余話 奥様と旦那様
令和二年六月十三日 修正
「序」と同じく文字化けを修正いたしました。
令和二年九月九日 修正
誤字を修正しました。
余話 奥様と旦那様
「梨乃さーん!!」元気のいい声が通りに響いた。
声のした方を振り返ってみると、碧が腕をいっぱいに使って大きく手を振っている。
笑顔で短く手を振り返した後、すぐ後ろにある信号を親指で指差し、踵を返す。しかし、ちょうど信号が変わり、通りを横断する方向が青になった。
同時に碧も同じ方向へ歩き出していたが、梨乃が向きを変えて横断歩道を渡り始めたのを見て、碧は足を止める。
梨乃が急ぎ足に信号を渡り、二人は落ち合った。
「ナイスタイミングだね」挨拶を措いてそう言うと、
「ですね! わたしの読みははずれましたけど!」人懐っこい笑顔で答えた。
「どういう読みだったのかしら?」
「梨乃さんは5分前集合。なので10分前に行けばわたしが先に待ってて、
『ごめんね、待たせちゃった?』
『ううん、全然! それにまだ時間前ですよー』
『んもう、碧ちゃん可愛いわねえ。お持ち帰りしちゃおうかしら』
『え、そんな…はずかしい……♡ わたし男の子と付き合ったこともないのに……でも梨乃さんなら…わたし、いいです……♡』
てなる予定だったんですよー!」楽しげに話す。読みがはずれて口惜しい訳ではないらしい。
「初っ端から飛ばすわねえ」呆れているような字面の台詞を口にしつつも、微笑ましいものを見る目付きだ。
「私が10分前に来ちゃったから同時になっちゃったと。でも、先に来て待ってなくても碧ちゃんは可愛いわよ」
「やーん、梨乃さんたら上手なんだからー! お持ち帰りですか!?」目を輝かせて言う。
「上手なんだからー、って中学生の言い回しじゃないわよ。そんなに持ち帰られたいの?」今度は本当に呆れ気味な表情だ。
「えへへへ、梨乃さんの部屋見てみたいな、って」
「そういうこと。一人暮らしだったらお持ち帰りしてもいいんだけど、今日はお客さん来るらしいから、また今度ね」
「ホントですか!? 約束ですよ!」
「うん、約束。ところで、そろそろ行かない? 混んできちゃうよ」そう言って歩き出した。碧も慌てて歩き出し、左隣に並ぶ。
この前々日、制服屋の受付で長話をした日の夜に、連絡を取り合った二人は、今日昼食を共にすることを決めた。
駅前のロータリーで待ち合わせ、店まで梨乃が案内することになっていたのだが、ロータリーに着く前に碧が梨乃を見つけた、という次第だ。
「梨乃さんの家ってどこなんですか? 市内ですか?」歩きながら碧が訊く。
「うん。学校の近く」
「学校って大学ですか?」
「高校の方が近いよ。高校から徒歩5分、大学から10分てとこ」
「うわ、ほんとに近い!」
「碧ちゃんは?」
「南松です」南松は南松本の略だ。狭義には南松本駅周辺、広義には松本市南部の平地一帯を指す。
「駅の近く?」
「はい、駅まで7~8分です!」徒歩で、か、自転車で、のどちらだろう。
「電車通学にするの?」
「やー、自転車ですよう! 道が凍ったら考えますけど」
「なかなかガッツあるわね。30分じゃ着かないでしょ?」
「はい、一昨日試しに行ったら45分かかりました。でも半年で30分切るとこまで行く予定です!」
「ますますガッツね」
「はい! 運動部なんで!」
「やっぱり? その体型から言って…陸上部か水泳部」
「梨乃さんスゴい! 両方当たり!」碧が目を丸くする。
「え、両方入ってたの?」梨乃も驚き返す。
「はい、季節で! ホントは冬はスキーがよかったんですけど、うちの中学スキー部なくて」
「それで松本? 文武両道ねえ」
「受験がんばりました! ……でも梨乃さんに比べたら」わざとらしく腰の高さで両手を上に向け、首を左右に振り、
「この顔この身体でしかも信州の医学部ですもん」
「この身体って……。確かに大学受験がんばったからそっちで褒められるのは嬉しいけど、容姿はねえ。基本的に遺伝じゃない? 努力で手に入れたものじゃないからなあ」
「んなーに言ってるんですか!!」もともと元気な声の碧が、さらに大声になった。周囲の通行人が驚いて振り向くが、本人は一向に気にせず、
「お肌、髪の毛、体型、全部努力しないと維持できないじゃないですか!」と続けた。
「でも私特にがんばってケアしてはいないわよ」梨乃も特に人目を気にする様子はない。
「では梨乃さんの日常ケアルーチンをどうぞ」握った手を梨乃の口元に差し出す。テレビなどで見るインタビュアーの真似だろう。
「うーん、普通に身体洗って頭洗ってトリートメントして時々ヘアパックして、お風呂あがったら顔パックしながら髪の毛乾かして乳液つけてマッサージ、ぐらいかしら」
「バッチリやってるじゃないですか!」右腕を振って手の甲を勢いよく梨乃の胸に当てる。豊かなふくらみに衝撃が吸収されたか、音はほとんどしなかった。
「え、それ普通じゃないの?」
「少なくとも私の周りでは普通じゃないです。シャンプー、トリートメント、やっても乳液くらいまでですね」ここで言葉を切り、
「ちなみに体型の方は?」再び拳を梨乃の口元に近づけた。
「それこそ何にもしてないけど。食事制限一切なし、但しお酒はほとんど飲みません。運動は好きな方だから、ちょこちょこ出かけるかな」
「ははあ、そこですね」何故かしてやったりな表情になり、
「運動、何してるんですか?」
「定期的にしてるのは乗馬」その言葉に、碧の表情は一転急降下した。
「乗馬ですか……そりゃさらに……」
「さらに?」
「あ、やー、さらにグレードアップしたなーと。馬術部ですか?」
「ううん、安曇野の乗馬クラブ」
「はい! 先生!」突然右手を挙げる。
「うむ、相生君」梨乃は驚きもせず即応する。碧と波長が合うのか、単に適応力が高いのか。
「今度見に行きたいです!! 藍ちゃんも一緒に!」
「うむ、いいでしょう。藍ちゃんと相談して日にちを決めるように。……ここ」店の扉を右手で押しながら碧の方を見た。
「いらっしゃいませー」ちょうどレジの前にいた店員が出てきた。
「お二人様ですか? どちらのお席にいたしましょう」
店はイタリア料理のようだ。今日はぽかぽかと暖かいからだろう、道路に面した一階の外壁一面が解放されている。それを見た碧が、
「窓際! 窓際がいいです!」目を輝かせて言い、梨乃は笑って頷いた。
「かしこまりました。どうぞ」
店員に案内され、二人は席に就いた。
「さすが梨乃さん、おしゃれですね!」
「ありがと。とりあえず何食べるか決めよっか」
「わたしペンネ・アラビアータ!」メニューも開かずに言う。
「速いわね」
「えへへへ、好きなんです~」
「じゃあ私はピザにしようかな。碧ちゃん好きなピザは?」
「え、マルゲリータですけど、や、梨乃さんの好きなのにして下さいよ」
「私もマルゲリータが一番好きだから、決定ね。半分こしよ」
「ホントですか!? うれしいなあ!」
「あとサラダは…シーザーでいい?」
「あ、はい!」
「じゃあ頼も。すみませーん」店員を呼んで注文した。
店員が下がると、碧が口を開いた。
「マルゲリータって変な語感ですよね。どういう意味なんだろ」
「女性名よ。イタリアの」
「えっ、そうなんですか!? 女の子でマルゲリータ……」
「確かピッツァ・マルゲリータを開発した人が、当時のイタリア女王の名前をつけたとか……色もイタリア国旗にちなんでトマトの赤、チーズの白、バジルの緑になってるとか……」
「じゃあシーザーサラダは!?」
「んーと、メキシコ人だったと思うんだけど、セサールさんて人が発明したからじゃなかったかな。セサールを英語読みするとシーザー」
「えー! ジュリアス・シーザーが好きだったからとか、そんな話だと思ってました!」
「分かる分かる! 私もカエサルに関係あると思ってた!」
「え? カエサル?」
「ユリウス・カエサル。ジュリアス・シーザーは英語読み」
「ユリウス・カエサルは何語ですか?」
「ラテン語。ローマ帝国の言葉で、今のイタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、あとルーマニア語なんかの先祖ってとこかしら」
「へー。梨乃さん物知りですねぇ」感心した様子で言う。
「うーん、多分物識りの範囲まで入ってないと思うけど、中学じゃ教わらないもんね」
「高校でやりますか!?」身を乗り出して訊くが、
「カエサルは世界史で教えると思うけど、ラテン語には触れなかったね」
「そうなんですか、残念!」
「あ、カエサルとラテン語の部分は間違いないはずだけど、マルゲリータとシーザーサラダは自信ないからネットとかで確認してね」
「はい! じゃあペンネ・アラビアータは? ペンネさん?」
「ペンネはイタリア語でペンの意味なんだけど、筒状パスタを総称してペンネっていうの。アラビアータはアラビア風じゃないかな。直訳するとアラブのペン」
「残念! アラビア帝国のペンネさんとかかと思ったのに!」本当に残念そうだ。念のために補足すると、過去から現在に至るまで、「アラビア帝国」と呼ばれた国家は無い。
その言葉か碧の様子にか、梨乃がくすくすと笑った。
「あれ? おかしかったですか?」
「うん、なるほどと思って。今の話の流れだとそんな感じよね」
「でも、『アラブのペン』って何かかっこいいですね! 魔法のアイテムっぽい!!」
「例えばどんな?」
「そのペンで死んでほしい相手の名前を書くと、七日後に必ず怪死を遂げる、とか」
「あー、怪奇ものが好きなんだったわね。もっとファンタジーな感じだと?」
「このペンと対になってる羊皮紙に呪文を書くと、ジンが現れて助けてくれる。ただし、呪文の書かれた羊皮紙を離したり呪文が消えたりするとジンは呼び出した人間をさらう、とか」
「ラヴクラフトな感じだと?」
「カイロの古道具屋で見つけた古めかしいペンについて店主に尋ねたところ、急に声をひそめて話し出した。全く要領を得ない話であったが、狂えるアラブ人としてヨーロッパでも知られるアブドゥル・アルハズルドが謎の失踪を遂げる直前に使っていたとのことで、このペンのために宇宙の中心で這いうねる混沌アザトホトに召されたのだと言う」
「なかなかの想像力ね。この短い時間で」
「えへへへ、褒められちゃった」
「うん、誰だったか忘れたけど、『人生を豊かにする最大の能力は想像力である』って言ってた」
「いいですね!『人生を豊かにする最大の能力は想像力である』高辻梨乃。かっこいい!」
「私じゃないわよ。誰か偉い人」
「えー! いいじゃないですか、梨乃さんで! わたしには梨乃さんが偉い人ですぅ!」
「それはまた見込まれちゃったわね」言いながら、嬉しそうに笑う。
その時、店員がカートを運んできた。大きな木の椀に入ったサラダと大きなチーズの固まり、下ろし金のようなものが載っている。
「シーザーサラダでございます」
「セサールさん来ましたよ!」碧が手元のフォークを掴もうとするのを、
「うん、ちょっと待ってね。これから作ってくれるから」右手で軽く制した。
「?」
店員がチーズと下ろし金を取り上げ、サラダの上で削るのを、碧はぽかんと見ている。
削り終えると、椀をテーブルの中央に置き、会釈して、店員はカウンターへと戻った。
「すごい本格的ですね!」
「そうね、多分これがちゃんとしたシーザーサラダなんだと思うよ。メキシコシティで食べた時と同じ作り方だから」小皿にサラダを取り分けながら言う。ちなみにシーザーサラダの発祥はメキシコシティでなく、ティファナらしい。
「梨乃さん、メキシコ行ったんですか!? シーザーサラダ食べに!?」
「シーザーサラダのために行ったんじゃないけどね」苦笑しながら小皿を碧に渡した。
「あ、ありがとうございます。いただきます!」勢いよく両手を合わせて言った後、フォークを掴み、サラダに刺した。
「最終日に、せっかくだから高級店に行ってみたんだけど、値段が想像以上に高級でねー。サラダとスープだけで出てきちゃった」
「おいくら千円だったんですか?」おいくら万円、と言わなかったところが十五歳だ。
「4千円弱」
「高っ!!」口に運ぼうとしたサラダが止まった。碧は目を丸くしている。自分の小遣い何日分、というところなのだろう。
「ねー。屋台のタコスは1枚10円とかなのにね」
「安っ!!」少し口に近づいたサラダがまた止まる。
「て言っても一口サイズだけどね。それでも安いよね」梨乃がサラダを口へ運ぶ。それを見て碧も止まっていたサラダを口に運び、二、三口無言で味わった。
「んー、おいしいです! なんか、私の知ってるシーザーサラダとは全く違う料理です!」
「そうね、名前は同じだけど、別の食べ物と言うべきだね。あれはあれでおいしいけど」言い終えてまた口へ運ぶ。それを見た碧もはっとしたように次のサラダをとる。また暫くの無言の後、
「さっきの、ごはんの値段、すごい差ですね。間はないんですか?」
「もちろんあるよ。町の定食屋みたいなところで、昼ごはん300円くらいだったかな」
「どんな料理なんですか?」
「んーと…野菜炒め定食みたいな感じだったかな。大皿にごはんと肉野菜炒めみたいなのとライムの半切りが載ってて、スープとタコスがついてた、かな」
「おいしそうですね! デザートがライムなのは酸っぱそうですけど!」
「多分ライムは搾ってかける用だったんだと思うな」
「レモンみたいな感じですか」
「多分ね。そのまま食べてる人は見なかったなあ……そうそう、 ライムのスープっていうのがあってね、おいしかったなあ!」
「えー! それも酸っぱそう!」
「それがそうでもなくってね、明らかにライムの味はするんだけど、酸っぱいのはほんのちょっとで、温かいスープなのに、飲んだ後爽やかなの!」微妙に興奮気味に話す。それが碧にも伝わったらしく、
「私も飲んでみたいです!!」フォークを持つ手をテーブルに置いて、身を乗り出した。
「でもこれが日本にはないのよね。何軒かメキシコ料理の店を回ってみたんだけど。地域かなあ」梨乃がサラダを口に運び、碧が慌てて同じようにする。
「東京とか行けば、ってことですか?」また少しの無言を挟み、碧が訊く。
「じゃなくって、メキシコの中での地域。そのスープ、西の地域では見なかったのよね。メキシコってざっくり言うと西高東低なのよ、標高が。日本にあるメキシコ料理は山の方の料理かなって」
「えー、じゃあ日本にはそのスープがないってことですか!?」
「かも」
「メキシコに行くしかないと」
「探してもなかったらね」
「分かりました! 大人になったら行きます!」
「そう言うと思ったわ。じゃあその時は一緒に行きましょ」梨乃がにっこり笑う。
「やったあ!! 藍ちゃんも一緒でいいですよね!?」
「もちろん。藍ちゃん、来てくれるといいわね」
「来てくれますよう!」即座に言い切った。梨乃はふふ、と笑って、
「うん、そうだね。じゃあ、お金貯めないとね」
「どれくらいかかりますか?」
「うーん、為替と原油相場と時期でかなり変わるんだけど、成田から飛行機が往復で10万円はかかると思って。ホテル代は、3人1部屋なら1泊2000円あればそこそこの部屋に泊まれるかな。遊び代とごはん代は、どこで何するかで10倍以上変わってくるから、まずは何したいか決めてからだね」
「梨乃さんは何しに行ったんですか?」
「遺跡見に。マヤとアステカ。世界遺産もいっぱいあるのよね」
「へー。遺跡ってすごいんですか? わたし、見たことないんですけど」
「マヤの遺跡はすごいの多かった。よくこんなの造ったな、って思う規模のピラミッドがいくつもあるよ。あと、メキシコじゃないけど、インカ帝国の宮殿はすごかった!」
「インカ帝国ってどこですか?」
「今のエクアドル南部からペルー北中部とボリビアの一部ってところかな。興味あったら地図帳で調べてみて」
「はい! さっきまで全く興味なかったけど、梨乃さんの話ですごく興味出てきました!」
「それはそれは。同志が増えてうれしいわ」
「えへへへ…あっ! 来ましたよ!」梨乃の後ろに目をやってそう言ったかと思うと、ナイフを右手に、フォークを左手に握り、両拳をテーブルの上で上下させ始めた。
「もう、行儀悪いわよ」言葉ではたしなめるが、止めようとはしない。不快に思っている訳ではないようだ。
碧と目があった店員もくすりと笑い、
「モンハンの主人公みたいですね」と言いながらピザとパスタをテーブルに置いた。
「そうですね」梨乃が応えるが、当の本人は、
「?」という顔で二人を見比べている。手は止まっていない。
店員が会釈して戻って行った。営業用ではない笑顔だ。
「モンハン知らない?」
「知ってますけど、やったことなくて」
「自宅に猫の料理人がいて、ごはん作ってくれるのを待ってる間、主人公がその動きなのよ。確かモンハン3だったかな」
「猫がごはん作ってくれるんですか!?」
「予想しなかった方に食いついてきたわね。まあ、まずは食べましょ。冷めるともったいないよ」
「そうですね!」
「ピザ、切っちゃうね」カッターを取り上げながら言うと、
「はい! これで切るんですね」ナイフとフォークを持ち替えながら答え、梨乃がピザにカッターを走らせるのをじっと見つめる。
「使ったことない?」切りながら訊くと、
「はい。外でピザ食べるの初めてで。家では庖丁で切ってます」
「うちも。自宅にこれがある人ってよっぽどピザ好きな人だと思うわ」
「ピザ以外に使い道なさそうですもんね」
「ねー。安全面ではこっちの方がよさそうだけど」
「小っちゃい子でも安心ですね」
「はい、切れたわ。頂きましょう」
「はい!」フォークで一切れ取って口に入れ、
「熱っ!」悲鳴をあげながらも噛み、
「おいしーい!」ごく簡単に感想を述べ、十二に分けられたうちの六枚を立て続けに平らげた。
「いやー、いい食べっぷりねえ。見てて気持ちいいわ」こちらはようやく一枚を食べ終わり、パスタを小皿に移しているところだ。恐らく自分用に取ったのだろう皿にパスタを積み増しして、
「パスタもどうぞ」碧の前に差し出した。
「わ、ありがとうございます! では早速」右手にもったままのフォークを突き刺してペンネを取り、一口食べると、
「これはちょうどいい熱さですね…………辛っ!!」慌ててコップを取って水を飲み干し、
「びっくりしたー。後からすんごい辛いの来ましたー」
「大丈夫?」水を飲む勢いに驚いたのか、梨乃が心配そうに訊く。
「はー、はい、時間差で来たんでびっくりしました!」まだ少し目を白黒させている。
「そう、よかった。じゃあ私ももらおうかな」スプーン一杯分のペンネを取り皿に取り、二本をフォークで刺して口に入れ、よく噛んで飲み込んでから、
「うん、確かに後から辛いわね」全く辛さを感じさせない表情と口調で述べた。
「でも、この辛いのがたまりません! ……梨乃さん、全然辛そうじゃないんですけど」
「うーん、私辛いの得意な方だからねー」
「インドで修行でもしてきたんですか?」碧は冗談のつもりで言ったのだろうが、
「や、向こうの辛いのはムリなんじゃないかな。通販の100倍カレーより全然辛いらしいよ」梨乃は真顔でそう応えた。
「え」碧の顔が驚きの表情で固まった。「もはや苦行じゃないですか!!」
「ねー」
「梨乃さんいろんな国行ってるんですねー、すごいなあ!!」話題がかなり前に戻った。心底感心した様子だ。中学を卒業したばかりでは無理も無い。
「わたしなんか、長野県から出たこともほとんどないのに」
「すごくはないけど、そうね、旅行はけっこう行ってるね」
「えー、ほかにはほかには!?」
「エジプトとアイルランド、遺跡中心で。近くだと台湾、食べ物中心で。台湾なんて国内旅行より安かったりするし」
「写真とかパンフレットとかありますか?」
「写真はたくさんあるよ。家に来た時見てって」
「やったあ! 藍ちゃんも一緒でいいですよね!?」
「もちろん。藍ちゃんのことずいぶん気に入っちゃったみたいだね」
「はい! もうお嫁にもらいたいくらいです! ……藍ちゃんもわたしのこと好きだといいなあ」
「あら、自信なさそうね」
「好かれた感触はあるんですけど、思い込みかも知れないし、自信までは」
「大丈夫、藍ちゃんも碧ちゃんのこと気に入ってたみたいだよ。表に出ないタイプなんだよ、多分」
「あー、わたしと逆なんですね」
「碧ちゃん、だだ漏れだもんね」
「やーん、そんなに褒めないで下さいよう!」両頬を手で覆って首を左右に振る。
「よく褒めたって分かったわね」少しだけ驚いた表情で呟き、
「逆に、何で碧ちゃんが自分のこと気に入ったんだろう、て気にしてたよ。『私こんなだから友達っていうほど仲のいい人いない』って」
「えー、そうなんですか!? じゃあ今のところ藍ちゃんの友達はわたしだけ……ますます萌えますね!」
「ホントに好きなのねえ。とりあえず萌え死に注意」呆れたような、からかうような台詞を、優しい口調で言う。
「はっ、気をつけます!!」なぜか敬礼すると、すかさず梨乃も敬礼を返した。梨乃が手を下ろすのを見て自分も手を下ろし、
「でも、入学前から友達できてラッキーです!」
「うん、そうだね」
「しかも先輩まで!」梨乃の目を見つめながら言うと、
「私? ありがとう。私も可愛い後輩が二人も出来てうれしいわ」少し照れた様子で答えた。その顔を見て碧も頬を赤くして、
「やばーい! 梨乃さんにも萌え~!」
「調子いいんだから。浮気したら奥さんが泣くわよ」
「藍ちゃんのことですか? それなら大丈夫です! 嫁は藍ちゃんだけですから!」
「そうなの? じゃあ私は捨てられてしまうのね」左の袖口を目に当てる。右手にはまだフォークをつまんでいる状態だ。
「ん何言ってるんですか!! 梨乃さんは私の旦那様ですぅ!! …体型的にはわたしの方が旦那っぽいですけど」珍しく、尻すぼみな語尾で言った。
「…なるほど。一夫一婦制ってやつ?」左手をテーブルの上に戻し、右手に持ったフォークでペンネを取る。
「さすが梨乃さん、うまいこと言いますね!」つられて碧もペンネを取る。
「なかなかの横紙破りね」
「やーん、梨乃さん褒めすぎですよぅ! ……辛っ!!」
「だから何で褒められてるって分かるの? …辛いの忘れてたのね」自分の分の水を差し出しながら言う。先程と違い、心配した様子はもうない。
「はい…忘れてなければ大丈夫だったんですけど」一気に水を飲み干す。それに気付いたらしく、店員がピッチャーを片手に飛んできた。
「あー、ありがとうございます」水を注いでもらい、
「これ、すんごい辛いですけど、おいしいですね!」
「ありがとうございます。オーナーが辛いの好きなもので」ピッチャーをテーブルに置き、会釈して店員はカウンターの中に戻った。
「今、碧ちゃんのことちょっと尊敬したわ」
「えー!? 一夫一婦制、そんなに斬新でした!?」
「や、確かに新しいけど、それじゃなくって、今店員さんにおいしかったって言ったでしょ」
「はい。 ?」
「私、そう思っても言えないから。なんか恥ずかしくて。友達とかならいいんだけど」
「……そうなんですか? なんか意外です」
「思ったことを素直に言えるの、ちょっと憧れる。多分、藍ちゃんも同じだと思うな」
「あー、藍ちゃんいかにもそんな感じですよね。でも、物静かでおしとやかなの、ちょっと羨ましいです」
「ふふ、みんなそんなもんだよね。…さ、冷める前に食べちゃお」
「はい!」
それから約十分、二人は無言でピザとパスタとサラダを食べた。
「はー、おいしかった!」
「うん、ホントいい食べっぷりね。……あ、そうそう、今度藍ちゃんからツルゲーネフ借りるでしょ?」
「はい! 次会う時って話になってるから、入学式の時になると思います。私も京極堂持って行きますよ!」
「読み終わったら、私に回して。藍ちゃんの諒解は取ってあるから」
「はい! 読み終わりそうになったらメイルしますね!」
「うん、待ってる」
「ていうか、その前にもっとメイルしていいですか?」
「もちろん! 碧ちゃんならウェルカムよ」
「えへへへ、じゃあ夜な夜なイチャイチャしましょうね!」
「その表現はちょっとアレだけど、連絡してくれるのは嬉しいわ。……さて、と。これからどうしよう? どこかでお茶でも?」
「やーん、梨乃さんたら、昼間っから! わたしを酔わせてどうするつもりですか!?」
「お酒じゃなくてお茶。そういうネタ好きねえ」呆れ気味に言う。
「梨乃さんには言いたくなるんですよぅ! もちろん行きたいんですけど、お店の選定はお願いします! 私全然知らないんで」
「うん、じゃあちょっと歩くけど、縄手通りの向かいに渋ーい喫茶店があるから、そこでいい? コーヒーも紅茶もなかなかいけるし、プリンがおいしいよ」
「はい! プリン食べたいです!」
「じゃあ行きましょう」伝票を取って梨乃が席を立ち、碧も続いた。
附 作中における虚実の説明
梨乃と碧が昼食を摂る飲食店
実在しません。
作中では、花時計公園と松本パルコの間の道沿いに存在します。




