乗馬見学 1(/3)
乗馬見学
「二人とも、起きて」梨乃の声で藍は目を覚ました。人に起こされたのはもう何年ぶりだろう。
身体を起こそうとしたが、何かに押さえつけられたように動かない。一体何事かと慌てて目を遣ると、蒲団が妙な膨らみ方をしている。右の方を向いてみると碧の頭が随分向こうで斜めを向いていた。ということは、碧の脚が自分の上に乗っかっているのだろう。本人の申告に誇張は無かったようだ。
右手が痺れて動かないので左手を使って碧の脚から脱け出し、ようやく上体を起こした。
「碧ちゃん、起きて。急いで着替えないと…」
「んー、チューしてくれたら起きるー」既に目覚めていたらしい。
「いいわ、ラブにさせるから。言っとくけど、口臭いわよ」
「起きました! おはようございます!」バネ仕掛けのような素早さで起き上がり、敬礼した。
「うん。じゃあ着替えて。臭いが付くかも知れないから制服は置いていった方がいいよ」
「はーい! あ、その前にトイレ!」素早くしかし静かに部屋を出て行った。
「藍ちゃんも出る前に行っておいた方がいいかな」
「はい…」
碧と入れ替わった藍が部屋に戻ると、ブラウスと乗馬用キュロット、それに上着が差し出された。御丁寧に藍色と碧色で揃えてある。
「わ! わたし達カラーじゃないですか! まさか今日のために」寝間着を脱ぎながら言う。
「いやさすがにそれはないわ。私青好きだから、たまたま持ってたの。碧ちゃん、ブラ」碧は寝間着を脱いでそのままブラウスを着ようとしていた。
「おお!」慌てて鞄の中の袋からブラジャーを出して着ける。
隣で藍も同じようにしている。それを見た碧が、
「藍ちゃん、ブラの着け方変だよ」
「え……?」
「ホックとめてから胸入れたでしょ」
「え、うん…」
「逆だよ。カップ当ててからとめないと」
「そうなの? 習ったことないから……」
「間違った着け方だと形がおかしくなるって言うよ。ね、梨乃さん」
「そう言うね。でもそれよりも、そのやり方で入るのは、寸法が合ってない可能性が高いわね。いっぱいまで詰めてる?」
「いえ……」
「詰めた方がいいね」
「そうですか…?」
「うん。緩いと動いた時にブラから胸が出る危険が高くなるからね」
「はい…」過去そんなことは一度も無かったし今後も激しい運動などすることは無いだろうから、そんな心配は杞憂であるように思うが、とりあえず言われた通りにしてみよう。
「わたしやるよ!」いつの間にか碧が背後に立ち、手早くホックを外し、留め直してくれた。
「ありがとう…」
「ううん! やっぱりこれぐらいですよね!」
「うん、そうね」梨乃も藍の背後に立つ。
締め付けられる感じがして藍本人はあまり快適ではないのだが、二人が揃ってそう言うのだからこれが適正なのだろう。
振り向くと、二人は既に着替え終わっていて、藍は慌てて服を取った。
「慌てなくていいよ、藍ちゃん」
「あ、はい…」と言われても焦ってしまう。
「はいはい! 梨乃さん! 今度みんなで下着買いに行きましょう!」碧は楽しそうだ。それを見て、藍の心から少し焦りが抜けた。
「うん、いいよ」
「やった! オトナかわいいの見つくろって下さいよ!」
「難題ねえ」
「梨乃さんが今着けてるようなやつですよう!」藍はキュロットの前ホックを留めながら、梨乃のブラジャーとパンツを思い出した。碧の言うとおり、大人っぽい印象も可愛らしい印象もある下着だった。色は青だ。
「じゃ、出ましょう」藍が着終わるとほぼ同時に梨乃が言った。
「はい!」「はい…」
何が入っているのか大きな袋を持って扉に向かった梨乃のすぐ後ろにアスランが続く。その後ろにはラブだ。二頭とも、完全に連れて行ってもらうつもりらしい。
「ラブ子とアっちゃんも行くんですか?」二頭の後ろについて廊下に出ながら碧が訊く。
「うん。ラブは置いてくつもりだったけど、珍しく行く気みたいだから」もう階段を降り始めている梨乃は振り向かずに答える。
「やったあ! よかったね、藍ちゃん!」
「うん…!」
「ちょっと待ってて。先にこの子たち乗せるから」階段を降りたところで梨乃が言い、
「はーい!」「はい…」二人は玄関で靴を履いて待った。すぐにエンジンのかかる音がする。
一分ほど後、梨乃が玄関の扉を開け、
「お待たせ。碧ちゃん助手席、藍ちゃん後ろの右側ね」と指示した。
「はい!」「はい…」二人はいそいそと車へ向かう。外はまだ薄暗かった。
「寒!」碧が一言小さく叫んで助手席に乗り込む。車は、よくある四ドアハッチバックの青い小型車だった。
「あ、足元にラブいるから」
「はーい」
少し遅れて藍も後部座席に乗り込み、扉を閉めた。隣にはアスランが臥しており、頭が藍の席に載っていたが、扉が開くのを見て起き上がった。
「ごめんね…」言いながら藍が座ると、その膝に顎を乗せて、ほぼ前の通りの姿勢になった。右手でその頭をそっと撫でてやる。それだけでまた幸せな気持ちが湧いてきた。犬とは真に不思議な力を持つ生き物だ。
「あー! わたしもまだしてもらったことないのに!?」
「え……?」
「膝枕! 今アっちゃんにしてるでしょ!」膝枕と言えばまあそうだが。
「………」何と言えばいいのか藍は困っている。
「はいはい。犬に焼きもち焼かない」梨乃が助け船を出してくれた。
「だってわたしの奥さんなのに~」
「はいはい。じゃあ出すよ。シートベルトしてね」梨乃の声とほぼ同時にカチカチと音がする。藍も碧も、言われる前にシートベルトを引き出していた。
前照灯が点き、車は動き出した。住宅街を何百mか進み、バス通りらしい道路に出る。藍の全く知らない道だ。
「あの…乗馬クラブってどこにあるんですか…?」車の進む坂道の勾配が少し急になってきた頃、藍は思い切って会話の口火を切った。
「あ、そっか、藍ちゃんには言ってなかったっけ。豊科。インターのちょっと先で、ワイナリーの隣だよ」前を向いたまま梨乃が答える。旧豊科町は、今は合併されて安曇野市の一部となっている。
「え、ワイナリー!? やだもう梨乃さん、わたし達を酔わせてどうしようって言うんですか!?」碧が割って入った。
「いや酔わせないし。未成年にお酒飲ませないから」
「え!? じゃあしらふのままでどうにかしちゃうつもりなんですか!?」
「いやどうにもしないし」
「えー!? これだけフラグ立ててるのに何もしないなんて、梨乃さん修行僧!?」
「いやフラグ立ってるからって攻略しないといけないってことないし」
「あ~んもう、梨乃さんのいけず~!」
「じゃあ碧ちゃんはどうされたいの?」
「やだもう!! そんなことオトメに言わせないで下さいよ」
「オトメは酔ってもいないのに人の胸を鷲掴みで揉んだりしません」
「えっ!? じゃあ酔わせて! 酔わせて下さい!!」
「いやだから未成年には飲ませません」
「えー、あと5年もあるじゃないですか!」
「仕方ないでしょそういう法律なんだから」
「結婚は16歳でできるのに飲酒が20歳なんておかしいです!」
「結婚と飲酒は直接関係ないと思うけど、全部18歳だったら分かり易いのは確かね」
「えー、でもわたし結婚は16歳でいいです! そしたら来年には結婚できるじゃないですか~」
その言葉に、藍は奈落に突き落とされたような衝撃を受けた。碧から恋愛の気配がしないのは、もう結婚が決まっているからか。
「碧ちゃん…婚約してるの……?」弱々しく訊いた。結婚したからといって碧と自分の仲が無くなる訳ではないのだが、碧が誰かの許に行ってしまうのは厭だ。アスランの背中に乗せた手が微かに震え、それを訝しんでアスランが頭を少し持ち上げた。
「うん、昨日したじゃない! 藍ちゃんと梨乃さん!」
今度はその言葉に一気に奈落の底から引き上げられたが、落ちるのと戻るのが急すぎて言葉を発することが出来ず、出たのは深い吐息だけだった。
「そんなのしたっけ?」梨乃は全く冷静なままだった。まあ今時十五で婚約十六で結婚などという者はほぼ皆無だろうから、こちらの方が普通の反応だ。
「んなーに言ってるんですか! 梨乃さんが『私たちだけの仲』って言ったんじゃないですかー!」
「あ、あれで婚約成立してたのね」流石の梨乃もこの飛躍は読めなかったようだ。
「当然ですよう! もうこれでわたし達、来年の4月には3人で夫婦ですよ!」
「そういうことなら法律関係ないから別に今すぐでもいいんじゃないの?」
「もう、梨乃さんたらせっかちなんだから! 焦っちゃダメダメ、 ちゃんと16まで待って下さい!」
「そうねえ、じゃあ再来月には私たちだけ先に夫婦になっちゃうね、藍ちゃん」
「え……」
「えー!? そんなのもっとダメですよう! そんなことならわたしも!!」
「ダメよ、焦っちゃ。ちゃんと16まで待って」
「うぅぅ、梨乃さんホントいけずぅ。藍ちゃん! 藍ちゃんは待ってくれるよね?」
「え…うん……」
「ありがとう藍ちゃん~!」
「あらら、私はふられちゃったわね」
「え……」「いけずのバチですよう!」藍の声を碧の大声が掻き消した。
「では来年3月27日、わたし達3人の結婚式を湿や…じゃなくて、どのように執り行ないましょう?」結婚式が告別式になるところだった。
「そうね。厳か? 晴れやか? 華やか? 清らか? 賑やか? 密やか? 淑やか?」
「うわ、さすが梨乃さん! 色々出てきた。藍ちゃんはどれがよかった?」
「え…あの…密やか…三人だけの仲だから……」
「藍ちゃん……!?」
「やば、今の萌えたわー。わたしフラグ立っちゃったかも。藍ちゃん、やっぱり先に二人だけで結婚しない?」
「わー! ダメダメ絶対ダメー!! 藍ちゃん、来年まで待ってね!」
「うん…」
「3月27日まではまだまだあるわ。気が変わったらいつでも言ってね、藍ちゃん」
「わー! これは梨乃さんから藍ちゃんを隔離しておかないと!」
「冗談よ。ふー、碧ちゃんはいじり甲斐があって楽しいわね」
「えー! 冗談だったんですか? めっちゃだまされたー! 梨乃さんホントのホントにいけずぅ~」
「愛ゆえよ。好きな女の子に意地悪しちゃう男の子の気持ちってこんなかしらね」多分違うが、愛には違い無さそうなのでまあ良しとしよう。
「梨乃さん…じゃあちゃんと待ってくれるんですね?」
「いや、それはどうかな?」
「あーん! 藍ちゃーん」碧が振り向いて助けを求めてくる。
喧嘩になるのではないかと、最初はハラハラして見守っていた藍だったが、ここに至ってようやく、梨乃の掌の上で転がされるのを碧も楽しんでいるのだと気づいた。安堵と共に急に二人が可笑しく思えてきて、藍はくすりと笑い声をたてた。
「藍ちゃん…」
「あ、ごめんなさい…すごく楽しそうだから……」
「梨乃さんは楽しいだろうけど、わたしはー! 隣の席だったら膝枕で慰めてもらうのにー」恨めしげにアスランを見る。アスランは目を合わせず耳を伏せた。さっきまで左右に揺れていた尻尾がいつの間にか後肢の間に収納されている。昨夜の梨乃の言葉は誇張ではなく、本当に気が弱いと見受けられる。
藍もアスランの変化に気づき、そっと背中の上で手を滑らせた。
ちなみにラブは、藍達が乗り込んでから今に至るまでずっとおとなしくしている。眠っているのであろう。
「ところで梨乃さん」元の姿勢に戻り、運転席の方を向いて話しかけた。
「うん?」
「運転上手ですね!」
「そう? 普通じゃない?」
「そんなことないです! うちのお父さんなんてもっとギッコンバッタンしますもん!」碧が妙な言い回しで言う。加減速が急だということだろう。
そう。男の場合、上手な運転=速い運転、という等式が大半の人の思うところであろうが、女には別の基準で見る人が多い。特に碧達のような若者は自分で運転したことすら無いのだから、自分が同乗した時の乗り心地の良さで判断するのは当然と言えよう。
「梨乃さんはあんまり揺れなくて快適です! ね、藍ちゃん」
「うん…私、乗り物酔いしやすい方なんですけど、今日は大丈夫です…」山の中を通り抜けてきた車は今、急な坂を下りきり、街道らしい道に突き当たって信号が青に変わるのを待っている。道の向こうはラブホテルらしい、派手な外観の大きな建物だ。
「そう、それは嬉しいわ」素っ気ない言い方だが、言葉の端に喜びが滲んでいる。それを感じて、藍は、また梨乃が密かに気を遣っていたのだと思った。昨夕源太で感じた憧れの気持ちが再び湧き上がってくる。自分も梨乃のように、涼しい顔で気遣いの出来る人間になりたい。
「さてと、もうすぐだよ」
「もう、梨乃さんたら……!! そこ、ラブホテルじゃないですか!」
「そうだね。でも私たちが行くの乗馬クラブだから」信号が青になり、言いながら梨乃は車を発進させて街道を右に曲がった。
「じゃあ帰りに寄るんですね!? もう…じらすんだから…!」
「いや帰りにも寄らないけど、大体、女子三人で入れるのかな」
「ダメなんですか!?」
「男性同士はお断りってとこはあるらしいよ」
「へー。梨乃さん、行ったことあります?」
「さらっと訊くわね。ないけど」
「え? そっか、梨乃さんは自宅派…」
「んー、何か意図的な誤解を感じるから言っとくけど、私、彼氏も彼女もいないわよ」変わらず冷静な口調で言う。
「えー、意外! ね、藍ちゃん」
「うん……」意外な気もするが当然のような気もする。梨乃の魅力に惹かれる人は大勢いるだろうが、所謂高嶺の花、それも相当な標高なので、実際に交際を申し込もうという人は皆無なのではないか。
「でも婚約者がいるからね」
「えー!? ホントですか!?」物凄い大声で碧が叫んだ。藍の掌の下でアスランがびくっと身体を震わせる。
「碧ちゃんが言ったんじゃない」梨乃は冷静なまま、少し呆れた様子だ。
「あ、あー…、そうでした。んもう、さすが梨乃さん!」梨乃の横顔の方へ唇を突き出しながら言う。
そんなことをしている裡に、車は緩やかに減速し、いつの間にか右手に現れていた乗馬クラブの駐車場へと入って止まった。
「さ、着いたよ」言いながらエンジンを切り、シートベルトをはずす。二人が返事するより速く梨乃は車外に出た。
「はーい!」「はい…」藍がシートベルトをはずすと、勢いよくアスランが立ち上がった。尻尾がバンバンと座席の背もたれを叩いている。
「お、起きたかラブ子」ラブも目を覚ましたらしい。碧に続いて車外に飛び出す尻が見えた。
藍が扉を開けて車外に出ると、これまた勢いよくアスランが飛び出し、後部ハッチを開けて何やら取り出している梨乃の方へ向かう。
扉を閉めて梨乃の傍に行くと、一m×八十㎝ほどの布を半分に折ったものを取り出したところだった。それをアスランの背中に掛けると、アスランは嬉しそうに尻尾をパタパタさせた。
次にゴム長靴を二足出し、
「二人とも履き替えて。靴だと砂とか水入っちゃうから」
「はーい!」「はい…」
「あれ? 梨乃さんは履き替えないんですか?」二人が履き替えるのを待っている梨乃に碧が訊く。
「私のはクラブハウスに置いてあるから」
梨乃は二人が脱いだ靴をトランクの隅に並べて置き、長い靴が入っているらしい形状の袋を出した。
「あの…持ちます…」長靴姿になった藍が両手を差し出すと、
「ありがとう、助かるー」その袋を藍の左腕に掛けてきた。
「梨乃さん、わたしはー?」
「あ、碧ちゃんは悪いんだけど、ラブお願い。ほっとくと好きなとこ行っちゃうから。リード、これ」そう言って青い曳き綱を取り出し、碧に渡す。
「はーい。ホントだ、おーい、ラブ子ー」既にラブが旅に出かかっていたらしく、碧は車から離れていった。
梨乃は碧の方を気にかける様子無く、次々と道具を取り出していく。一㎝ほどの幅の革帯が複雑に組み合わさった得体の知れない何か、綿と思しき材質で出来た幅一㎝半ほど長さ二m余りの細長く分厚い帯、ヘルメット、太い鎖と細い鎖、それに二十×四十×二十㎝くらいの道具箱。藍は革帯一式と木綿の帯を梨乃から受け取った。
そして競馬の騎手が持つような鞭を梨乃がベルトに挟んだ時、
「あーっ! 梨乃さん女王様じゃないですか?」ラブを抱えて近づいてきた碧が大声をあげた。
「大声出さない。馬が驚くから」落ち着いて梨乃が窘める。
「あっ、ごめんなさい。梨乃さんがエロいから~」
「それだと乗馬やってる人はほとんどエロくなっちゃうわね」女王様という単語が鞭から来たものと察したのであろう。
「それでしばくんですか?」何故か大阪弁の単語で訊く。
「必要な時はね。叩くだけのものじゃないけど」ヘルメットを頭に載せ、ハッチを閉じ、鍵をかける。道具箱と鎖、曳き綱を両手に持って、
「お待たせ。行きましょう」駐車場の奥の建屋に向かって歩き出した。布を背負ったアスランが意気揚々と後に続く。
「はーい」「はい…」碧と藍は並んでアスランの後ろについた。
「楽しみだね、藍ちゃん」
「うん…!」藍には、人が馬に乗っているところはおろか、馬を直接目で見た記憶すら無い。正直なところ、昨日まであまり興味も無かったのだが、人間というのは不思議なもので、好きな人の趣味となると全く違って見える。
建屋に設置された大きな両開きの引き戸を人二人分ほど開け、梨乃は中に入った。アスランと碧に続いて薄暗い建屋に入ってみると、アスランやラブとはまた違う獣の臭いが鼻孔を突いた。
「扉、そのままでいいよ」閉めようとした藍を梨乃が制する。「日中は開けておくの。閉まってると暗くて見づらいからね」
「あ、はい」梨乃の言葉に左右を見回してみると、どちらも厩になっていて、黒っぽい馬がぬぼーっと立っているのが見えた。
「わ、やっぱり大きいね」半歩前の碧もきょろきょろと見回している。
「うん…あの…馬ってずっと立ってるんですか…?」藍の質問に梨乃は立ち止まって振り向き、
「座ってる時もあるし横になる時もあるけど、あらかた立ってるね。今は、もうすぐご飯の時間だから、それを待ってるんじゃないかな」
「疲れないのかな?」と碧。尤もな疑問だ。
「うん…私だったら絶対無理…」
「DNAが、寝るのは危険だ!って言うんじゃない? 野生の世界では狼とか熊に狙われてたわけだから。だから睡眠時間も日当たり二~三時間で、それも細切れでいいんだって」
「えー! それはうらやましいですね! 自由に使える時間が増えるじゃないですか!」
「なるほど、それはそうね」世の中には、睡眠時間が短かったらその分残業が増えるだけで一向に有り難くないという人も大勢いるのだが、彼女達がそれを知るのはずっと後のことだろう。
「あ、でも狼はともかく、熊だったら楽勝で逃げ切れるんじゃないですか?」
「いやいや、熊ってめっちゃ足速いんだよ。広い平地なら馬の楽勝だと思うけど、路面状態が良くなかったら馬でも捕まっちゃうよ」
「え!? そうなんですか? 意外…って、何かそういう体験が? 妙にリアルさを感じるんですけど」
「ヒグマに追っかけられたことあるからね」
「え!?」碧だけでなく、藍も驚きの声を上げた。
「よく逃げ切れましたね…もしかして倒しちゃったとか…?」
「いや、大山倍達でも勝てないんじゃない?」
「じゃあ、一緒にいた人を犠牲にして逃げおおせたとか…?」
「その状況なら間違いなくそうしたわね」
「え…じゃあ……?」
「出くわした時、原チャリに跨がってたからね。ソッコーエンジンかけて逃げたけど、アクセル全開だったのに三十メートルくらいついて来られたよ」
「怖っ!!」碧が小さく悲鳴を上げる隣で、藍は言葉もなく立ち竦んでいる。梨乃の口調は淡々としていたが、それが却って想像を明瞭に、且つ真に迫ったものにしたのだ。
「いやー、あれは寿命延びたわー」
「え?」二人が声を合わせる。
「普通縮むんじゃないんですか?」碧の質問は尤もだ。
「これは私の持論で根拠レスなんだけど、人間、たまに危険な目に遭わないと生き抜く力が減退すると思うのよね」
「うわ! 梨乃さんかっこいい!」碧はそう言ったが、藍には全く共感出来ない。
「あの…でも、私は、梨乃さんにも碧ちゃんにも危険な目に遭ってほしくないです……」衷心からそう思う。無論、自分も遭いたくないが。
「藍ちゃん…」
「母の愛を感じるわ」
「はい!」
「何にせよ、熊の怖さは分かってもらえたみたいね」二人は、抜け出しかけた熊の恐怖にまた引きずり込まれた。
「はい……」
「じゃあ準備しましょうか」
「あ、はい……」二人は深いため息をついてから、梨乃の後を追って歩き出した。アスランだけが先ほどの意気揚々とした状態を保っている。
梨乃は建屋の端まで行くと、入ってきた時と同じ形の扉を、今度は全開にして外に出た。
「あれ? 馬連れて行かないんですか?」
「うん、こっちの準備が終わってからね」
扉の向こう側にあったのは、鉄柱の上にトタン屋根が載り、梁と筋交いが走っているだけの構造物だった。六本×二列の柱が屋根を支えるその構造物の、長手方向の一辺に沿って一組二本、短手方向に六組十二本ずつの梁が走って、三方を梁で囲まれた空間を五つ作っている。梁はいずれも屋根のすぐ下と地上一mほどの高さに揃えられている。各空間は概ね間口二m、奥行きと高さが三mといったところだ。間口側の柱には一本おきに水道の蛇口が設置され、リールに巻かれたホースが接続されている。また、同じく間口側の柱には鉄環とJ形の鉤とが高さ二mほどの位置に熔接され、鉄環から紐を介して長さ一m弱の鎖が垂れている。
この構造物の向こうには二階建ての建物が、左手には一周四百mほどの長円型の砂場が見えている。馬を走らせるトラックなのだろうか、と藍は考えた。右手はワイン醸造所のようだ。視界の中に人は居ない。
梨乃は一番奥の柱の根元に道具箱を置き、ヘルメットを梁にぶら下げると、アスランの背から布を取ってこれも梁に掛けた。
「藍ちゃん、ありがとう」藍から荷物を受け取り、靴袋を道具箱の横に立て、鎖の束を道具箱に載せ、革帯と木綿帯はJ型の金具に掛けて、
「履き替えてくるからちょっと待っててね。アスDown」と言い残し、隣の建物に消えていった。道具箱の前でアスランが寝そべる。その隣に降ろされたラブはすぐ丸くなった。
二人がそれぞれアスランとラブを撫でながら待つこと数分、ゴム長靴を履いて革製の大きな道具を両手で抱えた梨乃が出て来た。
「わ! それが鞍ですか? 結構大きいんですね」
「うん、競馬の鞍よりかなり大きいね。と言うか、競馬の鞍が小さいんだけどね。あれは鐙をぶら下げるためだけにあるものだから」その鞍を間口から見て端から三本目の梁に乗せる。
「じゃあ、悪いんだけど、二人とも手伝ってくれる? 障害の準備するから」
「おっ、いよいよ!?」「はい…」
アスランが慌てて立ち上がり、ついてこようとする。梨乃がそれを許したのを見て、
「梨乃さん、ラブ子は?」碧が訊いた。
「置いてきましょう。柱に繋いでくれる?」
「はーい」ずっと手に持っていた曳き綱を柱に巻き、寝ているラブの首輪にそっと金具を留める。何だか手慣れた感じだ。
梨乃の後について砂場の中へ入っていくと、外から見て想像していたよりもずっと砂が深く、ゴム長靴に履き替えさせられた理由が分かった。
トラックは内側と外側をそれぞれ埒で仕切られており、トラックの内側には何か白い柱状のものが点々と立っているのが見える。梨乃はトラックを横断して内側に入り、一番手近な柱へ向かった。
近づいてみると柱は藍の身長とほぼ同じ高さの四角柱で、四面それぞれの下端から四角柱を支えるための脚が出ている。四面のうちの一面には、鍵穴形の孔が五㎝間隔で一列に並んだ鉄板が貼り付けられており、その孔の一つには、何かを支えるような金具が嵌められている。
柱の足許には直径十㎝長さ二m程度の丸太が二本転がっていて、丸太の向こうに別の柱が立っていることから、二本の柱で丸太を支えるのだと分かったが、丸太が一本余るな、と藍は思った。
梨乃はその金具を外して真ん中くらいの高さの穴に嵌め直し、丸太の端を金具に載せた。もちろん反対側はまだ地面についたままだ。
「向こうもですよね!」梨乃に言いながら、碧は既に歩き出している。
「ありがとう。下から十一番目ね」
碧は手際よく金具を付け替え、斜めになっている丸太の端を持ったが、
「碧ちゃん、そっちじゃない方」梨乃からすぐ指示が飛んだ。
「こっちですか?」地面に横たわっている丸太を持って金具に置いた。結果、二本の丸太は左右に長いX形を構成している。
「うん。ありがとう」
「残りも全部同じでいいんですか?」碧はやる気満々だ。
「うん」
「じゃあ手分けしてパパっとやっちゃいましょう! 行こ、藍ちゃん!」
「え、うん…」碧に手招きされ、慌てて歩き出すが、柔らかい砂はとても歩きにくかった。
十分余りを費やして全ての障害を組み、後から数えてみると、障害は全部で十一あった。
「ありがとう。普段の半分もかからなかったわ」最後の障害を組んでいる二人のところに来て梨乃が言う。
「いえいえ~、後で胸の一つでもさわらせてくれれば全然オッケーでございます」
「触らせないけど。どうせ一つじゃ済まないんでしょ」
「え? いやいやそそそんなことななななないですよ」
「間違いなくそんなことあるわね。まあそれは置いといて」
「うわ、置いとかれた!」
「アスラン、ジャンプ」梨乃の声に、アスランがぴょんと跳んでXの交点の上を越えて行った。
「ジャンプ」着地とほぼ同時にまた号令がかかり、くるりと向きを変えたアスランが再び軽々と丸太を飛び越え、梨乃の足許に戻ってきた。
「すごい!」二人は声を合わせて驚いた。高さは大したものではないが、着地から次の飛越までがとても短かったのだ。まさに瞬きの間だった。しかも梨乃は号令しただけである。
「すごいって。よかったねアスラン」梨乃に撫でられ、アスランの尻尾がものすごい勢いで振られる。
「しっぽはずれて飛んでいきそうだね」
「うん…」外れて飛んでいく尻尾を想像し、藍は珍しく吹き出してしまった。
「じゃ、馬の準備するわね」
「おおっ、ついに登場!」
一行は寝ているラブの前まで戻った。そこで梨乃が、
「待ってて、連れてくるから。藍ちゃん、アスランも繋いどいて。それ、首輪とリード。アスDown」と言って道具箱の上の鎖を指差し、さっき通り抜けてきた廐舎へ向かった。
「この鎖アっちゃんのだったのか…」碧が拾い上げると、太い方の鎖は、片方の先端にもう片方を通すことで大きな輪になっていた。
碧から渡され、寝そべって頭だけ上げているアスランの首にそっと鎖を掛ける。それだけでアスランが急に怖そうに見えてきたのが、藍には可笑しく思えた。もちろんアスランは表情を変えてなどおらず、柔和で人懐っこい目がこちらを見上げている。
「おー! アっちゃん、ロッカーだな!」碧も同じような印象を受けたようだ。
「鎖1本でこんなになるんだったらもっと色々やってみたいね!」
「うん」微笑みながら即答した。これも藍には珍しいことだ。藍は、橙色のマフラーを巻いたアスランを想像している。何となく、彼には赤系の色が似合う気がした。
「で、こっちがリード、っと」今度は細い方の鎖を拾い上げる。両端に留め具が付いていて、片側の端から三十㎝ほどを柔らかそうな樹脂が覆っている。
「えーっと」樹脂で覆われた部分を柱に巻き、鎖の途中に留め具を噛ませて輪を作る。
「これで合ってるよね」
「うん、いいと思う……」他の使い方が藍には想像出来なかった。
反対側の端を手渡され、アスランの首輪の途中に金具を留めた。繋がれたことを意に介する様子は全く見せず、アスランはこちらを見詰め続けている。その様子がとても愛おしく、藍はアスランの頭を撫でた。アスランも嬉しそうに尻尾を振る。
「あ、出てきたよ!」碧の声に右の方を見てみると、茶色い馬を引き連れた梨乃が廐舎から出てくるところだった。二人が見ていることに気づき、左手を軽く上げる。
「うわー、梨乃さんかっこいいね!」
「うん…!」藍もそう思った。何が、どこが、と問われても答えられないが、とにかく恰好良い。
梨乃と馬はすぐにこちらまでやって来て、二人と一匹が熱い視線を送る中、二番目と三番目の柱の間に入った。奥で馬にUターンさせ、間口の方を向かせると、馬の頭につけた装具に、両側の柱から垂れた鎖の金具を取り付ける。
「馬って大っきいのにかわいいね!」
「うん…!」目の前の馬は、目はパッチリ睫毛も長くて気品のある顔立ちなのだが、口が半開きなせいか、ちょっとぼーっとしている印象を受ける。それが恰好良さを半減させる反面、可愛さを増幅させている。
藍は、立ち上がって鎖いっぱいまで梨乃の方に近づいたアスランを撫でながら馬を見ている。大きいだけに、すぐ傍まで近寄るのは少し怖い。ちなみにラブはまだ丸くなったままだ。
「あれ…馬って意外と毛が長いんですね。写真で見た競馬の馬はもっとこう、ツルっとした感じだったですけど…」と碧。
「ああ、まだ冬毛だからね」足許の道具箱を開き、人間用のものより二回りほど大きいブラシを取り出す。ブラシは、歯ブラシのように密集して毛が植えられているものだ。
「馬も夏毛と冬毛があるんですか?」
「うん」馬の額から顔にかけて軽くブラシを滑らせると、細かい砂か垢のようなものがこぼれた。
「あの…冬毛って何ですか…?」藍の初めて聞く単語だ。
「人間と違って、季節で毛が抜け変わるの。冬は長い毛で夏は短い毛。それを冬毛、夏毛って言うの」馬の右側に回り、首から尻に向かってブラシをかける。ブラシの通った跡がはっきり分かった。ということは、きれいに見えても垢や埃が付着しているのだろう。
「あ、なるほど…」
「犬と猫もそうだよ!」碧が割って入る。
「え…? じゃあアスランも…?」
「うん。今はまだ冬毛だけど、もうすぐ生え変わるよ」と梨乃。
「アスランぐらい大きいと抜け毛大変でしょうねー」
「そうねー。一月ぐらい家の中毛だらけになるね」
「ですよねー」
一ヶ月も毛だらけというのはかなり嫌だが、アスランが出すのなら楽しく掃除できるかな、と藍は思う。昨夕までの自分では考えられなかったことだ。
「この子はいつ頃夏毛になるんですか?」
「うーん、この子はねー、おっと、ボロか」梨乃は馬から離れ、廐舎の方へと向かった。二人が見守っていると、馬は尻尾を上げ、その下から緑色の塊をボトボトと落とした。糞である。
箒と塵取りを手にした梨乃が手際よく塵取りに乗せ、運び去った。馬房の手前に置いてある手押し一輪車に糞を移して箒と塵取りを置き、梨乃は戻ってきた。
「何だっけ? ああ、この子は特別冬毛期間が長いのよねー。一年のうち九ヶ月くらい冬毛なんじゃないかな。普通はちょうど今ぐらいに生え変わるんだけどね」
「冬毛王選手権で上位入賞できる感じですか?」
「サラブレッド部門で優勝も狙えるかもね」
「優勝はハワイ旅行ですかね~」
「バリカンだね」その賞品なら選手権実行委員会も運営可能だろう。
「冬毛伸びてきたら刈るんですか?」
「うーん、それはもう世話する人の好みだね」右側のブラシがけを終え、左側に移る。
「見た目が悪いから刈るとかですか?」
「それもあると思うし、洗った後乾きにくいから刈るとかね。私は、冬毛でもっさりしてるのもかわいいと思うんだけど」
「もっさり……?」
「んー、もっさりって使わないかー」使わない。スポーツ新聞の競馬欄や競馬新聞以外で目にすることはまず無い。藍はもちろん初耳だが、碧もそうだろう。
「ずくなさそうとか反応鈍そうとか、そういう状態」ずくは信濃の方言で、やる気、根性、くらいの意味である。
「あー、今のこの子みたいな?」
「うん、ちょっともっさりしてるよね」
「確かに、もっさりって感じです! あ、ラブ子ももっさりですね!」
「そうだね。ラブはああ見えて運動神経チョーいいけどね」
「え!? アっちゃんよりですか!?」碧が驚いて叫んだ。さっきのジャンプが、アスランは出来る奴という印象を植え付けたのだろう。藍もそこは気になる。
「うん。アスランは身体能力高いけど不器用だからね」辛口の評価だが、梨乃に名前を呼ばれて本犬は嬉しそうだ。
「そうなんですか?」
「うん。不器用なのに頑張るのがかわいいのよね、アスランは」
ブラシを道具箱に戻して、樹脂製の持ち手の先に硬そうな太い毛のブラシと鉄の爪の付いた道具を取り出す。
「そっか、アっちゃんはがんばり屋か、偉いな」碧が声をかけるのと同時に藍はアスランの背中を撫でた。またアスランの尻尾が抜けそうな勢いで振られる。
「ラブはその逆。色々出来るけど全くやらない」馬の左側に立って馬に脚を上げさせ、蹄の裏側を掃除しているようだが、馬体の陰になってよくは見えない。
「うわ、ラブ子らしい! でもそれはかっこいいのかダメなヤツなのか……」ラブらしいという点では藍も同じ感想だ。ラブは絶対世渡り上手な気がする。
そのラブはまだ柱の前で丸くなったまま、起きる気配は無い。本当に、家を出る時はずくが有ったのだろうか。
「この子も障害飛び始めたらすごいから」
「ホントですか? 楽しみだね!」
「うん…!」
「どれぐらい飛べるんですか?」
「高さ? 単発だったら160飛べるよ。その布取ってくれる?」馬の右側に戻り、端の梁に掛けた布を指差す。蹄の掃除は終えたらしい。
「あ、はい…」一番近くの藍が一歩歩いて布を取り、梨乃に渡す。綿の入った厚手の布を中央で二つに折ったもので、四角形の角の一つを大きく弧状に落とした形状をしており、広げた全周が別の布で縁取られ、中央の折り目にも同じ布が縫いつけられている。この布は馬の汗取りを主目的にしたもので、ゼッケンと呼ばれる。陸上競技などで使用するゼッケンの名称はこれに由来するものだ。
「えーと、センチ? ですか?」160の単位のことだ。
「センチ」短く答えながら布を馬の背に掛ける。
「えー!! わたしの身長より全然高い! 藍ちゃんは?」
「私も…158だから……」
「まあ今日は140までのつもり」今度はまた馬の向こう側に姿を消し、
「140でもすごいわ…」半ば呆れたように感心する碧の目の前で、布の上にクッションのようなものが置かれた。
「うん…」
「ちなみに高さだけの話だと、世界で一番偉い障害レースには180センチの障害があるよ。競馬の障害レースね」そしてさらにその上から鞍が乗せられる。
「うーん、高すぎてもはやどれぐらいすごいのかすら分からない…」
「うん…」
「そういえば梨乃さん、さっきから気になってるんですけど」
「うん」また馬の右側、即ち二人から見て馬の手前に移動してきた。
「馬ってみんな口半開きなんですか?」
「そんなことないよ。この子がレアケース」二人に背を向け、幅広で分厚い革帯を馬の腹の下から通す。
「たまにいるのよねー。口の中乾くんじゃないかと思うけど」
「でもかわいいです!」
「うん、そうだね。しかも柔らかくて触ると気持ちいいのよね」帯の先に付いている金具に鞍から出ている細い革帯を通し、ゆっくりと引いて留める。勢いよく締めると馬が苦しいからだ。
「え!? そうなんですか!? 触ってみたい!」
「うん、この子おとなしいから大丈夫だよ」
「やったあ! 藍ちゃんは?」
「うん…私も、触ってみたい…」
「じゃあ、この辺に立って」馬の顔の斜め前辺りに碧を立たせ、自分は馬の前肢の横辺りに立って馬の首に手を当てながら、
「掌で下から触ってみて」
「はい!」顎のように下に張り出している部分に掌を下から宛う。
「なにこれめっちゃ気持ちいい!」昨夜と同じ台詞で感想を述べ、
「ぽよぽよっていうか、ぷにぷにっていうか、ぺもぺもっていうか」
「ぺもぺもって初めて聞いたわ」
「はい…」
碧は何か考え込みながら馬の顎をたゆたゆしているが、突然左手を梨乃の方に伸ばして右胸を上から鷲掴みにした。
「また!?」梨乃の叫びもどこ吹く風、碧は右手でたゆたゆ、左手でもみもみし、
「同じです!」と言い放った。
「…………」「…………」
「あれ? 反応薄いですね」まだ両手は動き続けている。
「うん、いや、ちょっと呆れてただけ」
「あの…何が同じなの…?」
「えーと、何ていうかな…この、柔らかさの質。表面の触り心地は違うんけど、揉み心地がおんなじなの! 藍ちゃんも比べてみて!」
「え………」梨乃の方をちらりと見ると、仕方ないわね、という表情で見返してきたので、藍はアスランの背から手を離して、碧が立っていたところへ移動した。碧は梁の下を潜ってアスランの前に立つ。
「え…と、こうですか…?」掌を上にして右手を出し、馬の口に近づける。
「うん、そう。そっと触ってあげて」
「はい…」目の前の馬はとてもおとなしいが、やはり大きい。動物に殆ど触れたことのない藍は緊張してきた。
「大丈夫だよ。この子おとなしいし、まだぼーっとしてるから」見た目だけかと思ったら本当にそうだったのか。藍は可笑しくなり、くすりと笑いながら触ってみた。まばらに生える長い髭の根元が肬状に盛り上がっていて、何とも表現し難い感触だ。気持ちいいような気もするし、そうでないような気もする。
その時、それまで身じろぎ一つしなかった馬が、ほんの僅かだけ口をパクパクさせた。顎の先の柔らかい肉が掌に当たる。なるほどこれは気持ちいい!
今度は藍が手を上下させ、その感触を確認する。
「ね、めっちゃ気持ちいいでしょ!」
「うん…! ぺもぺもって感じ…」
「でしょでしょ! ほら、梨乃さん! この感触は『ぺもぺも』に決定されました!」
「はいはい」
「じゃあ次は梨乃さんの胸と比べて~」女同士と言えど他人の胸を鷲掴みにするのは常識外れだが、それを指示するのもまた常識外れだ。
もう一度梨乃の方を見て、気にしないでいいよ、という表情を読み取り、そっと右胸に左手を乗せ、斜め下に向かって押す。ブラジャーで支えられているからか、胸が掌を押し返してくるその弾力が昨晩より強い気がする。
その感触の心地よさに二度夢中で掌を押し付け、はっと我に返って、
「あ…あの…ありがとうございました…」礼を言った。
「あー、うん」梨乃は、何と言っていいのやら、という感じだ。
「ね、同じだったでしょ!?」
「あ、うん、よく似てた……梨乃さんは、ぺもべもって感じじゃなかったけど……」
「ぽよぽよ?」
「えーと……」
「それは後で考えてもらうとして、そろそろ出るわよ」いつの間にかヘルメットをかぶった梨乃が言う。
「あ、すみません……」藍が慌てて後ろに下がり、馬の顔に装着されている馬具と柱を繋いでいる鎖に頭をぶつける。
「大丈夫?」梨乃が訊く。
「あ、はい…すみません…」柱ではなく鎖なので、痛くはなかった。
「うん、大丈夫ならいいんだけど」柱に掛けてある革帯で出来た馬具と木綿の帯、それと道具箱に入っている金属の棒と輪を組み合わせた馬具を取り出して合体させ、馬の顔から馬具を外した。拘束が解かれた訳だが、馬は全く動かない。これなら繋ぐ必要など無いのではないか。
木綿の帯を馬の首に掛け、その両端が繋がる金属の馬具を馬の口に持っていく。ここで木綿の帯が手綱なのだと藍にも分かった。
半開きの唇の間に金属の馬具を差し入れると、馬はもごもごさせながら口を開いた。手綱と同じように金属の輪に繋がった革帯の馬具を斜め上にそっと引いて、梨乃は金属の馬具を口の奥いっぱいまで入れる。そして、革帯を馬の顔に宛てがい、二箇所を留めた。この革帯を組み合わせた馬具は頭絡、金属の馬具は銜という。銜は、古くは轡と呼ばれていた。
そして、革帯の位置が左右対称になるよう整え、ついでに馬の前髪もきれいに分けてやると、梨乃は鎖を解いた。
「二人とも悪いんだけど、ラブとアスランも連れてきて。近づきすぎて蹴られるといけないから、ちょっと離れてついて来てね」そう言ってから手綱を右手に持って歩き出す。
「はい!」「はい」馬のお尻を見送って、アスランの方に視線を落とすと、曳き綱をいっぱいに伸ばして梨乃の後を追おうとしている。
隣に立って頭を撫でてやると、梨乃に集中していたアスランの注意がこちらに向いた。
「アスランのリードはずすよー」碧の声に振り向くと、既にラブを連れて行く体勢になっている。
「あ、うん…ありがとう…」
碧が鎖を外し、藍はそれを手繰って樹脂の持ち手を握ると、端の金具を鎖の途中に留めた。先程まで梨乃の背中を追おうとしていたアスランが、藍の傍で動きを待っている。
アスランの頭を一撫でして歩き出すと、アスランも隣に並んでついてきた。現状では鎖は不要どころか弛んで邪魔になっているくらいだが、いつ梨乃を追いかけようとするか分からない以上、外してやるわけにはいかない。
アスランから視線を上げると、碧は一足先に柵の前に着いて中を眺めている。先程障害を組んだ馬場内に梨乃の姿が見当たらず、碧の視線を追ってみると、梨乃は既に騎乗しており、トラックを左回りに歩かせているところだった。
「梨乃さん、もう乗ってるんだね…」碧の左に並びながら言う。アスランは藍の左側だ。
「うん、かっこよかったよー! 足乗っけてるあれに足かけたと思ったらぱって飛び乗って!」足乗っけてるあれとは鐙のことである。二人とも「あぶみ」という言葉は知っていても、それが何を指すのか知らないのだ。
「そうなんだ…すごいね…」恐らく碧なら簡単に真似出来るだろうが、自分には絶対無理だ。
「うん! 歩いてるだけでもかっこいいよねー。あの子、さっきまでぼーっとしてたのに、今はしゃっきりしてるよね」
「うん…」碧の言う通り、馬の歩き方は力強く見える。人が乗ったら重くて動きが鈍くなりそうなものだが、実際にはその逆だ。何故なのだろう。
「梨乃さん、何してるのかな…?」
「え?」
「あんなに動いてるのは、梨乃さんが何かしてるんだよね…? でも、何かしてるように見えないから…」
「おー、そう言われると。手綱ぶらぶらしてるから、手綱じゃないよね。鞭も動いてないし、後は…」
「足かな…?」
「きっとそうだね! うーん、あの足首についてるやつかな…」拍車のことである。踵から後方に伸びた突起を馬体に当てることで、強い指示を馬に送る道具だ。突起の形状や長さには何種類もある。
「いや、でも出っぱり当たってないね…」眉間に皺を寄せ、目を細めながら碧が言う。梨乃は今、二人から見てトラックの反対側にいる。眼鏡をかけている藍にも、拍車が馬体に当たっているかどうかまではよく分からない。
「と、なると…」
「おしり…?」尻で何が出来るのかどうか想像も出来ないが。
「から足首までのどこか、だよね。よし、じっくり見てみよう!」
二人は、こちらに向かってくる梨乃の脚をじっと見つめた。
「膝から下は動いてるね…」真横から見た時は遠いのもあってよく分からなかったが、斜め前からの角度になると、ふくらはぎの辺りが微妙に付いたり離れたりしているのが看て取れた。離れている時間の方が長くて、時々ちょんとつけている。
「うん、きっとあれだね!」碧も納得の様子だ。
梨乃が十mくらいの距離まで近づいてきた時、
「梨乃さーん!」碧が大きく手を振って呼びかけ、梨乃も右手を手綱から離して軽く振り返してきた。鞭はずっと左手に持っている。
藍も手を振ろうとしたが、ちょうどアスランが梨乃を追いかけようとしたため、曳き綱の方に手を取られて出来なかった。
そんな藍に梨乃が軽く頷いてみせ、手綱を持ち直して二、三歩進んだ時、馬が歩法を変えた。同時に、それまでずっと座っていた梨乃が馬の運歩に合わせて立ったり座ったりするようになった。傍目にはかなり異様な感じだが、梨乃の表情に変わったところは見られない。
「何かな…?」梨乃の後ろ姿を見送りつつ藍が呟いた。
「ね?」碧にも見当がつかないようだ。
「でもあれだね、馬も猫と同じ歩き方するんだね」
「そうなの?」
「藍ちゃん見たことない? 野良猫とかよくやってるよ」
「うん…じっと見たことなくて…」
「今度見かけたら観察して~。あんなにダイナミックじゃないけど、てってってってっ、て歩いてかわいいよ」
「うん…」
見ているうちにだんだん馬が速くなってきて、梨乃が手綱を手繰って短く持つように変えたが、馬の足運びに合わせて立つ座るの周期は大して変わっていない。
次に二人の前にやって来た時、梨乃は馬を停止させた。そして、鞭を左腿と鞍の間に挟み、再び緩めた手綱を左手一本で持ち、鐙を履いたまま右足を前方に上げ、脚が直接当たる大きな革を捲って、鞍を馬体に固定している幅広の帯を締め直す。反対側も同じようにしてから梨乃はまた馬を歩かせ始め、二人の前でくるりと向きを変えた。
またアスランが追おうとするのを、藍は身体全体の力を使って制する。
「反対向きもするんだね」少し驚いた様子で碧が言う。
「うん…」逆回りを藍は不思議に思わなかったが、碧が陸上部だったことを思い出し、陸上競技では逆回りなどないことに思い至って、碧の言葉に納得した。
二人が短い遣り取りを交わしている間に、馬は歩法を変え、梨乃もまた立つ座るを繰り返し始めた。左回りの時と同じように半周ほどのところから速くなり、二人の方へ近づいてきたが、今度は座っただけで停止せず、二人の前辺りでまた別の歩法に変え、走り出した。
走っている。先程の歩法は歩いていると言うべきか走っていると言うべきか難しいところだったが、今ははっきりとそう言える。
「わ、走るとさらにかっこいいね!」
「うん…!」乗っている梨乃も走る馬も真剣な表情だが、どちらからも歓びが感じられる。好きで乗っている梨乃が楽しいのは当然としても、乗られる馬も楽しいものだとは、全く想像もしなかった。
吸い込まれるように見ていると、また馬がだんだん速くなっていったが、トラックを三分の一周した辺りで急に減速し、歩法は変わらず上に弾むような動きになった。
「どうしたのかな?」
「うん…」もちろん藍には分からない。
「わざとかな?」
「うん…多分…梨乃さん慌ててなさそうだから…」
「そうだね!」応えるまでの間から察するに、碧は馬の方ばかり見ていたらしい。
二人から見てトラックのちょうど反対辺りでさらに減速すると、最初の歩くような歩法に落として向きを変え、それからまた走り出し、左回りでも同じことをして二人の前で停止した。
「梨乃さんかっこいいです!」
「すごく…きれいでした…!」
「ありがとう」微笑んでそう応えた梨乃は、少し息が上がっている。何もしていないように見えて、実際には力を使っているのだろう。乗馬というスポーツ自体がそういうものなのかも知れないが、それはとても梨乃らしいと藍は思った。
「二人とも、悪いんだけど、そこ開けてくれる?」トラックの内側の埒を指差す。
「はいっ!」すかさず答えて埒の下を潜り、碧がトラックの中に入った。
「あ、リード持つよ…」慌てて声をかけた藍に、
「ありがとう! よろしく!」碧は元気よく振り向いてラブの曳き綱を藍に渡し、梨乃の指差した埒へと急いだ。
埒の柱と柱の間に渡された水平な棒を滑らせて碧が隙間を作ると、梨乃は馬を歩かせて馬場内に入った。続いて碧も入り、アスランに引っ張られラブを引っ張りながら藍が入った後、棒を元に戻した。
「ラブとアスランその辺に繋いどいてくれる?」藍の近くの埒を梨乃が指差す。
「はい…」
「あ、ラブ子のやるよ!」
「うん…ありがとう…」ラブを碧に任せ、アスランの曳き綱を埒の柱に繋いだ。さっきまですごい勢いで藍を引っ張ってきたアスランが、今はおとなしい。自分を気遣ってくれているような気がして、また愛しさがこみあげてきた。
アスランの頭を撫でて視線を上げると、梨乃はもう馬を走らせ始めていた。
先程組んだ障害と柵の間を通って行ったと思ったら、馬場の角の辺りですっと向きを変え、障害に向かう。
馬はひょいと脚を持ち上げて障害を越えた。障害が高くないせいか、飛ぶというよりは跨ぐという感じで、想像していたほど恰好良くない。
その後、右に曲がっては障害を飛び、飛んでは左に曲がり、と忙しく回転と飛越を繰り返していく。人馬の動きに全く淀みはなく、藍はそれを美しいと感じ、同時に、そういうところも梨乃らしいと思った。組んだ障害を全て通過し最後に連続障害を飛び終えるまで流れるように走りきり、梨乃は二人の前に戻って来た。
「またお願いなんだけど」
「はい!!」「はい…!」いつもの倍以上の勢いで返事をしたが、碧はそれを上回っていた。続きが見たくてうずうずしているのは自分だけではないようだ。
「今クロスバーになってるのを、全部水平にしてほしいの。金具の高さはそのままで」クロスバーとはX形に置いたことを指しているのだろう。
「はい!」
「あの…片方は地面に置くんですか…?」
「うん、それなんだけど、置く位置に決まりがあるの。後で説明するから、とりあえずそれからお願いできるかな?」と一番手近の障害に向かった。
「はい!」「はい…!」二人も後に続く。
「じゃ、まずは一本を水平に掛けて」
「はい!」碧が自分の側の棒を金具から降ろし、もう一本を金具に掛ける。
「うん、ありがとう。で、地面に置いたバーが今、両端ともこっち側にあるじゃない? それをね、藍ちゃんの方だけ向こう側に置いてほしいの」
「…こうですか…?」地面に置かれた棒の端を支柱の向こう側へ移動させた。真上から見ると、金具に掛けた棒に対して斜めになっている状態だ。
「うん、そう。ほかの障害も全部そういう形にお願いします」
「はい! 藍ちゃん、行こ!」
「うん…!」
それから十分ほどかけて全ての障害を同じように組み直し、再び梨乃が走行に入った。先程とほぼ同じ速さで障害に向かい、飛越する。今度はかなり飛んでいる感があった。
「わ! 梨乃さん今度は動いてるね!」
「うん…」空中で上体を少し前に倒していた。馬の前肢が着地する頃には元の姿勢に戻っている。
障害の高さは実質倍くらいになっているが、先程と同じように淡々と飛んでいく。馬にも梨乃にも余裕が漂っている。
「けっこう高いと思ったけど、全然楽勝っぽいね!」
「うん…私、多分これ飛べないよ…」
「砂が深いもんね」
「え…うん…」足場がしっかりしていても飛べない自信が有るのだが、それを言うと碧が返事に困るのではないかと思い、曖昧な言葉にした。
梨乃と馬は先程と同じ経路を先程より愉しそうに回り、戻ってきた。トラックを回っていた時に上がっていた息はすっかり平静に戻っている。平地を走るより障害を飛ぶ方がよっぽど疲れそうなのに、と藍は不思議に思った。
「梨乃さんすごいです! 上げますか!?」
「うん、ありがとう。六つ上げてもらえる?」
「うわっ、一気に上げますね!」見たところ、穴の間隔は五㎝だ。一気に三十㎝も上げて大丈夫かと藍も思うが、梨乃たちにとってはまだ余裕なのかも知れない。
二人はまた十分ほどかけて高さを変更し、梨乃と馬に注目した。人馬とも愉しそうな雰囲気を保っているが、同時に緊張感も滲み始めている。
今回も走り出しは同じような感じだったが、一つ目の障害に向いた時、前回までとは明らかに違う走り方になった。歩法は変わらないが、馬が前肢を高く上げ、地面を叩くようにしている。そのせいだろうか、歩幅が先程より狭くなっている。頭の位置も心持ち高い。
「なるほど~、高く跳ぶためにはああしないといけないんだね!」
「え…どういうこと…?」
「人間でも高く跳ぼうと思ったら、歩幅詰めるでしょ? ダッシュの時は広がるけど」
「あ、うん…なるほど…」高跳びの授業の時にどのように走ったか、藍には全く思い出せないが、全力疾走で高く跳べないのは分かる。
藍がなるほどと言うとほぼ同時に馬が踏み切った。梨乃が先程より深く前傾をとり、馬は前肢を折り畳んで棒を越えていった。先程と違って、四肢が全て宙に浮いているのがはっきりと判る。折り畳んでいた前肢を前に伸ばして着地すると、梨乃が手綱を絞り、前のめりになろうとしていた馬体が起きた。どこまで馬が自発的にやっていてどこからが梨乃の技術によるものなのか、藍には全く分からないが、とにかく美しい。
「かっこい~い!」隣で碧も同じ感動を味わっている。
「うん…!」
着地するとすぐ梨乃は前回同様手綱を引いて前に伸びようとする馬を抑え、回転していった。障害が高くなったせいだろうが、前回より格段に忙し感がある。それでも梨乃たちは全く滞り無く経路を回りきり、二人の前に戻ってきた。また梨乃の息が上がってきている。
「梨乃さんめちゃめちゃかっこいいです! この子もすごいずく出してますね!」
「うん、今のでいい気合いになってきたわ。まだ行くわよ。上から三番目にしてもらえる?」
「はい!」「はい…!」二人ももう心得たもので、梨乃の言葉が終わらないうちに返事をして障害に向かう。梨乃はまた馬をゆっくりと歩かせる。
上から三番目は、前回より四つ、二十㎝上だ。藍の顎にかかりそうな高さである。
「これスーパーの駐車場のフェンスより高くない?」
「うん…」それは即ち、馬なら駐車場の金網を一跳びで越えられるということだ。藍はそれを想像して少し可笑しくなった。
「どうしたの?」怪訝そうに碧が訊く。障害が上がって緊張感の増しているこの場では当然だ。
「あ、スーパーの駐車場で梨乃さんたちがフェンス飛んでるところ想像しちゃって……」かなりヘンテコな絵面だ。
「あー、それはユカイ」碧も笑った。
また十分後、梨乃は馬を走らせ始めた。前回よりもさらに歩幅を詰めてゆっくりと、しかし力強く進む。一つ目の障害に向いてから踏み切るまでの歩数が前回より多い気がする。
馬は、蹄が胸前につくくらい、ぎりぎり一杯まで前肢を折り畳んで跳んだ。梨乃も、自分の胸が馬の首に触れるくらい上体を前に倒す。馬体全部が宙に浮き、腹が障害の上を通過する辺りで馬体が水平に近い形になる。梨乃はまだ前傾のままだ。そこから馬は前肢を前に伸ばして着地体勢に入り、梨乃は上体を元の位置に戻す。着地の衝撃がかなり大きいようで、一度元に戻ろうとした梨乃の上体がまた前に沈む。
前肢も後肢も障害スレスレでの通過だった。
梨乃は前回の走行に比べると少し遅れて元の姿勢に戻り、馬の歩幅を詰めさせて次の回転に入った。
二つ目以降の障害も全てぎりぎりで通過し、また二人の前に戻った。
「すごいです! 全部ギリギリでしたよ!」
「うん、能力的にはまだいけるんだけど、ギリギリになるようにこの子が自分で調節してるの。不必要に高く飛ぶとその後が苦しくなるからね、その方がいいの。もちろん目測を誤って障害落としちゃったらダメなんだけど、この子はその辺のギリギリが上手なんだ」肩で息をしながらも一気に解説する。藍だったら、何度息継ぎが入っているだろう。
「じゃあ、まだ上げますか!?」碧が楽しげに言う。確かに、ここまで来たら一番上の障害を飛ぶところを見たくなるというものだ。
「上げるんだけど、最初と最後の障害だけね。試合のコースでも、全部同じ高さってことはないし」
「はーい! あ、一番上ですか?」
「うん。じゃ、お願いします」
「はい!」「はい…!」二人は手近な方である最終障害に向かい、一番上の穴に金具を掛けた。それから遠くの一番障害に向かいかけたが、
「あ! ごめんごめん、その一つ前の障害も! それコンビネーションっていって、二つ一組の障害なの」
「へえー、そう言われると距離が狭いですね!」歩く向きを変えながら碧が応える。藍は、まだ障害に向かっていなかったので、そのまま梨乃の指す障害に向かう。
「うん、間に一歩だけ入れるの」解説のためだろう、梨乃も騎乗のまま二人についてくる。
二人は最終一つ前の障害と最初の障害を一番上まで上げて、ラブとアスランの許へ戻り、固唾を飲んで梨乃たちを見守った。どれくらい見えているのかはよく分からないが、アスランの視線も先程からじっと梨乃を追っている。そして、いつの間にかラブも立ち上がってアスランと同じ方を見ている。
一回目から変わらぬ経路で、梨乃は一番障害へと向かった。歩幅と速さは前回と同じくらいか。馬はまたぴったりと前肢を折り畳んで飛び上がり、先程と同じくらいのスレスレさで障害の上を通過していき、着地した。後肢も蹄が触れんばかりだが、当たったような音は聞こえない。
着地の衝撃はさらに大きくなっているらしく、梨乃は落ちるのではないかと思うほど前に傾く。それを堪え、梨乃は自分と馬の体勢を整えて回転に入った。その後はぎりぎりではあるが危なげなく障害を飛越し、最終障害に向かう。
最終障害はさっき組んだ通り、百四十㎝が二つだ。馬の体勢を変えず、障害に向かっていったが、目測を誤ったか、今までより踏み切り位置が障害に近い。結果、馬は上に向かって飛ぶような姿勢になり、一番障害よりさらに苦しい飛越になったが、後肢の力は十分足りていたようで、その苦しい体勢からでも障害に触れずに通過し、着地した。
すぐまた次の障害が来る。一歩の間に体勢を立て直せるのか、と藍は手に汗を握ったが、実際には、梨乃は前傾を中途半端に戻した姿勢で次の障害を迎えた。馬は構わず踏み切って飛越に入る。なぜかこちらの踏み切りはちょうどいいくらいの位置だった。宙に浮く馬体の上で、梨乃の上半身は馬の首と平行な状態を保っている。即ち、馬に合わせて上体を起こしたということだ。馬の長い身体がまたしても障害スレスレの所を通り過ぎ、馬は前肢を着地させた。梨乃が、今度はすぐに上体を起こす。加速しようとした馬を制して軽く流すように走らせ、二人の前を通過していった。
「やったね!」その後ろ姿を見送りつつ碧が嬉しそうに声を上げた。
「うん!」藍も興奮している。
「いやー、いいもの見せてもらっちゃったー!」
「うん…!」
「馬に乗るのってどんな気分かな! 乗ってみたいなあ。藍ちゃんは?」
「乗ってみたいけど…高くて怖そう…」ぱっと見では、梨乃の目の高さは自分の一mくらい上だ。
「怖いかなあ。うーん、やっぱり乗ってみたい!」
その時、埒沿いを一周してきた梨乃が戻ってきた。
「梨乃さん、スゴ過ぎです! コンビネーションの一つめ飛んだ位置が近くて心配しちゃいましたけど!」碧の言葉に藍が大きく頷く。
「ありがとう。一つ目を気持ちよく入っちゃうと二つ目が近すぎて落としちゃう可能性が高いからね」
「え!? じゃあわざとだったんですか!?」
「うん、そういう練習。試合だともう少し間が狭いこともあるよ」
「はぁ~、なるほどー。わざと難しくしてたんですね!」
「うん。今日はうまくいったよ。障害に当たらなかったでしょ」
「はい! 乗ってて分かるんですか?」
「ううん、分からないよ。当たった音が聞こえなかったから」
「あー」
「今日の練習はこれで終わりなんだけど、これから芸を見せます」
「まだ何かあるんですか?」
「うん。で、その準備をお願いしたいんだけど、いいかな?」
「はい!」「はい…!」そんなことを言われて断る訳が無い。
「ありがとう。じゃあ最後のコンビネーションを下から十個目まで下げて下さい」
「はい!」「はい…!」二人は勇んで障害に向かい、一分半ほどで指示通りに障害を下げた。
「ありがとう。次に、アスランの首輪を外して下さい」
「あ、はい…!」藍はいそいそとアスランの許へ向かう。鎖を首からすぽっと外してやると、アスランは待ってましたとばかりに梨乃と馬の方へ小走りした。
「ありがとう、障害の正面に移動してもらった方がいいかな」
「はい! 行こ!」
「うん…!」二人は埒に沿って、連続障害の延長線上に移動した。
「じゃあ始めるね。失敗しちゃったらごめんだけど」と前置きし、
「アス!」と呼びかけてから馬を歩き出させ、二、三歩で埒から二mくらいの所を埒に沿ってゆっくりと走らせ始めた。アスランは馬の外側を並走する。
その状態を維持して梨乃が最終障害、即ち二人の方に向かって方向転換すると、僅かに遅れてアスランも向きを変えた。一m弱の遅れを、アスランの加速か梨乃の減速か或いはその両方か、障害の数m前までに取り戻し、騎馬と犬は並んで障害を迎えた。
「行くよ、アス! 一、二、三!」三、と同時に馬もアスランも踏み切り、見事に並んで障害の上を通過した。馬と違い、アスランは前肢を大きく前に伸ばした姿勢だ。
着地もほぼ同時に揃い、続いて馬は一歩、アスランは三歩を入れ、次の障害も並んで飛び越えた。二人から十mも離れていない。
着地した馬とアスランが二人の方に向かってくる。轢かれるのではないかと藍は一瞬ヒヤリとしたが、着地から一歩目で馬は右に回転し、二人の三mほど先を通過していった。アスランもその少し外側を曲がっていく。曲がってすぐ梨乃は馬を減速させ、歩かせると、また向きを変え、アスランを従えて二人の方に向かってきた。梨乃はいつも通りのすまし顔だが、馬とアスランは得意気に見える。
「梨乃さんもアっちゃんもすごいです! ボリショイに入れます!」碧が叫び、藍がアスランの傍へ進み出た。
「ありがとう。ボリショイは褒め過ぎだけど」
「じゃあ木下!」
「まだ過分かな」
梨乃と碧が話す隣で、藍はアスランを頭から尻尾まで撫でている。猫可愛がりというやつだが、アスランはとても嬉しそうだ。
「じゃあ安田!」
「うん、それサーカスじゃないよね」
「じゃあからくり!」
「入れるなら入りたいわね」
碧と梨乃が藍には分からない遣り取りをしていると、
「相変わらず見事ね、梨乃ちゃん」後ろから声が掛かり、碧と藍は驚いて振り向いた。二人のほぼ真後ろ、トラックの中央辺りに、細身で少し背の高い婦人が立っている。おばさんというのは失礼に思われるが、明らかに乙女は卒業している。乗馬キュロットにゴム長靴という出立ちからして、この人物も馬に乗る人なのだろう。
「おはようございます」碧に向かって歩かせながら、馬上から梨乃が婦人に挨拶した。アスランが後を追い、藍もそれに続く。
「この子たちが見学の?」
「はい。ハコ番もお願いしました」ハコ番とは、障害が崩れた時に元に戻したり、障害を組み直したりする役目のことだ。
「ここの先生の堀金さん」二人に向かって言う。
「おはようございます! おじゃましてます!」運動部らしい声の出し方で碧が挨拶する。
「おはようございます…」藍の声は碧と対照的だ。ただでも声量豊かな方ではない上に、知らない人が相手だとそれがさらに引っ込んでしまう。ただ、お辞儀の丁寧さで、礼儀正しくしようとしていることは分かってもらえるだろう。
「おはようございます。先生っても、障害は梨乃ちゃんの方が上手いけどねー」
「堀金さん、整理運動兼ねて、この後この子達乗せて牽き馬したいんですけど、いいですか?」
「うん、いいよ、まだほかの人たち来ないし。てことは、馬乗ったことない?」後半は二人に向けられた言葉だ。
「はい! こんな近くで見るのも初めてです!」
「じゃあ梨乃ちゃんが飛ぶの見てビックリしたでしょ?」
「はい! かっこよかったです!」碧の言葉に藍も頷く。
「今日初めてでいきなり飛ばせてはあげられないけど、乗るだけでも楽しいよ」
「はい! ありがとうございます!」「ありがとうございます…」
「ありがとうございます」二人に重ねて梨乃が言うと、
「いやいや、これも営業活動。一度味を知ってしまえば無しでは生きられなくなるからね、フフフフ」わざとらしい笑いを付け加えた。
「え!? 何ですかその『ダメ。ゼッタイ。』な感じ!?」
「梨乃ちゃんがいい例よ、フフフ」
「そういう人生も幸せよ、ふふふ」梨乃も真似をする。
「うわー、怖い気もするけどやっぱり乗ってみたい!」
「じゃあ早速、って言いたいところだけど、ちょっと準備をお願いするね」
「はい!」「はい…!」
「じゃ、今飛んだ障害のバーを二人で持ってくれる?」
「はい!」二人が言われた通りに丸太を持ち上げると、梨乃は障害と障害の間に移動し、
「この辺に置いて下さい」
二人は梨乃の示す位置に丸太を置いた。概ね、障害間を三等分する辺りだ。
「あれもですか?」奥の障害を碧が指差す。
「うん、あっちのもお願いします。場所は……」言いながら馬を動かし、「この辺で」
「はーい」また二人で丸太を運んで地面に転がすと、
「よし、準備完了。乗り替わりましょう。まずは碧ちゃんからね」と言って左手を手綱から離し、ひらりと馬から飛び降りた。梨乃は簡単そうにするが、自分にはまず無理だ、と藍は思う。うまく着地出来るかどうかの前に、怖くて飛び降りられないだろう。
「やった!」
アスランが梨乃の足下に小走りで寄ってきたが、馬は全く動じることなく、半開きの口に戻ってぼーっと立っている。まあ先ほど一緒に障害を飛んでいたくらいの仲だ、今更驚くことも無いのだろう。
「と、その前にヘルメットか」と言って被っているヘルメットを脱ぎ、碧に渡す。受け取った碧は頭に載せようとしたがそれを顔の前で止め、
「やだ…梨乃さんの匂い…」
「あ、ごめんね、汗臭いかも」
「トリートメントと汗の匂いが入り混じって、スゴいエロい匂いです…」何をどう見ても聞いてもエロいのは碧の方である。昨日からの遣り取りで梨乃もすっかりこんな言動には慣れてしまったらしく、
「それはよかったわ。さ、かぶって」軽くあしらった。
「ところで梨乃さん、この子の名前何ていうんですか?」
「エクレール」
「よろしくね、エクレール!」碧が元気よく声をかけると、エクレールの左耳が碧の方を向いた。それを見逃さなかった碧が、
「馬ってこんなに耳動くんですね!」
「うん、碧ちゃんに名前呼ばれたから。まだこっち向いてるでしょ、碧ちゃんに注意が向いてるってことだよ」
「へえーっ、そうなんですね! かわいいなあ!」
「ちょうどいいから乗っちゃおっか。藍ちゃん、ちょっと持っててくれる?」急に手綱を差し出され、
「え…? はい…」と受け取ったが、もし馬が動き出したら止められる自信は藍には全く無い。
しかし梨乃はそんなことなど気にする様子もなく、鐙を手に取って、
「碧ちゃん、ここに左足かけて。左手ここ」鞍前部の盛り上がっている部分に左手を置く。
「はい!」碧が言う通りにすると、
「ちょっと待ってね」と言いながら梨乃は馬の反対側に移動し、
「はい、じゃ飛び乗って」字面だけを見るとすごい台詞で騎乗を指示した。
「はい!」実際には、自転車に跨がるのと同じ動作だ。ただ、背がとても高いので、跨ぐためには強く地面を蹴らなければならない訳だが、碧はそれを難なく実行した。地面を蹴って飛び上がると左足で鐙を踏んでさらに身体を引き上げ、右足を大きく振って馬体の上を越し、鞍に座る。初めてでこれだけ滑らかに出来るのは、碧が運動に関して秀でているからだ。
「左と同じ向きに鐙履いて」
「はい! …合ってますか?」
「うん、大丈夫。じゃ、両手で手綱持って。藍ちゃん、ありがとう。放してあげて」
「あ、はい…」藍は手綱を放し、三歩下がって馬上の碧を見つめる。
「左右均等にね。たるまないギリギリの長さにして、親指と人差し指でつまんで。中指と薬指の指先を手綱に当てて」梨乃が矢継ぎ早に指示することを、碧は焦る様子も無く実行していく。
「うん、そう。碧ちゃん上手ね」少し驚いた口調で褒めるのはお世辞ではない。初めて馬に跨がって手綱をきちんと執れる者は希少だ。
「鐙の上に立ってみて」
「はい! わ、けっこうバランスとるの難しいですね!」と言いつつ前に倒れることも尻もちを搗くことも無い。藍からは、簡単に立っているように見える。
「そうね。じゃ、座って」碧が座るとすぐに、
「立って。うん、いいね。座って」これをあと二回繰り返し、
「うん、いい位置に座ってる」
「最初はズレてたんですか?」
「うん、ちょっと後ろめだった。二、三回立つ座るすると、足もお尻もちょうどいい位置になるのよね」
「へえー…あれっ? さっき梨乃さんが乗ってた時、立ち上がったらもっと上の方にいたような…え? もしかして梨乃さん超足長い?」
「そうよ、長いのよ。と言いたいところだけど、さっき鐙革伸ばしたの。障害の時は短くするからね」
「え! いつの間に!?」碧の疑問に藍も頷く。ずっと梨乃を見ていたはずなのだが。
「二人がバー動かしてくれてる間」梨乃からすれば、二人が疑問に思うことの方が疑問だろう。
「あ、ああ、ナルホド…」意識していなければ、人間の認識力などこの程度のものである。
「鐙は踏もうと思わないで、脱げない程度に添えとくぐらいのつもりで。脱げても気にしなくていいし」
「はーい!」
「じゃあ出発」梨乃が手綱と銜の結び目辺りに軽く手を添える。
「あ、藍ちゃん、アスラン見ててくれる?」
「はい…!」アスランの隣に進み出て頭に手を置くと、アスランは藍の方に顔を向けて軽く尻尾を振った。
余談だが、馬に乗る上で何より大事なことを梨乃は口に出していない。背筋を伸ばす、ということだが、これは初めてでも出来る人はそこそこいる。身体の構造なのだろうか、男に比べ女の方が出来る人が多い。碧の場合、鞍に座った瞬間から背中が自然に伸びていたので、わざわざ言う必要が無かったのである。
「はい、ふくらはぎで軽く挟んで」挟んだのかどうか藍にはよく分からなかったが、梨乃の言葉の二、三秒後にエクレールが歩き始めた。ぼーっとした表情に似つかわしく、かなりちんたらした歩き方だ。碧が自分で歩いた方が速い。ただ、エクレールの耳は両方とも後ろを向いている。
「ちょっと遅いかな。もうちょっと強く挟んでみて」
「はい!」碧の返事から一秒もしないうちに、エクレールの運歩が急に活発になった。心なしか、目もぱっちり開いたように見受けられる。
「うん、いいわね。脚緩めてあげて。遅くなりそうだなって思ったら挟んで」
「はい! うわー、これは気持ちいいですね! ちょっと寒いけど」
「地上よりだいぶ風が強いからね」
エクレールは元気よく前へ進み、藍とアスランはその後ろ姿に視線を注ぐ。向こう側の埒に十mくらいまで近づいたところで梨乃が何か言い、碧が左手を水平に動かしたようだった。エクレールは左に曲がり、埒に沿って進む。少し歩みが遅くなったかな、と藍が思ったら、その一秒ほど後また急に身の入った歩き方になった。碧が脚で挟んだのだろう。その後は、速さを保ったままぐるりと馬場を一周し、藍達の方に向かって曲がってきた。自分達の前辺りで止まるのかと思ったら、
「じゃ、このまま歩いてバー跨いでみましょう」梨乃の言葉が聞こえてきた。
「はい!」
それまで一定の歩様で歩き続けていたエクレールが、丸太の分だけ肢を高く上げて丸太を跨いだ。
「おお!? スゴい上に跳ねましたよ!?」傍目に見ている藍にはさほど馬体が跳ねたようには見えなかったのだが、碧がそう言う以上、上に跳ねたのだろう。
「面白いでしょ。バー一本でこんなに違うの」
「はい!」
「藍ちゃん、アスラン連れてついてきて」梨乃が馬越しに声を掛けてきた。
「あ、はい…!」梨乃に名前を呼ばれたアスランが藍よりも早く歩き出し、藍は慌てて後を追った。
残りの三本を同じように跨いだところで、
「じゃ止まりましょう。手綱握って」梨乃の声が聞こえ、二、三歩でエクレールが停止した。
「うん、いいわね。馬を褒めてあげましょう。掌で首を軽く叩いてあげて」碧がそうすると、
「ブフフフ」エクレールが鼻息を鳴らした。
「わ! 笑いましたよ!」
「うん、褒められて嬉しい時とか、緊張してたのが弛緩した時とかにこうするの」
「へー! かわいいな、エクレール!」そう言ってもう二度ぽんぽんと首を叩いた。
「降りる時は乗る時の逆ね。左手で手綱持って、右足後ろに回して」梨乃の指示に従って手綱を左手に纏め、右足を上げて馬体を越したと思ったらそのまま鞍から飛び降りた。梨乃ほど滑らかではないが、さすが碧だと藍は思った。同時に一つの疑問。梨乃がしたのと降り方が違う。
「ありがとうな、エクレール」また二度首を叩いてから、
「梨乃さん、違う降り方してましたよね?」碧も同じ疑問を感じたらしい。
「よく見てたわね。私の降り方は邪道なの。映画で見てね、真似してみたら楽だったからああしてるけど、馬に背を向けながら降りるから良くはないんだよね。初めての人には一般的な方法でやってもらうべきかなって」
「何の映画ですか!?」
「トロイ」
「えー、そんなのありましたっけ?」
「最初の方でアキレウスがやるよ。速歩の馬から飛び降りながらだけどね」速歩とは歩法の名称で、前肢と反対側の後肢が同時に出る。右前と左後ろ、左前と右後ろ、というのを繰り返すわけだ。碧の言う、てってってってっと走る猫の歩法がこれだ。
「えー、家帰ったら見直してみよ」
「じゃ、藍ちゃん」
「はい…あの、でも私、多分上まで届きません……」
「大丈夫、便利なのがあるから」梨乃が指差す先に見えるのは高さと幅が一m余りの白い箱のようなもので、トラックの外側に置かれている。
「台ですか…?」
「うん。クラブの人はほとんどあれ使って乗るよ。楽だからね」言いながら梨乃はさっさとエクレールを牽いて歩き出した。アスランと藍が慌てて後に続く。碧が気を利かせて足早に埒に向かい、人馬が通れるよう開ける。
「ありがとう。藍ちゃん、アスラン繋いどいて。放っといたら絶対ついてくるから」
「はい…」ラブの繋がれている柱にアスランを連れて行き、鎖を首にかけた。アスランと一緒に歩けたらいいなとも思うが、自分の運動能力ではいざ馬に乗ったらそれどころでなくなるのは目に見えている。
「じゃ、藍ちゃん、向こう側から」アスランを繋いでいる間に梨乃はエクレールを台に横付けしていた。
「はい…!」埒を潜ってトラックの外に出ると、台の手前は階段になっていた。なるほどこれは楽だが、誰かが馬を押さえていてくれなければ使えない。察するに梨乃は毎回独りで準備し騎乗するのだろうから、これを使っていないのも当然か。
四段のうち二段を登った時、
「あっ、階段になってるんだ! 西部劇に出てくるやつですね!」碧が大きな声で一人合点した。
「そうだけど…よく知ってるわね」
「お父さんが映画好きで、家で毎日何か観てるんで」
「なるほどね、それでさっきも。さ、藍ちゃん、乗って」鞍を前に躊躇していると梨乃に声を掛けられ、
「はい…!」思い切って馬体を跨ぎ、鞍に座った。思ったよりも尻の収まりが良い。
梨乃が右側にやってきて足を持ち、鐙に乗せて、
「向こうも同じように履いて」と碧の時と同じ指示を出した。
「はい……あれ? あれ?」爪先は鐙に乗るのだが、それをもう少し深く履こうとするのがうまくいかない。
「ちょっと待って」梨乃がエクレールを牽いて一歩右斜め前に歩かせ、台との間にできた隙間に入り込んで鐙を履かせてくれた。
「すみません……」
「ううん、初めての時はみんなこんなものよ。碧ちゃんがおかしいの」
「えー!? おかしい人呼ばわりはんたーい!!」ラブとアスランの横で碧が拳を上げて抗議した。
「はい、手綱持って」碧の言葉に馬耳東風で対応した梨乃に手綱を渡され、
「えっと……こうですか?」先程碧が教授された持ち方を再現してみた。
「うん。よく見てたわね。ただ、もう少し手綱短く持った方がいいね。うん、そう。じゃ、鐙の上に立ってみましょう」
「はい…!」立ち上がってみたが、バランスをとることができず、鞍の前部に手をついてしまった。
「うん、そのままでいいから座ってみて」
「はい…」手をついたまま鞍に座ると、
「もう一回やってみましょう。とりあえず鞍から手を離して。今度はふくらはぎで馬体を挟むのを意識しながら立ってみてね」
「はい…」
「じゃ立って」梨乃の言う通りにしてみると、今度はバランスをとって立つことが出来た。立つとすぐに梨乃が、
「はい座って」座るとまたすぐ間髪入れず、
「はい立って」
「はい座って。うん、藍ちゃん、けっこう上手ね。これ、できない人は全然できないからね」
「え、そうなんですか…?」自分もあと一秒長く立っていろと言われれば出来なかったのだが、梨乃が巧く号令をかけてくれたのだろう、と藍は思う。
「うん。そこそこ馬動かせる人でも、これできない人ちょこちょこいるよ。碧ちゃんが変なの」
「変な人呼ばわり、はんたーい!」再び碧が拳を上げる。
「よし、行きましょう。馬体挟んで」両脚に力を入れて挟むと、のっそりとエクレールが前に出た。梨乃が右銜を持ってエクレールを馬場の方へ向かせながら、
「もう少し強く挟める?」と訊いてきた。
「すみません、これが精一杯です…」いつものように俯きながら答えると、エクレールが止まってしまった。
「いいのよ、やり方を変えましょう。目線が下がると良くないから、まずは顔を上げて」にっこり笑って優しく言う。藍は後半の一文を、梨乃が自分を励ますために言ったのだと捉えたが、文字通りの意味もある。目線が下がると、背中が丸くなり、馬が騎手の意図を理解しづらくなるのだ。エクレールが止まったのもこの理由による。
梨乃の言葉に藍が気を取り直して歩き出す前の姿勢に戻ると、
「そうそう。じゃあね、まずはさっきみたいに挟んで」やってみると、エクレールが歩き出したが、やはりのそのそとしている。
「うん、いいよ。じゃあ両足で同時に馬体を軽く叩いて」言われた通りにやってみると、心持ち動きが軽快になったようだったが、梨乃はすかさず、
「もう一回。ぽんぽんって続けて」ぎこちないながらも連続で叩くと、明らかにエクレールの動きが大きくなり、手綱に少し手応えが感じられるようになった。
「いいよ! このまま馬場の中入りましょう」馬場の方を向いたエクレールの左側に戻り、銜に手をかけて、梨乃が指示を続ける。
藍はそれについていくのが精一杯で、碧が埒を閉じたのにも、アスランが鎖を一杯に張ってこちらに向かおうとしていたのにも気づかなかった。
「埒に沿って歩きましょう。手綱を右に開いて」
「こうですか…?」碧がやっていたのを思い出して真似してみる。
「そう。少し右手が下がっちゃったね。拳の高さは左右同じで」
「あ、はい…!」と言っている間にエクレールはすうっと埒に寄っていき、自分の蹄跡をなぞっていった。
「このまま一周歩きましょう。どう? 簡単でしょ?」
「あ、はい…思ってたより…」
「藍ちゃんがしたいことをこの子が理解すれば簡単になるのよね。さっき止まった時はね、どうしてほしいか分からなくなっちゃったの」
「なるほど…」
「この子真面目だから、求められてることが分かれば指示されなくてもやっちゃうよ。今、藍ちゃん指示出してないでしょ?」
「はい…あ、でも歩いてくれてますね…!」馬に自分の思いが理解されているということを実感し、藍は嬉しくなった。同時に、自分を乗せているこの大きな優しい生き物がたまらなく愛しく思えてきた。
「うん、そういうこと。ここから押せば伸びるし、手綱握れば止まるよ。やってみる?」
「はい…!」
「じゃ、まずは止まってみよっか。手綱握ってみて」
「はい…!」軽く握っただけでエクレールの歩みはとてもゆっくりになった。
「もうちょいかな」
「はい」少しだけ握りを強くすると、エクレールはぴたりと止まった。ちなみに藍の握力は中学三年四月時点で右十八㎏f、左十六㎏fだ。こんなに力の弱い藍が少し握っただけでこれだけ反応するのだから、馬というのは体躯に似合わず繊細な生き物である。もちろん個体差もかなり有るのだが。
「うん、いいね。緩めてあげて」
「はい」藍は握っていた手をパッと放した。
「あ、放すのはダメだよ。まだ終わってないからね」
「あ、はい…」藍は手綱を持ち直した。
「じゃ、もう一度出発」
「はい!」具体的な指示なく藍が自分で馬体を挟んだが、エクレールはちゃんと反応し、またのそりと歩き始めた。
「うん。じゃ、速くしてみて」
「はい!」今度は馬体を二度足で叩く。先程と同じようにエクレールの動きが大きくなり、藍は自分の指示が伝わっていることに嬉しくなった。そこへ梨乃が、
「はい、もう一段速く」さらに要求してきた。
「あ、はい…!」今度は心の準備ができておらず、梨乃の指示から一歩半ほど遅れたが、足で叩くとエクレールはちゃんと反応してまた少し動きが活発になった。
「どう? 動きが大きくなったの分かる?」
「はい…! お尻が上と横に押される感じがします…!」
「後肢を前に踏み込む時の動きが鞍まで伝わってきてるの」
「なるほど…」
「ふくらはぎを馬体につけたら、前肢の動きも分かるはずだよ。やってみて」
「はい…! ……本当だ、分かります…!」
「うん、じゃあね、前肢が出るのに合わせて右左右左って言ってみて」
「はい…! 右、左、右、左」馬の右前肢が出る時に右、左前肢がでる時に左、と言っているのだが、合っているか自信が無いので、つい声が小さくなってしまう。それでも、普段の自分に比べればはっきりと言葉を発しているような気がする。
「大丈夫、合ってるよ。じゃあね、次は声に出さなくていいから、右肢が出る時に右のふくらはぎで、左が出る時に左のふくらはぎで馬体を押してみて。軽くでいいよ、力入れるのにむきになって姿勢が崩れたらダメだから」
「はい…!」エクレールの肢の動きに神経を集中させ、リズムを掴むと、それに合わせて交互に脚で馬体を押した。三往復目で少しエクレールが速くなった気がし、五往復目で速くなっていることを確信した。
「あの、だいぶ速くなりました…」
「うん。出だしに比べるとすごくキビキビ動いてるよ。藍ちゃん、乗りづらい?」
「あ、いえ…すごく、楽しいです…!」
「それは良かったわ。エクレールも楽しそうだよ。じゃあこのペース維持で回りましょう。遅くなりそうだと思ったら挟むか叩く、いいね?」
「はい!」エクレールも楽しそう、という言葉に、藍はとても嬉しくなった。すぐにでも撫で回してやりたいくらいだが、今は手綱を放したくない。
「向こうまで回ったら、左に曲がってバー通過ね」
「はい!」エクレールは藍を乗せて快調に進み、減速する気配すら見せずに馬場を一周した。碧達の前を通る時、前に出て来ようとするアスランを抑えながら碧が手を振り、藍は笑顔で応えた。
「じゃあ今度は左の手綱開いて」
藍は指示通りにしたが、またしても外方の手が下がってしまったことに気づき、慌てて修正した。
「うん、いいよ、藍ちゃん、余裕あるね」すかさず梨乃が声をかけてくる。馬越しなのによく分かるものだ、と感心し、感心している自分に気づいて驚いた。梨乃の言う通り、余裕が有る。
「そのままバーに向かって進んで。今まで通りで大丈夫だよ」
「はい…!」言われた通り丸太に向かうが、碧の、スゴい上に跳ねた、という言葉が思い出されて、どうしても身構えてしまう。
そしてエクレールが丸太を跨いだ時、それまでよりずっと大きく上下に動いたのを感じたが、想像して怖れていた程ではなく、藍は急に自分のことが可笑しくなった。
「その調子。上下動あったと思うけど、ビビる程じゃないでしょ?」
「はい…! 大丈夫でした…」
「残り全部跨いだら一旦止まって」
「はい…!」
あとの丸太も問題なく通過し、藍は手綱を握った。エクレールは敏感に反応し、すうっと減速したが、歩みを止めはしなかった。
「ちょっとだけ手綱引いてみて」梨乃が指示を出し、藍は自分の胸の方に少し手綱を引く。するとエクレールはぴたりと止まった。
「手綱弛めて、褒めてあげて」
「はい…!」右手を手綱から離し、エクレールの首を掌で叩くと、
「ブフフフ」碧の時と同じように鼻を鳴らした。藍は先ほどの碧と梨乃の会話から、これが喜びの反応だと知っている。エクレールが喜んでくれたことが嬉しくて、もっと褒めてあげたくなった。
「じゃ、向こうまで戻りましょう。牽いて行くから、手綱放して」
「はい…! あの、ありがとうございました…!」梨乃に礼を言いながら、空いた手でエクレールの首を撫でる。
「んーん。せっかくだから乗ってもらいたかったし、どうせなら乗せられるだけじゃなくて自分で動かした方が絶対楽しいからね」
「はい、すごく楽しかったです…! 乗る前はちょっと怖いかなって思ってましたけど…」
「乗ったら全然そんなことなかったでしょ? この子はビビって暴走とかまずないし、真面目だし、信頼性抜群」
「障害もすごかったです…! アスランも…」
「ありがとう。あれができるのってなかなかいないと思うよ。正直、ほかの犬に教えられる自信はないわー」
そう言ってる間に碧たちの前に戻って来た。
「じゃ、降りるのは台を使わずにやってみましょう」
「え……はい…!」普段の藍だったら怖くて絶対無理だと言っているところだが、今はやってみようという気になった。
「左足鐙履いてるよね?」履いているのが見えているはずだが、わざわざ言葉で確認する。
「はい…!」碧が少し驚いた様子なのが目に入ったが、いつになく大きな自分の声がその原因だとは分からず、何に驚いているのかと藍は不思議に思った。
「うん。じゃ、右足上げて、跨いで」
「はい…!」鞍の前部に左手をつき、馬体を跨いで腹を鞍につけた。左足を乗せた鐙だけが藍の体重を支えている。
「うん、いいよ。じゃ、次はそのまま鞍にもたれて鐙脱いで、脱げたらそのまま跳び降りて。大丈夫、大した高さじゃないよ」そう言われてもやはり怖い。何せ彼女は、ベッドより高い所から降りたことすらないくらいなのだ。
しかしこの体勢になってしまったら、もう一度馬体を跨いで座る自信もない。藍は覚悟を決めて鐙を脱いだ。今度は鞍に乗せた両腕と腹だけで体重を支える状態だ。
「下まですぐだよ。飛び降りて」梨乃が横で声をかけるが、やはり怖くてそれは出来ない。しかし、彼女の腕力が自分の体重に負け、鞍に沿ってずるずると滑り落ちた。
実際のところ、梨乃の言うように足先から地面までの距離は全然大したことはなく、藍でも問題なく降りられる高さなのだが、目線の位置が高かったため、それに怯えてしまっただけなのだ。
「きゃ…!」着地した藍は小さく悲鳴をあげ、後ろによろめいた。着地した足許が柔らかく、足を取られてしまったからだ。その背中を、いつの間にか背後に来ていた碧が受け止め、
「大丈夫?」と優しく訊いた。
「うん、ありがとう…」よろめいた恥ずかしさに頬を赤らめながら振り向いて答え、エクレールの首の横に進み出て、その長い首を無言で撫でた。
「じゃ、戻りましょう。ラブとアスランお願いします」
「はい!」「はい…!」二人は二頭の繋がれている柱へ向かい、エクレールを牽いた梨乃はさっさと埒を開けてトラックに出た。
藍がアスランの鎖を解いた時には、梨乃とエクレールは既にトラックから外に出ており、碧がラブを小脇に抱えて梨乃の隣に並んでいた。
アスランに引っ張られながら藍も急いで後を追ったが、埒を閉じることは忘れなかった。
「お疲れさま。どう? 面白いでしょ、馬って」藍がアスランを連れて戻ると、ゴム長に履き替えた梨乃が訊いてきた。エクレールは既に馬装を解除され、小用を足しているところだ。小という言葉が全く合わない、滝のような勢いだが。
「はい…! 楽しかったです…! それに、すごく、かわいいです…!」ラブが繋がれている柱にアスランも繋ぎ、頭を撫でながら応える。
「だよねー! ブフフフフって笑ってるみたいだよね!」碧が割り込んできた。
「うん…首ぽんぽんってしたらすごく喜んでくれて、こっちが嬉しくなってきたよ…。あの、私も何か手伝います…」碧が鐙に付着した砂を落としているのを見て言う。
「ありがとう。じゃあ頭絡バラして拭いてもらえる?」エクレールの用が済んだことを確認して梨乃は馬体にブラシをかけ始めた。
「はい…あ、えっと…」とうらくが何なのか分からず視線を彷徨わせる。
「あ、そっか、ごめんごめん、頭絡なんて聞いたことないよね。これ」と柱から革帯を組み合わせた馬具を取った。銜を介して手綱も接続されている。
「もしかして、頭に絡めるから頭絡ですか…?」
「うん、そう。よく分かったわね。道具箱にスポンジが入ってるからそれで拭いてほしいんだけど、スポンジに油が染み込んでるから手袋した方がいいかな。手袋も中に入ってるから」
「はい…」
「じゃお願いします」と一度言葉を切って、
「藍ちゃんなかなか上手だったわよ」と褒めてくれた。碧も、
「うん、上手だった! けっこう思い通りに動いてたんでしょ?」
「あ…うん…。でも梨乃さんが教えてくれたから…」
「まあ指示はしたけど、コントローラーで藍ちゃんを動かせるわけじゃないからねー。藍ちゃんの操作が良かったってことだよ」コントローラーで動かせるなら、直接馬を動かした方が早かろう。
「え…そんなこと…ないです…」
「多分そんなことあるよ! ところで梨乃さん、わたしにはあんまり教えてくれなかったじゃないですか!」
「碧ちゃんは細かく指示されるより自分で試したいタイプでしょ?」
「う…そう、ですけど…私も手取り足取り教えられたかったんですぅ!」
「いや、藍ちゃんの手も足も取ってないわよ。口出しただけ」
「くっ、揚げ足だけ取られた…!」
「実際、押せ、って言ったらそれで馬動いちゃったしね、碧ちゃんの場合。単純に脚力の違いだと思うけど、藍ちゃんの時はそれで動かなかったから、オプションBを使ったの」
「力より技、ってことですか?」
「ううん、力も技もオプション」右側のブラシがけを終えたらしい梨乃が左側に回って言う。
「え!? どういうことですか?」
「馬が乗り手の意図を汲んで動いてくれるのが一番いい状態。でもテレパシーで伝えられる訳じゃないから、手足や口や道具を使って意図を伝えるの」
「ふんふん」相槌を打ちながら碧が頷き、藍は無言で頷く。
「それが伝わりにくい時には、色々方法を変えて試してみる」
「それが技ですか?」
「話が早いわね。で、伝わらないのが一番問題なんだけど、伝わってるのに言うこと聞いてくれない馬も中にはいるのよね。ラブみたいな性格だと、『わしゃ働かん』って」
「その時は女王様ですか?」
「ううん、鞭は最終手段。まずは脚で押すとか蹴るとか」
「なるほど、そこで力ですか」
「そう。それと、ずくはあるけど動きが足りない時に、まあ言わば動くのを手伝うために力を使うことがあるわね。だから、力も技も道具も使わなくていいならそれに越したことはないの。実際にはそんな馬はいないけどね。それに、難しいことさせようとするとどうしても力も技も必要になるし。ちょっと余計な説明が入っちゃったけど、どっちもオプションだってのは分かってもらえたわね?」
「はい!」碧とともに藍も頷く。
「まあ力とか技とか以前にもっと大事なことあるんだけど、二人ともよく出来てたからね」
「え? 何ですか?」大きな声で出た碧の疑問に藍も頷く。
「バランス。前後も左右もね。二人ともちょうどいい位置に収まってたから、余計なことは言わない方がいいと思って」左側もブラシがけが終わったようで、エクレールに足を上げさせ、蹄の裏に詰まった砂を鉄の篦のような道具で掻き出し始めた。
「はあ~。スゴいですね、梨乃さん。ちょっと見ただけで分かるんですねえ」
「傍目八目ってやつね。これが自分のバランスだとなかなか分からないんだけどねー」
「梨乃さんでもですか?」
「うん。だからその辺はイメトレ。どんなスポーツでも一緒でしょ?」
「そうですね!」碧は納得の表情だが、藍には今一つよく分からない。これは実践者とそうでない者との差だろう。
「よし、エクレール、お疲れさま」蹄の掃除を終えた梨乃はエクレールの首を叩き、長靴の手入れに入ろうとした。それを見て碧が、
「まだ家に帰さないんですか?」
「汗が乾いてもう一回ブラシかけたらね。それまで遊んどいてあげて」
「やったー!」碧は早速エクレールの首の傍に行き、首から肩を左手で撫でながら、右手で顎をぺもぺもし始めた。エクレールは喜んでいるのか迷惑なのか微妙な表情だが、口が半開きになっているところを見ると、緊張してはいないようだ。
「藍ちゃんも」まだ頭絡を拭いている藍にも言う。
「はい…あとこれで終わりですから…」両端が輪になった部品を拭きながら藍は応えた。拭き終えた部品は梁の上に並べて掛けてある。
「そう…ありがとう」
「え、いえ…私の方こそ、乗せてもらってありがとうございます…!」
「ありがとうございます!」碧も会話に乗っかってきた。
「堀金さんがいいよって言ってくれたからね。帰りに二人からもお礼言ってね」
「はい!」「はい…!」
「いやー、乗る前に言われたことがよく分かりましたー。これはハマりそうですね!」
「でしょ」
「乗って楽しいし、降りてもかわいいし」
「でしょ。実際、乗るより世話する方が好きって人も結構いるのよね」
「あ、そうだ! アっちゃんとエクレールどうやって一緒に飛ぶ練習してるんですか!?」先程から訊きたいと思っていたことを碧が口に出したので、藍は思わず身を乗り出した。
「練習したことないよ」
「え?」見事に二人同時に発した。
「一番初めは、首輪が緩かったらしくてアスランが馬場に入ってきてね、障害飛んでた私達の横に来て並走して。気づいた時には止まれなかったから仕方なくそのまま飛んだらアスランもちょっと遅れてついてきてね。これはいけるかなと思ってもう一回やったら今度はタイミングまで合わせてきて。それから時々披露するんだけど、やっぱり危ないからね、何度もやりたくないからいっつも一発勝負。多分一回失敗したらどっちかが怖くなってそれから出来なくなるんじゃないかな」
「やっぱりアっちゃんスゴいじゃないですか!」碧の言葉に大きく頷きながら、藍はアスランの方を向く。運動に関してさっぱりな自分から見れば、アスランは神のような領域にいる。無論エクレールも梨乃も碧もだ。
名前を呼ばれたからか、アスランは曳き綱いっぱいにこちら側へ出ている。その傍にしゃがんでそっと頭を撫でると、アスランは尻尾を振りながらこちらを見上げた。アスランすごいね、と小さく呟いてもう一度頭を撫でてから、藍はエクレールの傍へ行った。
「あの…アスランとエクレールは仲良しなんですか…?」藍の質問に碧がおっ?という顔をしたが、エクレールを挟んでいたため藍には見えなかった。
「うーん、どうなのかな? お互い我関せず、って感じだから。でも、一緒に飛んでる仲間意識はあると思うよ」
「そうなんですか…? 意外です…」我関せず、の部分に対する感想だ。
「アスランは基本私にしか興味ないし、エクレールは普段ぼーっとしてるしね」
「そんなにぼーっとしてるんですか…?」
「うん、この子がやる気になるのは障害飛ぶ時と仲良しの猫が来た時だけだね」
「猫と仲良しなんですか!?」ぼーっとしていることに定評が有るらしいエクレールがビクっとするほどに大きな声で碧が食いついてきた。
「大きな声出さない、馬はビビりやすいんだから」
「あ、すみません。ゴメンね、エクレール」
「仲良しと言うか、この子がベタ惚れなの。この辺の半野良なんだけどね」
「ベタ惚れってどういう行動するんですか?」
「とにかく近寄って顔を近づけるの」
「うわー、猫ビビりそう」大きさの差を考えれば、そう想像するだろう。
「最初はちょっと警戒気味だったけどね。やっぱり好かれてるのって分かるのかな、すぐ慣れて平気になったみたいよ」
「へえー。で、ひたすら顔近づけてフンフンしてるんですか?」鼻を突き出す仕草をする。
「エクレールはね。猫の方は気まぐれだから、エクレールの顔舐めたり、どっか行っちゃったり」
「うわー、エクレールもてあそばれてるう」
「弄ばれてるねー。エクレールの頭に乗ったりするし」
「えー!? 猫が乗馬!? それ見たい!」
「写真あるよ。画質悪いけど」
「いいです! 見せて下さい!」
「うん、手入れ終わったら持ってくるよ」
「あの…私も…」そんな素敵な写真なら自分も見たい。
「うん。まあ何でその猫が好きなのかは今も謎なんだけどねー。…ところで碧ちゃんのケータイどこにあるの?」
「? 車です」
「急いで持ってきて。でも走っちゃダメよ」上着のポケットから車の鍵を素早く取り出して碧に渡す。
「はい。 ?」
「ミー子が来たわ」
その一言で、碧は梨乃の言わんとしていることを全て理解したようだった。足早に、しかしそっと歩き、廐舎の影の中へ碧は消えていった。ゴム長の足音はほとんど聞こえなかった。
「あの…その猫ってどこにいるんですか…?」
「馬に乗る台のところ。多分この子も気づいてるとは思うけど、まだ遠いのかな」近づいてきたら何らかの反応が有るということだろう。その台はちょうどエクレールの首で見えないが、見たら動きがぎこちなくなりそうだと思い、藍は覗くのをやめた。
「…馬が猫を好きなのって不思議です…」
「そう? 藍ちゃんアスランのこと好きになってくれたでしょ?」
「…! はい…!」エクレールの首の下からアスランを覗いてみる。名前を呼ばれて嬉しそうだ。
「エクレールのことも」
「そう、ですね…」そうか。同じことなのだ。
「私はそういうのってとても素敵だと思うけど」
「はい…!」昨夜まで、藍はそんな素敵がこの世に存在することすら知らなかった。
そのことを思って不思議な気持ちに包まれていると、
「どんな様子ですか?」いつの間にか戻ってきた碧が小声で訊いた。
「んー、まだ何とも言えないけど、近づいては来てるわ」
「どこですか?」
「踏み台の方」
「あー」そちらを一瞥して碧が頷いた。
「そろそろこの子がそわそわしだすから離れた方がいいかな」
「はい…!」特に役目が有る訳でもないのに、藍は緊張してきた。エクレールの首をぽんぽんと叩いてからアスランの傍に行く。梨乃と碧はエクレールの正面で距離をとっている。
二人が離れるとすぐエクレールの様子が変わった。少し顔を右の方に向けてじっと一点を見つめている。その焦点にいるのはもちろん件の猫だ。黒と白と茶の斑。動物のことには疎い藍も、それを三毛猫と呼ぶことは知っている。
藍はお座りするアスランの背中に腕を回して撫で始めた。その途端、
「わん!」とラブが一声吠え、猫が逃げるのではないかと藍はヒヤヒヤした。昨夜の経験から、わしも撫でろとの要求と判断し、左手を伸ばして頭を撫でる。ラブはすぐ仰向けに寝転がった。
「藍ちゃんGood job !」すかさず梨乃が声をかけてきた。そのまま続けろとの意だろう。
不慣れな手つきで藍は二頭を同時に撫でる。ラブはアスランに比べると毛足が短く、今一つ撫で甲斐がない。と、ここで藍は昨夜碧が順逆順逆とわしゃわしゃ撫でていたのを思い出した。逆撫でするという慣用句になるくらいだから逆撫では良くないと思い込んでいたが、あの時ラブはかなりじたばたして喜んでいた。アスランを撫でる右手はそのままに、左手を少し荒っぽく往復させると、果たして、ラブは四肢をバタバタさせた。
これはいける。しかも撫でている自分もけっこう気持ちいい。
喜んでいるアスランとラブを見て嬉しくなり、藍は猫のことを忘れて撫でるのに夢中になった。どれだけ撫でていたのか分からないが、不意に、
「藍ちゃん御苦労様。代わるわ」背後から梨乃に声を掛けられた。
「あ、はい…」撫でるのに没頭していたため声を掛けられたことに驚き、反射的に返事する。
立ち上がってエクレールの方を見てみると、いつの間にかミー子が梁の上、柱の際に乗っており、エクレールはそちらに身体を寄せて顔もミー子の方を向いていた。少し離れて、碧がそれを撮影している。
藍はなるべく足音を立てないように気を遣い、碧の斜め後ろまで数歩歩いた。エクレールの左側の鎖が解かれているのが見える。なるほどそれでこんなに顔をこちらに向けることが出来るのだ。恐らく掟破りなのだろうが、エクレールはミー子に集中していて動くことは有るまいと思われる。
ミー子もエクレールのことを憎からず思っているようで、エクレールの鼻先に頬を近づけている。エクレールの鼻息が吹き出される度にミー子の髭が揺れる。
碧と藍が息を詰めて注視する中、何の前触れもなくミー子が立ち上がり、エクレールの尻尾方向に梁を歩き始めた。ああもう去ってしまうのか、と残念に思ったが、たった三歩で立ち止まり、一瞬の後、馬体に向かって跳躍した。
馬の背という地名になるほど細い背中に難なく飛び乗り、今度はエクレールの頭に向かって進む。エクレールは少し頭を下げたが、その姿勢でじっと動かない。もちろんミー子の歩みを邪魔しないためだろう。
ミー子は長い首の上も通り、結局、エクレールの耳の間にちょこんと座った。想像していたよりも笑える絵面だ。微笑ましいというだけでなく、吹き出してしまいそうな可笑しさがある。
碧は携帯電話をじっと構えて動かないが、察するに、きゃー!かわいい!!と
叫びたいのを押し殺しているのだろう。猫に対して特別な感情を持たない藍ですら思わず見入ってしまっているのだ、碧の興奮が如何ばかりか、推して知るべしと言いたいところだが、藍にはちょっと推し量れない。
一分ほど経っただろうか、またしても前触れなくミー子はエクレールと碧の間の地面に飛び降り、エクレールの方に振り向いて一声、
「にャあ」と告げ、
「ブフフフ」エクレールの返事を聞いてから元来た方へ悠々と歩み去っていった。
「よかったね、エクレール」いつの間にか二人の背後に梨乃が立っている。
「どう? バッチリ撮れた?」
「はい! …梨乃さん、こんなことあるんですね…!」珍しく碧が言葉を詰まらせる。
「うん」梨乃は短く答え、左側の鎖をエクレールの頭に装着した簡易な頭絡に接続した。この簡易な頭絡は無口頭絡という。銜を取り付けないので、「無口」なのである。
そして梨乃は、道具箱からブラシを拾って馬体の表面を滑らせ始めた。
「エクレール、いい友達がいてよかったな」碧が首を撫でながら言うと、エクレールは二度首を縦に振った。
「わ! うんうんってしましたよ! この子も言葉分かるんですか!?」
「そうかもね」実際のところ、馬が首を縦に振るのは珍しいことではなく、近くで人が会話している時に相槌を打つように振ることもままあるのだが、梨乃はわざわざそんなことを解説するほど不粋ではなかった。それに、動物が言葉を理解しているのはほぼ間違い有るまい。理解の程度については今後の研究が待たれるところだ。
二分ほどで梨乃はブラシ掛けを終えた。
「じゃ馬房に帰すわ。もう一度褒めてあげて」
「はい!」「はい…!」二人は両側からエクレールの首を撫でた。
「ついてってもいいですか?」
「うん。この子の後肢より前を歩いてね」無口頭絡に曳手綱を繋ぎながらそう言い、梨乃は鎖を解いた。
「はい!」「はい…」梨乃の後ろに碧、その左に藍という並びで廐舎に入る。中はまだ薄暗かった。
「馬って暗い方が好きなんですか?」
「そんなことないと思うけど、暗くても見えるからね」
「そうなんですか?」
「うん。人間の七倍だか八倍の集光力だって聞いたよ。夜道を行く時は馬に任せろって昔から言われてたらしいし」
「へえー」一行はエクレールの馬房の前に着いた。
「地獄耳だし」
「あー、でしょうねー。耳よく動きますもんね! あ! 馬の耳ってすごいかわいい形ですね!」藍もそう思い、頷いた。
「やっぱりそう思う? 絶妙な曲線よね」さらに頷く。
「特に、乗った位置から見るとかわいかったです!」残念ながら、乗った時、藍にはそんなところを見る余裕は無かった。
「だよねー」曳手綱と頭絡を左手に纏めて馬房から出、格子戸を閉める。
「じゃあね、エクレール。お疲れ様」
「お疲れさま!」「ありがとう…!」梨乃に続いて二人も労を労い、
「ブフフフ」エクレールが応えて三人は廐舎を去った。
「ネコミミみたいにウマミミがあってもいいですよね!」この話題に至って、藍には何の事かよく分からなくなった。
「そうねー。このかわいさが認知されればそうなるんじゃない?」梨乃は馬具や馬の手入れ道具を次々と片付けている。
「ですねー。わたしもついさっきまで知らなかったですもんね。よし、とりあえず明後日学校で言いふらそう!」
「碧ちゃんがウマミミ作って学校で着ければ早いんじゃない?」
「いやさすがに学校ではちょっと…」
「色んな方面から目をつけられそうね」
「しかも、絶対よくない目のつけられ方ですよね!」
「どうかしら」ととぼけてから鞍を持ち上げ、
「仕舞ってくるからちょっと待ってて」
「あ、じゃあ道具車に持ってってきます!」道具箱片手の碧の言葉に藍が頷く。その手にはゼッケンと手綱、それに分解された頭絡。
「ありがとう。気が利くわね」ポケットから鍵を取り出して碧に渡すと、
「えへへへ」碧が笑い、藍は少しだけ俯きながら赤面して自動車へと向かった。
「写真、撮れた…?」
「バッチリ! 一部始終を動画に収めました! 後で見て~」碧はほくほく顔だ。
「うん、見たい…!」
「エクレール、ミー子にメロメロだったね」
「うん…! すごく可愛かった…!」
ちょうどエクレールの馬房の前に差し掛かり、碧がエクレールに向かって手を振った。藍も真似する。朝食中だったエクレールは口を止め、こちらを見て二つ頷いた。心が通じ合ったような気がして、藍は嬉しくなる。
「馬と猫が仲良しっていいね!」
「うん…! 大きさ全然違うのに…。よくあることなのかな…?」
「どうだろ? 犬と猫が仲良しっていうのは時々聞くけど」
「そうなの…?」
「うん。両方飼ってる人ってけっこういるからね」
「そうなんだ…楽しそう…でも世話が大変そう…」
「だねー」
車に着いた二人は、後部ハッチを開けて道具を仕舞った。
「ついでに靴も」
「あ、そうだね……」ゴム長から各々の靴に履き替え、ゴム長の靴底に付着した砂をブラシで丁寧に落としてから仕舞い、
「よし、完了」碧がハッチを閉めて、二人はラブとアスランの方へ急いだ。途中、またエクレールに手を振って頷かれ、厩舎を抜けた時には既に梨乃が戻り、堀金女史と話をしていた。
「どうだった? 馬の上」女史が二人に話しかけてきた。
「楽しかったです! 少し揺れるのが気持ちよかっです!」
「うん、あれだけ馬が動けば楽しいよね。乗ったの初めてだっけ?」
「はい!」
「続けたら梨乃ちゃんぐらいになると見たわ。本格的にやってほしいわね」
「梨乃さんってやっぱりスゴいんですか!?」
「エクレールに乗れば全日本にも出れるんじゃないかなあ?」
「マジですか…」
「私としては全日本勝ってオリンピック出てほしいけど、医学部で勉強しながらは無理だよねえ」
「それは何とか両立できるかも知れませんけど、問題はお金ですねー」
「馬代は自分で稼ぐんだっけ?」
「はい」
「マジですか……」
「そうよー。高橋涼介がガススタでバイトするみたいなもんよ」堀金女史は馬だけでなく自動車も愛しているらしい。
「パーフェクト超人か…!」
「あなたはどうだった? 馬」今度は藍に訊いてきた。知らない人と話すのが極度に苦手な藍だが、礼儀正しく在りたいとは思っている。今は、何か答えなければ礼を失するところだ。
「あの、すごく、楽しかったです…。乗る前は大丈夫かなって思ってたんですけど、ちゃんと歩いてくれて…。それと、思ってたほど怖くなかったです…」
「あら、ずいぶん控えめなコメントねー。あなたもきれいな姿勢で乗ってたわよ」
誉められた恥ずかしさに藍は俯いたが、まだ一言も礼を言っていないことに気づいて慌てて顔を上げ、
「あの…ありがとうございました…」と言って頭を下げた。
「ありがとうございました!」碧も元気よく言って礼をする。
「いいえー。これも営業活動よ。見込み客が二人も増えてよかったわ。当クラブはいつでも御入会をお待ちいたしております」
「それじゃ失礼します」梨乃が堀金女史に挨拶し、
「ラブとアスランお願いしていい?」
「はい!」「はい…!」二人はラブとアスランの繋がれている柱の前にしゃがみこんだ。
「おーい、朝だぞラブ子、起きろー」結局ラブはここでの時間をあらかた寝て過ごしたことになる。碧に荒っぽく起こされて渋々起き上がり、ラブは帰る態勢に入った。
一方アスランは藍たちが自動車から戻ってきた時には立って鎖を解かれるのを待っており、二人が近づいて来るのを見て激しく尻尾を振った。柱に巻いた鎖を解く間、藍は脇腹に鼻先が当たるのを感じて、またアスランに対する愛しさが湧き上がってきた。エクレールもいい奴だが、可愛いのはやはりアスランだ。解いた鎖を持った藍はアスランに引っぱられて梨乃の隣に並んだ。さらにその隣にラブを引っぱる碧が並んで廐舎に入る。
「梨乃さん、ありがとうございました!」抑えた声で碧が言う。梨乃に注意されて流石に覚えたらしい。
「ありがとうございました…!」
「うん。楽しんでもらえたみたいでよかった」ちょうどエクレールの馬房前に差し掛かった梨乃が立ち止まり、中の主に、
「エクレール、ありがとう。またね」と声を掛け、右手を顔の横に上げた。碧と藍も手を振る。エクレールは、
「ブフフフ」と挨拶を返してきた。
文字数制限のため、三分割して投稿いたします。
なるべく区切りのよい箇所を選びましたが、本来は一繋がりの話ですので、半端に終わっている感があるのは御容赦下さい。




