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リセエンヌ  作者: 松本龍介
20/62

レアチーズ2(/2)

二分割の二つ目です。

 青井邸を出ると碧が藍の右側に並び、手を握ってきて、二人は何となく無言のまま渚駅のプラットフォームまで歩いた。

 今回もプラットフォームは無人だ。

 「時間、余裕だよね」

 「うん…まだ十分くらいあるよ…」

 「そっか! にしても、昨日からここで誰も見てないんだけど、経営大丈夫なのかな?」尤もな疑問である。

 「分からないけど…学校行く時はすごく混んでるよ…」

 「えっ!? そうなの!?」この景色しか見ていない碧が驚くのも無理は無い。

 「うん…松本駅まで身動きできないよ…」

 「何そのラッシュアワー!? そっかあ、通勤通学で使う人いっぱいいるんだね…むう、言われてみれば藍ちゃんが来る時階段降りてくる人たくさんいるような…あれJRじゃないんだ…」

 「JRの人もいるかも知れないけど…」

 「そっか…わたし自転車でよかったー」

 「え…?」

 「人ごみ苦手~」

 「あ、そうなんだ…」意外だった。碧は自分と違って物怖じしないし、身体能力にも秀でているので、人混みでも平気なのだろうと思っていた。もちろん藍も人混みは苦手だが、乗車時間が短いこともあって、満員電車については已む無しと割り切っている。

 「でも雨の日はバス使おうかな。藍ちゃんと一緒に行きたいし」

 「…ありがとう…」

 「天気予報明日雨だったよね?」

 「え…うん…」朝のニュース番組ではそう言っていた。この時期にしては珍しく一週間以上降っていないのだが、明日まで待ってくれて本当に有難い。昨日と今日、桜越しに見た空を、自分はきっと一生忘れないだろう。

 「藍ちゃんがよければカッパ着て自転車でもいいんだけど、絶対スカートの裾汚れちゃうよね」

 「うん…」藍はまた驚いた。自分だったら晴れていても自転車通学したいとは思わないのに、合羽を着てまで自転車で来ようとは。だが確かに、自転車を前提に考えるなら、ズボンで上下合羽というのがいいだろう。体操服の上から合羽を着て、学校に着いたらスカートに穿き替えるなど、やりようは有りそうだ。

 「碧ちゃん、雨だったら、駅までどうするの…?」

 「うーん、駅までは自転車かなあ。自分のカッパはあるし」

 「自転車置場あるのかな…?」

 「それ知らないんだよねー。全く考えてなかったし。多分あると思うんだけど」

 「駅で聞いてみる…?」

 「うん、そうだね!」

 「もしなかったら、学校まで歩く…? 私、すごく遅いけど…」

 「それもありだね! 時間あるから、ちょっとぐらい遅くても遅刻しないよ!」藍の歩く遅さはちょっとぐらいではないが、碧と一緒だと独りよりかなり速く歩けるし、碧の言う通り時間の余裕もかなり有る。遅刻の心配はしなくていいはずだ。

 「えーと、これで大体明日の作戦は練れたかな?」

 「うん…そうだね…」後は駐輪場の有無とバスの具合を勘案して決めればよい。

 「ところで、ここホーム一本だけなんだよね?」

 「うん…。…?」

 「てことは、反対向きの電車も来るってことだよね?」

 「うん…。…?」

 「怖っ! ボーッとしてたら反対の電車乗りそう!」淵東なぎさ言うところの「無人駅あるある」である。

 「あ…そうだね…」藍はそういう間違いを犯したことが無いので、今一つその怖さが理解出来ない。しかし、もし逆方向の電車に乗って途中で正方向の電車とすれ違ってしまったら、かなりの時間を失ってしまう。上高地線の運行頻度は、朝八時代を除いて、四十分に一本なのである。

 「松本あっちだよね!」線路に向かって左側を指差して碧が言う。

 「うん…」

 「間違えないようにしないと!」碧の言葉の途中で、踏切の警報が鳴り始めた。

 「あ、来るみたいだね…」右の方を見てみると、もうすぐそこまで電車が来ている。プラットフォームに書かれた「乗車口」の三文字を囲む白い長方形の前に藍は立った。碧はその後ろに並ぶ。

 数秒で電車はプラットフォームに滑り込んできた。

 「あっ、淵東なぎさ!」車体に等身大くらいの淵東なぎさが描かれていた。

「昨日言ってたのこれ?」

 「うん…」扉が開いたが降りてくる乗客はおらず、藍は車内に入り整理券を取って碧に差し出した。整理券には「2 渚 15:15」の表記。

 「そっかー、ちょっと得した! あ、ありがとう!」碧は少しキョロキョロしながら整理券を受け取る。

 「うん…」

 車内には十人ほどの乗客しかおらず、二人は手近な席に座った。座席に余裕が有るので、碧は二人の間にケーキを置いて座った。

 電車が動き出す。

 「開かない扉あるんだね」少し驚いた様子で碧が言う。実に尤もな驚きであろう。

 「うん…朝は全部開くけど…」

 「あ、そうなんだ」

 「うん…乗る人が多いからかな…」乗客が多いのに乗降口を絞ると乗降に時間がかかり、定刻運行に支障を来たすかも知れない。

 「なるほど! きっとそうだね! いや待てよ、そもそも何で全部開けないんだろ」

 「うん…」藍はそれを考えたことは無かった。小さな頃からこの方式に慣れていて、そういうものだと思っていたのである。寧ろ、そんなことを疑問に思う碧に驚いたくらいだ。

 「整理券だし、バスみたいだね!」

 「あ、うん、そうだね…」整理券方式も藍にとっては当たり前で、バスと同じだと思ったことも無かった。

「あ…!」突然脳裡に解が閃き、藍にしては珍しい大きさの声をあげた。

 「なになに!?」

 「扉が開かないのと整理券なの同じ理由かも…」かも、とまた控えめに言ったが、藍は自分の考えが正解であることに確信を持っている。

 「え、どういうこと? 解説の藍さん」

 「ワンマンだから…」実に短い解説だが、

 「あ、そっか! なるほどね!」碧はその内容を飲み込んだようだった。

 それにしても、二人の家は大して離れていないのに、最寄り駅が違うだけでこんなにも常識が違うのだな、と藍は不思議な感じがし、同時に少し可笑しくも感じた。それが表に出たのか、

 「どうしたの?」と碧に問われた。

 「あ、うん…。え…と、碧ちゃん松電初めてなんだよね…?」

 「うん!」

 「私はJRほとんど乗ったことないの…私達、家そんなに離れてないのに、面白いな、って…」

 「あー、そうだね! ありゃ、もう着いちゃうよ」二人の正面、進行方向の右手に複数の線路と何編成もの車両が現れた。松本駅南側の車庫である。

 すぐに電車は七番ホームへと到着し、全ての扉が開いた。

 「ありゃ、ここは全部開くんだ」

 「うん…多分、改札あるから…」

 「あ、そっか。じゃあ改札で払えばいいのかな?」

 「うん…」

 「あ、全然見てなかったけど、いくらだっけ?」

 「170円かな…」

 「はーい」

 藍は階段を登り、その先の廊下を通って改札に向かった。碧はその後ろに従う。改札口はJRと共通だが、上高地線は自動改札を使えない。向かって右側にある窓口の脇に立ち、

 「ここだよ…」と碧に言って右手を差し出した。

 「あれ? 藍ちゃんは? あ、そっか、定期」右手の意図を察して藍に紙袋を渡す。

 「うん…」

 ものの十秒ほどで碧は支払いを終えた。碧の要領のいいのはいつものことだが、対応する窓口の係員もなかなか大したものである。夏休み期間などの繁忙期には係員もかなり忙しく、鍛えられているのだろう。

 藍は定期券を、碧は窓口で渡されたレシートを係員に見せて改札を出ると、碧が藍の右に並んできて、

 「袋持つよ」と言って藍の右手から紙袋を奪い、代わりに手を繋いできた。

 「ありがとう…」

 「ううん!」

 改札を抜けると通路は左右に延びている。正面は駅ビルだ。二人は右に曲がって階段を降り、右手前方にあるロータリーに向かった。

 「藍ちゃん、どこから乗るか知ってる?」

 「うん、あそこ…」右の方を指差すと、碧もその方向を向いた。そちらにあるバス乗り場は一箇所だけだ。

「バスの番号は110番なんだけど…」

「警察みたいだね!」

「あ、そうだね…」碧でなくとも思いつくようなことだが、藍は考えてもみなかった。

 バス乗り場まで来ると、碧がバス停の表記を確認し始めた。

 「110…北市内西回り…ここかな? 松本高校北」

 「うん…」

 「あー、そう言えばバス停あるね!」松本高校の北側に、ということであろう。

 「うん…」

 「次は…16時20分! 今…4分! ちょっと余裕あるけど…自転車置場の調査は危険かな?」

 「うん…そうだね…」ここは大事を取るべきだろう。

 「じゃ、それは帰りにしますか」

 「うん…」

 二人はバス停前の長椅子に腰掛けた。

 「淵東なぎさね」

 「うん…」

 「車内にもいっぱいいたね」

 「うん…」注意書や案内など、色々と使われていた。

 「せっかくだから車内放送も淵東なぎさにすればいいのに」

 「……?」

 「誰か声優に声あててもらってー。うまくいけば乗客倍増だよ!」そんなに簡単に乗客が倍増するならどの会社も苦労しないが、そういう努力も有りだろう。

 「かなり有名にならないといけないね…」

 「そうだね! じゃあまずはわたし達がバカ売れして!」

 「え……???」どういう風に話が飛んだのか、藍には全く分からない。

 「やだなあ、藍ちゃん、ブルースシスターズ!」

 「バカ売れって…?」

 「え? アイドルとかお笑いとか! …あ、エロいのじゃないよ!」恐らく昨日梨乃に言われたことを思い出しての台詞だろうが、

 「え、うん……」藍の突っ込みたいところはそこではない。

 「でバカ売れしたところで話題に出せば、たちまち淵東なぎさもバカ売れ、松電は満員で二両から十両に昇進というわけですよ!」

 「ホームに入りきらないね…」藍は、相撲に通称十両と呼ばれる階級が在ることを知らない。

 「おお! ホームも延長かー。相当儲けたな!」

 「……」

 「さて、我々が松電の業績を押し上げたところで」碧は淵東なぎさと上高地線をかなり気に入ったらしい、と藍は思った。

 「そろそろバス来てもいいのにね。って、お、来た?」二人の前でバスが停止し、前後の扉が開いた。

 碧は迷わず後部扉からバスに乗り込む。「お乗りの際は……後扉から」とバス停に書かれていたのを見逃さなかったらしい。手を引かれた藍が後に続き、後部扉の向かいの席に二人で座った。ケーキは碧の膝の上だ。

 少し間が空いて、大学生らしい女子が四人乗り込んできて最後列に席を占めた。

 「梨乃さん、今日何してるかな?」

 「うん…」

 「なんか想像つかないねー」

 「うん…」全くだ。勉強しているような気もするし、アルバイトしているような気もするし、遊びに出ているような気もする。

 「梨乃さんだったらジンギスカン食べに札幌行ってたとか牛タン食べに仙台行ってたとか焼肉食べにソウル行ってたとかありそうだし」

 「うん…」どれも肉だな、と藍は思った。

 「意外と寝てたりして」

 「え…」それは無いような気がする。

 「あ、ラブ子とアっちゃん散歩まだだったら一緒に行きたいね!」

 「あ、うん…!」それは是非とも行きたい。高辻邸の傍の公園でアスランとボール遊びをしたい。

 車内放送が入ってバスが発車し、ロータリーを出て左へと曲がった。始業式の日に二人が自転車で登った道だ。

 「昨日初めて犬の散歩したんだけど、楽しかった!」

 「碧ちゃんも…?」

 「うん」

 「すごく慣れてるみたいだったから飼ってたんだと思ってたよ…」

 「え、そう? まあ確かに、うちのクロがでっかくなったくらいの感じだったけど」

 「あ、そうなんだ…」

 「うん。二匹(ふたり)とも行儀よかったしねー。クロの方がよっぽど暴れん坊だよ」

 「暴れるの…?」

 「そこら中走り回るねー。で、色々倒したり引っくり返したり」

 「そうなんだ…猫ってゴロゴロしてるのかと思ってた…」

 「うーん、まだ子供だからなのかなあ」

 「そうなの…?」

 「うん、まだ1歳過ぎたところだからねー。でも年取って落ち着くのかどうかアヤシいなー」

 「片付け大変そうだね…」

 「そうなの~。全部わたしだからねー」

 「そうなんだ…」

 「うん。お父さんもお兄ちゃんも甘やかすばっかりで何もしないんだよね!」

 「碧ちゃんお母さんみたいだね…」

 「クロに関してはそんな感じだねー。でも母としてしつけには失敗した気がするよ…」碧には珍しく、トホホな感じの語尾になった。

 「でもかわいいんだよね…?」少し気を遣って藍がそう水を向けると、

 「まあね!」すぐ復活した。

「あと、なで心地! 梨乃さんには悪いけど、ラブ子たちの比じゃないね! 藍ちゃんも絶対ハマるよ!」藍は、犬や猫を飼う者の親バカぶりを垣間見た。

 「そうなんだ…撫でてみたいな…」

 「なでてなでて! 来週にでもうち来て~!」

 「うん…ありがとう…」

 「あ、ただ一つ問題が…」何か思い出したらしく碧が付け加える。

 「うん…」

 「抜け毛がスゴいんだよね、今…」昨日話題になった抜け毛問題である。

 「そうなんだ…」

 「先週くらいからかなあ。通った跡にちょーっとずつ落ちてるんだけど、トータルするとスゴい量なんだよね。あんなに抜けてハゲないのが不思議だよ…」

 「そうなんだ…」

 「アっちゃんも抜け毛って言ってたよね」

 「うん…」

 「クロであの量だから、アっちゃんなんて抜け毛集めたらじゅうたん織れるんじゃないかなあ」

 「え…そんなに…?」

 「想像だけどね…あ、でも犬は外でブラッシングしてやればいいのか」

 「猫はできないの…?」

 「うーん、脱走しそうで恐いんだよね」

 「あ、なるほど…」

 「やるとしたらお風呂場かなーとは思ってるんだけど、何かもう手遅れな感じがするし…」

 「そうなんだ…」

 「来週そんな覚悟でお越し下さい…」相生邸に行くことは決定事項らしい。

 「はい…」碧につられて沈んだ調子になってしまったが、抜け毛の恐怖よりもクロに会いたい欲求の方が遥かに大きい。そもそも藍は犬や猫の抜け毛を実感していないので、どれほど面倒臭いかを知らないのだ。

 「あ、もうすぐ学校だよ!」車窓の向こうを見て碧が言った。右手前方に校庭と校舎がもう見えている。

 バスが郵便局前のバス停を素通りするのを見計らって碧が窓際の釦を押した。チンと音が鳴り、次止まります、の表示が運転席の背後で光る。バスは松本高校北西角の信号まで坂を登り、そこで右折待ちのため停止した。

 「こっちから学校見たの初めて~!」財布から小銭を取り出しながら碧が言うと、

 「碧ちゃん、受験の時も自転車…?」藍も慌てて二百円を取り出した。

 「ううん、駅から歩いたー」

 「あ、そうなんだ…」藍は、受験の日はバスに乗ってきた。

 右折信号が灯ってバスはゆっくりと右に曲がった。ここからは緩やかな下り坂だが、信号から数十mでもうバス停だ。停車したバスの前部扉から二人は歩道に降りた。

 「さてと…梨乃さん()正確には分からないけど、あっちに歩いてけば家の前の道に出るよね」と、学校とは反対の方を指差す。

 「うん、多分…」大まかには合っているはずだが、果たして道が通じているのかどうかは分からない。

 「じゃ、適当に行ってみよう!」道の入り組んだ古くからの住宅街においては道に迷う危険性の高い行為だが、そういった土地をうろついたことの無い二人にはそのような知識も経験も無い。

 「うん…」

 碧が藍の手を取って、二人はとりあえず校舎に沿って坂を下る方向に歩き出した。

 「うちの教室あの辺かな?」校舎の中央より少し向こう側の最上階を碧が指差す。

 「うん、そうだね…」

 「あっ! 見えた! 1-F!」碧は教室の扉の上につけられた表札を読んでいるらしいが、眼鏡着用にも関わらず藍には文字が判別出来ない。

 「すごいね…碧ちゃん、視力いくつ…?」

 「両方2.0! 藍ちゃんは?」

 「両方0.1…眼鏡かけて1.0…」

 「0.1ってどれくらい見えるの?」

 「日常生活に支障はないけど…前の席じゃないと黒板の字が見えないかな…」

 「そうなんだー」

 「2.0はどれくらい見えるの…?」

 「あの1-Fが何とか読めるくらい!」

 「そうなんだ…」表札までの距離を半分にしても、自分には文字が判別出来るとは思えない。しかし自分の矯正視力1.0は最近眼鏡屋で測定したばかりで信頼出来るから、碧の視力は2.0を越えているのだろう。

 「梨乃さんも目良さそうだよね!」

 「うん…」あれだけ運動に秀でている梨乃ならばきっと目もいいだろう。

 「良すぎて普通の人には見えないものまで見えそうだよね!」

 「……?」

 「霊とか運命とか!」超人を通り越して悪魔扱いだが、そのような印象であることは否定出来ない。

 「あ、ここ曲がろ!」ちょうど一年F組の教室を通り過ぎた辺りに細い道があった。

 曲がってみると、何の変哲も無い普通の住宅街である。脇道過ぎるのか、人も自動車も全く見当たらない。その道を百m余り進むと斜めに走る道に突き当たり、碧は迷わず右前方に進んだ。

 しかし松本の住宅街では道がよく曲折している。二人の歩いている道も少しずつ左に曲がっていき、また百m余りで少し幅の広い道に当たった。

 「あ、ここだね!」碧には見覚えがあるらしく、ここも迷い無く藍の手を引いていく。藍は引かれるままよく分からずについていくが、細い川を渡ったところで今歩いているのが梨乃の家の前の道だと気づき、自動車の助手席から一度見ただけの場所なのによく分かったものだと感心した。

 そこから高辻邸までは三分もかからなかった。「沢村医院」の裏へ回って呼鈴を押すと、中から「わん!」と声がした。

 「お、ラブ子、そこにいるのか」と扉越しに碧が話しかけると、

 「わん!」返事が帰ってくる。

 そのまま待つこと数十秒、前触れ無く玄関の扉が開いた。

 「いらっしゃい」今日も梨乃の足許ではアスランがうろうろしている。

 「こんにちは!」「こんにちは…!」

 「あら、今日は二人とも髪型変えたのね」

 「さすが梨乃さん! おそろいにしてみました!」

 「うーん、揃って…はいないけど、気概は買うわ」

 「ありゃ、辛口」

 「そう? 事実だから仕方ないわね。ま、似合ってるからいいじゃない」

 「もう、梨乃さんったらツンデレなんだから!」

 「え、どこが? さ、上がって」

 「はい! お邪魔しまーす!」

 「お邪魔します…」

 碧の後に靴を脱いでいると、アスランが目の前にやって来た。

 「アスラン、こんにちは」頭を撫でて挨拶すると、嬉しそうに尻尾を振る。自分も嬉しい気持ちで顔を上げると二人と一匹はもう階段の半ばにおり、藍は慌てて後を追った。その前をアスランが行く。

 藍が梨乃の部屋へ入って扉を閉めると、

 「梨乃さん、これ!」碧が紙袋を梨乃に差し出した。

 「うん?」

 「誕生日プレゼントです!」

 梨乃の顔に驚きの表情が広がった。

 「ありがとう…」明らかに不意打ちだったようだが、そのことに藍は驚いている。自分達の行動など梨乃には万事お見通しだと思っていたのだ。

 しかしその表情は一秒程で、梨乃はいつもの落ち着き払った顔に戻った。受け取った紙袋を机に載せ、まずは小袋を取り出して開封する。

 「あら、お揃い?」中身を一瞥して、二人の髪を縛っているゴムと同じものと認識したらしい。

 「そうです! 早速つけましょう! 梨乃さん座って~」

 「はいはい」梨乃は机の下に収まっていた椅子を引き出して腰掛けた。

 「藍ちゃん、手伝って~」

 「あ、うん…」完全に傍観態勢に入っていた藍は指名に驚きつつ、碧の左側に立った。

 梨乃の後頭部の正中線上に指先を滑らせて髪を左右に分ける。碧はそれを三度行なってから右半分を両手に取った。それを見て、藍は左半分を束ねて持つ。

 碧はかなり高い位置で髪を束ね、左手で持った。そこに梨乃が盆でも持っているかのように手首を折って、髪ゴムを載せた右手を出す。

 碧は一瞬の逡巡の後、水色の方を取り、髪を括った。

 「梨乃さん、痛くないですか?」

 「うん、大丈夫」

 「じゃ、次いきますねー」梨乃の手から紺の髪ゴムを取り、藍から髪の房を受け取って、右と対称になる位置で括ると、

 「完成でーす! では記念撮影~! 梨乃さん立って!」ポシェットから携帯電話を取り出した。

 「段取りいいわねえ」梨乃は呆れた口調で椅子から立ち上がる。

 「藍ちゃんこっちね」梨乃の右側を示し、自分は反対側へ立つ。

「できるだけ寄ってー」碧が言うと、梨乃が腰に腕を回してきて、藍は抱き寄せられた。恐らく左手で碧に同じことをしているのだろう。その証拠に、

「お、梨乃さんナーイス!」碧が寄ってきた。

「じゃ、いきますよー。レンズ見てー」言われて慌ててレンズを見る。

「3、2、1、はい!」碧の声に半秒ほど遅れてペロレンと音がした。写真を確認した碧が、

「はいもう1枚! 二人とももっと笑って~」この言葉も藍に驚きを運んできた。自分はともかく梨乃がそんなことを言われるとは。落ち着いて見えるが、実はそうでもないのだろうか。

「いきますよー。3、2、1、はい!」また写真を確認して、今度は、

「いいですねー! じゃ今度は梨乃さんのほっぺたにチュウ!」

 「あら大サービスね」

 「ええそりゃもう誕生日ですから!」実際には過ぎてしまっているが、気は心というやつだ。

「藍ちゃんOK(オウケイ)?」

 「うん…」恥ずかしいと思いながらも、顔を左に向けて唇を梨乃の頬に近づける。

 「じゃいきますよー。3、2、1」

 藍は梨乃の頬に唇をつけた。向こう側では碧も同じようにしているだろう。ペロレン、を確認して唇を離す。

「OKです! じゃ早速データを移植!」

 「はいはい」梨乃がパソコンの電源を入れ、立ち上がりを待つ間に紙袋から新聞紙と保冷剤を出して、

 「ケーキ?」

 「はい!」

 「後で頂くけど、とりあえず見せてもらうわね」

 「はい!」

 紙袋から出したケーキ箱を机に置いて、とりあえずパソコンのパスワードを打ち込んでから、箱の口を開け、土台の厚紙をつまんで引き出す。

 「フルーツいっぱいね。レアチーズ?」

 「はい!」

 「もしかして作ってくれたの?」包装を見ての判断であろう。

 「はい! パティシエ藍と弟子碧が作りました!」

 「ありがとう…嬉しいわ」言葉は簡潔だが、感動が滲み出ているのをはっきりと感じる。藍が想像していたよりもずっと喜んでくれているようだ。藍はとても嬉しくなった。本当に作ってよかった。

「これ書いてくれたの碧ちゃん?」

 「はい! よく分かりましたね」

 「碧ちゃん、って感じの字だわ」

 「でへへへ、そうですか? 藍ちゃんだったらもっと字きれいなんですけどねー」

 「イメージ通りね。碧ちゃんもきれいな方だと思うけど」

 「いやいや藍ちゃんはレベルが違いすぎます! 漢字ドリルの字みたいですよ!」

 「……」藍にも自分の字が整っているという自覚があるので否定は出来ないのだが、誉められると恥ずかしい。それに、きれいに書けるのは鉛筆やボールペン、チョークでの話だ。

「でも、私だったら何十回も練習しないとちゃんと書けないよ…。碧ちゃん、三回目できれいに書けてたよね…」何十回も、は決して誇張ではない。実際に試してみてもそれくらいかかるだろう。とにかく藍は何事にも慣れるまで時間がかかるのである。

 「碧ちゃん、器用そうだもんね」

 「うーん、そうなのかな? 梨乃さんも器用そうだよね」碧の問いかけに藍も頷く。

 「そうだと思うけど、チョコペンはやったことないから分かんないね」

 「あっ、そうそう! 梨乃さん楽器弾けますか!?」

 「一応ピアノとヴァイオリンは習ってたよ」

 「ヴァイオリン!」「バイオリン…!」二人の声がきれいに揃った。

 「え? ヴァイオリンに何かあったの?」

 「いやさっき二人で話してたんですよ! 梨乃さんに似合う楽器はヴァイオリンだ、って満場一致で可決だったんですよ!」

 「ピアノもです…」

 「そうそう! 右足で水戸黄門弾きながら左足で銭形平治弾けそう、って!」

 「どこの清水ミチコよ」

 「え、誰ですか? それ」

 「え、だから右手で水戸黄門弾きながら左手で銭形平治弾いてた人」

 「え!? ホントにそんな人いるんですか!?」

 「うん」

 「くー、くやしい! スゴい芸思いついたと思ってたのに!!」

 「あー、それは残念ね」

 「でも梨乃さんは足ですから!」

 「や、さすがにそれは無理だわ。猫ふんじゃったくらいなら弾けるけど」

 「え!?」「え…?」

 「練習に厭きたらやるでしょ、そういうの」

 「え、や、りますかね…?」

 「うん。ヴァイオリン指で弾いてみたりとか。調律が狂って怒られたからそれからやってないけど。足でピアノ弾いても音狂わないからね」

 「梨乃さんやっぱり超人だわ…」

 「うん…」

 「そんなムダなところまでスペック高いとは…」

 「うーん、全然誉められた気がしないわね。ところでこのトッポ、いいアイディアね」

 「でしょー! チョコ板レアチーズに差しただけだと倒れそうなんで!」

 「じゃ、切ってくるから一緒に食べましょ」

 「え、それはちょっと申し訳ないような」碧が殊勝なことを述べ、藍も頷く。

 「んーん、せっかくだから一緒がいいわ」

 「そうですか? じゃ、遠慮なく!」一瞬で殊勝さが雲隠れした。最初から遠慮する気は無かったのではないかと思わせる語調である。

「あ、でもその前に! ラブ子たち散歩もう行きました?」名前を呼ばれたラブの耳がぴくりと動いたが、背を向けている二人にはもちろん分からなかった。

 「ううん、これから」

 「はい! 先生!」

 「うむ、相生君」

 「一緒に行きたいです!」

 「あの…」

 「藍君もかね?」

 「はい…!」

 「じゃ、散歩から帰ったらケーキ頂くとしようかな」

 「はい!」「はい…!」

 「私ケーキ冷蔵庫に入れてくるから、この子達連れて玄関で待ってて」

 「はい!」「はい…!」

「ラブ子ー」碧が声を掛けた時には、成り行きを察したラブがもう起き上がってこちらに向かってきていた。やはり言葉を理解している、と改めて藍は思う。一方のアスランは梨乃が椅子から立ち上がったのを見て素早く起き上がり、ついて行こうとしたが、

 「アス、No !」と言われ渋々立ち止まった。

 「アスラン」そこに藍が声を掛けると、アスランは尻尾振り振りやって来た。碧とラブに続いて廊下に出ると、もう梨乃の姿は無い。ゆったりと見えながら実際には素早い梨乃のことだ、もう台所に着いているだろう。

 藍の想像通り、アスランが二階を通過した直後に梨乃も階段に現れ、結局藍が靴を履くのを待たせる形になってしまった。

 玄関の扉が開くと、アスランが喜び勇んで飛び出していった。続いてテコテコとラブが出る。碧の後に藍が出ると、アスランが足許にやって来てうろうろし始めた。早く連れていけと催促しているのだろう。

 「向かいの公園で」後ろから梨乃に指示され、

 「はい! ラブ子行くぞ!」碧が歩き出し、ラブがテコテコとついて行った。

 「アスラン、行こう」藍が声を掛けると、一瞬梨乃の方を見てから、藍の隣に並んで歩き始めた。

 沢村医院のある沢村二丁目は住宅街だ。医院の前の道は普通車がすれ違える程度の幅が有るが、車通りはほぼ皆無である。けれども碧は立ち止まり、隣を通り過ぎようとしたラブの首輪を掴んで止めた。

 「わん!」不満の声をあげるラブを無視し、左右から自動車が来ないことを確認してから、碧は首輪を離した。自分一人だったらきっと碧が歩みを止めることは無かっただろう、と藍は思う。それだけ気を遣っているということだ。

 碧が立ち止まったことで藍との間が詰まり、藍は立ち止まること無くラブの後ろをついて行った。道を横切り始めた時点で目的地が公園だと察したアスランが、速歩になってラブと碧を追い越し公園に進入する。

 「アっちゃん待って待って!」碧が呼び止めてもアスランは止まらない。

 藍が公園の入口から中を見渡した時、アスランは奥の方でフットボールをしている少年、恐らくは中学生の一団に乱入せんとしているところだった。

 「アスラン来たー!」少年の一人が大声で叫ぶと、

 「よっしゃ、パスパス!」奥の方で別の少年が応えた。その少年に向かってボールが出ると、アスランはそちらに向かって駆けていく。

 少年はボールを足許に収めるとアスランの方を向いて止まり、アスランが距離十m程度まで近づくのを待って、アスランに向かいドリブルを始めた。アスランは体勢を変えず、少年に向かう。

 少年はアスランの動きを予測していたらしく、すれ違いざまに左へ小さくボールを出してアスランを抜き、そのままドリブルでの全力疾走に入った。アスランはすぐさま右回りに旋回して少年を追う。

 当然ながら、犬の脚は速い。最大三mほどあった両者の距離はあっという間に縮まり、アスランが左側から少年を抜こうかというその時。少年は急停止すると同時に踵でボールを後ろに蹴り、ここもアスランを躱した。しかし、

 「!」少年から小さな舌打ちが聞こえた。意図したよりも蹴った力が強かったようで、左足を軸に反転した時にはボールが一・五mほど離れてしまっていた。少年を巻くようにアスランが再び旋回し、そのまま追い抜いてボールへ向かう。そこから少年が挽回することは出来ず、アスランが先にボールに追いつき、一mほど鼻でボールを転がしてから大口を開けてくわえた。

 そこに少年がやって来ると、アスランはボールを離して速歩で藍の許へやって来た。

 「すごいね、アスラン」頭を撫でると、嬉しそうに尻尾を振る。

 「アっちゃんやるなあ!」碧も感心した様子だ。

「あの子もけっこう上手だね!」

 「そうなの…?」藍はスポーツに全く興味が無く、テレビで観ることも無いので、当然技術のことも分からない。確実に分かるのは、自分に同じことは出来ない、ということだ。

 「うん、今のターンけっこう難しいと思うよ。まあ、試合で使うことなさそうな技だけど」

 「そうなんだ…」

 「あの子ちょっとずつ巧くなってるよ」二人の背後から梨乃が言った。

「初めて勝負した時はすぐアスランに取られたんだけどね」

 「そう言えば、みんなアスラン知ってるんですね」

 「よく乱入してるからね。アスランあれが楽しいみたい。あの子たちもアスランのこと可愛がってくれてるし」

 「アスラーン!!」一団のうちの誰かが呼びかけ、ボールを蹴ってきた。アスランは即座に反応し、藍の掌の下を長い毛が滑っていった。

 公園の中央付近でアスランはボールを捉え、鼻で押しながら少年達の方へ向かう。言わば鼻ドリブルだが、面倒になったのか、そうしたくなるのが犬の性なのか、また大口を開けてボールをくわえ、少年達の許まで行った。

 少年達はアスランの周りに集まり、頭や身体を撫でる。アスランはボールを地面に置いて、少年達の為すが儘にし、一通り撫で回されてから悠々と引き揚げてきた。

 「アっちゃん人気者だな!」碧がアスランの頭をぽんぽんと叩くと、

 「わん!」ラブが何事かを自己主張した。

 「残念だな、ラブ子」ラブの頭もぽんぽんと叩く。

 「ここ以外ではラブの方が人気なんだけどね」梨乃が公園の奥に向かって歩き出しながら言った。

 「そうなんですか!?」碧が意外そうに訊きながら梨乃に並んで歩き出し、藍もその斜め後ろについた。

 「うん、ラブだけ撫でてく人は多いけど、アスランだけ撫でる人ほとんどいないね」

 「えー、こんなにかわいいのに!」碧の意見に藍も大きく頷く。

 「わん!」

 「よしよし、ラブ子もカワエエぞ」

 「アスランぱっと見恐いし、愛想も良くないからね」

 「そう言えば、さっきも尻尾振ってなかったですね」少年達に撫でられていた時のことであろう。

 「うん。あの子達のことは好きだと思うけど、それでもあんな感じだからね。私以外になついてるの藍ちゃんぐらい」

 「え…そうなんですか…?」自分がなつかれていることも不思議だが、梨乃の両親になついていないというのはもっと不思議だ。

 「うん。親もあんまり関わらないし」

 「なんか意外ですね」碧の感想に藍も頷く。

 「うーん、基本悪さしないしねー。私が旅行行ってる時お母さんが散歩連れてってくれるくらいかな」

 「あ、そっか。海外行くんでしたっけ」行ったことの無い碧には、海外と言ってもピンときていないようだが。その点、藍も同じだ。

 「うん。でも今年は行けるかどうか分からないけどねー」

 「学校ですか?」

 「うん」

 などと話していると、

 「こんにちはー!」「こんにちはー!!」少年たちが挨拶してきた。梨乃とアスランはかなり馴染みになっていると見える。

 「こんにちは」梨乃がにこやかに応え、

 「こんにちは!」少年達に負けぬ元気な声で碧も挨拶した。

 「こんにちは…」成り行きで藍も挨拶したが、普段よりさらに小さな声で、少年達に届いたかどうかは怪しい。

 少年の一人がラブの前でしゃがみこみ、頭を撫で始めた。ラブは得意気に鼻を上に向ける。更に三人を加え、ラブは撫でられ放題御満悦という状態になった。

 一方でアスランの周りにも再び少年達が集まってきている。先ほどアスランと勝負した少年を筆頭に六人がアスランを囲み、その外側には更に人垣が出来ている。全部で十二、三人にもなるだろうか。

 一頻り、と言っても十分以上に亘ってだが、二匹を撫でて満足した少年達がフットボールに戻っていき、一行は公園の縁に沿って散歩を再開した。

 「あの子たちみんなメロメロでしたね!」碧が右側を向いて梨乃に話しかける。

 「ね。みんな犬好きなのよね」

 「違いますよう! 梨乃さんにメロメロだったんですよ!」

 「私?」

 「ね?」左向きに振り向いて訊いてきた。

 「うん…」色恋には特別鈍いと言うか興味の無い藍にも、少年達の梨乃に対する視線の熱さは分かるし、その理由も容易に推測出来る。藍から見ても梨乃の美貌は際立っており、そしてそれ以上に全身から滲み出る色気を感じるのだ。推定中学一年生の彼らであっても、その色気を感じているに違い無い。

 「え? 梨乃さん、分からないんですか?」

 「んー、いつもみんな普通に挨拶してくれるけど」

 「うわー」碧の声は呆れ調子である。「みんな全然フツーじゃなかったですよ! 目がハートだったじゃないですか! これアレだ、おかめには8個目があるヤツだ…」

 「うん…」相槌を打ちながら、碧にも同じことが当てはまる、と藍は思った。碧がこんにちは!と言った時少年達の頬に朱が差したことに碧本人は気づかなかったのだろうか。だとすれば正に旁目八目。正確に把握しているのは自分だけということになるが、わざわざそんなことを言う藍ではない。

 「にしてもアっちゃんやりますねー!」名前を呼ばれたアスランの耳がピクリと動いた。

 「まあ人間より脚速いし、重くて低いから当たり負けしないしね。ああいう勝負ならかなり条件いいよね」

 「ああいう、というと?」

 「ドリブルで抜いた後置き去りにする勝負。ただボール取らせないだけだったら、五分やってもアスラン勝てないと思うよ」

 「へー」

 「自分でそれが分かってるから、敢えてアスランが有利な条件で勝負してるんだと思うよ」

 「やるな少年! かっこいいじゃないの!」

 「最初はキープ勝負でもすぐアスランに取られてたんだけど、一年で上手になったね」

 「へー! あれ? もしかしてアっちゃんが弾き飛ばしたって子が…」

 「ううん、それは別の子。今日もいるよ」

 「あ、そですか」

 「ま、その子が弾き飛ばされたの見てほかの子がアスランと勝負するようになったのよね」

 「なるほどー。熱血スポ根ものみたいじゃないですか!」

 「碧ちゃんそういうの好きそうだね」

 「でへへへ、分かります?」

 「うんまあ。ね?」珍しく梨乃が藍に同意を求めてきたが、

 「あ、えーと、あの、スポコンって何ですか…?」

 「おっと、それは予想外。スポーツ根性の略よ」

 「あ、なるほど…」

 「碧ちゃんが好きそうでしょ?」

 「はい…そうですね…」考えることなく即答した。

 「もう…二人ともわたしのこと分かってるんだから!」と言って碧は両手で二人に投げキッスをした。

 三人と二匹は公園の入口まで戻ってきている。

 「アスランバイバーイ!」少年の一人がこちらに叫んできて、

 「バイバーイ!」「またなー!」と口々に叫ぶ声が続いた。梨乃が振り向いて軽く手を振ると、少年達の間に声無きざわめきが走った。

 「ほら、普通でしょ」と言う梨乃に、藍は全く同意出来ない。

 「いや全然!」碧も異を唱え、藍の方を向いてかぶりを振った。

 公園を出る前に少し止まって梨乃から曳き綱を受け取り、ワンコローズの首輪に繋ぐ。

 「どこまで行くんですか?」

 「いつも適当で毎回違うんだけど、どこか行きたいところある?」

 「大学は? 遠いですか?」

 「門まで片道…二十分くらいかな」回答に少し間が空いたのは藍の脚を考慮したからだろう。

 「藍ちゃん、晩ごはんの用意あるよね?」

 「あ、ううん…今日は七時くらいになるかも、って言ってあるから…」

 「7時…でもムリムリだね」

 「電話すればもっと遅くなっても大丈夫だけど…」

 「や、御両親の印象は良くしておかないと」

 「『藍さんを下さい』って言わないといけないもんね」

 「やだもう、梨乃さんったら! その通りー!!」

 「じゃ、この辺一周して戻って、時間あったら車で行きましょう。そのまま家まで送るわ」

 「え…」それでは梨乃の手間ばかりかかってしまう。同じことを碧も考えたようだが、一秒ほどの間の後、

 「お言葉に甘えて、お願いします!」

 「うん。じゃ、行きましょうか」

 「はーい!」言うが早いかラブの曳き綱を握って歩き出した。ラブもその隣に並んでテコテコと歩く。梨乃と藍が並んで後を追うと、その間にアスランが割り込んできた。

 碧は公園を出て左に向かった。この辺りの地理には明るくない旨の発言があったが、全くそうとは思えない。

 「碧ちゃん、どんどん知らない道入って行き止まりになるタイプだね」梨乃の意見には半分だけ賛成だ。何となく、碧は勘で行き止まりの道を察してしまいそうな気がする。その点は梨乃も同じ印象だが。

 それにしても。どちらが合わせているのか、碧とラブはかなり正確に真横に並んでいる。ラブは本当に碧になついているらしい。

 「ラブ、いつもあんな感じなんですか?」曖昧な訊き方だが、梨乃は藍の訊きたいことを察したらしく、

 「うーん、いつも通りと言えばそうだし、そうでないと言えばそうでないね」

 「…?」

 「元々我が儘で気紛れだから『いつも』っていうのが難しいんだけど…碧ちゃんのこと相当気に入ってるのは間違いないね」

 「やっぱり、そうですか…」

 「うん。何かあるんだろうね。アスランが藍ちゃんになつくのはまだ納得だけど、あっちはちょっと意外だった」

 「え…そうなんですか…?」アスランの話である。ここも梨乃は藍の心を読んだように、

 「うん。アスラン図々しい人が苦手だから。それと、髪の長い女の子が好きなのよね」

 「え…?」

 「あるのよね、動物にもそういうの。ちなみにエクレールも髪の長い人が好き」

 「へえ…」動物が外見で選り好みするとは全く思っていなかった。

 「あと、アスランは小さい子が好き。人間だと幼稚園児くらいまでかな」

 「へえ…! 人間以外も小さい子が好きなんですか…?」

 「うん。犬と猫は確認したよ」

 「猫もですか…?」

 「うん。一年くらい前にね、知り合いから子猫預かったの、三日間」

 「それは聞き捨てなりませんね!」藍達より十mほど先行していた碧が突如振り返り、歩いてきた。どのように動きを合わせているのか、ラブもくるりと反転し、横の列を維持したまま向かってくる。

 「地獄耳ね」呆れ声で梨乃が言う。

 「はい…」藍も感心三割呆れ七割という気持ちだ。

「それでそれで!?」話の先を急ぎつつ、また向きを元に戻して梨乃の隣に並んだ。三人と二匹が横一列という状態だが、道に自分達以外の人影は無い。

 「うん。まだ生まれて一週間くらいの子だったんだけど、預かってる間中ずっとその子の横にいたのよね」

 「散歩は?」

 「一応私についてこようとしたんだけど、あんまりその子のこと気にするもんだから、その子ポシェットに入れて一緒に連れてった」

 「うわ、それ絶対かわいいですよね! よかったな、アっちゃん!」

 「散歩に出たら出たでずーっとポシェットに鼻つけて歩くし」

 「うわー。エクレールとミー子みたいな感じですか?」

 「うーん、行動としてはほぼ同じだけど、動機は違うね」

 「ほう。あ、ここ曲がりますか?」公園を出て百mくらいのところで、十字路に行き当たったのである。

 「うん、右。で、次の日にひなたぼっこさせようと思って玄関の前に出したのね。当然アスランもついてきて。で、その子がよちよち歩いて道路の方に行こうとしたの。アスランそれをずっと見てたんだけど、道路に出る寸前でその子くわえて玄関の前に戻したんだよね」

 「えーと?」

 「道路は車が来るから危ないって思ったんだろうね」

 「おー! スゴいなアっちゃん!!」

 「玄関の方なんてほとんど車通らないけどね」

 「万が一と思ったんだな、偉いぞアっちゃん!」

 「自分は平気で道路横切って公園に走ってくのにね」

 「おー… それはダメだなアっちゃん…」

 「まあそんな風に小さい子が好きなのよね」

 「孫をかわいがるおじいちゃんみたいですね」

 「ね。まだ若いのに」犬の四歳と言えば、まだ少年と青年の間というところであろうか。

 「うちのクロと会わせたらかわいがってくれそう!」

 「小さいの?」

 「一歳です!」

 「それは会わせてみたいわね」

 「今度連れてきちゃおっかなー!」

 「私がアスラン乗せてってもいいね。南松だったよね」

 「はい! 自衛隊の近くです!」

 「藍ちゃんは渚だっけ」

 「はい…駅のすぐ近くです…」

 「じゃ、来週の土日のどっちかで調整しましょう」

 「らじゃ! これも右ですか?」

 「うん」

 「梨乃さん、今日何してたんですか?」唐突に話が飛んだが、梨乃のみならず、藍も慣れてしまってもう驚かなくなっている。

 「午前中は勉強して、午後は弘法山行ってた」

 「え!?」「え…!」また二人の声がきれいに重なった。

 「見るなら今日が最後かなって思って。何かあった?」

 「わたし達も今日弘法山行ってたんですよ! 昼過ぎに帰っちゃいましたけど」

 「あらら。じゃあすれ違ってたかもね」いつも通りの淡々とした口調の中に、藍は残念そうな響きを捉えて少し驚いた。少しして嬉しい気持ちが涌き上がってくる。梨乃がそれだけ自分達のことを好いてくれているということだ。

 「一緒に行きたかったなー! …いやいや、今日のはあくまでもケーキ冷却の空き時間活用だし…梨乃さんに会ってたら絶対ケーキのことバレてたし…結論! 今日はこれでOKです!」

 「来年一緒に行きましょう」

 「はい!」「はい…!」

 「あ! でもその前に来月行きましょう! 実写のorange見てから!」

 「なるほどね」

 「梨乃さん見たんですか?」

 「うん。松本が舞台だって聞いたからね。でも話もけっこうよかった」

 「ですよねー! 藍ちゃん今日から原作読むんで、言っちゃダメですよ!」

 「はいはい。じゃあほかにも行くところいっぱいあるんじゃない?」

 「そうなんですよー! 縄手とか、県とか! 時間あったら梨乃さんも一緒に行きましょうよ!」

 「いいわね」また短い言葉の中に喜びが滲んでいるのを藍は捉えた。碧と二人で学校帰りに寄り道することは難しくないだろうが、梨乃が楽しみにしてくれるのなら三人で、いや可能なら二匹も加えて一緒に出掛けたい。

 話の切りのいいところで高辻邸の玄関に戻ってきた。扉の把手に右手をかけた梨乃が、

「この子たちの足拭くから、二人とも曳き綱引っ張っててくれる?」

 「はーい!」「はい…」

 梨乃が扉を開けると二匹は先を争って玄関に入り、そのまま家の中まで雪崩れこもうとした。曳き綱を張っていろと言われなければ確実に土足で上がられていたところである。

 「ありがと」梨乃はその場に常備してあるらしいタオルを取って手早くラブの足を拭き、曳き綱を外した。自由になったラブは階段を昇ってゆく。

 続いてアスランも同じようにしたが、こちらは階段の下でうろうろしている。

「二人とも、アスラン連れて先に上がってて。ケーキ切って持ってくから」

 「はーい! おじゃまします!」

 「お邪魔します…アスラン」靴を脱いで名を呼ぶと、アスランが尻尾振り振りやって来る。

「行こ…」と言うと今度は階段へ戻り、昇り始めた。成り行き上、藍、碧の順でアスランについていき、三階の廊下に達すると、ラブが梨乃部屋の扉の前に立ち、ジト目でこちらを見ていた。早く開けろと言っているに違い無い。

 「はいよ」碧が開けると、半分も開かないうちにいそいそと室内へと歩いていった。アスランも同じようにいそいそといった仕草でその後を追う。碧に目で促されて藍が入ると、二匹は既に部屋の中央で横になって寛いでいた。その前にしゃがみこみ両手でそれぞれの頭を撫でると、アスランは尻尾で床を掃き、ラブは鼻先を持ち上げて歓迎の意を示した。

 碧が入ってくる気配がしないのでどうしたのかと振り向いた時、盆を持った梨乃の姿が目に入った。碧はこれを見越して待っていたのだろう。自分だけ先に入って申し訳無く思いながら藍は立ち上がった。アスランも立ち上がって梨乃の方を見る。

 「お待たせ。座って座って」部屋に入った梨乃に言われて藍はまたその場に座り、アスランの頭に左手を置いた。アスランもその場で横になる。

 すぐに梨乃と碧も藍の左右に座り、梨乃が盆を床に置いてケーキを配る間に、

 「ラブ子、来い来い」碧が右手で床を叩いてラブを呼び、

 「頂きます」

 「頂きます!」「頂きます…」三人は食べ始めた。

 「おいしい!」珍しく梨乃が大きな声をあげて誉める。

 「でしょー! パティシエ藍スゴいでしょ!」

 「正直こんなにおいしいとは思ってなかった。あと、好みの問題だけど、こんなに酸っぱいのなかなか店で売ってないよね」

 「梨乃さんもすっぱい方が好きですか?」

 「うん。これってレモン?」

 「はい…」

 「心をこめて搾りました!」

 「なるほど、弟子が怪力を発揮したのね」

 「そうでし!」

 「レモンもですけど…碧ちゃんが混ぜてくれて、いつもより均一になりました…」

 「なるほど。いいコンビなのね」

 「でへへへへ」

 「頂きました。本当においしかった。残りは少しずつ頂くわね」話しながら梨乃はもう食べ終わった。

 「いただきました!」碧もである。

 「藍ちゃん、慌てなくていいよ」藍はまだ先端から五分の一程度しか食べていない。碧の一口分くらいだろうか。

 「あ、はい…あの、よかったら…」この事態は最初から予見していたので、現時点では慌てていない。碧と梨乃に手伝ってもらえばよい。

 「よくないわけがございません!! ね、梨乃さん!」

 「んー、私たちはいいけど、藍ちゃんいいの?」

 「はい…家にまだありますから…」

 「そう。じゃ、遠慮なく頂くわね」恐らく梨乃は藍の思考を読んだ上で気を遣ったのだろう。時間に余裕が有ったら藍の申し出を固辞したかも知れない。

 梨乃と碧に大きく切り取らせてから、藍は自分にとっての適量を取り、口に運んだ。やはり過去最高の出来。味付けはいつも通りだが、滑らかさが段違いだ。これを自分一人でも実現するため、ハンドミキサーが欲しくなってきた。

 藍が味わっている間に、残りは梨乃と碧が分け合った。

 「何? ラブ子ほしいのか」碧の声にラブを見てみると、鼻で碧の右肘の辺りを押し上げている。

「梨乃さん、あげても大丈夫ですか?」

 「ちょっとだけね」

 「はーい」碧はレアチーズ部分を指先で少し取ってラブの鼻先へ持っていった。すかさずラブがそれを舐めとり、「こりゃウマい」といった目をして、また碧の肘を鼻で押す。

「もうないぞ」と碧が言っても止めないが、本当にレアチーズはもう無い。数秒押し続けた後、もうもらえないと分かったのか、諦めて碧の膝で丸くなった。

「わ、ふて寝しましたよ!」

 「うん、よくやる」

 「よくやるんだ…イメージ通りだな、ラブ子」からかい口調で言って、碧はポンポンとラブの頭を叩いた。

 一方アスランはおとなしくうつ伏せたまま、藍に頭を撫でられては尻尾で床を掃くばかりである。

 「じゃ、行きましょうか。お皿はそのままで」藍が最後の一口を嚥下したのを確認して梨乃が言い、三人は立ち上がった。アスランと、丸くなったまま床に滑り落ちたラブも立ち上がる。

 梨乃、アスラン、ラブ、碧、藍の順に玄関に向かい、同じ順で次々と外に出ていき、残された藍が靴を履き終わったとほぼ同時に、扉の向こうからエンジンの始動する音が聞こえてきた。慌てて藍が外に出ると、

 「慌てなくていいよ」出たところで梨乃が待ち受け、玄関の鍵を掛けた。

 慌てるなと言われても、二人を待たせているこの状況では無理である。しかも、この後控えている予定の時間制限が自分の都合によるものであるからなおさらだ。

 転がり込むような気持ちで、実際にはごく普通の速さで自動車の後部座席に乗り込むと、既にシートベルトまで装着した梨乃が自動車を発進させた。

 乗ってしまえば焦る理由は無い。藍は落ち着いてシートベルトをし、腿の上に載せられたアスランの頭から背中を撫でた。全く、何度撫でても良い心地だ。アスランの嬉しそうな顔を眺めながら夢中で撫でているうちに自動車は進み、停止したのを感じて藍が顔を上げると、狭い道の交差する十字路であった。

 二輪車を一台やり過ごし、梨乃はそろそろと発進させた。十字路と思われた交差点は実は五叉路で、左斜め奥に延びる幅の広い道が走っている。梨乃はそちらへ走らせ、二、三百m行ったところで赤信号の丁字路に突き当たった。

 「もうすぐ着くよ。道の向こう側もう大学だから」柵と植え込みで敷地の中は窺えないが、そこに梨乃が通っているのだと思うと少しドキドキする。

 「おー! ここが梨乃さんの通うヒミツのハナゾノ…!」

 「うん、全然秘密じゃないけどね。誰でも入れるし」

 「え!? そうなんですか?」碧が大声で、藍が無言で驚く。同時に信号が青に変わり、自動車が動き出した。

 「うん。建物の外はパブリックスペース。私学はどうか知らないけど」信号を左へ曲がり、大学の敷地に沿ってすぐに右へ曲がる。

 「へー! じゃあ学校終わってから梨乃さんに会いに来れますね!」

 「そうね。来てくれると嬉しいわ」

 「来ます来ます! ね!」

 「うん…!」

 「ありがと。食堂とか図書館は中入れるから、話す場所もあるしね」

 「え!? 図書館で話していいんですか!?」口には出していないが、藍も同じ驚きを感じている。

 「そういうスペースもあるよ。会話・飲食可」

 「へー!! 大学ってスゴいですね!」

 「大学全般そうなのかは知らないけどね」

 自動車は道路の左手にある駐車場に入った。窓を開けて駐車券を機械から取ると遮断機の棒が上がり、梨乃は自動車を進めた。到着と察したアスランが身を起こしてそわそわし始める。前で碧がシートベルトをはずしたのを見て、藍もシートベルトを解除した。

 駐車場はガラガラで、遮断機のすぐ奥に梨乃は駐車した。ラブを抱えて碧が降り、少し遅れて藍も車外に出た。扉を閉めようとしたところアスランが後を追ってきたので慌てて扉にかけた手を止める。尻尾を挟まないよう、飛び出してきたアスランが自分の脇に着地したのを確認してから扉を閉め、運転席側に回った。

 「閉めるよ」

 「はい!」「はい…」

 リモコンで施錠して梨乃が歩き出し、アスランが楽しげにすぐ後ろをついていく。遮断機の脇をすり抜けて道路を渡ると申し訳程度の小さな門があり、梨乃はその前で立ち止まって藍達を待った。碧とラブが並んで道路を横切り、藍はいつも通り殿を務める。

 「なんか、けっこう地味なんですね。『信州大学』って書いてないし」門のことであろう。確かに、小学校の校門よりさらに地味である。

 「こっち裏口だからね。まあ、正門も豪華とは言えないけど、流石に標札は付いてるわ」藍が追いついたのを見て梨乃は歩き出した。構内を通る道はまっすぐ緩やかに下っている。両側に立派な幹の広葉樹が並んでいて視界が制限されているが、その範囲内に人影は無い。

 「あ、そうなんですか」碧が梨乃の左後ろについたのを見て、藍は右後ろについた。ラブは碧の左側をテコテコと歩き、アスランは梨乃と藍の前をうろうろしながら進む。

 「後で行ってみましょう」

 「はい! これ何ですか!?」右側を指す。左にも建物があるのだが、如何にも校舎な外観であるので興味の対象にならなかったものと思われる。

 「食堂。下は購買」

 「え、じゃあ梨乃さんもここで食べてるんですか!?」碧が目の輝きを増した。藍も、梨乃が使っている食堂なら見てみたい。

 「ううん。向こうの食堂」と言って正面を指さすが、それらしい建物は見当たらない。

 「え、二つもあるんですか!? どんだけ広いんだ、大学」

 「いや、ここそんなに広くないよ。でも二つあるんだよね」食堂を通り過ぎ、右手に木立を植えた広場が現れたが、碧はそれを話題にはしなかった。

 「えー、じゃあ食堂すいてそうでいいですねー」

 「そうでもないけど、確かに松本高校よりはマシね」

 「もー、一日で挫けますよ、あの行列」藍もそう思う。もし自分で弁当を作っていなかったら、パンや弁当を前日に買い求めて持参しているのは確実だ。

 「藍ちゃんがお弁当作ってくれててよかったわね」

 「全くです! 藍ちゃん、愛してるー!!」藍に向かって唇をチュウの形に突き出してきた。藍は恥ずかしさに赤くなる。

「梨乃さんは高校の時食堂で食べてたんですか?」

 「うん」

 「あれを毎日三年間…やはり梨乃さん人外魔境…」

 「だとすると人外魔境けっこういるわよ。向こう正門とか図書館だけど、どうする?」広場の角で通路は丁字路になっており、梨乃は立ち止まって右を指した。

 「医学部は?」

 「まっすぐ」

 「まずはそっちで!」

 「うん」梨乃はまた歩き出した。

 「で、そうなんですか? 人外魔境」

 「うん。たくさんいるからああなってるんだよね」理の当然である。

 「おお!!」

 「まあ、並ぶ人もだんだん減ってくるし、学年上がれば前の方になるしね」

 「あ、そっか。三年ならそんなに並ばなくてもいいのか」

 「クラスにもよるけどね」

 「そうですね! A組だったら遠いですね…これ何ですか? 『全学教育機構』」立ち止まって、左右の建物を繋ぐ渡り廊下の屋根に書かれた文字を碧が読み上げた。非常にお堅い印象を受ける名称である。

 「大学って学部に分かれてるじゃない? 当然教える内容が違うんだけど、それとは別に、全学部共通の講義があるの」昔は一般教養などと呼ばれていた。

 「へー」

 「信州はキャンパスが各地に散らばってるんだけど、一年生は全員松本でその共通講義を受けるの。医学科は二年までかな。ここはそれ用の教室」正しくは一年次である。留年すれば二年生でも三年生でも受講しなければならない。

 「へー!」

 「よその大学がどうなってるかは知らないけど」

 「え、じゃあ二年生になったらバラバラなんですか?」

 「うん」

 「ほかのキャンパスはどこにあるんですか?」

 「んーと、教育と工学が長野、繊維が上田、松本が人文と理学と経法と医学で、農学が伊奈、かな」農学部があるのは伊奈市でなく南箕輪村であるが、上伊奈郡であるので、間違いとまでは言えない。

 「うわ、けっこう分かれてますね! ケイホウって何ですか?」

 「多分、経済・法学の略」

 「ホウガクって何ですか?」

 「法律学」

 「あー。じゃあ、えーと、リガクは?」

 「物理とか化学とか」

 「あー! わたしそれがいいです!」

 「あら、医学部には来てくれないのね」

 「いや正直梨乃さんの話を聞いて挫けたと言いますか」

 「あら逆効果だった。…私がいつも食べてるのこの食堂」と、右手の建物の方を向いた。左手には嘗て野球場だったところを駐車場として使っていると思しいバックネット、正面には五階建ての横に長そうな建築物。

 「おお、ここが!! でも、やってない感じですね…」硝子越しに中の様子が窺えるが、照明が一切点灯していない。営業はしていないだろう。

 「うん、日曜休みじゃないかな」

 一応梨乃が扉の前に立ったが、自動扉は開かなかった。

 「残念……」心底がっかりといった感じで碧が肩を落とす。

 「部活無い日に来ればいいじゃない」梨乃が如何にも何でもないことのように言うと、

 「そうですね!」あっさり碧は立ち直った。この辺りの感覚は、藍にはついて行けない。知り合いが居るとは言え、自分が通っている訳でもない学校、それも大学に独り行くのは、藍にはとても無理だ。しかも、今の話の流れでは、制服のままで行くのであろう。

「じゃあ次は? 梨乃さん」

 「これね。基礎医学教室」道の突き当たりを指さす。

 「梨乃さんの教室ですか?」

 「うん。ここから向こう全部医学部の建物なんだけど、二年まではほとんどここかさっきの全学だね」

 「へー! 医学部スゴいですね! まだ行ったことないところもあるんですか?」

 「うん、けっこうあるよ」

 「ここも入れ…なさそうですね」

 「うん」

 「残念!」今度の残念には、がっかり感は無い。教室に入れないことは当然予測していたのであろう。

 「じゃあ戻って図書館に行きましょうか」梨乃は踵を返した。

 「はい!」「はい…!」図書館と聞いて、それまで黙ってついて行っていた藍の口から自然と返事がこぼれる。出不精な藍が積極的に出掛けたいと思う数少ない場所、その一つが図書館なのである。

 梨乃は一行を引き連れて広場まで戻り、左に曲がった。

 「それが図書館」梨乃が指さす右手前方には、木立の向こうに三階建てで木造のような外観の建物が見えている。

 近づいてみると、建屋の周囲に台形の板を並べた建築物だった。中からは蛍光灯の明かりが漏れ、開館中と思われる。

 「あの…私達でも入れますか…?」

 「うん。学外の人も記帳すれば入れるよ。入ってみる?」

 「あ…いえ…今日はアスランとラブがいますから…」

 「序列が逆なのじゃ」ラブが抗議した。ラブは年功序列に厳しいようだ。

 「あ、ごめんなさい…」

 「じゃあ藍ちゃんも学校終わってから来るといいよ」

 「はい…」自分一人で来る度胸は無いが、碧と一緒ならば何とか来れるだろう。

 「うん。で、あれが碧ちゃん志望の理学部」図書館の入口前で立ち止まり、道を挟んで向かいに立つ建物を指さす。この建物も木立の向こうだ。学校の中だというのに、立派な胴回りの木が多過ぎる。

 「おー!」

 「でもよその学部だから解説できないわ。入ったこともないし」

 「またまた残念!」

 「興味あるならオープンキャンパスに来るといいよ」

 「オープンキャンパスって何ですか?」

 「学校の説明会かな」主に高校生を対象に現地で学校の説明をするという行事のことを指す言葉である。

 「へー! 大学はそういうのがあるんですね!」

 「高校でもやってるところあるみたいだけどね」

 「えー!? ハイカラー!」

 「ハイカラっていつの人よ」

 「え? 変ですか?」

 「うん、まあ今時の高校生の言葉ではないよね」流行りに疎い藍も流石にこれには同意する。しかも使い方も怪しい。

 「ガビーン!」

 「それも今時の高校生の言葉ではないねー」

 「おお!?」

 「まあとにかく来てみるといいよ」自らの脱線を梨乃が軌道修正した。

 「いつ頃やるんですか?」

 「七月の土日」梨乃にしては珍しく大味な回答だ、と藍は思ったが、

「私行ってないからよく知らないのよね」

 「行ってないんですか?」

 「うん。最初から信州受けるつもりだったから」

 「あー」

 「ま、調べとくわ」

 「ありがとうございます!」

 「じゃ、あとは正門かな」と言って梨乃が歩き出した。正門自体はもう見えている。

 数十m歩いて敷地外から正門を見てみたが、梨乃の言う通り全然豪華ではなかった。コンクリートの塀に「信州大学」の標札があるのみ。塀の高さもそれほどではなく、何だか、小学校の校門のようである。そして、脇に設置された電話ボックスが古くささを助長している。

 「うちの学校の方がまだエラそうですね…」碧の感想に異を唱える者は居ないだろう。

 「そうね。でもここにお金かけるんだったらその分図書館に本入れてくれる方がいいわ」その意見に藍も全面的に賛成である。

 「そうですね!」碧もそのようだ。

 「じゃ、戻りましょうか」

 「はーい!」「はい…」構内を通って、一行は自動車に戻った。ラブとアスランにとってはただ歩いただけに終わったが、二匹とも機嫌良く乗り込んだ。

 藍が後部座席に座って扉を閉めるとすぐ、腿にアスランの顎が載せられる。僅か一日半でもうすっかりお馴染みになってしまった。シートベルトを装着し、すぐに撫で始める。撫で心地自体も良いが、アスランが嬉しそうにしてくれるのが藍には堪らない。

 その間に梨乃は自動車を動かし始め、自動車は駐車場の出口に達していた。料金二百円を梨乃が支払おうとした時、

 「あ、梨乃さん、払います!」碧が財布を開いたが、

 「ううん」短く断って百円玉を機械に投入した。事前に準備していたようで、碧が財布から小銭を取り出す間も無かった。

 「えー! 送ってもらうのに悪いですよう! ね、藍ちゃん!」

 「うん…!」撫でる手を止め、藍も加勢に入ったが、

 「時間もお金も使ってケーキ作って持って来てくれたでしょ。これぐらいさせて」そんな風に言われては碧も藍も引き下がらざるを得ない。

 「はい…」碧は財布を引っ込めた。

「あ、そうだ梨乃さん!」碧の声は話題が変わったことを告げている。

 「うん」

 「三方一両損の話して下さい!」

 「また突然ね」

 「藍ちゃんに説明したかったんですけど、わたし話が下手だから」

 「うーん、ま、やってみるわ」と言って暫時考え、運転しながら話し出した。

「昔、江戸のとある長屋に住んでるアス(ぞう)という人が、通勤途中に道で三両拾ったの」アス、に反応したアスランの耳がピクリと動く。

 「アス(ぞう)!」碧も反応する。話の内容は知っていても、梨乃がどう脚色するかは当然分かっていない。

 「結構な金額だからびっくりして、アス造は奉行所に届け出たの」

 「えらいぞアス蔵! あ、でもイマイチ価値が分からないんですけど」

 「何を基準に換算するかで変わると思うけど、ざっくり一両十万円て言うね」

 「それは大金だ!」道端で拾う金額としては大金である。

 「うん。で、落とし主を探したらあっさり見つかったのね。近所に住んでるおラブっていう老婆」

 「おラブ!」また碧が大声で反応した。確かに、(おら)びたくなる名前である。

 「誰が老婆じゃ」

「けどおラブはその三両を受け取ろうとしないのよ。『一度失せて拾われたもんはもうワシのもんではないのじゃ』とか言って」

 「ひねくれてますね」

 「誰がひねくれ者じゃ」

 「お、ま、え、だ、ラ、ブ、子」足許でお座りしているらしいラブの頭を、言葉に合わせて右掌でぽんぽんと叩き、最後にぐりぐりと撫でる。悪口と分かっているのかいないのか、撫でられたラブはとりあえず上機嫌の様子である。

 「で、今度はアス造のところに行ったんだけど、アス造はアス造で『落とし主が見つかったのに僕がもらうわけにはいかないです』って受け取ろうとしないの」

 「アス蔵いい人だ!」

 「何度か二人の間を往復したお役人が、こりゃ自分の手には負えないと上役に泣きついて、結局二人を奉行所に出頭させて町奉行自ら話を聞いて判断することにしたの」

 「大岡越前登場ですね!」

 「うん。江戸南町奉行大岡越前守クロ(すけ)

 「クロすけ!! 大岡エクレール(のかみ)かと思ってたのに!」

 「エク(きち)はアス造とおラブの間を往復した岡っ引き」明らかに今付け加えた設定であるが、

 「(しゅ)()の者!」碧には受けたようだ。

 「あの…しゅかのものって何…?」

 「()(した)の者と書いてしゅかのもの!」

 「時代劇特有の言い回しね。行方不明を行き(がた)知れずとか。本当にそう言ってたのかどうかは知らないけど」

 「え!? 言ってたんじゃないんですか!?」

 「うーん、どうかしら。ちなみにエク吉は近所で子供に三味線教えてるおミーにほの字」

 「三味線! 今の子がピアノ習うみたいな感じですか?」

 「多分ね」

 「あの…ほのじって何ですか…?」

 「ひらがなの『ほ』の字で、惚れてる、ってこと」

 「あ、なるほど…。初めて聞きました…」エクレールはミー子にベタ惚れだったから、例としては実に解り易かった。

 「そう。で、大岡クロ相が改めて二人の言い分を聞いて、『それでは二人で半分ずつでは駄目か』と言ったんだけど」

 「はい! それわたしでも思いつきます!」

 「うん、まあ誰でも思い付くよね。当然エク吉もそんなことはとっくに提案してるんだけど、二人ともうんとは言わないの。その理由が、それでは相手が一両五分損する、それを善しとは出来ない、ていうことなのね」

 「要は三両を押しつけ合ってるんですね」

 「そう。問題はそこなの。三両を取り合ってるんじゃないの。アス造はいい人だから、おラブは意地を張ってるから、そんな変なことになっちゃってるのね」

 「うわー、説得力あるぅ!」碧の言葉に藍も頷く。元々そういう話なのか二匹の性格に合わせて梨乃が脚色しているのか藍には判別が出来ないが、ラブとアスランにぴったり合っている。

 「そこでクロ相はその三両を三方に載せて持って来させ、二人の目の前で懐から一両出して三方に載せたの」

 「あ、なるほど…」話の途中だったが、藍は思わず声を出してしまった。大岡越前守の賢明さに感心したからである。単なる数字合わせではなく、そうすればアス造もおラブも折れざるを得ないという演出が凄い。

 話の上ではここからが大岡の見せ場なのだが、藍が内容と題名の理由を理解したと見た梨乃はクロ相の格好良いところを大胆に割愛した。

 「うん。で、クロ相の知恵と度量に恐れ入った二人が二両ずつ持ち帰り、アス造は住んでる長屋の修理にって寄付し、おラブも近所の寺の慈善事業に寄付した、ってお話」

 「いいお話ですね…!」

 「うん、そうね」

 「やっぱり梨乃さんに頼んでよかったー!」

 「そう? うまく話せてよかったわ」

 「大岡忠相ってすごい人だったんですね…!」

 「三方一両損はフィクションだけどね」

 「え!?」「え…!?」

 「厳密には史実とされている話を基にしたフィクション。確か、板倉ナントカって人の話だったと思うけど、うろ覚えで自信ないわ」徳川家康の家臣であった板倉勝重で、江戸時代初期に名奉行と言えばこの人のことだったらしい。

 「えー、そうなんだー」碧は見るからにがっかりしている。

 「まあでもそれだけ大岡忠相の人気が高かったってことだよね。庶民から見て名奉行だったんでしょ、きっと」

 「なるほどそうですよね!」藍には子細がよく分からないが、碧はもう立ち直ったようだ。その浮沈の急激さが、藍には愛しく思える。

 「ところで、渚の駅に向かってるんだけど、それでいいのよね?」

 「あ、はい…!」藍は慌てて返事をした。今、自動車は渚1丁目の交差点を北から南へ通過せんとするところだ。

 「線路渡る?」

 「はい…! あ、ここ斜め右です…」昨夕、碧の自転車でも走った道だ。

 「ここ進入禁止だから、次の信号で曲がるね」

 「あ、そうなんですね…」藍は生まれてこの方そんなことを意識したことすらなかった。しかし言われてみると、父親も今のところを右折したことは無い。

 「うん」偶然対向車の列が途切れたのを逃さず、信号で右折して渚駅へ向かう道に入る。

 その十数秒後、自動車は渚駅に突き当たった。

 「あ…線路渡ってすぐ右です…」

 「諒解」

 自動車は左に曲がり、ガッタンゴットンと大きな音を立てて踏切を渡り、次の丁字路を右に曲がった。

 「そこです…」自宅の二軒隣の前で告げると、

 「ここ?」ゆっくり走らせていた梨乃がちょうど青井邸の前で停車させた。御丁寧に、後部扉が門扉の前に来る位置だ。

 「はい…あの、ありがとうございます…!」

 「ううん、こっちこそ。ケーキ、少しずつ頂くね」

 「はい…! あの、少し待っててもらってもいいですか…? 母が挨拶したいと言うと思うので…」

 「うん、分かったわ」

 起き上がったアスランの頭を一撫でして、藍は急ぎ足で家に入り台所へと向かう。

 途中、居間の前で「ただいま」と言ったが、足は止めなかった。

 予想通り、台所では母親が夕食の支度をしていた。

 「お帰り。早かったわね」と言ってこちらを見た両目に驚きの色が揺れる。藍はそれを見て、自分が髪を括っていることを思い出した。

 「梨乃さんが送ってくれたの」話しながら冷蔵庫を開け、密封容器を取り出して食卓に置く。

「まだ外にいらっしゃる?」

 「うん。お母さんも挨拶してほしいんだけど」

 「もちろんよ。それは?」藍が今出した容器のことを指しているのだろう。

 「碧ちゃんに持って帰ってもらうの」

 「そう」

 紙袋にレアチーズを仕舞い、

 「準備できたよ」

 「ん」

 母親を連れて家を出ると、梨乃と碧は自動車から出て二人を待っていた。碧は既に自転車を車道に出している。そして、車内からアスランがこちらを見ている。ラブの姿は見えない。

 「お邪魔しました!」碧がぺこりとお辞儀する。

 「また来てね」碧に返事した後、母親は梨乃を見て、

「高辻さんですよね? ありがとうございます。一昨日(おととい)は泊めて頂いて、昨日は色々連れて行って頂いて、ごはんまでごちそうになったそうで。その上、今日は送って頂いて」

 「いえ、こちらこそケーキを作って頂きまして」

 梨乃に送ってもらう時点でこうなることは当然予見していたが、いざ親を引き合わせるとやはり気恥ずかしい。藍は割り込むことにした。

 「梨乃さん、ありがとうございました…!」軽いお辞儀に感謝と敬愛を一杯に籠める。

 「ありがとうございました!」隣で碧が元気よく言う。

 「ううん、こっちこそ」梨乃も感情の籠った目で見詰めてきて、藍は胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じたが、それが表に出ないように努力して抑えた。母親がいるせいか、正直に感情を出してしまうのが恥ずかしく感じられたのである。碧の方を向き、

 「碧ちゃん、これ…」紙袋を差し出すと、

 「ありがとう! デザートに頂きます!!」こちらも藍の母親がいるせいか、少し抑えた動きで紙袋を受け取った。

 「それじゃ、失礼します」梨乃が改めて軽くお辞儀して運転席に戻ろうとするところに、

 「お二人とも、こんな無愛想な子ですけど、よろしくお願いします」母親が声を掛け、

 「こちらこそ」「はい!」

「じゃ、またね」

 「はい!」「はい…!」

 自動車に戻ってゆっくりと発進させた梨乃に、藍と母親、そして碧はもう一度軽く頭を下げた。

 そして、藍は後部座席の窓に鼻を当ててこちらを見るアスランに手を振る。

 自動車がカーブの向こうに消えると、碧が自転車のスタンドを上げた。

 「お邪魔しました! 藍ちゃん、また明日ね!」

 「うん…!」

 梨乃と逆の方向に漕ぎ出した自転車がカーブの向こうに姿を消すまで見送ると、

 「大きい犬だったわね」母親が少し驚いた様子で話し掛けてきた。

 「ジャーマンシェパードなんだって。アスランっていう名前なの。おとなしくて、すごくかわいいよ」

 「うん、優しそうな顔だった」母親は家に向かって歩き出した。藍も、名残惜しさを感じながら母親に倣う。

 「柴犬の子もいたんだけど、多分助手席の足元で寝てたんだと思う」青井邸の門から玄関までは数mも無い。藍が話す間に母親は玄関の扉を開け、藍を入れてから自分も入って扉を閉めた。

 「へー。その子はまだ小さいの?」よく寝る=子供という図式であろうか。

 「ううん、その子の方がお姉さん」梨乃の吹き替えのせいで、もうお婆さんにしか思えないが。

 「アスランは男の子?」

 「うん」

 「そう。いい組み合わせね。楽しそう」

 「お母さん、犬好きなの?」そんな話はこの十五年余で一度も聞いたことが無い。

 「うん、昔飼ってたしね」

 「え、いつ?」台所の扉を開けたところで藍は立ち止まった。米の炊けるいい匂いが漂ってくる。

 「高校卒業まで」

 「どんな犬?」

 「柴のオス。よく洗濯物にイタズラしてお母さんに怒られてた」

 「へえ」

 「じゃ、戻ってすぐで悪いけど、手伝ってくれる?」

 「うん」

 二人は台所に入った。




附 作中における虚実の説明


 現実世界についての説明は、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。

 作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。


大足半

 (令和五年二月十四日追記)

 令和五年二月十一日の掛け替えで、元の位置(作中と同じ位置)に戻りました。但し、木は無くなっているため、鉄棒が立てられ、そこに掛けるという形になっています。また、説明の高札も一緒に移動してきました。

 (以下、元の記述)

 実在しますが、位置が変更されました。平成三十一(二○一九)年一月には作中と同じ場所で存在を確認していますが、同年四月には木から撤去されていました。その後、木も伐られ、説明の高札も撤去されてしまいました。

 令和二年六月に、元の位置と同じ道沿い百数十m北の道向かいに吊るされているのを確認しましたが、高札は移設されていませんでした。

 作中では、ずっと元の位置に存在し、高札も存在しています。

鎌田図書館

 実在します。

松本市鎌田地区公民館

 実在します。

 こちらの公民館館長(平成二十九年当時)より、前述の大足半作成に関する資料を頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。

 また、令和二年六月時点の館長にも、大足半移設に関する情報を頂きました。御礼申し上げます。

相生邸近くの自衛隊

 実在します。陸上自衛隊松本駐屯地です。

弘法山

 実在します。

弘法山隣の墓地

 実在します。

国道一九号沿いの百円均一の店

 実在します。

上高地線

 実在します。以前は松本電鉄島々線という名前でした。

松本駅から松本高校へのバス

 実在しません(松本高校が実在しないため)。

 現実世界の松本駅から松本深志高校へのバスは実在します。

高辻邸近くの公園

 実在します。沢村公園です。

信州大学

 実在します。今回梨乃が案内したのは松本キャンパスです。

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