に入ってくれていることは十分伝わってくる。

 「あ、うん…!」

 藍が弁当箱と水筒を仕舞うのを待って、

 「じゃ、次行きますか!」碧が長椅子から立ち上がった。

 「うん…!」

 「荷物かしてー」

 「はい…ありがとう…」

 「次はすぐだから歩いていこ!」

 「うん…」

 碧が自転車を押し始め、藍も並ぶ。海鼠壁に沿って広場から通りに出、左に曲がる。広場の北側を走る道は両側が灰色の石畳、中央がアスファルトで、縁石は無いが、石畳が歩道という感じだ。

 「お! この道なまこ壁いっぱいだ!」

 「うん…」両側に並ぶ建物は伝統的なものもあれば現代的なものもあるが、明らかに最近の建物でも、目立つ部分だけ海鼠壁になっていたりする。電柱が無いことも相俟って、独特の景観だ。

 「そこ曲がるよー」蔵シック館茶房前を通る時に碧が言った。自転車のハンドルを押しながら、人差し指だけで右前方を差している。その数十メートル先に十字路が見える。

 「うん…」

 「けっこう車通るね」

 「うん…」道幅数メートルと決して広くないにも関わらず、向かいからちょくちょく自動車がやって来る。

 碧のことだから自動車が向かってくるのを恐いとは思っていないだろうが、より安全な方がいいに決まっている。藍は、碧の隣から後ろへ移動した。

 「ありがと」碧が左へ寄る。

「あそこもなまこ壁だね!」再び十字路の方に指先を向けた。

 「あ、ほんとだ…」十字路の右奥の建物がそうだった。

 「黒いね」

 「うん…」海鼠壁だけでなく、その上も真っ黒に塗られている。

 「黒いと武器とか入ってそう!」

 「え…」いや、そうだろうか。確かに物々しい印象は受けるが。

 「白い方がきれいだね!」

 「うん…」

 「白だとすぐ汚れそうだけど、薄汚れた蔵とか見たことないなあ」

 「うん…」母方の祖父母の家近くに何軒か在るが、いずれも白い。

 そんなことを言っているうちに十字路の手前までやって来た二人は、自動車が通り過ぎるのを待って道路を斜めに横断し、右へ折れた。

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