乗馬見学 2(/3)
「さて、二人ともお腹すいてるでしょ?」
「あ、そう言えば」
「私も、少し…」
「この後温泉行こうと思ってるんだけど、空腹でお風呂は危険だから、軽く食べましょう。向こうの建物にフードコートあるから行ってみる?」
「はい!」「はい…」
ラブとアスランを乗せて二つ向こうの建物の前へと自動車で移動し、二匹を車内に残して三人は店内へ入った。
時刻が早いせいか、フードコートに客の姿は無い。
「何があるかな~! そば、うどん、ラーメン、どんぶり、カレー、定食、っと。梨乃さん、お昼ごはんはどんな予定ですか?」
「そうねえ。家の方に戻って、例えば昨日行かなかったカレー屋とか?」
「あ、それ行きたい! 藍ちゃんはカレー大丈夫?」辛くても平気か、の意だろう。
「うん…辛いの好きな方…」
「お、それはちょっと意外! よし! 梨乃さん、お昼はカレーでお願いします!」
「はいはい。ちなみにバイキング方式よ」余談。比較的よく知られていることだが、バイキング方式とは『バイキング』という店がその方式を取っていたことから来ているもので、歴史上のヴァイキングと直接の関係は無い。
「そうなんですか? じゃあここは控えめにしよっと。えーっとざるそばは、っと」
「ホントに控えめね」
「ぶふふふ」自動販売機のボタンを押しながらエクレールの真似をしてみせた。
「藍ちゃんもざる蕎麦?」
「はい…」
「さあ梨乃選手、これでざるそば以外を選びづらくなってしまいました! 果たしてどう出るのか!?」
「いや別に選びづらくないけど」と言いつつもざるそばのボタンを押した。
「何でプロレスの実況風?」
「何となくです! お願いしまーす」簡潔に答えて麺類の窓口で食券を出すと、
「あいよ! ざるそば三つ!」待ち受けていた初老の男が勢いよく迎えた。捻り鉢巻きが麺屋の雰囲気を出している。
三人は窓際の席で出来上がりを待った。窓の向こうには梨乃の自動車が停まっており、後部座席でアスランがお座りしているのが見える。顔はこちらを向いているが、犬は近眼なので、三人を認識している可能性は低い。ラブは恐らく助手席の足許で寝ているのだろう、姿が見えない。
「今のおじさんのTシャツイカしてましたね!」席に着くなり碧が愉快そうに言った。
「『I♡WASABI ! 』?」梨乃も見ていたようだ。ちなみに、『!』が山葵の絵で表現されている。
藍にはそういった洒落っ気が今一つ理解できないが、例によって口を挟むことはなかった。
「はい! 穂高の人ですかねー」旧穂高町には大王わさび農場という大規模な山葵田があり、県内はもちろん、県外にも広く山葵を供給している。また、観光農場としても営業しており、わさび煎餅やわさびソフトなどは客から好評を博している。
「かもね。背中もなかなかいいわよ」男は今向こうを向いて作業をしている。その背中には『愛♡山葵!』、前面と同じく『!』は山葵の絵だ。
「あのTシャツ着てサビ抜きとか絶対頼めませんよね」それが出来るなら、逆に漢と言えるかも知れない。
「あがりにも山葵入れるぐらいの気概じゃないとね」玉に山葵をつける人はそこそこいるが、茶に入れる人は絶滅危惧種並みに少ないはずだ。
「そういえば、馬って脚超細いじゃないですかー。よくあれで立ってられますねー。意外と体重軽いのかな?」碧が唐突に話題を変えた。
「エクレールでざっと500キロってところじゃないかしら」
「やっぱりそれぐらいありますよねー。じゃあ一本当たり125キロ…」
「実際には後肢を片方上げてることが多いから、160くらいかかってるんじゃないかな?それを中指だけで支えてるんだから凄いよね」
「え? 中指?」周知の通り馬の足先は蹄になっていて指など無い。
「蹄はね、中指が進化したものなの。ほかの指は退化しちゃったんだけどね」
「えー!? じゃあ障害の着地なんて指二本で支えてるってことですか!?」
「そうだね。衝撃荷重による応力は静止荷重による応力の倍以上だから、片方500キロ以上ってことになるね。砂のクッションで軽減されるとは思うけど」
「うわ、折れる折れる!」
「うん、だからあんまりたくさん飛ばせないようにしてるよ」しかし、不思議なことに、障害馬術に於ける骨折が競馬の平地競争に於ける骨折より遥かに低頻度なのが実際である。全力疾走はそれだけ大きな衝撃が連続して入るということだろうか。
「中指以外は全部なくなっちゃったんですか?」
「ううん、少なくとも親指の趾は残ってるよ。夜の目で夜目って言うんだけど、脛みたいに見える部分の内側にかさぶたみたいなのが付いてるの。昔の人は、馬が夜でも見えるのはそこで見てるからだって思ってたんだって」学術的には附蝉と言うらしい。確かに、蝉のように見えないこともない。
「それで夜目ですか」納得する碧の隣で藍も頷く。
「ところで、おうりょくって何ですか?」碧同様、藍も聞いたことの無い単語なので、漢字も分からない。
「力がかかった時物体の内部に生ずる、単位面積あたりの抵抗力かな」
「てことは圧力と同じですか?」
「同じ単位だね」
「でも圧力とは違うんですか?」
「そうねえ、圧力は外からかかる力だけど、応力はそれに応じて内部に発生する力だね。だから、圧縮だけじゃなくて引っ張りでも応力は発生するよ。単位が同じだから、本質的には同じだと思うけど」
「へー」碧は分かったような分かっていないような表情だ。
「力の釣り合い習ったでしょ」
「はい」
「じゃあ、ある物体に100㎏重の力がかかっていて、その物体が壊れない場合、反対向きにも100㎏重の力がかかっている訳だよね」
「それが応力ですか?」
「ううん、応力の単位は圧力と同じだから、100㎏重を断面積で割ったのが応力」
「どこの断面積ですか?」
「その力の方向に垂直な全ての断面」
「えーと…」
「そうねえ、じゃあ、碧ちゃんが100㎏の荷物をこうやって支えてるとするじゃない?」梨乃は、両腕を上に伸ばし、掌を上に向けた。
「重っ!」
「うん、がんばって支えて。その時、碧ちゃんの身体のどの部分に力が発生してる?」
「掌じゃないんですか?」碧と同じように藍も考えるが、
「じゃあ、掌以外の部分は力抜いても大丈夫?」との誘導で、
「あー! 全ての断面ってそういうことですか!」なるほど!と藍も合点がいった。
「そう。掌から足の裏まで全部力発生するよね」
「えーと、じゃあ、太いところより細いところの応力の方が大きいってことですか?」
「うん。じゃあ今度は、砂時計みたいな形の物体を破断するまで引っ張ると考えましょう」
「はい、先生!」碧が右手を挙げる。
「はい、相生君」
「くびれたところの応力が大きいので、そこでちぎれます!」
「正解。ついでに言うと、どれだけの応力で破断するかは物質によって決まってるので、応力を計算すれば、壊れるか壊れないかを予測することができます」機械などを設計する時の基本である。
「お~、なるほどー」碧はいたく感心した様子である。
「で、その応力が、衝撃荷重だと大きくなる、っていうのは感覚的には分かるよね?」
「はい」碧が答えると共に藍も頷く。
「計算上、落差が0の時の応力が静止荷重による応力の2倍。落差が大きければ、当然応力も大きくなるよ。式が複雑だからちょっと口では説明できないけど」それに、縦弾性係数という物質固有の定数について理解していなければならないのだが、中学校では教えない。
「あの、応じる力で、おうりょくですか…?」
「うん、そう」梨乃が答えるのに重なって、
「ざるそば三つ、お待ちー!」山葵Tシャツの親爺から声が掛かり、三人は蕎麦を取りに行った。ちょうど講義が終了したところでよかった、と藍は思った。
「頂きます」席に着いた三人は声を合わせ、蕎麦を啜る。
「あっ! おいしい!」一口で碧が声を上げた。
「うん…!」藍が短く同意すれば、
「フードコートのレベルじゃないわね」梨乃も褒める。
「やるな、I♡WASABI ! !」
「あのおじさんが打ってるかどうか分からないけどねー」
「後で聞いてみよっと!」
「碧ちゃんのそういうとこ、羨ましいわ」
「はい…」藍が同意すると、梨乃は少し驚いた様子で藍を見つめてきた。
「あの…?」藍はそれに戸惑う。
「んーん、何でもない」と言って梨乃は藍から視線を外した。それを見た碧がすかさず、
「何ですか! 今のラブコメっぽいやりとり!? わーたーしーもーなーかーまーにーいーれーてー!」
「いやー、でもこの件に関しては碧ちゃん明らかに仲間じゃないから。ね」
「えーと…、はい…」少しの逡巡の後、小さく、しかしはっきりと藍は答えた。
「ガビーン!! 藍ちゃんまで…! 早くも梨乃さんに籠絡されてしまったか!」
「残念だけど籠絡されてないわ。ね」
「えーと…、はい…」藍は意図せず、梨乃の思惑通りの返事をした。
「わーん! 二人ともいけずー!」
「え…!? 私も…?」藍には、何故そう言われたのか分からない。
「ふー。碧ちゃんいじるのは楽しいわね。でも藍ちゃんが誤解されてるみたいだから解いておきましょうか」
「何ですか」わざとらしく頬を膨らませ、ジト目で梨乃の方を見ながら言う。
「あのおじさんが蕎麦打ってるのか訊いてみるって言ったでしょ? そうやって知らない人に話しかけられるのが私たちには羨ましいって話。碧ちゃんは自分の事だから羨ましくないでしょ?」
「まあ」
「だからこの件に関しては碧ちゃんは仲間じゃないの」
「むー。分かりましたけど結局仲間はずれじゃないですかー!」
「まあねー。でも理を説いて分からない碧ちゃんじゃないでしょ」
「むー。そう言われると…よしとしときます」不承不承といった感じで碧がそう言い、
「さすが碧ちゃん」にっこり笑って梨乃が言い、つられて碧も笑った。会話が着地点を外さなかったようで、藍はほっとした。
それから碧と梨乃は一気に蕎麦を食べ、藍が食べ終わるのを待った。
「いただきました」再び三人声を合わせる。
「おいしかったですー! このそばおじさんが打ったんですか?」食器を返却する際に宣言通り碧が訊くと、店の親爺は、
「ありがとう、そうだよ。嬢ちゃんたちまでお客さんいなかった分いつもよりたくさん打ったからな」嬉しそうに答えた。おいしかったの一言に気をよくしたのだろう。
「たくさん打った方がおいしいんですか?」
「そうだよ。家で打つ時はこれでもかっつうぐらい打つといいぜ」
「はい、やってみます! いただきました!」
「ありがとうございましたー」親爺に見送られつつフードコートを出る。
「梨乃さん、ラブ子とアっちゃんのごはんは?」
「うん、これから」
「アっちゃんたくさん食べるんだろうなー」
「大きいもんね…」
「アっちゃんて体重何キロなんですか?」
「厳密に量ったことはないけど、だいたい45ぐらいかな」
「重っ!! わたしより重いー。ということは当然藍ちゃんも梨乃さんも」碧の自覚では、三人の中で自分が一番重いということのようだ。
「うん」「うん…」藍は、昨夕の碧の言い方から、余程重いのかと思っていたのだが、今の言葉から四十五㎏には満たないことが分かり、少しほっとした。
自動車に戻った三人は、ラブとアスランを一旦自動車から出すべく扉を開けた。アスランは扉が開くのを待ち構えて飛び出て来たが、ラブは助手席の足許で丸くなったまま動こうとしない。
「うおーい、ラブ子、ごはんだぞー」碧がラブを抱えて車外に出すと、漸くラブはのそのそと自動車の後ろへと歩いて行った。
そちらでは梨乃が既に準備を整えてラブを待っていた。と言っても、用意されているのは器だけで、中身はまだ袋の中だ。
ラブが近づいて来るのを見て器に中身を移し、地面に置く。器の傍まで来たところで、
「Wait.」と声を掛けるが、ラブはお構いなしに器に鼻先を突っ込んだ。すかさず梨乃が平手で後ろ頭を叩き、首根っこを掴んで器から離す。
「ウー!」ラブが抗議の唸りをあげるが、
「ウーじゃない!」梨乃に一喝され、すごすごと引き下がった。梨乃は改めて器をラブの前に置く。
「Sit.」今度は梨乃の指令に従った。さらに続けて、
「Wait.」ラブはおとなしく待つ。ちなみにアスランは梨乃の後ろをうろうろしている。
「よし」許しが出た途端、ラブは顔を器に突っ込んで食べ始めた。四字熟語辞典の「一心不乱」の項目に解説の動画として入れたいぐらいの集中ぶりだ。
すぐに梨乃は次の器を取り、ラブの器から一mほど離して置いた。ラブの器の数倍の容積だろうか。アスランは、指令の入る前からおすわりして待つ。梨乃は無言で数秒過ごし、
「よし」と発した。アスランもすぐ食べ始めた。
「いやー、性格出てますねー!」碧が笑う。
「よねー」
「毎回あんな感じですか?」
「ほぼ。たまーにラブがおすわりして待ってたら、隕石でも降るんじゃないかと思うわ」
「分かるー」
「アスランが言うこと聞かずに食べようとすることは時々あるけどね」
「え、そうなんですか…?」碧より早く藍が反応した。
「何か意外」
「時々調子に乗っちゃうのよねー」
「アスランも頭叩かれるんですか?」と碧。藍も同じ疑問を持っている。
「調子の乗り具合によるね。口頭注意から半殺しまで各種コースを取り揃えております」
「半殺し……!」梨乃の口からそんな言葉が出たことに藍は衝撃を受けた。
「ジャーマンは大きくて強いからね、柴よりも厳しく躾けないと。万一があったらそれこそ殺処分になっちゃうから」
「あ…そうか…そうですよね…」アスランがあまりにおとなしいので忘れてしまうが、軽く噛んだだけでも怪我させてしまうかも知れないし、本気で噛めば手指くらいちぎってしまう、それだけの力を持つ生き物なのだ。
「まだ半殺しまでいったことはないけどねー」
「どの辺までですか?」碧の質問に、
「算盤責め」とボケてみたようだったが、
「そろばんぜめって何ですか?」碧は言葉自体を知らないようだった。藍も知らないが。
「おっと、通じなかったか。算盤のようにギザギザになってる石の上に正座させて腿の上に重石を乗せていく拷問よ。『石を抱かせる』という表現もあるわ」
「うわ、痛そう!」碧が顔を顰める。藍も想像しただけで痛くなってきた。
「うん、まあ拷問だからねえ」
算盤責めについてはこれだけで打ち切りとなり、出発の前に三人は犬たちの朝食の後片付けをした。
朝高辻邸を出発した時と同じようにまずアスランとラブを乗せてから、藍と碧が席に着く。
藍がアスランの頭を腿に乗せて撫で始めた時、
「お? どうしたラブ子」助手席から声が上がった。
「どうしたの…?」
「ラブ子が何か要求してるんだけどどうしてほしいのか分かんないんだよねー」
「膝に乗せるのじゃ」扉を開けた梨乃が運転席に座りながら声色を使った。
「お、おお」碧はラブの前肢を持って抱き上げ、腿に乗せた。
「ぬくっ!! これはヤバいです! すぐ眠くなりそうです!」
「そうなのよ。嘗てこれで眠らなかった者はいないという地獄からの使者」エンジンを始動させ、すぐに自動車を出す。
「えー!? どっちかって言うと極楽からの使者って感じですけど!?」
「碧ちゃん、寝ちゃダメよ」
「うわ、地獄からの使者だ!」
「でしょ?」街道に出て元来た道を逆に辿る。
「……でもこれ梨乃さんが『今夜は寝かせないから!!』って言わなければ地獄にならないんじゃ?」
「気づいたか。しかもまたエロい脚色入れてるし」
「ブフフフ」またエクレールの真似をする。どうやら気に入ったらしい。
「ホントそういうの好きなんだから。…寝たわね」梨乃の言う通り地獄からの使者は強力だった。強力な剰り使者自身も眠りに落ちている。
藍の腿に乗っているアスランの頭もぬくぬくだ。その頭から背中まで撫でながら、藍も眠くなってきた。
「温泉まですぐだから、寝ない方がいいよ。寝入りっぱなに起こされちゃうから」碧はそれが確定している。
「山の中にあったところですか…?」
「うん、そう。よく見てたわね」往路の山中はまだ薄暗かった。
「たまたま…信号で曲がってすぐでしたから…」
「なかなかいいお湯だよ、サラサラで。露天はちょっとぬるいけど。藍ちゃん、熱い方が好きじゃない?」
「あ、はい、そうです…あの…?」何故そんなことが分かるのか。
「そんなイメージ」
「え…? そうですか…?」
「うん、何となくね。藍ちゃん、また髪流してくれる?」
「はい…!」
「ありがとう。髪には温泉良くないんだけど、かなり汗かいちゃったから」
「良くないんですか…?」
「硫黄が髪を傷めるんだって。知り合いに、家に温泉来てる人がいるんだけど、その人すごい髪の毛の色抜けてるし」そんな羨ましい環境で暮らせるなら髪の傷みを我慢するという人もたくさん居そうだが。
「一回ですごく傷むわけじゃないけど、知ってて損はないでしょ? 藍ちゃん、せっかく髪の毛綺麗なんだし」
「え…そんな、きれいじゃ…」梨乃の方がよっぽど綺麗な髪だと藍は思うのだが。
「綺麗でしょ。サラツヤブラックじゃない」昨夜の碧と同じ言い回しをした。
見られているわけでもないのに、誉められた恥ずかしさに俯く藍。昨夜まで、容姿に関することを誉められた記憶は無い。それが、恐らく誰が見ても綺麗な二人に「綺麗」と言われた。しかも、二人とも藍に対してお世辞を言うような人ではない。
「さ、もう着くよ。碧ちゃん起こして」隣の梨乃が腕を伸ばせば早いのだが、生憎道が右に左に次々と曲がって、梨乃はハンドル操作で忙しい。
「あ、はい。…碧ちゃん」藍はアスランの背中から左手を離して碧の右肩を揺すった。が、起きそうな様子は無い。
「碧ちゃん、もう着くって」思い切って強く揺すってみると、
「んあ? あれ、わたし寝てた?」
「一分くらいで寝たわよ」温泉の駐車場に向かって曲がりながら梨乃が答えた。
「ホントですか!? 地獄からの使者恐るべし! て使者寝てるし!」
「この子達は置いてくから寝かしといてやって」言い終わるのと自動車が停止するのとほぼ同時だった。二十台程度収容の駐車場に、停まっているのは梨乃の自動車と他に二台のみ。流行っていないのか、朝だからなのかは分からない。
「はーい」シートベルトをはずしながら応え、使者をそっと足許に置く。全く起きる気配は無かった。
「ホントに何しについてきたんだ、ラブ子」
「何もしなくても一緒に来たかったんじゃないかな…」起き上がったアスランの頭を撫でながら藍は一人言のように呟いた。
「そうなのかなー」扉を開け、外に出る。
「多分……」藍もシートベルトを解除し、扉を開けた。多分、と言葉は控えめにしたが、藍には根拠の無い確信が有る。もし碧と梨乃が出掛けると言ったら、自分もついて行きたい。全く会話に入れなくても、その場には居たい。ラブもきっとそれと同じ心持ちなのだろうと思う。
「じゃ、行きましょう」先に出て後部荷室から風呂道具を取り出した梨乃に促され、藍は慌てて車外に出た。アスランの視線が少し痛い。一緒に連れて行ってやりたいのはやまやまだが、流石にそうはいかない。
二人の後について建物に向かう。山肌にへばりつくようにして建っているのが駐車場からも判る。本当にここが乗馬クラブのあった平地部から数分の距離なのか疑いたくなるような山奥感だ。両隣の家屋らしき建物も、鄙びた感じを打ち消すには役者不足だ。
「ゆったりやまのかみ」キョロキョロしていた碧が駐車場の看板を声に出して読んだ。看板には「湯多里山の神」の表記。
「なかなかステキな当て字ですね!」藍もそう思う。
「ねー。お湯もいいわよ」
「美人の湯って書いてありますね!」建物入口の前に立ててある幟を見て碧が言うが、藍にはよく見えなかった。
「お湯サラサラだからね」
「スベスベになりますか?」
「うん。但し個人の感想です。効果には個人差があります」
「何ですか!? そのテレビショッピングのテロップみたいなコメント!?」
「いやほら、みんながみんなスベスベになったと感じるとは限らないじゃない? すでにスベスベの人とか」
「そうですけど、梨乃さんはスベスベになったんですよね?」
「うん」
「じゃあそれでオッケーです! わたしもスベスベマンジュウガニみたいにスベスベになるぞー!」
「スベスベマンジュウガニなんて実物見たことないわ」
「すべすべまんじゅうがに…?」
「そういう種類の蟹よ」
「そんな蟹がいるんですか…?」
「うん」
「初めて聞きました…」
「うん、知らない人の方が多いんじゃない? 碧ちゃんがおかしいの」それならば梨乃もおかしい部類に入るのだが、藍はそこには触れなかった。代わりに碧が拳を振り上げ、
「おかしい人呼ばわり、はんたーい!!」と抗議したが、梨乃は柳に風と受け流し、
「ちなみに有毒」と付け加えた。
玄関は商業施設にしては小ぢんまりとしていて、左手に下駄箱と券売機、右手に受付があり、正面が入口になっているが、すぐ向こうにポスターの貼られた壁が見えている。廊下になっていて、右か左に行くのだろう。
「買わなくていいよ、回数券あるから」脱いだ靴を下駄箱に置いて券売機に向かおうとした碧を梨乃が制し、受付に向かって、
「お願いします」
「はいー」ガラス戸の向こうに座る年配の婦人がのんびりした声で応え、券に何やら書いて返してきた。
「あれ? 返ってきましたね」
「うん、ここ時間制だからね。帰りにもう一回出すの」ちなみに、一回券を買うと時刻が印刷された状態で券売機から払い出される。
「へー。何時間ですか?」
「三時間」
「じゃあ余裕ですね!」
「お風呂だけならね。でもこういう所来ると、あがった後にダラダラしちゃうじゃない?」ダラけた梨乃を藍はうまく想像することが出来ないが、同じくらいチキチキしている碧も城山公園の展望台では自分と一緒にのんびり過ごした。
「うわっ、それも込みですか!」
「うん」時間制の施設では大抵そうだが、そういう所に行ったことのない碧に普通が分からないのも仕方無い。
「じゃあすぐ行きましょう! 今行きましょう! マッハで行きましょう! あ、でもわたしその前にトイレ!」
「その前に財布とケータイ出して。ロッカーに入れちゃうから」受付の右側に小さなロッカーがあった。
「あ、はい!」碧は素早くポケットから出して梨乃に渡す。
「左に曲がってすぐよ」
「はい!」慌ただしく向かう碧。
「籠にバスタオル入れとくから」
「はい!」
「あんなに慌てなくてもいいのにね。碧ちゃんらしいけど」
「はい…」全くその通りだと藍は思う。何と言うか、行動の全てに力が入っている感じだ。
梨乃は藍の財布を受け取り、自分の財布と携帯電話も一緒にロッカーに入れ、鍵を掛けた。そして、碧を待たずに入口を潜って右に曲がり、短い廊下の突き当たりにある扉を開けて中に入った。
藍も続いて入り、扉を閉める。中は、十畳ほどの脱衣所だった。正面には脱衣籠を収納した棚。その左にガラス扉があり、浴室に続いている。左手は一面ガラス扉になっており、外の露天風呂が見えている。その手前には洗面台。脱衣所は無人だ。
梨乃は風呂道具を浴室への扉の前に置くと棚から脱衣籠を三つ下ろし、それぞれにバスタオルを入れた。そのうちの一つを藍の足許へ滑らせ、服を脱ぎ始める。
「ありがとうございます…」藍も上着に手を掛ける。
「うん」梨乃はブラウスを脱ぎながら応えた。
藍が漸くキュロットを脱ぎ始めた時、
「じゃあ先に入ってるね」背中に声が掛かった。
「あ、はい…」慌てて振り向くと、
「慌てないでいいよ」梨乃はにっこり笑って浴室への扉を開けた。
梨乃は行動が迅速だ。その点碧と同じだが、受ける印象は逆と言ってもいい。碧は印象と実際が一致しているが、梨乃は違う。ゆったり落ち着いて動いているように見えるのに、実際には何事も素早く熟している。藍は梨乃のそんなところにも憧れを感じる。
「よかった! 藍ちゃんまだいた!」一瞬思考の海に沈みかけた藍を、勢い込んで入って来た碧の声が現実に引き戻した。
「あ…うん…」まだ居たどころか、今入って来た碧に抜かれるのも目に見えている。
「この籠わたしの分かな?」足許に視線を落とした碧に尋ねられ、
「うん…」とだけ答えた。
「梨乃さん準備いいね! 踏んだり蹴ったりだね!」もう上着を脱ぎ終わって、キュロットに手が掛かっている。
「……?」藍の手が止まった。
「ごめんごめん。至れり尽くせりだね!」
「うん…」全くその通りである。昨夕から、夕食、宿泊、衣服、移動、乗馬、朝食、そしてこの温泉とお世話になりっぱなしだ。
「これは気合い入れてケーキデコらないと!」
「うん…!」その前に藍が気合いを入れてケーキを作らなければならない。
「今はブラぴったりそうだね」唐突に話題が変わった。唐突過ぎて、自分のブラジャーのことだと藍が理解するまでに一秒ほどを要した。
「あ、うん…」藍本人としては、少し窮屈に感じるのだが。
「ちょっと失礼」碧が背後に回る。そのまま待っていると、ブラジャーの紐と背中の間に指が入れられるのを感じた。
「うん、ちょうどいいよ!」
「うん…ありがとう…」
「いえいえ、ついでにホックをはずして進ぜましょう」何故か低い声を作る。言い終わるのとほぼ同時に、締め付け感が消えた。
「ありがとう…」手間を省いてくれたのだからこの言葉で合っているはずだが、何だか恥ずかしい。
「いつでも御用命下さい」
「え…あ、はい…」そして、ここはこの返事で合っていないはずだが、何故かそう言ってしまった。
「朝も言ったけど、今度一緒に買いに行こ!」普段の声に戻った。
「え…、うん…」
「じゃ入ろ! 梨乃さん待たせちゃってるね」言い終わる頃にはパンツも脱ぎ終わっていた。
「あ、うん…」藍が慌てて脱ぎ、眼鏡を外して、二人は連れ立って浴室に入った。
中は脱衣所と大して変わらない広さで、二×三m程度の浴槽と七人分の洗い場。その端に梨乃が座り、髪を洗っている。他に人影は無い。
「すみません、遅くなりました…」
「んーん」
「梨乃さん、今度ブラとパンツ買いに連れてって下さいよ!」碧が、起床直後に言ったことを再度話題にあげた。
「うん」
「やったあ! 梨乃さんにエロカワいいの選んでもらお、おそろいで!」
「え…私も…?」
「碧ちゃん、藍ちゃんはエロいの好みじゃないよ」
「え? そうなの?」
「うん……」ついでに言うと可愛いものも避けたい。自分に可愛い下着など似合わないし、あまり派手派手しいもので体育の着替えの際に同級生の目に留まったりしては困る。
「ま、可愛いけど派手じゃないのもあるよ」藍の胸中を見透かしたように梨乃が言った。
「ですよね!! 梨乃さんもおそろいですよ! ね、藍ちゃん?」
「うん…!」
「うーん、でもそれはどうかな」髪にシャンプーの泡を乗せたまま、梨乃は身体を洗い始めた。
「えー! 何でですかー!? エロくないからですか!?」
「エロいのがいいのは碧ちゃんでしょ。選択肢が格段に少なくなるからよ」
「え? どういうことですか?」
「可愛くて安いのって大概DかEまでしかないのよね」標準品はAからCまで、D以上は製品を見つけるだけでも一苦労で色柄を選ぶなど夢のまた夢、という時代も在った。その頃に比べれば大きい胸用の商品も増えたものだが、まだまだGは標準扱いではない。
「えー! そうなんですか!?」
「うん。だからお揃いにできる可能性はかなり低いね」
「そうですかー、残念! でも、もしかしたらあるかも知れないんですよね!」
「そうね…」梨乃はふっと笑って「あるといいね」
「はい! きっとありますよ、エロいやつが!」
「もう、エロはだめだって言ってるのに。しかも可愛いまで抜け落ちてるし」呆れた後、
「藍ちゃん、髪お願いしていい?」
「あ、はい…!」答えた藍は椅子に座っただけで、まだ掛け湯すらしていない。
「え!? 何ですか、それ!? 梨乃さんズルい~!」
「いや別にズルくないでしょ。藍ちゃん美容院並みに丁寧に流してくれるからね」シャワーから湯を出して温度を調整する。藍はその後ろで膝立ちになり、梨乃の準備を待つ。
「え!? 何ですか、それ!?」碧は同じ言葉を繰り返した。「もしかして昨日も流してもらったんですか!?」
「うん」藍にシャワーヘッドを渡して軽く俯く。受け取った藍はすぐに頭頂部から湯を掛け始めた。
「えー!? ますますズルい!」
「ズルくない」
「独占禁止法違反!」
「別に独占してないし。碧ちゃんも藍ちゃんと一緒に入ったでしょ?」
「う…! 夫婦の間で隠し事!」
「どんな間柄でも隠し事はあるものよ」芝居がかった言い方で言った後、
「まだ夫婦でもないし」
「わーん! 梨乃さんのいけず~!!」椅子に座ったまま、両足をじたばたさせる。
「あの、碧ちゃん…、よかったら梨乃さんの後流すよ…」
「え、ホント!? やったあ!!」ピタリと足を止めて大声を出した。
「よかったね、碧ちゃん」
「はい!」
一連の遣り取りから、藍は自分を含め梨乃に誘導されたと感じたが、嫌な気は全くしない。寧ろ、掌の上で転がされていたことを快く思う。きっと、碧も梨乃に遣り込められるのが愉しいに違い無い。そんなことを考えながら、藍は梨乃の髪を流した。
髪を少しずつ分けて根元から毛先へ湯を掛けていく。これを十数度繰り返した後、
「終わりました…」と言ってシャワーヘッドを梨乃に返した。
「ありがとう」梨乃はにっこり微笑んで受け取り、
「さっぱりしたわ。またトリートメントの後お願いしていい?」
「あ、はい…」小さな充実感に浸っていると、
「藍ちゃん、わたしも~!」少し甘えた声で碧に要求され、
「あ、うん…!」慌てて藍は碧の背後に移動した。すぐにシャワーヘッドを渡される。
「お願いします!」
「うん…」
梨乃の時と同じように頭頂から始めて徐々に下へ降りていく。梨乃に比べずっと髪が短いため、七割くらいの時間で終わってしまった。
「碧ちゃん、終わったよ…」
「え、もう!? もっと藍ちゃんに流されたーい!」
「碧ちゃん、それじゃ藍ちゃんが洗えないよ」
「あ、そうでした! 流してもらうの気持ちよくて。ブフフフ」
「確かに気持ちいいわね」
「あ! 梨乃さん、二人で藍ちゃん洗いましょう!」
「え…」「いいわね」梨乃の声はさほど大きくなかったが、藍の声を掻き消すには十分だった。
「藍ちゃんまだ全然洗えてないでしょ。わたしたちがばっちりお仕えするから!」
「え……」いいよ、と反射的に言おうとしたが、この二人に自分の遠慮など通用する訳が無い。自分が百人いても、碧と梨乃、どちらか片方にすら押し負ける自信が有る。
「うん…ありがとう…お願いします…」もちろん、洗ってもらうのは願ってもない。ただ、とても気恥ずかしいだけだ。
「うん! じゃあさっそく。姫様、お腕を」片膝立ちになり、変テコな敬語と共に両掌を上に向けて差し出してきた。腕を洗うから上げろということか。
遠慮しながら左腕を差し出すと、碧は恭しく藍の手首より少し上を左掌で支え、右手に持ったスポンジで手首の方から洗い始めた。
「いかがですか、姫様? 痛くはございませんか?」
「はい…大丈夫です…」何故か藍も敬語になる。
「姫様、失礼してお髪を」今度は梨乃が立ち上がって藍の髪を手に取った。間を置かず、シャンプーを頭に乗せられ、十本の指で頭皮を撫でられる感触が伝わってくる。
すぐに碧が左から右に移り、また腕を洗う。それもすぐに終わり、梨乃が半歩ほど左にずれるのを感じたら、今度は首筋から背中をスポンジが滑っていく。
頭も身体も洗ってもらうこと自体はとても気持ちよく、ここが貸し切りならばうっとりとしているところだろうが、現実には公衆浴場なので、こんなところを知らない人に見られたらどうしようと気が気でない。
スポンジは背中から脇腹、脇の下を通り、胸までやってきた。同時に、背中に碧の胸が当たる。
「あ、碧ちゃん…! 前は…」
「いいからいいから。向かい合ったら恥ずかしいでしょ、姫様」
「え…うん…」今の状態でも十二分に恥ずかしいのだが。
「あ、もしかして梨乃さんにやってもらいたかったですか?」そんなことは脳裡を掠めることすらなかったのだが、碧の言葉が急に生々しい想像を沸き起こした。あの瑞々しい、絶妙な弾力の大きな胸が押しつけられたら一体どんな感触なのだろう?
「姫様、私が碧に替わりましょうか?」梨乃も乗ってくる。碧を呼び捨てにしたのは、下女の先輩後輩という設定だろうか。
「え…! いえ…」梨乃のことだから藍が断ることは予測済みだろうが、もし藍がうんと言ったらやるつもりだったのだろうか。藍はそれが少し心残りだ。
その時、少し前の藍の心配が現実のものとなった。脱衣所への扉が開き、老女が浴室に入るなり、
「おやまあ、どこのお姫様かね」二人に傅かれる藍を見て驚いた声をあげたのだ。藍は恥ずかしさに俯いたが、
「渚です!」藍の背中に胸をつけたまま、碧が元気よく答えた。渚は藍の住む地区の町名である。
「おや、近いね。あたしゃ白板だよ」白板は渚のすぐ北で、松本市の前身である松本町が明治二十二年に出来る前はそれぞれ白板村、渚村であった。
藍は何も言えず、真っ赤になってただ俯くばかり。知らない人にこんなところを見られて、半ばパニックになっている。
「おやまあ、渚のお姫様は恥ずかしがり屋なんだねえ」
「そうなんです! そこが魅力なんです!」
「あはは、なるほどな! じゃあ女中さんたちがんばってな」豪快に笑って左端の洗い場に席を取った。
「はい!」碧は止まっていた手を動かし始める。胸から腹へスポンジをかけ、
「終わりました!」と宣言して藍にスポンジを手渡し、身体を離した。流石の碧も下半身に手を出すのは控えたらしい。
藍は急いで脚と尻を洗った。梨乃はその間も頭皮を揉み続ける。
「こちらも終わりますわ」三十秒ほど後に梨乃もそう言って手を離し、シャワーヘッドを手に取った。
「お流しいたしますね」藍の頭頂から後頭部に向かって湯を流した後、藍が梨乃にしたのと同じように、髪を少しずつ束ねて取り、その根元に湯を掛けていく。何事も迅速な梨乃が時間をかけて少しずつ濯いでくれているのが分かる。
たっぷり三、四分地肌を濯がれた後、髪と身体にさっと湯を掛けられ、湯が止まった。髪をざっと束ねられ、輪ゴムで留められたらしい感覚の後、
「お疲れ様でした、姫様」落ち着いた声で梨乃に告げられた。本来ならばお疲れなのは梨乃の方だが、今回は藍も気疲れした。
「え…あの、ありがとうございました…」座ったまま梨乃の方へ首を傾けてお辞儀し、次に碧にも同じようにする。
「姫様、気持ちよかったですか?」
「え…うん…ありがとう」
「えー? 姫様めっちゃ洗ってくれちゃったではございませんか!」意図したものなのかどうなのか、最早敬語の体を成していない。
「あの、碧ちゃん、姫様は…」
「えー、せっかく似合ってるのになー」
「じゃ二人とも、外行きましょうか」梨乃が促し、
「失礼します」洗髪中の元気な老女に挨拶した。
「失礼します!」「失礼します…」二人も続いて挨拶する。
「あいよ、また後でな!」藍の十倍くらいの元気さで返事が返ってきた。
露天風呂は屋内の浴槽と同じように、さほど大きなものではなかった。七、八人も入れば満員といったところである。一抱え以上ある岩を並べて湯船を形成し、そこに湯を流し込んでいる構造だ。湯船の中にも同じくらいの大きさの岩を一つ配置し、座ったり凭れたり出来るようにしてある。
梨乃は湯に入るとその岩に背を凭せかけて座った。碧と藍は梨乃の向かいに並んで座る。
「はー、極楽極楽~。お湯サラサラですね!」碧が、両手で湯を掬い、指を広げて湯船に戻す。
「でしょ。藍ちゃん、髪がお湯に浸かっちゃってるよ」
「あっ…!」慌てて髪を湯から揚げ、適当に巻いて頭上に載せる。
「お湯に浸かっちゃまずいんですか?」
「うん。髪が傷むよ」車内で藍にしたよりもかなり簡潔な説明で済ませたが、
「えー!? そうなんですか!? 藍ちゃんのサラツヤブラックが!」特に追及は無かった。
「碧ちゃんは心配ないね」
「はい!」碧の襟足は首の半ばまでだ。水面から肩が出る今の浸かり方なら、全く心配無用だ。
「藍ちゃんは気をつけてね!」藍の頭に目を遣る。
「うん…」
「あー、気持ちいいなー。ちょっと寒いのがいいですよねー」露天風呂のすぐ向こうはもう山の斜面である。この時刻は日が差し込まないため裸では寒いが、湯に入ってしまえば、碧の言う通りその寒さが却って心地好い。
「そうね。ずっと入ってられる温度だね」頭寒足熱というやつで、健康にも良さそうだ。
「藍ちゃんは? 熱くない?」
「うん。気持ちいい…」
「温泉の露天風呂入るといつも思うんですけど」
「うん」「うん…」
「温泉の中ってオーラ出ますよね!」
「……」「……?」藍のみならず梨乃も碧の言わんとしていることが理解出来なかったらしい。二人の反応を見た碧は、
「手つけてみて!」と言って湯の中に手を入れた。二人も両手を入れる。
「指開いて!」言われた通りに開く。
「ほら、オーラ出てるでしょ!」碧が得意気に言うが、藍には何がどこから出ているのか皆目見当がつかない。眼鏡をはずしているからなのだろうか。
「なるほどね」梨乃は納得した様子だが、一体何が見えているのか、或は聞こえているのか匂っているのか感じられているのか。
「碧ちゃん、オーラって何…?」
「え…えーと……解説の高辻さん!」
「そうねえ、綴りはa、u、r、a、放射物とか雰囲気とかいう意味。今碧ちゃんが言ってたのは放射物の方ね。お湯に浸けると、肌の周りに薄ーい虹色の膜みたいなのが見えるでしょ」
「えっと……」やはり目に見える何かなのだ。が、目を凝らしてみてもやはり藍には分からなかった。
「すみません、眼鏡があれば見えるかも知れないんですけど…あの、ちょっと取って来ます…」と言って立ち上がる。
「うん!」すぐに、期待の籠った碧の声が返ってきた。
「足元滑るから気をつけてね」
「あ、はい…」梨乃の言う通り、湯船から上がる段状の岩は、滑らかな表面に湯中の成分が付着してとても滑り易くなっている。藍は念のため手摺を掴んで登った。僅か三段で手摺に頼るのは恰好悪いが、滑って転んでは恰好悪いだけでは済まない。
扉を開けて中へ入ると、先程ほどの元気な老女がちょうどこちらに向かうところで、
「おや、姫様もうあがりかい?」気安く声をかけてきた。
「え…あの、眼鏡を…」視線をはずし、赤面しながら答える。気の置けないごく少数の人間以外に対する、いつもの反応だ。
「そうかそうか、すべらないように気つけてな」梨乃と同じようなことを言う。
「あ、はい…ありがとうございます…」言い終わる頃には老女は藍の傍を通り過ぎ、
「うおっつ、すべったー! 人に言ってる場合じゃねえやな」藍が脱衣所に入った時、後ろから独り賑やかな声が聞こえてきた。
藍の視力は両眼とも〇.一だ。脱衣籠から眼鏡を取り出して装着すると、途端に世界が明瞭になった。窓の外、露天風呂の水面から出ている梨乃の項や、その梨乃と話す碧の愉しげな表情もはっきりと見える。これで碧の言うオーラも見えるだろうか。意気揚々と藍は露天風呂に戻った。
「あ、お帰りー!」外に足を踏み出した途端に碧の声が迎えた。
「あ…ただいま…」屋外に出てきてただいまというのも変なものだと思ったが、使い方は間違っていない。
「では改めまして」藍が元居た場所、即ち自分の左隣に座るのを待って、碧が始めた。
「手開いて」既に手は湯に浸かっている。藍は言われた通り両手を開いた。
「あ…!」自分の指を被うように、虹色の薄い膜のようなものが確かに見える。と言うよりも、自分の肌が虹色の物質を放っているかのようだ。碧の、オーラ出ますよね、という言葉はこのことを指しているのだろう。
「見えた!?」
「うん…!」
「出てるでしょ!?」
「うん…!」
「解説の高辻さん、実際は何が出てるんですか?」
「そうねえ、多分何も」
「なぬ!?」
「多分光の屈折だから。温泉の成分が水の屈折率を変えてるのと、肌との境界で揺れたりしてこうなってるんだと思うよ。だから深い所では見えないでしょ」
「わー、ガッカリー」本当に、気の毒なほどがっかりしている。
「大体、温泉入ってオーラ出たら疲れがとれるどころか余計疲れそうじゃない?」
「む、むー、確かに…。解説の高辻さん、ありがとうございました…」
「あの…まだオーラがよく分からないんですけど…」解説の高辻さんの仕事はまだ終わっていない。
「そうねえ。一言で言うと、生物から発せられていると信じられている何か、かな。日本では『気』と同一視されてることが多いね」
「き?」
「空気とか気持ちの気。人間の体内で流れてるって考えられてる、まあエネルギーみたいなものかな」
「流れてるんですか…?」
「さあ。そもそも気が何なのか分かってないからね。血流に伴って微弱な電磁波とかは発生してるだろうから、それが気の正体だって言うなら気が流れてるって言うのも正しいことになるね」
「じゃあオーラも分かってないんですか…?」
「そうだね。ただ、生物から何かが発せられてるって考えはギリシャの昔からあるらしいんだけどね、二十世紀になって、それを写真で撮影した、ていうのが出たの」
「キルリアン写真ですね!?」碧が割って入った。ソビエト連邦の科学者キルリアン夫妻が撮影したのでその名がついている。
「そう。葉っぱに高周波高電圧をかけた状態で撮影したら、葉っぱの全周から何かがほとばしっているのが写っていたの。で、これはオーラが写ったんじゃないかということで一世を風靡したんだけど」
「ど?」
「かなり最近になって、それが水分によるものだと分かったの」
「えーと?」
「生物からは常に水分が発散されてるでしょ。その水分が写ったものなんだって」
「えー! ガッカリー」また肩を落とす。
「んー、だから結局はオーラの定義によるってことよね。身体から発散される蒸気がオーラの正体だって言うなら科学的にもオーラの存在は証明されたことになるから」
「でも水なんてどこにでもあるじゃないですか。生物じゃなくても」
「それはその通りだけど、水は生命の根源とも言うべきものでしょ」
「まあ、確かに…」
「それに、今はまだ分かってない何かがあるのかも知れないよね」
「ですよね!」ガックリ状態から碧は突然復活した。常からの自分の考えに一致したからだろう、と藍は思う。
「解説の高辻さん、ありがとうございました!」
「いやいやまだまだ。auraはギリシャ語のαυραが語源で、意味は微風。同じ名前の女神がいるよ」
「オーラが出るって碧ちゃんが言ったのは漫画の表現。闘志や力を視覚的に表現したものよ。碧ちゃんがイメージしてるのは北斗の拳ていう漫画の主人公ケンシロウとその兄ラオウ」藍に解説している体だが、碧に向けた言葉でもあることは明らかだ。
「うわ、合ってる!」碧も反応する。梨乃の思惑通りであろう。
「昨日、蒲団の中で話してた漫画ですね…」
「藍ちゃん、よく覚えてるね!」
「うん、たまたま…」と言ったが、昨夜の会話を藍は全て、一言一句に至るまで明瞭に思い出せる。もちろんいつもいつも会話を覚えていられる訳は無く、覚えていても細部まで正確に、という訳でもない。それだけ昨夜が藍にとって特別だったのだ。
「お兄ちゃんが持ってるから今度貸すよ!」
「それはどうかな?」梨乃が異を唱えた。
「え!? 確かに、藍ちゃんの好みには合わないかも知れませんけど、読んでみないと分からないし」
「そうね。でも、私が貸しちゃうかも知れないからね」
「にャんですとう!?」
「帰りに読んでってくれてもいいよ」
「にャにャんですとう!?」
「まあそれは藍ちゃんに任せるとして」碧をからかって満足したようだ。
「え…?」代わりに藍が困惑する。
「何にせよオーラみたいなのが見えるってことは、このお湯が水道水とは違うってことだよね」
「ですよねー!」再び我が意を得たりと碧が元気づく。その様子を見て藍は、碧は最初からそれを言いたかったのだと気づいた。オーラで脱線してしまったが。
「さらさらしてますね…」両手で湯を掬いながら言うと、
「ね」「ねー!」梨乃と碧も同じことをし、ただそれだけのことなのに藍はとても嬉しくなった。
「これ絶対スベスベマンジュウガニですよ!」
「そうね。半日くらいもつかな」
「えー!? たった半日ですか!?」
「いやさすがに一日は無理でしょ」
「えー! 向こう二百年ぐらいツルスベだったらいいのに~!」
「二百年…」長寿を通り越して妖怪である。いや、九十九年で付喪神になると言うから、二百年も経ってしまうと妖怪も卒業し別の何かになっているかも知れない。
「じゃあ二百年経ったら突然ガサシワになるのね」
「怖っ! 何その玉手箱!?」
「いやいやアイテムなしで自動的にガサシワになっちゃうから」
「余計怖い!」
「欲張るとそうなるのよ」
「はい…半日でいいです……」
「碧ちゃん、どうして二百年なの…?」百年ならまだ理解出来るが。
「そうね、百年でも十分過ぎると思うけど」
「えー、だってわたしたちが百歳になる頃には医学が進歩して寿命が二百歳になってるかも知れないじゃないですか!?」
「…………」本当に碧は自分の想像もしないことを考える。
「なるほど…延びるといいね」
「んなーに言ってるんですかー!? 梨乃さんが延ばして下さいよ、医学部なんですから!」梨乃はまた随分と見込まれたものである。
「あー、うん、がんばるわー」梨乃が棒読みで応える。
「あっ!」自分の腹部を両手で押さえながら碧が叫んだ。
「今度は何?」また話題が変わったと梨乃の口調が告げている。
「おなかすいてきました!」
「また急ね。それじゃ、軽くトリートメントしてからあがりましょう。藍ちゃん、いい?」言い終わる頃にはもう立ち上がっていた。大きな胸が微かに揺れるのを図らずも至近距離で目の当たりにしてしまい、赤面しながら、
「あ、はい…!」慌てて立ち上がった。
「あ、藍ちゃん、わたしも~」碧も立ち上がって、また甘えた声を出した。
「あ、うん…!」
「お先に失礼します」梨乃が元気な老女に挨拶し、
「はいよ、お疲れさん」
数秒置いて、
「失礼します…」「失礼します!」藍と碧も挨拶した。
「お疲れさん!」やっぱり元気な声に、碧が歳をとったらこんな風だろうか、と藍は思った。
藍と碧が中に入ると、梨乃は先程と同じ椅子に座って髪にトリートメント剤を入れ始めていた。
碧も元居た椅子に座り、梨乃からトリートメント剤のポンプを受け取る。
藍も二人の間に席を取ったが、トリートメントを使わない彼女は手持ち無沙汰だ。
「藍ちゃん、トリートメントした方がいいよ」梨乃に言われ、
「あ、あの…」言い淀む藍の代わりに、
「藍ちゃん、普段からトリートメントしないんですって!」碧が説明すると、
「は!? それでこのサラツヤ!?」珍しく梨乃が驚きの声をあげた。
「ですよねー」半ば呆れたような調子で碧も相槌を打つ。
「まあそれでも一応入れた方がいいよ。温泉のお湯に浸かったからね」
「はい…あの…」
「うん」
「どうすればいいですか…?」
「そうね、ワンプッシュ取って、毛先に馴染ませるといいよ」と言ってポンプを藍の前に置いた。
「はい…」
「毛先だけでいいんですか?」碧が訊く。
「一番傷みやすいところだけでいいんじゃない? 念のためくらいのものだから」
「はあ、なるほど。わたしは毛先だけって難しいなあ」碧の短髪ではそうであろう。
「そうね。碧ちゃんは全体的につけるしかないね」
二人の会話をステレオで聞きながら、藍は髪を左右に分けて胸の前に垂らし、梨乃に言われた通りにした。
「これでいいですか…?」
「うん、後は二、三分待つだけ」
「はい…」トリートメント剤を使ったことのない藍と雖も、何らかの成分を髪に滲み入らせるものだということは知っている。
「藍ちゃん、初トリートメント?」碧に問われ、
「え、うん…」と答えると、
「じゃ、わたしがもみ込むよ!」
「え?」
「とりあえず藍ちゃんは梨乃さんの髪流してあげて」
「え、うん…」
「ありがとう。よろしくね」梨乃がシャワーヘッドを差し出しかけて引っ込めた。
「眼鏡置いてきた方がよくない?」
「あ、はい、そうですね…」確かに、温泉の硫黄分が金属には良くない、と聞いたことがある。立ち上がろうとした藍の脇から、
「わたし行ってくるよ」碧が右手を伸ばしてきた。梨乃の方を頼む、との意を汲み取り、
「ありがとう…」眼鏡を外して渡すと、
「うん!」にっと笑って脱衣籠に眼鏡を置きに行った。
藍が膝立ちになると、梨乃が改めてシャワーヘッドを差し出し、
「よろしくね」
「はい…」それを受け取って早速梨乃の髪を濯ぎ始める。数秒後、
「ちょっと失礼!」素早く戻った碧の手が両頬の傍を通り、胸の前に垂らした藍の髪を掻き上げて背中へと持っていった。そのまま何かしているようだが、何をされているのか、感触からはよく伝わってこない。気にはなるが、碧に任せて間違いは無かろう。藍は、梨乃の髪に集中することにした。
頭頂付近から順に下の方へ流していき、毛先から三分の一程度は念入りに濯ぐ。そして仕上げにもう一度頭頂へ軽く湯を注いで、
「終わりました…」と言うと、梨乃は湯を止め、
「ありがとう。碧ちゃんも流してあげて」にっこり笑って椅子から立ち上がった。
「はい…」
「お願いします!」梨乃と入れ替わって碧が藍の前に座る。
「うん…」返事した時、また髪が持ち上げられるのが分かった。
「あ、碧ちゃん、お湯…」碧は濯がれる体勢に入っているが、肝心の湯が出ていない。
「あ、ごめんごめん」一旦顔を上げて湯を出し、再び濯がれ体勢をとった。
右手で碧の髪を掻き上げ、左手に持ったシャワーヘッドから出る湯を髪の根元に当てて流す。藍はこれを何度か繰り返した後、シャワーヘッドを下ろして、
「碧ちゃん、終わったよ…」と告げた。
「うん。ありがと!」碧は湯を止め、
「じゃ最後は藍ちゃんだね!」
「あ、うん…」
「ささ、ずずずいーっと前へ!」一旦椅子から立って左に一歩ずれ、跪きながら左手を伸ばして前方を示す。ずずずいー、という言い回しは碧のお気に入りらしい。
「うん…」碧が掛けていた椅子に座ると、
「シャワーもらうね」梨乃が後ろから手を伸ばし、シャワーヘッドを持って行った。同時に碧も背後に回り込む。
「よろしくお願いします…」と言って湯を出すと、髪が持ち上げられ、毛先の方を湯で流される感触が伝わってきた。鏡を見る限りでは、碧が持ち上げ梨乃が湯をかけているようだ。
「おやまあ、姫様また流してもらってるのかい?」元気な老女の声が背後から飛んだ。
「トリートメントです!」碧がすかさず答える。
「姫様きれいな髪だもんなあ」
「ですよねー!」
「そっちの女中さんもだけどな」
「恐れ入ります」と梨乃。
「あれ? わたしは?」
「あんたは短いからよく分からん」歯に衣着せぬ物言いである。
「ですよねー!」碧も珍しく苦笑気味になった。
「お先!」
「はい!」「はい」「はい…」三人の声が揃った。
「こっちももう終わるね」梨乃は藍の頭頂に軽く湯を掛けると、
「はい、終了。お湯止めて」と言った。
「はい…ありがとうございました…」
「ううん、こっちこそ。ね」
「はい!」
「あがりましょ」
「はい!」「はい…」
「でも三人一度は無理か。タオル取ってくるから待ってて」
「らじゃ!」「はい…」
脱衣所へ出た梨乃は数秒で浴室へ戻ってきた。
「速っ!!」
「うん…」
「はい」涼しい顔で二人にタオルを渡し、
「ここでざっと拭いてから出ましょう」
「はーい!」「はい」
無言で拭くこと約二分半、いち早く作業を終えた碧がバスタオルを胴に巻く。
「藍ちゃん、手伝うよ!」
「え…でも…」
「藍ちゃんまだ髪の毛ビショビショじゃない。軽く絞るよ!」言いながらもう髪を手に取っている。
「ありがとう…」毎度のことになってきたが、遠慮が通用する相手ではない。今回も有り難くお世話になることにしよう。
「うん!」楽しそうな返事と共に、雫が床に落ちる音がボタボタと響いた。
隣では梨乃が身体を拭き終え、自分で髪を絞り始めた。梨乃も藍に負けず劣らずの長髪である。やはり音を立てて水が滴り落ちた。
「藍ちゃん、タオル肩にかけて~」動くことが出来ず手持ち無沙汰の藍に碧が指示を出す。
「え、うん…」碧の意図を読み取ってバスタオルをケープのように掛ける。首筋から背中を伝い落ちていた水が止まった。
髪を束ねて上の方を片手で持ち、もう片方の手で髪を絞っているのだろうが、髪を引っ張られる感覚が全くないので実際どうなのかはよく分からない。自分が同じことをしたらかなり引っ張ってしまうだろう。碧はやはり器用なのだな、と藍は感心し、碧が絞ってくれている状況にうっとりした。身体を洗ってもらう時はあれほど恥ずかしかったのに、髪だと緊張しないのは、我ながら不思議だ。
無言で絞られるうちに滴の音が漸減し、見切りをつけたらしい碧にバスタオルを持ち上げられ、髪を包まれた。そのままバスタオルごと三度絞られ、
「よし! 完了!」バスタオルを渡された。
「ありがとう…」
「うん! 梨乃さんは?」
「もう終わるわ。わたしの籠にドライヤー入ってるから、先に使って」
「はーい!」応えてすぐ扉を開け、脱衣所に出た。藍も後に従う。
脱衣所にいたのはまたも元気な老女だけで、その彼女ももう身支度に入るところだった。 碧は足拭きマットの上で軽く足踏みした後、足首の辺りをタオルで拭って脱衣籠に向かい、すぐに下着を身に付け始めた。藍はまだ胸の辺りを拭いているところだ。
素早く下着姿になった碧は、今度は梨乃の脱衣籠からドライヤーを拾い上げ、洗面台の前に立つとコンセントにプラグを挿し、スイッチを入れて髪を乾かし始めた。実に迅速である。藍だったら、ドライヤーを探し、コンセントを探し、というところだが、まるで碧は場所を事前に知っていたかのようで、
「速いわね、碧ちゃん」浴室から出てきた梨乃も驚く程だ。
「終わったら手伝いますね!」そのために急いでいるのだ、と藍も漸く理解した。
「ありがとう。お願いするわ」藍ならばまず遠慮の言葉が出かかってしまうところだが、梨乃は違う。そんなところが大人だと藍は思った。
梨乃もさっさと拭き終えてしまい、手際よくタオルに髪を包んで足拭きマットを後にした。パンツを穿き、ブラジャーを着け、ブラウスに袖を通し、ジーパンに脚を通す。いずれも乗馬の時とは別の物だ。かなり汗をかいていたから当然だろう。ブラジャーが群青、ブラウスが薄めの青なので、微かにブラジャーが透けて見えるが、淫靡な感じは全く無く、寧ろ爽やかに見える。下着が透けて見えるなど言語道断、と藍はつい最近まで思っていたのだが、今は梨乃の姿を恰好良いと思う。
梨乃が服を着るのを見計らっていたように碧がドライヤーを止める。ように、ではなく見計らっていたのだろう。藍からはそんな素振りは全く窺えなかったが、鏡でこちらの様子を確認していたに違い無い。
まるで梨乃のようだ、と、漸く身体を拭き終え脱衣籠からパンツを拾い上げた藍は思う。碧も梨乃に憧れて行動を真似してみたのだろうか。何となく、それは違うような気がする。梨乃が相手に悟られないように気遣いをしているのは疑いを容れないが、碧がそういうことをするようには思えない。碧も自分に比べればずっと気配り目配りができる人だが、それを隠そうとも見せつけようともしないだろう。
考えながら下着を身に着けている間に、鏡前では碧が梨乃の髪を乾かし始めていた。梨乃は碧の向こう側で椅子に座り、長い髪を両手で捌いてドライヤーの熱風に当たるようにしている。
「藍ちゃん、ちょっと待ってね!」振り向かずに碧が言う。間違い無く鏡で見ている。眼鏡を掛けていないので確実とは言えないが、鏡を介して藍に目を合わせてきた。
「うん…」待っている間に藍は髪をタオルで挟んで叩いた。さっき碧が絞ってくれたが、上の方から水分が下りてきて、毛先の辺りがまた濡れてきたからだ。
碧と梨乃の共同作業はテキパキとしていて、見ていて気持ちがいい。それを見るのが九、タオルで髪を叩くのが一くらいの意識で過ごすこと数分、
「ありがとう、碧ちゃん」梨乃が完了を告げ、
「藍ちゃんお待たせ」椅子を立った。
「あ、はい…」梨乃と碧に見とれるうちにドライヤー作業が他人事のように感じられていた藍だが、梨乃に呼びかけられて我に返った。慌てて鏡前に進んで椅子に腰掛ける。
すぐに梨乃が髪を手に取り、碧がドライヤーのスイッチを入れる。藍はまた二人の手際の良さに見入った。のも束の間、
「藍ちゃん、できたよ!」碧はドライヤーを片付け始めた。梨乃は手早く髪型を整え、全員分のタオルを回収していた。
「これ、着替えね」折り畳まれた服をボストンバッグから取り出し、それぞれの脱衣籠に置く。藍には群青、碧には水色のブラウスが宛われ、下はジーパンなのだろうか、デニム生地が看て取れた。
「わ! ありがとうございます~!」「ありがとうございます…!」二人ともいそいそとブラウスから身に着け始める。
「やった! またお揃い~!」
「うん…!」
「ブルースシスターズっぽいかと思って」
「バッチリです! さすが梨乃さん!」碧はもう上下とも身に着け、靴下に取りかかっているが、藍はジーパンを手に固まってしまった。
「藍ちゃん、どうしたの?」屈んだ姿勢のまま、下から碧が覗き込んでくる。
「うん…私、ズボン穿いたことないから…」無論、穿き方が分からないなどということではない。自分がズボンを穿くのが変な感じで、気恥ずかしいのである。先程まで穿いていたキュロットと大して変わらないのだが、あれは乗馬見学に必要な服装、言わば学校における体操服やジャージのようなもの、という認識であったので特に恥ずかしいとは思わなかったのである。しかしこのジーパンはそうではない。それに、梨乃の選んだお洒落な服など自分にはそぐわない。と言うか、そもそも自分にはお洒落というものが似合わないのだ。
「確かに藍ちゃんスカートなイメージだけど、ズボンもいけると思うよ! ささ、はいてはいて!」
「うん…」どれだけ躊躇っても他に着る服は無いし、今でも既に二人を待たせている。藍は覚悟を決めて脚を通した。
全体的に少し緩く、想像よりもずっと楽だった。それに、鏡で見てみるとそれほど目立つ感じではない。上下とも青系の濃色なのは、自分の好みにも合っている。
「藍ちゃん、似合ってる!」
「うん、いいんじゃない」
「………」藍は赤面して俯いたが、そんなことを気にする碧ではない。
「じゃあブルースシスターズ出ますか!」脱衣所から出るだけなのに、まるでどこかの舞台に出演するかのような言い回しである。
「休憩所に足つぼマシンあるけどやってく?」扉を開けながら梨乃が問うと、
「やりますやります!」碧が即答した。いつも元気で健康そうな碧に必要とは思えないが、と藍は訝む。
「ん」梨乃は短く応じて、まずロッカーに寄って財布を取り出し、それから廊下の突き当たりの部屋に入った。二十畳ほどの部屋に四脚の卓袱台と座布団が並び、左手奥に飲料の自販機が置いてある。入ってすぐの右手には椅子と、足を入れるらしい穴の開いた怪しげな機械があった。梨乃の言う足つぼマシンだろう。
「これですね!」碧が早速かかろうと椅子に座り、財布から百円玉を取り出して所定の溝に入れ、足も所定の位置に入れる。
「とりあえず強からいこ!」リモコンの表示を確認してボタンを押す。つぼを押す強さのことだろうが、その選択が藍にはまた信じられない。強でものすごく痛かったらと考えると恐くてそんなことは出来ないからだ。自分ならば、まず弱から試して、足りなければ徐々に強くしていく。碧と自分のどちらが多数派なのだろう。我ながらどうでもいいことだと思いながら、だが妙に気になった。
「おっ、来た来た!」外から見ていても全く分からないが機械がつぼを押し始めたらしく、碧が期待の表情を浮かべる。が、それはすぐに苦痛のそれに変わった。
「あ痛たたた! 無理無理!」足つぼに限らず、マッサージや柔軟体操の類いは痛気持ちいいくらいがちょうどいいと言われているが、明らかにその範疇を逸脱していることが碧の反応から分かった。碧は慌ててリモコンに手を伸ばすが、ボタンを押す前にプシューっと音がしてつぼ押しが緩んだようで、碧はふーっと大きく息を吐いた。
「大丈夫?」心配になって藍が訊く。
「いやー、きつかったー」リモコンのボタンを押してから碧は答えた。
「弱くしたから多分大丈夫。おっ、来た来た! むーん、これはちょうどいいね」それを聞いて藍も安心した。三回プシューという音を聞いた後、
「次藍ちゃんもやってみて!」碧が言い出した。正直そんな痛い思いをしたくはないのだが。
「え…うん…」思っていることが顔に出たらしい。碧は笑顔で、
「弱にすれば余裕だよ! 中でちょうどいいくらいだったもん」
「え…うん…」そう言われても全く気が進まないが、固辞出来る気力など藍には無い。
「さあさあ!」
「うん…」結局碧の押しに負けて両足を機械に入れた。二、三秒で足を包まれるように加圧され、足の裏に丸い突起が当たってきた。痛みを覚悟して身体を固くしていた藍だが、突起は少し当たっただけで止まってしまった。これでは健康サンダルの三分の一くらいの押され感で、はっきり言って物足りない。
「痛くない?」碧が訊いてくるが、自分の表情で大丈夫なことは分かっている様子だ。
「うん…」
「中にする?」
「うん…」藍の即答を聞いて碧は素早くボタンを押した。
プシューという音と共に圧が抜け、数秒でまた締まってきた。足裏に当たる突起が先程よりもはっきりと感じられるが、まだ痛気持ちいいというところまでは行かない。
「あれ? まだ全然?」
「うん…」
「じゃ」碧がまたボタンを押す。
次は突起の当たりがかなり強くなっていて、正に痛気持ちいいというやつであった。
「藍ちゃん、痛くないの?」藍の表情がほとんど変わらなかったからか、碧が驚いた様子で訊いてきた。
「え…と、ちょっとだけ…」
「マジか…藍ちゃん、やっぱり超人だわ…」
「て言うか、藍ちゃんの方がより健康だってことかな」
「そうなんですか?」
「疲れたり凝ったりしてると痛く感じるよ」
「そう言えばちょっとふくらはぎが張ってる感じしてます!」
「藍ちゃんは?」
「え…私は全然…」
「てことね。碧ちゃん、いつでも力入ってる感じだもんね」
「えー!? そうですか!?」
「うん。ね?」
「はい…あ、終わったみたい…ごめんね、碧ちゃん…」時間が来て機械が止まったのだ。もう一度碧に代わろうと考えていた藍は、申し訳ない気持ちになった。
「ううん、問題ナッシング! よーし! もっと力抜くぞ!」
「いや全然抜けてないわよ」呆れ気味な梨乃の言葉に藍も頷く。恐らく誰が聞いても力いっぱいである。
「えー!? そうですか!? まあいいや、ゴハン行きましょう!」藍の隣で膝立ちになっていた碧が立ち上がり、
「はいはい」梨乃も素早く立つ。藍も慌てて足つぼ機から足を抜き、立ち上がろうとしたが、焦ったせいで機械に足を取られた。
「慌てなくていいよ、藍ちゃん」転びそうになった藍の上半身を受け止め、碧が優しく言う。
「うん…ありがとう……」ごめんね、と言わなかった自分に藍は軽く驚いた。今までならば一言目がごめんだったはずだ。でも、同じ一言ならごめんよりありがとうの方がいいような気がする。
「うん。行こ!」碧が手を握って引く。
「うん…」
玄関に着くと、梨乃がもう回数券を出した後のようだった。何も言わず歩き出した梨乃の隣に並ぶと、
「悪いけどこれ、後ろに入れてくれる?」と、碧に服の入った袋、藍に温泉セットが渡された。
「はい!」「はい…!」
「今、わたし達絶対ユニットっぽいですよね!」碧がまた話題を変えた。似たような服を着て並んで歩いているところがアイドルのようだと言いたいのであろう。梨乃はふふ、と笑って、
「そうね」楽しそうに言ったが、藍は恥ずかしくなって俯いた。私達、に自分も含まれていることが分かっているからである。誰が見ている訳でもないのだが、それでも恥ずかしい。
しかしそれも僅か数秒余りのことだった。自動車の数m手前で梨乃が扉を解錠すると、その音に反応してアスランが立ち上がり、尻尾を振って三人を迎えた。僅かに開けてあった窓の隙間に鼻を捻じ込もうとしている。
「わー、アっちゃん必死だな!」
「うん…」アスランに向かって手を振るが、碧の言う通り鼻を出すのに必死で見えてはいなさそうだ。
二人が目の前を通り過ぎて車の後部へ回るのが分かると、アスランも鼻を引っ込めて二人の方を向いた。
ハッチを開けると、前肢を背もたれに乗せて顔を近づけてきた。そのまま車外に出るのではないかという勢いで、荷物を置いた藍に頭を撫でられると嬉しそうに目を細めて、
「ピー」と声をあげたが、そわそわと外に出たがる様子は変わらなかった。
「トイレだね」運転席の扉を開けた梨乃が解説した。「出してあげて」
「はい…!」急いで左側の扉を開けると、待ってましたとアスランが飛び出てきた。迷わず車両の前に行き、向かいの壁に片足を上げて排尿する。壁と車両の間にある排水溝に次々と流れていった。よほど我慢していたと見え、四十秒ほども続いた。それを見ながら碧が、
「梨乃さん、ラブ子はー?」
「させといた方が無難かな」
「はーい! ラブ子ー」碧が助手席の扉を開けてもラブは席の足元で丸くなったままだった。
「ホント寝るの好きだなー」ラブを持ち上げると、流石に目を覚ましたようだったが、自ら動こうとはせず、為すが儘に溝の横まで運ばれた。
「ほい、トイレ」地面に降ろされると、尻尾を溝の方に向けてしゃがみ、排尿を始めた。
「ホントお前できるのにやらないやつなんだなー」ラブの行動の淀み無さに、却って呆れた様子だ。
「でしょ」諦観漂う飼い主の声。
用を足し終えたラブは悠々と戻り、碧に扉を開けさせてひょいと助手席の足許に飛び込んだ。清々しいほどの図太さである。
「長生きするわ、お前」助手席に乗り込む碧も、呆れるを通り越して感心している。
「でしょ」しかし流石に飼い主は感心していない。
「さて、じゃお昼食べに行きますか」梨乃がエンジンをかける。時刻はいつの間にか正午近くになっていた。
「はーい! おなか減ったー! 藍ちゃんは?」
「少し…」自分の腿に乗せられたアスランの頭を撫でながら答える。藍とアスランは碧達より一足先に後部座席に収まっていた。
「わたしもうペコペコー!」
「十五分くらいで着くわ」上り坂を走らせながら梨乃が告げる。
「はーい! …なんだ、また抱っこ?」ラブがまた要求したらしい。持ち上げて腿に乗せ、
「今度は寝ないぞ!」と意気込んだが、一分ほど後には仲良く寝息を立てていた。
梨乃と藍も、カレー屋までの十分余りを無言で過ごした。
少し登って後はずっと下り、大学病院の先を右折して百mほどで昨夕入った源太を通り過ぎ、斜向かいの駐車場に滑り込んで自動車は停止した。
「碧ちゃん、着いたよ」梨乃に肩を揺すられ、
「んあ? わたしまた寝てました?」
「うん。即寝」
「使者すげー! ってやっぱり使者寝てるし!」
「うん、二人して同じ顔で寝てるから面白かった」
「えー!? これと同じ顔!?」一旦足許に置いた使者を持ち上げてまじまじと見詰める。
「うん、口の開き具合が一緒だった」梨乃が扉を開け、藍も倣った。碧だけが席に残り、
「うわー、ホントですかー、恥ずかしー」ラブをまた足許に戻してから外に出てきた。
梨乃は自動車の目の前の建物に向かい、
「席空いてるといいけど」扉を引く。香辛料の匂いが外まで漂ってきた。扉の横の窓には「エスニックレストラン メーヤウ」の白い文字。
「いい匂いー! おなか減ってきたー!」
「いらっしゃいませー」大学生かと思われる女子店員がレジスターの向こうから挨拶してきた。緑のエプロンに、かなり慎ましやかな大きさでメーヤウと書かれている。
「三人なんですけど」梨乃が店員の先回りをした。
「相席でしたらすぐ御案内できますが」
「それで結構です」目敏い梨乃のことだ、店内を一瞥して、見える範囲の空席状況は把握していたに違い無い。二人に諮らず即答したのは碧の腹具合を慮ってのことだろう。
入ってすぐの位置に置かれた大きなテーブルの周囲に沿って合計七脚の椅子が置かれ、壁沿いの三脚が空いている。店員の言うのはその席のことだろうと思われたが、梨乃はテーブルの前を素通りして店の奥に向かった。
入ってみると店内は思ったより狭く、三人が案内されたテーブル以外には、五脚のテーブルに計十六席とカウンター二席のみ。カウンター席の隣にステンレスの容器が六つ並べて置かれ、その向こうに大きな炊飯ジャーと積まれた大皿、さらにその向こうに飲料を供給する機械が据え付けられている。
「バイキング方式だから。お皿一枚取って好きなの載せてって」ごく簡単に説明してまずは自分が皿を取る。
「はーい!」「はい…」碧に先を譲りたいところだが、何となく並んだ順で梨乃の次は藍になってしまった。順番待ちの碧は梨乃の様子を窺っているようだ。
「梨乃さんごはん少なすぎですよ!」碧の指摘通り、皿に盛られた白米は茶碗一膳分にも満たない。
「トゥースイートですわね、アオエンヌ」突如としてリノエンヌが戻ってきた。甘過ぎる、との意味と藍は受け取った。
「ごはんをたくさんにするとすぐお腹がいっぱいになってしまいましてよ。全部楽しもうと思うならごはんは少しずつ」挽き肉のドライカレーを皿に取った梨乃が隣のカレーに移り、白米をよそった藍が間を詰める。碧の待ち時間をなるべく短縮したいからだ。藍の皿に載せられた白米は梨乃よりさらに少なかったが、それについて碧は触れなかった。藍の少食ぶりをよく知っているからだろう。
「おお~、さすがはお姉様、抜け目ナッシングでございますわね」梨乃の忠告に従い、碧も茶碗一膳分程度に止めた。
梨乃が四種のカレーを取って席に向かった後、藍は全てのカレーを少しずつ取ったが、どれもルーの粘度が低く、隣り合うカレーが少しずつ混ざってしまった。それでも、
「おー、藍ちゃん、レインボーだね!」覗き込んだ碧が楽しそうに言った。
皿を持って壁際の席に行くと、座席の前に水の入ったグラスとスプーンの入った小さな籠が置かれていた。
全員が席に着いた時、梨乃が、
「あ、今さらだけどチキンカレーすっごい辛いから覚悟してね」と脅した。確かに今さらであるが、激辛のものを知らずに口に入れれば衝撃数倍であるから、一応親切と言えるだろう。
「はーい!」「はい…」
「じゃあ日直は碧ちゃん」
「はい! 手を合わせて!」三人とも手を合わせる。
「いただきます!」
「頂きます」「頂きます…」お約束を実行して、それぞれ食べ始めた。
「えー、どれどれ……、……うわ、辛!」早速試してみた碧が悲鳴のような声をあげた。
「これは最後の方がいいな…」剰り辛いと、舌が麻痺して他のものの味が分からなくなる。
辛いものは得意な方だと思っている藍も、碧の様子を見て恐る恐る口に入れてみたが、確かに辛い。しかし無闇に辛いだけというのではなく、辛さの奥から、これぞカレーの王道!と言いたくなるような香辛料と鶏肉の融合した味が現れてきた。
「すごく辛いけど、おいしいです…!」
「でしょ。私が今まで食べた中でここのチキンカレーが一番好き」
「えー! インドとかタイとかも入れてですか!?」碧の中では、梨乃は世界中に行っている印象のようだ。
「うーん、残念ながらまだ両方とも行ったことないのよね」
「え? そうなんですか?」
「うん、何となく優先順位が低くて」
「えーと、前聞いたのは、メキシコとペルーとエジプトとアイルランドと台湾でしたよね? ほかには?」
「それだけ。台湾以外は遺跡見にね」
「何て遺跡に行ったんですか?」
「メキシコはチチェンイッツァとウシュマルとパレンケ、メキシコシティのアステカ神殿」
「うわー、一つも知らない!」
「私も…」
「どれも世界遺産で世界中から人が来るけど、中学では習わないよね」
「ペルーはクスコとマチュピチュとナスカ」
「マチュピチュとナスカは知ってます!」
「ナスカって地上絵のところですか…?」藍も訊いてみた。地上絵は有名でも、ナスカに遺跡が在ることはあまり知られていない。
「うん、そう。遺跡と地上絵はちょっと離れてるんだけどね。地上絵も見たよ」
「ヘリですか!?」
「ううん、セスナ。私が乗った前の週に墜落して、前の日まで運航停止になってたらしいんだけどねー」
「怖っ! よくそんなの乗りましたね!」碧の感想も尤もだが、
「そりゃそこまで行って乗らない方がおかしいでしょ」その為に行ったのなら乗って当然という考えもまた御尤もだ。
「でもペルーで一番すごかったのはクスコの宮殿だよ」
「インカ帝国の宮殿でしたっけ?」
「うん。とにかく石組みに全く隙間が無いの。現代でもあれ加工するのはすごい手間だと思うわ。しかも硬い石なの」
「どんなのか見てみたいね!」
「うん…!」
「写真も撮ったけど、写真ではいまいちすごさが伝わらないのよねー」
「えー! じゃ、わたし達が大学生になったら連れてって下さいよ!」知らない裡に藍も参加することになっているが、梨乃が居れば外国でも大丈夫であろうし、この二人と一緒の旅行は夢のように楽しいだろう。
「いいわね」
「エジプトは?」
「ギザとカルナック」
「聞いたことあります! ギザってピラミッドがあるところですよね!」
「うん。ほかにもピラミッドあるけど、あの三つだけが飛び抜けてすごい出来なのよね」
「ピラミッドも見てみたい!」
「うん、あれは一生に一度は見るべきだよ」
「そうなんですか…? 私も、見てみたいです…!」
「じゃ、エジプトも連れてってもらう、と。アイルランドは?」
「ボイン谷とダンエンガス」
「ボイン谷!」声を上げて梨乃の胸をじっと見つめる。
「地名だから」
「ボインなら谷間があって当然ですもんね!」胸元を見つめたまま、よく分からない納得の仕方をする。梨乃はこの話題を引っ張っても詮無しと判断したのか、話を先に進めた。
「ニューグレンジっていう所の遺跡がね、冬至の日だけ日光が奥まで射し込むような構造になってるの。そういうのは他の場所にもあるんだけど、ニューグレンジはピラミッドより古いんだって」
「へー」碧は漸く梨乃の胸から視線をはずし、
「次の優先順位は?」と訊いた。
「そうねえ、行きたい順はトルコのボカズキョイ、イラクのウルとバビロン、パキスタンのハラッパー、マルタのジュガンティーヤてところかしら。どこに行くかはまた別の話になるけど」金銭、時間、政情などの都合でそうなるだろう。
「スゴいです! それも連れてって下さい!」
「うん。どこ行きたいか練っておいて」如何にも安請け合いな感が有るが、梨乃のことだから本当に行く気だろうと藍は思う。隣町の乗馬クラブへ連れて行くのも地球の裏側へ連れて行くのも、彼女にとっては大差無いような気がする。
「さてと、おかわりおかわり」空になった皿を両手で持って碧が席を立った。
「そうね」梨乃も並んで席を立つ。間に挟まれた藍だけが、まだ皿を空にしていない。藍から見ると、あれだけ話しながら何故皿を空に出来るのかよく分からないが、自分の方が少数派であろうことは過去の経験で分かっている。
食べながら待つこと一分ほどで二人は戻ってきた。
「ね、藍ちゃんはどこ行きたい?」皿を机に置いた碧が訊いてきた。さっきの話の流れからして、海外のことに違い有るまい。
「え、えーと……」が、外国に行くことなど藍は空想したことすら無い。本やテレビで海外のことを見聞していても、それはあくまでも本やテレビの中のことであり、現実味は全く無い。天国や地獄と変わらない程度の存在なのだ。
「好きな小説の舞台とか!」
「あ、それなら…ミラノのサンバビラ教会に行ってみたい…実在するかどうか分からないけど……」
「黒い兄弟ね。実在するわよ」
「そうなんですか…!」実在するのか! 藍は心躍るのを感じた。
「解説の高辻さん!」
「黒い兄弟っていう小説で、人買いに買われて煙突掃除をする子供達の話。サンバビラ教会はその子供達が秘密基地として使う場所なの」
「人買いって…けっこう重い話ですか?」
「うん。煙突掃除夫になるのも、それが危険な重労働で病気に罹りやすいから。でも、そういう環境の中でも逞しく生きていく子供達の話」
「感動しそう!」
「私は感動したわよ」
「私も…」
「えー! 読みたい!」
「家にあるわよ。帰りに持ってって」
「梨乃さん、話速っ!!」確かに速い。実は藍の蔵書にも在るのだが、もうそれを言う機は逸してしまった感が有る。
「碧ちゃんはどこに行きたいの?」
「よくぞ訊いてくれました! わたし、プロヴィデンスに行ってみたいです!」
「ロードアイランド州の?」
「え? マサチューセッツ州じゃないんですか!?」
「うん」
「同じ名前で二つあるとかじゃないですよね?」
「ヴァンクーヴァーみたいに? んー、そこまでは分からないけど、ロードアイランド州の州都はプロヴィデンスだよ」ヴァンクーヴァーはカナダのブリティッシュコロンビア州に在る有名な都市だが、アメリカ合衆国ワシントン州クラーク郡にも同名の都市が在る。
「それってマサチューセッツの近くですか?」
「うん、隣」
「あー、じゃあそこなのかなあ。ラブクラフトの生まれ故郷で、小説にもによく出てくるんですよ。でもほかに出てくるのがマサチューセッツばっかりだから、てっきりプロヴィデンスもそうなのかと」
「なるほど、ラブクラフトね。あの辺はアメリカの中では州が密集してる地域だし、ロードアイランドは特に狭いから、並んで出てきてもおかしくないんじゃない?」
「狭いんですか」
「うん。アメリカで一番狭いよ」全米五十州で断トツに狭い。
「へー。藍ちゃん知ってた?」
「ううん…」恥ずかしくなって藍は下を向いた。日本では一般常識にすらなっていないような内容であろうから、高校に上がりたての藍が知らずとも全く恥ではないのだが、それもまた当然藍の知らぬところである。
「でもイタリアとアメリカじゃ、一回で行くのは大変ね」
「えー! 二回行けばいいじゃないですか!! 楽しみが増えましたよ!」
「…うん、そうね」
「あ! でも一回で行って地球一周してくるのも捨てがたい!」その言葉に藍は驚かされた。自分の全く思いもよらないことを、しばしば碧は当たり前のように口にする。
「確かにそれはいいわね」乗り気になる梨乃も同類である。よくもまあこんな二人の間に自分が座っているものだと、藍は不思議に思う。
「どっちにしても、がんばって稼がないといけないね」
「はい! 夏休みとかにバイトします! 藍ちゃん、がんばろ!」
「え…!? …うん…」アルバイトもまた、藍が考えてもみなかったことである。うんと応えてはみたものの、極度のあがり症である自分に務まる仕事など在るのだろうか。
「何がいいかな!? 藍ちゃんは本屋とか合ってそう!」
「え…うん、本は好き…だけど…」接客業は力仕事の次に自分には出来そうにない仕事だ。
「あの…碧ちゃんはどんなのがいいの…?」
「うーん、あんまりこだわりはないんだけど、藍ちゃんと一緒にできるのがいいな! 梨乃さんのところとか!」
「私の職がなくなるから不可」
「やっぱりか」
「超掻き入れ時だけだね、そんなに人数欲しいのは。年間で五日ぐらい?」
「じゃあその五日間にはバイト入るとして」
「入るのね」
「ほかにも入れないとお金貯まらないなあ」
「それなら季節バイトがいいよ」
「海の家的な!?」長野県に海は無いが。
「海の家は働いたことないから分からないけど。林檎の箱詰めとかスーパーのイベント販売とか、けっこう時給いいよ」
「梨乃さん、けっこうバイトしてるんですね」
「私は単発専門だからね」
「たんぱつ?」
「単発バイト。一日とか二日とか、期間の短いの」
「時給いいからですか?」
「それもあるし、短期間なら時間もやりくりし易いからね」
「あ、なるほどー。藍ちゃん、わたし達もそれだね!」
「うん…。林檎の箱詰めならできそう…」他に比べれば他人との会話が少なそうだからだ。
「でもまずは学業だよ。大学行くつもりなんでしょ?」
「はい! 信州に行くつもりです!」
「碧ちゃん…もう進路決めてるの…!?」藍は驚いた。自分はそんな先のことなど全く考えずに高校を受験したのに。
「ううん、全然! 信州だったら近いし、梨乃さんいるし、いいかなーって」
「あ、なるほど…」碧の如何にも適当な答えに、藍はほっとした。
「行きたい学部があるなら信州はいいと思うわよ。松本にあるのは人文、理学、医学だけだけどね」
「松本以外にもあるんですか?」
「うん。教育と工学が長野で繊維が上田、あと農学が伊奈の方にあるよ」
「バラバラですね!」
「ねー。ま、私としては松本で後輩になってくれると嬉しいけど」
「その方向でがんばります!」
「私も…」我ながら流れに靡いた感を否めないが、藍もとりあえず信州大学を目標にすることにした。
「さてと、おかわりおかわり」話題が一段落したと見て、さっきと同じ台詞を繰り返しつつ碧が席を立つ。
「私ももう少し食べようかな」梨乃が続いたのを見て、
「私も…」周回遅れで藍も皿を手に席を立った。
「おっ、いいね、藍ちゃん! せっかくの食べ放題だもんね!」始めは驚いた様子で、途中から楽しそうに碧が言う。
「そうそう、色んな食べ方でね」
「えっ、梨乃スペシャルがあるんですか!?」白米を皿に載せ、タイ風ドライカレーと銘打たれた肉そぼろを取らんとしていた碧が慌てて手を止めた。
「そんな大層なものじゃないけどね」と前置きし、
「ブレンドするの」前置きより短い言葉で説明した。
「おお~、なるほどー! で、梨乃スペブレンドは!?」勝手に命名した上に省略までしている。
「まずドライカレー」梨乃が言うが早いか、碧は止めていた手を動かして肉そぼろを皿に取った。
「その上にチキンカレー」自らも白米を皿に盛りながら梨乃が指示する。
「うおー、これはおいしそう!」
「次のブレンドは、まずチキンカレーを少し」
「今のと別ですよね!?」
「うん」梨乃の回答を待って皿にチキンカレーを取る。梨乃の言う通りに、少しだけ。
「それとハヤシ。量は適当で」
「なるほどー! 辛いハヤシライスができるんですね! どんなだろ!?」並びの端に置かれた容器の前に移動してハヤシライスのルーを取り、ほくほく顔で碧は席に戻った。
梨乃も同じ調合をして席に戻る。残った藍も、二人を真似てみた。但し、量は非常にささやかだ。
「ありがとう…」藍が戻るのを立って待っていた碧に礼を言って、藍は二人の間に収まった。
「ううん! では改めていただきます!」
「頂きます」「頂きます…」碧は号令したつもりではなかったのかも知れないが、誰かが頂きますと言えば復唱するのが日本人の美しいところである。
「おいしい! ハヤシライスだけど後から辛いのが」碧ならば肉から口にしそうなものだが、先ほどの教訓でより辛い方を後に回したのだろう。
「こっちも、おいしいです…」反対に藍は肉から食べ始めている。
「外さなかったみたいでよかったわ」梨乃の選択は藍と同じだ。
「えー、どれどれ? うん、ドラチキもおいしいね!」また省略命名している。省略が過ぎて最早余人には何のことだか分かるまい。
「でもあれだね、これだけ種類があったら梨乃教授ですら試してない組み合わせがいっぱいあるね、きっと!」
「そうね、私が教えられることはもうないわ。二人とも卒業よ」
「いや嘘ですよね! ダメな組み合わせも教えといて下さいよー!」
「なかなか鼻が利くわね。藍ちゃんにだけこっそり教えようと思ってたんだけど」
「そういういけずなしー!」
「はいはい。私がダメだったのはね、ドライカレーにハヤシライス」
「何ですと!?」当にその組み合わせを皿の上で調合しようとしていた碧が叫んだ。
「えー! 絶対おいしそうなのに!」口には出さなかったが、藍もそう考えていた。
「んー、わたしもそう思ったんだけどねー。何が悪いのか分からないんだけど、何かダメだったのよねー」
「そうなんだ…聞いてよかったー! ありがとうございます、教授!」
「ま、次来たら色々試してみて」
「はい! 今日のうちにもう少し調合してみたいけど、これ食べたらもう次は無理そうです!」
「だろうね。藍ちゃんももういいの?」
「あ、はい…」
「そう。この後なんだけど、アルプス公園でお花見はどうかな?」アルプス公園は城山の北側に位置する公園で、植物園と小さな動物園、博物館、マレットゴルフのコースなどを擁している。
「さんせーい!」
「私も、行ってみたいです…!」
「じゃ、決まりね。あの子達も散歩させてやりたいし」
「うわ、ますます賛成! 楽しみだね!」
「うん…!」さぞかし楽しかろう。
「ワンコローズの昼ごはんはどこであげるんですか?」
「ないよ。一日二食」
「うおっ、なかなか厳しい!」
「昼家にいないことの方が多いからね。日によって二食だったり三食だったりするよりも二食で統一した方が健康的かと思って」
「お母さんもいないんですか?」
「いるけど甘やかしてたくさんあげたり好きなものばっかりあげたりするから、私が旅行の時以外世話するの禁止してる」
「うわ、うちのお父さんと同じだ!」
「碧ちゃん家は猫だっけ?」
「はい! よく焼き鳥とかあげてて、見つけ次第粛正してるんですけど、懲りないんですよねー」
「うちも孫を甘やかすおばあちゃんみたい」
「ホントそれです!」育てる責任を負っていないとつい甘やかしてしまうのが世の常なのだろう。
藍は最後のカレーを口に運びながら、アスランの姿を思い浮かべていた。動物など飼ったことが無いし、昨夜までは興味すら持っていなかったのだが、今は梨乃の母や碧の父の気持ちがよく分かる。
「さてと。二人とも、もうおかわりはいい?」
「はい!」「はい…」
「じゃあ日直」
「はい! 手を合わせて!」碧の発声で三人揃って合掌する。
「いただきました!」
「頂きました」「頂きました…」
「あ、トイレ!」
「はいはい。奥の左手だよ。私たちも行っておきましょう。藍ちゃん先にどうぞ」
「あ、はい…すみません…」
「ううん」
碧、藍、梨乃と用を済ませると、
「じゃ、先出てて」自動車の鍵を碧に渡し、梨乃が伝票を取った。
「ええ!? ダメですよう、梨乃さん!」支払いのことであろう。
「昨日もごちそうしてもらったのに!」藍も強く頷くが、
「いいからいいから。御馳走したいの」年上で一応自分でも稼いでいる梨乃にそう言われては碧も藍も引き下がるしか無かった。
「それじゃ、お言葉に甘えて、ありがたくごちそうになります」碧が頭を下げ、藍も倣った。
「うん」梨乃が会計に向かい、二人は店の外に出た。扉に付けた鈴がカランと鳴るのに反応したのか、車内でアスランが頭を擡げたのが見える。
碧がリモコンで解錠し、藍が扉を開けて中に入ると、待ってましたとアスランが顎を腿へ載せてきた。すっかりこの位置関係を気に入ってくれたようで、藍としては嬉しい。
ラブは相変わらず寝ているのか、藍の席からは姿が見えなかった。しかしガチャリと助手席の扉が開いた時、
「ホントちゃっかりしてるなー、お前」車外から碧の声が聞こえ、
「どっこいしょっと」持ち上げられるラブの姿が見えた。どうやら助手席で寝ていたらしい。碧はラブを持ち上げたまま着席し、それからラブを膝に載せた。が、
「ダメだこれ、また寝そう!」ラブは足許に移された。不満そうなラブは立ち上がって碧の膝に前肢を置いたが、
「ダメダメ。公園まで我慢しな」取り合ってもらえない。そうこうしていると今度は運転席の扉が開き、梨乃が乗り込んできた。
「あの、ごちそうさまでした…」「ごちそうさまでした!」藍に続いて碧も礼を言う。
「うん。ここも気に入ってもらえたみたいでよかった」話しながらエンジンをかけ、車を動かす。
「はい! おいしかったです! 学校から近いし、また来たいです! …あ、参考までにおいくらですか?」
「1400円」
「わ、やっぱりけっこうしますね。すみません、そんなにしたのに」
「ううん、気にしないで。昨日のケーキ屋の並びにメーヤウがもう一軒あって、そこは食べ放題じゃない分安いよ。…まあ、今日ぐらい食べるなら今の店の方が安くなるけど」
「うわ、そこも今度行ってみます!」
「うん」
「あ、昨日のケーキ屋さん何て名前ですか?」
「ロンポワン。フランス語で円の中心って意味だって」
「『ロンポワン』、何かかわいい! フランス語ってかわいい名前多いですね!」
「語尾がね」
「はい! あ、今日の分は今度体で払いますから!」
「うん、じゃあ今度楽しみにしてるわ」
「やだもう梨乃さん、今夜だなんて…わたし達帰さないつもりですね!? でも旦那様の御要望とあらば」
「もう、また」
「でへへへ。あ、でも梨乃さん家って学校の近くなんですよね」
「そうね。時々泊まりに来れば?」
「うわっ、魅力的な提案! じゃあ週に五日くらいで!」
「何その単身赴任の旦那みたいな帰宅頻度」
「単身赴任の人ってそうなんですか?」
「いやそりゃ赴任先と家庭環境によるだろうけど、週末だけ帰宅って人多いんじゃない?」
「あ、なるほど。て言うか、ダメですよ! 梨乃さんが旦那様でわたしが奥さんじゃないですか!」
「いや、その論法だとうちが家庭で碧ちゃん家が職場ってことになるじゃない」
「むむむ、そうですね…。…! じゃあ、週五日家庭にいるわけじゃないですか!」
「週末必ず家を空ける奥さんか…」
「うわ、その表現スゴいダメ嫁みたいなんですけど!!」
「これが藍ちゃんの場合だとそこまで酷くないのよね」急に火の粉が降りかかってきて、藍は思わずアスランを撫でる手を止めた。
「え? 何でですか?」
「奥さんの私が毎日家に居て、旦那様である藍ちゃんが平日は帰宅」
「週末いないのが何か浮気っぽいけど、趣味で出かけるとかかも知れないし…確かに違和感薄くなりますね…って、めっちゃ男女差別っぽいんですけど!」火の粉が避けてくれたので、藍は安心して撫でるのを再開する。
「ねー。不公平よね」
「わー、何か腹立ってきた!」
「何にせよ碧ちゃんはダメで藍ちゃんはOKってことね」
「だからそういういけず禁止ー!」
「ま、私が帰るの遅くなるかも知れないけど、遊びに来てくれれば嬉しいわ」
「行きます行きますー! ね、藍ちゃん!」
「うん…!」
「ごはん作って梨乃さんの帰りを待つとかいいね!」
「え……」本人が居ない家に上がって台所を使うなど、とても藍には出来ない。
「碧ちゃん、料理得意なの?」
「全然ダメです! でも藍ちゃんがスゴい上手なんですよ!」
「なるほどね。それは楽しみだわ」完全に話の流れは藍が夕飯の支度をすることに向いているが、その流れに棹差すことは藍にとって荷が重過ぎた。
話が盛り上がっている間に、自動車が登る坂道は傾斜の度を増し、いつの間にか道沿いから民家も消えてしまっていた。大人しく撫でられてはいるが、アスランがそわそわし始めている。そして、二、三度急なカーブを曲がると、きれいに整備された駐車場が右手に見えてきた。
「到着ですか!?」
「うん。アルプス公園来たことない?」
「ありますけど、小っちゃかったからあんまり覚えてないです」
「藍ちゃんは?」
「私も同じです…」
「そっか。今頃は花が色々咲いて綺麗だと思うよ」
「わー! 楽しみだね!」
「うん…!」
三分割の二つ目です。




