序
令和二年六月十三日 修正
iPadで見てみたら「…」がグレイ(宇宙人)に文字化けしている箇所がありましたので、修正いたしました。
序
暦の上では春になっているが、坂を吹き降ろす風が身を切るように冷たい。家々の向こうからようよう顔を出しかけた朝日はまだまだ敵せず、神社の敷地から玉垣を越えて枝を伸ばした桜の蕾は、風に怯えて身を縮めるかのように固く閉じている。
その蕾の下を、ちょうど今一人の少女が通り過ぎた。
年の頃は十四、五といったところか。
背中に垂らした長い黒髪、紺地に赤と緑でチェック柄を入れたマフラー、紺のダッフルコートに紺の手袋、小さな顔からはみ出るほど大きい黒縁の眼鏡。紺サージの膝丈スカートと学生鞄らしい黒の鞄から推して、外套の下は制服なのだろう。
身長は人並みだが、外套の上からでも判るほど細く、起伏の小さい身体。
彼女の外見を簡単に言ってしまえば、「地味」の一言に尽きるだろう。かなりの垂れ目だが目鼻立ちは整っているし、黒髪は淡い陽光を反射するほど艶やかだ。歩く姿を見る限り、姿勢が悪い訳でもない。なのに、美人という印象を全く受けない。華やかさに欠ける、と言うか、彼女自身がおしゃれというものを拒絶しているような雰囲気が有る。きっと、すれ違っても振り向く人など居ないに違い無い。
そんな彼女が坂道を登って行く。歩幅が狭く、足の運びもゆっくりなため、歩みはかなり遅いが、本人は頑張って歩いているらしい。僅かに白く見える、小刻みで浅い吐息がその努力を物語っている。
思いつめたような、怒ったようにも見える顔つきで黙々と進む彼女の瞳には、明らかに不安が揺れている。
桜の枝の下を通ってから数分後、表情がさらに強張った。視線の先、坂道の右手には、校舎らしき建物が民家の向こうに姿を覗かせている。
ほんの少し顔を伏せ、しかし視線はその建物に据えて、足の運びは変えない。
進むにつれ建物ははっきり校舎だと判るようになり、奥の道路より数メートル掘り下げられた地面に建っていることも見て取れるようになった。校舎の手前には、お世辞にも広いとは言えない校庭も見える。
校舎が真横に見える位置まで登って来たところで、彼女は足を止め、視線を校舎からはずして、歩行者信号の押しボタンを押した。
十秒ほど待たせて、信号は青に変わった。
信号を渡り、校舎の長手方向と平行に、緩やかに下る坂を進む。学校の敷地に沿ってまた右に曲がると、校舎の向こう側に別棟が二つあり、その先に校門が見えた。
コンクリート製の四角い柱に、車輪の付いた鉄製門扉。いかにもありがちな校門の脇で立ち止まり、年季の入った石製の表札に目を遣る。
「長野県立 松本高等学校」の文字を一瞥して、彼女は校門を抜けた。ざっと見たところ、校庭には誰も居ない。
ちょっと困った様子で彼女は校舎の入口に向かった。体育館らしき建物の横を通り過ぎ、校舎まで辿り着く。
校舎の前にも人の姿は無く、ガラス扉に視線をさまよわせていると、その扉が開き、教師と思しき背広姿の男が現れた。青年のようにも見えるし、中年のようにも見える男だ。中肉中背だが、微妙に腹が出ているので、おそらく中年だろう。
「おはようございます…」消え入りそうな声で挨拶した彼女に軽く驚いた様子で、
「早いね。こんなに早く来た子は初めてだよ。今貼り出すからちょっと待ってて」入口の脇にある緑色の掲示板にA3の紙を貼り始めた。
一枚目には「入学試験合格者(受験番号)」と大きく書かれ、二枚目以降にはそれぞれに数字が羅列されている。
受験票を鞄から取り出し、三枚目、四枚目、五枚目、と固唾を飲んで見守る。七枚目か八枚目の数字を確認した時、彼女の口から小さな溜め息が漏れ、
「……あった」とこれも消え入りそうな声で呟いた。それが聞こえたらしく、教師は手を止めた。
「お、そうか! よかったね。いやー、正直、不合格だったらすんごい気まずいなーと思ってたんだけど、合格でよかったよ。何番だい?」
「131番です…」幾分緊張が解けたらしく、今度の声はずっと明瞭だった。少し高めの、透明感のある、しかしあまり徹らなさそうな声。
「ほう、131番……」意味有りげな言い方に、急に不安になったらしく、再び顔を強張らせて、
「あの……?」また消え入る調子に戻った。
「ああ、いやいや、何も悪いことはないよ」教師は言葉を切り、一秒ほどの逡巡の後、「131番て確か上位五人に入ってたんでね。毎年公表はしないんで、我々以外誰もいないことだし、まあ聞かなかったことにしといて」およそ教師らしくない科白で締め括り、貼り出し作業に戻った。
「はい…!」安堵と喜びを滲ませて、もう一度掲示板に目をやった。確かに「131」の文字はある。
そしてもう一度受験票に視線を落とした時、
「よし! 合格!」左斜め後ろから快活そうな女の子の声が上がった。唐突さに驚いて、彼女と、一瞬遅れて教師も振り向く。
声と同じく、快活な感じの少女だった。立てているのか勝手に立っているのかよく判らない、短い前髪。横は耳の半ば辺りまでを無造作に隠していて、後は肩に掛かるか掛からないか。恐らくは地毛の茶色の髪に縁取られた卵形の小さな顔に、大きな目が輝いている。少し吊り目で、眼鏡はかけていない。一言で言って、美人だ。化粧しているようには見えないが、それでもテレビで見るアイドルのように可愛らしい。背は彼女より十㎝ほど低いだろうか、かなり小柄で線も細いが、弱弱しくは見えない。
制服に紺のダッフルコート、という服装は彼女と同じだが、与える印象はまるで違う。全体に、豹や虎のような俊敏さを感じさせる。
「あ、ごめんなさい、大声出しちゃって」
「いや今年はすごいな、こんな時間に二人も来るとは。君も合格なんだね。何番だい?」
「1番です」
「うん、1番は合格だね。ちなみに僕が集計したよ」
「そうなんですか!? ありがとうございます!」
「うん、集計者と合格は関係ないけど、どういたしまして」
「あはははは」楽しげな声に微笑んで、教師はまた貼り出し作業に戻った。
笑いながら少女は彼女の方を向く。
「入学するでしょ? ここ受かってよそには行かないよね」
「はい……」彼女はまた消え入りそうな声で答えたが、それを気にした風もなく、
「一緒のクラスになるといいね!」少女は朗らかにそう言った。
その言葉に彼女はひどく狼狽した様子で、二、三秒声が出なかったが、
「はい……」何とかそれだけ声に出した。
「じゃ、またね! 入学式で会えるね。先生、失礼します」
「うん、気をつけてね。入学を楽しみにしてるよ」
「ありがとうございます」教師に軽くお辞儀をし、笑顔で彼女にひらひらと手を振ってから、その少女は踵を返し、校門へ向かった。
「忙しい子だなあ。あー、君も、入学を待ってるよ」貼り出し作業を終えたらしく、手ぶらになった教師が彼女に声をかけた。
「はい、ありがとうございます…」表情は緊張したままだが、今度ははっきりとした声で答えた。この教師を親しみやすいと感じたのだろう。
「じゃ、気をつけてね」
「はい、失礼します…」彼女も軽くお辞儀をし、校門へ向かった。
その背中を見送りつつ、独りごちた教師の声は、彼女には届かなかった。「ずいぶん対照的な子たちだったけど……、ちっとがんばるか。1と131…」
合格発表から一週間後の午後。
駅前百貨店の昇りエスカレーターに乗る彼女がいた。先日ほどではないが、今日も緊張した面持ちだ。おそらく、普段からこういう表情なのだろう。今日も同じコートだが、下は制服ではないらしく、紺色の長いスカートが足首までを隠している。
一度乗り継ぎ、五階でエスカレーターを降りるが、すぐに足を止めて脇にある案内板を見た。十秒ほど眺めて位置関係を把握したらしく、迷いのない足取りで歩き始める。
若者向けではない婦人服の店を横目に通り過ぎ、それなりに広い百貨店の隅が、彼女の目的地のようだった。
クリーニング屋のような小さな受付と、その隣に試着室と思われる小部屋が二つ切ってあるだけの小さな店舗で、受付前に飾られている学生服やセーラー服、ブレザーが多少の賑やかしになっているが、受付に人影は無かった。
「あの、すみません…」頑張って出したらしい声は、それでも人並みよりずっとか細かったが、
「はーい! 少々お待ち下さーい!」小部屋の中から元気のいい声が答えた。
「はい…」律儀に返事をして、所在無げに待つこと約一分。
「はい、お疲れ様でしたー」という声に続いて右側のブースのカーテンが開き、
「あ! この前の!」こちらも元気のいい声と共に小柄な少女が姿を現し、人懐っこい印象の笑顔で彼女に手を振った。
「あ…! こんにちは……」
「こんにちは! 声でそうかな、って思ったんだけど、当たってたー! 制服作りに来たんだよね?」
「はい……」
「わたしもー。今採寸終わったとこ」
そこで店員が小部屋から顔だけ出し、
「お待たせしました! こっち準備できちゃってるんで、先に採寸しちゃいましょう!」彼女に声を掛けた。
「あ、はい……じゃあ」
「うん」
少女をカウンターに残してブースに入った。
「じゃあ、シャツ一枚まで脱いじゃって下さい。下は、スカートだけ脱いでもらえればいいです」
「はい……」答えて脱ぎ始める。
「ごめんなさいね、待たせちゃって。試着室二つあるのに、店員が今私だけで」
「いいえ…」
彼女は一分以上かかって服を脱いだ。
「これでいいですか…?」
「はい。じゃあ、測りますね」
店員は、肩幅、背丈、裄丈、と手際よく測っていく。
「どこの高校ですか?」首回りに巻尺を当てながら彼女に尋ねた。
「松本です…」
「あれ、じゃあ今のお客さんと同じなのね? 実は私もなの。去年卒業したんだけど」
「えっ、そうなんですか…?」
「うん、今は信州大学」
そこで初めて彼女は店員をまじまじと見た。まず目がいったのは長くまっすぐな黒髪。次に胸。飾りのない白のブラウスと事務員風の紺のベストが、豊かな曲線を描いている。身長は彼女より数㎝低いようだが、胸の膨らみは倍以上あるだろう。その下はすっと細く、腰周りはまたふっくらとしているのが、スカートの上から見て取れる。
彼女が見つめている間に、店員は腕付け回り、腕回り、手首回りを測っていった。胸囲に巻尺を当てられた時、顔を上げた店員と目が合い、急に恥ずかしくなったのか、彼女は目を伏せた。両頬が少し赤くなっている。店員は何も言わず、胴囲、腰囲、股下を測り、
「はい、お疲れ様でした! これで終わりです」と告げた。
「順序が逆になっちゃったけど、向こうで申込書書いて下さいね」
「はい……」消え入りそうな声でそう答え、服を着始めた。
外では店員と少女が話している。内容は聞き取れないが、朗らかな語尾が響いている。事務的な話ではないのだろう。紺のセーターに首を通しながら、彼女は小さく溜め息をついた。
二分ほどして彼女が試着室から出て来ると、
「あ、出てきた! ねえねえ、すごいよ! わたしたち!!」少女が興奮気味に声をかけてきた。
きょとんとする彼女に、
「今採寸してもらったじゃない? 寸法がね、ほとんど一緒だったんだって! 梨乃さんが、採寸表どっちのか間違えそうになっちゃったって!」
「梨乃さん…?」
「私」店員が自分の顔を指差す。「ごめんなさい。本当は言っちゃいけないんだろうけど、こんなこと初めてだから、盛り上がっちゃって、つい……」
「あ、いえ……」
「股下とヒップと腕回り以外、全部同じだったって! しかもヒップは1センチ違うだけ。すごくない?」
「あ、はい…すごい、偶然ですね…」
「でしょでしょ! 双子みたいだよね! あー、なんかうれしいなあ!」
その言葉に、彼女の目に動揺が走った。
「え……、私と、一緒で、ですか…?」
「うん! あんな時間に来てたのわたし達だけだったじゃない? 仲間いたーって思って! 先生もびっくりしてたよね! あの時は舞い上がっちゃってすぐ帰っちゃったんだけど、帰ってからすっごい気になったの。もうちょっと話せばよかったなーって」
彼女は黙っている。表情を見るに、動揺し過ぎて言葉を失っているのかも知れない。それに気づいているのかいないのか、少女は言葉を続ける。
「そしたら今日ここで会ったじゃない? ほかにも制服屋あるのに」
「当店を御指名頂き、まことにありがとうございます」少しおどけた調子で店員が割って入った。
「あはははは、どういたしましてー。ね!?」
「あ、はい…」二人のやり取りで動揺が落ち着いたのか、急に振られて驚いた様子を見せつつも、少し微笑んでそう答えた。
「ごめんね、話の腰折っちゃって」店員が軽く手を合わせてウインクする。
「いいえー。えーと、でね、これはやっぱ仲間だわ、と思ってたの」
「フラグ立ったのね?」再び店員が割り込む。
「間違いないです!」
彼女はまたきょとんとしている。二人の会話の意味が分かっていないようだ。それを見た店員が、彼女の方を向いて、
「特別な友達になれそうってこと」と翻訳した。
「特別な、友達……」
「でしょ?」彼女の目を覗き込んだまま、言葉だけ少女に投げる。
「はい! 梨乃さんすごい! ちょっと話しただけなのに。大学生は違うなあ!」
「うーん、大学生は関係ないと思うけど。じゃなくて、私の話じゃないでしょ」
「あははは、脱線脱線」舌先を出して、
「まあそういうことなの」どういうことなのか分かっていない表情の彼女を気にした様子無く続ける。
「で、しかも、寸法まで一緒なんだよ!? 普通こんなに偶然重ならないよ!」
「そ、うですね…」少女の勢いに押されたのか、ぎこちなく相槌を打つ。
「きっとクラスも一緒になるよ! なんか、別のクラスになる気がしないもん!」
「私も、そんな気が、してきました…」至極真面目な顔で彼女がそう言うと、
「ホント!? やったあ!!」少女は嬉しそうに笑った。
「じゃあまた制服受け取る時に会おうね! 梨乃さん、わたしたちの制服、同じ日にできてきますよね?」
「はい、ちょうど四週間後の午後ですね」店員口調に戻って答えた。
「じゃあ、四週間後またこの時間でいい?」
「あ、はい……」
「じゃあまたね!」手を振って歩き出そうとした少女を、
「ちょっと待って」店員が制した。
「はい?」
「んーと、話聞いてた感じ、二人ともまだお互い名前も知らないんじゃない?」その言葉に、彼女の方が先に反応した。
「あ、はい…あおいです」ぺこりと頭を下げた。長い髪がさらりと垂れる。
「えっ!?」少女は一瞬絶句した。
「わたしも!! わたしもあおい!! 名前まで一緒とは、双子どころか同一人物!? ひょっとするとドッペルゲンガー……」
「いや、誰がどう見ても別人だから。三日で死んだりしないから安心して」
「あああありがとうございます、梨乃さん。いやー、さすがに今のはびっくりしたわー」本当にびっくりしたらしい表情から、元の人懐っこい笑顔に戻ると、
「やー、ますますうれしいなあ! これからよろしくね!」そう言って手を振り、少女は店を後にした。
二人してそれを見送った後、
「…じゃあ、申込書記入して下さいね。ちょっと今更感あるけど、必要なんで」店員が彼女に言った。
「あ、はい……」カウンターの上にほったらかされていた紙に氏名、住所、電話番号と一通りを記入し、店員に渡す。
店員は受け取った申込書にすばやく目を通し、「はい、結構です。では来月のこの時間にお越し下さいね」と言った。午後、ではなくこの時間、という言葉に意図を感じたかどうか、彼女は、
「…はい。…よろしくお願いします」と答えた。
彼女の後姿も見送って、客のいなくなったカウンターで二枚の申込書を前に、
「……なるほど。違和感あると思ったんだよね」店員は独り言を呟いた。
さらにその四週間後。前の時と同じ三人が同じようにカウンターを挟む形になっていた。この日も、他には店員も客も居ない。
「いらっしゃいませ! あら、今日は一緒なのね」
「えへへー、エレベーターの前でバッタリ会ったんです」
「…こんにちは」彼女は軽くお辞儀をした。
「こんにちは。少々お待ち下さいね、今取って来ますから」
「はーい。楽しみだね! 制服! ここで着るでしょ?」
「え……?」
「え、着ないの? せっかくだから着てみようよ! どんな感じか見てみたいじゃない?」
「あ、はい……」
そこで店員が制服を両手に載せて奥から出てきた。
「梨乃さん、試着室借りていいですよね?」
「ええ、もちろん。もし間違ってたら大変だから、一応御確認下さいね」二組の制服をカウンターの上に載せる。
「あ、なるほど…」彼女が小さく呟いた。
「えーと、こっちがあいおいさん」
「はーい」受け取って試着室へ向かおうとしたが、
「こっちがあおいさん」というのを聞いて動きが止まった。
「はい…」
「梨乃さん、わたしもあおいですよ! わたしも名前で呼んでほしいなー」
「あ、私、苗字があおいなんです…」申し訳無さそうに彼女が言った。
「えー!! てっきり同じ名前だと思ったのに……」見るからにがっかりしている少女に彼女は、
「ごめんなさい……」そう言って俯いた。少女は慌てて、
「あ、やー、こっちこそごめんね、勘違いしちゃって」と言って、そこで少し考えた。
「えーっと、じゃあ、名前は?」
「あい、です…」
「どんな漢字? あ、わたしはね、普通のあいおいで、名前は紺碧の碧であおい」
「…ブルーのあお、ソウじゃなくてセイのあおに井戸の井であおい、あいは藍染めの藍です」
「相生碧さんと青井藍さんね」いつの間にか制服の申込書を手に、店員がまとめた。
「あおいあい、あいおいあおい……やっぱなんか仲間だわー」
「名前が同じよりも似てる感は上な気がするわね」
「梨乃さんもそう思います!? 二人とも『あ』と『い』と『お』だけだもんね」
「しかも、二人とも青色に関係ある名前だよね」
「ホントだ!! ブルースブラザーズだ! ……あ、そっか、梨乃さんはわたし達の名前知ってたんですね」
「青井さんの名前を見たのは相生さんが帰った後だけどね。…せめてシスターズでしょ」
「梨乃さん、名前で呼んで下さいよー。藍ちゃんも。……藍ちゃんて呼んでいいよね?」
「…………」ちょっと難しい顔をしたまま固まっている。
「あれ? もしかしてよくなかった?」急に心配そうな顔でそう訊くと、
「あ、いえ……。親以外、名前で呼ばれることないから……」藍も少し慌てた様子で答えた。
「そうなの? でも藍ちゃんでいいよね? わたしも名前で呼んでね!」藍の目をまっすぐ見つめながら言う。
「はい……」答えながら一瞬視線を合わせ、すぐに目を伏せた。
「やったあ!」両手をパチンと鳴らして喜ぶ。
「よかったね、碧ちゃん」
「はい! じゃあ、着てみよ!」制服を手に、碧は試着室へ入った。藍も引きずられるように隣へ入り、カーテンを閉める。
約一分後、カーテンの向こう側から元気な声が響いた。「着替え完了! 藍ちゃんはー!?」
「あ、まだです……」こちらは消え入りそうな声だ。
「終わったら言ってー。同時に出よ!」
「あ、はい……」
さらに約一分半。か細い声で「終わりました…」と聞こえてきた。
「じゃあ出るよ。せーの!」右側のカーテンは勢いよく、左は遠慮気味に開き、なのになぜか二人同時に出て、互いの方を向いた。
どこにでもあるようなセーラー服だ。上下濃紺で、四角い襟、V字の胸元、膝下丈のスカート。襟の縁取りも白の二重線と没個性的だ。
そんな平凡な制服でも、初めて着る時には気分が盛り上がるものらしい。碧は全身からウキウキがこぼれているようだし、恥ずかしそうな藍からも、喜びが滲み出ている。
「藍ちゃん、めっちゃ委員長っぽい!」
「え、そんなこと…」
「あるある! ね、梨乃さん!」
「そうね、委員長と言われれば確かにそれっぽいけど……私としては、文学少女!って感じだけど」
「うわっ、それも間違いない! 文学少女の委員長だね!」
「…………」耳まで真っ赤になり、俯いている。それが店員にとっては想定外のことだったようだ。
「あ、ごめんね、無口で真面目そうだからそんなイメージだなって。からかってるんじゃないから」
「はい……」
「でも藍ちゃん本好きでしょ? しかも古典とか」碧が自信たっぷりに言う。
「あ、はい…あの、何で…?」
「さあ? 何となく分かっちゃった。こういう時ってはずれないよねー」根拠なく同意を求められた二人は顔を見合わせ、
「まあ確かに直感が当たる時は、疑問とか感じないかな。私はそんなにないけど」店員が同意した。
「あ、あの…、碧さんも本好きなんですか?」
「うん、好きー。だけど、数はたくさん読んでないかな。わたし読むの遅いんだよねー」
「どんなのが好きなんですか…?」
「怪奇ものー」
「それはなかなか意外ねえ。ねえ?」
「はい……」
「えー? どんなの読んでそうに見える?」
「推理小説とか……」
「それも当たり! 推理ものも好きー。梨乃さんは?」
「私も推理小説」
「では一番好きな本は? 藍ちゃんから、はい!」
「えっ…、と、片恋…です。ツルゲーネフの……」慌てながらも迷わず答えた。
「片恋? 初恋じゃなくて?」店員が訊く。
「はい…片恋はあまり有名じゃないですけど、私はこっちが好きです……」
「わたし全然知らないんだけど、ロシアの人?」
「はい…十九世紀の……」
「ふうん、今度読んでみよっと」
「じゃあ次は碧ちゃん、はい!」店員が真似をして言う。
「うーん、迷いますけど、一番はラヴクラフトのアウトサイダー、大瀧啓裕訳、かな」
「西洋の怪奇ものなのね?」
「そうですねー。日本のも読みますけど、西洋の方が好きですねー。じゃあ最後は梨乃さん、はい!」
「私は京極堂シリーズで、ベストは絡新婦の理、かな」
「おお! わたしも推理部門は京極堂! 魍魎の匣がベスト」
「……読んでみます」初めて藍が会話に割り込んだ。碧は一瞬驚いた表情を浮かべた後、満面の笑みに変わった。
「そうこなくっちゃ! わたし貸すよ! 一巻から読んでほしいし」
「あ、じゃあ、私も…ツルゲーネフを……」
「うん、貸して貸して! ついでに藍ちゃんのオススメを二、三冊~」
「はい」相変わらず小さな声で、しかしはっきりと答えた。
「じゃあ、入学式の時に交換しよ!」
「はい」
二人の遣り取りを微笑んで見ていた店員が、
「あれ? 私には誰も貸してくれないのかしら?」わざとらしく頬を膨らませる。
「あはははは、梨乃さんかわいい~。じゃあ梨乃さんにはラヴクラフト全集! …でいいですか?」
「ありがとう。碧ちゃん、いい子ね~」
「えへへへ~。梨乃さん、明日もここ来ます?」
「ここのバイト、今年は今日で終わりだから……メッセージで連絡して落ち合うのは?」
「もちろんオッケーです! ね、藍ちゃんも!」
「あ…私、携帯電話、持ってなくて……」申し訳無さそうに肩をすぼめる。
「そっか、じゃあ、家の電話番号、教えてもらっていい?」
「はい…」
三人で連絡を取れるようにしたところで、
「おおっと忘れてた! 藍ちゃん、わたしにさん付けはなしだよ」碧が話題を変えた。
「……え?」怪訝顔で見つめる。
「さっき、碧さんって言ってたじゃない?」
「え…、そうでしたっけ……」困った顔で俯く。
「無意識に言ってたんだよ、きっと。初めて会ってからまだ三回目だもんね。藍ちゃん人見知りする方みたいだし、仕方ないんじゃない?」店員が助け船を出した。
「そっか。そうですね。でもこれからはさん付けなしにしてね」
「はい……」とりあえず返事はしたものの、困った様子は変わらない。
「何て呼ぶのがいいかしらね」再び船が出航する。
「さんじゃなければ何でもいいんですけど」
「碧様」
「そう来ましたか。やー、それもなしで」
「碧殿」
「うーん、意外と悪くないけど、藍ちゃんから呼ばれるとなると……」
「碧どん」
「碧って定食屋のオリジナル丼みたいですね」
「碧たん。碧ちん。碧つん」
「うーん、わたしの方は全然オッケーなんですけど……」藍の方を見る。店員もちらりと彼女を見て視線を戻し、
「碧!」急に大声になった。
「おぉ! びっくりしたぁ!」碧が文字通り飛び上がる。満足気にそれを見て店員は、
「いい反応!」またちらりと藍を見る。
「でも、藍ちゃんとしては、ないみたいね。となると、……」
「碧ちゃん」消え入りそうな声で藍が言った。碧が驚きながら彼女の方を向き、
「うん、それで!」彼女の両手を取った。そのまま店員の方を向く。
「梨乃さん、わたし今萌えました!」
「そうみたいね。私も違うところで燃えたわ」
「?」二人の目が疑問符色に染まっているのを見ながら、
「藍ちゃん、誘導尋問みたいになっちゃってごめんね」
「いえ……」頬が赤くなっている。両手はまだ碧に握られたままだ。
「でも二人のお陰で、誘導が楽しいって知ったわ。私入る学部間違えたかも」
「燃えたってそれですか!?」
「あの…、梨乃さんの学部って……」
「あ、私医学部なんだけど、法学部が正解だったかも。まあ、うちの大学にはないけどね」
「法学部出ても法廷では誘導尋問できないと思いますけど……」藍の手を離しながら異議を申し立てる碧に続いて、
「信州の、医学部ですか……」眼鏡の奥の目を丸くして藍が呟く。
「マジか……ホントにいるんだ、そんな人……」碧も呟く。そんな、というのは才色兼備、の意だろう。
「でもあなたたちも松本でしょ? 大学でも後輩になってくれることを願ってるわ」
「梨乃さんも松本なんですか!?」
「うん、そう」
「それは頼もしいなあ。ね、藍ちゃん」
「はい」藍が強く頷いた。
「ありがと。何でも訊いてみて。分かることは答えるから」
「はい!」「はい…」同時にそう言った。
「ふふ、息ぴったりねえ」そう言うと急によそ行きの顔になり、
「ところでお客様、制服はいかがですか? 寸法は合ってますか?」
「んーと、少しゆるい気もしますけど、丈はバッチリです!」セーラー服の裾を前方に引っ張りながら碧が答えると、
「私も、同じです…」藍は裾を下に引きながらそう言った。
「はい、じゃあ、ちょうどいいですね」そこでちょっと言葉を切り、
「冬場厚着できるように、うちではわざと少しだけ緩めに作るんです。それと、高校に入ってから成長する人もけっこういるので。もちろん、お客様からぴったりで作るように言われればそうしますけど」
「そう言えば申込用紙の質問欄に『ぴったり』『普通』の選択があったような。そういうことだったんですねー」
「そういうことだったの」営業スマイルを解除してさっきまでの表情に戻り、「洗ったら縮むってのもあるけどね」
「よーし、服に合わせて成長するぞー!」
「帝国陸軍みたいなこと言って」
「梨乃さんまでいかなくてもいいから」店員の胸を凝視しながら、
「ね、藍ちゃん!」
「え……、私は……」言い淀みながらも、同じように店員の胸を見つめる。
「二人とも、見過ぎ」
「! …すみません」
「やー、なんか見出したら目が離せなくって。ね!」同意を求めながらまだ凝視している。
「…………」こちらは真っ赤になって俯き、答えるどころではなくなっている。
「梨乃さん、なにカップですか?」
「G」
「じい!? ってことは…………うわ、倍以上だ……私とそんなに背変わらないのに」
「…倍?」藍には意味が分からなかったらしい。
「わたしAだからトップとアンダーの差4インチで、梨乃さんGだから10インチ。でも多分アンダー同じ……。65ですか?」
「ブラはね。二つ詰めてる」ホック二つ分ということだろう。
「うわ、そこは私と同じだ……。倍どころか三倍四倍だな……」
「あの…ブラのカップってそういう決め方なんですね…」その言葉に二人が驚いて彼女を見た。
「え? 知らなかったの?」
「はい……なるほどと思いました…」
「あー、うん」話をどう進めればいいのか困ったのだろう、歯切れ悪く返事して、店員をちらりと見る。助けを求められたことを察して、
「では、特に直すところはなし、ということでよろしいでしょうか」必要以上の営業口調で話を元に戻した。
「はい!」「はい…」
「では、畳み直しますので、もう一度お着替え下さい」
「はーい。行こ!」
それぞれ試着室へ入ること一分半、ほぼ同時にカーテンが開き、二人が出てきた。二人とも、セーラー服を大事そうに両手に抱えている。
「梨乃さん、お願いします!」言いながらセーラー服をカウンターの上に置く。
「お願いします…」その左隣に藍も置いた。
「はい、少々お待ちくださいね」言葉より先に手は作業に入っていた。
てきぱきと慣れた手つきで二組の制服を畳んでポリプロピレン袋に入れ、さらにそれを手提げの紙袋に入れる。一連の作業を、二人は何となく無言で見ていた。
「お待たせしました」それぞれに紙袋を差し出す。
「ありがとうございます! 梨乃さん、手際いいですねー! めっちゃ見ちゃいましたよ。藍ちゃんもじっと見てたよね!」
「はい…すごく綺麗に畳んでました…」
「本当? うれしいわ、かなり練習したからね。お客さんいない時に」本当に嬉しそうな表情だ。頬に少し紅が差しているのを見逃さず、
「梨乃さんかわいいー。もしかして照れてますか?」
「うん、そうかな? このバイトけっこう長いけど、これで褒められたの初めて」
「練習とかするんですねー」
「そりゃあ、お客さんの手前、適当ってわけにはいかないし、あんまり時間かかってもダメでしょ」
「そっか、そうですよね」
「きれいに畳んで当たり前なんだけど、褒められるとやっぱり嬉しいね。……二人のおかげでバイト人生で最高の日になったわ」
「えー、言い過ぎですよう」店員の後ろの壁に目を泳がせ、突然、
「あっ!!」と叫んだ。
「どうしたの?」
「やー、今日クラス会があるんですよ、中学の先生ん家で。そろそろ行かないと遅刻しちゃうなって」壁の時計を見たらしい。
「そっか、じゃ気をつけて帰ってね」
「ありがとうございます! でもその前に…」隣に立つ彼女の方を向いて手を握る。
「藍ちゃん、お願いなんだけど」
「はい…?」
「敬語もなしにしてほしいな! 同い年なんだし……」
「あ、は……うん」
「ありがと! じゃ次は入学式でね!」
「は…うん…」
「梨乃さんも、ありがとうございました。夜電話しますね!」
「待ってるわ」
「じゃ!」紙袋を左手に持ち、右手をひらひらと振りながら、碧は店を後にした。残った二人も手を振り返し、角を曲がってその姿が見えなくなったところで、店員が口を開いた。
「碧ちゃん、いい子ね」
「はい……」
「ずいぶん気に入られちゃったね」
「…………」言葉なく俯いたが、表情には照れはなく、寧ろ不安が表れている。
「藍ちゃんも碧ちゃんのこと好きでしょ?」
「はい……でも……」
「うん?」
「何で私なんか……」
「うん?」
「私、こんなだし…中学でも友達っていうほど仲いい子はいなかったんです」
「何でかは分からないけど、藍ちゃんが碧ちゃんのこと好きになったみたいに、碧ちゃんも藍ちゃんのこと好きになっちゃったんでしょ。で、碧ちゃんは気持ちがすぐ行動につながるタイプみたいね。ちなみに、私も藍ちゃんのこと好きになっちゃったわよ。もちろん碧ちゃんも」店員が諭すように言う。こんな、の部分には敢えて触れずにおいたのだろう。一呼吸置いてさらに、
「藍ちゃん好きな食べ物は?」と訊く。
「え……? ……ウニです……」
「何でウニ好きになったの?」
「え………………覚えてません…」
「でも好きなんだよね?」
「はい……同じってことですか…?」
「私はそう思うよ。まあ喩えは良くなかったけど」
確かに良い喩えとは言えないが、自分が励まされているのは分かったらしい。
「はい……ありがとうございます」固い表情のまま、しかし微かに口元を綻ばせた。
「うん。あ、そうだ、話変わるんだけど、ツルゲーネフ、碧ちゃんの後に貸してくれる?」
「あ、はい、もちろん」
「ありがと。じゃあ、碧ちゃんから直接受け取っていい?」
「はい」
その時、梨乃が彼女の後ろに視線をやって、
「あ、お客さん来ちゃった。ごめんね」軽く両手を合わせた。
「いえ…、じゃあ……」制服の入った紙袋を掴み、会釈する彼女に、
「うん、またね」短く手を振る。
藍は、ぎこちないながらも笑顔を返し、店を後にした。
「いらっしゃいませ」よそ行きの声が彼女の耳に入った。
附 作中における虚実の説明
現実世界についての説明は、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。
作中に登場する、実在する本についての説明は省略いたします。
長野県立松本高等学校
実在しません。
作中では、現実世界における長野県立松本深志高等学校の位置に存在します。名称を変えただけではなく、校舎等の配置も深志高校とは違います。
梨乃の勤める制服屋
実在しません。
作中では、現実世界における井上屋百貨店五階の東南角に存在します。
登場人物の声について
藍は野中藍さん、碧は悠木碧さん、梨乃は梨乃@ボーダーレストラベラーさんの声(地声)を思い浮かべながら書いております。御存知の方は、是非御想像下さい。




