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リセエンヌ  作者: 松本龍介
12/62

外泊

令和二年六月十三日 修正


 文字化けを修正いたしました。

外泊


 藍は目を覚ました。時刻は午前六時少し前、外はもう明るくなっているはずだ。厚手のカーテンに阻まれて室内は暗いが、雀の声が微かに聞こえている。

 布団の中でじっとしていると、枕元で目覚ましの電子音が鳴った。目覚ましにしては控えめな電子音だが、藍にとってはこれで十分だ。毎日決まって目覚ましが鳴る十秒ほど前に目を覚ますため、最小音量に設定しているのだ。碧の弁当を作るようになって、それまでより三十分早い時刻に設定を変えたのだが、やはり目覚ましが鳴る前に目覚める。

 目覚ましを止めて起き上がり、ベッドから出てカーテンを半分ほど開け、ブラウスとVネック七分袖シャツ、靴下、タイツにブラジャーを箪笥から取り出す。ブラジャーとシャツは白、タイツと靴下とブラウスは紺だ。

 着替えを取り出した藍は、まずは寝間着の上を脱いだ。次にブラジャーの肩紐の間に腕を通し、背中のホックを留めてから、実にささやかなふくらみにカップの位置を合わせる。シャツに腕と首を通し、ブラウスを着る。

 次は脚だ。寝間着のズボンと靴下を脱ぐ。寝間着の片脚に両脚どころか尻まで入れられそうなほど細い下半身をタイツに(くぐ)らせ、靴下を履く。

 そして壁に掛けたセーラー服のスカートを取り、穿いたら当面は完装だ。藍は階下の台所へ向かった。

 台所はまだ薄暗い。入ってまずは照明を点け、椅子の背に掛けたエプロンを着用する。紺をはじめとした濃暗色を好む藍だが、エプロンは違う。薄い水色で、胸部中央に赤い薔薇が小さく刺繍されている。この薔薇の刺繍と水色に惹かれて、彼女にしては非常に珍しく、買ってくれるよう母親にねだった。藍にとっては唯一無二のエプロンであり、とても大事にしている。

 身支度はこれで整ったので、食器棚から皿と弁当箱を取り出して食卓に置き、隣の冷蔵庫から鮭の切り身を二切れ取って魚焼きグリルに投入、点火。

 すぐ冷蔵庫に戻って迷いなく次の食材を取り出し、流しの横に置いていく。舞茸、レタス、もやし、バター、卵、それに半透明のポリプロピレン容器を五つ。中身は肉じゃが、ほうれん草のおひたしとロールキャベツ、漬物に出汁だ。出汁は昨夕作っておいたもので、母親から教わった配合に藍が手を加えた。

 その中からまず藍が手を伸ばしたのは、おひたしと漬物だ。容器から皿に移して食卓に置く、ただそれだけだが、青井家に於いては重要な工程である。冷蔵庫から出したての冷たさを父親が嫌うためだ。壁に掛けた温度計が示すのは十一度。冷蔵庫内が約十度だから、現時点では大して差がないが、火を使えば狭い台所の室温はすぐ上がる。

 次に流しの下から丸フライパンと角フライパン、ボウルと泡立て器、サラダ油を取り出してフライパンを両方とも焜炉に載せ、丸フライパンの方のみ点火。

 舞茸を俎に載せ、根元を切断。レタスを十枚ほど毟って重ね、八分の一に切断。バターの塊を三ミリ程度の厚さに切ってフライパンに入れ、軽く回してバターを伸ばしたところで、換気扇が動いていないことに気付き、左手でフライパンを持ったまま右手で頭上のスイッチを入れた。そして舞茸とレタス、もやしをまとめて投入。レタスがしんなりする程度に軽く炒めたところで火を止め、隣の角フライパンの方に火を入れて弱火に調整した。

 次は玉子焼きだ。卵を二つ割ってボウルに入れ、泡立て器で軽く混ぜ、そこに出汁を注いでまた混ぜる。納得がいったところでフライパンにサラダ油を垂らして温度を確かめ、油を延ばしてから余剰を拭き取り、中火に変える。溶いた玉子を少しずつ注いでフライパン全体に展ばす。表面まで火が通りきる数秒前に菜箸で玉子を巻き始め、巻き終わった玉子を反対の端に寄せて、空いた場所にまた溶き玉子を垂らす。これを三回繰り返して完成させると、フライパンから俎に落として一.五㎝程度の幅に切り、四切れを弁当箱に詰め、残った二切れと切れ端を皿に移した。炒めものも同じ手順で弁当箱と皿に移すが、こちらは碧用弁当箱、自分用弁当箱、それに皿三枚の五つに分ける。皿に盛られた分は青井家の朝食だ。そして無論五等分ではなく、藍と母親の分は少なくしてある。

 仕切りの無い弁当箱を手に、流しと冷蔵庫の間に置かれた米櫃の前へ移動する。米櫃の上に載せられた炊飯器の蓋を開くと、中から湯気と共にいい匂いが立ち上ってきた。中身は今日も玄米入りだ。タイマーで、藍が起きる二十分前に炊き上がっている。杓子で少しほぐしてから弁当箱に移し、弁当箱の中でも少しほぐして、蓋は被せず流しの横に置く。余計な水分を抜くためだ。自分の弁当箱にも同じようにして入れ、隣に置いた。

 当面最後の一品は、最初に仕掛かった鮭だ。既に、焼ける匂いがグリルの外にも漂ってきている。一度中から引き出して焼け具合を確認し、戻して一分ほど待ってから火を止めた。改めて焼き網を引き出した時、

 「シャケね」母親が台所に入ってきた。藍と同じく、既に着替えている。藍の陰になってグリルは見えないはずだが、匂いで鮭と分かる。

 「すぐ用意するからちょっと待って」振り向かず、焼けた鮭を菜箸で俎に運びながら声をかけると、

 「うん」母親は短く答えた。

 毎日のことであるので、母親が何をしているか、見なくても藍には分かっている。食器棚から茶碗と箸、湯呑みと急須、それに醤油と茶筒を取り出して自分の席の前に置いているのだ。大方の家庭でそうであるように、青井家でも各人の座る位置が決まっている。母親の席は食器棚の前、藍の席の左手だ。急須の中の茶濾しに茶葉を入れ、テーブルの端に置かれた沸騰ポットから湯をなみなみ注ぎ、炊飯器から二つの茶碗に米をよそい、同じく二つの湯呑みに茶を注いでから、母親は席に着いたはずだ。

 その間に藍は片方の鮭を二つに、もう片方を三つに切り、二分の一切れを父親の皿と碧の弁当箱に、三分の一切れを母親の皿、自分の皿、自分の弁当箱に載せて、皿を各人の席の前に配置する。

 そうして食卓の準備が調った時、見計らったようにチノパンTシャツ姿の父親が台所に入って来た。

 椅子に腰を下ろしたばかりの母親が父親の茶碗を手にまた立ち上がり、炊飯器の前へ行く。父親はそれを見ながら椅子に座り、食卓の上の朝食を眺めて、

 「玉子もらっていいか?」と訊いた。藍は答えるより先に焜炉に火を入れ、

 「うん。もうひとつ焼くね。すぐできるから」冷蔵庫から卵を出す。

 「悪いな」妻が無言で差し出した茶碗を受け取りながら父親が言い、

 「ううん」藍は背を向けたまま短く答えた。

 「いただきます」父親は茶碗を左手、箸を右手に、つまり手は合わせずにそう言い、すぐ食べ始めた。その目の前に、茶を入れた湯呑みがそっと置かれる。父親の朝食は、藍が物心つく以前からずっと目玉焼きとトースト+αであったのだが、本日より卵焼きと米飯+αに切り替えられた。

 炒めものと鮭が半分ほど無くなったところで、玉子が焼きあがり、藍は火を止めた。

 玉子焼きを切っている間に母親が新たな皿を用意し、藍の茶碗に米を盛る。青井家では、朝に限らず、効率よく時間を使うことが不文律と言うか行動規範となっている。物心つく前からそういう環境に浸かって育った藍は、その行動様式が身に染みついており、親戚の家に行く度によく気がつく子だと褒められたものだが、自分では愚図な人間だと思っている。運動能力に於いて常人を遥かに下回っているからだが、恐らく小中学校の同級生からも概ねそのように見られていただろう。すげートロいのに何でか勉強はできる変なヤツ、といったところだ。そのせいか、或いは元々無口な方だったせいか、小学三年生の頃から、好んで話し掛けてきたりする同級生が徐々に少なくなり、中学に上がる頃にはすっかり独りが板についてしまっていた。今となっては、他人と接するのが苦手なせいで独りになったのか、独りが長いせいで他人と接するのが苦手になったのか、もう分からなくなってしまった。

 切られた玉子焼きはすぐ皿に載せられ、父親の前に出された。如何に藍の動きが遅いと言っても、振り返って一歩の距離だ。父親は皿が置かれると一言も発さずすぐさま箸を伸ばした。

 エプロンを着けたまま藍が椅子に座り、母親と二人「いただきます」と言って食べ始める。

 藍が玉子焼きの切れ端を一つ食べた頃には、父親は残りの炒めものと鮭、新しく焼かれた玉子焼きの半分、それにおひたしと漬物も全て腹に収めてしまっていた。おかわりはせずに箸を置き、茶を飲み干して、今度は両手を合わせ、「いただきました」と言った。

 いつもならすぐに席を立ち、そのまま着替えに戻るところを、今朝はにこりと笑って、

 「なかなかやるじゃないか。朱美の玉子焼きと遜色ないぞ」一言褒めてから寝室に戻った。朱美は藍の母親の名だ。二年ほど前、藍が弁当を自分で作るようになって以降も朝食はずっと母親の担当だったのだが、昨夕藍より提案を受け、今朝は藍に任せることとなった。碧の弁当を作るようになって品数が増え、その分時間もかかるようになったため、朝食と弁当のメニューを統一することで手間を減らす、という趣旨だ。

 「だって。私ももらうわ」母親も一つ取って箸で半分に切り、口に入れた。藍は何も言わず、表情も変えず自分の皿に箸を伸ばす。心中では父親の評価を喜び、母親の評価を気にしているのだが。

 「うん、おいしい。でも、私のとは少し味付けが違うわね」

 「…少しお酒を入れたの」出汁に日本酒を足した、ということだ。

 「なるほど、思いつかなかったわ。なかなかやるようになったわね」夫と似たような台詞で娘を褒め、また半切れを口に運んだ。

 次はレタスと舞茸ともやしの炒め物のことも話題に上げさせてみせると意気込みながら、しかし表情は変えずに、藍はその炒め物を箸で取った。


 父親を見送り、食事を終え、弁当を完成させて、藍は二階の自室に戻った。洗い物は母親が買って出てくれた。朝食の支度を藍に任せたから後片付けは自分が、とのことだ。昨日までとは逆である。

 部屋に戻ってすぐ制服に着替え、腕時計を左腕に巻く。

 勉強道具の準備はいつも通り昨夜のうちに済ませてあるが、念のため確認する。碧と過ごす時間を減らさないため、今日は絶対に忘れ物をしたくない。教科書、ルースリーフ、筆記用具、ティッシュがちゃんと学生鞄に入っていた。

 一安心して、もう一つの荷作りにかかる。二人分の弁当に加えて今日は着替えとタオル、歯磨き道具があるため、巾着の容量では全く足りず、父親に頼んで背嚢を借りた。ロールバッグというのだろうか、袋の先から丸めていき、中身に袋の丈を合わせる形式のものだ。着替えは先日の打ち合わせ通り、下着とシャツ、タイツ、靴下だけ。正直、私服をどれにしようか悩むより、制服の方が気楽でいい。寝間着は持っていきたいところだが、嵩張るのでズボンだけにする。今まで一度もやったことはないが、今夜はシャツで寝るつもりだ。恐らく碧もそうするだろう。

 思い切った省荷計画が効を奏して、思った以上に荷物の嵩は小さかった。いや、小さ過ぎた。いざ背嚢の口を巻いてみると、両肩に掛ける帯の根元まで巻いてもまだ余っており、これでは背負っている間に中で弁当箱が斜めになってしまうかも知れない。もう少し何か詰める必要がある。とりあえず寝間着を入れてみたが、まだ緩い。

 藍は荷物を置いて階下に向かった。立ったまま居間の電話から受話器を取り、碧の携帯電話を呼び出す。

 「もしもし、相生です」碧はすぐ電話に出た。

 「藍です、おはよう、碧ちゃん…」

 「おはよう! どうしたの? もしかして調子悪いの?」電話越しにも心配そうな様子が伝わってくる。

 「あ、ううん、…今日の荷物のことなんだけど…」

 「あ、うん」

 「リュックに詰めたんだけどスペースがだいぶ余ってて…」

 「うん」

 「碧ちゃんパジャマ持って来てくれたらちょうどいいかなって…」

 「それで電話くれたの? ありがとう! パジャマ持ってくね!」

 「うん…」

 「じゃ、また後でね!」

 「うん…!」碧が電話を切ったのを確認して、藍は受話器を置いた。自室ではなく脱衣所へ向かい、タオルをもう一枚取ってから二階に戻った。

 弁当箱が傾かないようにタオルを詰め、厚手のポリプロピレン袋に入れた着替えを上から入れ、背嚢の口を巻くとちょうど良い位置で閉じることができた。ちなみにその袋も紺色だ。

 時計を見てみると、七時二十分。慌てる必要はないが、ゆっくりしてもいられない時刻だ。

 母親に見送られ、藍はいそいそと駅に向かった。


 今日も碧は「松本驛」看板の前に自転車をとめて待っていた。何となくここが二人の待ち合わせ場所として定着しつつある。

 「おはよう!」エスカレーターを歩き下った藍を碧が見つけ、元気よく声を掛けてきた。

 「おはよう…」藍も微笑んで挨拶を返す。

 「わ、リュック大っきいねー! これなら余裕でパジャマ入るね!」藍が背負ってきた背嚢は容量約四十ℓ。登山用として見ると最小と言っていい部類だが、藍の身体よりも横幅が広いためか、実際以上に大きく見えている。

 「さっそく入れちゃっていい? ちょっとカバンがパンパンで」自転車の前籠から学生鞄を取り出してぽんぽんと叩く。碧の言葉通り、鞄はかなり肥っていた。このままでは、藍の鞄と一緒に前籠に入れるのはちょっと無理そうだ。

 「うん…ちょっと待ってね」手に持った学生鞄を籠に入れてから、背負った背嚢を荷台に置いて、巻いた口を解く。その間に碧は自分の鞄から、どこかの服屋のものらしい厚手の青いポリプロピレン袋を取り出す。

 「これなんだけど」普段の厚さになった学生鞄を前籠に入れ、袋を藍に渡す。中身は当然着替えだろう。

 「あ…!」それを見て藍が声をあげる。

 「え? 問題発生?」ちょっと慌てた様子で碧が訊いてきた。

 「あ、ううん」藍はもっと慌てて否定し、「私も着替えこういう袋に入れてきたから…」

 「え、ホント!? どれどれ~」背嚢の中を覗き込み、

 「ホントだー。考えることは一緒だね!」藍の顔を見てにっこり笑った。

 「うん…」自然と藍も微笑む。たったこれだけのことが、藍にはとても嬉しい。

 碧の袋を自分の袋の上に乗せ、背嚢の口を巻き、帯を金具に通して締め、開かないのを確認して、それから背中に背負おうと持ち上げかけたが、

 「乗るまでそのまま行こうよ」碧が提案した。二人乗り出来る場所まで荷台に背嚢を載せて行こう、という意味だ。もちろん荷台から落ちないように手を添える必要はある。藍は、碧が少しでも自分に楽させようとしてくれていると理解し、また嬉しくなった。

 「あ、うん、そうだね…」藍の同意を聞いて、碧は自転車を押し始めた。浮いていた後輪が地面に着く時の衝撃で背嚢が落ちないよう、ゆっくりと。


 「おはようございまーす」教室の後扉を開けながら碧が言うが、(いら)えはない。荷物の詰め替えで時間を使ったにも関わらず、今日も二人は教室一番乗りだった。始業式以来、二人が一番でなかったのは、二日目だけだ。三日目からは、碧も一緒に自転車を押すようになったからである。結局碧に働かせているので藍としては心苦しいが、碧が譲らないので仕方が無い。それに、そのお陰で二人きりの時間を持てている。自転車や徒歩で通学の者も、バス通の者も、概ね八時二十分頃までは教室に入って来ない。この時間を、藍は、何と言うか、とても有り難く思っている。朝落ち合ってから夕方別れるまで、授業やホームルーム以外の時間をほぼ全て二人一緒に過ごしており、そのいずれをも愛しているが、その中でも朝の教室は特別だ。二人だけ。自転車の荷台に座って碧の背中に頬を当てている時よりも、電話で話している時よりも、そんな気がするのだ。中学時代も藍はほぼ毎日一番乗りだったから、その静謐をよく知っているし、気に入ってもいたが、今はそれとは全く違う。

 背嚢を背負ったまま自席に鞄を置き、藍は教室後部の棚へ向かった。碧もついてくる。背中から降ろして口を開き、弁当の入った巾着を取り出して棚に入れる。また口を巻き直して背嚢も入れようとしたが、弁当が邪魔をしてどうにも入りそうにない。

 「わたしのロッカー使ってー」

 「あ、うん、ありがとう…」

 「えー、ありがとうはこっちの方だよ~。藍ちゃんがリュック持ってきてくれたからすごい楽できたもん」

 「え……うん…」碧の棚は空で、背嚢を斜めにして何とか入れることが出来た。

 「いやー、それにしても藍ちゃんのパジャマどんなのか楽しみ~」

 「え……普通だよ…」予防線ではなく、実際に彼女はそう思っている。

 「わたしのも普通!」碧はパジャマでも動き易さを重視していそうだ、と藍は考えた。

「あ、そうそう。梨乃さんとの待ち合わせなんだけどね」携帯電話を取り出しながら碧が切り出し、

 「うん…」藍は応えながらロッカーを閉じる。それを見て碧は席の方に向かい、藍も続いた。

 「『17:30松本信用金庫前でお願いします。高校の北側の道を東に500~600m下って行くと左手にあります。信号まで行ったら行き過ぎです』だって。藍ちゃん、場所知ってる?」

 「ううん……」小さく首を振る。

 「ま、指示通りに行けば大丈夫だよね」

 「うん…」分からなければ梨乃に電話すればいいことだ。

 「で、ここからが本題なんだけどね」

 「うん…」

 「それまで何しよっかなーって。授業終わったら3時半だから、駅前とかに行く余裕はないよねー」六時間目終了が十五時十五分、その後ホームルームが約十分という計算だ。

 「うん、そうだね……あの、私は、碧ちゃんと話ができれば、どこでも……」

 「ホント!? うれしい! わたしも藍ちゃんと話したいだけなんだけど、でもせっかくだからなんかオトメでセイシュンなところないかなー」乙女はオトメな場所を探さなくても乙女なのだが、そういったことに憧れているという点については、碧も乙女だと言えよう。

 「あの、乙女かどうか分からないけど……」

 「おっ、何か提案が!」

 「駅から登ってくる途中の神社、見頃になってないかな…」

 「それだ!!」藍が少し驚くほどの勢いで言う。

「藍ちゃんナイスアイディア!」確かに、桜の下、少女同士が談笑する姿はオトメでセイシュンだろう。

「じゃ、神社に決定!」碧が両手をパチンと鳴らし、

 「うん…!」藍もいつもより大きく頷いた。

 その直後、河内が教室に入ってきた。既に慣れてきた感のある登校順だ。じき、ほかの同級生も続々と教室に入って来るだろう。


 昼休み。今日も藍が弁当をロッカーに取りに行き、その間に碧が椅子を持って藍の向かいに移動する。藍が巾着から弁当箱と箸箱を出し、碧と自分の前に置く。各々がそれらを開けると準備完了、どちらからともなく手を合わせて、

「いただきます」と声を揃える。はずだったが、

 「うーわ、相生さんのお弁当(べんと)めっちゃゴーカ!」碧の左後から素っ頓狂な声が掛かった。碧が振り向き、藍も声の主を見る。藍と同じくらいの身長で、遥かに肉感的な輪郭。ぽっちゃりという言葉がぴったり合う。大声をあげたのは、碧の右隣に座る高橋美奈子だった。

 「お弁当箱三つもあるから気になってたんだけど、スゴいね!」今日の献立は、レタスと舞茸ともやしの炒めもの、肉じゃが、ほうれん草のおひたし、ロールキャベツ、玉子焼き、焼き鮭、クリームコロッケ、竹輪の磯辺揚げだ。

 「えへへへ、そうでしょー!」この反応に高橋は少し戸惑った様子を見せた。これまでのところ、碧は学級委員の鑑のような品行方正ぶりを見せている。そして、高橋は恐らく弁当が碧母の作だと思っている。つまり、碧が身内自慢していると勘違いしたのだ。しかし、

「これ藍ちゃんの手作りなの! すごいでしょ!」碧があっさりとバラし、高橋は、腑に落ちた、という顔になった。

 一方、藍は恥ずかしくて目を伏せる。注目されたり話題に上ったりすると、場合によってはパニックに近い状態まで緊張してしまう。彼女はとにかくそれが厭なのだ。

 「青井さん、スゴい! どれぐらい時間かかるの?」

 「え……と、20分くらい……」それでもまだ相手は一人で、碧も傍にいるので、何とか対応出来た。

 「速っ!」「20分でできるの!?」高橋より速く、碧が驚く。

 「あの……半分以上晩ごはんの残りと冷凍食品だから……」実際、前夜の仕込み次第で、弁当など五分で作れると聞く。もちろんそれは朝必要な時間のことで、仕込みにどれだけかけているのかは分からないが。

 「時短か」と高橋。

 「ちなみに今朝作ったのは?」これは碧。

 「玉子焼きと、シャケと、この炒めもの……」これだけなら十分程度で作れるだろうか。

 「この玉子焼きめっちゃおいしいんだよね~!」碧の言葉に、藍はますます伏し目になる。碧が褒めてくれるのは衷心より嬉しく思うが、恥ずかしいので人前ではやめてほしい。

 「へー! 食べてみたい!」

 「やー、藍ちゃんがわざわざ作ってくれたものだから、悪いけど」きつい口調ではないが、ぴしゃりと断った。

 「えー!」高橋が抗議の叫びをあげ、後方に座っている生徒の視線が自分を通り抜けていくのを藍は感じた。高橋の不満も無理はない。今の流れなら普通は食べさせるというものだ。

 「……あの、よかったら……」藍は自分の弁当箱から玉子焼きを一切れ取り出し、裏返した蓋の上に置いた。碧と高橋の間に軋轢が生ずるのではないかということと、何よりこれ以上に視線が集まるのを恐れたからだ。

 「えっ、いいの!? 遠慮なくもらっちゃう!」高橋は自分に向けられた視線などどこ吹く風で、玉子焼きを指で直接抓んで口に入れた。こういう点、碧と同類のようだ。

 「ホントだ、おいしー!」玉子を飲み込んで、また大声をあげた。

 「でしょー!」碧は得意気だが、作った本人は恥ずかしさがひどくなる一方だ。

 「あっ、ごめん、二人ともまだ食べてなかったね。おジャマしてメンゴ!」食べて満足したのか、去り際も騒がしく自分の席に戻り、二人とも何となくそれを見送った。高橋も弁当のようで、椅子に座ると机の横に吊った鞄から包みを取り出した。

 「あ、どうぞ…」碧がまだ手を付けていないのを見て、藍は右掌を差し出して促した。

 「あ、うん。いただきます!」碧は合掌した。藍も少し遅れて同じようにし、漸く二人は食べ始めた。

 碧は今日も玉子から箸をつけたが、口には運ばず、藍の弁当箱の蓋に置いた。

 「藍ちゃん、さっきありがとう。ちょっとムキになっちゃったかも」

 「え……いいよ、碧ちゃん食べて」

 「でも、藍ちゃんそれだけしかないのに」弁当の量のことだ。同じ一切れでも、全体に占める割合が違う。

 「うん、でも、碧ちゃん気に入ってくれてるから…」自分の作った弁当は実に平凡なものだ。そう藍は評価しているのだが、碧はそれを喜んで食べてくれる。藍は、自分が食べるよりも、そんな碧に食べてもらいたいと思うのだ。

 「そっか…じゃあ、半分もらうね」藍の返事を待たず、置いた玉子を箸で切って片方を口に運んだ。

「んー、今日もおいしい!」そう言ってにっこり笑う。

 「…………」藍は無言で微笑み返し、蓋の上の玉子焼きを取った。

 「ところで藍ちゃん」急に険しい表情になった碧が深刻そうな口調で話し掛ける。

 「うん…」藍の顔に不安が広がる。何かダメ出しが来るのでは。

 「こんなの作っておいて『料理得意じゃない』とは何事ですか!」言って肉じゃがの肉を口に入れる。

 「え……」

 「これは得意と言うべきです」次は炒め物のレタス。

 「え、でも……」言いかけた藍を遮って、

 「でももすともありません」デモもストも、だが、碧は意味を理解せず音だけを覚えたらしい。そして内容的にはイチャモンだった。

 「今後、特技欄には料理と書くように」何の書類に特技欄があるのかは分からないが、履歴書だとするとかなり先のことだ。次に食べたのはロールキャベツ。

「いやホントおいしいから、藍ちゃんのお手製。冷凍食品がどれかハッキリ分かるもん」言葉遣いと一緒に、普段の表情に戻る。

 「…ありがとう……」藍は頬を薄紅に染めながら微笑んだ。

 「いやもう、ありがとうはこっちだから!」次は鮭。

 「あの…」

 「うん」

 「メニューとか味つけにリクエストあったら言ってね…すぐにはできないかも知れないけど……」

 「藍ちゃん……♡」うっとりとした目付きで一、二秒藍の目を見詰め、

「メニューじゃないんだけど、作りたて、食べてみたいな! 冷えてこれだけおいしいんだから、出来たてはさぞやと」どんなに腕の良い料理人でも、作りたてが一番美味という大原則は覆せない。

 「うん。練習して、うまくできるようになったらごちそうするね…」

 「え? 今日のロールキャベツとレタス炒めと鮭と玉子焼き十分そのレベルだよ!」どうやら碧はすぐ食べたいらしい。藍はそう思い至り、

 「じゃあ、今できるものでよかったら…」

 「うん、ぜひぜひ!」

 「明後日の晩ごはんに……」

 「うんうん、明後日ね! …って早っ!」

 「あ、都合…悪かった…?」

 「ううん、全然!? ちょっと予想外だっただけ…でも、ホントに明後日いいの?」

 「うん…」

 「じゃあ、遠慮なく……って藍ちゃん家にお邪魔していいの?」何をか言わんや。

 「碧ちゃんの家にお邪魔して作るのは、ちょっと……」仮に職人級の腕を持っていたとしても、初めて会う人の前で料理するなど、藍にはとても考えられない。

 「じゃあ、じゃあね、明後日朝から弘法山行って、帰りにスーパー寄って、藍ちゃん家に行くのはどう?」

 「うん…!」

 「待ち合わせ場所は考えとくね! 藍ちゃん家って駅の近くだったよね?」

 「うん」

 「明日も明後日も藍ちゃんと一緒だね!」

 「うん…!」

 「あ! ごめん。藍ちゃん、全然食べれてないね」藍はまだ一口もつけていない。碧は話しながらもパクパクと食べ進んでいたが。

 「あ、うん、そうだね…」言われて初めて藍本人もそれに気づいた。それだけ会話とその内容に夢中になっていた。

 「とりあえず食べよっか」

 「うん…」明後日の献立を考えながら、藍は食べ始めた。


 放課後。教室には、特に用も無いはずの生徒が居残り、思い思いに過ごそうとしている。概ね学級の半数ほどだろうか。その中には河内を含む四人組も入っている。始業式の日から毎日、昼休みや放課後こうして洞の机の周りに集まり話をしている。中学の時はこのような風景を見ても何の感慨も湧かなかったものだが、今は、微笑ましいような、羨ましいような感情をぼんやりと感じていることに気づき、藍は何とも言えない心持ちがした。そしてそれはすぐ隣にいる碧への強い慕情を呼び、藍は碧と手を繋ぎたい衝動にかられたが、そんな衝動に身を委ねることの出来る彼女ではなく、何も行動に移すことのないまま碧に従って教室を出た。

 「神社、歩いて行かない? すぐ近くだし」そんな藍の心の動きなど知らぬ気に碧が言う。実際、知らないだろう。じっと見ていたとしても、他人の心の動きなどそうそう分かるものではない。

 「うん…」少し間を置いて返事した。自分は歩くのが遅いので碧が迷惑するのではないか、いや碧はもうそんなことは織り込み済みで誘ってくれているのだ、と思考を巡らせたからだ。尤も、間が空くのはいつものことで、碧も慣れてしまっただろうから、特に不審に思われることも無かろう。

 「もうだいぶ咲いてるかなあ」階段を降り始めた碧が期待たっぷりに言う。

 「暖かいもんね…」一段遅れて藍も降りる。始業式の日に咲き初めだったから、少なくとも五分くらいにはなっているだろう。

 「ところで藍ちゃん、部活はやっぱり入らないの?」

 「うん……碧ちゃんはもう入部届け出したの…?」

 「うん、贄さんには出したよ! どこまで処理されてるのかは分かんないけど」担任の贄教諭については、今のように『贄さん』という呼び名が学級内に浸透している。誰かがそう言ったのがそのまま定着したものだ。因みに、「に()さん」と「え」を強めに発音する。

 「部活っていつから始まるの…?」

 「正式には再来週の月曜からだけど、先輩たちはもう練習してて、来週からは参加したかったらしてもいいんだって」

 「じゃあ月曜から…?」

 「うん、そのつもり!」

 「あの……」

 「うん」

 「部活の間、待っててもいい…?」

 「?」

 「あの、碧ちゃんと…一緒に帰りたいから…」

 「そうだった! ごめん、藍ちゃん!」突然世界が色を失ったように藍には感じられた。来週からは一緒に帰れない。部活紹介の時から恐れていたことが、現実になってしまったか。朝と昼休みを一緒に過ごせるだけでも良しとすべきと頭では分かっているが、心の方はそんなに物分かりがよくない。

 「うん……」努めて感情を表に出さぬようにし、何とかそれだけを口にした。

 「わたし、藍ちゃんは待っててくれるって勝手に決めつけてた!」

 「え……?」

 「藍ちゃんの都合全然考えてなかったよ……ごめんね!」

 「え、ううん……あの、じゃあ……」自分の表情がぱあっと明るくなるのを感じる。

 「うん、藍ちゃんが待っててくれるとうれしい!」

 「うん…! ……あの、でもどっちに出るの…?」水泳部とスキー部のどちらの練習か、ということだ。

 「うーん、それはまだはっきりローテが決まってないんだけど、とりあえず月曜は水泳部の方に行くって連絡したよ」

 「水泳部ってどこで練習するの…?」松本高校のプールは当然ながら屋外型だ。七月後半くらいにならないと水が冷たくて入れまい。

 「基本体育館で、ランニングだけ運動場だって」

 「碧ちゃん、普段もプール行ったりするの…?」

 「木曜に行ってるよ! 弘法山の近くのプール。今後曜日が替わる可能性はあるけど」松本市営の運動施設で、上がジム、地下がプールになっている。

 「え? じゃあ昨日も…?」

 「うん、あの後行ったよ! 一回家帰ってから」藍と松本駅前で別れた後のことだ。

「今度藍ちゃんも一緒に行ってみない?」

 「え…でも私、泳ぐのもすごく下手だから…」下手というのは正確ではない。泳ぐこと自体は問題なく出来るのだが、手足の回転がとても遅いのだ。つまり、沈まないがなかなか進まない。いずれにせよ、碧や他の客の迷惑になることを藍は危惧している。

 「大丈夫大丈夫。遊びに行くと思ってくれればいいから」

 「え……そうなの…?」しかし、物心ついてからというもの、学校以外のプールに行ったことのない藍は、公営プールがどのようになっているか全く知らず、レジャー施設以外のプールでは皆黙々と泳いでいるものと思っていた。

 「うん。泳がずに遊びに来てるだけの子もいるし」

 「…じゃあ、今度一緒に……」

 「うん、行こ行こっ! あー、また楽しみ増えちゃったー」

 「……うん…」

 プールの話題の間に、二人は一階まで降り、校舎を後にし、校門も抜けていた。学校を右手に見ながら、道なりにバス通りへ向かう。ちなみに駅へ向かうバス通りは、こまくさ道路と名付けられている。

 「冬になったら一緒にスキーも行きたいなー!」

 「うん……でも、私スキーしたことないし、運動音痴だから……」長野県の高校生でスキー未経験者というのはなかなか希少だ。

 「わたしが教えるよ!」

 「うん…でも、それだと碧ちゃんが楽しくない…」藍はまだ浮かぬ顔だ。

 「そんなことないよ! 藍ちゃんと一緒にやってみたいの!」

 「…! …うん…」

 「できれば泊まりがいいなあ。昼間滑ってー、夕方温泉入ってー、晩ごはん食べてー、夜話(はなし)してー」碧は中空を見ている。想像を膨らませながら話しているに違いない。

 「うん……」夕方温泉以降の部分を想像して、藍もうっとりしてきた。

 「よし、勉強がんばろう!」

 「?」唐突な話題変更に藍は戸惑った。

 「藍ちゃんと地獄のスキー合宿のために、それなりの成績取らないと!」なるほど。

 「うん、そうだね…でも、地獄は、ちょっと……」

 「あ、ごめんウソウソ。合宿の枕詞がつい出ちゃった。極楽のスキー合宿」地獄の対義語を天国ではなく極楽とする辺り、またしても乙女の語彙としてはアウトではないだろうか。

 「地獄って合宿の枕詞なの…?」尤もな問いだ。

 「うん、ほらー、スポーツマンガとかであるじゃない。『地獄の』合宿で特訓して主人公が強くなるみたいな」確かにありがちだ。が、

 「…そうなんだ……」残念ながら、藍はほとんど漫画を読んだことが無い。しかも、スポーツに興味も無い。そんな彼女が合宿だの地獄の特訓だのいう言葉に反応しないのは至極当然と言える。

 碧も自分の盛り上がりが空回りだと気づいたのか、

 「キャンプにも行きたいなあ」話題を変えた。

 「え…寒そう……」スキーからの流れで、雪山でテントを張っているところを想像した。

 「あ、夏夏! 寒い中テントでぬくぬくするのも悪くないけど、やっぱり暑い時に涼しいところでキャンプするのが楽しいよね!」

 「碧ちゃん、キャンプしたことあるの…?」

 「うん、小学校の時毎年連れてってもらってた。って言っても、ついてってただけで、テント張ったこともないんだけど。藍ちゃんは?」

 藍は無言でかぶりを振った。

 「今度お父さんからテント借りて試しに張ってみるよ! …や、せっかくだから藍ちゃんも一緒にやってみよ!」

 「え…うん…」

 「大丈夫、すっごい簡単そうだったから!」

 「うん…あの…でも、どこで…?」

 「家の庭かな!」

 「あ、なるほど……」それなら安心だ。知らない人に見られることは無いだろう。

「キャンプってどういうことするの…?」

 「決まりはないけど、バーベキューとか、ハイキングとか、川遊びとか? 何するかは何したいかで決まるかな。藍ちゃんだったら何したい?」

 「え…と…景色のきれいなところで散歩…かな…?」藍は、運動が苦手で読書が好きなのだが、決して屋外が嫌いという訳ではない。

 「いいね、それ! じゃあ場所の選定が重要だね。今度一緒に探そ!」いつの間にか行くことが決定されている。

 「うん…」頷きながら、藍は不思議な心地を感じていた。生まれて十六年弱、遊びの予定が入ったことはほとんど無い。記憶にあるのは、小学三年の夏休み、級友の母親に引率されて行った遊園地が最後だ。それ以降、もちろん遊ぶことは数多くあったが、それはその日その日に決まるもので、先々の予定として入るものではなかった。それが今、僅かな時間で三件も入ってしまった。具体的なことは決まっていないが、計画が話だけで立ち消えになりそうな気は全くしない。思えば今日の梨乃宅宿泊から明日の乗馬見学、明後日の弘法山から碧との夕食も同じように決まった気がする。

 「あれ? イマイチ?」気乗りがしない返事と判断されたのか、少し落胆した様子で碧が訊いてくる。

 「え…? ううん」慌てて否定し、

「ちょっと、不思議な感じで……」

 「?」

 「うまく言えないけど…スキーとかキャンプとか、今まで考えたこともなくて……」

 「そっかー。ま、やってみないと面白いかどうか分からないよ! わたしに付き合うと思って、ね!」

 「…うん……」何か言いたいが、しかし何と言っていいか分からず、神社の向かいまで少しの間黙って歩いた。

 「おーっ、咲いてるね!」信号待ちで足を止めた碧が楽しげな声をあげ、

 「うん……!」半歩遅れて立ち止まった藍も、彼女にしては大きな声で応えた。

 二人が今いるのは城山公園入口交差点の南東角。ここから、こまくさ道路を挟んで石垣とその上の玉垣、その奥に木立が見える。社殿が見えないのは、木立に隠れているのだろうか。そして、その木立の外縁に立つ桜は見事に咲いた花を枝いっぱいに付け、その一本を歩道に伸ばして、遠目にも存在感を放っている。

 信号が変わり、道を渡って、二人はその枝の下で立ち止まった。見上げると、薄紅色の花びらが、春らしく霞んだ空によく映えている。

 「これって桜だよね?」

 「うん…」

 「花びらがいっぱいついててゴージャスだね!」

 「うん」

 「鹽竈(しおがま)神社だって。難しい字だね」枝の向こう側にある看板を碧が読んだ。難しいのに読めたのは看板に読み仮名がふってあるからだ。

「では中にお邪魔しますか」

 「うん…!」

 敷地沿いに右折すると、玉垣が一部切られており、道祖神と歌碑が置かれているのが目に入った。碧がその前で立ち止まったので、藍もそうする。

 「道祖神ってなんかかわいいよね」道祖神は今も、主にあちこちの交差点の脇に配されており、旧信濃國(しなののくに)に当たる地域の人々にとって、身近な存在だ。多くの場合日本人形のような姿に穏やかな表情の鴛鴦夫婦として岩石に浮き彫りされている。雛人形を四頭身くらいにして立たせた感じと言えば近いだろうか。

 「うん…」

 「昔の人もこんなにイチャイチャしてたのかなあ」目の前の道祖神夫妻はぴったりと寄り添っている。手をつないだり抱き合ったりはしていないが、碧の基準はこれでもイチャイチャなのだろう。

 「おしどり夫婦っていう言葉もあるくらいだから、そういう人もいたんじゃないかな…」仲睦まじい夫婦を指す言葉と藍は理解しているが、実際には鴛鴦は毎年交配相手を替えるので、昔の人がその生態を知っていたのだとすれば、かなり意味深な言葉である。

 「なるほど、そうだね! じゃ、わたしたちもイチャイチャしよっか!」

 「え……」碧は返事を待たず、藍の右手を取り、歩き出した。慌てて隣に並び、藍はそっと碧の手を握った。

 歩道から僅か二段の石段を登り、軽く頭を下げて鳥居をくぐる。鳥居の奥にも二段の石段がある。その石段も登って、桜の下へ向かった。

 満開直前といったところか、さほど太くない幹から伸びる枝は一本残らず花と葉に覆われ、冬枯れていた頃の細さが嘘のようだ。木自体があまり大きくないため、その枝は藍の頭のすぐ上にある。

 「こういう桜もきれいだね」

 「うん…」

 「何ていう種類?」

 「八重桜なのは間違いないけど、詳しい種類は……」頭上の花から視線を外して彷わせると、根本に標識を見つけた。

「あ、しおがま桜だって…」

 「ホントだ~。へー、天然記念物なんだね!」標識を読んだ碧が少し興奮気味に言う。こんな身近な、しかも何でもなさそうな場所に天然記念物を見つけて気分が盛り上がってきたのだろう。

 「うん…」

 「鹽竈神社だからしおがま桜なのかな?」

 「きっと何か関連は…」

 「でもしおがまって何だろう?」

 「うん…後ろの方の漢字はかまどだったけど……」

 「そうなんだ。藍ちゃん、よく知ってるね」大人でも読めない人の方が多いかも知れない。

「となると、しおはsaltかな」

 「うん、多分…」

 「でもやっぱり分かんないや。よし、後でネットで調べよう! 校長、ゴメン」自分で考えた後のことだから、校長も何も言うまい。

 碧は視線を頭上に戻した。それを見て藍も倣う。

 少しの間、黙って桜を眺めた。

 上を向いたまま、何の前触れもなく碧が歩き出した。手を引かれた形の藍も一歩を踏み出す。ちらりと碧の横顔を見てみるが、桜を見上げたまま、碧は二歩歩いただけでまた立ち止まった。碧の意図を理解した藍は、碧と同じところを見詰め、手を引かれるのに任せることにし、繋ぐ手に少しだけ力を込めた。二人は二歩歩いては立ち止まりを繰り返し、二、三分かけて木の周りを一周した。

 「きれいだけど、これ、首が疲れるね…」雰囲気ぶち壊しな台詞で現実に戻って来る。

 「うん……」

 「寝転びたいね」

 「え…それは、ちょっと……」制服に土が付いてしまうし、何より誰かにそんなところを見られたらどうすればいいのか。一m向こうはバス通りの歩道なのだ。

 「あ、今じゃなくて、見上げるなら敷物敷いて寝転んで見れば快適に見れるかな、って」いや、誰が来るか分からない状況で寝転ぶのは、藍にとってはとても快適とは言えない。

「それにほら、なんかオトメな感じしない?」言われて藍は想像してみた。碧と二人、寝転んで満開の桜を見上げる。花の隙間から見える空。秒速五㎝で落ちてくる花びらが、自分達の髪に、服に、繋いだ手に舞い降りる。

 「乙女かどうかは分からないけど…確かに、いいかも……」

 「でしょでしょ~。よし! 弘法山で実践しよう!」

 「え……でも、人、いっぱい来てるよね……」結果を予測しつつも抗議を試みる。

 「多分ね。でも人通りのない所もあるし。無理そうだったらやめよ?」

 「……うん……」予測通りのところに落ち着いた。

 「じゃ、せっかくだから、お詣りして行こっか」

 「うん…」碧は社殿の方へと歩き出した。

 「あ、碧ちゃん」慌てて藍は声をかける。

 「はい?」

 「手、ゆすいでいかないと…」そう言って、手水舎の方を向いた。

 「え、はい…」碧が藍に諭されるのはこれが初めてだ。藍の隣に並んで、藍を真似て柄杓を取った。

 手水の上には金網が被せられ、手前側に腕が通るほどの穴があけられている。

 「こういうの、初めて見た気がするんだけど」

 「うん、私も…あ、鳩が水飲んじゃうからだって…」柱に書き付けが貼ってあるのを発見して読んだ。

 「あー、なるほどー」藍に倣って柄杓に水を汲み、左手、右手の順に濯ぐ。藍がもう一度柄杓を金網の内側に入れたのを見て、同じようにしようとしたが、

 「あれ? 今度はそっちから?」手水鉢に流れ込む水の下に柄杓を差し出して直接汲むのを見て、素朴な疑問の声をあげた。

 「あ、うん…あの、口に入れるから……」礼儀としてこれが良いのかどうか分からないが。

 「そうなんだ。じゃ、お手本を」

 「はい…」柄杓から左手に水を移し、一度口に含んでから水を吐く。

 「水捨てちゃうんだね」

 「うん、水ですすいで穢れを落とすの」

 「あー、神様のところ行くんだもんね」納得した様子で藍の動作を真似た。

「これで準備オッケー?」

 「うん…」

 「では、いざ」いざ、と言いながら藍の後ろに従う構えだ。藍は仕方なく前に立って社殿の前に進んだ。

 「あ、作法が書いてあるね」言いながら早速読んでいる様子だ。

 「うん…」藍はほっとした。碧と二人きりであっても、先頭に立つのは自分には向いていない。書いてある通りにすればいいのだから、ここからはまた碧がリードしてくれるだろう。

 「ところで、これはいつガラガラすればいいの?」鈴の紐を持って訊く。確かに、それについては言及がなかった。

 「え…っと、先でいいんじゃないかな…うろ覚えだけど、鈴で神様の注意を惹くんだったと思う……」残念だが、神社本庁の説明によるとそうではなく、魔を祓うためのものらしい。

 「おー。じゃ、いろんな所で一斉に鳴ったら神様大変だね」

 「うん、そうだね……」そんなことを藍は考えたこともなかった。

 「じゃ、お願いします」

 「え…はい」結局そうなった。ゆっくり、深々と頭を下げ、ゆっくり戻る。碧が隣で同じ動きをしているのを横目で確認して、もう一度礼をした、それから両手を肩幅に開き、柏手を二回打つ。碧がうまく合わせ、きれいに音が重なった。もう一度深々と礼をして、軽く会釈し、お詣りは完了した。

 「いやー、気持ちよく鳴ったね!」

 「うん…」

 「ところで、ここの神様誰だったんだろう?」

 「え…さあ…」

 「よし、それも後で調べよう!」順序が逆だが、成り行きでのお詣りなのでまあ仕方無い。そして、実は手水舎の隣に由緒書きの石碑があったのだが、残念ながら二人とも気づかなかった。

「じゃ、戻りますか」碧が踵を返した。

 「うん…」藍も振り返って碧の半歩後ろを行く。入学式から一週間ほどしか経っていないのに、藍にとって心地いい位置としてすっかり定着してしまった。

 「藍ちゃん、よく知ってるね」

 「え……?」

 「お詣りの作法とか」

 「前神社に行った時、書いてあったから…」

 「そっかー。藍ちゃんのおかげでわたしも今日覚えたよ!」

 「うん…」藍の頬が少し赤くなる。

 「また他のところも行こ!」

 「うん…!」このような浮気を平気で赦すのだから、八百萬の神々は寛大である。

 「今、何時かな?」こまくさ道路に出たところで碧が訊いた。

 「四時五分…」腕時計で藍が確認する。携帯電話があれば時計など不要と言う人もいるが、確認の速さでは腕時計だ。

 「うーん、まだ時間あるね。何かいいとこないかな~」

 「あの、よかったら図書館に行ってみたいんだけど……」藍の反応は普段の三倍くらい速かった。

 「あ、この近くだったね。学校に戻る途中だし、ちょうどいいね!」

 「ありがとう…」

 「ううん。あっ、そうだ! 図書館だったら大きな地図あるよね? 明後日の集合場所検討しよ!」

 「うん…!」

 「藍ちゃん場所分かる?」

 「行ったことないから自信ないけど、確かこの信号渡ってまっすぐ…」二人は城山公園入口交差点で信号待ちの最中だ。

 「オッケー。じゃ、行こ!」ちょうど信号が青になった。

 藍の言葉通り、道なりに進むと右手に図書館が見えてきた。

 「あー、ここもorangeに出てたんだよねー」

 「そうなんだ……」

 「でも主人公が通ってる学校(あがた)あたりなんだよね。ここまで遠いよね」図書館からは道程(みちのり)で三㎞ほどある。

 「うん……」

 「わたしだったらわざわざここまで勉強しに来ないなー」

 「図書館に勉強しに来るの…?」藍は訝しく思う。

 「? うん」

 「本を借りるんじゃなくて…?」

 「本を借りるところは出てこなかったと思う…自信ないけど」

 「家で勉強すれば済むのにね…」入口の自動ドアを抜け、館内に入る。

 「主人公たちが二人で勉強しに来てたんだよね」

 「あ…なるほど……」藍には、これまで誰かと一緒に勉強するということが無かった。考えてみればそれも当然で、藍は中学まで、学校の授業が理解できないということが無かったから、独りで十分だったのだ。もしも彼女に友達がいれば、勉強を教えることは有ったかも知れないが。

 「じゃあ、藍ちゃん本見てきなよ。わたし、地図探してくるから」自動扉を開けたすぐ正面に、本棚の配置図が掲示されており、碧はそれを眺めながらそう言った。

 「え……?」

 「どんなのがあるか見たかったんでしょ?」

 「え…うん……」一度別れると合流出来ないような気がして、藍は不安になった。

 「あ、奥にたたみ部屋ってのがあるね。4時半ここ集合でどう? 短い?」しかし碧がそんなことを知る由もなく、話が進む。

 「ううん…」

 「じゃ、また後で!」右手を軽く挙げて、碧はさっさと行ってしまった。自分に気を遣ってくれたのは間違い無い。

 藍は一覧で西洋古典の本棚を探し、そちらに向かった。

 予想通り、蔵書は豊富だ。中学校の図書室に置いてあった古典は和洋どちらも全て読破していた藍だが、ここの本棚には、読んでいないどころか題や作者すら初めて見る本が寿司詰め目白押しになっている。

 しかし、普段ならば目を輝かせて渉猟に入るこの環境で、今は全く胸がときめかない。そのことを心ではなく頭で認識した時、藍は自分で自分に驚いた。本を前にして心が浮き立たないということなど、今まで一度も無かったのに。

 尤も、その原因ははっきりと分かっている。碧だ。さっきまで一緒だった彼女が今は傍に居ない、ただその一点だ。最初から独りで来ていたのなら、どの本から手をつけるかで楽しく悩んでいただろう。それには確信がある。

 早く切り上げて合流したいが、あまり早く戻っては気を遣ってくれた碧に申し訳ない。とりあえず本棚を一通り眺めて目ぼしい本の当たりだけをつけ、集合場所のたたみ部屋に向かった。

 碧は既に住宅地図を見つけており、大きなその地図帳を机上に広げて、目的のページを探しているところのようだった。藍が部屋の入口に来て腰かけると、

 「あ、速かったね。もう見てきたの?」

 「うん……」

 「いいのあった?」

 「うん…たくさんありすぎて困るぐらいだったよ…」

 「そっか、よかったね!」

 「うん…」努めて明るく元気よく答えた。

 「じゃ、こっちの検討に入りますか」

 「あ、でも、ここおしゃべり禁止だって……」部屋の外壁の貼紙にそう書かれている。

 「え、そうなの? じゃ、上行こっか」いつの間にか碧は図書館内の配置を把握していたらしい。

 「うん…」

 碧は素早く靴を履き、先頭に立って三階へ向かった。三階にいたのは数人だけで、二人は気兼ねなく地図を広げた。

 「藍ちゃんの家、渚だったよね? どの辺?」地図を藍の方に寄せながら訊く。

 「駅の近く……ええと、ここ…」少し地図を眺め、人差指を置いた。

 「わ、ホントに近いね!」

 「うん…歩いて五分もかからないかな…」成人男子の足なら二、三分というところだ。

 「で、わたしの家がここで、弘法山がここだから…」

「あっ! そうだった、忘れてた~。あのね、弘法山の手前の坂がすんごい急なの。距離はちょっとだけど。自転車押して上がるの大変だと思うんだけど、藍ちゃんそれでも自転車で行く? よかったらわたしの後ろに乗っていってー。最後以外は坂じゃないから、わたしは全然平気~」

 「あの、学校の手前とどっちが急…?」

 「弘法山。多分城山の坂よりキツいよ」

 「そうなの…? じゃあ、押しても上がれないかな…?」

 「うーん、かも」全く上がれない訳ではないだろうが、かなりの時間を要すのは間違い無かろう。

 「じゃあお願いします……」

 「うん! じゃあ藍ちゃん家に迎えに行くね!」

 「え…悪いよ…途中まで歩いて行くから…」

 「いいのいいの! 自転車だったらすぐだよ!」碧の言う通りだ。相生邸から青井邸までは二㎞余り、高低差はほとんど無く、経路次第で信号は一つも無い。碧ならば十分足らずで着くだろう。だが、中間地点まで藍が歩くとなると、二十分では収まるまい。

 「何か、碧ちゃんに全部押しつけちゃって……」

 「えー、全然そんなことないよ! 晩ごはん藍ちゃんに作ってもらうんだし!」

 「うん……」

 「そう言えばおなかすいてきたなー。今、何時?」

 「四時三十五分…あの、そろそろ学校戻った方が……」もう七時間目も終わっている時刻だ。教職員が残っている以上、校舎が施錠されるということは無いはずだが、遅くなると不安は有る。

 ちなみに、松本高校は、月水金六時間、火木七時間という時間割を採用しており、必要に応じて土曜午前中が授業となることも有る。

 「うん、そうだね!」碧が地図を閉じて立ち上がり、藍も続いた。

 階段を降りる数歩前で碧が立ち止まり、

 「わ! ここいい眺めだね!」少し大きな声を上げた。

 「ホントだ……」藍も隣で止まった。

 二人の正面にはさほど大きくはない窓があり、左前方に和洋折衷の白亜の建築物、正面やや右に水色の洋風建築が建っているのが見える。いずれも二階建てだ。白亜の建物の手前には立派な桜が一本、見事に花を咲かせ、正面奥の方では松本城の天守が威容を誇る。そしてそれらすべてが斜陽の、少し寂しい光に染められている。

 「ここって開智学校の裏なんだね」

 「うん…」その白亜の建物が開智学校だ。

 「あっちのかわいいのは何かな?」水色の建物を指差して碧が訊く。碧の言う通りかわいい感じの木造建築で、カフェだと言われればしっくりくる。

 「さあ……」

 「今度行ってみよ!」

 「うん…!」

 夕景の名残を惜しみつつ二人は階段を下り、地図を元の場所に返して図書館を後にし、学校ヘ向かった。

 碧の速さにつられ、早く戻らねばという危機感も手伝って、藍は普段の三割増しくらいの速さで歩き、五時前には校舎に着いた。夕方の赤っぽい光が、下駄箱の辺りにも差し込んでいる。

 上履きに履き替え、廊下に出てみると、かなり暗くなってきていた。校舎は敷地の北の端に位置しているのだが、元々斜面であったところを削って学校を作ったため、学校敷地と北側の道路とでは五m以上の高低差があり、校舎一階の数m向こうはコンクリートブロックで被われた崖になっている。つまり、一階廊下は暗くなるのが早いのだが、まだ照明は点灯していなかった。

 「藍ちゃん」階段を前にして碧が立ち止まり、左手を差し出してきた。

 「うん…?」

 「手、つないで」

 「うん……」言われるままに碧の手を取り、隣に並んで、藍は階段を登り始めた。これまでとは逆に、碧が藍についていく形になっている。

 「藍ちゃん、暗いの怖くない?」

 「え…うん、これくらいだったら…碧ちゃんいるし…」

 「わたしこういうのダメ。なんか不気味で」窓の並ぶ廊下はそれでもまだ多少明るいが、昼間でも薄暗い階段は夕暮れに近付いて暗さを増し、確かに少し不気味な感がある。死人が出るわけでもない学校が病院と並んで怪談の本場とされるのも、こういった雰囲気に包まれれば頷けるところだ。

 しかし二階に上がると、廊下の窓や教室からの光のおかげで、不気味さは急に薄らいだ。

 教室に着いてみると、毎日最後まで教室に残っているらしい河内たち四人組ももう教室には居らず、二人は荷物を取ると、さっさと教室を出た。

 下りの階段でも碧と手を繋ぎ、怖がっている碧には悪いが、藍は何だか得したような気分になった。

 そうして二階を通り過ぎ、踊り場に差し掛かろうかという辺りで、一階からキー、バタンと扉の閉まる音が響いてきた。

 「ひゃっ!」碧が小さく跳び上がる。

 続いてペタリ、ペタリ、という音が近づいてくる。

 碧が強く手を握ってくる。普通に考えれば、誰か教師が職員室から出てきて廊下を歩いているのだが、明らかに碧は普通の状態ではない。

 藍は身体半分碧の前に出て、階段を降りた。怖がって降りたがらない碧を引っ張って踊り場で半回転すると、果たして、階段の下に校長がいるのが見えた。

 「あ、校長先生……」

 「おや、君たちか。今日は六時間で終わりだろう? ずいぶん遅いな」

 「え…と…」

 「しおがま神社と図書館に行ってたんです」校長と知って急に平静を取り戻したらしい碧がいつの間にか藍の隣に立っていた。

 「そうかね。神社の桜はもう満開になってたかね?」

 「だいぶ咲いてました!」

 「それはよかったね。私も行ってみるかな。で、学校に忘れ物でもしたかね?」

 「実は、このあと待ち合わせがあって、荷物を教室に置いて行ってたんです。ここの卒業生で、高辻さんて人なんですけど」

 「二年前の卒業生の?」

 「はい! 先生卒業生全員覚えてるんですか?」

 「いや、さすがに全員は無理だよ。高辻君は成績優秀だったからね」

 「えー、やっぱりですか。信州の医学部ですもんね」

 「君たちは高辻君と知り合いだったのか」

 「制服作った店でバイトしてて、店で話し込んでるうちに」

 「ほう」

 「で、今日泊めてもらうんです。明日乗馬の見学に連れてってもらうんですけど、朝早いからって」

 「ははあ、それでその大荷物か」藍の背負った背嚢を見ながら納得し、「それはまた仲良くなったものだね。そうか、高辻君がなあ。まあ、待ち合わせ場所まで気を付けて行きなさい」

 「はい! 失礼します!」

 「失礼します…」碧に少し遅れて藍も会釈した。

 下駄箱で靴を履き替えて校舎を出た二人は、自転車置き場へ向かう。太陽はもう西の丘の向こうに消えているが、その向こうの地平線の彼方に沈んだわけではなく、宵闇が降りるまでは今暫く時間があるようだ。

 「階段、暗すぎだよね? 電気つけてくれたらいいのに」

 「うん…足踏み外しそうで危なかったね……」碧の期待した方向と違う回答をしたことに、藍はもちろん気づいていない。

 「あ、や、うん、そうだね…。藍ちゃんがいてくれてよかったよ」

 「え…?」

 「一人だったら上まで行けなかったか、パニックダッシュのどっちかだったよ」猫が時折見せるパニックダッシュだが、人間においてもお化け屋敷などで観察されるのは御存知だろう。

 「碧ちゃん、お化けとか平気なのかと思ってた…。怪奇小説好きって言ってたし…」

 「いや、好きなんだけど、でも怖いの」程度の違いはあれ、こういう人は多いと推測される。

「一回スイッチ入るともうダメ。フリーズかパニック」

 「霊感とか強い方…?」

 「ううん、霊体験とか全然ないのにね。いやー、ホント藍ちゃん頼もしい」

 「え…そんなことないよ…」碧ちゃんの方が頼もしい、と言いたいところだが、さすがにこの件に於いてはそんなことは言えなかった。

 「あるある! 暗いとこではまたよろしくね!」明らかに迷惑かける宣言だが、

 「うん……」藍にとっては寧ろ有り難い。

 「藍ちゃんは霊感ある方?」一段落かと思われた話題が引っ張られた。

 「ううん、全然……」

 「金縛りとかは?」

 「一回も……」

 「わたしと同じかー」科学的には、金縛りはレム睡眠時の自覚症状として説明されている。レム睡眠は言わば半覚醒の状態であるから、毎日規則正しく早寝早起き、ぐっすり眠ってぱっちり目覚める生活の二人が金縛りに遭う確率はかなり低い。

 「ね、藍ちゃんは幽霊っていると思う?」

 「え……分からないよ…」正確には、興味を覚えたことがないので考察したことも無い、だ。

 「わたしはいると思うな!」

 「え…そうなの…?」藍は何となく、碧は非科学的なことを信じない人だと思っていた。怪奇を好むのは、現実には起こり得ないことへの憧憬なのだろうと。

 「うん! 幽霊だけじゃなくって、魂とかそういうの全般。今の科学ではまだ解明できてないだけで、何か合理的な説明ができると思うんだ」

 「…なるほど…」藍の想像の一歩先を行く科学の人だった。

 二人は駐輪場に着いた。藍から学生鞄を受け取って自分の鞄と一緒に前籠に入れ、解錠してスタンドを跳ね上げ、碧は自転車を押し始めた。藍もすぐ隣を行く。

 「でもコワいもんはコワいんだよねー」それはそうである。

 「うん…そうだね…」藍は、碧にもそんな弱点があると知って、安心したような、得したような、嬉しいような、変な気持ちを覚えていた。そして同時に、今まで頼もしい一辺倒だった碧のことを、初めて可愛らしいと思った。自分も怖がりな方だと思っていたが、世の中上には上がいるものだ。

 校門を抜けたところで碧がサドルに跨った。藍ももう慣れたもので、登り坂だが何も言わず荷台に座り、碧の腰に右腕を軽く巻き付けた。右腕だけにしたのは、碧が動き易いようにとの配慮である。最初は登り坂なので力を籠める必要があるという判断だ。

 碧もその気遣いを察し、少し大きく上体を振って漕ぎ始めた。藍の右手が、腹筋の隆起を感じる。

 突き当たりまで百数十メートル、碧にとってさほどの傾斜ではなく、後半は身体を振ることもなくあっさりと登りきった。突き当たりで止まることなく、流れるように右折して、学校の北側を通る道を東に向かう。碧の身体から力が抜けたのを感じ、下りに転じたことを察知して、藍は左腕も添えて碧の腰にしがみついた。もうすっかり二人乗りにも慣れ、本当はしがみつかずともバランスを崩さない自信は有るのだが、それは内緒だ。

 道は、右に左に大きく曲線を描きながら、緩やかに、しかし一方的に下っていく。快く車輪は回り、夢のように景色と時間が過ぎて、藍は自転車の減速を感じた。

 自転車が停止したのは、銀行らしい建物の前の駐車場だった。建屋の庇には「松本信用金庫北支店」の九文字。隣には今通り過ぎたばかりのコンビニエンスストア。間違い無く、ここが梨乃指定の待ち合わせ場所だ。

 「ここだね!」

 「うん…」後ろ髪引かれる思いで碧の腰から腕を離し、時計を見てみると五時二十八分。指定の時刻に間に合った。

 荷台から降りると碧が自転車のスタンドを立て、二人は並んで道路の方へ向かった。

 「大学ってあっちだよね」左の方を見ながら碧が訊き、

 「うん…」自信は無いが、そちらの方だったと思う。

 「あ、自転車曲がって来たよ。あれかな?」道はずっと向こうで突き当りになっている。その突き当りの左の方から自転車が一台こちらに向いて曲がって来たのだが、遠過ぎて、眼鏡をかけている藍にも、それが梨乃なのかどうかは分からない。しかしみるみるうちに自転車はこちらに近づいてきて、一つ向こうの信号に達するころには、それが待ち人であると分かった。

 「やっぱりそうだね! おーい、梨乃さーん!!」碧が頭上で両手を大きく振って梨乃を呼ぶ。向こうもそれに気づいたらしく、左手を軽く振って応えてきた。

 それから一分もしないうちに梨乃は二人に合流した。

 「梨乃さん、速いですね!」

 「え? ギリギリ遅刻じゃない? ごめんね、ガイダンス長引いちゃって」

 「じゃなくて自転車! 漕ぐの速いですね! 登りなのに」確かに速かった。

 「そう? 毎日漕いでるから慣れちゃったかな?」

 「やっぱり一年通うと慣れますか?」

 「そうだね。…自転車は一年だね」

 「?」「?」

 「後で話すね。横通るから」

 「はい」「はい…」

 「で、今日の晩ごはんなんだけど」

 「はい」「はい…」

 「今から外食です」

 「そうなんですか?」と碧。

 「うん。今日ごはん作るのめんどくさいというか、せっかくだから三人で話したいからね」

 「…梨乃さん、毎日晩ごはん作ってるんですか……?」

 「大体作ってるね。今年からは難しそうだけど」授業で帰宅が遅くなるから、ということだろうか。

「で、ちょうど隣に四、五軒とすぐそこに一軒あります」梨乃の言葉通り、金網の向こうの敷地には飲食店が並んでおり、その斜向かいにも定食屋らしき建物の看板が光っている。

「私のオススメは手前のカレーか向かいの山賊焼。と言うか、ほかは行ったことないから分からないのよねー。カレーと山賊はどっちもおいしいよ」山賊焼は塩尻発祥の松本平名物で、平たく言うと鶏の竜田揚げなのだが、衣や肉に下味をつけて、普通の竜田揚げとは違う風味になっている。下味が店によって違うので、一口に山賊焼と言っても、味の幅は広い。

 「はい! 先生!」

 「うむ、相生君」

 「山賊! 山賊がいいです!」

 「うん。藍ちゃんは?」

 「…私も……」正直なところ、どちらでもいいので、碧に左袒した。

 「よし、じゃあ行きましょう。早く行かないとすぐ満席になるからね」

 梨乃を先頭に自転車を押し、数件の店を通り過ぎて目的の店の向かいで止まる。店はごく普通の民家のような建物で、壁に「お食事処 源太」の看板が光っていなければ飲食店だとは思われないだろう。

 車の流れが途切れるのを待って道路を横切り、店舗前の狭い路肩に無理矢理自転車を置くと、梨乃は店の扉を開け、中に入った。碧、藍の順で後に続く。

 小ぢんまりとした店で、コンクリート打ちっぱなしの土間と、奥の座敷に二卓ずつ食卓が置かれているが、入ってすぐ左手にある食卓には食材を収めた箱が置かれ、実際の収容人数は十四、五人というところだ。時間が早いせいだろうが、店内に客の姿は無い。梨乃は迷わず奥に進み、靴を脱いで座敷に上がると、靴を脱いだそのすぐ目の前に席を占めた。必然的に二人の席はその向かいということになる。

 「荷物貸して」梨乃が両手を伸ばしてきたので、

 「すみません…」背嚢と学生鞄を渡す。梨乃は、自分の右側の空席に荷物を置いた。

藍は右奥の角に座った。

 「ありがとうございます!」碧も荷物を渡し、藍の隣に座る。

 その時、藍は梨乃の気遣いに思い至った。碧が右で藍が左と暗黙の諒解通りになっているのは偶然だとしても、背嚢と学生鞄を置くための場所を確保し、且つ他の客が来ても接点が最小になる席が自分に割り振られたのは間違い無い。他人、殊に面識のない相手とは挨拶すら苦手だということを言葉にして伝えた訳ではないが、当然梨乃は分かっているだろう。そして、自分の気遣いを全く表に出さない。悟られないゲームでもしているかのようだ。それがとても恰好良く思え、梨乃に対する憧れが湧き上がってきた。結局自分はその気遣いに気づいた訳だが、ここは気づかない振りをするのがいいだろう。藍は礼を言いたい気持ちを抑え、何も言わぬことにした。

 「梨乃さん、さっき言ってたガイダンスって何ですか?」梨乃の気遣いなど全く知らぬ()に碧が話を進めた。いや、藍の見るところ、碧の方が自分より鋭いから、藍同様、気づいていないふりをしているのかも知れない。

 「ああ、大学でね、どういう時間割でどの授業をやるか、どういう内容の授業か、なんてのをまとめて最初に説明するの」ここで、

 「いらっしゃーい」女将がコップに水を入れて持って来た。

 「山賊定食普通盛3つお願いします」梨乃が軽く振り向いて女将に告げ、

 「はい。山賊定食三つですね」復唱して女将は戻り、「山賊三つ!」と厨房に向かって告げた。

 「なるほど~、親切ですね!」

 「高校より授業の数が多いからね。全部取れるわけでもないし」

 「受けたいのを選べるんですか?」

 「必修と選択があって、選択は理科とか社会とかの枠内ならどれ取ってもOKだよ。二年になったら必修ばっかりだったけど」

 「何が必修なんですか?」

 「学部学科で違うよ」

 「あ、そっか」

 「うん。私が1年の時は数学物理化学生物と英語、第二外国語だったかな。実際にはもうちょっと細かく分かれてるんだけどね」

 「第2外国語って何取ってたんですか?」

 「ドイツ語。医学部は全員ドイツ語だったんじゃないかな」

 「へえー、何か理由があるんですか?」

 「昔は医学と言えばドイツだったから、その名残かな。カルテもドイツ語で書いてたらしいし。工学部も似たような理由でドイツ語取る人多いらしいよ」

 「ドイツの科学力は世界一ィィィ、ってことですか?」右手を指先まで伸ばし、約八十度の角度に上げて言う。

 「かな。今はそんなに差はないんだろうけどね」

 「やっぱ梨乃さんかっこいいね! 女子大生だよ、女子大生!」

 「てそっちは女子高生でしょ。世間的には女子高生の方が価値が高いのよ」この言葉が真実であるかどうかは意見の分かれるところであろう。

 「あっ、そうだ! 梨乃さんに質問が」

 「うん、なあに?」

 「女子高生にあたる英語ってありますか?」

 「highschool girlじゃない?」

 「やっぱりですか。それだとなんかこう、ちょっとイメージが違うというか」

 「生徒ってニュアンスが感じられない?」

 「はい。梨乃さん、よく分かりますね!」

 「何となくね。英語にはそういうニュアンスでしかも気の利いた言葉はないかな。フランス語だったらぴったりなのあるけど」

 「え、ホントですか!? 教えて下さい!」

 「なんかすごい執念ね。lycéenneっていうんだけど」

 「りせえんぬ?ですか?」

 「エとアの間でエ寄りの音かなあ。最後はヌとンの間くらい。綴りはこうで、複数形は最後にsがついて発音はヌがネになる感じかな。高校がlycéeで、男子生徒はlycéen」手許の鞄から手帳を取り出して書きつけ、碧に渡した。碧は藍とその紙を覗き込む。

 「コメディアンとコメディエンヌみたいな活用ですか?」

 「そうだね、男女の区別があるね」パリとパリジャン、パリジェンヌも同じだろう。

「ところで、そのこだわりの源は?」

 「やー、大したことじゃないんですけど。自分が高校生になってみて初めて思ったんですけど、女子高生って言葉かわいくないじゃないですか」

 「うん、オジさんのエロさみたいなものを感じる言葉だね」口を挟みはしなかったが、藍も心の中で頷いた。

 「JKもかわいくないし。しかもなんか頭悪そうだし」再び心の中で頷く。

 「せめてHgならまだねえ」もちろん水銀とは関係無い。

 「で、なんかいい言葉ないかなって」本当に大したことない話だった。

 「なるほどね」

 「リセエンヌって、最後の『ヌ』がかわいいですよね! 梨乃さんにきいてよかったです~」

 「役に立ててよかったわ」

 「藍ちゃん、これからは女子高生じゃなくてリセエンヌだよ!」

 「うん…」フランス語など恥ずかしいが、碧と一緒の誘惑には逆らえない。

 「私はもうリセエンヌじゃないけどね」

 「えー、梨乃さんだったら余裕で通用しますよう!」確かに、年下の藍から見ても梨乃は可愛らしい。こうして話していると、四つも上だというのが不思議に思えてくるくらいだ。

 「通用するかどうかは問題じゃないの。卒業した人が舞台や撮影以外で制服着るのは重罪なのよ。全国に指名手配されて、海外に逃げてもインターポールに追われるの」言うまでも無く嘘であるが、真剣そのものの表情で梨乃が語る。

 「怖っ!」

 「判例では、一番刑の重かった人で無期懲役よ。しかも噂では、その人今でも刑務所で一人だけセーラー服を着せられているとか」よくもまあこんな下らない作り話を瞬間的に思いつくものだ。

 「うわ、それは恥ずい!」

 「分かったらこの話はここまでよ。今だって壁の向こうで制服Gメンが聞き耳を立てているかも知れないわ」ここまでと言いながら話を引っぱっている。

 「怖っ!」二人のやり取りが悪ふざけだということは藍にも容易に判るのだが、そこに入っていくことは出来ない。自分にもっと笑いの感覚があれば可能だったのだろうか。

 「いいえ、もしかしたらあなたの隣にいる人が制服Gメンかも」突如、自分に火の粉が降りかかってきた。

 「え……」え、としか言葉が出てこなかった。

 「そんな…藍ちゃんがスケバン刑事(デカ)だったなんて…」

 「え…すけばんでか……?」

 「昔そういうマンガがあったの。私は読んでないけど」テレビドラマ化もされ、当時は一世を風靡した。

 「わたしちょっとだけ読みました!」

 「とにかく卒業したら制服着ちゃダメってのは分かってもらえたわね」何ら筋の通った説明をせず強引に捻じ込んできたが、

 「はい!」「はい…」梨乃の迫力に押された。

 「私がリセエンヌを名乗っちゃダメなのも」

 「分かりました! じゃあ梨乃さんはリノエンヌで!」はっきり言ってJKより頭の悪そうな名付け方だ。

 「いいわね」自分だったら全然良くないが、藍はここでも発言を控えることにした。

 「お待たせしました」時機よく女将がご飯と味噌汁を運んできた。

「すぐ定食もお持ちしますねー」空の盆を片手に一度厨房へ戻り、今度は大きな盆を持ってやって来た。

 大きめの皿一枚に山賊焼と千切りキャベツ、プチトマトに豆腐少々が載せられていて、全部合わせるとかなりの量だ。高校生男子、いやlycéenにとってはもの足りないかも知れないが、そういう人のために中盛、大盛、特盛とあり、特盛を頼むと普通盛の倍の肉が載ってくる。

 全員に皿が行き渡るのを待って梨乃が両手を合わせ、

 「じゃ、頂きましょう!」

 「いただきます!」「いただきます…」

 全員がまず山賊焼きに箸をつけた。

 「うわ、おいしい!」

 「…うん…!」

 「でしょ。私が食べた中でここが一番おいしいのよね。しかも安いし」三人の食べている普通盛で五百八十円、特盛でも九百八十円だ。駅前の居酒屋なら単品でも七、八百円くらいする。

 「こーれはソースかなー」一口食べて、碧がソース瓶に手を伸ばす。

 「私は醤油も好きだな」梨乃は醤油瓶を取る。

「どっちも違った味でおいしいから、ちょっとずつかけて両方食べるといいよ」

 「なるほど~」ソースを少しだけかけ、今度は醤油を取る。

 「藍ちゃんは? どっちがいい?」

 「え…と、私も、両方……」とりあえずソースを少しかけ、一口食べる。

「碧ちゃん…」

 「うん」

 「それ以外にもまだ食べられる…?」

 「全然余裕! そっか、藍ちゃんには多いよね」藍の弁当の五倍はある。夕食であることを考慮しても、藍にとっては多過ぎる。

 「うん……」

 「好きなだけ食べて、あと置いといてくれたらわたし食べるよ」

 「え…と、じゃあこれだけ……」そう言って皿の端によけたのは山賊焼二切れ、キャベツ四分の一、プチトマト一つと豆腐一切れ。

 「えっ、それだけ?」碧が驚いた声をあげる。

 「うん…いつも、これくらいだから…」

 「そうなんだ…」碧が驚くのも無理は無い。本当に幼児並の量だ。幼稚園児でももっと食べる子はいるのではないか。

 「基礎代謝少なそうだもんね」

 「それ何ですか?」

 「運動しなくても消費するカロリー量。ざっくり言うと筋肉の量で決まるかな。アオエンヌが食べても太らないのは、筋肉を維持するのにエネルギーを消費するからよ」

 「アオエンヌ!」してやられたという感じの声をあげてから、

「確かにわたし筋肉ある方だと思いますけど。体重重いし」

 「えっ、重いの…?」藍は驚く。碧が筋肉質なのはよく知っているが、どう見ても重そうには見えない。

 「うーん、聞いたらビックリすると思うよ」

 「え、どれく」食いついた藍を梨乃が遮り、

 「アイエンヌ、それはこういう所で口にすることではなくってよ」隣の卓を見るよう目で促した。ちょうど、大学生かと思われる男子四人組が、梨乃の隣を通って席に着かんとするところだ。

 「あ…はい…すみません……」

 「その話は(わたくし)の部屋でゆっくりするとして、温かいうちにお上がりなさいな。冷めると風味が落ちてしまってよ」リノエンヌはお嬢様語という設定のようだ。

 「そうですわね」「はい…」碧もそれに乗っかるが、藍には恥ずかしくてそんなことは出来ない。

「アイエンヌ、せっかくだから、入るならもう少し召し上がった方がよくってよ」と碧。

 「うん…それじゃ、もう一つ…」

 「うん! じゃ、こっちの方もらってくね!」自分の皿にまだ肉が載っているのに藍の皿へ箸を伸ばすのはとても行儀の悪いことだが、藍にはそれが自分を安心させるためのことだと分かっている。

 「うん…」残さず全部食べるから心配しなくてもいいよ、と。

 「妾も、少し戴いてもよろしくて?」プチトマトに箸を伸ばそうとしている。

 「あ、は」い…、と答えたが、「ああっ!」という碧の叫びに掻き消された。

「それはいけませんことよ、お姉様! それはワタクシが目をつけていた…」

 「おホホホ、目をつけていただけではトンビに油揚げをさらわれてよ」容赦無くトマトを抓んで口に入れてしまった。

 「くっ、さすがはお姉様、恐ろしい行動力と無慈悲心だわ」

 「おホホホホ、負け犬の遠吠えは心地()い響きですわね」互いに罵り合っているが、二人がこの遣り取りを楽しんでいることは間違い無い。

 もうよく分からない人物設定になってきていることも手伝って、ますます藍には割って入れない状況だが、疎外感は無く、寧ろ三人組の一員なのだという気がする。同時に、他愛の無いバカな遣り取りを楽しいと感じている自分に驚きを覚えた。ふざけ合う同級生を遠い世界の出来事のように、しかも幾分冷ややかな目で見ていた記憶は有るが、それを楽しむなど嘗て無かったことだ。

 嬉しい気持ちで、藍は山賊焼に手をつけた。いつか、自分もこの二人の会話に割って入れるくらいになるのだろうか。

 碧と梨乃は、食べ終わるまで約二十分間、断続的にこの設定を持ち出して盛り上がった。藍も、結局食べ終わるのは一番最後になったものの、普段よりも少し多めに食べた。

 「頂きました」梨乃が音頭を取り、

 「いただきました!」「頂きました…」二人が唱和すると、梨乃はちらりと後ろを見て、

 「待ってる人いるから出よっか」と促して、さっさと席を立った。

 「あ、はい…!」藍が慌てて立ち上がろうとするが、

 「でも慌てて転んじゃダメだよー」梨乃が振り向いて釘を刺した。

 「梨乃さん透視できるのかな!?」

 「うん、すごいね…」改めて立ち上がり、背嚢を取りに行く。

 「あ、カバンはわたしが持つから!」と言いながら、碧が背嚢を渡してくれた。

 「ありがとう……」

 藍が靴を履き終わった時には既に梨乃が玄関の扉を開けようとするところで、勘定は梨乃が済ませてしまったのだと藍にも分かった。藍の後に碧も続き、三人は店を出た。

 「梨乃さん、いくらでした?」勘定のことである。さしも目敏い碧も、入ってすぐ通り過ぎてしまった値段表は確認できなかったらしい。いや、そもそもそれが壁に貼ってあったことすら認識していなかったかも知れない。

 「今日はわたしの奢り」

 「え…?」

 「いいのよ、本来は家で御馳走するべきだったんだから」

 「え、でも」

 「デモもストもありません」どこかで聞いたような台詞を決められ、

 「じゃ…ごちそうさまでした」碧は引き下がった。

 「ごちそうさまでした…」藍も礼を言う。普段使わない「ごちそうさま」という言葉が、何だか大人になった気分にさせる。

 外は宵闇だった。自転車の籠に学生鞄を入れ、碧はサドルに跨がろうとしたが、梨乃が自転車を押し始めたのを見て、それに倣い、梨乃の後ろについた。路肩が狭いため、藍はさらにその後ろを行く。

 すぐそこの信号まで進んで道路を渡り、源太前の道路から左折した形で、そのまま坂を登っていく。右側は学校の敷地のようだ。車通りがほとんどないと見て、碧は梨乃の隣に並んだ。それを見て藍も横に並ぶ。

 「さっきの話だけどね」

 「はい」碧が相槌を打ったが、藍にはどの話のことか分からない。

 「私、ここの中学に通ってたの」

 「へえ。ここって大学の近くですよね?」

 「うん、道挟んで向こうは大学病院。で、小学校がそこ」前方右側を指差す。

 「えっ、小学校と中学校隣なんですか!?」

 「うん」

 「えー、そんなとこあるんだー」地域全体の生徒が少ないため小学校と中学校の学区が全く同じ、という地域ではよく見られることだが、都市部では稀だろう。

「珍しいね!」

 「うん…初めて聞いたよ…」藍が通っていた鎌田小学校と鎌田中学校も敷地間の距離百m未満と近かったが、隣接はしていなかった。

 「わたしもー。もしかしたら幼稚園まで隣だったりして」

 「それはさすがに…」

 「だよねー」

 「いや、それがあるのよね」

 「何をっ!?」

 「小学校の向こう、幼稚園だよ」

 「そこに通ってたんですか!?」

 「うん」

 「マジか…何その幼小中一貫教育みたいなの…」

 「だから子供の頃は、どこでも幼稚園から大学まで隣にあって自動で上がってくもんだと思ってたよ」

 「あー、そうなりますよねー」小学生くらいまでは自宅から学校までの範囲がほぼ全世界であり、他所のことを知らないのが普通だろう。

 「高校は違う方向だったけど、大学はまたこっちの方向に戻っちゃったね」

 「…だから自転車は一年、なんですね…」

 「うん。中学までは歩きだったからね。藍ちゃんたちもそうでしょ?」

 「はい…」「はい!」藍の自宅から鎌田中学までさほどの距離ではないが、碧もそのようだ。

 「いやー、さすが梨乃さん、そんなとこまでフツーじゃないんだ…」

 「いやフツーだよ。この学区ほとんどそのパターンだよ」

 「たまたまその学区に住んでるのがもうフツーじゃないんです!」

 「町内会を敵に回す発言ね」

 「梨乃さん、住所どこなんですか?」

 「沢村。分かる?」

 「聞いたことあるんですけど…」

 「うちは高校からほぼ真北かな。歩いて10分くらい」

 「ホント近いですね!」

 そんなことを話しているうちに小学校を通り過ぎ、幼稚園の建屋が真横に見えてきた。

 「昨日ここで遊んでたみたいな気がするのに、もう13年以上前のことなのね。なんだか変な感じ」

 「あー、分かりますー、その感じー。梨乃さんもそういうの思うんですね!」碧が言うのを聞いて、藍も心の中で頷いた。

 「うん、多分誰でも思うんじゃないかな。藍ちゃんもそういうことあるでしょ?」

 「はい…」

 「そっかー、みんなそうなんだー」

 「ちょっとそこの店寄るね」幼稚園の角は五叉路になっている。三人から見て前方右側、幼稚園の向かいにある建物から灯りが漏れていて、梨乃はそちらに向かっているようだった。

 店の前に自転車を駐め、中に入ると、そこはケーキ屋だった。入って左側の冷蔵硝子ケースにケーキが並んでいるが、所々歯抜けなのは売り切れてしまったからだろう。

 「おみやげですか?」

 「それもあるけど、帰ってから三人で食べようと思って」

 「え、じゃあ、それわたしたちが買いますよ! いいよね、藍ちゃん!」鼻息荒く碧が言い、

 「うん!」珍しく勢いのある声で藍も頷いた。

 「じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」

 「はい!」二人声を揃えた。

 「どれがいいですか?」

 「そうねえ、母親にはプリン。私達には…シュークリーム一人二つでどう? ここのすごくおいしいよ」

 「はい!」

 「あ、あの…私は、一つで…」

 「後からもう一つと言っても遅くてよ」旅に出ていたリノエンヌが急に戻って来た。

 「遅くてよ」アオエンヌも引き連れて。

 「あ、はい…大丈夫です…」

 「じゃ、プリン1つとシュークリーム5つお願いします!」碧が元気よく注文し、

 「はい、少々お待ちください。今日も保冷材は…?」答えてから、店の女将が梨乃の方を向く。

 「ええ、結構です」この遣り取りから判断すると、どうも常連らしい。

 「梨乃さん、よく来るんですか?」

 「うん、週一くらいかな。大学入ってからだけどね」

 「けっこう来てますね…。さっきのごはん屋は?」

 「源太はそんなに行ってないよ。まだ五、六回。ちなみに今日行かなかったカレー屋も五回くらい。基本、自炊だからね。今年はそうも行かなさそうだけど」

 「学校忙しいんですか?」

 「実習は夜中までかかるのが普通なんだって」

 「え!? そんなに!? まさか毎日ですか?」

 「佳境に入ると毎日らしいわ」

 「医学部怖い」

 「後輩になったら宜しくして差し上げてよ」

 「すでにくじけてきましてよ…」

 「お待たせしましたー。シュークリーム5個とプリンで1100円になります」

 「はーい」学生鞄から財布を取り出し、千円札を渡した。

 「あの…半分…」藍も財布から五百円玉と五十円玉を出し、碧に渡す。

 「うん! さ、早く帰って食べましょう、梨乃さん! …『帰って』は変かな…?」

 「いいんじゃない? じゃ、行きましょう」扉を開けて店を出る。

 「ありがとうございましたー」

 「碧ちゃん、ちょっと上り坂だけど二人乗りで行ける?」右手だけで自転車を押しながら訊く。左手にはケーキの箱を提げている。

 「とりあえず行ってみます! ダメだったら押して走りますよ! 藍ちゃん乗っけてうおりゃー!って」叫んだら近所迷惑である。

 「え…!? 碧ちゃん…無理しないでね…」藍は急に心配になった。内訳は、碧の心配八割、叫ばれる心配二割といったところだ。

 「あー、冗談冗談」笑ってそう言ったが、碧なら本当にやりそうだと藍は思う。

 碧がサドルに跨り、藍が荷台に腰かけたのを見て、ケーキの箱を左手に提げたまま梨乃が走り出した。少し間を置いて碧がついていく。

 梨乃の言う通り上り坂であったが、松本高校手前の坂に比べれば大したものではなく、二台の自転車は快調に走り、とある診療所の裏で停止した。すぐに藍が荷台から降り、碧が自転車のスタンドを立てる。

「梨乃さん()病院なんですか?」

 「うん。二階と三階が家」玄関の施錠を解除し、梨乃は扉を開けた。

「さ、入って入って」

 「お邪魔しまーす」「お邪魔します…」

 暗い玄関に入ってみると、薄闇の中、足許で何か大きいものが動くのが見えた。学生鞄で両手の塞がった碧がぴったりひっついてくる。また恐怖症を発症したのだろう。

 梨乃が照明をつけると、そこに現れたのは大きな犬だった。

 警察犬だ。そう思った藍は間違っていない。犬の種類をよく知らない藍には分からなかったが、ジャーマンシェパードだ。元々牧羊犬として飼育され、軍用犬として改良されてきたこの犬種は、世界中の軍隊や警察で活躍している。

 「わ、かわいー!」碧が声を上げた。茶色と黒の二色に、胸、腹、足先が白という毛色だが、藍がテレビで見た警察犬は全体的に、特に顔がもっと黒かったような気がする。目の前の犬は、目鼻口の周りを除いて、顔全体が薄い茶色だ。そのせいなのか、テレビで見た警察犬よりかなり柔和な印象を受ける。が、碧のようにこの大きな犬が可愛いとは藍には思えない。かっこいいと言うなら頷けるのだが。

 おすわりの姿勢で待っていた犬は、三和土から上がった梨乃に軽く頭を撫でられると、立って後に続いた。太い尻尾がすごい勢いで左右に揺れている。

 「じゃ、ついてきて」二人は靴を脱いで揃え、梨乃と犬に従って階段を上り、三階の部屋に通された。八畳ほどの板間で、左手の壁沿いに机と本棚が置かれている。反対の壁沿いにはマットレスが床に直置きされ、上に蒲団が載せられている。マットレスも蒲団もダブルベッド用の大きなものだ。そして、部屋の中央に二畳ほどの絨毯が敷かれ、その中央で何か白い獣が丸くなっている。

 三人と一頭が部屋に入り、扉が閉められた時、白いのが頭を上げ、それも犬だと分かった。柴犬か何か、とにかく和犬だ。ジャーマンシェパードに比べるとかなり小さく見える。

 「わー、この子もかわいいー!」碧が声を上げて近づくと、その犬は身を起こし、碧の方に近寄ってきた。

 「よしよし」碧に頭を撫でられ、心地良さそうに尻尾を振るが、碧が手を離した途端、

 「わん!」と吠えた。

 「あー、この子図々しいから、撫でるのやめると吠え続けるのよねー。まあとにかく座って。毛が付いてるかも知れないから真ん中はよけた方がいいかな」

 「はーい!」「はい…」二人が座ると、白い犬は碧の横に寝転び、撫でられる体勢に入った。碧は右手を犬の首の辺りに置き、前後させる。

 「この子たち何て名前ですか?」

 「その子がラブで、こっちがアスラン」机の前で立ったまま梨乃が答える。足許にはアスランが控える。

 「そっか、お前はラブ子かー」喉を撫でるとラブはころんと仰向けになった。本格的に撫でられるつもりだ。

「アスランて何語の名前ですか?」

 「トルコ。ライオンって意味なんだけど、ちょっと名前負けしてるかな」

 「えー、そんなことないよねー」碧はそう言ったが、ライオンにしては顔つきが優し過ぎるだろうか。

 「ちなみにラブはLOVEのラブじゃないよ」

 「えー、じゃ何ですか?」

 「とりあえずお茶淹れてくるからそれからゆっくり話そ」ケーキの箱を右手に扉に向かった。すぐ後ろをついて行こうとしたアスランに梨乃が、

「アスラン、Down」と言うと、

「ピー」残念そうに鳴いてその場に伏した。

 その鼻先で扉が閉まり、アスランは二人の方を向くと、立ち上がり、藍の隣へやって来て、藍の左腿に顎を乗せてうつ伏せになった。

 「え……」助けを求めて碧の目を覗き込むと、

 「撫でてあげなよ。甘えたいんだよ、きっと」

 「うん…」いかにも慣れない手つきで頭を撫でてやると、尻尾が少し左右に動いた。

 「ほら、喜んでるよ。よかったね、アスラン」

 「ピー」さっきと同じような少し情けない鳴き声だが、今回は心なしか嬉しそうに聞こえた。

 「この子、言葉分かるのかな…?」アスランの声音とタイミングが、まるで返事のように聞こえたのだ。

 「うん、分かってると思うよ。うちのクロも似たような感じ。アスランみたいにいい子じゃないけどねー」

 「そうなんだ…」生き物を飼ったことのない藍にとって、目から鱗が落ちるような体験だ。急にこの大きな犬に対する親近感が湧いてきて、機械的に撫でていた手に気持ちが籠もり、頭から背中まで通して撫でてやる。大きな尻尾がピヨっピヨっと左右に揺れ、床を掃いた。

 「アスラン、かわいいね!」

 「うん…!」

 今の今まで、藍は犬というものがこれほど可愛いのだということを知らなかった。なるほど飼う人がたくさん居る訳だ。

 「わん!」ラブが吠えた。

 「ごめんごめん、ラブ子もかわいいぞ」やはり人間が何を言っているのか分かっている。藍はそう確信した。

 暫く夢中になってアスランを撫でていると、扉が敲かれ、

 「開けてもらえるー? 両手塞がっちゃってて」梨乃の声がした。アスランが少し頭を上げる。素早く、しかも音を立てず碧が立ち上がり、扉を開けた。

 梨乃が両手で持つ大きな盆には、シュークリームを載せた大皿とキルト製の覆いを被せられた大きなティーポット、三人分のティーカップ、それに袋に入った菓子らしきもの。

 「あらビックリ。アスランが一見さんになつくなんて初めて。お盆落としそうになったわ」部屋に入って歩きながらそう言った。とても驚いているようには見えないが、本人が言うのだからそうなのだろう。

 「そうなんですか? すごくフレンドリーな感じですけど」

 「うーん、人当たりはいいけどなかなか心は開かない子なのよね。何か藍ちゃんには感じるところがあったのかな」

 梨乃はアスランに手が届く辺りに屈んで盆を床に置き、その場に座った。扉を閉めた碧も元の位置、即ち藍の右側に座る。

 「きっとそうですよ! ねー、アスラン」

 今度はピーと言わず、藍の腿に顎を置き直した。

 「ラブも楽しそうでよかったわ」ラブは先程から仰向けのまま、碧に喉や腹をわしゃわしゃ撫でられては足をじたばたさせている。相当喜んでいるようだ。

 「梨乃さん、ラブ子の名前は?」

 「うん」カップに茶を注ぎながら答える。

「私ね、犬飼ってもいいって言われたとき、黒ラブがよかったの」

 「はあ」

 「けどね、いざペットショップに行ったら、すっごい高いじゃない? 飛び出した目玉戻すのが大変だったわよ」

 「飛び出しますか」

 「今でも高いと思うけど、その時はまだ中一だったからなおさらねー」茶の入ったティーカップを藍に、それから碧に差し出す。二人はそれを受け取り、口をつけた。

 「おいしい! これ紅茶ですよね? でもなんか緑茶っぽい味」碧が思った通りを言葉にし、藍も頷いた。色は明らかに紅茶の色だ。

 「うん、キームンって種類の紅茶で中国産なの。牛乳も砂糖も、入れても入れなくてもおいしく飲めるのよね。今はシュークリーム食べるからそのままで」自分用にも茶を淹れ、ティーポットに覆いを掛け直す。

 「なるほどー。梨乃さんすごいね!」

 「うん…おいしいです…!」

 「ありがとう。選んだ甲斐があったわ。あと一杯ずつくらいはあるから、おかわりしてね」シュークリームの載った皿を三人の間に置いた。すかさず碧が一つ掴んで口に持っていく。

 「おいしい!」碧の反応を見て、藍も手を伸ばした。

 「…ホントだ…!」

 「でしょ? えーと、でね、その時は諦めて帰ったんだけど、ちょうど三日後くらいに近所の人から柴の子供産まれたんだけどもらってくれる人いない?って話があったからもらったのよね」

 「それがラブ子ですか?」

 「うん」

 「そっかー。もらわれてよかったな、ラブ子」そう言ってまたわしゃわしゃし、ラブの足がじたばた動く。

「ということは今6才ですか?」

 「この前七歳になったよ。誕生日私と二日違い」

 「え? 梨乃さん誕生日いつなんですか?」

 「四月八日(ようか)

 「えー! 最近じゃないですか? 何で梨乃さん教えてくれなかったんですか? お祝いにかけつけたのに! ね、藍ちゃん!」碧が梨乃に詰め寄る。

 藍は無言で二回強く頷いた。

 「んー、特に黙ってた訳じゃないんだけど、わざわざ言うのも何かアレじゃない?」

 「そう言われたらそうかも知れませんけど…」

 「碧ちゃんは誕生日いつ?」

 「3月27日です」

 「……」梨乃は何か考えている様子だ。

 「……」「……」碧は梨乃が口を開くのを待っている。藍は微妙にドキドキしながら成り行きを見守っている。

 「有罪」前置き無く判決だけが言い渡された。

 「えー! 何でですか!?」

 「昼ごはん食べに行ったのが三十日だから、その頃には碧ちゃん毎日メールくれてたでしょ」

 「え、や、そうですけど、まだ店で二回会っただけだったし…」

 「私も似たようなもんだと思うけど。藍ちゃんどう思う?」

 「え……あ、あの……二人とも、無罪でいいと思います…けど…」

 「藍ちゃん、いいコねー」

 「梨乃さん、とっちゃダメですよ!? 私の奥さんなんですから!」

 「え……?」基本的に傍観の藍だったが、完全に想像の埒外だった単語に、我知らず疑問の声が口から出てしまった。

 「藍ちゃんが奥さんで私が旦那なんだって」

 「え……??」藍の困惑が度を増した。梨乃の奥さんだと言われたように受け取ったのだ。碧の奥さんだと言われた直後に梨乃の奥さんだというのだから、理が立っていないし、何より自分に「奥さん」という単語が馴染まない。

 「うん、だからね、藍ちゃんはわたしの奥さん。梨乃さんはわたしの旦那様」言いたいことは分かったが、言っている意味はやはり分からない。

 「ああ」梨乃が膝をポンと打って、「藍ちゃんが私の旦那様になればいいんじゃない?」梨乃が、さらに混乱させることを言い出した。

 「は?」「……」二人ともまだ梨乃の言わんとするところが飲み込めていない。

 「二人とも手出して」梨乃が両手を二人それぞれに伸ばしてきた。

 「はあ」「……」二人とも言われるままに手を伸ばす。撫でるのをやめられたラブが、

 「わん!」寝返りを打って抗議の声を上げた。アスランは少し頭を上げてすぐ元の体勢に戻った。

 梨乃は二人の手を握ると、

 「じゃ、二人も手つないで」また言われるままに手をつなぐ。まだ訳が分からないが、藍は得した気分だ。

 「こういうこと」全く何の説明も無い。が、

 「ああ!!」碧が腑に落ちた顔で声を上げた。藍にはまだよく分からない。

「左側の人が奥さんで右側の人が旦那様だよ」

 「え…うん……」手を繋いで輪になっていることで示したいことは分かったが、その心はまだ不明だ。

 「こうすれば、私達三人で夫婦じゃない? 私達だけの仲」漸く意味の分かる言葉が出た。

 「はい…!」私達だけ、という言葉に藍は妖しい歓びを覚えた。

 「で、何の話だっけ?」

 「えーと……」盛り上がっていた二人が話題を忘れている。

 「…誕生日です…」

 「あ、そうそう。藍ちゃんは? 誕生日」

 「六月八日です…」

 「よし! まだ過ぎてないね! じゃ、当日は盛大に」誕生祝いをする、というのであろう。

 「いいわね」

 「え…そんな…申し訳ないです……」もちろん嬉しいのだが、自分だけ祝ってもらうのは気が引ける。

 「いいのいいの! とにかく決定!」しかしそんな遠慮をハイそうですかと受け入れる相手ではない。

「あ、梨乃さん、おかわりいいですか?」いつの間にか空になったティーカップを差し出した。弁当の時もそうなのだが、碧は、藍から見ると魔法のような速さで飲食する。今も、梨乃と話しながらいつの間にシュークリームを一つ食べ、茶を飲み干したのだろう。

 「うん」カップを受け取り、藍の手も離した。藍と碧はまだ手を繋いでいる。

 「梨乃さん、アスランは? どうやって梨乃さん家に来たんですか?」

 「うん、アスランもね」梨乃に名前を呼ばれてアスランが身を起こした。尻尾も軽く揺れている。

「知り合い経由でもらったの。生後一年くらいで。来た時はやさぐれててねー」

 「えー!? 今はこんなにかわいいのに!」碧の叫びに藍も勢いよく頷いた。ついでにアスランの頭を撫でる。

 「ショウドッグだったらしいんだけど、そこで虐待されてたみたいでね。来て半年くらいは私にも全然なつかなかったな」話しながらも手際よく茶を注ぎ、カップを碧に返す。碧は一口飲んでカップを置き、二つ目のシュークリームを取った。それを見て、藍も食べかけに手を伸ばす。アスランの頭を触った手だが、気にはならなかった。

 「苦労したんだな、アスラン。梨乃さんにもらわれてよかったな」そういった境遇に居たことが、友達の居ない年月を過ごしてきた自分に親近感を覚えさせたのだろうか。もちろん、彼が自分の過去を知る由も無いが、自分の雰囲気を感じ取ってはいるはずだ。

 「ところでショウドッグって何ですか?」

 「アスランの場合はハンサムコンテストだね。何回か優勝したらしいよ」なるほどそれでテレビで見る警察犬とは違うわけだ。警察犬は一般人でアスランはモデルなのだ。藍は得心がいった。

 「そうかそうか、アスラン、ハンサムだもんな」

 「わん!」ラブが何やら抗議した。

 「うーん、ラブ子は…愛嬌があるね」アスランばかり話題にするな、と碧は受け取ったようだ。

 「目がショボいからねー」梨乃の言う通り、目がショボショボしている。両目とも瞼が二割ほど閉じている上に、睫毛が白いのでとても眠そうに見えるのだが、そこが何とも言えない愛嬌を醸し出している。

「よし、じゃ自己紹介しよっか」梨乃はそう言ってラブの脇を持って抱き上げ、二人の方に向けた。

「わしゃラブじゃ。柴、七歳じゃ。おぬしら、宜しくするのじゃぞ」わざわざしわがれ声を作って梨乃が話す。

「昔は目もパッチリしてたし毛も茶色だったのに、すっかりババアになっちゃって…」地声に戻った。これは梨乃自身の役ということか。

「誰がババアじゃ」とラブ。

 ラブを降ろし、「アスおいで」と言うと、アスランは素早く立ち上がって梨乃の前に行った。

「Sit」また梨乃の一言で、今度は素早くおすわりする。こんなに言うことをよく聞くものなのかと藍は感心した。

「ぼくアスラン。5歳。好きなものはサッカーボールとハードビーフジャーキー。得意は障害飛越。一緒に遊んでね!」今度は小さい男の子のような声を作る。

 「遊ぶ遊ぶー!」

 「私も…」碧だけでなく、藍まで返事した。藍には、本当にアスランが話しているように思えたのだ。恐らく碧も同じだったろう。それほど台詞と声音がアスランのイメージに近かった。ラブも、言われてみれば確かに「わし」という感じだ。流石は飼い主、という範囲をかなり越えてしまっている。この吹替に関する限り、梨乃がなかなかの芸達者なのは間違い無い。

 「ありがとう」また地声に戻り、

「ここにそのハードジャーキーがあります」と、盆の上から袋を取った。藍が菓子かと思っていたのは犬用のおやつだったのだ。

 「碧ちゃん、ラブにあげてくれる?」袋を差し出す。

 「了解です! あ、いくつですか?」袋に手を入れてからそう訊いた。

 「三つ」

 「はい!」袋からジャーキーを抜き出し、ラブの目の前に持って行くと、二回鼻を鳴らして匂いを嗅いだ後、パクっと食い付いた。そして、もちゃもちゃと音をさせて噛む。犬の頑丈な顎を以てしても、なかなかの噛み応えであるらしい。

 「藍ちゃんもいい? アスランに」

 「はい…!」袋からジャーキーを取り出し、アスランの鼻先に持って行く。同時に、

 「Wait」梨乃の声がかかった。アスランは動かない。藍はまた感心した。そのまま数秒過ごし、

「よし」梨乃の声を合図に、藍の手からジャーキーを取り、二、三度噛んだと思ったらもう跡形もなくなっていた。ラブを見てみると、こちらも今食べ終わったところのようだ。

 袋に手を突っ込んで二つ目を取り、再び鼻先へ。アスランは少しためらったが、梨乃の制止がなかったからだろう、遠慮がちに口をつけた。そっとした動きだったにも関わらず、十センチ以上あるジャーキーがするっと口の中に入り、やはり二、三度もぐもぐしただけでアスランは口を開いた。もちろん口の中に残ってはいない。

 「アスラン速っ!」碧も隣でラブに二枚目をあげているが、ラブにとってはかなり食いでがあるようで、親の仇ででもあるかのように噛んでいる。

 三枚目もあっという間にアスランの身体のどこかに消えたが、おやつに体格差は考慮されず、これで終了となった。

 「あの…障害飛越ってどういうのなんですか…?」

 「ハードルを飛ぶの。1メートルくらいなら簡単に飛ぶよ」

 「高さ一メートルですよね……、私、そんなに飛べません…」女子でも、一mを飛べない人は少ないだろう。

 「はい! 障害飛ぶの見たいです!」ジャーキーを噛み続けるラブの頭を撫でながら碧が言う。

 「私も……」

 「うん、明日場所が空いてたらやってみましょう」

 「やった! 楽しみだね、藍ちゃん!」

 「うん…!」

 「さて、そろそろお湯がたまった頃ね。お風呂にしましょう」

 「待ってました! サービスタイム!!」

 「待ってましたって…ストリップ劇場の客じゃないんだから…」

 「行ったことあるんですか?」

 「ステージ出てたよ」

 「えっ!?」碧のみならず、珍しく藍も大きな声を上げた。

 「冗談」

 「なんだー。びっくりさせないで下さいよー」碧の言葉に藍も頷く。

「でも梨乃さんが出てたらすぐ満席になりそう。てゆーか、わたしも見に行きたい!」

 「うーん、喜んでいいのかしら。でも今はサービスタイムにはならないわよ」

 「えー!? 何でですか!? わたしたちじゃ御不満ですか!?」

 「御不満じゃないけど、湯船狭いから。無理に詰めても二人までね」

 「う~ん、それは残念!」

 「じゃ、着替え持ってついてきて…って、仲良しねえ」梨乃の視線の先で二人の手はまだ繋がったままだ。因みに、藍は一枚ずつジャーキーを袋から取り出したが、碧は三枚を片手に収めて一枚ずつ繰り出していた。この辺りにも藍の不器用さが現れている。

 「えへへへ」嬉しそうに笑ってから、碧は藍の手を離した。

 藍は背後に置いてある背嚢から碧の袋を取り出して渡した。

「ありがと!」

「うん…」

 続いて自分の下着と寝間着を取り出す。

 「あの…碧ちゃん先に入って…私、髪の毛乾かすのちょっと時間かかるから…」

 「うん、分かった! わたし速いよ~」

 「準備いいかしら」

 「はい!」「はい…」

 「じゃ行きましょう。アスDown 」起き上がろうとしたアスランを制して、梨乃は扉を開けた。

 上ってきた階段を一階分下りて、曲がった廊下の突き当たりが浴室だった。

 「二階にお風呂があるなんて」

 「うん…」

 「一階は玄関以外ほぼ全部診療所に使ってるからね。…タオルここに置いてあるから」数枚のバスタオルの山をポンと叩く。

 「はい!」「ありがとうございます…」

 「じゃ、藍ちゃん、10分したら入ってきて~。わたしその頃には洗い終わってるから」

 「え……?」

 「その方が時間短縮できるじゃない?」

 「あ、うん……」梨乃をなるべく待たせないようにとの気遣いと藍は理解し、裸を見られるのは恥ずかしいが、碧の提案通りにすべきと判断した。それに、何であれ碧と一緒なのは嬉しいし、碧の裸を見たい気持ちもある。

 「じゃあ…」

 「うん、また後でー!」

 梨乃と藍は浴室の外に出て扉を閉めた。

 「あの、梨乃さん…、ありがとうございます、今日…」さっさと歩き出した背中に、半ば呟くような口調で話しかけると、

 「ううん、来てくれて嬉しい」立ち止まって振り向き、にっこり笑って言った。

 「さ、10分なんてすぐだよ」

 「あ、はい」梨乃に従って部屋に戻った。

 「藍ちゃん、明日の服ってスカート?」尻尾振り振りで出迎えたアスランの頭をポンポンと叩きながら梨乃が訊いてきた。

 「あ、はい。制服です」

 「制服かあ」

 「あの、良くなかったですか…?」

 「そうねえ、多分馬の臭いついちゃうから。私の服で行きましょう」

 「すみません……」臭いのことなど全く想像していなかった。

 「ううん、そんな大したことじゃないわよ。じゃ、適当に用意するね」

 「はい…よろしくお願いします……」まだ申し訳無い気持ちの藍の前にアスランがやって来た。その背中を頭から尻まで撫でると、急に気持ちが楽になる。しゃがんで撫で回していると、

 「わん!」部屋の中央で丸くなっていたラブが起き上がって何やら要求してきた。

 「わしもマッサージするのじゃ」梨乃が声色を作って言った。

 「え…?」明らかに梨乃の方から声がしたのに、いやそもそも犬が喋るわけはないと分かっているのに、藍はまたラブが話しているような錯覚に捕らわれた。

 「藍ちゃん人気者ねえ。でももうすぐ時間じゃない?」

 「あ…!」慌ててアスランから手を離して着替えを掴み、立ち上がる。

 「十五分か二十分くらい後でいい? 私が入るの」話しながら移動し、ラブの背中を足の裏でぐりぐりしている。見た目はかなりぞんざいな感じだが、ラブは気持ち良さそうに、ぐりぐりに合わせて左右に寝返りをうっている。またしても流石飼い主。

 「あ、はい。大丈夫です…」

 「うん、じゃ、また後で」

 「はい…」藍は部屋を後にして浴室へ向かった。

 脱衣所に入って照明を点けると、左手の壁に碧の制服がハンガーに掛けられているのがまず目に入った。その隣では空のハンガーが藍の制服を待っている。扉を閉めた藍は急いでスカートを脱いだ。スカートの折り目を整えて吊ったら次は上だ。普段の五割増しの速さで動き、靴下も下着も脱いで棚に置いた時、浴室からザブンという音が聞こえてきた。碧が湯船に入ったのだろうか。

 最後に眼鏡を外し、脱衣所の照明を消して、気後れしながらも浴室の扉を開けると、推測通り浴槽に横になった碧が、

 「ナイスタイミング~。ちょうど今洗い終わったとこー」顔をこちらに向けて右手を振った。

 「うん…音聞こえてきたよ…」裸を見られるのが恥ずかしく、笑顔がぎこちなくなってしまった。

 「さあさあ、こちらへずずずいーっと」若者らしからぬ言葉で促され、浴室に入って扉を閉める。

 「ねえ藍ちゃん」

 「うん…」洗い場の椅子に腰かけてシャワーヘッドを掴みながら応える。

 「ラブとアスランかわいかったね!」

 「うん…!」シャワーから湯を出す。

 「藍ちゃん動物飼ったことないって言ってたよね?」

 「うん…」シャワーの音に紛れないよう、少し声を張った。

 「どう? 飼いたくなった?」

 「うん…でも…」シャワーを止める。

 「でも?」

 「みんなあんなにいい子なのかな…?」ポンプの頭を二度押してシャンプーを手に取る。

 「イヤー、わたしはあんな子見たことないなー。言うこと聞くかどうかはしつけ次第なんだろうけど、気性は持って生まれたものが大きいからねー」

 「そうなんだ……」

 「今度うちのクロも見て~。アスランとはまた違ったかわいさだよ」動物を飼っている人は皆自分の家の子が一番可愛いと思っている、という事実を藍はまだ知らない。

 「うん…楽しみ…」髪を洗いながら微笑んだ。碧に背を向けた状態でしかも長髪を垂らしているため顔は見えていないのだが、言葉にもその表情が表れたのか、碧が嬉しそうに、

 「早く見せたいなー。あ、でも馬も楽しみ! 写真で見たことしかないけど、優しそうな目だったよ」

 「そうなんだ…やっぱり大きいのかな?」

 「人が乗れるくらいだからきっと大きいよね! 私より背高いかも!」

 「え…そんなに……?」

 「いや分かんないけどね。なんか、今日泊まるのがメインイベントみたいな気になってたけど、すごい楽しみになってきたー!」

 「うん…私も…」また藍は我知らず微笑んだ。

 「それにしても梨乃さんスーパー過ぎだよね! 出来杉君よりスゴいよ」

 「うん…」漫画を読まない藍も、ドラえもんは知っている。

 「苦手なこととかあるのかな?」

 「ちょっと…想像できないけど…」

 「だよねー」人間誰しも得手不得手はあるし、おじさんおばさんから見れば梨乃も小娘なのだが、まだ十五歳の二人から超人のように見えても不思議ではない。実際、容姿端麗、頭脳明晰で立居振舞にも今までのところ全く隙はない。

 藍が湯を出して髪を濯ぎ始めたため、二人の会話は数分の間途切れた。念入りにシャンプーを濯いだ藍は、すぐボディシャンプーを取って身体を洗い始めようとした。

 「あれ? 藍ちゃんトリートメントしないの?」

 「え、うん……」身体を洗いながら答える。

 「いつもしないの?」

 「うん……」

 「いた…ここにも超人が」

 「え…?」

 「このキレイな髪がノードーピング!」浴槽に横たえていた身体を起こし、手を伸ばして藍の髪に触れる。

 「え…綺麗じゃないよ……」誉められたからか、碧に触れられたからか、顔だけでなく身体まで紅くなっているのが泡の上からでも分かる。

 「キレイだよ! 毎日サラツヤブラックだよ!」

 「…………」藍は困って黙ってしまった。学業以外で褒められることに全く慣れていないのだ。もちろん、他ならぬ碧に褒められて嬉しい気持ちは大きい。

 すぐに藍は身体を洗い終わり、またシャワーを出した。身体はすぐに濯ぎ終えてシャワーを止めたが、

 「あ、藍ちゃん、髪の毛に泡ついてるよ」また浴槽から身を起こしながら言った。

 「え…」

 「ちょっと待って。流すから」ザバっと音をたてて立ち上がり、藍の隣に立ってシャワーヘッドを取った。藍は平静を装いながら、目だけを碧の方に向けた。碧の腹部がすぐ目の前にあり、眼鏡がないので明瞭ではないが、薄く筋肉の形が窺える。少し視線を落とすと、細い大腿部にも僅かに筋肉の盛り上がりが見えた。

 背中に湯が当たる感触がしたと思ったら十秒ほどで止まり、

 「よし! とれた」

 「ありがとう……」

 「ううん。藍ちゃん洗い終了?」

 「うん…」

 「じゃ、わたし出るね! お先~」

 「うん…」

 碧が浴室の扉を開いた時、同時に脱衣所の扉も開くのが藍には見えた。

 「イヤん、梨乃さんエッチ!」ちょうど浴室から脱衣所に出た碧が両腕を胸前で交差させ、少し腰を捻って言う。藍からは、頭から踵まで後ろ姿が全て見えた。全身が均整よく引き締まっていて、ただ細いばかりの自分とは全然違う。

 「サービスタイムとか言ってた人がイヤんエッチとか」

 「えへへへ。おっと、扉閉めないと」浴室の観音扉に視線を遮られて藍は我に帰り、椅子から立ち上がって浴槽の湯に身を沈めた。

 「藍ちゃん、入ってもいい?」脱衣所から声がかかり、

 「あ、はい…洗い終わりました…」藍は少し慌てて答えた。

 「うん」梨乃が服を脱ぎ始めたらしい。

 「いヤッホーぅ! 待ってました!」碧の叫びがあがる。

 「もう、ホントにエロオヤジなんだから」呆れてはいるが迷惑な響きは無い。

 少しの沈黙の後、

 「梨乃さんキレイ…!」感嘆と称賛の声が聞こえてきた。

 「もう……」言葉とは裏腹に、声は喜んでいる。

 「さわってもいいですか?」

 「ダメです。踊り子さんには手を触れないで下さい」

 「えー!? おあずけですか!? 鼻血出るー!」

 「鼻血って、碧ちゃんホントにリセエンヌ? て触ってるし。ていうか揉んでるし」

 「いやん、なにこれめっちゃ気持ちいい!」背後から梨乃の乳房を両手で鷲掴みにしているらしい姿が磨りガラス越しに窺える。

 「それはどうも。はい、もう入るから」梨乃にとっては想定内であったのか、動じた様子はない。

 「えー!? もうおさわりタイム終了?」

 「いやそもそもそんなの設定してないから」浴室の扉が開き、梨乃が入ってきた。碧の言う通り、綺麗だ。色白だが健康的な血色の肌で、つややかな髪。きれいに切り揃えられたその髪が大きくて張りのある乳房にかかっている様は、女の自分が見てもドキッとするほど艶かしい。その下は細くくびれ、胸に比べると少し小さい感じのする腰へと続く。

 「もう、梨乃さんのいけず~。藍ちゃん、わたしの分までさわっといてねー」閉じられた扉越しに碧が無茶な注文をつけてきた。

 「え……」

 「藍ちゃんはそんなことしません」椅子に座った梨乃が脱衣所に向かって言う。

「ね」

 「あ、はい…」そう答えながら、本当は触ってみたい気持ちもある。あの大きな胸は、どんな感触なのだろう。碧はめっちゃ気持ちいいと言った。

 しかし触らせてくれと言い出せるはずもなく、髪と身体を洗う梨乃の後ろ姿を見詰めたまま湯の中でじっとして過ごした。

 「藍ちゃん」泡だらけの状態で、振り向きもせず梨乃が急に話しかけてきた。

 「あ、はい…!」慌てて応える。

 「よかったら、背中洗ってくれる?」

 「あ、はい…!」今度は慌てて立ち上がり、梨乃の後ろに移動する。

 「ありがとう。よろしくね」振り向いて、これも泡だらけのスポンジを手渡してきた。

 「はい」スポンジはザラザラしたものではなかったので、藍は少し力を籠めてスポンジを動かした。

 最後に人の背中を洗ったのはもう何年前のことだろう。相手が父親だったか母親だったかも思い出せない。梨乃の背中は多分自分と同じくらい細く、そんなことを考えているうちに洗い終わってしまった。

 「終わりました…あの、よかったら流します…」

 「そう? ありがとう。藍ちゃん気が利くね」そう言ってシャワーヘッドを取った。

 「そんなことないです……」困った表情で少し俯きながら差し出されたシャワーヘッドを受け取る。湯に浸かって上気しているため自分でも分からないが、きっと頬を紅くしているに違いない。

 「じゃあ出すね」軽く下を向いたまま梨乃が言うと、すぐ湯が出てきた。

 頭頂から毛先に向かって念入りに洗い流していき、一通り泡が消えたところで、

 「失礼します…」梨乃の髪を中央で分け、分け目を洗い流す。それをあと四箇所で繰り返し、

「あの…終わりました…」と宣言した。梨乃が湯を止めて、

 「ありがとう。やっぱり藍ちゃん気が利くよ。私自分の髪の毛あんなに丁寧に流したこといわ。しかも気持ちよかったし。美容院みたい」

 「私も、自分で洗う時はそんなに…あの…自分の髪と違って見えるから、つい…」

 「つい、で丁寧になるところが藍ちゃんらしいね。これで安心してトリートメントに入れるわ」言葉より先にトリートメント剤を左手に取っている。

「藍ちゃん、悪いんだけど後でトリートメントも流してくれる?」

 「あ、はい…!」浴室から出ようかと考えていた藍だったが、もう一度浴槽に身を沈めた。そしてまた、吸い込まれるように梨乃の背中をじっと見つめる。

 「学校はどう?」少しの沈黙の後、こちらに背を向けたまま急に梨乃が訊いてきた。手は動いているから、トリートメント剤をつけているところか。

 「え…と…」質問が曖昧で何と答えてよいか分からず、藍はまごついた。

 「あ、ごめんごめん。学校には慣れた? 授業は?」

 「はい、だいぶ慣れました。授業も今のところは大丈夫です…」

 「食堂大変じゃない? 四階からだと絶対出遅れるもんね」

 「はい…すごかったです…初日だけ行ったんですけど…」

 「今はお弁当?」

 「はい…」

 「碧ちゃんも?」

 「はい…」

 「へえ。碧ちゃんは定食大盛りかと思ってた」あながち間違いではない。

 「初日は、そんな感じでした…」

 「お弁当も大きいんだろうね」

 「はい…」

 「担任は?」

 「贄先生なんですけど、二年目って言ってましたから…」

 「私の知らない人かー。残念。委員会は?」

 「副委員長です…碧ちゃんが委員長に指名されて…私は碧ちゃんに指名されて…」

 「なるほどねー。碧ちゃん委員長とかハマり役っぽいもんね」

 「はい…先生にも褒められてました…」正しくは藍も含めて褒められたのだが、謙遜ではなく、藍は自分の議事運営に対する貢献は微々たるものと思っているので、このような言葉となった。

 「そう。二人が活躍してて私もうれしいわ。…じゃあ、また流してくれる?」

 「あ、はい…!」先程より素早く立ち上がり、またシャワーヘッドを受け取って、同じように念入りに流した。二、三分後、濯ぎ終わってその旨を告げ、梨乃が湯を止めるとシャワーヘッドを定位置に戻して、

 「あの…お先に失礼します…」

 「うん。ありがとう、楽させてもらっちゃった」今度は藍の方を向き、にっこり笑って言った。

 「え…いえ…」軽く会釈して脱衣所に出ようとした背中に、

 「またお風呂入る時はよろしくね」明るい声がかかり、

 「はい…!」振り返っていつもより元気よく答え、浴室の扉を閉じた。

 バスタオルで髪を拭きながら、梨乃との会話を何となく思い返す。ぽんぽん飛んでくる質問のリズムのせいか、普段よりはきはきと答えていたような気がする。それに、梨乃に対して感じていた、別世界の人、のような感じがいつの間にかなくなっている。藍がこれを感じないのは、家族と親戚、隣家の夫婦、それに渚駅前の店の夫婦以外には、碧だけだったのだが。心に壁を作る癖を持つ自分がこんなに早く打ち解けたのだから、碧が一目で懐いてしまったのも当然かも知れない。

 気づいたら、髪についた水分はだいぶタオルに吸い取られていた。身体を拭いて下着と寝間着を身に着けると、浴室の扉を少しだけ開き、

 「あの…ドライヤーお借りします…」浴槽の中で膝を立てて座る梨乃に声をかけた。

 「どうぞー」梨乃はこちらを向いて返事をし、

「碧ちゃんは使わなかったのかな?」と独りごちた。そう言われてみると、ドライヤーの音は聞こえてこなかったような気がする。碧は短髪だが、タオルで拭けば乾くという程ではあるまい。碧は自分と違っておしゃれな人かと思っていたが、そうでもないのだろうか。

 それをきっかけに、碧の人物像について、髪を乾かしながら思いを馳せた。

 いつも快活な碧。裏表が無い性格なのは、今日の昼食時の高橋との遣り取りから判断しても、間違い無いだろう。出しゃばりではないが、前に出ることを嫌う訳でもない。リーダーに向いているのは、クラス全員の認めるところだろう。中学でも委員長だったのだろうか。

 運動が好きな碧。運動部の掛け持ちや学校までの登り坂を二人乗りなど自分にはその嗜好に全く共感出来ないが、余程の運動好きなのは間違い無い。当然、運動が得意なのだろう。

 そして、美人の碧。自分の見るところでは学級内で一番だ。自分のように色恋に疎い人間でも、碧が男子生徒の視線を集めているのは分かる。教室だけでなく、廊下や階段、食堂でもだ。だが、それを鼻にかけたりしないどころか、視線に気づいているかどうかすら怪しいように見える。その点、梨乃も同じような感じだ。もしかして、視線に慣れ過ぎて何も感じないのだろうか。自分は目立つのが嫌なので美人でなくて寧ろ良かったと思っているくらいだが、一般的には美人でありたいと思うものだろうから、きっと他の女子生徒から羨望や嫉妬を受けてもいるだろう。しかしそれも気付いているのかどうかよく分からない。自分の知る同い年の女子は程度の差こそあれ全員が男子に対して色気を出していたのだが、碧からは全くと言っていいほど恋愛の匂いがしてこない。それが何故なのか、知りたいような知りたくないような曖昧な気持ちだ。

 思索の海に入って数分が過ぎ、程よく髪が乾いたのでドライヤーを止めた。コンセントから電源プラグを抜こうとした時、

 「藍ちゃーん、ドライヤーそのまま置いといてー。すぐ使うからー」浴室から声がかかった。反響のためくぐもって聞こえる。

 「あ、はい…!」また自分の行動を見抜かれている。まるで超能力者だ。

 眼鏡をかけ、バスタオルを畳んで洗濯籠に入れた後、制服を抱えて藍は梨乃の部屋に戻った。

 「藍ちゃん、待ってたよー!」扉を開けるや否や碧の声が迎えた。隣で臥していたアスランも身を起こす。ラブは、また部屋の中央で丸くなっている。

「いいねそのパジャマ! 似合ってる~。やっぱり青好きなの?」藍が着ているのは群青一色の簡素なものだ。右前でなかったら男物と間違えそうなあっさりした意匠が、碧の言う通り、長い黒髪と起伏の少ない身体によく似合っている。

 「うん…碧ちゃんも…?」碧は碧で薄い青の寝間着に身を包んでいる。藍のもの同様飾り気はないが、こちらは一目で女物と分かる形状だ。

 「うん! なんかお揃いみたいだね」ウキウキした様子で碧が言い、

 「うん…」藍も嬉しくなって笑顔で応える。

 「あ、制服そこにかけといてって」扉の左側を指差すのを見て振り返ると、既に碧の制服がぶら下がっている。その隣に掛けると、ちょうど袖と袖が触れ合うくらいの位置になった。

 「手つないでるみたいだね」また碧が嬉しそうに言い、

 「うん…」藍もまた笑顔で答えた。

 藍が碧とアスランの間に腰を下ろすとすぐにアスランが膝に頭を載せてきた。それを可愛く思って頭を撫でてやると、アスランは気持ち良さそうに目を細める。その様子がまた愛しく、頭から尻尾まで通して撫でてやる。こうなるとどちらかが飽きるか外乱が入るまでずっと繰り返しである。

 「ところで藍ちゃん、さわった? 梨乃さん」

 「え……ううん……」

 「ぜひさわっていただきたい! あの感触は神の領域だよ! あー、藍ちゃんと分かち合いたい!」

 「………」分かち合いたいが、それを言い出すなど自分には絶対無理だ。

 「よし! 作戦を練ろう!」

 「え……?」

 「いや例えばわたしが梨乃さんと話している隙に忍び寄って後ろからさわるとか」セクハラを通り越して最早痴漢である。

 「え…無理だよ…」間違い無く、色々な点で藍には無理だ。

 「じゃあどさくさに紛れるか」

 「…………」碧を止めたいが自分の押しの弱さではそれも無理そうだ。

 「あ、こういうのはどう? ちょっと耳貸して」急に声をひそめる。二人のほかに犬しかいない部屋でひそひそ話す必要も無いはずだが、碧の雰囲気に呑まれてそちらへ身体を傾けた。碧がすぐ斜め後ろにやって来て耳打ちする。

 「…………」

 「ね、これならわたしの後に続くだけだし、いけるでしょ?」顔を近付けたまま碧が押し込む。

 「え…うん……」ものすごく、ものすごーく気が進まないが、碧の言う通り自分にも可能な計画だ。それに、耳元での囁きは推力十倍だった。

 「じゃあ決定ね! それとー。梨乃さんの誕生日、なにかお祝いしたいよね」

 「! うん…!」

 「何がいいかなあ。できれば何か買うんじゃなくて、自分で何かしたいなあ」

 「うん、そうだね…」

 「肩叩き券とかだったらいくらでも発行するんだけどなー」

 「喜ばれるかどうか分からないね…」

 「そうなんだよねー。犬の散歩券はわたし達が楽しいだけだしなー」

 「あ…でも、散歩してみたい…」

 「よし! じゃあ散歩券はオマケにつけよ! で、本題に戻る……うーん、誕生日と言えば…ケーキ…」

 「あの…簡単なものだったら…」

 「できるの!?」

 「デコレーションは無理だけど…一回もやったことないから…」

 「ケチャップでオムライスに絵描くのは得意なんだけどなー」

 「…じゃあチョコレートに描くのもできると思うよ…」

 「ホイップクリームしぼりながら出すやつでしょ? あれは難しそうだなあ」

 「ううん、ペン型の入れ物に入ってて、先を切って出すの…」

 「そういうのがあるの? それならできそう!」

 「…あの、レアチーズにしようと思うんだけど、チョコレートだけだと寂しいから、上にフルーツ載せるのはどうかな…?」

 「レアチーズ!?」

 「え…と、よくないかな…?」

 「ううん、全然! レアチーズわたしの大好物だから反応しちゃった」

 「じゃあフルーツは…」

 「いいと思う! 王道はイチゴだけど…まだ売ってるよね」

 「うん…」

 「あとは缶詰のミカンとか…レアチーズには合うよね?」

 「うん…」

 「じゃあ、藍ちゃんの仕事が多くて申し訳ないけど、藍ちゃんケーキ担当、わたしメッセージと盛り付け担当でいい?」

 「うん…!」

 「いつにする? 早い方がいいよね」

 「うん…明後日の午前中はどうかな? 明日帰りに材料買って…」碧に夕飯を振る舞うことは出来なくなるだろうが、時期を考えれば優先されるのはケーキだ。

 「けっこうすぐできちゃうの?」

 「作るのは一時間もかからないと思うけど…冷やすのは時間かけないと…」

 「なるほど、午前中作って冷やしてる間に弘法山?」

 「うん…それで、夕方持って行けば…」

 「藍ちゃんスゴい! じゃあそれで決定!!」

 「何が決定?」扉が開き梨乃が入って来た。

 「あっ、梨乃さんも青だ!」寝間着姿の梨乃を見て碧が声を上げる。質問に答えなかったのは意図してのことではなく、思ったことが声になって出たからだろう。梨乃の寝間着の青色は二人の中間くらいの濃さだ。

「梨乃さんも青好きなんですか!?」座ったままだが飛びつかんばかりの勢いで碧が訊く。

 「うん。このドラえもんブルーが好き」

 「確かに! ドラえもんブルーだ! ちょうど私たちの間の色じゃないですかー! 梨乃さんもブルースブラザーズですね!」

 「いやだからせめてシスターズにしましょう」梨乃は名作ブルースブラザーズを知らないようだ。いや、碧がその若さで知っていることが特筆されるべきか。

 「分かりました! 今からユニット名ブルースシスターズですよ! 当然梨乃さんセンターで!」

 「いつどこで誰に名乗るの? そのユニット名」

 「え? 誰かに聞かれた時とか」

 「いや訊かないでしょ普通。そこいらで会った人に『すみません、あなたたちのユニット名何ですか?』とか」

 「えー、そんなの分からないじゃないですか」

 「分かります。もしいても即逃げるし」

 「えーと、じゃあ梨乃さんがスカウトされるじゃないですか。その時は『もうブルースシスターズとして活動してますから』って断って下さいよ!」

 「スカウトなんかされないと思うけど、何に?」

 「AKBとかKGBとかMIBとか色々あるじゃないですか!」

 「AKBって…。Bだけ揃えてきたわね」

 「ほかにもMLBとかJTBとかTSBとかありますよ!」TSBは、テレビ信州の略称だ。

 「順番にローカルになっていく感じね。MIBだったらスカウトされたいけど」

 「梨乃さんもですか? スカウトされたらわたしも推薦して下さい!」

 「今自分で断れって言ったのに?」

 「そうでした、デヘヘヘ。その時は藍ちゃんも一緒にブラックシスターズってことで」

 「え……あの…MIBって何ですか……?」藍の知らない略称だ。

 「Men in Blackの略で、宇宙人とコンタクトするアメリカの政府機関だよ」

 「もちろん架空のものよ。もしかしたら実在するのかも知れないけど、少なくとも公式には存在しないわ。もう何十年も前アメリカでUFOが目撃されるようになった頃、同時に黒いスーツの男も目撃されることが頻繁にあって、UFOとの関連が噂されるようになったんだって。まあいわゆる都市伝説の類いなんだけど、長い間にちょっとずつ尾鰭が付いて、それを題材にした映画までできてしかもそれがけっこうヒットしたの。で、今ではかなり通用する言葉になっちゃったわけ」

 「梨乃さんスゴい! わたし全然知りませんでした!」

 「たまたまね。インチキくさいのけっこう好きだから」

 「えー!? 意外!」叫ぶ碧の隣で藍も頷いている。

「わたしもなんですけど!」そうだろうということは、さすがにここまでの会話で藍にも推測できていた。

「いやー、すごい脱線しちゃいましたけど、とにかくブルースシスターズとして活動してますから、って断って下さいよ!」

 「はいはい。って活動なんてしてないでしょ」

 「やだなあ、今だって活動してるじゃないですかー。ブルースシスターズの主な活動は、三人集まっておしゃべりする、梨乃さんに遊びに連れてってもらう、三人でいちゃいちゃする、ですから!」

 「最後のところに一抹の不安が残るけど、それなら確かに活動中ね」

 「はい! ま、ホントは名乗らなくてもいいんですけどね。わたし達だけブルースシスターズだって思ってれば」

 「……そうね」梨乃が二人の前、正確にはアスランの前まで進み出て膝立ちになると、両腕を大きく広げ、二人の首に腕を絡めて引き寄せた。アスランが何事かと頭を少し上げる。

 「!」「…!」藍はされるがまま、梨乃の胸に頬を押し当てた。柔らかな感触が頬に伝わってくる。

 「二人ともいい子ね」

 「えへへへ」「…………」

 「って、また揉んでるし」頬をつけたまま、碧が左手で梨乃の左胸を下から鷲掴みにしている。

 「梨乃さん、何でブラしてるんですか? パジャマなのに!」

 「普段からしてるよ」

 「普通しないよね? 藍ちゃんしてる?」

 「え…ううん……」梨乃の胸の上で、額同士が触れそうな距離で話している。

 「はずしましょう!」胸から顔を離し、勢いよく碧が言った。

 「え、何で?」その勢いに押されたのか、梨乃の言葉には動揺が聞き取れる。

 「ブラをはずすのに理由がいりますか!」勢い任せに無茶なことを言う。

 「要るでしょ普通」残念ながら梨乃の言う通りだ。

 「むー、そうですね。…じゃあ、それがブルースシスターズの掟だからです!」

 「掟作ってるし」

 「満場一致で可決されました」わざわざ立ち上がって一礼する。

 「満場一致?」

 「え? 誰が反対なんですか?」

 梨乃が無言で挙手した。そもそもどういう掟なのか明言されていないのだが。

 「賛成多数で可決されました」また立ち上がろうとした碧より速く、

 「いや藍ちゃん意志表明してないでしょ」そもそも多数決だとも表明されていない。

 「え? 反対に挙手してないから賛成ですよね?」

 「なかなかの議事運営ね。担任も褒めるわけだわ」

 「え? 梨乃さん贄さんと知り合いなんですか!?」

 「だったら面白かったんだけどね。さっきお風呂で藍ちゃんから聞いたの。先生も褒めてたって」

 「うちは副委員長が優秀ですからね!」

 「え…そんなこと…」

 「あるある! 藍ちゃん黒板に書くのがチョー速いんですよ!」

 「へえ」

 「字めっちゃきれいだし!」

 「それはイメージ通りね」

 「しかもわたしが思ったこと言わなくても書いてくれるんですよ! だからもう話の進むのが速くて。担任も驚いてましたからね!」当然、板書がどれほど速くとも司会がショボくては話など進まないのだが、その点について碧に自覚があるのかどうか藍には分かりかねた。

「もう一人の副委員長の河内くんも地味によく助けてくれるし。ね!」

 「うん…」答えつつ藍は改めて碧のことを凄いと思った。クラス中の視線を受けて場を仕切りながら、よくそんなところを観察しているものだ。

 「ホームルームまで楽しそうね」

 「はい!」

 「ちょっと羨ましいわ。さて、明日早いからそろそろ寝ましょうか」

 「ブラはずしてからですよ!」

 「ごまかされなかったわね。仕方ない、さっきの続きよ。藍ちゃん」

 「え…!? はい…」自分に矛先が向かってくるとは全く予測していなかったため、藍はひどく驚いた。

 「藍ちゃんもはずす掟に賛成?」

 「あ…え…と……」ちらりと碧に視線を向けると、押せ押せと言っているのが表情から伝わってきた。

 「はい…」蚊の鳴くような声を何とか搾り出した。碧の目が、でかした!と言っている。

 「賛成多数で可決されました」碧がまた立ち上がって一礼する。

 「仕方ないわね」梨乃としては、藍が賛成側に回るとは思っていなかったのだろう。

 「さすが梨乃さん!」

 「もう、調子いいんだから」部屋の端の自分の机に向かった。アスランが立ち上がり、トコトコとついていく。ちなみにラブはさっきから丸くなったまま動かない。寝ているのだろうが、アスランと違ってマイペースなものだ。

 「え!? こっち向いてくれないんですか!?」寝間着を脱いだ梨乃の背中に碧が叫ぶ。

 「それじゃ本当にストリップじゃない」手際よくブラジャーをはずし、机の上に置く。

 「えー! さっきは全部見せてくれたのに!」

 「そりゃお風呂なんだから全部脱ぐでしょ」素早く寝間着を着て、二人の許に戻ってきた。

 「やだ…梨乃さんセクシーすぎ…」碧の視線は豊かなふくらみの先端に焦点を合わせている。梨乃の寝間着は二人のものと違って胸部が立体的になるよう裁断されているのだが、それでも乳房の上にかかった布がその先端の形状を浮かび上がらせている。二人の胸部にそのような現象は認められないから、碧の目を引いたのだろう。

 「もう、碧ちゃんたら」

 「いやいや、ホントにセクシーですよ! ね、藍ちゃん!」

 「え…うん……」顔を真っ赤にしながらも、藍も碧と同じところを見つめている。風呂で見た全裸よりもこちらの方がずっと官能的なのはなぜだろう?

 「じゃあ寝ましょう。明日は五時起きよ」

 「はーい。あの、梨乃さん」

 「うん」

 「三人で一緒に寝てもいいですか?」

 「いいけど…さすがにちょっと狭いわよ」

 「全然いいです! 藍ちゃんもいいよね?」

 「うん…」それは藍も望むところだ。

 「梨乃さんセンターですよ!」碧の隣でないのが残念だが、その意図は分かっている。

 「はいはい。じゃあ奥はどっち?」押入れの方に向かいながら訊く。アスランも後についてきた。

 「藍ちゃん、いい? わたし多分寝相悪いから」

 「寝相悪いのに一緒に寝ようって言ったの?」枕を両手に梨乃が呆れ声を出した。

 「だってー。せっかくだから一緒がいいじゃないですかー」

 「…そうね。じゃ、藍ちゃん」枕を置き、掛蒲団をめくって促す。

 「はい…」蒲団に入り、壁際ぎりぎりに寄る。隣に梨乃が入り、

 「藍ちゃん、もっとこっち寄っていいよ」

 「あ、はい…」思い切って梨乃の方へ大きく身体をずらすと、右手が梨乃の左手に触れた。普段なら手と手が触れたりすれば反射的に手を引っ込めるところだが、今は寧ろ梨乃の手を握りたいくらいだ。今日一日普段通りでないことばかりだったせいだろうか。

 「入りますよー」言葉と同時に碧が梨乃の隣に転がり込んだ。譬喩ではなく、本当に身体を回転させて蒲団に入ってきた。

 「碧ちゃん、近い」

 「えー! 藍ちゃんには『もっとこっち来て…』って言ってたのに~!」

 「エロい脚色しない」確かに、少しの言葉の違いなのだが、受ける印象は大きく変わる。

「じゃあ電気消すよ」枕元のリモコンを手に梨乃が言う。

 「はい!」「はい…」二人の声が重なった後照明が消え、碧の向こう側でアスランが臥せる気配がした。

 「手つないでいいですか?」

 「ってもう繋いでるし」碧にそう言いながら、藍の手も握ってきた。思っていた以上に温かい。藍もそっと握り返した。

 「梨乃さんの手あったか~い」

 「自販機みたいな表現ね。ちょっと眠くなってきたからかな。あ、そうだ。かなり巻き戻るんだけど」

 「何ですか?」

 「何が決定したの? 私が入ってきた時」

 「そ・れ・は、ですね! 梨乃さんの誕生日プレゼント! マッサージ券と犬の散歩券! 但しマッサージは胸に限ります」

 「わあうれしい」完璧な棒読みで梨乃が答えた。

 「では早速」碧が身体を動かしたのが分かった。蒲団の中に空気が入ってきたところから推して、横向きになったのだろう。ということは、

 「もう! そんなことだろうと思った」きっと空いている右手で梨乃の胸を揉んでいるに違い無い。

 「ほら、藍ちゃんも」碧の計画通り、藍の立場からは正にどさくさ紛れである。藍も梨乃の方に身体を向けてそっと左胸に手を当てた。さっき額で味わった感触が左手に再現される。柔らかいのに、掌を押し返してくる弾力。一瞬の躊躇の後思い切って、手に少し力を入れてみた。

 「藍ちゃんまで!?」この十六年弱で一度も味わったことのない感触。碧の言う通り、ものすごく心地いい。

 「藍ちゃん、気持ちいいでしょ?」

 「うん……」

 「もう……何!? この状況」両胸を二人がかりで揉まれるなどアダルトビデオの世界である。藍はもちろん、碧も梨乃もそんなものを見たことは無いと思われるが…。

 そうして一分ほど好き放題に揉んだ後、

 「梨乃さん…藍ちゃん…大好き…!」碧が少し鼻声で言った。

 「……私もよ」

 「私も……」普段だったら碧相手であっても恥ずかしくて言えない言葉が、何故か自然と口をついて出た。

 「だけど」梨乃が二人の手を離して言う。「場所はチェンジ。藍ちゃんセンター」藍だけならば先程のような行為には及ばないと判断したのだろう。

 「え…はい…」答えるや否や、こちらを向いた梨乃に抱き抱えられ、碧の方に転がされた。

 「おおー、梨乃さんスゴい!」暗闇に目が慣れたのか、碧には隣で起こったことが分かったらしい。

「今までそうやって何人の女を転がしてきたんですか!」

 「『100人から先は覚えていない』」

 「うを! 梨乃さんも北斗の拳読んでるんですか!? わたしも! わたしも転がして下さい!」

 「いや、絶対その時胸揉むでしょ」

 「え、それはその、不可抗力ってヤツですよ」

 「その不可抗力を生まないために、却下」

 「えー! 分かりました。今夜は枕を濡らします」

 「乾かすのめんどくさいからそれも却下」

 「おぉ、色々封じられた」

 「さ、本当にもう寝ましょう。明日起きられなかったら置いて行くわよ」

 「はーい」「はい…」声を重ねて返事しながら、碧が手を握ってきた。その手を握り返した時、今度は梨乃が手を重ねてきた。

 今まで感じたことのない幸せな気分に包まれながら、藍は眠りに落ちた。




附 作中における虚実の説明


 現実世界についての説明は、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。

 作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。


鹽竈神社

 実在しますが、しおがま桜の木は大きく育っておらず、歩道に枝を張り出してはいません。

藍と碧が訪れる図書館

 実在します。松本市中央図書館です。

松本信用金庫 北支店

 実在します。

源太

(令和二年五月二十一日追記)

 実在しました。残念ながら令和二年四月三十日を以て閉店したそうです。

(以下、元の記述)

 実在しますが、営業時間は十一時半から十四時(頃)で、夜の営業はしていません。

梨乃が通っていた中学校、小学校、幼稚園

 実在します。それぞれ信州大学教育学部付属松本中学校、信州大学教育学部付属松本小学校、信州大学付属幼稚園です。

夕食後に立ち寄るケーキ屋

 実在します。ロンポアン(Rond Point)という店です。値段は、令和二年の実際の売価を元に、多少変更しています。

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