レアチーズ1(/2)
レアチーズ
玄関の呼鈴が鳴った。青井邸の呼鈴は、昭和の頃によく在った、釦を押した時にピン、離した時にポンと鳴るものだ。
七、八分前に碧から、これから出るね、との電話を受けている。
台所で待機していた藍は玄関に向かった。
扉を開けると、青のセーターに水色のキュロットという出で立ちの碧が、これも青い小さなポシェットを肩から掛けて立っていた。キュロットと言っても、昨日梨乃から借りた乗馬用のものではない。それは梨乃が昨日のうちに持ち帰っている。碧が今穿いているのは、一般的な婦人服のキュロットだ。
「おはよう!」
「おはよう…! どうぞ…」
「お邪魔します!」
藍は碧を台所へ通した。一時間半ほど前に一家の朝食は済み、両親は居間に移ってテレビを見ている。はずだったが、二人が台所に入った一秒後に台所と居間とを隔てていた戸が開き、母親が入ってきた。
「いらっしゃい、相生さんね。藍の母です。娘からよく話を聞いてます」
「おはようございます! 相生碧です。お邪魔します!」運動部らしい声で挨拶し、礼儀正しく一礼する。
「はいどうぞ。あ、ちょっと待ってね」そう言って一歩左へ動くと、今度は父親が入ってきた。
「藍の父です。今後も藍と仲良くしてやって下さい」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」と言ってまた一礼する。
「じゃ、ごゆっくり」父親が居間へと戻り、
軽く手を振ってから母親も夫の後を追い、引き戸を閉めた。
「藍ちゃん、お母さん似なんだね!」
「うん…、よく言われる…」藍自身も、顔や髪型はともかく、背格好はそっくりだと思っている。間違い無く、自分の二十六年後はあんな感じだろう。
「やっぱり? 髪の毛同じ長さだったら間違えそう! て言うか、お姉さんかと思ったよ」
「え…そう…?」世辞にしても言い過ぎだろうと藍は思うが、碧がそのような人物でないことは知っている。
「うん」答はやはり簡潔であった。
「碧ちゃんはどっち似なの…?」
「顔は母親似だと思うんだけど、身体つきは全然違うなあ。共通項は胸と髪質だけー。今度うちに来て藍ちゃん判定して~」
「あ、うん…」と言ったものの、いざその時になったら容姿を観察する余裕があるとは思えない。梨乃の母親の時と同じように、碧の母親に会ったらきっと緊張するだろう。
「あ、ごめんごめん。まずはケーキ作り始めないとね!」
「あ、うん、そうだね…」食卓には昨夕購入した材料が並び、レアチーズケーキに変身するのを今や遅しと待ち構えている。
ちなみにその隣では、弘法山で食べるつもりの弁当が蓋をされずに置かれている。蒸気を抜くためだ。
「わたし全然分かってないから教えて~」
「あ、うん…。えーと…大まかに言うと土台と、本体と、デコレーションに分かれます…。土台は、砕いたビスケットにバターをしみ込ませて、焼きます…。本体はクリームチーズとヨーグルトと、砂糖とレモン汁と、ゼラチンと生クリームを、混ぜるんだけど、混ぜる順番があります…。本体を土台に乗せたら、冷やして固めて、固まったらチョコを飾り付けて、完成です…」藍は心肺能力も低いので、長文を一気に喋ることが出来ない。
「なるほどー。ところで本体って材料混ぜるだけ?」
「うん…」
「土台は?」
「土台も焼く前はこの袋に入れて混ぜるだけ…」食卓の上から口封付きのビニール袋を取って碧に渡す。
「じゃあわたしでもできるかな!?」
「うん…碧ちゃんの方が力あるから私より上手にできると思う…」
「え…けっこう力任せなの?」
「うん…」
「それならわたしでも役に立ちそう! がんばるから指示してね!」碧は俄然元気づいたようだ。
「うん…」
「えーと、じゃあまずはビスケット割る?」
「うん…私はその間にバター融かすね…」
「はーい! あ、どれぐらい割ればいいかな?」
「金型に敷き詰められるだけ…この半分くらいかな…」直径二十㎝高さ七㎝ほどの円筒、次にビスケットの包みを指差す。半分とは、包みに入った量の半分の意だ。
「了解!」碧はさっそくクッキーの包みを開封し掛かったが、
「おっと、手洗わないと」流しの方に向かい、ハンドソープで手を洗った。ちなみにビスケットの銘柄は森永マリーだ。
ビスケットは碧に任せ、藍はまず食器棚の抽斗から珪素製の輪ゴムを出して髪を縛った。
「あ、藍ちゃんが髪縛ってるの初めて見た!」
「うん…ケーキに触るといけないから…」とだけ言って藍は作業に入った。それを見て碧もマリーの封を切る。
小さな器にゼラチンを大匙一杯、水を大匙三杯投入して軽くかき混ぜる。途中隣から、
「あーたたたたたたたた!」高めの叫び声と共にビスケットを拳で打つ音が聞こえてきて少し驚いたが、きっと何かの真似なのだろうと思い、気にはしなかった。
続いてバターを四㎝角に切ってガラスの器に入れる。ミトンをはめ、沸騰ポットからボウルに湯を注いで、バターの器をボウルに浮かべた。すぐにバターが融け始める。
隣では碧がビスケットをある程度の大きさまで砕き終わったらしく、
「これぐらいの大きさでいいかな?」二㎜程度に粒が揃っている。
「うん…バター入れて、揉んでなじませて…」
「はーい!」碧はバターの器を素手で取ったが、特に熱そうな様子もなく中身を袋に注ぎ、封をして、
「もみもみ~もみもみ~」と、何の捻りもない歌詞に変な節をつけて楽しげに歌いながら揉み始めた。何をしていても碧は楽しそうで、藍はそれを見る度自分も楽しい気分になる。碧は二、三十秒も唸って、
「こんなんでいいかな!?」袋を差し出してきた。全体にバターが染み入っている。
「うん…これを型の中に入れて、平たくなるように押さえるの…」
「はーい! じゃあ一応もう一回手を洗ってと…」
思っていた通り碧は要領がいい。藍は自分の作業に戻った。
クリームチーズを泡立て器で押して軟らかくなってることを確認し、ボウルに移す。電子レンジにかければすぐに軟らかく出来るのだが、多少風味が落ちてしまう。自分で食べるのならばさほど気にしないが、今回は少しでも出来の良いものにしたい。そう思って昨夕のうちから台所に放置してあるのだ。と言っても、四月になっても松本の夜は冷えるので、軟らかくなってきたのは恐らくここ一時間のことだろう。
ここから滑らかになるまで混ぜるのだが、藍にとってはこれが大変だ。チーズを混ぜるというのはなかなかの力仕事で、藍はこの作業を母親や場合によっては父親にも頼むことしばしばである。しかし今日は自分がそれを許さない。他人の手を借りず自分達だけで作りたい。幸いにして交代要員が強力、と言うか交代要員の方がチームのエースである。その碧がクッキーを敷き終わるまでは自分が頑張ろう。
混ぜ始めて約一分、早腕が痛くなってきた。やはり今度、ハンドミキサーを買って貰えるよう親に頼んでみるべきか。そんなことを思っていると、
「これでいいかな!?」碧が声を掛けてきた。有り難いことに、藍の予測よりかなり早い。見てみると、藍の思い描いた通りにクッキーが隙間無く敷き詰められている。
「うん…! ありがとう…」藍はクッキーと型を載せた皿を持ち上げ、オーブンへ向かった。
「焼くの?」碧の問いは、一昨日の夜、レアチーズに火は使わないと言ったからだろう。
「うん、ちょっとだけ…ここは好みなんだけど、焼いた方が崩れにくいから…」藍は皿をオーブンに入れ、加熱時間十分に設定した。
「へー、なるほどー! 藍ちゃん、次は!?」
「これ…滑らかになるまで混ぜたらレモンとグラニュー糖とヨーグルト入れてまた混ぜるの…」
「えーと、これは?」碧がボウルの中身を覗き込む。
「クリームチーズ…」
「へー! こういう風になるんだー!」変な言い方だが、固体と半固体の中間くらいになっている。
「で、これをまだ混ぜるんだね!?」碧が両手を差し出してきて、
「うん…」答えながら藍はボウルと泡立て器を渡した。
「思いっきりやっても大丈夫?」多少不安げに訊いてくる。碧も失敗が許されないと思って慎重になっているのだろう。
「うん…ハンドミキサー使っても大丈夫だから…」
「よーっし!」碧は鼻息も荒く混ぜ始めた。最初の十周ほどは明らかに力任せだったが、すぐにコツを掴んだらしく、混ぜる速さはそのままに、より楽に、より規則正しく泡立て器を回すようになった。藍は、自分の倍近い速さだと、感心半ば溜め息半ばといった気持ちでそれを眺めた。そして約一分後、
「こんなもんでどうでしょ!?」達成感を隠さず碧がボウルと泡立て器を返してきた。見るからに滑らかになっている。念のため泡立て器で浚ってみても、塊は残っていなかった。
「うん…!」短い返事だが、バッチリOKということが伝わったようで、碧はぱーっと顔を輝かせた。
「やった! 次はレモン!?」
「うん…まず搾って…」
「やるやる!」右手を挙げて身を乗り出してくる。ここも活躍の場と判断したのだろう。
「うん、お願いします…ちょっと待ってね…」藍はレモンを二つに切って片方を碧に渡し、ガラスの搾り器とボウルを準備した。
「搾るのこっちだけ?」
「あ、うん…たくさん入れると酸っぱくなり過ぎちゃうから…」
「はーい! うわこれ楽しいー!」レモンを搾り始めるや否や碧が言った。藍もそう思う。上から押さえながらきゅきゅっと左右に捻るだけで汁が零れ落ちるのは確かに楽しい。その後十五秒ほど念入りに押さえてから、
「できました!」
「ありがとう…これを大さじ三杯入れて下さい…あ、皮下さい…」
「あ、はーい! 皮使うの?」
「うん…表面を削いでちょっとだけ入れるの…」
「へー! 隠し味ってやつだね!」話しながらレモン汁を大匙で掬って入れる。
「うん…そうだね…」藍は当然作り方を知っているので隠し味という認識が全く無かったのだが、言われてみればその通りだと思った。
「はい…お願いします…」刻んだ皮を載せた小皿を碧に渡すと、
「細かっ!」驚きながら受け取り、クリームチーズのボウルに投入した。
「混ぜていい?」
「お願いします…」
「はーい! まぜまぜ~まぜまぜ~」クリームチーズが軟らかくなって余裕が出てきたと見え、妙な歌の二番を歌い出した。
藍は思わずくすりと笑って、次の用意にかかった。秤に乗せた器に、砂糖壺からグラニュー糖を移すのである。
「グラニュー糖投入?」
「ううん、まだ…ここの順番重要だから…念入りにお願いします…」
「りょうかーい! ちゃんと混ざらないとダメなんだね?」
「うん…」
「よーし! がんばって~まぜまぜ~まぜまぜ~」歌の速さは♩=75くらいだが、手はその倍の速さで回っている。
「あ、まざってきたかな~それともまだかな~、まぜまぜ~まぜまぜ~」これが二回繰り返された後、
「どうかな!?」ボウルと泡立て器が渡された。
「うん…」傍で見ていて混ざっていることは分かっているが、確認を怠る訳にはいかない。念のため、本当に念のため、泡立て器で五度掬ってみたが、均一でない部分は無かった。
「うん…」頷くと、また碧の表情がぱーっと晴れ上がり、
「次はグラニュー糖だね!?」
「うん…」小皿のグラニュー糖のうち、五分の一ほどをクリームチーズにかけて碧に渡す。
「お願いします…」
「はーい! まぜまぜ~まぜまぜ~。はい!」藍の意図は分かっているようで、少し混ぜただけでボウルを差し出してきた。藍はそこにまたグラニュー糖を振りかける。これを後四回繰り返して全て投入し終わると、
「しっかり~まぜまぜ~ガッツり~まぜまぜ~バッチリ混ざれば~おいしくできるよ~。こんなもんで!」碧からボウルを受け取り、
「うん…」確認して藍が頷くと、
「次はヨーグルトだっけ?」またボウルを抱えて撹拌体勢に入った。
「うん…これも分けて入れます…」四百g入りの『信州八ヶ岳野辺山高原ヨーグルト』で、酸味が少し強いところが藍の好みに合っている。今回は五百g使用するので二つ買ってある。
「了解! 投入はお願いします!」
「はい…」碧が敬語を使ったのでつられて藍も敬語になる。大匙で掬えるだけの山盛りで三杯を投入し、
「お願いします…」と言うと、
「まぜまぜ~まぜまぜ~まぜまぜったらまぜまぜ~…すんごい混ぜるの楽になってきたよ!」
「うん…水抜きしてないから…」
「普通は抜くの?」
「多分…でも抜くと硬くてうまく混ぜられないから、いつもそのまま作るの…」
「なるほどー! 今回は手堅くいかないといけないもんね! あ、抜くとどうなるの?」碧が差し出すボウルに藍がヨーグルトを追加する。
「濃厚になって、酸味が少し抜けるの…」
「そっかあ。わたしすっぱい方がいいな! 抜かないとゆるいの?」
「ゆるいと言うか…あっさりした感じになるの…」どっしり濃厚なのが好みの人はスカスカと表現するかも知れないが。
「すっぱくてあっさりなの? わたし絶対そっちがいい!」
「あ、そうなんだ…私も…」
「藍ちゃんも!? 梨乃さんの好みはどうかなあ」
「うん…」
「何かイマイチ想像できないんだよねー」
「うん…私も…」そもそも甘いものが好きなのかどうかというところからして想像が出来ない。週一でケーキ屋に寄るくらいだから嫌いなはずは無いのだが、喜んでケーキを頬張るような印象も全く無い。
「梨乃さんもすっぱい派だといいね!」
「うん…!」ある程度自信を持って提供出来るのは今のところこのレアチーズのみなので、これが梨乃の好みに合うことを望むばかりである。
「あー、でもこれわたしも食べたい~!」ボウルを差し出して碧が言う。
「完成したら味見させて~!」
「うん…」とだけ言って藍はヨーグルトを追加した。当然味見はする。が、碧はまだ気づいていないのだろうか。それとも気づいているが口には出さないのだろうか。
「やったあ!」碧の反応を見ても、なお藍には計りかねた。
その時オーブンが加熱終了のブザーを鳴らし、藍はそちらへ向かった。
「バッチリ!?」混ぜながら碧が訊いてきた。
「ちょっと待ってね…」オーブンの扉は開けたが、中身を取り出すためにミトンをはめているところだ。
「うん…!」きれいに出来ている。
「よっしゃ!」碧にしては珍しく蓮っ葉な言葉を使った。自分の作業の成果が出たのが嬉しいのだろう。
「見せて見せてー!」
「うん…」藍は金型を取り出して、碧に見えるよう傾けた。
「おー! 焼けてるー!」碧はかなり気分が盛り上がっているようで、その姿がとても微笑ましい。今の藍にはもちろん分かっていないことだが、いつか藍に娘が出来た時には、またこのような感慨に耽るだろう。
藍は金型をオーブンの上の焜炉に置いた。素手で触っても火傷しない程度まで冷やすためである。混ぜる作業が終わるまでには冷えるはずだ。
「ヨーグルト、残り入れていい?」碧が混ぜる手を止めてヨーグルトの容器を持ち上げた。
「うん…お願いします…」碧はもうすっかり作業に慣れている。任せて大丈夫だ。藍は次の準備に取り掛かることにした。
「生クリーム?」
「ううん、その前にゼラチン…」
「そうなんだ? ゼラチンが最後かと思ってた」碧も最初に水に溶いたのがゼラチンだということは分かっていたらしい。
「暫しお待ち下さい!」碧は慌てる風もなく混ぜ始める。こういうところは見習わねばならない、と藍は思った。隣で待っている人が居るこの状況で、自分だったら、しっかり混ぜるべきと分かっていても絶対に焦ってしまう。
一分ほど混ぜて手を止め、碧はボウルを置いた。
「見て~」
もう確認しなくても大丈夫だろうが、それでもやはり確認しよう。
「うん…! ゼラチンも少しずつ入れます…ダマになりやすいから…」
「了解! ヨーグルトより注意しないといけないね?」
「うん…」ダマになり易い上に、少量なのでダマになっていても見落とし易い。
「じゃあまた投入はお願いします!」
「うん…その前にちょっと分けます…」泡立器を使って中身を小さな樹脂容器に移していき、容器に刻まれた線まで入れた。表記からすると、容量は二百mlだ。
「ゼラチン入れないのも作るんだね」
「うん…別で使おうと思って…」蓋をして、藍は樹脂容器を食卓に置き、ボウルの方に戻って大匙一杯分のゼラチンを掬って入れる。
「うわー、ホント少しずつなんだね! わたしだったらまとめて入れちゃうわー。やっぱりケーキ作る人は繊細じゃないとダメなんだね!」
「え……」そんなことないよ、と言おうとしたが、やめた。ケーキに限らず菓子作りに求められるのは第一に精密さだ。レシピ通りの分量や手順を正確に守る几帳面さは必須要件なのである。
「でも碧ちゃん、念入りに混ぜてくれてるよね…」
「そりゃあ贈り物にするんだからね! でも自分用だったら絶対テキトー」
「私も…」
「えー!? 藍ちゃんでも!?」
「うん…混ぜるの大変だから適当になっちゃう…」
「そっかあ! じゃあわたし役に立ってるね!」自画自賛だが、これだけあっけらかんと言われると嫌味が無い。それに、役に立っているのは紛れもない事実である。
「うん…!」疑いの余地無く、藍のケーキ作り史上最高の均一度になっている。
「よーし、完成までがんばるぞー!」威勢のいい声だが、手は先程からの動きを保ったままだ。それを見て微笑みながら、藍は冷蔵庫に向かった。
「いよいよ最終工程!?」唯一これだけ冷蔵庫に入れっ放しにしてあった生クリームを藍が取り出すのを見て、碧が訊いてきた。
「うん…泡立ててからそっちに入れて、また混ぜるの…ここも加減が好みなんだけど…」
「うんうん! あ、見てくれる?」
「うん…………うん」混ざり具合を確認して、藍はゼラチンを追加した。すぐに碧がボウルを持って混ぜ始める。
「で、えーと、好みなんだけど?」
「うん…泡立てるとふわふわになって泡立てないとどっしりするの…」
「なーるほーっどねー!」想像がついたらしい。
「わたしふわふわがいい! …けど、軽すぎると物足りないよね」
「うん…上にデコレーション載せるし…」
「あ、そうだよね! じゃあちょいふわで!」
「うん…!」藍の心は決まった。普段八分立てにするところを、今日は七分くらいにしよう。それにしても碧の決断力は羨ましい。自分一人だったら無駄に悩んで結局普段通りというところだっただろうが、碧がいるおかげであっという間に結論まで辿り着いた。
藍は生クリームをボウルに注いだ。
「こっちも追加するね!」碧が手を止め、ゼラチンの入った器を持ち上げる。何度か藍に確認してもらって、もう自分で判断しても大丈夫ということだろう。藍が手持ち無沙汰だったら確認を頼んだのだろうが。
「うん、お願いします…」藍も任せることに不安は無い。
碧はゼラチンをボウルに入れた。藍がしていたように大匙一杯だ。
「今気づいたんだけど」
「うん…」
「これ、型に入りきらなくない?」バレたか。出来れば気付かれぬまま作業を終えたかったが。
「うん…ぎりぎりまで型に流して、余った分は私達で食べようと思って…」
「ホント!? イヤッホホーう!!」文字通り飛び上がって碧は喜んだ。そして、そんな体勢でもしっかり混ぜ続けている。
「いやいやこれはあくまでも梨乃さんの誕生日プレゼント…! やっば! 今わたしの愛が試されている…!」大袈裟な物言いに藍はついくすりと笑ってしまった。そんなに楽しみにしてくれるとは作る甲斐が有るというものだ。
「んーと、わたし達の分は何に入れるの?」
「タッパー…碧ちゃんに持って帰ってもらおうと思って…」
「藍ちゃん…! 何て踏んだり蹴ったり…! 早く嫁にもらいたい!!」昨日の同じ発言から、至れり尽くせりの意だと藍には分かっている。
「え…ありがとう…」正直、喜んでくれることを期待してはいた。が、その期待を大幅に上回る反応に、藍は頬を赤らめた。
「いやいやありがとうなのはこっちだよ! あ、ゴメンゴメン、邪魔しちゃったね」碧は残りのゼラチンをボウルに投入した。
「ううん…」まだ照れくさい気持ちのまま、藍は生クリームを泡立て始め、剰りに簡単に泡立器を振るうことが出来るのに驚いた。
確かに、生クリームを泡立てるのはクリームチーズを混ぜるのに比べて遥かに楽な作業なのだが、普段ならここまでの工程で腕と手首がヘロヘロになっており、生クリームが強敵に変わっているのである。しかし今日はその重筋作業を碧に引き受けてもらったおかげで腕が全く疲れていない。自分の思う通りに泡立器が回り、みるみるうちに生クリームの角が立ってきて、藍は慌てて手を止めた。泡立て過ぎてはいけない。
「藍ちゃん完了?」手を止めたのを見て碧が声を掛ける。
「うん…」
「見てくれる?」
「うん…」念のため確認するが、やはりダマは残っていない。
「うん…!」藍は生クリームを移した。すぐに碧がボウルを取って混ぜ始める。
「ゼラチン抜きの方は?」
「あ、お願いします」藍は、残った生クリームを全て移し、碧の前に置いた。無論、ゼラチン入りが優先だ。
「これで最後?」
「うん…後は冷やすだけ…でもまだチョコ板があるよ…」
「あ、そっちも今やるの?」
「うん…冷やしておけば字が崩れにくいかなって…気持ち程度だけど…」
「今日は気持ち大事!! だよね!」
「うん、そうだね…!」同じように作れば気持ちがなくても美味しく出来上がる訳だが、気持ちが入っていない時は入っている時と同じようには作れない。藍は今までも食べてくれる人、即ち両親のことを想って作ってきたが、今日の気持ちの入り方は断トツに過去最高である。
「どうかな?」もう碧がボウルを差し出してきた。恐らく一分も混ぜていないが、自信が有るから確認を求めたに違い無い。
ここが最後の関所であるので、念入りに確認せねばならない。何度も泡立器で生地を掬い、
「うん…!」碧に向かって大きく頷き、藍は金型を引き寄せた。
「よしっ!!」碧は胸の高さで右拳を握る。
「ゼラチン抜きも混ぜるよ?」
「うん…お願いします…」ボウルを持ち上げる。
藍は一分ほどかけて金型の上端から二㎜のところまで生地を充填し、金型をトントントントンとテーブルに四度当て、最後に二㎝ほどの高さからテーブルに落とした。
「今のは?」怪訝顔で碧が訊く。
「空気抜くの…」
「あ、なるほどー。抜けた?」
「うん…、ちょっとだけ泡出たよ…」
「じゃ、ホントに完了だね!」
「うん…」藍はレアチーズを冷蔵庫に仕舞い、代わりにチョコレート板とチョコレートペンを取り出した。
「こっちはお任せします…」
「お任せされます!」敬礼してから受け取り、
「でも何て書くか一緒に考えよ!」
「あ、うん…」てっきりもう決まっているものと思っていた。
「まず誕生日おめでとうの部分は…」
「漢字難しいね…」画数が多いのでチョコレートペンで書くのが難しい。
「あ、そうだね…じゃここはHappy Birthdayと…うーん、全部大文字の方がいいかなあ?」
「う…ん……」正直どっちでもいいような気がするのだが、見た目の問題は重要だ。
「紙に書いて確認してみる…?」
「うん!」
「紙とペン取ってくるね…」
「あ、じゃあわたしその間にタッパーに移しとくよ!」自分達で食べる分のレアチーズのことである。
「ありがとう…タッパー出すね…」藍は食器棚から樹脂製の密封容器を出した。
「わ、懐かしい! 藍ちゃんの!?」藍の後ろ姿を眺めていた碧が小さく叫んだ。
「え……あ、うん…」何のことか分からず碧の方を向いた藍は、碧の視線を追って、密封容器の奥に置かれていた子供用の茶碗であることを知った。
現在青井家で日常的に使用される椀類、湯飲み類はほぼ全て陶製である。味噌汁用の椀が木製であることと、日本酒用のコップが硝子製であることだけが例外で、樹脂製の器は年に一度か二度使われるかどうかというところだ。故に、青井邸の食器棚に入っている樹脂の器は、藍が小学校低学年まで愛用していたものだけだ。その一つを目敏い碧が見逃さなかったのである。
「見せて見せてー!」
「うん…」取り出されたのはドラえもんの絵の入った水色の樹脂製茶碗であった。藍は、幼少の頃既に青が好きだった。
「やっぱり! わたしも同じの持ってたよ!」碧の口調は嬉しそうだ。
「え…そうなの…!?」それは藍にとっても嬉しい偶然だ。
「うん! うちにもまだあるはずだよー! ほかにもある!?」
「え、うん…」藍はさらに奥から三つの器を取り出した。ミッフィーの絵の把手付きボウル、スヌーピーの絵が描かれた皿、トムとジェリーのコップ、何れも樹脂製の水色である。
「ぅわっ、それも持ってる!!」密封容器にレアチーズを移そうとしていた手を止めて叫ぶ。
「え…どれ…?」
「トムとジェリー! もしかしたらお母さんが同じ店で買ったのかな!?」
「あ…そうかも……!」その可能性も十分にある。藍はまだ相生邸の正確な位置を知らないが、その近くにあるという映画館なら分かる。自分の家から直線で一キロ余りしか離れていない。そして、近くの大きな店と言えば二店舗に限られるのだ。
「藍ちゃん、子供の時から青好きだったの?」訊きながら、碧は止めていた手を動かし始めた。
「うん…物心ついた時には…」
「おー! それもわたしと同じ!」
「そうなんだ…」また明らかにされた小さな共通点に藍は驚いている。
「うん! 梨乃さんはどうなのかなあ?」
「うん…」
「今日行ったら聞いてみよ!」
「うん…あ、紙とペン取ってくるね…」密封容器の七割方がレアチーズで埋まったのを見て、藍は少し慌てた。
「お願いします!」
二階にある自室に向かいながら、藍は何だか落ち着かない心持ちだ。自分の家に友達が来ていて、しかも彼女を一人にして待たせている。昨日まで想像もしなかったことだ。
もちろん待たせ時間は短い方が良いだろう。
抽斗に仕舞ってあったルースリーフ用紙とあるだけのペンを手に、藍は急ぎ足で台所に戻った。
「これでいいかな!?」藍が言葉を発するより先に碧が訊いてきた。両手が密封容器と先程の食器を示している。
「入りきらなさそうだったからこっちにも入れてみました!」ドラえもん茶碗を持ち上げる。トムとジェリー、ミッフィーにも入っているのが見えている。
「あ、うん…」密封容器に入りきらないことは分かっていた。と言うより、意図して入りきらない量を作ったのだ。食器棚のどこかに眠っているワイングラスを発掘して入れるつもりだったのだが、今話題に上ったことでもあるし、これはこれで悪くない。
「じゃ、冷蔵庫入れるね…弘法山から帰る頃には冷えてると思うから…」藍の想定帰宅時刻は午後三時、まさにおやつの時間である。
「うん! た!の!し!みー!!」
藍はテーブル上のレアチーズを全て冷蔵庫に入れた。大仕事を片付けて、肩の荷が下りた感がある。自分一人だったら持って行くのも大仕事に感じるのだろうが、碧がいる今回はまるで気にならない。
仕舞い終わって振り向くと、碧はもうペンを執っていた。赤ペンでさらさらと書き、紙を藍に見せて、
「どっちがいいかな!?」
チョコレート板を象った楕円が二つ、それぞれの上半分に「Happy Birthday」「HAPPY BIRTHDAY」と書かれている。空いている下段には梨乃の名が入るのだろう。
「こっちかな…」頭文字だけが大文字の方を指差すと、
「やっぱり!? じゃこっちで決定、っと! つ、ぎ、はー」今度は青ペンで書いたと思ったらまた赤ペンに持ち替えてさっとペンを走らせ、
「どうかな!?」
予想通り、採用された方の下段に「梨乃さん♡」の文字が加わっていた。梨乃さんは青、♡だけが赤で書かれている。簡潔だが想いは見て取れる、と藍は思った。
「うん…! …チョコペンでも書けるかな…?」
「む、そうだね…試してみる量あるかな? ダメだったらひらがなにするー」初めてやってみることとは言え、碧が何時に無く慎重である。それだけ気持ちを籠めて臨んでいるということであろう。
「うん『梨』だけだったら何回か練習できると思う…」念のためチョコレートは二枚買ってあるが、ペンは余裕と見て各色一本ずつしか買っていない。もっとも、いざとなれば買い足しに行けばいいので、切らしても大きな問題にはならない。
「よし…ではまず練習します…書かれるものある?」
「あ、その前にチョコペン融かさないと…」
「固まってるんだ?」
「うん…。柔らかいのもあるんだけど、それは固まらないの…。ちょっと待ってね…」藍は沸騰ポットからマグカップに湯を注ぎ、赤と青のチョコレートペンを入れた。
「次は…、えーと、書かれるもの……」書くだけなら皿でいいが、それではチョコレートがもったいない。
「ちょっと待ってね…」藍は冷蔵庫の中を探った。
あった。チョコレートと一緒に食べるのは少し勇気が要るが、現在台所にある食材の中では最も練習に適しているはずだ。迷わず冷蔵庫から出し、流しの隣に置いた。
「あっ、豆腐!?」碧の顔に、なるほど!と書かれている。
「うん…」藍は、素早くはないが慣れた手つきで庖丁を操って容器の封を開け、中身を俎の上に出して五mmほどの厚さに切った。そこで皿が無いことに気づいて食器棚に向かい、四角い皿を三枚持って俎の前に戻る。碧は黙って藍を見続けた。
豆腐の載った皿と俎を碧の前に置き、藍はチョコレートペンを取って庖丁で先端の七、八mmを切り落とした。すぐに碧がチョコレートペンを持ち、
「ありがとう! じゃ、がんばります!」豆腐の上に梨と書いた。
「どう…?」
「んー、意外と簡単だけど、線が重なるところが盛り上がって」
「冷えたら剥がれそう…?」
「もしかしたらねー。もう一回やってみるね」またささっと書いて、
「うーん、重なるところ線を切るのは難しいね。となると…」
「重なるところだけ線を細くするとか…?」自分の不器用さでは到底不可能な技だが、碧ならば出来るのではないか。
「なるほど! やってみるね!」言いながらもう手は動き、
「いいかも! どう!?」豆腐を藍の方へ差し出してきた。梨の字が三つ並んでいるが、右側の字が一番整っている。中央の字は、線の交差するところで縦棒が切れ、横棒との間に隙間が出来てしまっていた。
「うん…! 碧ちゃん、上手だね…」
「えっ、そうかな!? 藍ちゃんの方が全然字きれいだと思うけど」
「私、そんなに上手にチョコペン使えないよ…」自分の字が整っているという自覚はある。しかしそれは鉛筆やボールペンを使った場合で、それ以外ではまあ普通という程度である。例えば毛筆では、残念ながら誰が見ても小学校高学年並という腕前だ。チョコレートペンでも、実際にやってみたことは無いのだが、かなりの修練を積まなければ人に見せられる字にならない自信が有る。
「えー!? 藍ちゃんにそう言われると自信つくなー!」碧は藍の整った字しか見たことがないからそう思うのだろうが、しかしここでの訂正は全く不要だ。気持ちよく本番に突入してもらうのが良かろう。
「チョコペン…硬くなってない…?」まだ熱い湯に赤チョコレートペンの入ったマグカップを差し出すと、
「あ、ちょっとなってきてる!」碧はチョコレートペンを逆さにして湯に浸けた。藍は流しから薄く小さな俎を取って碧の前に置き、チョコレート板を開封して載せる。
「碧ちゃん、いい…?」
「ん、ちょっと待って」碧は数秒チョコレート板を見つめてから、
「よし! お願いします!」
藍は赤のチョコレートペンを取り出し、タオルで拭いてから先端を切って碧に渡した。碧は無造作にペンを走らせ、一息に「Happy Birthday」の文字を書き上げた。
「うん、いいね!」こういう作業には、慎重より大胆が要求されるものだ。碧が書いた字は、達筆とは言えないまでも、文字の大きさや配置に関して理想的だった。
「色、変える…?」
「うん、お願いします!」碧の回答を予測していた藍はペン先をつまんで湯から出し、一瞬タオルで覆ってから碧に渡した。
碧は慎重にペン先の空気を抜いてから、また無造作にペンを走らせ、
「よっし!」満足気な声をあげた。「梨乃さん」の字が上段より大きい文字で配置されている。「梨」の字も、同じく交差のある「さ」も練習通り平たく出来ている上に、「さん」が少し小さい文字というおまけ付きだ。右端が空いているのは、ハートが入るのだろう。
「もう一回赤お願いします!」これも予想していた藍は、すぐペンを渡した。碧はまたさらっとペンを動かしてハートを描き、内側にも赤チョコレートを出して塗り潰した。
「完了!!」
「碧ちゃん、上手だね…お店の人みたい…」
「それはほめすぎだけど、でも我ながらよくできました! 藍ちゃんのアシストがよかったからね!」
「え…私は、何も…」ペンの先端を切り落としただけなのに、と藍は思ったが、
「いやいや、藍ちゃんが色々やってくれたからわたし書くだけでよかったし! それに藍ちゃんのアドバイスできれいに書けたし! あと豆腐! ナイス練習台でした!」
「あ、豆腐食べないと…」
「あ、そうだったね…」
藍は梨の字が三つ並んだ薄切り豆腐の皿を取った。梨一文字分を小匙で切り取り、思い切って口に運んでみる。不味いと言うか違和感のある味を覚悟していたのだが、意外にも味の薄いプリンのような感じだった。美味しいかと問われれば回答に悩むが、不味いかという問いにならばそんなことはないと即答できる。それが顔に出たのか、
「あれ? 意外とおいしい? よし、わたしもチャレーンジ!」大匙を取り、藍がしたように梨一字分豆腐を切って食べるが、
「うーん、ビミョー」との感想に、碧も自分と同じように感じたか、と藍は思った。
「でもなんか、やりようでおいしくなりそうな気配は感じるー」
「うん、そうだね…」
「どうしたらいいかまるで分かんないけど!」
「うん……」
「藍ちゃんがきっと答えを出してくれるに違いない!」
「え?」藍にしては珍しい、勢いのある「え?」であった。
「料理上手の藍ちゃんならば!」
「…調べてみるね…」自力での開発は無理だが、誰か先人が作っていることだろう。
「うん! で、当面これで完成だよね!」と言ってから、残った一文字分の豆腐を口に入れる。
「うん…あ、このチョコ板立てる…? 寝かせる…?」チョコレート板を小皿に移し替える際に気付き、藍が訊いた。
「立てるイメージだったけど、そっか、これだけだとちょっと不安定かな?」
「うん…」ケーキに刺さる深さが足りず倒れてしまいそうだ。
「何か支えがいるね」
「うん…」と応えてチョコレート板を冷蔵庫に仕舞った。
「選択肢が多くて迷っちゃうね」
「え……?」藍はまだ一つも思いついていない。
「小枝とかポッキーとかトッポとか! 板チョコでもいいし、チロルみたいなブロックでもいいし!」
「あ、なるほど…!」
「何がいいかなあ」
「…トッポ、かな…」藍の思考はこうだ。まず、安定させるには支点が三点であることが望ましい。即ち棒状のものが採用されるが、このうち小枝は短すぎる。チョコレート板の高さは約四㎝で、上端から一㎝の位置を支えるとしても、ケーキに刺さる部分を足すと五㎝程度の長さはほしい。残る二つのうち、より頑丈そうなのはトッポなので、これを採用。もちろんこの思考は一瞬である。
「了解! トッポに決定!」何の説明も求めず碧は納得し、トッポが採用された。
「トッポある?」
「ううん…」
「じゃ帰りに買ってこよ!」
「うん…! あ! 箱も…今ある箱、地味だから…」普段は派手さを嫌う藍だが、今回は華やかな方が良いだろうと思う。もちろん、可愛いの範囲内で、だ。
「うん! 百均行っていいのあったら買お!」
「うん…!」
「じゃ、これでホントに午前の部終了して大丈夫かな!?」
「うん…! あとはケーキが冷えてから…」
「じゃ、いざ弘法山、の前に藍ちゃんの部屋へ!」
「え…うん…あ、その前にお弁当包むからちょっと待って…」
「うん! それ私たちの分!?」
「うん」
「いやっほう!」右腕を上に突き出して跳び上がった。
「いやー、ここ入った時から気になってたんだよねー!」こんなに喜んでくれて藍は嬉しい。
「お待たせしました…」弁当の包みを持って藍が廊下に出、碧がすぐ後ろに続いた。
「藍ちゃんの部屋二階?」
「うん…」
玄関のすぐ奥にある階段を昇り、階段の左側にある廊下を左へ行った突き当たり、即ち玄関の真上に当たる所が藍の部屋である。
「どうぞ…」扉を開けてそう言うと、
「お邪魔しまーす!」遠慮無く碧は部屋に入った。
「うわー! 藍ちゃんの部屋って感じ!!」事前に抱いていた心象風景と現実が近かったようだ。
「やっぱり青好きなんだね!」碧の視線が注がれているのは、右手の壁に接して配置されている寝台である。掛布団は青、枕は紺、見えてはいないが敷布団は群青だ。
「うん…」
「わたしも布団青だよ!」
「やっぱり…?」何となくそんな気がしていた。
「梨乃さんも青入ってたよね!」
「うん…!」梨乃の掛布団は水色と桃色の縦縞模様だった。
「あっ、と、本返さなきゃ…」碧はポシェットを開けると、
「あっ! とりあえずこれ!」と言ってUSBメモリを取り出し、藍に差し出した。
「あ…ありがとう…!」藍は受け取り、机に置いた。後で父親のパソコンを借りて写真を見よう。
碧は続いて文庫本を取り出し、
「ありがとう!」藍に渡した。ツルゲーネフ作の片恋である。
「面白かったけど、切なかった」
「うん…」
「わたし、アーシャが、Nのこと好きなのに自分から離れようって思ったのが分からない。Nも自分のこと好きだって知ってたのに」
「私も、分からないけど……」そもそも藍には男を好きだという気持ち自体がよく分からない。小学校低学年の頃には好きな男の子もいたが、その後長い時間を友達すらいない状態で過ごしたからか、その頃の感情を思い出すことが出来なくなっている。
「藍ちゃんも?」
「うん…でも…うまく言えないけど…本当に好きだったんだ、って思ったよ…」
「うん…何か、そういう話だった…。あ、昨日から黒い兄弟読み始めたよ! まだ5ページだけど」
「うん…あ、私も返さなきゃ…」
「もう読んだの!?」碧から借りたのは水曜、京極堂も既に八冊目だ。
「うん…面白かった…」
「ついに長野県に来たしね!」この巻の舞台は蓼科であった。
「うん…!」
「松本まで来てほしかったなあ!」
「…うん…」ふふっ、と藍は笑った。碧が本当に口惜しそうだったからである。自分の好きな作品に知っている場所が出てくれば、それはわくわくするだろう。海外の小説を好んで読む藍は、自分の住む街が舞台になる、ということを想像したことすらなかったが、考えてみれば、舞台をどこに設定しても話自体は成り立つ、という作品の方が多いはずだ。
「あ、そうだ、あの、碧ちゃん映画たくさん見てるんだよね…?」珍しく藍の方から話題を変えた。
「うん! 主に昔のやつだけどね!」
「碧ちゃんが一番好きな映画って何…?」
「なかなか難しい質問だね、好きなのありすぎて! でもアオデミー賞作品賞を選ぶとしたら、The Last of Mohicansかな! マイケル・マン監督の。面白かったし、感動もしたよ! 登場人物がみんな誇り高くてかっこいいの! 音楽もよかったし!」
「レンタルに置いてあるかな…?」
「家にあるよ! 貸すから見て見て~」
「うん…! ありがとう…」
「うん! あれ? そう言えば…藍ちゃん、本棚別の部屋?」
「ううん…本棚、これだけなの…」廊下から部屋に入った左手、寝台の足側に配置された机の上を指差す。所謂学習机というやつで、水平部の奥に立壁があり、立壁の上端から本棚が張り出している構造だ。その棚の半分以上は教科書に占められ、残りの空間を九冊の文庫本が埋めている。
「壁一面本ぐらいの勢いかと思ってた!」
「いつも図書館で借りてくるから…」
「あ、そっか。そんなにたくさん買えないもんね! じゃあ何回も借りる本もある?」
「うん…」
「もしかするとここにあるやつが…!」
「うん…」
「そっかー! 藍ちゃんスーパーセレクションかー! 見ていい!?」
「うん…」
「水晶、みずうみ、グライフェン湖の代官、フランダースの犬、クリスマス・カロル、野性の呼び声、幸福な王子、あっ、黒い兄弟! 聖地巡礼したいっていうぐらいだから、持ってるのかなーとは思ってたけど!」
「うん…二番目に好き…」
「そうなんだ!? 早く読んで仲間入りしないと! …たるの中から生まれた話…面白いタイトルだね!」
「短編集なの…みずうみと同じ作者で…」
「ホントだ! シュトルム…何か強そう!」
「うん、そうだね…」そんな風に思ったことは無かったが、言われてみると確かに強そうだ。それが可笑しくて藍はくすくす笑いながら相槌を打った。
「あれ? 変だった?」
「ううん、その通りだなと思って…」
「これでめっちゃおしとやかな女の人だったらビックリだね!」
「でも有り得るよね…多分苗字だし…」
「あ、そっか。じゃあ確実に女の人もいるね!」
「うん…」
「以上、藍ちゃんスーパーセレクションでしたー。黒い兄弟読み終わったらどれか貸してー!」
「うん…あ、返すね…ありがとう…」藍は、机上に用意してあった京極堂を取り、碧に渡した。
「うん! 藍ちゃん、マンガは一冊もないんだね!」
「うん…」小学生の時に二、三冊読んでみたが面白くなかったので、それ以来興味を失ってしまっている。
「今度うちにあるやつ読んで~!」
「うん…」碧が好きなものであれば読んでみたい。
「よっし! じゃあ行こっか」
「うん…」
「お邪魔しました!」
藍を先頭に玄関まで戻ったところで、
「ちょっと待っててね…」藍は、碧を残して居間へ入った。弁当を持ってくるためだ。
「うん」碧も察しているのか、特に何も言わなかった。二分後、
「お待たせしました…」弁当道具一式を入れた背嚢を背負い、藍は再び玄関に姿を現した。後ろに両親もついてきている。
「お邪魔しました!」ぺこりと一礼した碧に、
「また来てね」碧の母親が言い、
「はい! あ、さっそく今日の午後またお邪魔します!」
「ああ、そうね。待ってるわね」藍は両親に今日の予定を話してある。
「ありがとうございます!」またぺこりと頭を下げた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
二人は青井邸から出た。門の外まで自転車を押し、左向きに出たところで碧がサドルに跨がり、藍が荷台に座って碧の腰に腕を回した。
「藍ちゃん、ちょっと回り道するね!」
「うん…」
線路に沿って渚駅とは逆の方向へ進み、左へそしてすぐ右へと曲がる。道が狭く見通しも悪いので、碧はのんびりと漕いでいる。
もちろんまだ家の近くなのだが、実は藍はこの道をよく知らない。藍が行くところは限られているし、そこへ向かう際に使う道も決まっているからだ。奈良井川に沿って南下しているのだろうということが想像出来る程度である。碧は回り道と言ったから、碧の家へ向かっているのではないだろうし、では何があるのだろうか。
微妙に曲がりくねる道を進むこと数分、
「藍ちゃん、あれあれ!」碧が左前方を指差した。何基かの墓石がまとまっているのを囲むように杉の木が天に向かって伸びているのが見える。自転車がそちらに近づくと、一本の杉の幹に大きな草鞋が掛けられているのが分かった。
半端な大きさではない。長さが藍の身長ほどもあろうかという大草鞋だ。しかし、幅に比べて長さが随分と短く、楕円を半分に切ったような形状をしている。こんな異様なものが家の近くにあるとはついぞ知らなかった。
碧が自転車を止めたので荷台から降りると、高札のような形状の立て看板が掲げられていることに気づいた。
「これ、スゴくない!?」
「うん…大きいね…!」
「昨日の帰りに見つけて、これは藍ちゃんに見せないとと思って!」
「家の近くなのに全然知らなかったよ…」
「わたしもー!」自衛隊の近くだと言っていたから、碧の家も遠いという程ではない。
「説明読んで~」
「うん…。
『お八日念仏と足半草履
毎年二月八日には足半草履保存会により、お八日念仏と足半草履の祭事が行われます。
そのあと公民館に集まり、なった縄にわらを編んで足半を作ります。
足半ができると仏像の掛け軸の前に並べて飾り、ダンゴを供え線香をともし、わらで編んだ縄や数珠の回りに座り、真ん中に座った音頭取りの念仏や鐘の音にあわせて数珠を回し、八日念仏を唱えます。
お八日念仏が終わると、町内の境にある高い樹木に足半草履を結び付けることによって村の中に巨人がいるとされ、疫病神を防ぐといわれています。
《足半とは》
田圃に入ると泥が跳ね上がるため、足の半分の草履をはいたことに由来する。
従って、吊した草履の倍もある、大きな足の巨人が住んでいるとされる。』」
「なーるほーどねー。伝統行事なんだね!」
「うん…昔はここが境だったんだね…」
「どっちが街だったんだろ?」
「うん…。どっちも似たような感じだね…」北も南も道沿いには民家が見えるが、どちらも都会な感じではない。ちなみに墓地の向かいは浄水場だ。
「前半分しかない草履って歩きにくそうだよね」
「うん…」爪先だけで歩くことになるのだろうから、疲れそうだと藍は思う。
「でもこういう健康スリッパあるよね」
「うん、そうだね…」確かに、藍も土踏まずまでのスリッパを見たことはあるが、目の前の大きな草鞋からよくそんな方に連想が働くものだ。
「これ作ってるところ見てみたいな! 二月八日に公民館で作るんだよね」
「うん…多分…」
「公民館てどこだろ?」
「さあ…」中学の時、合唱部が近所の公民館で合唱、という行事が毎年あったが、部員でなかった藍はその場所を知らない。
「ネットで調べてみよっと! じゃ、行こっか」碧が自転車のサドルに跨がったので、
「うん…」藍も荷台に腰かけた。
碧はまたゆっくりと自転車を走らせ、一分ほどで広い道に突き当たった。広いと言っても往復一車線ずつであるが、今通ってきた道の倍以上の幅で、両側には歩道も在る。この道の向こうには体育館らしい建物が、その左手には数十台はとめられる駐車場、その奥にまた別の建物が見えている。
「あ、ここ、私が本借りてる図書館…」ということは、この道は藍の通っていた中学校の前の道だ。去年の年末あたりから毎週この鎌田図書館に藍は通っている。
「え!? そうなの!?」
「うん…この道左に行くと鎌田中学…」と、その先には鎌田小学校。
「へー! ちょっと見ていい?」自動車が途切れ、碧は漕ぎ出した。
「うん…」
自転車は道を横切り、そのまま駐車場も横切って図書館の玄関前で止まった。藍が図書館の中を硝子扉越しに覗き込んだ時、
「あーっ!!」碧が大声をあげた。大声過ぎて、図書館の中の人がこちらを向いたくらいである。
「ここじゃない!? 公民館!」
荷台から降りて後ろを向くと、図書館の向かいの建物には「松本市 鎌田地区公民館」の標記。
「うん…!」この近さならば間違い有るまい。
「向かいが公民館って、全然知らなかったよ…」全く興味が無かったので、目に入っていても認識しなかったのだろう。心焉に在らざれば視れども見えずというやつである。
「こっちに寄っていい!?」
「うん…」
二人は扉の前に立ったが、自動のはずの扉は開かなかった。
「休みかな?」
「うん…」二人とも開館日時に関する情報を探したが、残念ながらどこにも書かれていなかった。
「今度部活ない時一緒に来よ!」
「うん…」藍は特に大草鞋の行事に興味を覚えていないが、碧と一緒ならば再訪に異議など無い。
「では改めて図書館へ…の前に自転車置いてくるね」
「あ、うん…」ついて行こうかと思ったが、碧が一人で行った方が速いのでやめた。
思った通り十秒ほどで碧は戻り、二人は図書館に入った。
「一昨日の図書館とはまた違う雰囲気だねー。学校の図書室っぽい!」中の通路を適当に歩きながら碧が言う。
「うん…」藍もそう思う。小学生以下の利用を促すためか、本棚の高さは藍の胸辺りまでしかないし、室内の配色なども、図書館特有の張りつめた雰囲気が緩むように工夫しているようだ。
「ずっと前からここ来てるの?」
「ううん…去年の十二月から…それまでは学校で借りてたから…」
「あ、そうなんだ。…もしかして、学校の本全部読んじゃったから?」
「全部じゃないけど…読みたい本は全部…」藍の興味の対象範囲は日本の古典と西洋文学のみであったので、学校の図書室の蔵書に対象図書はさほど多くなかったのだが、それでも百冊は下らない。
「マジか…またも藍ちゃんの超人ポイントが明らかに…!」
「え…普通だよ…」
「普通じゃないよ! 一冊も借りたことない人の方が絶対多いよ!」恐らくその通りであろう。
「ということは、あの藍ちゃんセレクションはスーパーぐらいでは足りないね…超ウルトラスーパーセレクションだね!」気持ちは分かるが、却って頭の悪そうな名称になっている。
「でも、私が好き、ってだけだよ…」
「そうだけど、何千冊の中の上位10冊だよ!」碧の脳内にいる藍は司書並みの人物として登録されているらしい。
「そんなに読んでないよ…」
「何百冊でもスゴいよ!」
「……」読んだ本が百冊を越えているのは疑いないから、もう訂正は出来ない。それにしても、多くの本を読んでいるというだけでこんなに激賞されるなど、藍は思ってもみなかった。他の子にとってのマンガやゲームが自分にとっては活字本だったという、ただそれだけのことなのだが。
「藍ちゃんのスゴさが分かったところで、寄り道は終了です!」碧が宣言し、二人は図書館を出た。
碧は自転車を東に向け、一つ目の信号を渡ったところで右に曲がり、すぐ左に曲がった。この信号のある征矢野交差点は大雑把に見ると五叉路なのである。ちなみに征矢野交差点から北上すると、渚駅横の踏切、昨日二人が自転車で渡ったあの踏切に行き当たる。
その先も微妙に曲がりくねる細い道で、鎌田公民館前の道路と同じ程度の幅の道路を一回横切ったが、それ以外は突き当たりまで碧が自転車を止めることは無かった。
突き当たりのその向こうは自衛隊の駐屯地だった。藍はここに来たことが無いが、何となくものものしい雰囲気と、敷地内に置かれている暗緑色の車両でそれと判る。そのすぐ右手には工場のような建物が並んでいるが、これが自衛隊の施設なのかどうかは藍には判じかねた。
そこを碧は左に曲がり、一つ目の信号が赤なのを見て一旦道路を横切り、本屋のようにも和菓子屋のようにも見える構えの店の前を通り過ぎて進む。
少し行ったところで碧は前触れなく歩道から外れて右手の駐車場へと入っていった。その奥は民家があるばかりで、明らかに行き止まりなのにと藍が不思議に思った時、
「うちここなの!」碧が簡潔に種明かしをした。
「あ、そうなんだ…」
「今日は寄らないけど、今度遊びに来てね!」自転車を止めずに歩道へ戻っていく。
「うん…!」無論である。
碧は次の交差点を斜め左に進み、国道に出た。斜向かいの映画館を見て碧は、
「そうそう! 今度映画も見に来よ!」
「うん…!」
次の交差点を右折し、碧の漕ぐ自転車は十分以上道なりに進んだ。線路の下を潜り、橋を渡り、と多少上下動もあったが、碧の脚色は鈍らない。その間、いつもと同じように藍は碧の背中にそっと頬を当てていた。
その橋の頂点辺りに差し掛かった時、
「藍ちゃん、前! スゴいよ!」碧が興奮した声で話しかけてきた。上体を少し反らして見てみると、こんもりとした小山が裾から中腹までびっしりと桜色に覆われているのが見える。間違い無く、あれが弘法山であろう。それにしても見事だ。あんなにきれいに覆われているのは他に見たことが無い。
小山の麓がはっきりと見えるまで近づいた頃、碧は右手の住宅街の方へ曲がった。進行方向に対して左を向いて座っている藍の真正面に小山が在り、しかも二、三軒通り過ぎた隣が畑だったため全く遮るもの無く麓から上までを見渡すことが出来た。小山と今走っている道とは家一軒分の距離しか無い。
碧は快調に進んでいったが、住宅が無くなる辺りから自動車が列を成し、同時に道が急な登り坂になったため、碧はサドルからさっと降りた。すぐに藍も荷台を降り、歩き始める。
「スゴいわ、この坂! 車いなくても登れなさそう!」
「うん…」歩いて登るのも大変そうな坂である。こまくさ道路から城山公園へ向かう坂道よりも厳しいように見える。
急坂が右へ曲がり、道の右側にも小山が見えてきた。登っていく二人から見て左が弘法山で、すぐ右側は墓地だ。その向こうに駐車場、さらにその向こうに便所と思われる建物があり、駐車場の背後から急に山が立ち上がっている。道の左端には桜まつりと大書された幟が並び、その上には企業名の入った提灯が吊り下げられている。
明らかに駐車枠数以上の自動車がとめられた駐車場の端に移動販売のクレープ屋とピザ屋が陣を構え、それぞれが十人ほどの列を抱えていた。
その向こうの建物は近づいてみるとやはり便所で、碧はその前に自転車をとめた。駐輪場が無かったからであるが、このような急坂を自転車で登ろうという者はほとんどいないだろうから、それも当然であろう。
「藍ちゃん、トイレいい?」
「うん…大丈夫…」
「じゃ、行こっか!」
「うん…!」
道路を挟んで便所の反対側に登り口があり、碧を先頭に階段を登り始めた。のも束の間、十段登っただけで碧が立ち止まり、階段の右側に並ぶ桜を見つめだした。
階段の少し向こうから下り斜面になっており、その斜面にも桜が沢山植わっている。この調子で一周ぐるりと桜で埋め尽くされているのだとすれば壮観だろう。
「すごいね! 桜密度は城山より上っぽいね!」碧も藍と同じことを考えていたに違い無い。
「うん…!」
「見ながらゆっくり登ろ!」いつも通り藍の右少し前にいる碧が藍の右手を握ってきた。
「うん…!」二人は上を見上げながら、或いは左右を見下ろしながら、一段ごとに立ち止まってゆっくりと登った。決して広くはない階段だが、幸いにして誰もやって来ず、気を遣うこともなく桜を堪能できた。
階段は僅か十五段、その向こうはなだらかな登り坂になっていた。左右から枝が張り出し、頭上で桜花のトンネルを形成している。その向こうの空は曇り気味だが、時間が早いこともあり、昨日よりも明るい。二人はここもゆっくりと進んだ。舗装されておらず所々木の根が露出している道は藍にとって足元不如意だが、碧が手を繋いでくれているおかげで安心して見上げていられる。
百mにも満たない道を五分ほどもかけて二人は登った。途中、何組かの人達とすれ違ったが、進むのを碧に一任しずっと頭上を見上げていた藍は、全くそちらを見なかった。その先で頭上は開け、緩い坂は急な階段に繋がっている。階段の向こうには空しか見えていないから、登った先が頂上なのだろう。
並んで階段を登ろうとした時、向こうから老夫婦が現れたので、二人は階段の手前で脇に寄って老夫婦が降りるのを待った。
妻の方が少し足を悪くしているらしく、半身になって右足を下ろしてから左足を同じ段に、という方法で一段ずつ慎重に降りてくる。夫はその一段前で後ろを向き、妻の右手をとっている。
「待たせてごめんなさいね」階段の中央辺りに差し掛かった時、妻の方が声を掛けてきた。
「いいえー! ごゆっくり」碧が応じる。藍も俯き加減で小さく「いえ……」と言ったが、碧の声に掻き消されてしまっただろう。こういう時は、はきはきと話す人が少し羨ましく思える。
「ありがとうねえ」二人の前を通り過ぎる時、今度は礼を言われ、
「いいえー!」碧がまた朗らかに応えると同時に、「いえ…」さっきよりも顔を上げ少しだけ声を張る。今度はその声が届いたらしく、老夫人は藍の方を見て軽く会釈した。藍は、自分が見知らぬ人との会話が苦手で、しかし今は少し頑張ってみたことを、夫人が理解してくれた上で、がんばったね、と目で伝えてくれたような気がして嬉しくなった。
そして碧に手を引かれ、藍は階段を登り始めた。
「なんかステキだったね」本人に聞こえると恥ずかしいと思ったか、碧が小声で言う。
「うん…!」
「旦那さん、かっこよかった」
「うん…」夫の方は結局一言も発さなかったが、妻を気遣っているのははっきりと分かったし、自分達のことを快く思ってくれたことも分かった。
「よーし、わたしもあんなかっこいい旦那さんになるぞ!」
碧は不意に階段の途中で立ち止まり、振り返って老夫婦の後ろ姿を見た。
「あ、でもあんな旦那さんに優しくされる奥さんも捨てがたいな!」
「梨乃さんだったらやってくれそう…」外見はとても女らしい梨乃だが、中身はかっこいい人だと藍は思っている。頼もしいという点では碧も同じだが、梨乃はとても大人に見える。実際四つ年上なのだが、単なる年齢の差ではないように感じるのだ。
「うーん、藍ちゃん相手だったら間違いなくやってくれるけど、梨乃さんわたしにはいけずするからなー」一昨夕から昨夕にかけて確立されたその関係を、碧はとても気に入っているようで、今も、字面では嫌そうなことを言っているが、声の調子は全くそんなことはなく寧ろ楽しそうだ。
「困ってたら助けてくれるよ…」
「うん、そうだね!」碧が歩き出し、藍はまた手を引かれた。
藍の期待を裏切って、階段を登りきっても桜はあまり目に入らなかった。階段の終点から向こうが、思ったよりも広い範囲で平たくなっており、それが下に広がっているはずの景色を遮っていたからである。その十五m四方ほどの土地の中央部には、岩が長方形に敷き詰められている。そして、強い風が吹いていた。暖かな陽射しを打ち消して余りある風のせいか、頂上部分にいるのは二組の男女だけだった。
「寒いねー!」碧が藍の方へ寄りながら、握る手に少し力を入れる。その状態で碧は右手に設置された看板の方へ歩いていき、手を繋いでいる藍もそちらへ引っ張られていった。
「わー、すごいねー!」碧が驚きと喜びの入り混じった声をあげ、
「うん…!」藍も同じ感情の籠った声で応えた。
四角い土地の縁に近づいた二人の目に、眼下で咲き誇る桜が入ってきたのである。二人は看板を等閑にして、その景色に見入った。
「これ、ぐるっと咲いてるんだよね!?」
「うん、多分…」登ってくる時左手の斜面にも桜が植わっていたし、自転車の荷台から見えた部分も桜で埋まっていた。
「先まで行ったら見えるかな!?」
「うん…」見えるかどうか分からない、の意で曖昧な調子の返事をしたが、その時にはもう碧が歩き出していた。手を引かれた藍も歩き出す。
前方に進むと、徐々に桜が姿を現し、やはりぐるりと囲まれていることが分かったが、同時に、数m低いところに設けられたもう一つの四角い平地がその全景を遮っていることも分かった。その平地部分とそこから続く斜面では、何組もの人々が歩いたり座ったり、思い思いに景色を楽しんでいる。
「行ってみよ!!」
「うん…!」頂上と下の平地も階段で繋がっているが、こちらの階段は幅が狭く、二人並んでというのはかなり窮屈そうであった。
碧は藍の手を離して先に降りると、藍の方を見上げて待った。藍は少し慌てる気持ちを押さえ、足を滑らせないよう慎重に降りる。下まで降りると碧がまた右手を取り、二人は並んで前方に進んだ。
そこに広がるのは、藍が見たことのない景色だった。目線の高さにあるのは冠雪を戴く北アルプスの連峰と一基の電波塔だけ、目線を下げると足元より少し前方に何百本もの桜、そして桜と山々の間に街が広がっている。
藍は今日まで桜を見下ろすという経験が無かったが、見上げる桜とは全く別物だと思った。
「いい景色だねー!」
「うん…!」
「神様になった気分だね!」
「え…うん…」全く心の端を掠めもしなかった感想に藍は少し面喰らったが、如何にも碧らしいと思い、笑いを含んだ応えになった。だとすると、登山をする人は皆、神様気分になれるのだろうか。
「ちょっと…だいぶ寒いけど!」
「神様はいつでも寒いかな…?」
「いや、神様はこたつに入って見るから寒くないんだよ!」またしても藍の思いもよらぬことを言う。
「え……」随分と日本人的且つ庶民的な神様であることだ。
「でもそのまま寝たら風邪引くな、神様!」
藍は、籠盛り蜜柑が置かれた炬燵で居眠りをする神様を想像し、噴き出してしまった。
「神様気をつけないとね…」
「全くだね! ところで藍ちゃん、せっかくいい景色だし、ちょっと早いけどお昼にしない?」
「うん…!」そのつもりで藍は準備をしてきている。
「よっし! じゃあどこに座ろうかな~。なるべく風が来ないところがいいいね」
「うん…」二人はそこらを歩いてみたが、何分のっぺらぼうな場所のこと、どこも似たような吹き晒しであった。
「どこも一緒だね」
「うん…」
「じゃあ景色のいい方がいいよね!」
「うん…!」
二人は、平地部分の角辺りに陣取ることにした。頂上部から見て左奥に当たる部分である。こちらの平地は頂上部と違い、芝で覆われている。と言うか、桜林より上で芝に覆われていないのは、頂上部と階段、それに一本の獣道だけだ。芝と言ってもまだ半ば枯草色だが。ともかく藍が芝の上に風上から樹脂製の敷物を広げ、そこに碧が座って押さえた。
藍も碧の左側に座って背嚢から毛布を取り出した。
「わ、藍ちゃん用意いい! 梨乃さんみたい!」藍にとっては最大級の賛辞に頬を赤らめながら毛布の端を碧に渡し、風に持っていかれそうなもう片方の端を自分の左脚の下に挿し込む。碧も素早く同じようにした。ごく薄い毛布だが、一畳近くある大きなもので、二人の脚をほぼ完全に覆っており、自分の脚に触れる碧の脚の温もりがより増幅されて感じられる。それを心地好く感じながら藍は弁当箱を取り出した。今日も、碧には三段組、自分には子供用の弁当箱を用意している。
「待ってました!」見ていなくても、隣で目を輝かせているのが分かる声だ。自分の作るご飯をそんなに気に入ってもらえて藍は嬉しい。
「どうぞ…」弁当袋を渡すと、碧はいそいそと弁当箱を取り出した。
「あ、袋…もらいます…」藍が差し出した右手に、
「ありがとう!」弁当袋が載せられ、藍は袋を仕舞って水筒と自分の弁当箱を取り出した。軽くなった背嚢がこれも風に飛ばされそうになり、藍は慌てて掴んで背負った。
「お待たせしました…」藍の気持ちとしては先に食べ始めて欲しいのだが、そう言っても碧は譲らないだろうということがこの一週間で分かっているし、立場が逆ならば藍だってそうする。しかも、碧の方が圧倒的に食べるのが速いから、相手を待たせるのとどちらがいいか、などと悩む必要も無い。そんな訳で、黙って碧を待たせその代わりに作業を急ぐ、と藍は決めている。
「いただきます!」碧がパチンと手を合わせ、
「頂きます…」藍は、音を立てず碧に倣った。
「うひょー! 今日も豪華!」弁当箱の蓋を開けた碧が歓びの声をあげる。今日の献立は豚の生姜焼き、鰤の塩焼き、ほうれん草ベーコン炒め、野菜炒め、明太子スパゲティ、煮豆、小さなエビフライ、野沢菜、それにいつもの玉子焼き。一つ一つはさほど見栄えのするものではないが、九品も並んでいれば賑やかに見えるものである。
「しかも全部手作り!?」
「野沢菜以外…でもエビフライはお母さんが作ったの…まだ揚げ物が出来ないから…」藍はまだ揚げ物に挑戦したことが無い。
「いやいやスゴいよ!! まさか全部朝作ったの?」
「煮豆は昨日…」
「それでも六品…! さすがわたしの奥さん!」
「今日は朝時間があったから…」それは事実である。今朝碧が来たのは午前九時、先週平日に藍が家を出たのは七時二十分から二十五分の間であるから、倍以上も時間が有ったのだ。その時間をたっぷり使って藍は弁当を拵えた。
「しかもバッチリおいしいし!」
「……」誉められて嬉しいのはもちろんであるが、碧の口に合ったようでほっとしたという気持ちの方が強い。豚の生姜焼きは今日初めて弁当に投入したのだ。毎日九品を全て自分の手作りにするというのが当面最大の目標で、先はまだ長いかも知れないが、それに向かって一歩前進したと言えるだろう。
いつものように、碧は話しながらもぱくぱく食べている。そして藍もいつものように、自分がまだ何も口にしていないことに気付き、慌てて食べ始めた。
十分ほど後、碧が食べ終わって弁当箱の蓋を閉じた。藍はまだ二割程を残している。
「いただきました! 藍ちゃん、お茶もらっていい?」
「あ…!」なるべく碧を待たせないようにという方向に集中し過ぎて、藍は水筒の存在をすっかり忘れていた。
「あ、いいよいいよ」また慌てる藍を制し、
「ちょっと失礼」藍の弁当の上を通して腕を伸ばし、水筒を取った。外蓋と中蓋を自分の腿に置き、外蓋に茶を注ぎながら、
「藍ちゃんは?」
「あ、頂きます…」
「はーい!」滑らかな動きで注ぐ器を変え、茶を入れ終わっても中蓋は腿の上に置いたままにして水筒の栓を締めた。
「ありがとう…」藍はその中蓋を取り、一口飲んで左脇に置いた。
「それわたしの方! 今日もゴハン作ってもらっちゃって! おいしかった!」人間誰でも美味いものを食べると気分が盛り上がるものだが、碧は人一倍その傾向が強いと見受けられる。
「そう…よかった…」誉められたのが恥ずかしくて、元々小さな声が一段と小さくなった。もちろん、肩が触れ合わんばかりの距離に居る碧には届いている。
「藍ちゃん毎日夕飯も作るの?」
「一つか二つだけ…お母さんがほとんど作るから…」
「やっぱり毎日か! スゴいな…ほかにも家事するの? 掃除とか」
「掃除は…自分の部屋だけ…」
「お、そこはわたしと同じか! よかった~。ほかには?」
「えっと、洗い物と…お風呂沸かすのと…たまに洗濯物畳むくらい…」
「藍ちゃんスゴいわ…それだけ家事やって勉強やって本も読むんでしょ?」
「え、うん…でも、私帰宅部だから…」帰宅部を称しつつ実態は道草部という者の方が多い中で、藍は先週の木曜まで実に模範的な帰宅部であった。これからは碧の部活動が終わるまで学校で勉強し、そこからは帰宅部というつもりでいる。
「いやー、わたしだったら帰宅部でもガマンできないわ~、家事」男女を問わずほとんどの高校生はこのようなものであろう。
「え…と、料理は好きでやってるから…」これも謙遜でなく事実である。藍にとって料理は読書に次ぐ趣味なのだ。自分の作ったものを喜んで食べてもらえた時の喜びが最上位だが、自分の腕前が僅かずつでも向上していく実感と、研究して自分の思った通りの味に仕上がった時の達成感も料理の大きな魅力である。
「やっぱり好きなんだー! じゃないとこんなにおいしくできないよね!」
「……」何をどう言っても誉められてしまうので、藍は反論の言葉を失ってしまい、会話の間放置してしまった弁当に再び手をつけた。碧は暫く黙って藍が食べるのを待った。
「ところで話変わるんだけど!」藍が茶を飲み干したのを見て碧が話を再開した。
「うん…」
「いいね! ここの景色!」
「うん…!」本当に素晴らしい景観だ。眼下に、自分達をぐるりと取り囲むように桜が並んでいるのだが、「眼下に」というところが特筆すべき箇所なのである。藍にとって初めての経験であるが、彼女に限らず、日本人の半分以上は桜を見下ろしたことが無いのではないだろうか。見上げる桜に比べれば正直風情は薄いし、その奥に広がる街並みは多分どこにでも在る住宅街だが、それが却って何とも言えない心地好さを生んでいるのである。
「色の薄いのはソメイヨシノだよね? 濃いピンクは何かな?」
「…多分、山桜だと思うけど…」一口に山桜と言っても種類は一種類ではない。その一つ一つの名称までは、藍の知るところではなかった。
「せっかくだから、見に行ってみよ!」
「うん…!」
「あ、藍ちゃんそのまま。弁当袋出すから」
「あ、うん…」碧が取り出しやすいようにと少し尻をずらして背を向ける。
「ありがと!」
「え…ううん…」藍はこんな些細なことに礼を言われて少し恥ずかしく感じながら箸を箸箱に仕舞った。碧がすぐ手渡してくるのが分かっているので、少し慌てながら。
「はい!」予測通り、箸箱の蓋を閉じた途端声が掛かり、背後から弁当袋が差し出された。
「ありがとう…」
「うん」
藍が弁当箱を袋に入れる間に、碧は背嚢に仕舞うところまで終え、藍の弁当箱を受け取ってそれも仕舞った。
次に水筒の蓋を両手に持って振り、水滴を払ってから蓋を締める。藍はその間に毛布を畳み、碧に渡した。
水筒と毛布も背嚢に収納し敷物を残すのみとなったので、脱いでいた靴を履こうと尻を浮かせた時、一際強い風が吹き、敷物がはためいた。
「うわっ、風スゴっ! 藍ちゃん、そのまま座ってて~」
「うん…」下手に動くと敷物が飛ばされるかも知れない。ここは自分が座って押さえ、碧が掴むのがよかろう。
「藍ちゃん、いいよ!」背後から碧の声が掛かり、藍は立ち上がった。敷物が浮き上がるが、碧がしっかり端を掴んでいる。藍はそれと反対側の端に置いた靴を取り、敷物の外に置き直してとりあえず両足を入れた。自分が靴を履く間に碧が敷物を畳んでくれるに違い無いからである。
そしてまたも藍の想定通り、左足を履き終え右足に取り掛かるとすぐ、
「ちょっと失礼」碧が背嚢を開いて敷物を仕舞ったようだった。
藍が靴を履き終わり、
「お待たせしました……」と言って振り向くと、何故か碧は毛布を手にしていた。
「藍ちゃん、ちょっとそのまま」
「うん…、…?」訳が分からず言われた通りに立っていると、頭から毛布を被された。と思ったが、いつの間にか毛布の端と端を何かで留めて大きな輪にしてあり、頭が穴から出た。内側から留めてあるので見えないが、硬い感触の物である。
風に煽られる毛布の裾を掴んだまま、碧は藍の右側にしゃがむと下から毛布の中に潜り込んできて、藍と同じように頭を出した。即ち毛布は藍の左肩と碧の右肩に掛かっているのだが、留め具が碧側にあるため、碧の右腕は毛布から出ており藍の方はほとんど自由がないという状態である。しかし藍にとってはこの不自由さが心地好い。
「準備完了!」碧が藍の手を握って言い、
「碧ちゃん、安全ピン持ってきてたの…?」だとしたらものすごい偶然か読みである。
「ううん、安全ピンじゃなくてクリップ! 前使ったのがたまたまポシェットに残ってました!」ものすごい偶然だった。
「あ、そうなんだ…」しかしそれをこのように使おうという発想は、自分には湧いてこないだろう。藍は感心する。
「うん! 行こ!」
「うん…!」
強風に毛布をはためかせながら、二人は急な斜面の芝生を木立の方へと下った。
遠目には白茶けた枯草色だったが、今はその下から新緑が覗いているのが見て取れる。連休には鮮やかな萌黄色に変わっているだろう。
「ね、ここ今日も桜できれいだけど、芝生が緑色になったらいいだろうね!」碧も藍と同じところを見ていたようだ。碧と居るとこういうことがよく起こり、その度藍は嬉しくなる。
「うん…!」
「実はその状態映画で観たんだけど、実際見たらもっとよさそう!」
「orange…?」
「うん! 一番最後にみんなでここに来るの」みんな、というのが誰なのか藍には分からないが、主要な登場人物のことなのだろう。
「あー! この感じを藍ちゃんと共有したい!」
「うん…」何のことかは分からないが藍も共有したい。
「あの…碧ちゃん原作持ってる…?」
「! 持ってる持ってる! 帰りにうち寄って取ってくるよ!」
「うん…! ありがとう…!」
とorangeで盛り上がっている間に木立の中に入っていた。足元を見てみると、かなりの花びらが散っており、既に散り初めを過ぎてしまったことが分かったが、頭上に目を移せばまだまだ多くの花が曇り空を遮っていて、そのせいで木立の中はかなり薄暗く感じられる。夕方だったら、碧は怖がって入ろうとしなかったかも知れない。
「なんかけっこういろんな木が植わってるんだね」
「うん…」上から見ていた時はソメイヨシノともう一種類、であるかに思われたが、近くに寄ってみると何種類もあるのが分かった。
「全然種類分かんないけど!」
「うん…」
「ここちょっと風が弱くていいね!」
「うん…」下ってきたせいか木立のせいか、毛布を捲り上げんとしていた風が、ここではほとんど感じられない。
さらに少し下ったところの斜度が緩くなっているのを見て、碧はまた藍の手を引いた。急勾配な上に階段になっていない獣道を半ば滑るように下る。二、三十m下りる間に藍は四度転びそうになり、それは碧が支えてくれたので問題無かったのだが、一度その碧が足を滑らせた時にはヒヤリとした。碧が転びそうになっても自分では支えきれず、共倒れになるのは目に見えている。
そうした大冒険の後、少し先に民家と畑、その向こうに舗装路が見えてきた。
「あれってさっき通ってきたところだよね!」その民家の方を碧が指差す。
「うん…」方角はよく判らなくなっていたのだが、道向こうに見える店舗の看板に見覚えがある。
道は右斜めに向きを変えて民家のすぐ手前まで下り、そこからまた左に向きを変え民家に沿って続いている。左に向きを変える地点は弘法山の敷地の角で、柵の向こうは中央線のある幹線道路だ。
「よし! こっちは大体分かったね! 次はあっちが気になる!」右の方を指差す。山自体に遮られて、そちらの方にどのような景色が広がっているのか全く分からない。
「上に、向こうの方に行く道あったよね…」弁当を広げた所から数m下で、道が枝分かれしていた。一方は今二人が居る木立へと向かい、一方は山を右回りに巻くように延びていたが、見えているのは最初の十数mだけでその先どうなっているのかは分からなかった。
「そうだね! 行ってもいい!?」
「うん…」碧の探検心がどこから来るものなのか藍には全く理解出来ないが、碧との哨遥は望むところである。
下ってきた道を登り、木立を抜けるとまた強い風が二人を待ち構えていた。煽られた毛布がバタバタと音を立て、
「おふっ!」碧が小さく叫んで立ち止まった。藍の髪が碧の顔面を叩いたのだ。こちらも風の仕業である。
「あ、ごめんなさい…」
「え、ううん、仕方ないよ! ビックリしたけど! …さっきも言ったけど、藍ちゃんが髪の毛くくってるところ見たことないね」
「うん…ほとんど縛ったことないよ…」
「ほとんどと言うと?」
「え…と…水泳の時とか…」中学時代の授業である。長髪の者は結った上で帽子着用と決められていた。
「あー。でももったいなーい! この髪ならいろんな髪型できるのに!」
「……」藍はおしゃれをしたくないので、髪型を変えるなどということは考えたことも無かったし、これからも試したくなどないのだが、
「ね、やってみよ!」やはりそう言われた。
「え…でもゴムないよ…」一応ささやかに抵抗してはみる。が、
「帰りに百均寄ってこ!」即座に撃破され、
「え…うん…」やはりこうなった。
「やったー! た、の、し、み!」本当に楽しそうに言って碧は歩みを再開させた。
急斜面に二度足を滑らせ、都度碧に支えられながら、藍は分かれ道まで戻った。この位置では桜がちょうど目線くらいの高さにあり、目を楽しませてくれると同時にその向こうの景色を隠している。
そこから中腹を少し進むと、麓の様子が分かってきた。弘法山のすぐ傍を小川が流れており、その川に沿って道路、道路に沿って民家、その向こうに田畑がある。
「ね、あれってアルプス公園の塔かな?」
「えーと…」比較的近くを見ていた藍には、碧の言う対象がどれなのか分からない。
「あの山の上、塔が立ってるじゃない?」碧の指差す方向を辿ってみると、確かに塔らしき影が見える。今日は春らしく薄い霞がかかっており、城山公園やアルプス公園を擁する高台も、ここから数㎞しか離れていないにも関わらず、その輪郭は明瞭でない。
「う…ん…そうだと思う…」かなり曖昧にしか見えないが、下から見上げたあの形状のような気がする。
「なんかおもしろいね! 昨日はあっちに行ってたんだよね!」
「うん…」巧く言えないが何か不思議な気分である。
「天体望遠鏡とか使ったら向こうの人が誰か分かるのかな!?」
「多分…」碧の言う天体望遠鏡の規模が分からないが、天文台にあるような大口径のものなら確実に判別できるだろう。もしかしたら黒子まで見えるかも知れない。
「やってみたいね!」
「……?」ここに望遠鏡を持ってきてアルプス公園を見るということだろうか。
「こっちと向こうに望遠鏡置いて、スケッチブックに字書いて話するの! 下らな面白くない!?」
「え…うん…」本当に下らないが、もしそれで会話が出来たら達成感は有りそうだ。
「藍ちゃん望遠鏡持ってる?」
「ううん…」
「そっかー。残念!」
「碧ちゃん持ってるの…?」
「お兄ちゃんが持ってるから借りようかと」
「あ、そうなんだ…」
「梨乃さん持ってそうだから相談してみよっと!」碧はこの下らない企画を本気で実現させるつもりらしい。自分としては、遠くの碧と会話するより一緒にいる方がいいのだが。
「あ、でもほかにもメンバーがいるな…」
「え…?」親しくなっていない人と同席するのは極力避けたい。
「だって、藍ちゃんと一緒にやりたいから、向こう側に誰かいるじゃない? 梨乃さんがいても一緒がいいし」
「……」実に勝手な言い分だが、碧が同じように思ってくれていることが分かって藍は嬉しい。
「と言っても当面アテはないしなー。とりあえず今は棚上げかな」あっさり頓挫した計画に、藍はほっとしたようながっかりしたような感じを覚えた。
「こっちもきれいに咲いてるねー!」視線を落として碧が話題を変えた。
「うん…!」今二人が居るのは山の北東斜面だ。紫がかった濃いピンクの桜が咲き乱れ、十組ほどの親子がその下で弁当を広げている。
二人はそれを見ながら獣道を進む。三十mも進むと木立の中に入り、道が枝分かれしていた。碧は迷わず右へ向かう道を選び、少し進むと山頂へ向かう階段の近くに出た。
「もう一回見よ!」
「うん…!」
頂上部ではやはり強風が吹き渡っていた。心持ち身を寄せ合って、二人は左前方の角部から街を眺めた。
「あれ自衛隊だから、うちあの辺! 藍ちゃん家は…」
「えーと…」目印になるとすれば上高地線の線路や駅だが、建物に遮られているらしく、どこを走っているのかよく分からない。
「見えない?」
「うん…よく分からなくて…」
「そっかー」残念そうな顔で言い、
「今度望遠鏡持ってきて探してみよ!」倒れたかに思われた企画は踏みとどまったようだった。
「うん…」応えながら、天体望遠鏡はなかなかの大荷物だろうな、と藍は思った。
「はー、堪能したー! 藍ちゃんは?」
「うん…私も…」
「じゃ、戻りますか」
「うん…」二人は後ろを向いた。二人三脚のような状態であるので、二人まとまって向きを変えなければならないのだが、今、藍は平地部分の角にいるので動きが取れない。なので、藍を軸に九十度ほど弧を描いて後退し、さらに碧を軸に六十度ほど前進してから、二人揃って歩き出した。
「今の運動会の行進みたいだったね!」
「うん…」
「わたし達息ピッタリだったね!」
「うん…!」一言も交わしていないのに、我ながらよく揃ったと思う。
「あ、あれ見たい」反対の角にある卓状のものの方を向いて碧が言う。何人もの人がこの頂上部分にやって来ているが、誰も顧みない。
「うん…」行ってみるとそれは、弘法山について解説するものだった。
「え! ここ古墳だったんだ!?」
「うん…」藍も同じ驚きを感じている。しかしそう言われてみれば、頂上とその一段下の平地は平た過ぎるし、四角も形が整い過ぎている。
「しかもそこに埋まってたんだ!?」解説によると、被葬者は頂上中央部の真下に埋葬されていたとのことで、敷かれた石がその場所を示している。
「うん…」
「あー、でも何か分かるわー。ここ見晴らしいいもんねー」松本平をほぼ全て望むことが出来る場所だ。この辺りを支配していた人物を葬るには最適と言えよう。
「うん…」
「昔の人が桜植えたのかな?」
「違うと思うよ…ソメイヨシノができたの江戸時代だから…」
「あ、そうなの?」
「うん…染井村の人が品種改良して作ったからソメイヨシノなんだって…」
「ヨシノは何で?」
「最初、吉野桜って名前で売ってたんだって…吉野って桜の名所だから、あやかって…」染井吉野と名が変えられたのは明治に入ってからだと言う。
「へー。藍ちゃん物知りー! 梨乃さんみたい!」今日二度目の過分な評価に藍は頬を赤らめた。
「じゃあけっこう最近なのかな? 誰か知らないけど感謝!」
「うん…」藍は感心した。自分は、桜が植わっていてもそういうものだで終わってそれ以上考えなかったが、碧は植えた人に思いを致して感謝している。自分もそういう風にありたいと思った。
「行こっか」
「うん…」少し名残惜しい気がしたが藍はそう応え、二人は並んで階段を降りた。
階段の下は頂上より風が穏やかで、どこからともなくお囃子が聞こえていた。どういう曲なのか藍には分からないが、笛と太鼓で、如何にも和風な印象を受ける。
「どこからかな?」碧が訝しげに言う。
「さあ…」近くに神社でもあって神事が執り行われているのだろうか。上から見えた範囲には無かったように思うが。
少し進むと謎はすぐに解けた。左手の木立の間に仮設の舞台が作られ、四人の二十歳前後かと思われる女が笛を吹き、一人の中年男が小太鼓を叩いていたのである。舞台の前には十人ほどの聴衆が地面に座ってそれを聴いている。
「これかあ」碧が立ち止まり、二人はその曲が終わるまで道端でそれを聴いた。
曲が終わると聴衆がお座なりではない拍手をし、太鼓の男が綺麗に剃り上げた頭を下げた。碧が藍の手を離して拍手し、藍も少し遅れてそうした。
「ありがとうございます。皆様、お花見をお楽しみ下さい。一時間ほど経ちましたらまた演奏いたしますので、お聴き頂ければ幸いでございます」
短い口上の後太鼓の男がもう一度頭を下げ、笛の女達も倣った。聴衆から短い拍手が起こり、演奏家達は舞台を降りた。
「音楽あると盛り上がるね!」言いながら碧が藍の手を探り、
「うん…和楽器のクラブの人たちかな…?」手を繋いで二人は歩き出す。
「ね。看板とか全然なかったから、公式じゃないのかな」舞台の端に桜まつりの幟が立っているだけで、演奏者を紹介する表示は無かった。
「うん…」
「けっこう上手だったよね! よく分かんないけど!」
「うん…」藍にもよく分からないが、少なくとも音が外れたようには感じなかった。
「楽器弾ける人ってちょっと憧れるー」
「うん…」ごくたまに、藍にもそう思うことがある。今のように、楽しそうに弾いているのを見る時がその一つだ。
「藍ちゃんも? 弾けるとしたら楽器何がいい?」
「え…と…ピアノかな…」クラシック音楽を愛聴する藍は、中でもピアノの音色を特に愛している。
「あー、似合いそう! でもハープはもっと似合いそう!」
「え…ハープ…?」
「うん! ゆるふわの白いワンピース着てー、草原でー。絶対絵になるー!」
「……」碧が思い浮かべている絵面は容易に想像できるが、それが自分に似合うとは到底思えない。そういうのはもっと大人と言うか優美な人でなければ似合わない。
「あ、でも眼鏡ははずした方がいいね!」
「え…うん…」確かに、自分の想像内ハープ奏者も眼鏡を掛けていなかった。
「うわー、やってみたい!」
「え…!?」髪型を変えるだけでも抵抗が有るというのに、服まで変えられ、さらに眼鏡を外すなど、恥ずかしくて絶対にしたくない。
「けどハープは調達できなさそう! 白ワンピもないし!」藍の気持ちを汲んだ訳ではないだろうが、あっさりと碧は諦めた。実際、ハープを持っている人はそうは居ないし、その次には草原まで持って行く移動手段にも困る。
「藍ちゃん、ハープの音って聞いたことある?」
「テレビだったら…オーケストラで…」
「えー! どんな音なんだろ!?」
「え…と…」
「あ、ゴメンゴメン。そんなの説明できないよね」
「うん…」口で音真似出来る人は居るだろうが、言葉で説明して理解してもらうなど不可能に等しい神業だ。
「聞いてみたいなー! その人女の人だった?」
「うん…」独奏部分があり、その時の映像を朧げながら覚えている。
「ゆるふわだった!?」
「あんまり覚えてないけど、フレアのロングスカートだったと思う…」
「おー! 色は!?」
「クリーム色だったかな…」
「やっぱりそういう服なんだ!?」
「うん…腕が出てる服で…」
「ますますイメージ通り! プロの人もイメージ大事なのかな!」
「うん…そうだね…」大雑把に言えば客に楽しんでもらうのが仕事だから、印象は重要な要素だろう。
「腕きれいじゃないと厳しいね!」
「うん…綺麗だったけど…」
「ど?」
「筋肉質だったよ…」絃を弾く時に二の腕の筋肉が盛り上がっていたのを思い出した。
「え、そうなの!?」
「うん…それに、脚開いてたよ…」
「うわー、それは絵的にはビミョーだねー。でもそりゃそうだよね」
「……?」
「あんな大っきい楽器の音出すんだから、けっこうスゴい力で絃弾いてるんだよね? 脚開かないと力入らないだろうし」
「あ、そっか…」藍はそんなことを考えたことも無かったが、無理も無い。藍が弾いたことのあるのは、幼い頃に買ってもらったおもちゃのピアノとラッパ、音楽の授業で使用された縦笛とハーモニカだけなのである。
「むーん、となるとわたしのイメージは変更を迫られるな」碧の言葉に、藍もその姿を想像した。清楚と優美はそのままに、手弱女の腕を二回りほど太く。数秒の沈黙の後、
「変更の結果、藍ちゃんに似合うのはピアノになりました!」確かに、筋肉質から遠く離れたところに藍は居るし、素人レベルでいいならピアノの方がより力を必要としない。
「……」
「ね、わたしは!? 何が似合うと思う!?」
「え…と、ギターかな…」
「え、そう!? なんでなんで!?」碧にとっては意外な回答だったのだろうか。
「えーと、まず持ち歩ける楽器で…」なぜと問われても難しいが、藍はイメージを分析してみた。
「うんうん」
「指で弾く絃楽器…」
「へー! わたしそういうイメージなんだあ! うん、いいね、ギター! やってみよっかな! じゃあ、ついでに梨乃さんは?」
「えっと…」
「あ、ちょっと待って! 一緒に言お! せーの!」
「ヴァイオリン!」「バイオリン…」
「おー! 一緒だね! なんかそんな気がしてたけど!」
「うん…!」
「ディナーショウで弾きながら客席とか回りそう!」
「うん…」またしても藍の想像力の彼方にある言葉が放たれたが、妙にしっくり来て藍はくすりと笑った。
「でも実際、弾けるかも知れないね、梨乃さんだったら」
「うん…」訊いてみたら、弾けるよ、とあっさり答えそうな気がする。
「ピアノは絶対弾けるな!」
「うん…」碧も根拠無しに言ってそうだが、根拠が無くてもそう思わせる何かが梨乃には具わっている。
「右足で水戸黄門弾きながら左足で銭形平治弾けそう!」
「それは…梨乃さんでも…」とは言ったが、藍にはみとこうもんもぜにがたへいじも何のことか分からない。
「後で聞いてみよ!」
「え…うん…」
かなりゆっくりと歩いてきた二人だったが、楽器の話題で盛り上がる間に登り口まで下りてきていた。
「うわー、スゴい並んでるね!」二人がやって来た坂道に連なる車列を見て碧が言う。
「うん…」
「帰りは気持ちよく下りたかったんだけどなー!」
「…反対側から回って行けないかな…?」左回りに弘法山を巻いて下れるのではないかと藍は思うが、そちらの方は頂上からも様子がよく分からなかった。
「おー、そうだね! この道がどこに行くかだね」道は二人が来た方からまっすぐ延びているように見えるが、ちょうど今居る辺りが峠らしく、緩やかな下り坂のその先がどうなっているのか分からない。
「あ、地図あるよ…」藍は、登り口の脇に木製の大きな案内図があるのを見つけた。
「ホント? どれどれ? 『しののめのみち』…」案内図の題名を碧が読み、
「しののめって何だろ?」
「多分東の雲って書いてしののめで…朝焼けで東の空が赤くなることだったと思うよ…」
「へー! 藍ちゃんまた梨乃さんみたい! この辺が東の端っこだからかな?」弘法山は松本平の東端近くに位置しており、背後には山並みが聳えている。
「多分…」
「うーん、縮尺がよく分からないけど…けっこう広域かな? この地図」
「うん…そうだね…」JRの駅がいくつも入っているから、広域の地図であろう。
「こっちのは…」右隣に立っている看板の方へ移動する。そちらは弘法山付近の案内図であったが、
「むーん、ここがつながってるかどうかが知りたいのにー!」
「うん…」周囲の道も表示されてはいるのだが、弘法山内部の道との接続が示されているのみで、今居る道と弘法山の向こう側の道との接続は分からなかった。
「つながってると信じて行ってみますか」
「うん…」藍としては、最初から碧の決定に従うつもりである。
二人は自転車まで行くと、毛布を脱いで畳み、藍の背嚢に仕舞った。
「わたし、トイレ行ってくるね!」
「あ、私も…」
「と、その前に毛布たたまないと」
「あ、そうだね…」
碧はしゃがんで毛布から出ると、
「ちょっとそのまま!」と言って毛布を持ち上げ、藍の肩から外し、裏返した。毛布を留めていた事務用クリップが現れる。クリップ本体よりも長い把手の付いた、厚い書類を挟むのに使用される黒いクリップである。それを見て藍はなるほどこのクリップのことだったかと合点がいった。
「藍ちゃん、反対持ってー」
「うん…」
二人で毛布を畳み、碧が背嚢に仕舞うと、二人は便所に入った。狭い便所だったが幸い誰もおらず、待つこと無く用を足すことが出来た。
「よーし、じゃあしゅっぱーつ!」出てきた二人は自転車に乗り、いつもの体勢をとる。すぐに碧が漕ぎ出した。
下りが緩やかだったのは最初の数十mだけで、二人を乗せた自転車はそこから急加速していった。道は僅かだが右に左に曲がっていき、碧はいつものように車体を倒さずハンドル捌きだけで対応した。一週間で二人乗りにかなり慣れ、余裕が出てきたと思っていた藍だったが、碧の腰に回す腕に力が入る。
長く思えたその時間の後、前方に赤信号が現れ、自転車は停止した。
信号が青になって碧が漕ぎだし、角を左へ曲がる。そこから二、三百mほど行った地点で、
「藍ちゃん、ビンゴだった!」碧が嬉しそうに言った。身を乗り出して見てみると、弘法山の頂上から見えていた小川が信号の向こうに横たわり、その川を橋が跨いでいる。川の向こう岸は臨時駐車場になっており、何台もの自動車が犇めいている。
「うん…!」弘法山を巻くようにして元来た道に戻れるのは確実だ。
「こっちもいい眺めだね!」
「うん!」今、橋を渡った自転車は左に曲がって川沿いの道に入り、左手に弘法山を見ながら進んでいる。ずらりと並んだ自動車以外に視界を遮るものは無く、満開を過ぎたとは思えない桜に一面覆われた小山が藍の目の前をゆっくりと通り過ぎて行く。
本当にゆっくりだ。ふらつかないぎりぎりの遅さで漕いでいるのだろう。たっぷり二分以上花模様を楽しんで、自転車はまた左へ曲がり、小川を渡り直した。
「これ来た時の道だよね」
「うん…」
「じゃ、名残惜しいけど帰ります!」
「うん…」藍も名残惜しい。
弘法山を通り過ぎ、恐らく碧は加速したかっただろうが、こちら側の歩道には歩行者がちらほらと居り、少し先で橋に差し掛かるまでそれは出来なかった。
橋の頂点を過ぎると碧は気持ちよく加速し、運良く信号にも捕まらず国道十九号まで一気に走った。映画館や昨日二人が寄ったツルヤのある複合商業施設の前を走る通りである。
その国道の向こうに、百円均一の店が見える。弘法山での会話から、碧がそこを目指していると藍は推測しているが、自信は無い。ついさっき、同系列の店が道のすぐ脇にあったにも関わらず素通りしてきたからである。藍としては、ここも素通りしてくれると有り難いが、それならば左へ曲がって、赤信号の間に少しでも相生邸に近づこうとするだろう。
などと小さな事で気を揉んでいるうちに信号が変わって自転車は前方へと滑りだし、結局その店の前で止まった。
「行こ、藍ちゃん!」気を揉むのに忙しかったせいで停止しても荷台に腰を据えたままの藍に碧が声を掛け、
「あ…うん…」我に帰った藍は慌てて荷台から降りた。自転車のスタンドを立て鍵を掛けた碧に手を取られ、気は進まないが碧の半歩後を歩く。碧には目的の品物がどこにあるか分かっているようで、迷う素振り無く店の中央辺り、髪を括るゴムの陳列棚の前まで行った。
「さ、て、とー。どれがいいかなー」自分のことのように碧は楽しげだ。
「やっぱり青がいいよね?」
「え、うん…」
「ほかには?」
「え…と、黒か茶色…」目立たないのはこのあたりの色だろう、と藍は考えた。もちろん飾りの無いものを想定しているのだが、
「これはどうかな?」碧が手に取って差し出してきたのは、大きな蝶形リボンの付いた輪ゴムであった。
「え…あの、飾りが付いてるのは、ちょっと…」
「えー!? せっかくだからかわいいやつにしようよ!」
「え…でも…」なおも渋ろうとしたが、
「かわいいやつ藍ちゃんとおそろいでつけたいー!」碧が駄々っ子のようになったのと、お揃いという言葉に負け、
「もっと…小さいのなら…」あっさり譲歩した。
「うん!」碧はニカっと笑って、
「じゃあこれかな!」同じ形状で半分ほどの大きさの物を取った。こちらは一袋に三つ入っている。
「どう?」
「うん…」
「よし! 私は当然これ!」隣に陳列されている水色の色違い品をつまむ。これで終了と藍は思ったが、碧はまだ何か探している様子である。数秒後、
「…梨乃さんカラーないね…」がっかりした声で碧が言った。
「あ…」なるほど、三人でお揃いにして、ささやかだが梨乃の誕生祝いに足そうというつもりか。しかし碧の言う通り、青は無いようだ。
「……うん…」
「となると…うーん…」碧はどうあっても三人揃えるつもりのようだが、藍もそれには賛成である。
「あの…」
「お! 名案出た!?」
「梨乃さんに一つずつ渡すのは…?」
「! なるほど! いいね!! 三方一両損的名お裁きだよ~」かなり違うが、三方丸く収まるという点ではその通りとも言える。それにしても、相生家では時代劇も好まれるのであろうか。
「三方一両損…?」藍は聞いたことが無い。有名な話だが、藍の読む古典の範囲には入っていなかったのである。
「大岡越前の逸話なんだけど、わたし話がうまくないからなー。後で梨乃さんに話してもらお!」梨乃が何でも知っている前提である。
「うん…」おおおかえちぜんも、藍には人物の名だろうということしか分からなかった。
「何にせよこれ買っていこ!」
「うん…!」
「あ、なんかかわいい袋もほしいね」
「あ、そうだね…」
売場を奥へと進み、紙袋や包みの棚の前で立ち止まるや否や、
「これどうかな?」碧が五㎝×十㎝ほどの小さな袋を取り上げて藍に差し出した。樹脂製だがぱっと見では和紙のように見えるもので、青地に白や黒や茶色の馬が描かれている。
「うん…!」実に梨乃にぴったりだと藍も思う。
「では満場一致で可決されました! えーと、後はケーキの箱…はこっちだったような…」自信無さそうな言葉とは裏腹に、碧はシャキシャキと歩き、二つ先の島で、
「ビンゴ!」指を鳴らした。
「藍ちゃん、わたし絶対これがいいと思う!」碧が取ったのは、ケーキの絵が描かれた白い箱だった。
「うん…面白いね…」描かれているのはホールの苺ショートケーキらしいのだが、箱の六面それぞれが、その方から見た絵なのである。チョコレート板と果物を描き足せば、今日のレアチーズケーキの完成形とほぼ同じになるはずだ。
「これでいい?」
「うん…!」
二人は会計に向かい、列に並んだ。列と言っても前に居るのは一組だけであるが。
「あっ! トッポあるよ!」会計横の棚にあるのを目敏く見つけた碧が一箱取る。少しして前の客が会計を終え、碧が支払いを済ませた。そのまま出口に向かおうとする碧に、
「碧ちゃん、お金…」
「え、いいよいいよ、わたしが無理に誘ったんだし、これから藍ちゃんをいじって楽しむんだし」随分正直と言うかぶっちゃけ過ぎた言い方であるにも関わらず、藍は嫌な気はしなかった。が、
「でも梨乃さんの分があるし、お揃いにするんだったら…」負担も等分に、ということである。生真面目故に出た発想であるが、これが存外に効いたらしく、
「…うーん、じゃあそうしようかな…」とここは碧が折れた。
「うん…!」
何となく清々しい気分で藍は店を出た。つい今しがたまではこれからおしゃれをするのかという重い気分が、いじって楽しむという碧の言葉で雲散霧消していた。気の持ちよう一つでこんなに変わるとは、人間とは面白いものだ。
二人はまた車上の人となり、来た道を逆に辿っていった。青井邸の逆方向へ向かっているのは、orangeを取りに行ってくれるつもりなのだろう。
その推測通り碧は相生邸前で自転車を止め、
「ちょっと待ってて~!」と言い残して家に駆け込み、三分も経たないうちに駆け戻ってきた。手には小さな紙袋を提げている。
「お待たせ~!」紙袋が前籠に入れられ、自転車はまた走り出した。
住宅街の狭い道を進んで赤信号で止まった時、
「この道まっすぐでいいんだよね?」碧が訊いてきた。征矢野の交差点で、左に向かうと図書館。往路はそちらから来たのである。
「うん…まっすぐ行くと踏切に出るから…」
「りょーかい!」道は分かっているが念のため確認、ということだったらしい。
「あの、駅まで行ってもらっていい…?」
「うん。……?」
「時刻表…見たいから…」わざわざ行かなくともウェブサイトで確認出来るが、藍の念頭にその選択肢は無い。それに、青井邸-渚駅間の距離及び青井家のパソコンの電源が切れている可能性が高いことを勘案すれば、この場合は行った方が早いかも知れない。
「うん。……?」碧がまだ自分の考えを読み取っていないようなので、
「え…と、自転車で行ったらケーキ崩れるかも、って思って…」
「あ、そっか! そうだね! 今日は慎重にいかないとね! りょうかーい!」
数分後、踏切につかまることもなく、二人はホームに自転車を乗り入れた。待合室に入り、
「ここから松本までどれくらい?」
「5分くらい…」
「松本からはバス使うとして…16時半かな!」
「うん…あ、でもバスも本数少ないよ…」元々松本駅からバス通学するつもりだったので、二週間ほど前に時刻表を見た。その時は休日の夕方に乗ることは想定していなかったのでちゃんと見ていないが、本数が少ないのは間違い無い。
「あ、そうだね…。じゃあ念のため15時51分だね!」一本前の列車が三十九分前なのである。
「うん…」
「よっし! じゃあ行こっか!」
「うん…」
二人は昨日に続いて鉄道駅のプラットフォームから自転車で下るというマナー違反を犯し、一分もかけず青井邸に着いた。
「じゃあまたおじゃまします!」
「うん…どうぞ…」
二人が靴を脱いで上がった時、奥の部屋の扉が開いて藍の母親が顔を出した。
「お帰り」
「ただいま」
「おじゃまします!」
「はい、お帰りなさい」
「お母さん、台所空いてる?」
「うん」母親が頷いて短く答えると、藍も頷き返し、母親は部屋に引っ込んだ。
「碧ちゃん、ちょっと台所へ…」
「うん」碧は特に疑問を呈することなくついてきた。
台所に入ると藍はまず背嚢を下ろして弁当箱を取り出し、流しに置いた。
「ごちそうさまでした! 今日もおいしかったー」
「そう…よかった…」
次に冷蔵庫の中からドラえもん茶碗を取り出した。中身のレアチーズは、少なくとも表面は固まっている。現在時刻は午後二時四十五分、冷蔵庫に入れたのが午前十時頃だったから、四時間半は冷却されている。本命の梨乃用ももう十分冷え固まっているはずだが、非破壊検査が不可能である以上、確認が出来ない。そこで自分達用の分を身代わりにし、梨乃用の固まり具合を推し測ろうという訳だ。
藍は匙を取ってレアチーズに差し、すぐに抜いた。半固体状のものが纏わりつく感触は無く、匙にも付いてこなかった。
「固まってる?」碧にも藍の意図は分かっていたらしい。
「うん…」
「じゃあバッチリだね! 先にチョコ板立てる? 型から出す?」百均の袋からトッポの箱を取り出す。
「チョコ板からだけど…その前に缶詰をざるに入れます…ちょっとシロップきった方がいいから…」
「あ、なるほど」と言いながら、碧は箱を開封した。
藍はドラえもん茶碗を冷蔵庫に仕舞い直し、代わりに缶詰を取り出す。食卓に置くと、すぐ碧が蓋を開け始めた。
「ありがとう…」藍はそちらを碧に任せ、流しの下から笊とボウルを取り出す。笊は、蕎麦屋で出てくるような平たい物だ。
「ううん! いっつも思うんだけどね」
「うん…」笊を水で洗う。
「缶詰のシロップって量多いよね」
「うん…そうだね…」半分くらいの量でも十分果物が浸るのではないかと、藍も常々思っている。
「捨てるのもったいないけど、あんなにたくさんあっても使い道ないし」
「うん…」これまた藍が常々思っていることだ。
「ちょっとだけだったら、ヨーグルトに混ぜたりするんだけどね」
「うん…そうだね…」勿体無いと思いつつ、藍は蜜柑の缶詰を笊にあけた。シロップが、下のボウルに滴っていく音がする。
既に桃とパイナップルも蓋が開けられている。藍は、それも笊にあけた。
「チョコ…お願いします…」
「了解!」
碧がトッポの袋を開封する一方、藍はケーキとチョコレート板、それに苺を取り出して食卓に置いた。
「うーん、長さこれくらいかな。藍ちゃん、これ包丁で切れるよね?」
「うん…大丈夫だと思う…」欠けないように切ることが可能、の意だ。
藍は俎と包丁を用意し、碧が俎にトッポを一本だけ置いて、
「長さはこれくらいで!」切断位置を右人差し指の爪で示した。端から五㎝くらいだ。
「うん…」
折れたり欠けたりしないよう慎重に、と藍は心を構えていたのだが、いざ包丁を当てると何の苦もなく刃が入り、あっけなくトッポは切断された。
「もう一本!」
「うん…」二本になったトッポの端を揃え、長さを合わせて切断。
「お願いします…」俎ごとケーキの横に置くと、
「はい!」碧がそこから取ってケーキに刺した。あまりに無造作だったので藍は驚いたが、碧のことだから、事前に目測で確認していたのだろう。さらにチョコレート板をトッポにもたせかけ、上から押さえて板を数㎜ケーキに埋めた。
「うん! これで倒れないね!」
「うん…ありがとう…」
「次は果物だね!」
「うん…。苺のヘタ取るから、ちょっと待ってね…」水洗いは、昨日のうちに済んでいる。
「一緒にやろ! あ、全部でいくつあるかな?」
「え…と、十三個…」
「13個ね! 了解!」苺の配置を決めたのだろう。こういった細かいところについても、碧が居てくれてよかった、と藍が心中感謝していると、
「藍ちゃん、一本どう?」碧がトッポを藍の口の前に差し出してきて、
「ありがとう…」藍は少し恥ずかしく思いながら、唇を突き出してトッポを咥えた。美味しい。藍も人並みにチョコレート菓子を好きなので、何もしなくてもトッポは美味しいのだが、碧が口に入れてくれたせいでこの一本は格別である。
藍がトッポを味わっている間に、碧は苺の萼を取り始めた。藍も我に返り、慌てて手伝う。
三十秒ほどで萼は全て取り除かれた。
「さてと…。いちご、外周に沿って12個等間隔に置こうと思うんだけど、どうかな?」
「うん…、お願いします…」ケーキの王道な配置だ。十二等分にすれば目測も正確になりそうだし、梨乃が切る時にも目印になる。
「らじゃ!」藍は楽しそうに敬礼して、苺を抓んだ。
チョコレート板を置いた時のように無造作に、と藍は思っていたのだが、碧は左手を顔の前に持ってきた。親指を上にして、伸ばした四本の指先をチョコレート板の方へ向けている。その形のまま手をケーキのすぐ傍まで下ろすと、右手に抓んだ苺をレアチーズの上に置いた。もちろん、尖っている方が上だ。さらに、少しレアチーズの中に押し込み、碧は苺を離した。
「よし」碧は次の苺を取った。どこに配置するのだろうと藍は息を呑む。
碧はケーキを回転させると、チョコレート板の裏側を自分に向け、今度は無造作に苺を置いた。チョコレート板中央の真裏だ。
ここからは藍の想像通り、円周を四等分するように置き、各区間を三等分する位置に置いていった。
苺の存在感は凄い。チョコレート板だけでは今一つ「ケーキ」感の無かったレアチーズが、今は華やかになって、如何にも誕生祝い然として見える。
「うん! 我ながら会心の出来!」碧が自画自讃する通り、苺の配置は、まるで分度器で測って置いたかのように等間隔だ。
「うん…、お店のケーキみたい…!」
「ホント!? よーし、次もがんばるぞ!」
「次は何置くの…?」と言って、俎を流しの横に置く。桃は半玉が二つなので、当然切るだろうと思ってのことである。
「大きいのは桃かな?」
「うん…でも六つに切ると大きさ揃わなさそう…」
「8つだったらいいかな?」
「うん…多分…」自信は無いが、六分の一よりましなのは確実だ。
「じゃ、8等分×12個で!」
「はい…!」藍は笊を持ち上げ、傾けながら、菜箸で桃を俎の上に落とした。
桃はさほど完全な球体ではないので、どう頑張っても正確に等分は出来ない。そう自分に言い聞かせ、可能な限り無心に、可能な限り無造作に包丁を入れた。計十二回の切断で十六個の切片を拵えると、
「では後はお任せを」碧は笊の上から菜箸を取った。
「お願いします…!」これでもう飾り付け工程における自分の出番は無い。藍は安堵の溜息を漏らしつつ、次の準備に取り掛かった。洗濯乾燥済みの布巾を流しの抽斗から四枚取り出し、水道の水で濡らしてから絞るだけであるが。
碧は桃も、まるで時間を競っているかのようにひょいひょいと置いていった。パイナップルと蜜柑も同様で、終わってみれば仕掛かりから完了まで五分程度しか掛からなかった。
そして、四種の果物が載ったレアチーズケーキは、却って華やかさを失ってしまい、代わりにとても賑やかになった。同一円周上には四種類が入りきらず、桃だけ内側に配置されているほどだ。見た目だけなら苺のみの方が美しかったかも知れないが、食べるとなれば沢山載っている方が楽しんでもらえるだろう。梨乃が喜んでくれるとよいのだが。
「よし! 型から出すよね?」
「うん…準備します…」
「はーい!」
藍は、さっき絞った濡れ布巾を今度は電子レンジにかける。
「レンジ?」意図が理解できないらしく、碧が訊いてきた。
「うん…おしぼり作るの…」
「おー! スゴい藍ちゃん! 主婦の知恵だ!」知ってしまえば大した技ではないが、初めて見る者にとっては驚きなのだろう。
三十秒後、持つのが大変なほどに熱くなったおしぼりを取り出し、
「一緒にお願いします…」碧に二本渡した。
「うん。えーと?」両手で抓みながら碧が訊く。
「広げて両手に持って…」説明しながら実践する。
「金型を温めます…」半分に折られた状態の布巾を両側から金型に当てて押さえる。
「はい」碧も空いた場所に布巾を当てる。
「温まったらケーキの表面が融けるので、金型を持ち上げます…」
「おー、なるほど! そうやるんだー!」
「普通のケーキだとできないんだけど…」
「ゼラチンだからだね! もういけるかな?」
「うん…ゆっくり…」
「はい!」藍が手を持ち上げるのに碧も合わせる。手応えはほとんど無く、金型だけがするっと持ち上がった。ケーキは土台の紙に乗ったまま動いていない。
「バッチリだね!」
「うん…! 次はこのシートを巻くんだけど…お願いしていい…?」よくケーキに巻かれている透明なポリプロピレンフィルムである。
「らじゃ! こんな長いのもあるんだね!」
「うん…」
碧はフィルムの両端を持ってピンと延ばし、またも無造作にケーキへ巻きつけた。無造作なのに、フィルムの下端は綺麗に台紙と接している。
「よし! これけっこう楽しいね!」
「え…そう…?」もしこれが藍だったら、失敗しないかヒヤヒヤしながらの作業で、全く楽しく感じないだろう。
「うん! いよいよ完成?」
「うん…あ、箱に入れるのもお願いしていい…?」
「らじゃ!」
藍は食器棚の脇に置いてあったケーキ箱を取ってテーブルに置いた。事前に組み立ててあるので、本尊を納めて封をするだけだ。
「あ!」碧が驚いたような声を上げ、
「え…!?」何か不備があったかと藍はドキリとする。
「スゴいよ、この箱! ほら! いちご12個!」碧が箱の天面を指差す。
「あ、本当だ…!」描かれている苺の配置が、今碧が配置したのとほぼ同じなのである。
「よし! この向きに合わせて入れよう!」
「うん…!」どうでもいいことだと分かってはいるが、何となく箱の絵と中身を揃えたい。
碧は慎重に向きを揃えた後、無造作にケーキを入れて箱の口を閉じた。
「あ、冷蔵庫に…」藍が冷蔵庫の扉を開き、
「はい!」碧がそっと入れた。冷蔵庫の内容物に気を遣ったからだろうが、ケーキに対してあんなに無造作だった碧が、箱を入れるのに慎重だったのが藍には可笑しかった。
「あとはそーっと持ってくだけだね!」
「うん…! あ、これ、おやつに食べようと思うんだけど…」改めてドラえもん茶碗を取り出す。
「待ってました!」
「じゃあ、上で…」
「うん!」
藍は食器棚から匙をもう一つと盆を、冷蔵庫からトムとジェリーの器を取り出し、持っていく準備を整えて、
「お待たせしました…」
「はい! もう待ちきれません!」
碧に追われるようにして二階の自室へと上がった藍は部屋の中央に盆を置き、
「どうぞ…」と言ってその前に座った。
「うん!」盆を挟んだ位置に碧も座り、
「こっちもらっていい?」ドラえもん茶碗を取った。
「え…」匙を刺していたので自分が食べようと思っていたのだが、そちらの方が量が多いことに気づき、
「うん…」トムとジェリーの器を取った。
「いただきまーす!」彼女にしてはかなり控えめな量を匙に取って口に入れた碧の目がカッと見開かれた。
「めっちゃめちゃおいしいこれ!」
「そう…? …よかった…」高評価を得たことに胸を撫で下ろしつつ、自分も一口試してみた。
「うん…」確かに美味しい。過去最高の出来であることに疑いの余地は無い。材料の配分はいつもと同じだから、やはり碧の混ぜ具合が良かったのだろう。
「これ売れるよ!」
「え、それは…」何につけ自己評価が控えめな藍は、それは無理だろうと思うが。
「いやいやホント! 400円は堅いな!」どんなケーキにせよ、素人でも店並みに美味しいものを作ることは可能である。店の凄いところは、それを儲けが出る原価で量産出来ることだ。これはかなりの技能や設備が無ければ無理である。
「梨乃さんも喜んでくれるよ!」
「うん…だといいな…」衷心からそう思う。
「いやー、これ一気にバクバク食べそうでもったいないな!」言葉通り、次々と匙を口に運んでいる。
「もう一つあるから、持ってくるよ…持って帰ってもらうつもりだったけど…」
「あ、いいよいいよ! ありがたくおみやげにさせてもらいます!」
「あ、うん…じゃあ、よかったらこれ…食べかけだけど…」食べかけといっても、最初の一掬いを取っただけである。
「いや、それは悪いよ~」
「じゃあ半分…」
「え、そう? じゃあ遠慮なく…」
「うん…器かして…」
「はい!」勢いよく差し出されたドラえもん碗を受け取って、藍はトムとジェリー碗の中身を八割方移し替え、碧に返した。
「うをっ、こんなに! 藍ちゃん、かたじけない」武家風に頭を下げ、直ると、すぐ碧は食べ始めた。それを見ながら藍もレアチーズを口に運ぶ。
やはり美味しい。よほど好みから外れていない限り、梨乃も美味しいと思ってくれるだろう。
二分ほど後に碧が器を盆に置き、少し遅れて藍も食べ終わった。
「ごちそうさまでした! いやホントおいしかったー。藍ちゃん天才!」
「え…レシピ通りだよ…」
「いやそうかも知れないけど」
「それに、いつもはこんなにうまく出来ないよ…」
「え、そうなの!?」
「うん…今日は混ざり具合がいつもより均一になってると思う…」
「ホント!? やったあ!」碧は嬉しそうに手を合わせ、ぱん、といい音がした。
「役に立ってよかったよー!」
「うん…碧ちゃんのおかげですごく良くできたよ…」
「また作る時呼んで~! この役得たまりません!」
「うん…!」喜んでやってもらえるなら願ったり叶ったりというやつである。
「じゃあ、次は藍ちゃんの髪型だね!」
「え、うん…」不思議なことに、この話が出た当初のような抵抗感はほぼ無くなっている。
「あ、でも先に梨乃さん用の準備か」
「あ、そうだね…」
「えーと、輪ゴム輪ゴムー」一般的にはヘアゴムなどと言うのだろうが、ここでも碧の語彙は微妙に年寄りじみている。
「じゃこっち藍ちゃんカラー」紺色の方を渡され、藍は封を切った。一つ取り出して碧に渡そうとしたが、
「袋袋ー」碧はまだ忙しそうで、藍は手を引っ込めた。数秒後、
「ゴメンゴメン、お待たせー」と言って碧が手を差し出してきた。袋を取り出しながら自分の僅かな動きも見ていたことに驚きつつ、藍はゴムを渡した。碧は二つの飾り付き輪ゴムを袋に入れ、
「これテープ付きにくいよね」
「うん…」袋の表面が少しざらっとした感じで、セロハンテープで付けてもすぐ剥がれてしまいそうな気がする。
「針金か輪ゴムある?」
「あ、うん…台所に両方あるよ…」
「なるべくかわいいやつ!」
「え…と、金色の針金…かな…」針金を薄い樹脂膜二枚で挟んだ、よくある品である。
「それで!」碧が藍と理解を共有しているかどうかよく分からない返事だが、どの道台所で現物を見せるのだから大差は無い。
「ではいよいよマヌカン藍ちゃんをスタイリスト碧がいじる時間がやってまいりました!」
「あの、マヌカンって何…?」
「えーと、服屋で売り物の服を実際に着てる店員?」元々は服屋に限らず、何らかの目的に使う、人体見本や人体模型を指す。
「あ、そうなんだ…」
「では早速ー。向こう向いて~」
「うん…」言われた通りにすると、盆をどけて碧がこちらに躄ってくる気配がし、髪が持ち上げられた。
「まずはこの辺で束ねてみましょう!」碧の手、恐らく甲が首の後ろに当たった。
「うん…」
髪が輪ゴムに通される感触がし、
「はい! こっち向いて~」
「うん…」正座している身体全体で反転する。
「おお! 想像以上に変わるね! じゃあここからちょっと変えて」
藍と膝詰め状態まで前進し、右腕を首の後ろに回して髪を掴むとその房を左胸の前に持ってきて垂らした。
「うおっ! これ似合う!」
「……」誉められたと感じて、藍は恥ずかしくなった。
「でも次! また向こう向いて~」
「うん…」
今度は髪が後頭部の高い位置で束ねられ、縛られる感触だ。
「はい、横向いて~」
「うん…」その場で左回りに九十度回る。
「むう、ポニテもなかなか…こっち向いて」
「うん…」また左回りに九十度回る。
「正面はおさげと大差なしか。…! そうだった! 藍ちゃん、立って~」
「うん…」
「くるって回って~」
「うん…」言われた通り、藍はその場で一回転した。
「うひょー! 萌えー!」
「え……」何がどう受けたのか藍には皆目見当もつかない。その表情を見て藍の心中を見抜いたらしい碧が説明した。
「髪の毛! 回った時にポニテが後からついてくるじゃない? それが超萌えー!」
「……」藍は髪型を変えようと思ったことが、いや自分を美しく見せたいと思ったことすら無かったくらいなので、動いたらどう見えるか鏡で確認したことなどもちろん無い。今、碧の説明を聞いてそういうものかと半分は納得したが、それにしてもそういうことは美人がするからいいのだろうという気もする。
「いやー、藍ちゃん、スゴい萌え力だわ! よし、じゃ、次行きますか。また向こう向いて~」
「え…うん…」
今回は正中線で髪が分けられる感触の後、右半分の髪が耳の上少し後ろ辺りで束ねられ括られた。左半分が同じようにされると、
「よっし! こっち向いて~」
「うん…」
「うーん、かわいいけど藍ちゃんにはツインテ合わなかったかー。藍ちゃん見るからにおしとやかそうだもんなー」と独りごちた。どうやらこの髪型は活動的な印象の人物でなければならないようだ。
「うーん、じゃあ間を取って…」碧が左手を伸ばしてきて、右側のゴムをはずした。
「むおっ、これも萌えるな! 貴月センパイみたいだ…!」誰だろう? 初めて聞く名である。
「部活の先輩…?」
「あ、ううん、アニメのキャラー。『あの夏で待ってる』っていうアニメのヒロインなの。小諸が舞台なんだ」
「へえ…」松本以外にも長野県が舞台になっているアニメがあるのだな、と本題から逸れたところに藍は感心した。
「でね、そのセンパイがめっちゃかわいいんだけど、実は宇…おおっと、これも観てほしい! ていうか借りてきて一緒に観よ!」
「え…うん…でも碧ちゃんもう見たんだよね…?」
「また観るよ!」碧は当然のようにそう言った。
「あ…そう…」
「ホント面白いから! 小諸行きたくなるよ! 梨乃さんも誘って三人で観よ!」
「うん…」
「大体試したい髪型はやっちゃったし…ちょっと早いけど、駅行こっか」
「うん…」
「あ、髪型そのままで! 見たら、梨乃さん鼻血出すよ!」
「え…」碧のおもちゃになるのは問題無いというか寧ろ歓迎だが、髪型を変えて人前に出るのは嫌だ。何とか抵抗したいところだが、口実が見つからない。言葉を探していると、
「わたしもサイドにしよ!」碧が自分の右側の髪を括った。藍と違って髪が短いため、ほんの少し括られただけであるが。
「おそろい! さあ、梨乃さんの反応が楽しみですなあ!」
「……」碧とお揃いで嬉しさ四割、恥ずかしさ六割といったところである。
「じゃ行こ!」碧に促され、
「え、うん…」押し流されるように台所へと向かった。
台所に入ると藍はまず食器棚に向かい、引き出しから針金と輪ゴムを取り出した。
「あー、これは迷うね」先程は針金で決定のようなことを言っていたが、現物を見て考えが変わったらしい。輪ゴムが色付きのものだったのである。
「うん…」
「藍ちゃんはどれがいい?」どっちが、ではないのは、輪ゴムの色が複数あるからだ。
「え…と、ピンクの輪ゴムかな…」如何にも自信の無い声で藍は言ったのだが、
「採用!」即座に決定された。
「え……」本当にそれでいいのかと藍は不安だが、碧はもう袋の口を輪ゴムで縛っている。
「うん! いいね! ではいよいよ」
「うん…あ、碧ちゃん、冷蔵庫から出して下さい…紙袋出します…」
「はーい!」
藍が棚の上からマチの大きな紙袋と古新聞を取った時には、ケーキ箱はテーブルに置かれていた。
紙袋と古新聞をテーブルに置き、畳まれていた紙袋を広げた後、冷凍庫から保冷剤を取り出す。十五㎝×十㎝ほどもある大きなものを二つだ。それを両手に振り向くと、ケーキ箱が視界から消えていて藍はぎょっとした。一瞬後、碧が紙袋に入れたのだと考え至って可笑しくなり、くすりと笑った。
「どうしたの?」碧は怪訝顔だ。
「あ、今振り向いたらケーキがなくなってたからびっくりして焦って…でも碧ちゃんが袋に入れてくれたんだ、って思って…。当たり前だけど、消えちゃうことなんてないのに、焦ったのがおかしくて…」説明しながら紙袋に両手を入れ、ケーキ箱の上に保冷剤を載せた。これだけあれば高辻邸までレアチーズを低温に保ってくれるはずだ。
「あー、あるよね! 勘違いで冷や汗出ること!」
「碧ちゃん…?」続いて紙袋とケーキ箱の隙間に新聞紙を丸めて詰める。こうしておけば保冷剤が箱の上から滑り落ちることは有るまい。
「あるある! ゴキブリだ!ってビビったら壁の模様だったりとか!」
「それはドキっとするね…」御多分に漏れず、藍もゴキブリに恐怖を感じる方である。殺虫剤を手にしていてもゴキブリが動いたら自分の方が逃げ出してしまう程なので、退治に携わることは絶えて久しい。
最後に保冷剤の上に新聞紙を被せ、準備は整った。
「行きますか!」
「うん…! お願いします…」藍がそっと押し出した紙袋を碧が受け取り、髪ゴムの袋をそっと入れて、二人は台所を出た。
廊下に出ると藍は居間の扉を開け、
「行ってきます」と出発を告げた。
「うん」母親が短く応えて立ち上がる。父親は出掛けているようだ。
「お邪魔しましたー」藍の背後から碧がひょいと顔を出して挨拶すると、
「碧ちゃん、また来てね」
「はい! あ、自転車置いていってもいいですか?」
「ええ、どうぞ。電車で行くのね?」
「はい! ケーキが崩れないようにです!」
「そうね。気をつけて行ってらっしゃい」
「はい!」
「ああそうそう、藍、高辻さんによくお礼言っておくのよ」
「うん」言われるまでもない。一昨日夕方からの二十数時間で、藍にとって世界が変わった。言葉ではとても言い表せない感謝を藍は感じている。
文字数制限のため二分割して投稿いたします。今回も、元々一つの話を分割しましたので、尻切れ蜻蛉感が有りますが、御容赦下さい。




