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リセエンヌ  作者: 松本龍介
17/62

乗馬見学 3(/3)

 三分割の三つ目です。

 「はい、到着っと」駐車場の一番奥に自動車を停め、梨乃はエンジンを切った。途端にアスランが立ち上がる。ここは散歩だと分かっているのだろう。

 「お、ラブ子、ついにやる気出したな!」碧の言葉から推すと、ラブも同じのようだ。長時間待たせたのだから、心ゆくまで散歩させてやりたい。

 藍が車外に出るのを追いかけてアスランも飛び出てきた。譬喩ではなく本当に飛び出すと、ちぎれんばかりに尻尾を振って藍の周りを一周し、梨乃が降りてくると今度は梨乃の隣でウロウロする。早く連れていってくれと催促しているのだと藍にも分かった。

 「しばし待てい」自動車の向こう側でも似たような場面が繰り広げられているようだ。

 梨乃は無言で車両後部に向かってハッチを開け、曳き綱を二本取り出した。鎖の曳き綱を藍に渡し、

 「ここノーリード禁止だから、一応ね」

 「はい…アスラン」呼ぶとすぐに藍の前にやって来て、ちょこんと座った。座った状態でも尻尾が左右に振れ、地面を掃いている。その姿がとても可愛らしく、

「すごいねアスラン、よく分かってるんだね」しゃがんで頭を撫でた。アスランは嬉しそうに目を細め、鼻先を少し上に向けてくる。尻尾の動きも加速された。二、三度撫でてから首輪に曳き綱を取り付けて立ち上がると、アスランも一緒に立ち上がり、梨乃の方へ向かおうとした。

 その梨乃は後部荷室から大きい手提げ袋を取り出している。中身が何なのか藍からは見えないが、梨乃のことであるから必要且つ十分なものであろう。

 梨乃の向こう側では、準備万端の碧とラブが、同じく梨乃を待っていた。

 「お待たせ。行きましょう」バタンと音をさせてハッチを閉じた梨乃が開始を宣言し、すぐ横の階段を登り始めた。ラブとアスランがその横に並び、階段の幅の都合で碧と藍はその一歩後ろという隊形になった。

 階段は十段ほどで舗装路に行き当たり、一行は右に曲がって緩い坂を登る。道幅が十二分に広く、藍と碧もアスランとラブの外側に並んだ。

 「梨乃さん、あれって何でしたっけ?」碧が左手前方に見える塔を指差して訊く。

 「山の博物館とかそんな名前じゃなかったかな」正しくは、「山と自然博物館」という。

 「上の方のあれって展望台ですか?」

 「うん。登ってみる?」

 「登りたいんですけど、ラブ子とアっちゃん入れませんよね?」

 「うん。待ち」

 「何となくそれは悪いなーと思って」

 「じゃ、もういいです、っていうぐらい散歩させてからにしましょう」いやそれは自分が最初に脱落するのではないか、と藍は危ぶむが、

 「なるほど!」碧はそんなことに思いを致すことなど無い様子である。そもそも、歩き疲れるということ自体を理解出来ないのではないか、と藍には思えてしまう。

 待ち受けるスパルタ式を理解しているのかいないのか、ワンコローズは元気いっぱいである。

 「じゃ、今は通過しましょうか」少し話している間にもう塔の前に差し掛かっていた。

 「はい!」碧の返事を聞きながら、自分が普段の倍くらいの速さで歩いていること、しかも全く身体に負担を感じていないことに気づいて藍は驚いた。好きな人達と一緒だと、こんなに楽に歩けるものなのか。

 「花が咲いてるのってどこですか?」

 「すぐだよ。二、三百メートル先に植物園があって、桜とか桃とか木蓮とか植わってるの。桃はもう散ってるかも知れないけど」

 「桜だけでも十分ですよう!」藍も頷く。

 「うん。木の高さが低いから、座って楽しめるよ」

 「えー! ますますステキじゃないですか!」

 「でもどうかな、せっかくだから公園ぐるっと回ってからゆっくり見るのは?」

 「はい! 賛成!」

 「藍ちゃんもそれでいい?」

 「はい…!」

 「あっ、これ懐かしい! 幼稚園の時乗りました!」毎度のことになりつつあるが、突如として碧が叫んだ。右手の階段の上にある小屋のような木造の建物を指差している。小屋の手前には「アルプス ドリームコースター」と書かれた三角形の看板。

 「私も。初めて乗った時すごいドキドキしたの覚えてる」

 「藍ちゃんは乗ってない?」

 「うん…」小さい頃から藍は屋内党で、つい最近まで乗り物というものに惹かれたことが無かった。

 「じゃ、見に行こうよ!」建物の右手に柵が見える。その向こうに乗り物が在るのだろう。

 「え…うん…」

 横隊のまま柵に近づいていくと、その向こうが斜面になっていて浅い溝が掘られているのが見えてきた。藍は見たことが無いが、リュージュのコースに近い断面形状だ。その溝に沿って乗り物が走ると見受けられる。

 柵の際まで行くと、小屋の横に件の乗り物があり、小学校高学年と覚しい男の子が二人乗り込んでいるのが見えた。乗り込んでと言っても、リュージュの橇に十㎝程度の壁が付いたような浅い乗り物なので左右の支えは無いも同然、しかも幅は五、六十cm。投げ出される乗客がいても全く不思議ではないが、さほど急な坂ではないので、仮に投げ出されても擦り傷程度で済むような気はする。

 柵際まで近づいた時、乗り物が発進した。坂道をゆっくりと下り始めるが、橇の下に車輪が付いているのか、意外といい加速でカーブに差し掛かる。乗組員の二人は僅かに上体を内側に傾けてカーブに進入した。ちょうどその向こうからコースが見えなくなっていて、その二人がどのように滑っていったのか分からないが、乗り物の下るゴーっという音が暫く響いた。

 「どう?」碧が訊く。

 「うん…」

 「ちょっと遅いけど、低いからけっこうスピード感あるかも」確かに、下校時の碧自転車の方が速いような気がするが、しかしこの乗り物に乗りたいとは思わない。

 「三人乗りだったらよかったのにね」

 「ですよね! 梨乃さん先頭で、藍ちゃんわたし」

 「碧ちゃん先頭じゃないの?」

 「乗り物的にはそうなんですけど、ブルースシスターズ的には」

 「?」「?」

 「まず、藍ちゃんセンターは決定じゃないですか」

 「そうね」梨乃が肯定する。間に挟んでおけば落馬、いや落車は無いということだろう、と藍も納得した。

 「で、それを後ろから支えるのがわたしじゃないですか」

 「私でもいいんじゃないの?」梨乃が今度は疑問を呈した。藍から見ると梨乃も碧もどちらも同じくらい頼もしいので、どちらでもいいのではと藍も思う。

 「ノンノン! だって藍ちゃんはわたしの奥さんですから!」左手を腰に当て、右手を正拳突きのようにして梨乃の方に突き出す。碧としては、何度もやり込められているのに反撃する会心の一言だったようだ。

 「うわ、鬼の首取ってる!」珍しく梨乃が大きな声を出し、藍はそれを聞いてぷっと吹き出してしまった。

 「あれ? 意外なところから」藍に受けたのは完全に予想外だったと見える。

 「そうね」梨乃でも想定出来なかったらしい。

 「あ、ごめんなさい…」藍は何だか急にバツが悪くなり、頬を赤くして俯いた。

 「あのー、どこが面白かったのかしら?」碧が訊く。

 「鬼の首取ってる、っていうのが…」

 「? 普通の表現だと思うけど」梨乃が意見を述べる。若人がよく使うとは思えないが、珍しい表現ではなかろう。

 「あ、いえ…その、さっきのポーズだけでよく鬼の首取ってるって判るな、って思って…」

 「え!?」碧が叫ぶ。碧としては、どう見ても鬼の首を取っている、というつもりだったのだろう。

 「鬼の首見えたし」と梨乃。

 「見えたんですか!?」その首を取ったはずの当人が驚く。

 「鬼の首取ったような顔してた」

 「鬼の首が!?」碧会心の一撃だったはずが、いつの間にか梨乃のペースになっている、と藍は思った。本人はまだそのことに気づいていないようだが。

 「鬼の首が」完全に煙に巻いたと藍には思われたが、

 「で何だっけ? 藍ちゃんが奥さんだからだっけ?」梨乃自ら話を戻した。

 「そうですよう!」碧は俄然勢いを取り戻した様子。

 「でも藍ちゃんの奥さんである私が旦那様の背中にしがみつくのも全然おかしくないんじゃない?」

 「むむむ、それは確かに…普段わたしが前で自転車乗ってるから逆の体勢もいいじゃないですか!」

 「いやいいけど」ブルースシスターズ的に、という部分は破綻を来たしている。

 「それにほら、直接的には梨乃さんの身体にしがみつくわけじゃないですか」それを聞いて藍は合点がいった。梨乃の胸を掴むつもりなのである。

 「そんなことだろうと思ったわ」具体的には言葉に出さず、梨乃も納得した。

 「ブフフフフ」

 と下らない遣り取りをしている間に下って行ったコースターが引き上げられてきた。もちろん人力ではなく機械によるのだが、これが遅い。藍ですら、自分が歩いた方が速いと思ったほどだ。乗っている少年達も手持ち無沙汰のようだった。

 「行こっか」梨乃に促され、一行は(きびす)を返した。

 「これラブ子とかアっちゃんと乗ってみたいなー」

 「それ分かるわー。ラブなら楽勝だと思うけど」

 「そうなんですか?」

 「自転車の荷台に乗っけて駅前まで行ったけど、余裕で乗ってたから」

 「スゴい! やるなラブ子!」どちらかと言うと、そんなことを試してみる梨乃が凄いと藍は思う。ラブは、曳き綱いっぱいまで前に出ていて、誉められたのを聞いていなかったようだ。

「え…て普通カゴじゃないんですか!?」

 「荷物あったから」

 「うわ、荷物優先されたぞ、ラブ子!」

 「ラブなら落ちてもちゃんと着地するし。そもそもラブが連れてけってうるさかったからだし」

 「そんなにやる気の時もあるんだなラブ子、って今もか。で、アっちゃんは無理そうなんですか?」

 「能力的には楽勝なはずなんだけど、怖がりだからねー。無理矢理乗せてもすぐ逃げて、でも置いてかれるのが嫌だから、下りてくコースターを走って追いかけると思うわ」

 「うわー、目に浮かぶー」碧の中では、アスランはすっかりヘナチョコな印象で定着してしまったらしい。障害を飛んだ時の評価と性格に対する評価は別だということだろうか。藍はアスランのことを、気は優しくて力持ち、と思っているので、碧や梨乃の評価は実に不本意というか残念なのだが、碧の印象はともかく、アスランのことを一番よく知る梨乃の言うことに疑義を差し挟む余地は無いと思われる。

 「まあそれはそれで楽しそうだしかわいいけどねー。抱っこしてやれば逃げないかも知れないけど、ちょっとねえ」

 「大き過ぎですかねー」

 「重過ぎ、だね」ここにいる誰よりもアスランは重い。仮に藍がアスランを抱っこして乗ったら、カーブでアスランを支えることなど出来ず、仲良く一緒に乗り物から転がり落ちてしまうだろう。

 「ま、滑り台ぐらいなら一緒でもいけるかな」

 「あ、でもそれも楽しそう! ね!」

 「うん…! やってみたい…!」

 「ちょっと先にローラー滑り台あるからやってみる? アスラン超ビビると思うけど」

 「やったあ! じゃあ藍ちゃんはアっちゃんと!」

 「うん…!」

 「わたしは梨乃さんと!」

 「うん、一緒に滑らないから」

 「えー!?」

 「えーじゃない」

 「な!ん!で!で!す!か!」

 「分かりきったこと訊かない」

 「ぶー。じゃ、梨乃さんが後ろでいいです」

 「それよりもいい方法があるわ」

 「何ですか?」ジト目で梨乃を見る。

 「それは行ってのお楽しみ」

 「もー、梨乃さんのいけず! じゃ、早く行きましょう!」碧が歩き出し、足速に階段を下る。引っ張られたラブが渋々速歩でついて行く。

 「せっかちねえ。碧ちゃん、場所分かる?」梨乃が言うと碧は舗装路に出たところでピタリと止まった。ラブもその横で止まる。

 「昔すぎて」

 「やっぱり」

 「何かこの先だったような記憶はあるんですけど」言いながらそちらの方を眺めた。並木の向こう側に、子供向けのアスレチック遊具が見えている。

 「うん、合ってるよ」梨乃とアスラン、藍に追いつかれ、碧も歩みを再開させた。

 「どのくらい先だったかは」

 「小さい時と今とじゃ距離感違うしね」

 「そうですよね! 今行ったらビックリするぐらい近いかも!」

 「そうだね」

 「わ! 桜きれいですね!」道の左手から右手に視線を移した碧が小さく叫んだ。言葉通り、なかなかに立派な桜の木が咲き誇っていて、遠目にはもう満開かと見える。

 「そうね。一通り散歩したら行ってみましょう」と言いながら、桜の木立とは反対側にある芝生へと入っていった。

 「はーい!」「はい…!」碧と藍も後に続く。芝生の広場にはボールやアスレチック遊具で遊ぶ親子連れが大勢いた。

 「でかっ!」「あの()大きいねー!」「おおかみー!」「かっこいい!」「警察犬だー」「恐そう…」「小っちゃい方かわいいねー」ジャーマンシェパードはただでさえ大きくて目立つ上、アスランは今闊歩している。楽しくてそうなっているのだということを藍達は知っているが、周囲の人の目には大きな獣が我が物顔でのし歩いているように映っているかも知れない。何れにせよ一行は注目の的で、色々な声が藍の耳にも届いた。自分が注目されている訳ではないと思ってもやはり藍は恥ずかしく感じるのだが、普段よりもその度合いは格段に低い。梨乃や碧が全く気にしていない様子だからだろうか。

 「あの、ワンちゃん撫でてもいいですか?」遊具の傍に差し掛かった時、三歳くらいの女の子の手を引いた若い母親が藍に訊いてきた。飼い主だと思ったのだろう。

 「え…」「いいですよ」藍が困った声を出すのと同時に、梨乃が答えた。

「アスラン」梨乃が声を掛けるとアスランは立ち止まり、

「Down」の号令で芝の上に臥せた。

 「わー、すごい!」母親が感嘆の声をあげ、

「ほら、撫でさせてもらいなさい」娘の手を引いて自分の前に立たせ、自分はその場にしゃがんだ。

 娘もしゃがんで恐る恐る右手を伸ばし、アスランの頭に触れた。アスランの耳がピクリと動く。尻尾の方に向かって背中を撫でると、感触が気持ち良かったのだろう、娘はにっこりと笑った。その顔を見て藍も何だか嬉しくなる。

 「ふくふくー」娘が変な表現をした。そのような擬態語は普通使われていないが、妙にしっくり来るように藍には感じられた。母親も手を伸ばしてアスランを撫で、

 「ふくふくだね」と言った。

 娘がさらに二撫で三撫でしていると、

 「わん!」それまで黙っていたラブが自己主張した。娘がそちらに目を遣った時、

 「わしも撫でるのじゃ」梨乃が声色を使った。

 「しゃべった!」娘が驚いて母親の顔を見、母親は無言で頷く。

 「この子も撫でてあげてくれる?」梨乃が普段の声で言うと、

 「うん!」娘が嬉しそうに答え、ラブの曳き綱を持った碧が娘の方に近寄った。曳き綱の緩んだラブが娘の目の前まで歩き、お座りする。

 娘はラブの頭から背中を撫で、

 「ふくふくー」アスランの時と同じ台詞を繰り返した。ラブはおとなしく撫でられ続け、十回ほど撫でた時、母親が頃合と見たか、

 「じゃ行こっか。わんわんにありがとう言って」

 「ありがとうー!」

 「また会ったら撫でるのじゃ」梨乃がまた声色を使うと、娘はまた驚いた顔をした後、

 「うん! またねー」ラブに向かって元気よく手を振った。

 「ありがとうございました」母親の礼に梨乃は、

 「いえ、こちらこそ」と応え、

 「またね」娘に小さく手を振った。碧と藍も手を振り、親子は遊具へ向かった。

 「あの子完全にラブ子がしゃべってたと思ってますよ!」声が届かない程度に親子との間が離れた頃、碧が口を開いた。一行はまた横隊を組んで歩みを再開している。

 「そんな感じだったね」

 「梨乃さん医者やめて腹話術師になった方がいいんじゃないですか?」

 「そこは普通声優とか言うんじゃないの?」

 「や、何て言うか、声優の場合、視聴者にとって声優本人はそこにいないわけじゃないですか。でも腹話術師は本人も出演者としてそこにいるから」

 「なるほどね」

 「それと、声そのものよりも聞こえてくる場所の方が重要かなって」腹話術で出す声は、普通に話す声に比べ、どこから聞こえているのか判りにくいと言う。

 「なるほど。なかなかのこだわりね。私に、明智小五郎になれと言うのね」

 「さすが梨乃さん!」

 「明智小五郎って探偵じゃないんですか…?」藍は思わず割って入った。藍も、怪人二十面相や少年探偵団は読んだことがあり、名探偵明智小五郎を知っているが、それが腹話術師にどう繋がるのか理解出来ない。

 「うん、そう。明智探偵の特技なの、腹話術」

 「あ、そうなんですか…」梨乃の簡潔な説明で疑問はあっさりと解けてしまった。梨乃は、碧が推理小説好きなことを踏まえて明智小五郎の名を出したに違い無い。話をしながらよくそういうことに思い至るものだ、と毎度藍は感心する。

 「ま、腹話術は趣味でいいわ」そうだろうと藍も思う。

 「うーん、残念!」さほど残念ではなさそうに碧は言った。

 「この滑り台…じゃないですね」また碧が話題を変えた。今、一行の右手には岩山を象った遊具が聳えている。自然の斜面にコンクリートを被せ、登り易いように凹凸をつけた、高さ五mほどの建造物で、端に滑り台が設置されている。滑り台もコンクリート製のようで、黄色に塗装されている。

 「うん、まだ先。この滑り台だと多分この子達歩いて下りちゃうからね」

 「おお、なるほど!」実際、滑るという移動方法を積極的に利用する動物はほとんどいない。

 「いや、もしかしたらアスランは怖くて下りられないかも知れないけど」名前を呼ばれたアスランの耳が少し動いたが、梨乃の方を向くことは無かった。何かあまり良くない評価をされていると分かっていて、知らないふりをしているかのようだ。

 「あ…でもローラーに乗せて大丈夫なんですか…? 足…」藍は、ラブやアスランの足がローラーとローラーの間に挟まってしまうところを想像したのだった。

 「なかなかいい指摘ね。この子達のことを考えてくれて嬉しいわ」梨乃の言葉に藍は頬を赤くして視線を落とした。

「そこは一応考えがあるよ。うまくいくかやってみないと分からないけど」

 「おおー、気になるー!」

 「うん…!」

 岩山の向こうには色々と合体した遊具があり、多くの子供達が遊んでいた。幅広で傾斜の緩いローラー滑り台もその一部を構成しているが、十人以上の子供が順番を待って並んでいる。

 「あれですか?」

 「ううん」

 「あ、やっぱり。何か、まっすぐじゃなかったような記憶があるんですよねー」

 「うん、そうだよ。しかもけっこう高いところ通るんだよね」そう聞いて藍は少し不安になる。

 「そうでしたっけ?」

 「うん。でも落下防止の枠が付いてるから大丈夫だよ」藍の不安は顔に出ていたのだろう、梨乃が安心させるようなことを付け加えた。

 引き続き子供達からの驚異と好奇の視線を浴びながら、一行は広場を横断し、森の端までやって来た。目の前には滑り台の乗り口がポツンと寂しく客を待っている。そこから延びる細いローラー滑り台は、森を突っ切っているようだが、木立が邪魔をして降り口は見えない。

 「うわー、ちょっとインディアナジョーンズみたいですね!」

 「そうね。…さっきも思ったんだけど、碧ちゃん古い映画よく知ってるよね」梨乃は、手に持った大きな手提げ袋を地面に降ろした。

「あ、その子達繋いどいてくれる?」

 「はい!」「はい…!」

「うちのお父さんが洋画好きで、ほぼ毎日家で何か観るんですよー。十年以上一緒に観てるんで、自然と」碧は言いながらラブを繋ぎ、藍は碧が言い終わった頃にアスランを繋ぎ終えた。二匹はその場に伏せる。

 「なるほどねー。それじゃテレビはほとんど見ない?」話しながら、袋から樹脂製の青い敷物を取り出した。一般にブルーシートと呼ばれる物だが、藍はその呼び名を知らない。

 「夕方のニュースまでですねー。だからクラスの話題にはついて行けませんねー」この言葉は藍にとって衝撃であった。碧は常に学級の中心にいると思い込んでいたからである。本が好きということ以外に、初めて碧との共通項を発見した気がした。尤も、碧の求心力ならば学級内の話題そのものを変えてしまうことも可能だろうが。

 「へー、私もそうだったのよねー」これは意外ではなかった。梨乃が浮世離れしているのは間違い無いからだ。

 「今はついていってるんですか?」

 「全然。でも、みんなこれから授業が大変でテレビどころじゃなくなる見込み」

 「大学って大変なんですねー」

 「んー、学部学科によるみたいよ」

 「じゃ、医学部は大変なんですね」

 「午前様が当たり前って話も聞くね」

 「よし! 医学部は志望からはずそう!」

 「あら残念。じゃあ藍ちゃんだけ後輩になってくれるのね。藍ちゃん、サービスするわ~」

 「え……」サービス内容が明らかにされていないが。

 「うわー、またいけずー!」

 「いや、だって碧ちゃんが」

 「撤回! 撤回します!」

 「よろしい。ま、情報はちょこちょこ出すわ。できれば後輩になってほしいしね」

 「お願いします!」

 「さてと。大学情報はまた改めるとして、滑り台の準備手伝ってくれる?」

 「はい!」「はい…!」

 梨乃は折り畳まれたブルーシートを地面に置き、端を少し持ち上げて反対側の端を膝で押さえると、

 「藍ちゃん、伸ばしてくれる?」と持った方の端を藍に渡した。

 「はい…!」藍はブルーシートを持って歩いて行く。藍が思っていたよりずっと大きなもので、伸ばしきると二人の距離は二m半か三mほどに開いた。

 「碧ちゃん、真ん中押さえてくれる?」

 「はーい」碧も梨乃に倣って膝でブルーシートを押さえる。

 「じゃ、広げましょう」

 「はい…!」

 梨乃と藍は横方向に歩いてブルーシートを広げた。どうやら正方形で、ちょうど四畳半ほどの大きさだ。

 「大きいですね」

 「ブルーシートとしては標準サイズかな? 5.4×(かける)5.4ていうのも置いてあったよ。藍ちゃん、裏表逆に折ります」

 「あ、はい…」

 ブルーシートの端を持って碧の方へ戻っていく。

 「そんな(おっ)きいの、広げるのも畳むのも一苦労ですね」

 「風吹いてる日は作業したくないね。碧ちゃん、押さえて」藍がブルーシートの角同士を合わせると、梨乃は碧に指示した。本当に、ただ裏返して折っただけである。

 「はーい」

 「藍ちゃん、この辺に座って」

 「え…はい」予想と違う指示に戸惑いながら、靴を脱ごうとすると、

 「あ、靴履いたままで」と梨乃に止められた。

 「あ、はい…」そのために裏返したのだろうか。まだ梨乃の意図が分からぬまま、ブルーシートにあがり、梨乃の指差した辺りに座る。

 「うん、その辺」梨乃はシートの長手方向の端を捲り上げ、

「ここ持って」と言って藍に持たせると、

「碧ちゃん」今度は薄緑色の養生テープを碧に渡して、自分は藍の左側にしゃがみ、またシートの端を捲り上げる。

「うん、よさそう。藍ちゃん、暫くそのままね」

 「はい…」漸く藍にも梨乃の意図が飲み込めた。ブルーシートに乗って滑ろうというのだ。この方法ならば、ワンコローズがローラーの間に足を挟まれることは有るまい。

 「碧ちゃん」梨乃が呼びかけると、

 「はいはーい」碧は何も訊かず、捲ったブルーシートの根元部分をきれいに整えて折り目を作った。角部の余った部分は前方に張り出させている。梨乃と藍は、その形状を維持するようにシートを持つ。

 碧は手を離し、養生テープを三十㎝ほど切ると、

「えーと、ここからとめるのがいいですかね?」張り出させた部分を指差した。

 「うん、そうね」梨乃が頷き、

 碧がそこに養生テープを貼る。これで、左壁と前壁が留まったので梨乃の手が空いた。

 梨乃と碧はすぐ右側に移動し、三人でまた同じ作業をする。これで藍の手が空いた。が、この後自分の出番は無さそうだ。

 「あの、ラブとアスラン連れてきますね…」藍は立ち上がる。ワンコローズが今の場所に居ると、滑り台にブルーシートを乗せる時、邪魔になってしまうかも、と思ったからだ。

 「うん、ありがとう」

 滑り台の乗り口に行くと、二匹が顔を上げて「遊んでくれ」という目で見つめてきたが、どうやって遊べばいいのかよく分からない。とりあえず移動して撫でよう、と藍は決めた。

 アスランの曳き綱には、両端に金属の留め具が付いている。片方は当然首輪に繋ぐのだが、もう片方は曳き綱自身に留めることで端に輪を作るようになっている。繋ぎたい時に便利な機能だ。ラブの曳き綱にはこの機能が無く、端は輪の形状に固定されている。

 藍はこの金具を外し、ラブの曳き綱に通したアスランの曳き綱を抜いて、再び金具を留めて輪にした。その間に、移動と理解した二匹は立ち上がっている。

 藍は、ブルーシートの後端まで二匹を連れてきて、その場にしゃがんだ。

 「二人とも、おとなしくてえらいね…」両手でワンコローズの頭を撫でながら言うと、アスランは少し目を細めて尻尾を振り、ラブは得意気に鼻を上に向けた。

 撫でられるのが心地好いらしく、アスランはその場に座り、ラブは伏せた。その様子が可愛くて撫で続けていると、

 「じゃじゃーん! 完成しましたー!!」と碧に告げられ、藍は慌てて振り向いた。先ほど前方に出っ張っていた側壁が折り曲げられ、前壁を補強する形になっている。前壁、側壁とも高さ約四十㎝、座る部分の幅は五十㎝も無いだろうか。紙のように折り目がつく訳ではないため後方部分は壁が立っていないが、そこは滑り台の壁に倣うだろうから心配は無いはずだ。

 「藍ちゃんありがとう」

 「あ、いえ…」作業せずにワンコローズを撫でていただけなので、何となく申し訳無い気がする。

 「ではオーダーを発表します」

 「はい!」「はい…」オーダーとは?と藍は疑問に思ったが、口を挟むことはしなかった。

 「先鋒、ラブ」

 「え?」予想を裏切る発表に、思わずといった感じで碧が声をあげた。先鋒は先頭の意だろうが、藍も、ラブが先頭で大丈夫かと思う。

 「次鋒、碧ちゃん」

 「はい!」今度は運動部らしい声で返事をする。碧は納得したらしい。ラブが飛び出したりしないように碧が面倒見ろということだろう、と藍も解釈した。

 「中堅、私。副将、アスラン。大将、藍ちゃん。以上です。では碧ちゃん搭乗準備」

 「らじゃ!」碧が敬礼して応じ、ブルーシートを滑り台の乗り口まで引き摺っていった。

 そして滑り台に載せると、

 「おお!? ボブスレーっぽい!」と楽しそうな声をあげた。目論見通り、滑り台の埒によってブルーシートが立てられ、後端まで側壁を成している。ボブスレーというのが何なのか藍は知らないが、きっと乗り物の一種なのだろう。

 「急に乗り物っぽくなったわね」梨乃も同じ印象を受けたようだ。

 「よし! 命名! ブルーシート号!」何の工夫も無い名前だが、ブルーという言葉が自分達に合っている気がして、何となく藍は嬉しい。

 碧がブルーシート号を少しずつ前に送り出し、最後尾五十㎝ほどを残して滑り台に載せてしまうと、その最後尾部分を梨乃が踏んだ。

 「では、お先に!」ラブを抱っこした碧がブルーシート号に座り、両足を左右の壁に突っ張りながら少しずつ尻で前に躄っていく。

 「じゃ、藍ちゃん、よろしくね」簡単だが重要な役を藍に渡す。

 「はい…!」少し緊張しながらブルーシート号の後端を両足で踏む。ちなみに、藍は気付かなかったのだが、実は滑り口横の貼り紙に「ペットと滑るのは禁止」と書いてある。梨乃は恐らく確信犯だ。

 梨乃は大きな手提げ袋を抱えて後ろ向きに座り、碧の背中に当たるまで尻で躄って進んだ。

 「うわ、梨乃さんいけず! そんなに嫌がらなくても!」梨乃が後ろ向きなのを背中で感じとったらしく、碧が抗議する。

 「違うわよ。こうすればアスランが乗ってくると思って」

 「あ、なるほど。アっちゃん甘えっ子だなー」

 「そうねえ」飼い主は全肯定である。藍もそう思うが、そこが可愛いのだ。

「碧ちゃん、滑ってかないように手摺つかんでくれる?」自分も両手で滑り台の壁を持って言う。

 「はーい!」碧は両手で手摺を掴んだ。

 「アスラン、おいで」梨乃が呼んだが、アスランは躊躇している。

「アス、来い!」命令口調で言うと、おっかなびっくりアスランが藍の脇をすり抜けて乗り込んだ。目の前でお座りしたアスランの背中に、梨乃が手を回して撫でてやる。

 「藍ちゃん」

 「はい…!」アスランの尻尾を踏まないように注意して座る。ブルーシート号の長さは十分で、藍の尻がはみ出ることは無さそうだ。藍は少し安心感を覚え、同時に、はみ出しても何ら問題が起こらないことに気づいて、そんなことで安心する自分を可笑しく思った。

 梨乃が両手を壁から離して藍の方に伸ばす。掴まれとの意図を察して自分も両手を差し出すと、梨乃が手を握ってきた。二人の腕と脚で出来た枠の中にアスランが座っているという構図である。アスランにとってはかなり安心できる形だろう。

 「碧ちゃん、お待たせ」梨乃が左を向いて準備完了を告げ、

 「はい!」碧が両手を手摺から離すと、ブルーシート号はしずしずと進み始めた。頭上まで覆う落下防止の鉄枠が窮屈だが、設置されているのは最初の二、三mだけで、その後は滑り台だけが森の中へと消えている。

 鉄枠を抜けてすぐ、滑り台は緩やかに左に曲がって行き、一行は木立の間をゆっくりとそちらへ進んだ。

 車輪という発明は実に偉大である。鉄枠を抜けてすぐは藍ですら物足りないくらいの遅さだったのが、左カーブを曲がりきった二、三秒後には少しドキドキするくらいに加速していた。しかも、周囲の木々に視界を遮られて地上からの高さが分からず、恰も空中を滑っているかの如くに感じる上に、左右の手摺がブルーシート号の側壁より低いため、前方の経路がよく見えない。梨乃に手を握られていなければ怖く感じていたかも知れない。

 尻に入ってくる振動の周期が細かくなり、藍はくすぐったく感じ始めた。同じことが起こっているのであろう、アスランが少し身体を浮かせて座り直す。

 短い直線を挟んで滑り台は右に曲がり、また左、右と蛇行する。カーブの度に艤体が壁に擦れて適度なブレーキとなったようで、藍が恐怖を感じるほど加速することは無かった。

 その後視界が開け、直線の向こうに終点が見えた。藍は砂場への着地を想像していたのだが、終点は櫓の上だった。櫓からは、別の滑り台が下へと向かっている。言わば、乗り継ぎ地点だ。ブルーシート号は驀らにその乗り継ぎ地点へと向かう。

 無論、櫓には柵が張り巡らされ、落下の心配は無い。しかし櫓の上は狭く、三人と一頭分の質量を背負った碧が柵に激突することが懸念された。当然碧本人もそれを予測したようで、

 「どすこいー!」碧にしては珍しく危機感の籠った声と共に柵を両手両足で押さえ、自分の腕と脚をダンパーに使ってブルーシート号を停止させた。ラブがどのような状態にあるのか藍からは見えないが、ラブの怒声が聞こえないということは、碧が巧くやったのだろう。

 「碧ちゃん、御苦労様。流石ね」

 「がんばりました! いやー、楽しいですね、これ!」と上機嫌な声で言い、立ち上がった。途端、

「あーっ! 何ですか、二人だけイチャイチャして!」まだ座ったまま手を繋いでいる梨乃と藍を見て、急転直下不機嫌な声に変わった。

 「うん、藍ちゃんが怖いかと思って」梨乃は涼しい顔で応える。全く以て妥当で、藍にとっては気の利いた行為だったのだが、

 「ズルい! 次わたしと交代ですよ!」碧は全く納得していない様子だ。

 「アスランが乗ればね」梨乃も立ち上がった。手を引かれて藍も立ち上がる。置いて行かれると思ったのか、慌てた様子でアスランも立った。ラブだけが舳先に座ったままだ。

 「気合いで乗せます!」ラブを除く全員がブルーシート号から降り、碧はラブを乗せたまま舳先の辺りを持って次の滑り台へ設置にかかった。

 「ラブ子、お前ホント要領いいなー」今度は呆れた声だ。コロコロと変わる碧の声を好もしく思いながら、藍はブルーシート号の後端を両足で踏んだ。

 「じゃ、今回は梨乃さんが次鋒です!」

 「はいはい」梨乃はラブの後ろに座り、先程の碧と同じように両手で壁を持ち、足を両側に突っ張った。

 「中堅わたし!」誰に対してか宣言し、梨乃と背中合わせに座って、

「アっちゃん、おいで!」優しい字面の台詞を威圧的な口調で言った。それに気圧されたからか、それとも二回目で恐ろしさが無くなったか、アスランはてこてこと碧の前まで歩き、お座りする。

「アっちゃん、いいヤツだ!」アスランの頭を勢いよく一撫でしてから、

「藍ちゃん」うって変わって優しい声で藍を促した。早くも両手を差し出している。

 「うん…」先程よりは滑らかな動きでアスランの後に座ると、碧が手を握り、指に指を絡めてきた。

 「オッケーです!」碧の合図と同時に梨乃が手を離し、ブルーシート号が再びゆっくりと動き始めた。

 一本目と違い、今回は木々の枝が滑り台の近くまで張り出してきておらず、滑り台の全容が少し見えている。終点付近が木立に隠されているが、その手前の状態から推して、終点がほぼ地面の高さであることは間違い無い。最初に大きく右へ曲がっている以外は小さく浅いカーブしか無く、傾斜も心もち緩いような気がする。頼もしい味方が手を握ってくれて安心というのも手伝って、藍はこの二本目を少し物足りなく感じた。

 「おー、後ろ向きって結構怖いわー」誰に言うともなく、といった感じで碧が呟いた。

 「碧ちゃん、大丈夫?」碧の口からそのような言葉が漏れるとは思ってもみなかったので、藍は驚き、心配になった。

 「あー、うんうん、全然大丈夫。思ってたよりドキドキするからこっちの方がお得だよ」碧の言う怖いは、藍の思うそれとは程度が違うようだ。

 と言っている間に一行は大きく右に曲がり、終点へと雪崩込んだ。藍の想像通り終点は地面の上で、着地して急制動がかかった梨乃の背中に碧、アスラン、藍の体重が一気にのしかかる。藍は慣性に抗しきれずアスランの背中に突っ込みそうになったが、碧が腕を一杯に伸ばしてそれを防いだ。見えていなかったのにこの反応はなかなか優れていると言える。アスランも四本の足で踏ん張ったが、その姿勢のまま前方に滑って碧の腕に顎を乗せてしまった。

 「おー、アっちゃん、大丈夫?」碧が呼びかけると、アスランは何事も無かったかのように立ち上がった。藍はそれを見て安心する。

 「ありがとう……!」

 「うん! 梨乃さん、大丈夫ですか?」藍の無事を確かめると、碧はすぐ振り返って梨乃に訊いた。藍を支えるために突っ張った分を足して、梨乃の背中にはかなりの力がかかったはずだ。

 「うん、私は大丈夫だけど、前が外れてラブが飛んでったわー」

 「え!? 梨乃さん、フロントホックなんですか!?」首だけ梨乃の方に伸ばして胸元を覗き込もうとする。

 「何言ってるの、こっちのことよ」呆れた口調で足の方を指差すが、

 「え!? パンツですか!?」碧は更にとんちんかんなことを言い出した。冗談を言っているようではない。とすると、ラブが飛んでったわー、の部分は耳に入っていなかったと見える。

 「パンツの前が外れて、ってどんな下着着けてるの、私」呆れ二割増しといった感じの梨乃は立ち上がり、前方へ歩いていく。飛んでいったというラブが、こちらに歩いてくるのが見えた。

 「いや梨乃さんだったらエロいパンツも似合いますよ!」碧はまだ座ったままである。手を握られている藍も必然的に立ち上がれず、間に入ったアスランも座り直して困ったように首を傾げている。

 「うーん、誉められてる気が全然しないわね。て言うか、私が今穿いてるパンツ知ってるでしょ」一緒に風呂に入って一緒に着替えたのだから無論見ている。

 「はい! 青のレース付きでエロかわいかったです!」その意見については藍は同意出来かねた。下着それ自体は、レースがアクセントになっているものの華美という程ではなく、ましてや淫靡な印象など全く受けない。エロいという印象は、梨乃本人の色気によるものであろうと藍は分析する。

 「そういうこと人前で言わない。はい、立って」終点のすぐ向こうには、舗装路があり、親子連れが何組か歩いている。恐らく先程一行が通ってきた舗装路の延長であろう。その反対側には三つ目のローラー滑り台。これはブルーシート号が下ってきた二つに比べればかなり小規模だが、そこいらの児童公園に置いてあるものよりはかなり長い。大きな特徴というと、二本が隣接し平行に走っている点だ。ちょうど二人の子供が並び、着地地点では親が待ち構えている。

 「はーい!」藍の手を握ったまま碧が立ち上がり、引かれた藍も一緒に立ち上がった。アスランは碧の脇をすり抜けて梨乃の傍へ行き、周りをウロウロする。

 そこにラブがやって来て、前方が破損したブルーシート号に乗り込んだ。破損と言っても、養生テープが剥がれただけであるが。

 「およ。ラブ子、まだ乗りたいのか? 梨乃さん、どうします?」

 「そうねえ。碧ちゃん、悪いんだけど、この上から流してくれる?」三つ目の滑り台を指差す。

 「はーい」

 「あ、その前に長さ半分にするわ」

 「あ、そうですね! じゃ、わたし押さえます」

 「うん、お願い」

 碧がラブの後ろに乗り込んで膝立ちになる一方、梨乃はブルーシート号の後端に向かう。

 藍も、左後方に向かった。二人で持った方が簡単だと思ったのだ。

 梨乃と目が合って微笑まれ、藍は少し赤面する。こんな簡単なことに対して礼を言われたと分かったからである。

「いい? せーの」

 梨乃の号令で藍は左後端を持ち上げ、前方に歩いた。梨乃も藍に合わせて歩く。碧のすぐ斜め前まで行くと、碧が(もと)後端の中央部を受け取り、足下に置いた。そして、位置決めをして元後端の上に膝を乗せる。

 梨乃と藍は新たな後端を左右両側から引っ張って折り目を付けた。

 その間に碧は元後端を養生テープで留める。そして、前方の破損箇所も貼り直した。またすぐ剥がれそうな気がするが、仮にそうなってもラブがまた前方に投げ出されるだけだ。滑り台の長さを鑑みれば、大事には至るまい。

 ちょうど待っている子供の列が途切れ、碧はラブを追い出して新生ブルーシート号を持ち、階段を登った。ラブがその後に続く。

 「はいよ」滑り台の上にブルーシート号を設置すると、ラブがいそいそと乗り込み、碧もその後に座った。ずりずりと尻をずらしてローラー上に達すると、ブルーシート号はまたゆっくりと動き出し、しかし短い滑り台を数秒もかからずに下って、ラブと碧を地面まで運んだ。梨乃と藍がそれを迎える。

 「おかーさん、いぬがすべってるよ!」碧たちの前に滑った男の子が藍の向かいで大声をあげ、

「ぼくもいぬとのりたい!」隣の母親のズボンを引っ張った。

 「えー」母親は困った顔をする。色々面倒だと思ったのだろう。

 「どうぞ。あの()も喜びます」梨乃が母親に声をかけると、

 「いいって。乗せてもらいなさい」子供に言って、

「すみません」梨乃に向かって軽くお辞儀をした。

 「いいえ」梨乃が応え、藍はお辞儀を返した。

「碧ちゃん、待って」階段に向かおうとする碧に呼び掛け、手提げから養生テープを取り出すと、

 「はーい!」碧は意図を察して戻ってきた。

 「ちょっと待ってね」梨乃が優しく話しかけると、

 「うん!」男の子は期待に目を輝かせた。藍はそれをとても微笑ましく思う。

 「藍ちゃん、後ろ踏んでてくれる?」と呼ばれ、傍観に入ろうとしていた藍は慌てて後ろに向かい、後端を踏んだ。

 梨乃は、留めたばかりの元後端を剥がすともう一回折り返した。こちらの面の方が多少なりとも砂の付着が少ないと、子供の母親に気を遣ったのであろう。

 碧がすぐに養生テープで留める。さらに前壁も新たにテープで補強して、

 「お待たせ。行こ」碧は男の子に声を掛け、ラブを従えて階段を登った。

 男の子がウキウキした様子で登ってくる間に、碧は新生ブルーシート号改の設置とラブの搭乗を完了させた。

「ここに座って」簡易ボブスレーの後部端を踏んだ碧の言う通りに男の子が座ると、

「梨乃さーん、いいですかー!」

 「うん、いいよ」着地点の脇で梨乃が右手を挙げるのを確認して、

 「じゃ、行くよ! 3、2、1、0!」勢いのいい言葉とは裏腹に、碧はそっと男の子の背を押した。

 僅か数秒の滑降も、男の子にとっては大冒険だったようだ。着地して二呼吸ほど置いてから満面の笑顔でラブの頭を撫で、母親に向かって、

 「いぬすごい!」何がどう凄いのかはよく分からないが、興奮してそう言った。

 ラブには誉められているのが分かっているらしい。得意顔で鼻を上に向けている。

 「すごいね」母親も少し驚いている。犬が喜んで滑り台を下るとは思っていなかったに違い無い。藍も同じだったので、その驚きは分かる。

「ありがとうございました」礼を言われ、梨乃はにこやかに、

 「いいえ」と応えた。その傍らに、アスランがお座りで控える。母親は、そちらにちらりと目を遣った。ジャーマンシェパードのように大きな犬はあまり見かけないから、これはよくある反応なのだろう。きっと、内心少し恐ろしく思っているはずだ。よく見ると穏やかな目つきなのだが、ぱっと見ではどうしてもいかつく見えてしまう。

 「ほら、上のお姉さんとわんちゃんにもお礼言って」碧はまだ滑り台の上にいる。男の子が着地点で座ったままなので滑っていけないのである。

 「ありがとう!」立ち上がって元気のいい声を出した男の子に碧は手を振って応えた。

「いぬありがとう!」何故か母親に向かって言い、ラブの頭を撫でた。珍しくラブが尻尾を振って喜んでいるところに、

 「また一緒に滑るのじゃ」梨乃が声色を使って、

 「うん!」男の子は特に疑問を抱いた様子無く、ラブに向かって返事をした。

 「またね」地声に戻って手を振る梨乃に、男の子が大きく手を振り返す。それが可愛らしく、思わず藍も手を振った。

 (うしろ)でシャーっという音がして、藍が振り返ると、碧が滑り台を下りきったところだった。地面に尻をつく前にすっと立ち上がって、藍の隣に並び、

 「かわいいね」母親と去って行く男の子の背中を見ながら言う。

 「うん…!」

 「ラブ子、愛想いいじゃないか」碧がからかうように呼びかけると、

 「年下には優しくするのじゃ」とラブが応えた。その中の人はブルーシート号をブルーシートに戻す作業を始め、藍もそれを手伝う。アスランは二人の後でウロウロする係だ。曳き綱は、梨乃の足首に巻かれている。

 「そっか、ラブ子の方が年上だもんな」ラブは七歳と昨夜言っていた。今の男の子はどう見ても三歳以下だから、圧倒的にラブが年長である。

「ちょっと見直したぞ」ラブの頭を撫でると、鼻を上に向けて喜ぶ。

 「うむ」尻尾は振られていないのだが、もっと撫でろとラブは碧に鼻で要求し、碧もその要求を容れてわしゃわしゃと乱暴に撫でた。ラブはすぐ寝転んで仰向けになり、足をじたばたさせる。藍はその様子を横目で見ながら、ブルーシートを畳むのを手伝った。

 藍の予想を裏切って、梨乃はかなりぞんざいに折り畳み、ごみ袋に入れてから大きな手提げ袋に仕舞った。

「碧ちゃん、お待たせ」

 「はーい! すみません、手伝わなくて」

 「ううん。じゃ行きましょう。ラブお願いね」

 「はーい! 次はどこ行くんですか?」

 「そうねえ。向こうに行くと古民家風の休憩所があるんだけど」と左を指差す。

 「ど?」

 「この子たち連れて入れるかどうか分からないわねー」

 「あっちは?」すぐ目の前にある二階建ての建物の方を指して訊く。建物の前を二本の道が通り、手前の道は上り坂、奥の道は下り坂の向こうに消えている。

 「芝生だけで施設は特にないんだけど、景色はいいわね」

 「ワンコローズは…まだやる気みたいですね! そっち行きましょう!」

 「藍ちゃんもいい?」

 「あ、はい…!」碧が行きましょうと言った時点で話が決まっているつもりだった藍は、慌てて返事した。

 「一本道ですか?」妙なことを碧が訊く。

 「道が二つあるじゃない? 左側の道を行ったら一本」

 「よーし、ラブ子走るぞ!」言うや否や、碧はラブの曳き綱を引いて走り出した。

 「えー」すかさず梨乃がラブ用の声色を使って嫌そうに言う。それがラブの表情、体勢とあまりに合っていて、藍は思わず吹き出した。タイミングといい、嫌そうな調子といい、名人芸の域だと思う。

 「私たちはゆっくり行きましょう。どうせ二、三百メートルだし」歩いて行ってもさほど待たせないという意味だろう。

 「はい…」運動の苦手な自分に気を遣ってのことだろうと藍は思い、歩き出した梨乃の方をちらりと見たが、梨乃は涼しい顔で碧達の背を見るばかりだ。

 「あの…アスランは走ったりしないんですか…?」そのアスランは二人の間を愉しげに歩いている。

 「目一杯走ることはあんまりないね。散歩は好きだけど、運動が好きっていうんじゃないみたい」

 「そうなんですか…」

 「ボールが絡むと別だけどねー」

 「……?」

 「この子ボール大好きだからね。投げたらダッシュで取りに行くよ」

 「あ、昨日、サッカーボール好きって言ってましたね…」

 「うん。公園でサッカーしてるところに乱入してボールかっぱらおうとしたこともあるよ」

 「え…! …サッカーしてる人びっくりしそうですね…」

 「うん。小学生か中学一年くらいの子で、明らかにアスランより軽い子だったんだけど、アスランに弾き飛ばされてた」体重が同じなら、四本足且つ重心の低い犬の方が圧倒的に当たり強いであろう。

 「え…大丈夫だったんですか?」場合によっては訴訟沙汰になりそうである。

 「うん、なかなかガッツのある子でね、ボール取られた時はびっくりしてたけど、その後取り返しに行ってたわね。犬とサッカーしたの初めてだって喜んでくれた」確かに、本気で犬相手にサッカーする機会などほぼ皆無であろう。学校の教室で自慢げにその話をする男の子を何となく想像して、藍は楽しくなった。

 「そうなんですか……よかったね、アスラン」話の内容を解っているのかいないのか、呼び掛けられたアスランは尻尾を振って喜ぶ。

 「ボール持ってきたから、遊んであげて」

 「え……」自分に、アスラン相手にサッカーなど出来る訳が無い。いや、自分一人だったとしてもドリブルすら出来ないであろう。

 「あー、サッカーじゃなくて、ボール投げたげて」藍の勘違いを察して梨乃が言い足した。

 「あ…。はい…!」

 木立に挟まれて微妙な曲線を描く道を進んだ先に、芝生が造成されていた。上から見ると恐らく円形なのであろうその芝生は、中央が少し盛り上がった円墳のような形状で、高さは二m弱。頂上に一本の木が植わり、藍達からみてその左側に二本の木が立ち、右側に木製の大きな机と長椅子が設置されている。

 中心の木の周囲で、ラブが碧に引き回されていた。碧は楽しげにスキップなどしているが、ラブは誰がどう見ても嫌々走らされている。

 「あっ、来た来た! おーい!!」さほど待った訳でもないはずだが、藍達の姿を認めた碧が立ち止まって大きく手を振ってきた。ラブはその横で寝そべる。もう動くまいという意志を感じさせるが、犬特有の舌を出した息遣いは見られない。梨乃の言う通り、動けるが動こうとしない、のであろう。

 二人の間を大人しく歩いていたアスランが急に梨乃の周りを回りだした。巻きついてくる曳き綱を跨いだ梨乃に、

 「アス!」一喝されて止まったが、明らかにそわそわしている。

 「遊びたいんですか…?」昨夜会ったばかりの藍にも容易に想像がついた。

 「うん。ここ、芝生で快適そうだしね。ちょうど誰もいないし、藍ちゃん遊んだげてくれる?」梨乃がアスランの曳き綱を外した。

 「はい…!」梨乃の言う通り、視界の中に三人以外の人影はない。園内ルールでは曳き綱を着けておかなければならないが、誰も居なければ迷惑をかける心配は無い。

 梨乃が例の手提げから小さなサッカーボールを取り出して藍に渡した。フットサル用のボールなのだが、藍は、フットボールとフットサルの使用球が違う大きさだということを知らず、サッカーボールとは以外に小さいものだと思った。

 ボールを目にして、二人の周りを回るアスランの動きが激しくなった。すぐ投げろ、今投げろと言っているかのようだ。

 大きな姿に全くそぐわぬその動きが愛らしく感じられ、藍は丘の頂上、碧とラブのいる方に向かってボールを投げた。

 が、悲しいかな藍の腕力膂力は同年代女子の平均を大きく下回る。しかも野球のボールのように片手では投げられないため、飛距離は全然出なかった。藍の位置から頂上の木まで二十m強といったところだったが、その半分に達したかどうか。ボールは辛うじて斜面の端の方に届いたものの、二度跳ねただけで、ダッシュしたアスランにあっさりと捕まってしまった。

 大きな口にボールを咥え、意気揚々とアスランが引き返してくる。その頭を一撫でしてボールを受け取る間、藍は思考を巡らし、上から投げ下ろす以外に手が無いという結論に至った。

 ボールを持って頂上の方へと歩くと、アスランもついて来る。斜面の途中で振り向いてボールを投げてみると、目論見通りさっきよりも遠くまで飛び、跳ねた高さも高かった。アスランは喜んですっ飛んで行き、跳ねたボールに飛びついたが取りこぼし、それをまた喜んで追いかけ、咥えて帰ってきた。

 その間に藍は碧とラブ、先に登った梨乃と頂上で合流する。二人は長椅子に腰掛け、藍とアスランを眺めていたようだ。ラブは仰向けに寝転び、靴を脱いだ碧に右足で腹をぐりぐりされて喜んでいる。

 「アっちゃんすっごい楽しそう!」

 「うん…!」アスランの頭を撫でてボールを取る。咥えて持ってきているのに唾液が全く付着していないことに、藍は気づいた。歯で挟んでも舌は触れていないということだ。意図してそうしているのか、そういう口の構造なのか、もちろん藍には分からないが。

 「藍ちゃん、私にも投げさせて~」

 「あ、うん…」ボールを渡すと碧はラブの腹から右足を離して靴を履き、投擲体勢をとった。藍には出来なかったが、碧は片手でボールを掴んでいる。

 「とりゃ!」碧らしいと言えばらしい掛け声と共に放たれたボールは、藍の予想を裏切って前にはあまり飛ばず、代わりに高々と舞い上がった。

 アスランがボールを目で追って着地点へと走り込み、落下を待つ。その時強い風が吹いて、ボールが少し押し戻された。目算の外れたアスランだったが、そこからジャンプ一番、空中で見事にボールを口に収め、着地した。

 「あっ…!」藍の口から感嘆の声が漏れる。

 「おー! やるな、アっちゃん! あんな大っきいの落とさないんだ」碧も驚いているようだ。

 着地したアスランはそのまま止まらずに藍のところまで来てボールを差し出した。

 「アスラン、すごいね…!」受け取ったボールを地面に置いて、両手でアスランの頭と背中を撫でてやると、最初キョトンとしていたアスランも誉められていると分かって喜んだ。

 しかし同じことをしてやろうにも、残念なことに自分にはあんなに高く投げることが出来ない。どうしようかと迷った藍に、

 「藍ちゃん、ボール蹴ってあげなよ」碧が助言した。

 「え…でも…」思うように飛ばせるとはとても思えない。いや、そもそも足に当たるかどうかも怪しい。

 「だーいじょうぶ! 四明後日の方に行ってもアっちゃんが走るだけだよ!」その通りである。アスランは、キャッチボールをしたい訳ではないのだ。どこに飛んでも喜んで取りに行くに違い無い。いやもしかしたら、どこに飛ぶか分からない方がアスランにとっては楽しいかも知れない。

「自信なかったらボール置いて蹴ればいいじゃない」

 「うん…」他に良い方法も考えつかず、藍は碧案を採用することにした。ボールを頂上付近に置いて一歩下がる。アスランは藍の意図が分かっているのか、置かれたボールに向かったりはしなかった。

 爪先でボールを蹴ってみると、予想通りまっすぐ前には飛ばず、右の方に転がっていったが、球足が遅く、斜面を下りきる前にアスランに捕まった。

 次はもっと思い切って蹴ってみよう。

 意識したためか少し力んでしまい、ボールの中心よりかなり下を蹴ってしまった。しかしそれが却って良かったようで、ボールは宙に浮いて斜面の端辺りで着地し、芝生に当たって跳ねたところをアスランの大きな口に捕らえられた。

 「アっちゃん、浮いたボールの方が得意みたいだね!」

 「うん…」

 「やっぱりボール持って上に蹴ってあげよ?」

 「うん…」また碧の助言に従うことにする。ボールを両手で持って右足の甲で蹴ってみると、ボールはきれいに正面上方に向かって飛んで行った。蹴った本人がそのことに驚いている間に、アスランは着地点目がけて走る。

 「おー、藍ちゃんうまい!」碧にも誉められた。

 今度は照れている間にアスランがボールを空中で捕まえて藍の許へ戻ってくる。ボールを受け取った時、自分が巧く蹴ってアスランも巧く捕った、そのことが無性に嬉しくなった。そしてアスランにもその気持ちは伝わった、と根拠無く藍は確信した。

 その後、十数度同じことを繰り返し、真正面に飛んだのは結局最初の一回だけだったが、アスランが素晴らしい脚を披露して全球落とさずに捕り、藍はその都度嬉しくなってアスランの背中を撫でた。

 「そろそろ行きましょうか」頃合いと見た梨乃に促され、アスランから受け取ったボールを梨乃に返す。碧は再び長椅子に座って足の裏でラブの腹をぐりぐりし、ラブは飽きもせず四本の足をジタバタさせていた。よほど気に入っていると見える。

 アスランの首輪に曳き綱が繋がれ、さあ戻るかという時に、

 「学校見えませんね」碧の言葉が二人を引き留めた。碧の見ている方向には山並が左右に延び、その手前に慎ましい街並みが広がっている。里と山の境界が明瞭で、もしここに中学二年生の河内が居たら「扇状地ってホンマに扇形なんやなー」などと言うに違い無い形状を成している。

 「そうね。そこの山が無かったら見えるかもね」右手手前の木立を指差して梨乃が応える。

 「残念」松本高校が見えないと分かって興味が無くなったのか、碧が踵を返した。梨乃と藍も元来た方を向き、アスランとラブもとことことついてきた。

 「城山からだったら見えるんじゃない?」

 「見えました! (うち)の方も見えますよ!」

 「自衛隊の横だっけ」

 「はい! 藍ちゃん()の辺りも見えるよね?」

 「うん…家は見えないけど、線路が見えてたから…」

 「藍ちゃんは渚って言ってたわよね。駅の近くなの?」

 「はい…私が歩いて五分くらいです…」自分の足が常人より遥かに遅いことを自覚しているので、私が、とわざわざ付け加える。

 「梨乃さん家の辺りは?」

 「見えるよ。て言うか、あそこから見えないのってよっぽど足元に近い地区だけだよねー」

 「あー、そうですねー」愉快そうに碧が笑い、つられて藍も笑った。

 二階建てのロッジ風休憩所の前を通る時、ラブがローラー滑り台の方へ行こうとして碧に曳き綱を引かれた。

「そっち行かないぞ」

 なおもそちらへ向かおうと頑張るラブは碧に持ち上げられ、小脇に抱えられた。抵抗が予想されたが、ラブは四本の脚をだらりと下げて運ばれるに任せた。

 「ラブ子まさか最初から」運んでもらうのが目的で芝居を入れたのかと碧は疑ったのだろう。

 「()に非ず。滑りたかったのじゃが、抱えられてみればこれも悪くなかったのじゃ」説明が入り、

 「お、おぉ、なるほど、そうでござったか……って楽したいだけか!」碧が右腋をぱっと開き、脚を垂れた姿勢のままラブが落下した。藍があっと声をあげる間も無くラブはその姿勢を崩さずに着地し、何事も無かったかのように歩き出した。碧は碧で全くラブの方を確認もせず歩調も変えない。

 それが何だか可笑しくて、藍はくすりと笑った。

 「今のは面白かったわね」

 「はい…ラブって本当に運動神経いいんですね…」

 「でしょ。かなり持ち腐れてるけどねー」

 「はい……」あんなに寝てばかりでは宝の持ち腐れと言われても仕方無い、と藍も思う。

 「ラブは碧ちゃんになついてるわね」

 「え…そうなんですか?」

 「うん、あの子図々しい割には気難しいんだけどねー。碧ちゃんもけっこう気に入ってくれてるみたいだし、よかったわ」

 「…………」どこをどう見てそう判断しているのだろう。藍から見ると碧のラブに対する扱いはぞんざいだし、ラブも懐いているようには見えないのだが。しかし梨乃がそう言うのならばそうに決まっている。

 「あっ、これステキ!」少し先を行く碧が小さく叫んで止まった。藍が今登っている坂の先、道が鉤状に曲がりながら小川を跨いでいる箇所に、小川の上へ張り出すように小さなベランダが作られていて、碧はその前に立ち藍達の来た方向を見ている。

 藍は後を振り返ってみたが、ロッジとその前の池以外、目を引くものは無い。

 「碧ちゃん、なあに?」

 「ここから見れば分かりますよう!」

 十数秒後、

 「なるほど、なかなか素敵ね」

 「でしょー!?」

 見えているのは振り向いた時とさほど変わらない光景なのだが、少しだけ距離が離れ、少しだけ見下ろす度合いが増し、手前にベランダの手摺が入っただけで、受ける印象は全く違うものになっていた。

「何かアルプスっぽくないですか!? スイスとかにああいうのありそう!」

 「うん、そうね」梨乃が相槌を打ち、藍も大きく頷いた。冴えない印象だったロッジが、ここからはとてもおしゃれに見える。

「アルプス公園だもんね」

 「おお! そうだった! さすが梨乃さん! 新婚旅行でああいう所泊まってみたいです! あなた、あれ買い取って下さらない?」急に碧の言葉遣いが変わった。

 「うん? ロッジだけでいいのかい? 君が望むなら山ごと買い取るが」梨乃も芝居がかった言葉遣いと口調、声音になる。また変なスイッチが入ったと藍にもはっきり分かった。

 「いいえ、ワタクシ多くは望みませんわ。ロッジと池と滑り台だけで」滑り台は要るんだ、と藍は心の中でツッコんだ。ラブに負けず劣らず碧も滑り台を楽しんだようだ。

 「僕のフィアンセは慎み深いね」いや、通りすがりでロッジを買えなどと言う者のことを慎み深いとは言わない。

 「いやだ、当然ですわ。ワタクシ本当はあなたとマイハニーがいればそれで十分」マイハニーとは藍のことで、

 「おやおや、この子達も忘れないでくれたまえよ」この子達とはラブとアスランのことか。

 「あら、いけない。ではワタクシのクロも入れていただけるかしら?」

 「おや、初耳だね。その子のこと、教えてくれるかい?」

 「ええ、もちろん。まず一番の特徴は、そうですわね…黒いんですの」当然である。藍もまだ直接見た訳ではないが、普通黒くない猫にクロとは名付けない。しかしまあ碧の言葉は正しい。黒猫の一番の特徴は黒いことであろう。

 「ええ!? そうなのかい?」

 「ええ、そうなんですの。でも少しだけ白いところがありますわ」

 「へえ」

 「次に、なで心地が素晴らしいんですの。extremely smoothですわ」

 「そうか、それは是非撫でてみたいものだね」

 「ええ、是非撫でてやって下さいな。さあ、もうクロがどんな子かお分かりね」

 「ああ、勿論だとも。黒の中に少し白いところがあってスムースな撫で心地…ずばりクロは鯱だね?」また何かボケてくるのだろうとは予想していたが、梨乃の回答は藍の思いつきもしないことだった。

 「あら惜しい! シャチではありませんわ。だって、長野県には海がないんですもの」いや確かに長野県は海に面していないが…。

 「ああ、そうだった! それを失念していたよ!」

 「それにもう少し小さいんですの」

 「おっと、それ以上言わなくてももう分かっているよ」

 「さすがですわね」

 「君が大事にしている家族は、黒揚羽だね?」は? アゲハとは蝶の?

 「あの…蝶ってスムースな手触りなんですか?」藍は思わず割って入った。

 「ええ、そうですわ、旦那様。あらいけない、未来の旦那様。とてもスムースなんですのよ、鱗粉がベットリ付きますけれど」相手が藍に変わると同時に話し方も変えた。全く器用な人だ。役者でもやっていけるのではないだろうか。

 「あ、そうなんですね……」藍には、虫に触れた記憶が無い。嫌いとか怖いということももちろんあるが、そもそも虫に興味が無かったのだ。それでもカブトムシというならば感触も想像できるが、蝶に関しては、触り心地ということを考えたことすら無かった。

 「残念ですけど、蝶よりは大きいですわ」碧はここで咳払いを一つ入れ、

「では、次はマイハニーに答えてもらおうかな」声音を変えた。明らかに梨乃の真似をしているのだが、芸としては梨乃に比ぶべくもない。

 「え…私…?」藍は激しく動揺した。この流れなら予測して然るべきだが、藍は完全に観客のつもりでいたのだ。

 「そうだよ、ハニー」碧は許してくれそうにない。

 「え…えっと…」正解は分かっているが、それを言ってはならないことも分かっている。頭脳フル回転でも、焦って適当な答えが出てこない。

 「未来の旦那様、あまり焦らしちゃいやですわ」梨乃まで向こうの援護に回った。

 「く…黒豹…」やっとのことで答えを絞り出したが、黒豹に白い箇所があるのかどうかというところまで気が回らなかった。

 「おー、さすがマイハニー! ほぼ正解だよ!」

 「ええ!? そうなのかい!?」

 「そうですわ、あなた。うちのクロ、本名相生クロヒデは黒チーターですの」

 「そうかー! そんなチーターがいるんだね」いや、いない。チーターは、生まれて死ぬまで真っ黒になることは無い。ちなみにクロヒョウは、生まれて暫くは褪せた黒色で、その時期には斑紋も視認できるが、白い部分は目と歯くらいである。

「おっといけない。遅くなると寒くなっちゃうね。行きましょうか」梨乃が梨乃に戻って促し、

 「はーい!」「はい…」藍はそっと安堵の溜め息を()いた。

 ベランダから約二十m、道が左に曲がっていき、

 「おおっと、見えて参りました!」右端を歩く碧が声をあげた。

 少しだけ遅れて藍の視界にも桜が入ってくる。何本もの木が全て満開かその直前であろう。咲き誇るという言葉は今日のこの桜のために作られたのではないか。

 「これはいい時に来ましたね!」碧の言葉はウキウキに彩られている。

 「そうね」梨乃も嬉しそうだ。

 「やっぱり人いっぱいいますねー」桜花の下では多くの人たちが座って楽しげに過ごしている。多くは家族連れのようだが、友人や恋人同士で来ていると見受けられる人もそこそこ居る。

 「うん。でも隙間はあるね」

 「はい! …うおー、いい匂いしてきた~!」桜に向かって進むに従い、焼肉の匂いが漂ってきた。ここアルプス公園さくらの森では、直火を除く火気の使用が認められている。

 「さっきあんなに食べたのに」梨乃が呆れている。藍も、焼肉は好きな方だが、今は全く食欲をそそられない。

 「やだなあ、焼肉は別腹ですよう!」

 「スゴいわ碧ちゃん……」

 「はい……」

 桜より焼肉に引っ張られる感じで碧が木立に辿り着き、キョロキョロと見回した。適当な場所を探しているのであろう。

「あそこはどうです!?」舗装路から見て奥の方に、かなり広く空いた場所が在る。

 「うん、いいわね。ありがと」

 「はい!」嬉しそうに碧は応えた。

 碧の見つけた場所でも、桜は満開だった。当たり前のことだが、人が見ようと見まいと桜は咲く。そう考えて、藍は何となく勇気づけられる気がした。

 「ここ人いないし、遠慮しないでシート敷きましょうか」そう言って梨乃は手提げ袋からブルーシートを取り出した。もちろん、先ほどブルーシート号として活躍したものだ。そうか、ここでまた広げるので、ブルーシート号を畳む時丁寧さよりも速さをとったのだ、と藍は梨乃の行動の理由を理解した。

 「はい!」「はい…!」

 改めて広げてみると、やはり四畳半ほどある。三人でこれは大き過ぎるような気もするが、梨乃の言う通り人が居ないのだから遠慮は無用というものだ。

 「よし、乗って乗って。風吹いたら飛んじゃうから」

 「はーい!」「はい…!」靴を脱いであがり、その靴を四隅に置く。こちらの面は、ブルーシート号だった時は折られた内側だったから、砂もほとんど付着していない。最初わざわざ裏返して折ったのはそのためかと藍は漸く気づいた。

 「梨乃さん、せっかくだからワンコローズも!」立ったまま碧が提案した。藍もまだ立ったままである。

 「うん。あ、でもちょっと待って。足拭くわ。ラブ」梨乃が呼ぶと、まさに土足であがろうとしていたラブは立ち止まった。梨乃が手提げからタオルを出すのを大人しく待ち、足を拭かれる間もじっと動かなかった。

 「ラブ子行儀いいじゃないか」隣にやってきたラブに碧がからかうような口調で話しかけると、

 「当然じゃ。暴れても時間のムダになるだけなのじゃ」返事が返ってきた。

 「なるほどー、頭いいなー、お前」

 「自分の意に沿う時はホント大人しいのよねー。アス」梨乃の後ろでうろうろしていたアスランは、待ってましたと梨乃の前に出た。こちらも大人しく足を拭かれて藍の側に来る。藍はその背中をそっと撫でた。

 最後に梨乃が来て、三人と二匹は車座になった。藍から時計回りにアスラン、梨乃、ラブ、碧の順である。ワンコローズは早くも寝そべっている。

 「じゃ、お茶でも淹れましょう。ティーバッグだけど」梨乃が、背後に置いた大きな手提げから厚手のポリプロピレン袋を取り出し、さらにその中からティーバッグを出す。

 「え? でもお湯は?」朝魔法瓶に湯を入れてきたとしても、それから約十時間が経過している。もうぬるくなっているに違い無かった。

 「沸かすよ」続いて、大きな手提げから携帯ガスコンロが出てきた。登山家などが使うあれである。

 「うわ、用意いい! て言うかどれだけ荷物入ってるんですか!」

 「内緒」と言ってポリプロピレン袋から出してきたのは水の入った二ℓペットボトルと携帯鍋。キャンプ用品でコッヘルと呼ばれる物だ。それに紙コップとライター。もちろん、先程使用したサッカーボールは入ったままだ。

 「昨日から準備してたんですか…?」藍は準備しているところを見ていないから、二人の入浴中か朝起きる前、或いは更に遡って合流前に準備したことになる。

 「今朝早いの判ってたからね」鍋に水を注ぎながら梨乃が答えた。藍は少しはぐらかされたような気がしたが、ここは踏み込むところではないと判断した。恐らく梨乃も今日を楽しみに準備してくれたのだろうが、はっきりそう言うのは照れくさいはずだ。

 「んもう、梨乃さんステキ!!」

 「桜の下でお茶って一度やってみたかったのよねー」のんびりした口調で話しながら手はてきぱきと動いて、もう湯を沸かし始めた。

 「野点みたいですね…!」

 「緋毛氈で抹茶のところブルーシートに紅茶だけどねー」

 「藍ちゃん、のだてって何?」

 「えーと…野外での茶会…」自分で言って自分で可笑しくなった。韻を踏んでいたからである。

 「ひもうせんは?」

 「え…と、緋色の毛氈…」

 「……?」

 「…………」うまく説明する言葉が浮かばない。

 「scarlet felt」梨乃が助け船を出してくれた。

 「おー! 時代劇で茶屋の椅子に掛かってるあれ?」

 「うん…」

 「そう言えばお茶会で下に敷いてるね、あれ!」

 「うん…」

 「でも私たちにはこっちの方が合ってるよね!」

 「……?」

 「ブルースシスターズだからね!」

 「あ、うん…!」

 「ところで『もうせん』ってどんな漢字? 緋は分かったけど」

 「もうは()なんだけど…せんは、花壇の壇の旁が左側で、その右に毛…」

 「えーっと、こういう字?」碧が空中に指で氈と書き、

 「うん…!」藍が頷いた。

 「勉強しちゃったー。…もしかして常識?」

 「えーと…」分からない。自分の知識が同級生の常識でないことがよく有るからだ。

 「大人でも知らない人多いと思うよ」また梨乃がレスキュー船を出動させた。学校の授業で教えないのは間違い有るまい。

「まあ常識の範囲なんて分からないけどねー。全国民にアンケートとれる訳じゃないし」全くその通りである。特に義務教育で習う範囲外のことはそうだ。

 「あははは、そうですよね!」碧も納得の様子。

 「もうすぐね。コップにティーバッグ入れて」梨乃の指示で、鍋の中から聞こえる音が小さくなってきたことに藍は気づいた。

 「はーい!」碧が重なった紙コップから三つ取り、藍がその中にティーバッグを投入する。

 梨乃は蓋を取って沸き具合を確かめると、火を小さく落として鍋を取った。

 「さあ」

 「はい…!」藍が差し出した紙コップに湯が注がれ、次に碧が両手に持ったコップにも注がれた後、片方が梨乃に渡された。

 「えー、ではカンパイのゴハッセイを梨乃さんから。皆様御起立下さい」碧が先ず自ら立ち上がった。続いて梨乃。二人が立ち上がったのを見て、藍も慌てて立ち上がる。何事かと驚いているのであろう、寝そべっていたアスランも慌てて身を起こし、お座りしてキョロキョロする。ラブは頭を擡げただけで身は起こさない。

 「御指名に預かりましたので、僣越ながら乾杯の音頭を取らせて頂きます。皆様、上を御覧下さい」藍と碧は同時に頭上を見上げた。

「満開の桜に晴れた空。この素晴らしい景色を御一緒に堪能いたしましょう。それでは、私達の出会いとブルースシスターズ結成を祝しまして」ここで言葉を切り、コップを目の高さに上げて、

「乾杯!」

 「カンパーイ!」「か、乾杯……」勢いよくコップを上に突き出す碧と、恥ずかしくて少しだけ上に上げる藍。近くには人がいないのだが、誰も見ていなくても恥ずかしいものは恥ずかしい。

 「さ、座って座って」自らも腰を下ろしながら二人に呼び掛け、

「ティーバッグ、ここに入れてね」紙コップを一つ出して携帯コンロの脇に置き、鍋に水を足して再び火を大きくした。

 「はーい! あっ、そうそう!」碧がポケットから携帯電話を取り出して、

「エクレールとミー子の動画、見ませんか!?」

 「いいわね」「うん…!」二人は左右から碧の側に移動した。

 「ラブ子はここな」碧が足を崩して胡座になり、膝の上にラブを乗せる。ラブは満足気に丸くなった。

 困ったのはアスランである。梨乃と藍が二手に分かれてしまい、どちらについていけばいいのか。迷って上体を左右に動かすばかりで、どちらにも踏み出せない。その様子も可愛らしかったが、藍はちょっと気の毒に思い、

 「アスラン」声を掛けた。アスランは即座に反応し、とことこと藍の傍にやって来てお座りした。藍はその背中に左手を回して撫でてやる。アスランの尻尾が振られて自分の尻に当たるのが分かった。

 「では皆様、準備はよろしゅうございますか? いきますよー?」碧の合図で動画が始まった。藍も梨乃も碧の方へ身を寄せて、何が始まるのか恐らく分かっていないアスランまで鼻を突き出してきた。

 ミー子が近づいてから去って行くまでの一部始終が数分に亘り再現された。所々失笑が漏れ、動画が終了したところで、

 「いやー、いいわエクレール!」碧がざっくりした感想を述べた。

 「でしょ?」

 「撮ってた時はあんまりよく見れなかったんですけど、ホントミー子にメロメロですね!」

 「そうなのよ」

 「あの…鼻が伸びてるのが面白かったです…!」あまり自分から話し始めることの無い藍だが、これはどうしても言っておきたかった。近づいてくるミー子に触れようとしてエクレールが鼻先を伸ばした時のことである。

 「そうそう! 馬の鼻ってあんなに伸びるんですね!」

 「まあ、厳密には上唇だから」

 「あ、なるほど…!」

 「じゃあ、こういう状態なんですね?」梨乃の鼻先へ唇を突き出す。所謂チュウの状態である。

 「そうね」梨乃は僅かに頭を動かして鼻の先を碧の唇につけた。

 「!」碧が驚いて固まる。梨乃がそのような行動に出るとは思っていなかったに違い無い。一方、梨乃は余裕の表情である。

 「わたしのファーストチュウが…」

 「ファーストキスではないのね」

 「それはほら! キスはあれですよ!」

 「どれ?」

 「んもう! 嫁にそんなこと言わせようなんて梨乃さんのエッチ!」

 「あら? 私はそういうの嫁の務めだと思ってたけど。まあいいわ、こういうこと?」梨乃が少しだけ唇を尖らせ、驚いた碧が大きく上体を藍の方へ寄せてきた。

 「梨乃さん…!」

 「いい反応ね、碧ちゃん」梨乃は相変わらず余裕の表情で微笑む。

 「藍ちゃーん!」碧が藍の右腕にしがみついてきた。幸い、紙コップは空になっている。

 「碧ちゃん…」藍は碧の右肩をそっと左手で撫でた。残念だが、今のところ梨乃は碧の太刀打ち出来る相手ではない。

 「ところで碧ちゃん、乾杯の御発声なんてよく知ってるわね」ここらが潮時と判断したのか、梨乃が話題を変えた。難しい言葉ではないが、中学生活まででは使わないだろう。藍も初めて聞く言い回しだった。

 「この前従姉の結婚式で司会の人が言ってました!」

 「なるほどね。もう一杯どう?」鍋を取り上げると、

 「頂きます!」即座に碧が紙コップを差し出した。

 「ティーバッグ、新しいのあるよ」

 「まだいけますよ!」

 「そう? じゃ」梨乃は紙コップに湯を注いだ。

 「藍ちゃんは?」

 「私も、頂きます…」

 「藍ちゃんもティーバッグいいの?」藍の紙コップにもティーバッグが入ったままだ。

 「はい…」

 「そう。二人とも節約家ね」湯を注ぎながらそう言った。

 「梨乃さんは浪費家なんですか?」

 「お茶に関しては贅沢かな」言葉通り、新しいティーバッグを紙コップに入れる。

 「へー。あ! 手酌はいけませんよ、手酌は!」梨乃が自分の紙コップに湯を注ごうとするのを見て碧が大声を出した。

 「またおっさんフレイズね」梨乃が鍋を傾ける手を止め、

 「でへへ、結婚式で伯父さんが言ってました」碧が梨乃から鍋を受け取り、梨乃は火を消した。

 「それはなかなかの即応力ね」その通りだと藍も頷く。これが自分だったら、覚えても使うのが難しい。と言うよりも、使うことは無いだろう。

 「わ、梨乃さんにホメられちゃった!」

 「あれ? 私、辛口の印象?」梨乃が意外そうに言う。

 二人は黙って頷いた。

 「ホメて伸ばそうヨメの才能! もっとホメて下さい!」

 「はいはい」梨乃はコップを口へと運び、

 「ホントいい時に来たわねー」斜め上を見ながら言う。

 「ホントですねー。あ! 藍ちゃん、あれやろう!」

 「え…?」

 「昨日話してたあれ!」

 「あ…!」

 「どれ?」

 「寝転んで花見です!」

 「いいわねえ!」珍しく梨乃が身体を乗り出してきた。

 「でしょー!」

 「とりあえずこれ飲んでからだね」

 「ですね。あ、梨乃さん」

 「うん」

 「今度ここで焼肉やりましょうよ!」

 「いいけど、今は全然魅力的に聞こえないわー」藍も心中で頷く。

 「えー!? じゃあお好み焼き!」

 「いやお好み焼きも」

 「えー!? じゃあホットケーキ!」

 「や、メニューの問題じゃなくて。て、野外でパンケーキ焼いてるの見たことないわね」

 「お!? じゃ、ホットケーキは採用ですね!?」

 「焼肉もお好み焼きも不採用じゃないけど。でも焼肉の後にホットケーキ食べたくはならないわね」

 「え!? そうですか!?」

 「焼肉ってだいたい腹十分目まで食べちゃうじゃない」

 「う…確かに」

 「それに同じ鉄板で焼きたくないし」

 「うう…確かに。じゃあホットケーキだけにして、トッピングを色々やりましょう!」

 「うん、いいんじゃない? トッピングに焼肉はなしだけどね」

 「ぐはーっ‼ 読まれた!」

 「玉子くらいにしときましょう」

 「玉子! 藍ちゃんの玉子焼!!」

 「え……!?」慣れた台所以外で作るのは出来栄えに自信が持てないし、屋外ということは碧と梨乃以外の人に見られる可能性も有るということだ。

 「それは私も食べたいけど、バーベキューの直火でフライパン使うの熱いでしょ。ムラになりそうだし」

 「ううう…確かに。そんな過酷なことわたしの奥さんにはさせられない…」

 「私の旦那様にもさせられないわ。目玉焼きとかスクランブルエッグぐらいにしときましょう」

 「ホットケーキに目玉焼き乗せたらカワイそうですね!」

 「え…?」藍は混乱した。ホットケーキと目玉焼きのどちらも可哀想とは思えないが。

 「可愛らしそう、ね」梨乃が素早く翻訳してくれる。

 「ああ……」藍は納得した。

 「確かに、パンケーキの大きさを目玉焼きの大きさに合わせたらキュートになりそうだね」

 「はい…!」

 「でしょー!? やる気出てきたー!!」

 「企画には賛成だわ。学校の予定と天気予報見て日にち決めましょう」

 「はい!」「はい…!」

 「さて、お茶も飲み終わったみたいだし…私お茶片付けるからこれ敷いて」手提げから今度は別のポリプロピレン袋、そしてその中から薄い毛布が出てきて藍と碧の前に置かれた。

  「はーい! ラブ子こっち」碧が膝上のラブを持ち上げてブルーシートの角の辺りに移す。

 「アスランもごめんね…」藍が立って歩くとアスランもついてきて、別の角の辺りにお座りした。犬って本当に頭がいいんだな、と藍は感心する。絶対に、アスランはこの後自分達がしたいことを理解している。

 振り向くと、梨乃も素早く中央付近を空けていた。碧と二人で毛布を広げ、空いたところに敷く。

 横に長く使うものと藍は思っていたのだが、碧は縦長に使って寝転んだ。三人並ぶのだからこれではかなり窮屈になるだろう。

 寝転んで一秒も経たずに碧は起き上がり、

 「準備オッケー! ささ、藍ちゃん、真ん中に!」と左手で自分の隣を示した。

 「てことは私はこっちね」梨乃が手提げを置いて藍の左側に寝転んだ。

 「さすが梨乃さん!」碧は改めて寝転ぶと、藍の手を握ってきた。

 藍も黙って梨乃の手を探り、握る。梨乃がそっと握り返してきたのが藍には嬉しかった。

 「アスラン、おいで」梨乃に呼ばれてアスランは梨乃の左側に寝そべる。

 「あ、そっか。ラブ子も来い来い」今度はラブが碧の隣に寝そべった。丸くなっているかどうかは藍からは見えない。

 碧の右手と梨乃の左手がどうなっているのかも見えないが、きっとラブ、アスランの背中に当てられているのだろうと藍は思う。

 「二人ともこんなこと相談してたの?」

 「昨日鹽竃神社に桜見に行って、ずっと見上げてると疲れるから寝転んで見たら楽だよねって話してたんですよ!」

 「なるほどね。確かにこれは楽だわ」

 「でしょー? でも一人で寝転んでたら危ない人っぽいじゃないですか?」

 「倒れてると間違えてられて119番とかされても困るしね」

 「あー、そういう可能性もありますね。でも三人だったら」

 「そうね。これはナイスアイディアだわ」

 「でへへ、またホメられちゃった」

 「こんな角度から見たことないから新鮮」

 「はい…!」視界いっぱいに広がる桜花の天井を微かに風が揺らす。枝の位置が低いため、仰臥しても花が遠く感じない。そしてその向こうに蒼窮の屋根。

 「あ、花びら少し落ちてきました!」碧が興奮気味に実況する。閑かに舞い落ちる花、手から伝わる温もり。昨日藍が想像した通りである。否、梨乃とワンコローズも一緒だから想像を大きく凌いでいる。

 「ナイスタイミングね」

 「はい! 桜の神様は分かってますねー!」このようにじっくり楽しまれれば、桜も悪い気はしないに違い無い。

「これは思い出になりますねー」

 「うん。忘れられないわー」

 「はい…!」きっと死ぬまでこの光景と感触、幸せな気持ちを忘れることはないだろうと藍は思う。

 「でも来年もやりましょうね!?」

 「そうね」「うん…!」

 「おりょ、ラブ子どうした? って重いなお前!」どうやらラブが碧の身体に乗ったようだ。

「うわ、あったかっ! もー、仕方ないなー」

 地獄からの使者は今回も遺憾無く能力を発揮し、その台詞を最後に碧は沈黙、代わりに寝息が聞こえてきた。

 「寝たわね」

 「ラブすごいですね…」

 「そうなのよ。って、さすがに風邪引いちゃうかも知れないね」

 「あ…! 起こします…!」

 「うん」梨乃が藍の手を離した。

 「碧ちゃん、起きて。風邪引いちゃうよ」起き上がって左手で碧の腰の辺りを揺すると、

 「んゴっ!? あれ? わたしまた寝てた?」

 「うん…」

 「スゴいわ使者…!」右手で払って使者を下に落とす。使者は不満気な顔で碧の手を見たが、そのまま丸くなった。

 「うん…」藍は相槌を打ってまた寝転び、梨乃の手を探った。碧とは手を繋いだままである。

「あれ…梨乃さんの手、冷えました…碧ちゃんよりだいぶ冷たいです…」

 「いや、多分藍ちゃんの手が温かくなったんだと思うよ」

 「え…そうですか…?」

 「碧ちゃんの手が温いのは眠いからだね」

 「そうなんですか…?」

 「碧ちゃん、ラブの肉球触ってみて」

 「はい。ラブ子、ちょっとごめんな……うわ、ぬくぬくです! さっきまでこんなに熱くなかったのに!」

 「という訳よ」

 「えー、眠いと手が熱くなると」

 「うん。多分ヒトでも同じだと思うよ。私も眠い時大体手が熱くなってる」

 「へー! 全然意識したことなかった!」

 「私も…」

 「うちのクロもそうなのかな? 今度見てみよっと!」

 「報告を待ってるわ」

 「はーい!」

 「寒い時ラブと一緒に寝たら快適そうですね…」多少冷え症との自覚がある藍は衷心からそう思う。

 「そうねー、時々布団に入れるー。ラブだけ入れるとアスランがグレるから両方入れるんだけどねー」

 「うわ、あったかそう!」

 「うん…」温かくなくてもいいからアスランと一緒に寝てみたい。

 「あ、もしかしたら梨乃さんのベッドが大きいのって!」

 「うん。ベッドと言うかマットレスだけだけど」

 「アっちゃん大っきいもんなー」

 「シングルだったらどっちかはみ出るわね。ラブは要領いいからほぼ確実にアスラン」

 「あー、そうでしょうねー」

 「はみ出ても寒くはないだろうけど、仲間はずれになったみたいでヘコむだろうね」

 「あー」

 「でも、そういうのかわいいです…」

 「うん、私もそう思う」

 「ワンコローズはデコボコっぷりがいいですよね!」

 「体格のでこぼこと性格のでこぼこが正反対だからね」

 「はい! トータルでどっちもかわいいです!」

 「はい…!」

 「そう言ってもらえると嬉しいわ」

 「ラブ子は、かわいいというよりも憎めないっていうのが正確ですけど」

 「うーん、やっぱり?」

 「はい!」碧の返事と同時に、藍も大きく頷いた。

 「だって、ラブ」梨乃が呼び掛けるも、ラブは応えなかった。寝入ったのかも知れない。

 「あ、そうだ、梨乃さん! 今度ワンコローズの散歩させて下さい!」

 「それは願ったり叶ったりね。私これから学校忙しくなるから、時々散歩してもらえると助かるわ。この子達もなついてるし、碧ちゃん達なら安心」

 「ホントですか!? 藍ちゃん、一緒に行こ!」

 「うん…!」藍としても願ったり叶ったりである。

 「よーし、覚悟しとけよラブ子、市中引き回しの刑に処してやるから」ラブを右手で乱暴に撫でているらしい振動が伝わってきた。それにしても、市中引き回しは藍が困る。ラブよりも先に自分が音を上げることは確実だ。

 「都合がいい時に連絡してくれれば親に言うから」

 「はーい! 楽しみだね!」

 「うん…!」また一つ楽しみが増えた。

 「さて皆様、少々寒くなってまいりました。名残惜しうございますが、そろそろ帰りましょうか」梨乃の言葉で気付いたが、空の青も少し鮮やかさを欠いてきたようだ。

 「えー!? もう少しー!」

 「はいはい。じゃ、あと一秒ね」

 「(みじか)っ!」

 「冗談冗談。あと一分ね」

 「はーい!」碧が、少し強く手を握ってきた。藍も少し力を込め、梨乃の手も同じように握る。梨乃も握り返してきた。

 「……」「……」「……」

 「十秒」碧が、将棋や囲碁の対局中に読み上げる調子を真似て言った。

 「雰囲気ぶち壊しね」

 「でへへへ、何かこの沈黙に耐えられなくて」

 「もう……」と言う梨乃の声は笑いを含んでいる。

 「今日ここ来れてホントよかったです! 誰ですか、行こうとか言い出した天才は!?」

 「誉めても何も出ないわよ」

 「えー!?  おさわりタイムとか出せるじゃないですかー!」

 「出せても出しません」普通そうであろう。

「さ、一分経ったわ。帰り支度しましょう」

 「はい…」「はーい」碧の返事は語尾が下がっているが、不満ぶっているだけだと藍にも分かる。

 二人の手が離れ、藍は起き上がった。間に挟まれていて分からなかったが、風が少し強く冷たくなっている。梨乃の言う通り、ここらが引き揚げ時だろう。

 「藍ちゃん、そっちお願いします」素早く起き上がっていた碧が足の方に移動して毛布の端を掴んでいる。

 「あ、うん…」藍は急いで毛布の上から降りて端を持った。

 「せーの」碧の掛け声で二人は歩み寄り、毛布の角と角を合わせた。

「藍ちゃん、こっちお願いします」

 「うん…」合わせた角を藍が持ち、下に垂れた方を碧が掴んで、

 「せーの」もう一度同じように折ってブルーシートの上に置いた。梨乃はと見ると、ラブとアスランを手近な木に繋いでいた。先ほどまで皆で賞でていた桜である。

 「梨乃さん、ここに置いときますね!」碧が毛布を手提げの上に乗せて手提げごとブルーシートの外に出すと、

 「うん、ありがとう」後は梨乃が引き取った。

 「藍ちゃん、これいこう!」碧が足許を指差した。ブルーシートのことであろう。

 「あ、うん…!」藍は慌てて靴を履こうとする。

 「あ、それ(おもて)面を谷折りにしてくれていいから」毛布を収めた袋を手提げ袋に仕舞いながら、梨乃が声を掛けてきた。

 「ブルーシート号の時と同じでいいんですね」恐らく一辺が二.五mはあるから、(おもて)面を地面に着けずに二人だけで山折りにするのは、かなり難しい。

 「うん。ごみ袋あるから」多少の土砂が付着していても気にしなくていいというのであろう。

 藍は急いで靴を履くが、いつも通りの遅さだ。片足分も紐を結び終わらないうちに碧は両足を履き終わった。

 「ごめんね…」

 「えー!? 謝ることじゃないよ。わたし靴紐ほどいてないだけだし」

 「え…?」

 「え? 面倒だからみんなこうしてない?」している。毎回靴紐を結び直す人の方が圧倒的に少ないだろう。

 「……」

 「でもそうやって結んでるとお嬢様感あるわよね」少し離れたところから梨乃が割って入った。

 「ですね!」

 お嬢様という単語が恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら、何とか平静を保って藍は靴紐を結ぶ。

 「アオエンヌはお嬢様失格でしてよ」またふらりとリノエンヌが戻ってきた。

 「え!? お姉様人のこと言え…あー!」

 「オホホホホ、(わたくし)、紐靴ではなくてよ」

 またしてもアオエンヌの完敗だ、と思っている間に藍は靴紐を結び終えた。

 「お待たせしました…」

 「藍ちゃんOK(オウケイ)?」

 「うん…」

 「じゃこっちに折るね」藍から見て右半分のシートを持ち上げる。

 「うん…」

 「せーの」碧の掛け声で、二人はブルーシートを折った。

 「これで腕届くね」

 「うん…」腕を広げれば、シートの角と折り目を持てる。

 「じゃ、持ち上げてちょっとはたこ」

 「うん…」二人はブルーシートを持ち上げ、数度パタパタとはたいて土を落とした。

 「反対側もー」

 「うん…」

 折り目を上にしてシートが地面に着かぬよう持ち上げ、右手で持っていたのを左手に持ち替えて、下いっぱいに腕を伸ばして角を掴む。

 そうして裏返したシートをまた数度はたいて、左右の角を合わせると、漸く楽に持てる幅になった。

 「ありゃ、逆か」折ったシートを水平に持ち直したところ、捻れていた。まあ有りがちなことである。碧は自分の持っている方を半回転させて捻れをとった。

「もう一回?」

 「うん、そうだね…」

 「じゃ、せーの」次も簡単に折れたが、長さと八つ折の厚さのせいで、中央付近がうまく折れていない。

「引っ張ろっか」

 「うん…」

 「いくよ」

 「うん…」碧が力を入れて引いたら前によろけてしまうかも知れない。藍は左足を半歩前に出して踏ん張る体勢をとった。

 思った通り、強い力でブルーシートが引かれた。いや、碧にとっては強くないかも知れないが。藍も頑張って引っ張り返し、バリバリっと音を立ててブルーシートの中央部が八つ折の形状に矯正された。これはなかなか気持ちがいい。思わず口元が綻んだ。

 「おー! きれいに畳めると気持ちいいね!」碧もこの感触が気に入ったようだ。

 「うん…!」

 「梨乃さーん!」

 「はいはい」黙って二人を見守っていた梨乃が進み出てシートの中央部を下から支える。

 「いきまーす」碧が藍の前までやって来てブルーシートの端を重ね、今度は梨乃の前へ行って、

「空気抜かないと袋に入りませんね」

 「そうね。藍ちゃん」

 「はい…!」

 「向こうで畳むからついてきてー」

 「はい…!」

 「碧ちゃん、ラブたちお願い」指示しながら梨乃は歩き出し、藍もついて行く。

 「らじゃ!」碧はすぐワンコローズのいる木へ向かった。

 舗装路まで出ると梨乃が、

 「ここら辺で」と言ってブルーシートを地面に下ろした。藍も同じようにする。梨乃はブルーシートの上に膝をつき、

「私空気抜くから藍ちゃん後ろから折り畳んできて」と言って前へといざっていった。藍はブルーシートの折り目を持ち上げて梨乃の後ろを進み、梨乃が向こうの端に到達して立ち上がると、持った折り目を端に重ねて折った。これで漸く自分の身長より短く畳めた。

 重ねた端に藍が膝をついて重石になり、梨乃がすぐ先程の藍と同じようにして半分に折った。これをもう二度繰り返し、ブルーシートは手提げに入る大きさになった。

 「藍ちゃんキャンプとか行く方?」唐突に梨乃が予期しない質問をしてきた。

 「え…いえ、一度も…あ、小学校の林間学校だけ…」

 「あ、そうなんだ」梨乃は意外そうに言った。「手順に無駄がないから経験者かと思った」

 「え…そうですか…?」効率的な手順を考えながら作業をしたのは確かだが、それは藍にとっていつも通りのことであるし、誰もがそうしていると彼女は思っている。考えた手順が机上の空論ということもしばしばであるから、今日はたまたまうまくいっただけだ、とも。しかも、作業自体は誰から見てものろかったはずだ。

 「うん。あんまりアウトドアな印象じゃなかったから驚いたんだけど、やったことないならもっと驚きだわ」

 「…………」どう聞いても誉められている。藍は恥ずかしくなって言葉が出なくなってしまった。

 「お待たせしましたー!」その時碧がワンコローズを連れて来て、藍はほっとした。

 「ありがと。碧ちゃん、袋貸して」

 「はい!」肩から下げた手提げ袋を梨乃に渡す。

 梨乃はその中から松本市指定のごみ袋を抜き出し、広げてブルーシートを収めた。それを手提げに戻して、

「お待たせ。じゃ、行きましょうか」と言って歩き出した。

 「はい!」「はい…」

 一行は駐車場へ向かったが、山と自然博物館の前まで戻った時、

 「あっ!!」碧が突如叫び声をあげた。声が大きかったためだろう、アスランがビクっと身体を震わす。

 「何?」

 「写真撮りましょう! 記念すべきブルースシスターズの初撮影ですよ!」立ち止まって携帯電話をポケットから取り出す。

 「ああ、いいわね」梨乃も立ち止まり、アスラン、藍も歩みを止めた。ラブだけが構わず歩き続けたが、すぐ曳き綱に止められ、不審気に振り返った。

 「えーと、テキトーな場所ないかな…お! ここいけそう!」御影石製の水道栓の上に携帯電話を立て、

「あ、梨乃さん、テープ1メートルくらい下さい!」

 「うん、ちょっと待って」梨乃は素早く手提げから養生テープを取り出し、言われた通り一m余りを切って碧に渡す。

 碧はテープを筒状に丸めて水道栓の上に置き、携帯電話をつけて固定した。

 「えーと、まずはアっちゃんをこっち向かせて下さい!」

 「うん」梨乃がアスランと碧を結ぶ直線上に移動すると、アスランは梨乃を追って向きを変えた。梨乃はアスランの頭を撫でてやり、手を離さずにアスランの後へ移動した。

 「梨乃さんさすが! バッチリです! 藍ちゃん梨乃さんにくっついて…もうちょっと…うん、それぐらい!」藍もアスランの頭に手を置いた。

「じゃあいきますよ! タイマー10秒です!」携帯電話のフラッシュが点滅し始め、碧がラブを抱き上げて梨乃の隣へ走った。

「はい、3、2、1」写真撮影時にはいつも緊張してしまう藍だが、この時は自分でも不思議なほど自然に笑うことが出来た。

 「全員そのまま! 確認してきます!」ラブを抱えたまままた走って柱の傍へ行き、今撮った写真を確認して、

「バッチリです! もう一枚! センター交代、藍ちゃん!」

 「まだ撮るのね」

 「三枚いきたいです!」

 「うん、いいわね」梨乃が藍の肩を抱いて体一つ分左にずれ、藍がアスランの後に立つ形になった。二人とも、片手はアスランの頭に乗せたままだ。

 「OKです! いきますよ!」再びフラッシュが点滅し、碧が走る。

 二枚目の撮影が終わると、碧はまた画像を確認した。その間に藍はまた移動して、今度は中央に一人分を空けた。

 「いきまーす!」三度フラッシュが点滅を始め、碧がラブを抱えて走る。ラブは迷惑しているかと思いきや、碧の腕に両前足を置いて楽しそうである。

 三枚目も恙なく撮影され、碧が画像を確認して、

「バッチリです! 写真見て下さい!」撮影会から鑑賞会への移行を宣言した。

 梨乃と藍は碧の両側へ移動して携帯電話の画面を覗き込む。

 碧は数秒間隔で三枚の写真を画面に表示させた。いずれの写真も、藍を含む全員が楽しそうである。藍は生まれて初めて、携帯電話に家族や恋人の写真を保存する人の気持ちが分かった気がした。

 「うまく撮れたわね」

 「ですね! アっちゃん首傾げてかわいいなあ!」

 「うん…!」

 「写真のデータ渡しますね!」

 「あ、それじゃうちに戻ったらパソコンに直接ダウンロードしてもらっていい?」

 「はい!」

 「博物館、どうする?」

 「またのお楽しみで!」碧が即答する。藍は、今はワンコローズを置いて行きたくない気持ちだったので、少しほっとした。そして、碧も同じ気持ちなのだろうなと思い、嬉しく感じた。

 「うん。じゃ、戻りましょうか」

 一行は駐車場に戻り、自動車の後部荷室に荷物を詰め、乗り込もうとした。が、

 「あれ、ラブ子やる気ないな」扉を開けたらすぐに乗り込むはずのラブが突っ立ったまま車内を見ている。

 「帰りたくないのかもね」

 「へー! かわいいとこあるじゃな~い?」からかうように言ってラブを持ち上げ、助手席に着いた。ラブは膝の上で丸くなる。それを見て、ラブが碧を好きという梨乃の言葉が飲み込めた。

 「じゃ、出すわね」ゆっくりと自動車が動き出し、一行は帰途に就いた。

 アルプス公園南駐車場からの下り坂はかなり急である。梨乃が巧く制御して滑らかな乗り心地だったが、かなりブレーキをかけたはずだ。自転車二人乗りでこれを下ったら、どれくらいのスピードが出るのだろう? 果たして曲がりきれるのだろうか?

 藍がそんなことを考えている間に自動車はこまくさ道路に出、数分で高辻邸の駐車場に着き、エンジンが切られた。

 「碧ちゃん、着いたよ。起きて」藍が後ろから右肩を揺すると、

 「ふゴっ!? あれ、また寝てた?」

 「見事に全部寝たわね」自らの予言通りになったにも関わらず、梨乃の口調には呆れ感が漂っている。

 「ホントだ! 使者怖っ!」無論その使者も膝の上で眠っている。

 「アスランは寝ないんですね…」

 「近場ではね。長距離だと寝るよ。いや、藍ちゃんが乗ってたら寝ないかも」ルームミラーを介して藍を見ながら話す。

 「え……?」

 「私だけだと一旦運転に入ったら着くまで完全放置だけど、藍ちゃんが乗ってればそうやって構ってくれるじゃない?」

 「あ……」藍には自覚が無かったのだが、言われてみれば確かにずっとアスランの頭と背中を撫でていた。

 「アスランは構われてると起きてるから。ラブは撫でられてても寝る時は即寝だけど」

 「え…もしかしたら、寝かせてあげた方が良かったですか…?」

 「ううん、まだ昼間だし。アスランがこんなになつくの私以外で初めてだし」

 「え…御両親は…?」

 「全然」

 「え……」

 「だから私が旅行行ってる間はやさぐれてるらしいわ。ま、我儘しないからご飯とトイレと散歩は問題ないって言ってたけど」

 「梨乃さん、ラブ子はー?」

 「碧ちゃんの想像通り」

 「やっぱり」

 「うん」梨乃は自動車の鍵を抜き、運転席の扉を開けた。藍と碧もそれぞれ車外に出る。アスランも後についてきた。

 梨乃が自動車の後部に向かうのでついて行くかと思いきや、ラブもアスランも敷地の端の排水溝へと向かい、小用を足し始めた。そう言えば、湯多里山の神の駐車場以来していない。

 その間に梨乃は荷物を出して、玄関の扉を開けた。

 「さ、入って入って。あの子たちすぐ来るから」

 「はーい! あ、荷物全部入れちゃっていいですか?」

 「うん、ありがと」

 馬具の入った箱、乗馬服とバスタオルの入った袋、温泉セットの入った籠、ブルーシートやサッカーボールの入った手提げを二人で次々と家の中に入れ、馬具箱を三和土に、それ以外を框に置く。

 ちょうどそれが終了した時扉が開き、ラブがスルッと入ってきた。そのまま框に上がろうとしたところを碧に捕まる。

 「こら、足拭いてからだろ」ラブはお構いなしに進もうとしたが、碧に持ち上げられて宙吊りになる。碧は三和土に置いてあった雑巾を拾ってラブの足裏を拭いてやり、框に下ろした。

 ラブは正面にある階段に向かったが、振り返って碧の足許まで戻り、鼻で碧の右ふくらはぎを押した。

 「お? 来いって? 梨乃さん来るまでちょっと待ちな」碧はもう一度ラブを持ち上げて今度は抱っこしてやり、靴を脱いで框に上がった。ああ、碧ちゃんは碧ちゃんでラブが可愛いんだな、と思い、藍は嬉しくなった。ラブは満足気に腕の中で丸くなっている。

 「お待たせ」梨乃の声と共にまた扉が開き、アスランが入ってきた。すぐ後に梨乃。

 「藍ちゃん、足拭くの手伝ってくれる?」

 「はい…!」藍は跪いて雑巾を取る。

 梨乃がアスランの右前足を持って上げさせ、藍が裏を拭く。アスランの足はラブの倍以上の大きさだ。肉球と肉球の間の砂が思ったより多く、全ての足を拭き終わるのに多分三分くらいかかった。

 「ありがと。さ、上がって」

 「はい…お邪魔します…」

 「お邪魔してます!」

 梨乃とアスランの後ろについて三階まで上り、梨乃の部屋に入る。

 「梨乃さん、今日もありがとうございました!」部屋の真ん中で立ったまま碧が元気よく言い、

 「ありがとうございました…!」藍も丁寧にお辞儀をした。ラブとアスランは既にマットレスの横で寛いでいる。

 「ううん、こっちこそ付き合ってもらって楽しかった。よかったらまたどこか行きましょう」

 「はい!」「はい…!」

 「あ、梨乃さん、今日のビデオと写真、ダウンロードしちゃって下さい!」

 「ありがと、そうさせてもらうわ。立ち上げるから待って」机に向かい、足許に設置したパソコンの電源を入れる。その背中に向かい、

 「あの…梨乃さん、この服着て帰ってもいいですか…?」思い切って藍は切り出してみた。

 「あ、わたしもわたしも!」

 「うん。制服より自転車向きだよね」

 「あ…はい…」

 「おや、何か歯切れが悪いわね。汚れちゃったとかだったら気にしなくていいよ」藍の歯切れはいいことの方が少ないのだが、それとは違った何かを梨乃は感じたようだ。

 「え…いえ…、そういう訳じゃないんですけど…」

 「うん…?」パソコンにパスワードを打ち込みながら相槌を打つ。

 「何か…脱いでいくのが、名残惜しくて…」

 「分かるー!! 今日は家に帰ってお風呂入るまでブルースシスターズ! でしょ!」

 「うん…!」

 「可愛いこと言ってくれるわねえ。萌えちゃうじゃない?」

 「ブフフフ」碧がエクレールの真似をし、藍ははにかんで笑った。

 その時扉が二回ノックされ、

 「梨乃ー。入るわよー」廊下から女の声が梨乃を呼んだ。

 「どうぞー」

 扉を開けて入ってきたのは、湯呑みと急須、茶菓子の載る盆を持った、上品な感じの中年の婦人だった。背格好は梨乃と同じくらい。梨乃の母親であろうが、梨乃と違って随分おっとりとして見える。

 「お邪魔してます!」「お邪魔してます…」二人は同時にお辞儀した。

 「いらっしゃい。まあ、三姉妹みたいね」衣装の色が青系で統一されているからだろう。

 「相生碧ちゃんと青井藍ちゃん。最近友達になったの」

 「そう。お二人とも、梨乃をよろしくね」

 「こちらこそ、よろしくお願いします!」「お願いします…!」

 母親は梨乃に盆を渡して部屋を後にした。

 「私、この子たちのおやつ持ってくるから、二人とも座ってて」パソコンに碧の携帯電話を接続し、操作しながら梨乃が言う。

 「はーい!」「はい…」二人はその場に座った。

 「アス、Down.」ついて行こうと立ち上がったアスランを止めて、梨乃も部屋を後にした。

 「お母さん、後ろ姿が梨乃さんとそっくりだね!」

 「うん…!」

 「胸も大きかったね!」

 「え……そうだった…?」緊張してそんなところには全く意識を向けられなかった。

 「うん! でも梨乃さんとイメージ全然違うね!」

 「うん…!」

 「ちょっとタレ目でかわいかった」

 「……」ただでさえ人と向き合う時に緊張する上に、初対面の相手である。容姿を具に観察する心の余裕など無かった。

 「あ、そうそう! 写真と動画、藍ちゃんには明日USBで渡すね!」USBメモリ、の意であろう。

 「うん…! ありがとう…!」藍は携帯電話を所持していないが、家には父親のパソコンが在る。もし仮にパソコンも無かったとしても、この写真は持っていたい。

 「でもあれだね! みんなで滑り台滑ってるところも録れたらよかったのにね!」

 「うん…そうだね…」そのためには専任カメラマンが必要になるので無いものねだりなのは分かっているが、藍も三人+二匹で滑っているところを見たいし、記念に取っておけたらと思う。

 「また行きたいね!」

 「うん…!」

 「梨乃さんに頼んどこっと! あ! その前に明日のこと言っとかないと!」

 「あ…!」楽しいことが次々と起こる一日だったのですっかり忘れていた。

 「何を言っとかないと?」ビーフジャーキーの袋を手に梨乃が戻ってきた。それを見て、アスランだけでなくラブも梨乃の傍にやって来る。

 「あ、梨乃さん! 明日の夕方また来てもいいですか?」

 「うん、明日は特に予定ないから。来てくれれば嬉しいわ。何時ぐらい?」梨乃は、二人の向かいに座る。

 「えーと…、5時でもいいですか?」

 「うん」

 「やったね!」

 「うん…!」

 「さ、冷めないうちにお茶飲んで」

 「はい!」「はい…」藍はそれまで盆に載った物が何かを見ていなかったのだが、

 「……!」緑茶にカステラ。藍の好物である。

「頂きます…」手を合わせてから、湯呑みを取り茶を一口飲む。かなり渋い茶であったが、カステラのような甘いものにはこれくらいの方が合うと藍は思っている。

湯呑みを置いて黒文字を取り、カステラを切る。その時、

 「藍ちゃん、カステラ好きなの?」碧が訊いてきた。

 「え…うん…あの…何で…?」そんなにがっついて食べようとしていたのだろうか。

 「いつもゴハン食べる時と速さが違うから」やはりか。藍は恥ずかしくなり、顔を真っ赤にした。

「あ、全然はしたない感じじゃないよ! ね、梨乃さん!」慌てた碧が梨乃に助けを求めると、

 「うん。普段の碧ちゃんの方が数段速いね」今日何度目かの救助船が出動し、

 「ブフフフフ」援護を受けた碧がかなり強引に藍を笑わせた。

 「飲み物は何が好き?」ビーフジャーキーを袋から取り出しながら梨乃が訊いてくる。

 「お茶か紅茶です…」

 「碧ちゃんは?」訊きながら、梨乃がジャーキーを三枚ずつ二人に差し出してきた。ワンコローズにやれとのことだろう。藍は軽く頭を下げて受け取った。

 「わたしはぶどうジュースですね!」グレープと言わないところが何となく碧らしいと藍は思った。

「すぐあげちゃっていいんですか?」

 「うん」

 「ラブ子」碧に呼ばれて、ラブは碧の前にトコトコと移動する。

 「アスラン…」藍も呼びかけたが、既にアスランはこちらを向いている。ジャーキーを差し出すと、アスランはそっと咥えて取っていった。

 「梨乃さんは? 飲み物何が好きなんですか?」碧が話を再開する。

 「私はミルクティーね」梨乃が答えるのを聞きながら、藍は二枚目のジャーキーを差し出す。

 「わー、梨乃さんっぽい!」

 「うん…!」

 「銘柄にもこだわりがあるんですか?」

 「そうね、ミルクティー向きのお茶なら何でも」三枚目。もう無くなってしまった。

 「具体的には?」

 「アッサム、セイロン、キームンあたりかな」

 「わー、セイロンしか知らないー。スリランカですよね!」

 「うん。セイロンが一番一般的な紅茶なのかな」

 「アッサムは?」

 「ミルクティーのためにあるような銘柄ね。渋くてミルクティー以外に使い途が無いと思うけど、ミルクには一番合うんじゃないかな」

 「へー。最後のキーマンは? 昨日いれてくれたやつですよね?」

 「そう。キームンは全銘柄の中で一番汎用性が高いと思うわ。そのまま飲むと烏龍茶っぽい味なの」

 「烏龍茶に牛乳合わなさそうな感じですけど…」藍もその意見には賛成だ。

 「烏龍茶は知らないけど、キームンはいけるわよ」

 「ドライカレーにハヤシの逆ですか」メーヤウに於ける昼食時の話である。

 「うん、そうね。あと、先入観で不味いと思い込んでるのもあるんじゃないかな。ほうじ茶にミルクとか」

 「あ、それは飲んだことあります! おいしかった」

 「え…そうなの…?」藍は茶に牛乳など考えたことも無い。

 「うん、普通のミルクティーな感じだったよ」

 「緑茶に蜂蜜とか」

 「えー!?」「……」

 「甘いのが嫌いな人は論外だけど、そういうものだと思って飲めばいけるらしいよ」

 「らしいよってことは、梨乃さんもまだ未経験?」

 「私もまだ試したことないわ」

 「そうですか…梨乃さんですら…」

 「何かゲテモノ好きみたいに聞こえるんだけど」

 「そういうつもりじゃないんですけど、梨乃さんチャレンジャーじゃないですか」

 「カレーは自分でチャレンジしたけど、紅茶の方はほぼ常識だよ、好きな人にとっては。チャレンジした先人に感謝」

 「そもそも箱開けたら発酵して変色してたのに、それでお茶いれちゃったんですもんね。相当チャレンジャーですよね」

 「ねー。でもそれ言ったらやっぱり納豆よねー」

 「確かに! わたし好きですけど、最初に食べた人は尊敬します! よっぽどおなかすいてたのかな」

 「かもね。あとトマトとか」

 「え?」「……?」

 「トマトって中米だか南米原産で、初めて見たヨーロッパ人は有毒だと思ってたんだって」

 「えー!? あんな栄養たっぷりなのに!?」藍もそう思う。

 「ねー。だから開拓時代には、大道芸にトマトを食べるってのがあったんだって」

 「うっわ、その芸人めっちゃ楽な仕事ですね!」藍も頷く。

 「しかも健康になりそうよね」さらに頷く。

 「憧れの職業第一位が今更新されました!」

 「その更新はどうかと思うけど、じゃ何が今まで一位だったの?」藍も気になる。

 「え~、そんなの恥ずかしくて言えませんよう!」

 「と言うと、AV女優とかストリッパーとか? 碧ちゃんならバカ売れしそうだけど」

 「うーん、ほめられた気がしない…て言うかそういう恥ずかしいじゃなくて」

 「じゃどういう?」

 「えー、アレですよう!」

 「どれ?」

 「んもう、梨乃さん分かってるくせにぃ」

 「いや超能力者じゃないんだから。藍ちゃん分かる?」

 「え…いえ…」藍から見ると梨乃は超能力者どころか孤狸妖怪の類いに近いのだが、その梨乃に分からないのに自分に分かろうはずも無い。尤も、本当に梨乃に分かっていないのかどうかは怪しいが。

 「……」

 「……」「……」

 「さあ」

 「……おヨメさん…」

 「は!?」本当に梨乃にも分かっていなかったらしい。藍も正直驚いた。が、碧は頬を赤らめていて、いつもの冗談とは思えない。

 「お嫁さんって職業?」藍も同じことを疑問に感じている。

 「職業ですよう! 主婦の仕事量は厖大なんです!」

 「あ、主婦ね」

 「あれ、納得?」

 「うん、主婦なら」

 「あれ? 嫁と主婦は別物ですか?」

 「と思ってるけど」

 「藍ちゃんは?」

 「考えたことなかったけど…別かなって…」

 「という訳で、嫁と主婦は別、が可決されました」

 「はぁい」

 「まあ碧ちゃんなら憧れの職業第二位にはなれるわよ。一位はほぼ不可能だと思うけど」万が一なれたとしても、一発屋で終わるのは確実である。

 「やだもう梨乃さん、どさくさに紛れて愛の告白なんて」両手を頬に当てて軽く頭を振る。

 「えーと?」

 「早く梨乃さん家の主婦になれってことですよね!?」

 「あー、そうねー、碧ちゃん愛してるー」棒読みに言ったが、

 「んもう、照れ隠しに棒読みにしちゃって!」碧の勢いは止まらず、

 「……」梨乃は両掌を肩の辺りで上に向けてかぶりを振り、

「さて、電話返さないとね」立ち上がって話題を変えた。

 「はーい! 梨乃さん、黒い兄弟もお願いします!」

 「うん。ちょっと待って」梨乃はダウンロードされた写真を確認して携帯電話の接続を解除し、

 「まず電話。ありがと」電話を渡して、

 「はい!」

 机の隣の本棚から文庫本を一冊取り出して渡した。

 「ありがとうございます! あれ、何かアニメっぽい表紙ですね」

 「うん、昔アニメ化されてたらしいよ」ロミオの青い空、という題であった。原作でジョルジョという名前であった主人公をロミオと変えており、話の結末も変更されているが、基本的には原作に沿っている。

 「へー! 藍ちゃん、知ってた?」

 「ううん…」

 「私たちの生まれる前だからねー」

 「そうなんですね。あ、わたし読むの遅いんですけど…」

 「うん、急がないから。じっくり読んで」

 「はい! …じゃあそろそろお(いとま)します」

 「うん。制服忘れちゃダメよ」

 「おお!」忘れていたらしい。

 「ほら、きれいに畳んで。うちでバイトするなら必須だよ」

 「お、おお…」

 二人は極力丁寧に制服を畳み、藍の背嚢に詰めた。

 「じゃ、失礼します」

 「うん」

 梨乃が立ち上がり、アスランも素早く反応して立ち上がった。一呼吸遅れてラブも起き上がり、扉の方に歩き出す。

 「せっかくだからわしも送ってやるのじゃ」

 「そうかそうか」碧も扉の前に行き、ラブの頭を撫でた。

 梨乃が先頭に立って廊下に出、アスラン、藍、碧、ラブと続いて玄関まで下りた。

 「梨乃さん、ありがとうございました!」

 「ありがとうございました…! …あの、お母さんにもよろしくお伝え下さい…」

 「うん。じゃ、また明日、五時に」

 「はい!」「はい…!」

 玄関を出て自転車の前籠に自分の荷物を入れ、碧はサドルに跨がる。藍が荷台に腰掛けたのを確認して、

 「それじゃ、お邪魔しました!」

 「お邪魔しました…!」

 碧が自転車を走らせ始め、二人揃って会釈し梨乃が手を振って応える。

 すぐそこの角を曲がって梨乃が見えなくなると、藍は碧の背に頬をつけた。

 ごく緩い上り坂を軽々と漕いで進みながら、

 「藍ちゃん、これから一緒にスーパー寄ろ!」

 「え…うん…!」無論、碧は梨乃へのケーキの材料を買おう、というのであろう。

 「どこがいいかなー」

 「渚のツルヤ…」珍しく藍が即答した。渚一丁目交差点の北西側にある、ツルヤというスーパーマーケットだ。売り場面積が広く、その分品揃えも充実している。ちなみにツルヤは創業明治二十五年、現在の会社設立が昭和二十五年という老舗で、東信地域を中心に長野県内で広く店舗展開している。

 「了解! じゃ、ツルヤから藍ちゃん家だね!」

 「え……」それは悪いよ、と言おうとしたが、渚一丁目まで行ってしまえば松本駅より自分の家の方が近いことに気づいた。

「ありがとう…」

 「うん!」顔は見えないが、碧が喜んでくれているのが分かる。

「元々今日は家まで送ってくつもりだったし」

 「え……?」

 「ほら、明日藍ちゃん家集合じゃない?」

 「あ……!」そうだった。今朝目が覚めてから今まで、脳内を掠める程度にしか明日のことを考えなかった。今日は剰りに多くのことが次々と押し寄せたからだ。

 そして、碧はまだ青井邸の位置を知らない。今日一緒に行くのが一番効率的だろう。

 「昨日も今日も色々あってすんごい楽しかったけど、明日も楽しみ~!」

 「うん…!」

 「下り、つかまっててね」こまくさ道路を左に曲がると駅の手前まで長い下り坂だ。

 「うん…!」碧の腰に回した腕に少し力を籠める。

 運よく信号に捕まらず、自転車は気持ちよく坂を駆け下り、女鳥羽(めとば)(がわ)に沿ってこまくさ道路を横断、線路の下を潜って渚方面へ向かった。

 「ふー、ここまであっという間だったね!」その少し先の巾上(はばうえ)交差点でついに赤信号に引っかかり、碧は自転車を止めた。

 「うん…!」藍も腕を緩める。

 「藍ちゃん、乗るのうまくなったよね!」

 「え…そう、かな…?」慣れて恐怖が無くなった自覚は有るが、何がどう上手くなったのかは分からない。そもそも後ろに座っているだけで、自発的には何もしていない。

 「うん! 今曲がった時とか、体重内側にかけてくれたでしょ」

 「え…そうだった…?」そんなことは全く意識しなかった。

 「うん! 曲がるのすごい楽だった」

 「……」

 「一人で乗るより楽しいよー」

 「……」おんぶに抱っこだと思っていた二人乗りを楽しいと言われてとても嬉しいのだが、何と言ってよいのか分からない。

 「攻めすぎると転びそうだけど、またやってみよ!」

 「うん…!」自分が何をしたのか分かっていないので、悪い言い方をすると適当に相槌を打った訳だが、碧がそんなに喜んでくれるのなら何本でも下りたいという気持ちだ。

 「それにしても梨乃さんってエクセレント過ぎだよね」言葉の間に信号が青に変わり、碧はペダルを漕ぎ始めた。

 「うん…」

 「苦手なこととかあるのかな?」

 「うん……想像できないけど……あるんじゃないかな…?」

 「えっ、何で何で!?」

 「え……何となく…だけど……」説得力の有る説明にならないので言えなかったが、根拠は有る。碧が梨乃をエクセレントと言うように、碧も藍から見ればエクセレントである。頭脳明晰スポーツ万能。だがそんな碧にもお化け的なものが怖いという弱点があることを藍は知っている。藍から見ると梨乃は碧と同じ人種だから、碧に苦手なものがある以上、梨乃にもきっと何かあるはずだ。音痴かも知れないし、絵心が無いかも知れない。実は自分と同じように男子が苦手かも知れない。

 「そっかあ! あのパーフェクト超人にも苦手がありますか!」何となくという理由にあっさり納得した碧は嬉しそうだ。それは藍にもよく分かる。夕方の階段で、それまで別世界の人のように感じていた碧が急に身近になった時、藍は巧く説明出来ない喜びを感じた。梨乃はまだ月世界の住人のように思えるが、いつか梨乃のことも同じ地上の人として感じられればいいな、と思う。きっと碧も梨乃に対して自分と同じように感じているのだろう。そう考えて、藍は嬉しくなった。

「また梨乃さんと遊びに行きたいね!」

 「うん…!」学業が忙しくなるとのことだから次に遊べるのがいつになるか分からないが、なるべく早くその日が来てほしい。

 「えーと、あの中だよね?」件の渚一丁目交差点で再び信号に捕まり、碧は右前方を指差して訊いた。そちらに見えるのは回転寿司屋とゲームセンターだが、その奥にも建物が並んでいるのが見える。郊外によくある、建物は各店舗が独立して持ち、駐車場は共同で持つという形だ。

 「うん…奥の右の方…」

 「りょうかーい!」

 信号が青になり、横断歩道を渡って敷地内に入った。

 「おぉ、けっこう広いね」

 「碧ちゃん、ここ初めて?」藍は食事の材料を買いにここにはよく来る。

 「うん! 中学の時は松本駅より北に行ったことないかなー」

 「え、そうなの…?」南松本から数キロの距離を自転車で、しかも上り坂を二人乗りで毎日通おうという碧である。松本市内など隅々まで自転車で走破しているものと藍は思い込んでいた。

 「うん。スーパーもあんまり行かないし」普通の中学生はそうかも知れない。

「藍ちゃんはよく来るの?」

 「うん…」

 「やっぱりごはん?」

 「うん…」

 「スゴいわ藍ちゃん……」料理が出来ない者から見ると、毎日食事を作るというだけでも十分尊敬に値するのだが、

 「え……?」何が凄いのか藍には分からない。困っている間に、

 「とうちゃーく!」店の前で自転車が止まった。

 「レアチーズの材料って何?」硝子の自動扉を抜け、買い物籠を取って碧が訊く。

 「クリームチーズと、砂糖と、ヨーグルト、レモン、生クリーム、ゼラチン…かな…」

 「意外と少ないんだね。何十種類もあるのかと思ってた!」

 「うん…火も使わないから簡単なの…上手な人は果物入れたりして味付けするんだけど、私は自信ないから…」

 「今回は上に載せるんだよね!」

 「うん…」

 「じゃあ果物入りに挑戦する時は呼んで~!」

 「え…うん…!」

 「では先生、お願いします!」用心棒に荒事を頼むやくざのような台詞と共に、掌を上に向けた右手を前方へ伸ばす。碧の父親は任侠映画も観るのだろうか。

 「あ、うん…」碧についていく形になったせいでつい忘れていたが、何を買うか分かっているのは自分だった。

「ごめんね、ケーキの材料以外にも買っていくけど……」

 「どうぞどうぞ!」

 藍は、売場を順に巡り、牛乳、ヨーグルト、生クリーム、クリームチーズ、漬物…と碧の持つ買い物籠に入れていった。自分の買い物なのに碧に持たせるのは気が引けるが、碧が譲る訳も無い。後でよく礼を言おうと、最初に牛乳を籠に入れた時点で方針を切り替えた。

 菓子の棚からクッキーを一箱取った時、

 「藍ちゃん、クッキー好きなの?」それまで黙って荷物持ちに徹していた碧が訊いてきた。

 「あ、好きだけど…これはケーキの材料なの……」

 「え? ケーキに入れるの?」

 「レアチーズの下に敷くの…そのままだと崩れちゃうから」

 「へー! あれ? でもちょっと小さくない?」

 「あ…そのままじゃなくて、一旦砕いてから焼いて固めるの…」

 「おー、なるほどー! それだけでもおいしそう! あ、てことはわたしの出番もあるね!? 砕くのはおまかせ~!」

 「あ、うん…ありがとう…」普段なら手伝ってもらうのは悪いなと思うところだが、今回は梨乃への誕生祝いだ。二人で作った、というところが重要になるから、なるべく碧にも関わってもらうのが良い。

 「あ、チョコレートに字を書くのもね!」

 「あ…! チョコレートペン忘れてた…!」

 「チョコレートペンっていうんだ。てことはあの中身ってチョコレートなの?」

 「えーと…たぶん材料はチョコレートと同じだと思うけど…板チョコより油脂が多いの…」原材料表記の最初が「植物性油脂」となっているはずだ。

 「それで柔らかいんだね! なるほどー!」藍が今まで気にしなかったようなことに、碧はいちいち納得、感心する。その旺盛な好奇心に藍は感心した。

 「あ、お、い、の、あ、る、か、なー!? うん、あるあるー!」適当な節をつけて碧は楽しそうだ。

「藍ちゃん、ピンクも買っていい? 最後のハート、ピンクにしたい~」

 「え…うん、お任せします…」自分には絵心がさっぱり無いから、元より全面的に頼るつもりでいる。

 「と、なるべく大きいチョコ~。おおう! ピンクのプレート! 計画変更! ハートは赤にします!」

 「うん…!」チョコレート板の現物を目の当たりにして、藍にも出来上がりが想像出来た。かなり可愛い。

 「よーし! 作るのも楽しみになってきたー!」

 「うん…!」

 「最後は果物かー。まだいちごあるといいね!」

 「うん…」

 二人は果物売り場へ向かった。

 「あ、あった!」

 「うん…!」冷蔵棚の端の方に、まだまだ残っていた。藍は、大きめで形の良いものを選んだ。値段は高めだが、今回は見た目も重要だ。

 その後引き続いて蜜柑、桃、パイナップルの缶詰を買い物籠に入れ、会計で支払いをして、二人は自転車に向かった。

 「あの…ありがとう…! 荷物持ってもらって…」

 「お安いご用で! 力仕事はお任せ下さい!」碧は頼もしい笑顔で応える。

 「うん…ありがとう…」

 二人は自転車に乗った。

 「向こうだよね?」駐車場から歩道に出るところで、道路の向こう側即ち南の方を指差して碧が訊く。

 「うん…」藍が答えた時には、自転車は歩道を左に曲がっていた。

 「歩道橋の方が早いかな」渚一丁目交差点は、交差点の西側のみ横断歩道が無く、代わりに歩道橋が建造されている。交通量が多いため、往復六車線の道路を無理に横断することはほぼ不可能で、そうなると信号を三回渡るか歩道橋を使うかという選択になり、碧はそれを天秤にかけたのである。

 「うん…でもここ階段だけだよ…」自転車を押していくための坂路は無いということである。

 「んー、そっかー! じゃ、玉子あるし、安全策だね」ちょうど信号は青で、二人は横断歩道を渡った。

 「ごめんね…」

 「ええ!? 藍ちゃん悪くないよ!?」渡ったところで右に向きを変え、信号を待つ。

 「え…うん……」その通りなのだが何となく悪い気がしてしまう。

 「あ、次の信号で道渡っても大丈夫かな?」

 「うん…次の信号で渡ると一本目の道が斜めになってて、その道進むと駅の前に出るの…」

 「えーと、渚駅だっけ?」

 「うん…」

 「駅から家まですぐだったよね?」

 「うん…こっちから行くと線路の向こうだけど、踏切渡ったら一分くらいだと思う…」もちろん自転車で、の話である。

 「りょうかーい! あ、この道まっすぐ行くと私の家の近くに出るよ!」この道、というのは国道十九号のことだ。

 信号が変わり、碧は自転車を前に出した。

 「そうなんだ…自衛隊の近くって言ってたよね…」

 「うん、自衛隊よりこっち側! 映画館の前の信号で斜めの道に入って一つ目の信号右に曲がったらすぐだよ! 明日は時間ないと思うけど、今度うちにも遊びに来て~!」

 「うん…!」

 「お、ナーイスタイミング!」次の信号まで十数mというところで進行方向の信号が黄色に変わり、碧が漕ぐ足を止めた。停止せずに道を渡れるのがナイスタイミングということだろう。

 碧は足を止めたまま右に曲がった。交差点に進入してくる自動車がいないのをいいことに斜め横断し、反対側即ち西側の歩道に乗り上げてペダルを踏み始めた。

 藍は、自分で運転していたら絶対に斜め横断などしないのだが、今は滑らかに曲がったのを心地よく楽しく感じた。数秒その余韻に浸っていると、

 「これだよね」碧が言い、

 「あ、うん…」藍が返事するより早く脇道に入っていった。

 曲がった先は中央線も歩道も無い幅広の道路で、藍は何となくほっとした。

 「ホントだ、踏切見えてきた!」

 「踏切の右側が駅なの…無人だけど…」上高地線は、全十四駅の裡、無人駅が十一駅である。

 「えっ、そうなの!? わたし無人駅って見たことない! 寄ってもいい!?」

 「え…うん…」無論藍に異存は無いが、本当に碧は好奇心旺盛だと改めて感心した。

 「よーっし、とばすぞ!」踏切まで僅か百mか二百m、とばしても大して早くは着かないのに、狙いをつけたら驀らというのが如何にも碧らしいと思って藍は愉しくなった。

 踏切の手前で碧はブレーキをかけて停止した。プラットフォームへ続く上り坂がそのまま駐輪場になっているのだが、道路の右側を走っていたために、駅の手前に建つ松本渚郵便局に隠れて見えなかったのだ。

 藍は荷台から降り、自転車を押す碧の後ろを歩いた。

 「すごっ! これ自転車降りて5秒で電車乗れるよ! て言うか、自転車でホームまで上がれちゃうじゃない!」駐輪場には十台ほどの先客がとめられている。

「うん…ホームにも自転車置き場あるよ…」

 「えぇ!?」まさに今左手の駐輪場にとめようとしていた碧が驚いて叫び、自転車を押してプラットフォームに向かった。

「うわ、ホントだ…!」坂が終わって水平になったところに、ステンレス製の管を曲げたものが十組以上設置されている。今はこちらには一台も駐輪されていないが、管と管の間に自転車のタイヤを入れるのだ。

「ここにとめたら2秒で電車…渚スゴ過ぎ!」

 「…………」わー狭ーい!とか、何にもなーい!とか、良くても、小っちゃくてかわいいね、くらいの反応を予想していた藍は、碧のはしゃぎように驚いている。

 「とりあえずここにとめて、と」碧は自転車をステンレス管の間に滑り込ませてスタンドを立てた。鍵は掛けずに自転車を離れる。

 「うわー、ホーム小っちゃくてかわいいね!」藍の予想は一部当たった。

 「あ、うん…」子供の頃から見慣れている藍にとってはこれが標準で、松本駅のホームが長大なのだが。

 「あっ、かわいい!」今度は駅名表示板を一目見てすぐ大声をあげる。

「『上高地線イメージキャラクター淵東なぎさ』…」よくある白地に黒文字の駅名表示板ではない。駅員姿で敬礼する、所謂萌え系の女の子が色鮮やかに描かれ、左下の隅に控え目な大きさの文字でそう書かれている。

 「この女の子が()いてある電車時々走ってるよ…」

 「へー! ラッピング電車もあるんだ! やるな上高地線! ここ渚だからなぎさちゃんなのかな…あっ! ひょっとすると淵東も駅名!?」

 「うん…中に路線図貼ってあるよ…」中とは待合室のことである。

 「えっ、見る見る!」碧はすぐ隣の待合室に入った。藍も後に続く。

 待合室の壁に時刻表と路線図が掲示されている。路線と言っても一本だけ、総駅数十四、総延長も十一㎞と短いが、終点新島々は上高地への玄関として全国的にも知名度が高い。

「淵東! 終点の一つ手前だね! でも何で淵東にしたんだろ? 波田なぎさでも森口なぎさでも新村なぎさでもいけるけど」何れも駅名である。

 「さあ……」

 「ネットで調べてみよっと! でも淵東なぎさって何か最近聞いたような気がするんだけどなー」

 「え…碧ちゃんも…?」先ほど碧が読みあげてから、淵東なぎさの名が妙に心に引っかかっている。

 「あれ、藍ちゃんも? てことは学校?」

 「かな……?」今のところ、学校と梨乃以外に共通の知り合いはいないし、テレビというのも考えにくい。

 「うーん、淵東さん…誰だろ?」

 「あっ! いるよ、クラスに遠藤さん…!」思い出した。名はうろ覚えで自信が無いが、姓の遠藤には間違いが無い。藍にしては大きな声で短く叫ぶと、

 「あーっ!!」待合室が揺れそうなほどの大声で碧も叫んだ。

「遠藤渚さんね!」納得の表情で同級生の名を呼び、

「月曜学校行ったら遠藤さんに話そ!」

「あ…うん…」藍はちょっと複雑な思いだ。碧が(ほか)の人と積極的に話そうというのが一つ。遠藤がその話を聞いてからかわれたと思わないかというのがもう一つ。

 「大丈夫だよ! このなぎさちゃん、かわいいし!」碧は藍のもう一つの方の心配には敏感に気づいたようだ。

「よし、写真撮っていこ!」元気よく待合室から出た。無論藍も続く。

 碧は携帯電話で駅名表示板の写真を撮り、

「んー、ちょっと暗いけどまあ分かるでしょ」と一人納得する。

「堪能しました! 行きますか!」

 「うん……」碧と別れるまであと数分足らずかと思って急に名残惜しくなってきたが、碧はそんな藍の心の動きなど知らぬげに自転車を引き出してサドルに跨る。藍も荷台に腰掛け、碧の腰に腕を回した。

 ゆっくりと滑るようにプラットフォームから踏切の前に下り、碧は右に曲がって踏切を渡った。踏切の段差で荷物、主に玉子と苺に衝撃が入らないよう、ゆっくりと進み、踏切を越えたところでペダルを止め、短い下り坂に推進を任せる。

 「あ、次右です…」

 「了解!」

 右に曲がって暫く行ったところで、

 「ここです…」

 「はーい!」自転車は止まり、藍は荷台から降りた。

「玉子、大丈夫だよね?」碧の口調はさほど心配そうでもないが、藍は一応買い物袋の中身を確認し、

「うん。あの…ありがとう…!」

「ううん、全然! 楽しかった! でも長いような短いような一日だったねー」

「うん…!」昨日梨乃と合流してから二十四時間以上、碧とは松本駅で合流してから三十四時間以上一緒にいたことになる。こんなに長く誰かと一緒に過ごしたのは、物心ついてから初めてなのではあるまいか。でも過ぎてしまえばあっという間だったようにも思える。

 「また明日! おっと、朝何時に来たらいいかな?」

 「え…と…朝ごはん八時には食べ終わるから、その後ならいつでも…ケーキ作るのは一時間もあれば十分だけど…」

 「うーん、じゃあ9時でいい?」健全で常識的な時刻が提示された。

 「うん…!」

 「じゃ、また明日!」

 「うん…! あの、気を付けてね…」

 「うん、ありがと。じゃ!」碧はペダルを踏み込んだ。

 藍はその後姿がカーブの向こうに消えるまで見送り、玄関の扉に向かった。




附 作中における虚実の説明


 現実世界についての説明は、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。

 作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。



梨乃が通っている乗馬クラブ

 実在しません。

 作中では、現実世界におけるホースランド安曇野の位置に存在します。名称を変えただけではなく、厩舎等の配置もホースランド安曇野とは違います。


その隣の建物にあるフードコートの蕎麦屋

 実在しません。

 建物とフードコートは実在します。


湯多里山の神

 実在しますが、女湯の現地確認が出来なかったため、描写が間違っている可能性が在ります。


メーヤウ

 実在します。二店舗在り、作中で三人が行くのは(きり)店です。値段は、令和二年の実際の売価を元に、多少変更しています。

(令和七年十月三十日追記)令和三年十二月三日、駅前店が開業しました。当初フランチャイズ店でしたが、令和六年十一月二十三日より直営店として営業しています。


アルプス公園

 実在します。ローラーすべり台も実在しますが、ブルーシート号の実地検証はしていません。


巾上交差点

 実在します。


渚一丁目交差点

 実在します。


ツルヤ渚店

 実在します。

(令和七年十月三十日追記)立て替えのため令和七年六月三十日から休業中で、令和八年十月再開予定とのことです。


渕東なぎさラッピング電車

 実在します。

(令和七年十月三十日追記)なぎさトレインという名が付けられています。令和六年三月十六日より二代目が就役し、同十一月三日、初代が引退しました。

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