呼び名
呼び名
「おはよう! 藍ちゃん、サッカー行ける?」松本驛看板の前で落ち合うと、一言目に碧がそう訊いてきた。
「うん…」昨夜両親に尋ねたところ、予想通りの二つ返事であった。
「やった!! すんごい楽しみ~!」こちらは予想以上の喜びようで、
「うん…!」藍も嬉しくなった。
所々雲がぽっかりと浮かぶ晴天の下、二人は並んで歩き出した。
二人が教室に一番乗りし、荷物を定位置に置いてすぐ。
「おっはよー!」陽気な声と共に鈴木が入ってきた。自席には行かず、鞄から取り出したB5くらいの紙とボールペンを片手に碧の席にやって来て、
「昨日相生のところに何人か来てたよな。誰参加だった?」
「えっとねー、藤原君、小林君、百瀬君、中村君、佐野君、松岡君だね」碧はすぐ答えた。昨日、男子が来る度紙に書きつけていたようだったが、それを取り出そうともしなかった。
「お、けっこう来たな!」鈴木は手にした紙にボールペンを走らせる。丸をつけているようなので、一年F組の名簿なのだろう。
「それと藍ちゃんも参加! ね!」
「うん…」
「そうか! サンキュー、青井!」
「え…うん…」鈴木に名を呼ばれたことよりも、それを聞いた碧が僅かに顔色を変えたことが、藍は気になった。藍が初めて見る、何とも居心地の悪そうな表情だ。
何だろう、と気になったのもほんの一瞬、その答えが脳内に閃いた。名前だ。「あおい」という音に反応したに違い無い。昨日の昼休みの自分と同じことが起きたのだ。
「じゃ、女子はこれで3人だな」鈴木は碧の表情の変化には気付かなかったようだ。紙に丸をつけていたから、見ていなかったのだろう。
「もう一人誰?」と訊く碧はもう元の表情に戻っている。
「中川。シーズンパス持ってるから席取り手伝ってくれるって」
「へえ! 鈴木君も持ってるの?」
「当然」
「ほかにもいたらいいね」
「おう! 今の6人の中にいるんじゃねえかと期待してんだ」
「あー、そうだね」
「今日もホームルームちょっと時間くれよ。昨日保留のヤツが参加っつーかも知れねえから」
「うん」
「サンキュー」鈴木は飄々と自席に向かった。
それを見て碧が藍の方に向き直り、
「藍ちゃん、ちょっと相談なんだけど」
「うん…」わざわざ改まって何だろう。
「呼び名なんだけどね」
「うん…」ああ、なるほど。やはり先程のが気になったようだ。
「藍ちゃんが苗字で呼ばれるとどうも変な感じで」
「うん…」
「ホームルームでみんなにお願いしようと思うんだけど」
「うん…」
「藍ちゃんは名前で、わたしは苗字で呼んでもらうっていうのはどうかな?」
「え………うん…」人物を鑑れば逆の方がしっくり来るが、それでは二人ともあおいになってしまい、実に紛らわしい。それに、碧の言葉から推すと、名前で呼ばれるのが碧にとっては快くないようだ。
「碧ちゃん、名前で呼ばれるの嫌いなの…?」しかし自分には名前で呼んでくれとわさわざ言ってきた。
「そんなことないって言うかむしろ名前の方がいいんだけど、仲よくなってない人に名前で呼ばれるのは違和感あるんだよねー」
「あ、なるほど」それは藍にも頷ける。
「藍ちゃんが呼ばれてるって分かっててもやっぱり変な感じで気持ち悪いんだよねー。おしりの辺りがムズムズすると言うか」
「うん…」
「という訳でお願いします! いい?」
「うん…」自分も名前で呼ばれることには多少抵抗を感じるが、他ならぬ碧の頼みである。それに、紛らわしさ防止のためにもこの方が良かろう。幸い、学級内に「あい」は自分一人だ。
「ありがとう! じゃ、ホームルームで言うね!」
「うん…」
話している間に藍の左の席が埋まった。四人組の中では河内が最初に登校してくるが、示し合わせたように残りの三人も相次いで登校してくる。碧と話しながらそんなことを思い浮かべると、一分もしないうちにその通りになった。
藍は机の上に出しておいた白い買い物袋を手に河内席の向こう側へ行き、
「洞君…」とだけ呼びかけて、立っている洞に袋を差し出した。
「サンキュー、青井さん!」きっと後ろではまた碧が微妙な表情を浮かべただろう。
「うん…あ、お釣も一緒に入ってるから…」もちろん裸ではなく、封筒に入れてある。
「了解!」洞はその場でワッフルを取り出し、
「ヨーグルトじゃん! 青井さん、ホントありがとう!」
「うん…」自分の椅子に座りかけた藍は振り向いて応え、改めて椅子に腰掛けて碧の方を向いた。が、
「で、相生さん」今度は碧が呼ばれ、
「CD持ってきた。淵東なぎさ」藍の後ろを通って洞が碧の傍に行き、CDを渡した。
「ありがとう! 二枚出てるの!?」
「うん。二枚目は季節列車の車内放送」
「へー、そんなのあるんだね! ありがとう、明日返すね。あ、そうそう! 昨日見たよ。松本イズミ」言いながらポケットから携帯電話を取り出した。
「お!」
「エロかわいかった」
「エロ…いか?」洞だけでなく、山田の顔にも疑問符が付いている。
「エロいよ、あの胸とか!」洞に言いながら、藍の机に携帯電話を置いた。見てみると、女の子を描いた自動販売機の画像だ。女の子は項までの長さの桃色の髪に青い目で、頭には何か機械のような物を装着。ぴったりした黒い服と肩に羽織った白い小さなケープが大きな胸を強調している。その黒い服の下にはごく短いスカートを穿いているが、スカートと言うよりもフリル付きの水着の方が近いだろうか。脚は腿の半ばまで白基調の長靴下に覆われている。その女の子がしなを作った立ち姿で右手に電動髭剃りを持っている、という絵面だ。その絵の上に、「シェーバー広報担当 松本イズミ」と書かれている。
「ね!」碧に同意を求められ、
「うん…」とだけ答える。絵から卑猥さは感じないから、碧の言う「エロい」は、単に色気がある、という意味なのだろう。
「うーん、そうかー」
「あれが立体だったらスゴいプロポーションだよ!」それは間違いない、と藍も思う。自分同様、碧も梨乃を思い浮かべているに違い無い。
「まあなー。等身大フィギュアもあるらしいよ」
「ホント!? 萌えエロー! 見てみたい!」
「やまびこドームの展示会とかで出るって。ウェブサイト見てみ」やまびこドームとは、松本空港滑走路の東側に隣接する展示会場である。
「うん!」やはり藍には共感出来ないが、楽しそうな碧を見ると自分も楽しい。
洞は自席へ戻っていった。これで碧と話せると藍は思ったが、
「相生さん」今度は山田が呼び掛けた。
「うん」
「山雅、オレたちも参加で!」
「四人?」
「うん」
「了解!」
その少し後。ホームルームの時間である。
「先生、連絡は」
「ん。部活の入部届提出を明日から金曜まで受け付ける。入部希望者は忘れず出すように」
「明日からですね?」碧が確認する。藍はそれを聞いて、碧自身のためではなく、学級の皆に注意を喚起するためだろうと推測した。
「明日からだ」
「他には何か」
「いや。今日は以上」
「では鈴木君から」
「はい」鈴木は起立した。「昨日の件の補足ですが、参加者でシーズンパスを持っている人は教えて下さい。お願いしたいことがあります。ちなみに今の時点で、男子7名、女子3名と先生が参加です。迷っている人は是非参加して下さい!」
「誰参加ですかー?」教室の中央辺りから男子生徒の声が訊いた。
「岡田くん、小林くん、佐野くん、中村くん、藤原くん、松岡くん、百瀬くん、相生さん、青井さん、中川さんと先生です」紙を見ながら鈴木が答える。岡田の名前が出た途端、複数の女生徒の表情が変わったのを藍は見た。男子にとっての碧同様、女子にとっては岡田が学級内アイドルであるようだ。
「あ、山田君、河内君、斉藤君、洞君も参加です」碧が付け足し、
「だそうです」鈴木は着席した。
「他に何かありますか?」学級全体に向かって碧がそう言ったが返事は無く、
「ではわたしから。個人的な事なんですが、わたしの名前が碧で、青井さんが呼ばれた時に自分と間違ってしまうことがありますので、わたしのことは相生、青井さんのことは藍さんで呼び名を統一してもらえないかと思います。よろしいでしょうか?」
何人かが無言で頷いた。二秒ほどの沈黙の後、
「いいんじゃない?」始業式の日と同じ台詞で林が場を纏めてくれた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。以上です」
「起立」日直の号令が掛かった。
昼休み。いつも通り碧が先に食べ終わり、藍が食べるのを無言で見ていたが、突如ポケットから携帯電話を取り出し、
「あ! 梨乃さんから連絡来たよ!『連絡遅くなってごめんね。一昨日早速レアチーズ頂きました。今まで食べた中で一番おいしかった! 一気に食べるともったいないので少しずつ食べます。本当にありがとう』だって! やったね!」
「うん…!」
「梨乃さんがメイルでビックリマーク使うの初めて見たよ」と言って携帯電話の画面を藍に見せる。
「そうなんだ…」確かに、梨乃は絵文字や記号やスタンプを使用しない印象だ。
「あっ、そうだ! 藍ちゃん、緑色の服持ってる?」無論、サッカー観戦用にということであろう。まだ二週間以上先であるのにもう準備のことを考えているのだから、余程楽しみにしていると見える。
「ううん…」
「わたしもー。梨乃さんに相談してみよ!」
「うん…」梨乃も青い服ばかりという気がしないでもないが、梨乃なら何か持っていそうな気もする。自分に推し測れる人物ではないのだ。
碧は二十秒ほどで返事を作成、送信し、電話を机に置いた。
「黒い兄弟読んでるんだけどね」話題が変わった。
「うん」
「かなーり重いね」
「うん…」人買いや児童労働がまだ普通に罷り通っていた頃のイタリア、ミラノの話なのである。
「読むのちょっと…長くかかるかも」
「うん…大丈夫…」
その時携帯電話が震え、碧が素早く取った。
「返事速っ! 日曜午後においでだって! 藍ちゃん、予定大丈夫?」
「うん…大丈夫…!」元々予定など入っていないが、たとえ入っていたとしても、梨乃宅に碧と行くのであれば万障お繰り合わせの上、というやつである。
「やった! 『藍ちゃんと行きます!』っと! 楽しみだね!」
「うん…!」
藍も食べ終わって弁当箱を鞄に仕舞った。それを待ち、
「じゃ、食堂行こっか」
「うん…」
二人は席を立ち、教室を出て食堂へ向かった。この時刻には階段の渋滞が解消されていることが、この一週間で確かめられている。
「Then, let's talk about "green" now.」食堂の隅に席を取ると、碧は早速話し始めた。何となく英語で話すということが出来るような段階ではないため、毎日話題を限定して話をしている。それにより、話す側が巧く表現出来ない時も、聞く側が内容を推測することが容易になるからだ。今日の話題は、緑の服を梨乃に借りに行く、というところからの連想であろう。ちなみに昨日の話題はrainであった。
「Do you have green cloths ?」毎回、会話は碧から、藍が答え易い質問で始まる。
「No, I don't.」
「So, don't you like green ?」
「Ye…No, I don't.」これは答に迷ったのではなく、Yesと言いかけて間違いに気付いたものだ。否定疑問文の回答は「はい」と「yes」で意味が逆になることをもちろん藍は知っているのだが、いざ実践となるとなかなか巧くいかない。
「But I don't dislike green.」
「Ah, me, too.」
「So…」藍の口元が綻ぶ。碧との共通点が見つかって嬉しい。
「What do you like within green things ?」
「hmm…, I like…salad. Lettuce, cavage, cucumber.」まず食べ物が出てくるところが碧らしいと藍は思った。しかし、
「What is キューカンバー ?」初めて聞く単語である。
「きゅうり」
「Ah, I see.」
「And what do you like ?」
「I like grass.」
「Grass ?」碧は少し驚いた様子である。確かに、ここまでの付き合いで、草が好きだなどと藍は一言も言っていない。
「Ah, grass…, ah, field」
「Gotcha! You mean shibafu.」
「Yes.」
「Lawn, in English. L, A, W, N.」
「Ah, I see. And what does mean ガッチャ ?」
「Got you.」
「Got you ?」
「Yes. "I GOT what YOU mean."」
「Ah! It means "I understand" ?」
「Yes, exactly ! でもgetにはいろんな意味があるから、場合によって変わるよ。例えば悪さして逃げたクロを捕まえた時もgotcha」
「なるほど…」碧が日本語に戻ったので、藍も自然とそうなる。
「have get to ~で『~しなければならない』だから、"I've got to get him! "で『あいつをやっつけてやる!』とか。多分口語表現だけど」
「getが二回出てくるんだね…」
「ややこしいよね!」
「うん…」よくそんなことを知っているな、と藍は感心する。きっと映画で学んだのだろう。本だけの自分とは違いを感じる。
「Then, let's get back to green. Which country do you associate with green?」
「Country ?」
「Ah, nation.」
「Ah, yes. …Greenland…no, it's not a nation.」世界最大の島で、デンマーク領であるが、自治政府が置かれており、独立に向けた動きもある。
「O.k., o.k. Though I didn't expect Greenland. Is Greenland green?」
「Sorry, I don't know. But it's located far north.」
「Yes, it is. I wonder it's covered all over by ice.」
「Me, too. And you? Which country?」
「mmm…, Saudiarabia.」
「Saudiarabia ?」グリーンランドよりそちらの方が余程予想出来ない回答だ。
「Yes, its flag is green.」
「Ah」確かに。ほぼ緑一色である。しかし藍には国旗という連想は全く無かった。恐らく、時間を与えられて想像しても、草原や森林からの連想しか湧いてこなかっただろう。
「じゃ、今日はこれくらいにしよっか」
「うん…」サウジアラビアから国旗の他に緑色関連の話題が思いつかなかったのだろう。話が行き詰まると時間前でも終了という方式に何となく落ち着いている。
二人は教室へ戻った。藍はこの往復時間が無駄に思い、碧に対して申し訳無いとも思うが、教室で英会話の練習をするという勇気は無い。
放課後。二人はそれぞれに荷造りをし、共に教室を出た。帰宅の生徒で廊下は混み始めている。
「今日は部活あるね…」
「いい天気だもんね! 部活も楽しみ!」
「今日はスキー部…?」
「うん! 多分柔軟とランニングで終わると思うけど! 藍ちゃんはー? 図書室?」
「うん…図書室で本眺めてから食堂に行こうかなって…」
「そっか! じゃあ終わったら食堂に行くね!」
「うん…!」
二人はいつものように真横より少しだけ前後にずれた並びで階段を降り、一階で別れた。
「じゃ、また後で!」
「うん…!」
下駄箱の向こうへ碧の姿が消えるのを見送ってから、藍は図書室へ向かった。
昨日と同じように、一階の廊下はひっそりとしている。ただ、昨日は雨雲のせいで薄暗かったのが、今日は窓から春の光が入っている。
図書室の扉を開け右手の受付を見てみると、座っているのは昨日と同じ女生徒であった。今日も何かを読んでいるようだったが、扉を開けた時にこちらを見、当番制ではないのかと疑問を抱きつつ藍が会釈をすると無言で頷き返してきた。昨日と全く同じである。
昨日の偵察は途中で終わってしまったが、肝心な部分は確認出来た。今日は西洋文学の棚に直行し、棚にぎっしり収まった本を眺めてどれを借りようかと悩む。世界で一番楽しい悩みだ。
迷った末、「その他」地域に分類されたボルヘス著「伝奇集」を手に取り、開いた。初めて見る名の作家であることと、本の題名が気になったからである。昨年までは積極的に敬遠していたような題なのだが。目次を見て短編集であることが分かり、借りることに決めた。他にも気になる本は多くあるが、一冊だけにする。理由は、楽しみをとっておきたいのが半分、重いからというのが半分である。
本を持って受付に行こうかと思った時、窓の向こうから運動部生徒の掛け声が聞こえてきた。複数の生徒が校庭を走っているらしい。
その中に碧が居るかも知れないと思い、藍は窓際へ歩み寄った。窓側にも本棚が配置されているのだが、採光のためか床から一メートル程の高さにとどめられている。
その本棚の上に本と両手を置いて校庭を眺めると、右手に立つ古ぼけた部室棟の前を運動着の一団が向こうへ走って行くのが見えた。が、その中に碧の姿は無い。がっかりしつつもその一団を目で追い続けていると、部室棟の奥の方の二部屋から別の一団が出てくるのが目に入り、今度はそちらに視線を移す。
一人、二人、と数えるとはなしに数えること八人目、碧が現れた。ということはこれがスキー部なのだろう。スキー部は部室棟前で円形に並び、部室の扉を閉めた碧が輪に入るのを待って準備運動を始めた。屈伸、伸脚、前屈、後伸、横曲げ、捻り、と身体全体の曲げ伸ばしの後、手首、足首、首、肩、膝と関節を回す。それを終えると、一列縦隊を組んでゆっくりと走り始めた。掛け声は特に無く、碧は殿を務める。部活動が正式に開始されるのは来週だから、現在一年生部員は碧のみなのだろう。それにしてもゆっくり走っている。藍でもついていけそうだ。さほど広くもない校庭を半周するのに二、三分もかけて校舎の陰に入り、見えなくなった。その間に、先程の部がまた図書室の前を通過している。じき、スキー部は周回遅れになるだろう。
身じろぎもせず待つこと約三十秒、スキー部の先頭が姿を現し、さらに数秒待たされて漸く碧の姿を確認できた。こんなにゆっくりと走っているのに、碧の表情は意外と厳しい。体調が悪いのか、と心配になった時、碧がこちらを見、藍であることを認識して笑顔で軽く左手を振ってきた。慌てて藍も手を振り返すが、驚いていたため、笑顔になっていたかどうか自信は無い。
暫し碧の背中を見送り、藍は受付へ向かった。無論手に持った本を借りるためだが、どのような手続きで借りるのか、表記が一切無い。
「あの…借りたいのですが…」蚊の鳴くような声で言うと、
「はい。一年生? 生徒手帳貸して下さい」受付の女生徒が言った。事務的で素っ気無いが高圧的な感じはしない。
「あ、はい…」慌ててスカートのポケットから出して渡す。校則に、校内及び登下校中には生徒手帳を常時携帯とあり、生真面目な藍はそれを守るため制服のポケットに入れているのである。流石に体育の時間は携帯しないが。
女生徒は生徒手帳と本を取ると、生徒手帳の最初の頁を開き、それを見ながらコンピューターのキーボードを叩いた。終わると次は本の表紙に貼ってあるステッカーを見てまたキーボードを叩いた。本の管理番号であろう。それから本と生徒手帳を重ねて藍の方へ差し出し、
「貸出期間は最長一週間です。来週の火曜には返却に来て下さい」とやはり事務的な口調で言った。
「はい…」受け取った本と生徒手帳をそれぞれ鞄とポケットに入れ、藍は図書室を出た。
無人の廊下を食堂に向かって歩く。が、階段の下に来た時、急に気が変わって教室に行くことにした。藍が運動する姿をもっと見たいと思ったのである。
階段は、降りてくる生徒でごった返していた。一年F組のホームルームが終了してまだ十五分程しか経っていないのだ。のんびりと帰り支度していればそれくらいすぐ過ぎてしまうし、一年F組よりもホームルームが長かった学級も有るだろう。
校内左側通行と定められているので階段の左端を昇るが、対面する生徒達は三人、四人と階段の横幅をいっぱいに使って降りてくる。押しの弱い藍にとって人波に逆らうのは大仕事だ。その上、階段が昇りは右巻きなので各階の踊り場で廊下から階段に入ってくる生徒と鉢合わせる。結果、四階へと昇るだけで三分以上を要した。
苦労して辿り着いた教室には、藍の想像通り十人程度が残っていた。山田席の周りでいつもの四人がトランプにうち興じ、鈴木席で鈴木と女生徒二人が話し、最後列で岡田と松岡が話している。鈴木席に居るのは真田美里に高木鈴音と藍は記憶している。鈴木席は廊下側の壁際なので、会話が耳に入ってきた。二人も山雅観戦に参加らしい。
藍は誰の隣も通らぬよう空席の間を縫って自分の机に行き、鞄を置いて窓際に向かった。目指しているのは中川の席だ。幸いにして誰も話しかけてくることは無く、窓の傍に立って校庭を見渡す。図書室から見た時はガラガラだった校庭に、今は何十人かの生徒が出て運動していた。どの部活が活動しているのかは分からない。目を走らせて碧を探すと、ちょうどスキー部の部室前を通過するところを捉えた。
先程と変わらぬ遅さだ。一体あれで訓練になるのだろうか。それともまだ準備運動なのだろうか。碧は最後尾で楽々と走っているように見える。自分ならばともかく、碧の運動能力では楽過ぎてつまらないのではないか。
そんな余計なことを心配しつつ碧の姿を見詰める。遠目なので確信は持てないが、碧の表情は真剣だ。このような表情の碧を、藍は初めて見る。坂道を自転車で登る時はあんな顔なのかな、と思い、藍は碧をずっと目で追った。ただぐるぐると走っているだけでも、碧の姿がそこに在れば飽きない。
ただ、校舎前を通る時に見えなくなってしまうのがもどかしい。窓から身を乗り出せば覗き込めるであろうが、気心の知れぬ人が居る場でそんなことは出来ない。幸い、窓は誰かが開けてそれきりになっていたから、頭を少しだけ窓の外に出して死角範囲を狭めることは出来る。
そんな微妙な努力の甲斐も有って、藍は碧の姿を好きなだけ眺めることが出来た。いつになったら次の運動に入るのだろうという疑問も、時間のことも忘れて見入る。
スキー部を何度も周回遅れにした一団は、途中で一部が分かれて校庭の端に行き、ダッシュ練習に切り替えた。ということは陸上部であろうか。スキー部はそれからも黙々と抜かれ続け、碧は真剣な表情のまま殿を走り続けた。
そして藍にとっては実に唐突に、スキー部は部室の前で歩行に変わり、校庭をもう一周してから円形に並んだ。漸く次の運動か、と思ったが、藍の期待に反してスキー部は全員が一礼した後ぞろぞろと部室へ入って行った。
藍は我に帰り、腕時計を見た。針は五時二分を指している。ということは、一時間以上も眺め続けていたのだ。読書以外でこれほど時間を忘れて没入したのは初めてだ。
慌てて振り返ると、教室に残っているのは四人組だけになっていた。彼らは相変わらずトランプに熱中している。藍は急いで自分の机に戻って鞄を掴み、教室を後にした。
廊下は先程とうって変わってひっそりと静まりかえっており、窓から入ってくる外の光も少し頼り無くなっている。階段は先週の金曜日と同じように薄暗かったが、藍は可能な限り速く歩いた。本当は小走りになりたかったのだが、校舎内を走ってはいけないという不文律を律儀に守ったのである。
一階まで降りると足速なまま渡り廊下を歩き、食堂に入った。碧との待ち合わせは食堂ということになっているが、その姿はまだ見えないから、間に合ったようだ。
藍は入口から一番近い椅子に腰掛け、鞄から図書室で借りた本を取り出す。表紙をめくると、「伝奇集 ホルヘ・ルイス・ボルヘス」。ホルヘという名もボルヘスという名も藍は初めて見た。どこの国の人なのか、女なのか男なのか、いやそもそもどちらが名前でどちらが苗字なのかも分からない。そのせいか、神秘的な印象を受けた。
藍は目次をとばして本文の最初の頁を開いた。その時。
「藍ちゃん、お待たせー!」背後から声が掛かり、藍は本を閉じて振り向いた。碧は制服姿だ。十分もしない間に、もう着替えてしまったらしい。立ち上がって鞄に本を仕舞っていると、
「図書室で借りたの?」
「うん…」
「何て本?」
「『伝奇集』…」
「面白そうなタイトルだね! どんな話?」藍が帰り支度を整えたのを見て碧が歩き出し、藍もその左後ろに並んだ。
「まだ読んでなくて…」
「え、そうなの? じゃあ勉強してた?」
「ううん…碧ちゃんが走ってるの、見てた…」
「え!? でも二周目から図書室にいなかったような…」
「うん…教室から見てたから…」
「そっかー、上見ればよかったー」
「ずっと走ってたね…」
「ホントにランニングだけで終わっちゃったよー。しかもすごいゆっくりだったでしょ?」
「うん…途中から速くなるのかな、って思ってたけど…」碧が扉を開け、二人は渡り廊下に出た。
「スタミナつけるにはあれがいいんだって!」
「そうなんだ…」意外である。どう見ても負荷は低そうだが。
「本来は練習の後整理体操として走るらしいんだけど、校庭でスキーの練習できないからねー」
「じゃあ、スキー部の日はずっと走るの…?」
「かなあ? 聞いてないけど、それでも全然オッケーだね!」
「そうなんだ…」運動が好きであってもひたすら走るばかりでは飽きてしまうだろう、と藍は思うが。
「あ、そうそう! 土曜にスキー部で滑りに行くんだって!」校舎に入った。下駄箱付近は先日のように薄暗いが、話に集中しているためか碧に怖れる様子は無い。
「碧ちゃんも行くの…?」
「ううん。まだ正式に部活始まってないから、一年は連れて行けないんだって」
「そうなんだ…」
「でね、藍ちゃん土曜日予定ある? なかったらどっか遊びに行こ!」本日二度目のこの質問である。日曜から土曜まで、藍には予定など無い。
「うん…大丈夫…!」当然、答えも一度目と同じになった。
「どーこがいいかなー!?」
「うん…」
「あっ! orangeの聖地巡礼は!?」
「え…聖地巡礼…?」急に宗教のことに話題が飛んで、藍は少し面食らった。
「話に出てくる所に実際に行くの!」
「あ…うん…!」なるほど、それを聖地巡礼と呼ぶのか。orangeは面白かったし碧が貸してくれた本であるから、興味が有る。
「じゃ、決定ね!」
「うん…!」
「帰ろっか」
「うん…」
附 作中における虚実の説明
現実世界についての説明は、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。
作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。
松本イズミ
実在します(マクセルイズミの宣伝キャラクターとして)。等身大フィギュアが今でも展示されるかどうかは確認していません。




