第122話 天も海もまだ知らない
「――『届き得ぬ向こう』ですか?」
「あぁ」
それは、『陣』の生成を終えた日のことだった。ヴォルフはシャルハットを引き止め、シャルハットの十八番である、『届き得ぬ向こう』について尋ねる。
シャルハットは、顎に手を当て考える素振りを見せた。
「うーん、流石のヴォルフさんでも無詠唱っていうのはちょっと難しいんじゃないですかねぇ。ご存じの通り、詠唱して魔術を使うのと無詠唱では、難度が違います。特に『届き得ぬ向こう』は恐ろしく違うんです。……うーむ」
再び、シャルハットは黙り、数秒後何かを思いついたように指を鳴らした。
「……そう、まさにイタリアのピザと日本のピザくらい違うんですよ」
「……」
ヴォルフも1分ほどの詠唱を行えば、魔力消費が凄まじくとも『届き得ぬ向こう』を行使することができる。無論それでは、全くもって戦闘の役に立たない。
シャルハットが無詠唱かつ連発できるのは、『黄昏の2』たる所以だろう。『器』の魔力量もヴォルフの次に多い男だ。
「私にはそりゃ適正はありました。けど、何か秘訣とか、才能が目覚めた『きっかけ』みたいなものはありませんでしたからねぇ。単に死ぬほど鍛えただけですよ。……ま、私も一応人生懸けてますしねー、魔術に」
「……そうか」
ヴォルフとしては、『届き得ぬ向こう』に関するなんらかのヒントを得たいと思っていたが、期待できないようだ。
日々、鍛錬を続けるしかないだろう。
そうすればいつかは使い物になる日が来るかもしれないし、何かをきっかけにして『届き得ぬ向こう』の勘所を掴む日があるかもしれない。
「まあ、私としてはヴォルフさんに、ぜひ会得してもらいたいと思ってますので協力できることがあれば何でもしますよ」
「? ……なぜだ」
「……たまーに私と、殺し合おうとか考えてません?」
ヴォルフは、内心笑った。この男には鋭い洞察力がある。
「私はヴォルフさんと違って、強い相手と戦うとかはできる限りごめんなんです。もっとヴォルフさんが強くなれば、私を強者として見れなくなるでしょう? 早くあなたの眼中から抜けたいものです」
シャルハットはおもむろに、手をヴォルフの方へ伸ばした。だが、シャルハットの手は目に見えぬ壁にぶつかり、ヴォルフの方へは届かなかった。
「こうやって壁を出さなきゃ、話す気も起きません」
「……安心しろ。今はお前と殺り合う気はない」
シャルハットは魔術団の中では一番マシだ。殺し合う中で、彼が化けるかもしれない。ただ、少なくとも、ゼフィラルテを復活させるまではシャルハットと構える気はない。今はゼフィラルテを優先する。
「今は……ね……。まぁ、イメージすることですよ。他者との壁を」
「……参考になった」
ヴォルフは分身を消し、シャルハットの背後を後にした。
「……はぁ。やっぱ、私じゃ相手にならないですって……」
うんざりしたシャルハットの声が聞こえた。
◆
ヴォルフは、神経をこれ以上ないほどに研ぎ澄ました。
ヴォルフを屠ろうと玄間が拳を突き出す。
ヴォルフには振り返り、そのモーションを目で捉えることすら叶わない。ヴォルフが玄間を視界に入れるまでの時間で、奴は容易にこちらを10回は殺せるだろう。
0.01秒、いやそれよりも速いのか。当たり前に、頭も身体も反応できない。
しかし、勝利へ導いてきた膨大な魔力を孕む『器』が、他の魔術師を圧倒してきた経験が、針の穴を通す繊細な魔力操作の技術が、その全てがヴォルフの魔力動かした。
玄間は強い。
どういう訳か、本体も見破られた。
この距離では、今あるヴォルフの手札で玄間を退けるのは不可能だ。
だが、それでも自分が強いと証明して見せる。勝って見せる。
――お前との間に……、壁を、見えぬ壁を創造するッ!
煙が一瞬にして晴れ、分身が消滅する。
最大同時魔術行使数3。その全てを捨てて、1つの魔術の集中する。
時間にして0.003秒。
ヴォルフは魔術を無詠唱で行使した。
――『届き得ぬ向こう』。
成功する確信は持てなかった。
だが、玄間の攻撃を防ぐ手段はこれしかない。
全ての攻撃を、物理干渉を無効とする光の盾。
魔術に加え、刃物、拳銃、ライフル弾、更にはロケットランチャーですら、これを貫くことはできなかったという。
知る限りの最強の盾。
ヴォルフの天賦は、この絶体絶命の刻において留まることを知らなかった。
「……残念だったな、玄間」
魔術の成功は、後ろを振り返ることができたことから理解した。
玄間の一撃はヴォルフに届かなかったのだ。
玄間は拳は見えぬ壁で止まっていた。
「俺の……勝ちだ」
「……」
ヴォルフは再度分身を展開する。玄間の後方に50体を超える分身を出現させ、逃げ道を塞ぐ。『届き得ぬ向こう』がある今、こちらへの爆風の考慮をする必要はない。
この分身体を全てを玄間にぶつけ――
「――試したのか?」
「……何?」
「この魔術は……何を通さなかったんだ?」
玄間は拳を壁から離していなかった。
玄間は更に左手を壁に当て。
「拳銃か、手榴弾か、ミサイルか。精々、そんなもんだろ。それで無敵だと信じた」
この壁は何も通さない。無敵の魔術だ。
「それじゃあよ……ォ」
玄間の上半身の筋肉が膨張していくのがわかる。
玄間は、両手で壁を、
「不十分じゃないか……?」
引き裂くように。
――不可能だ。
玄間から何か禍々しくどす黒い威圧感を感じ、ヴォルフは無意識的に後ろに下がってしまった。
「試行不足だ」
亀裂。
「な……」
「お前は、何にもわかっちゃいねぇ」
あり得ない。
この魔術は、いかなる物理攻撃を無効化する。
亀裂が入ることなど。
ヴォルフの考えを否定するように、亀裂が更に広がる。
「お前はこの世界にある一つの闇の中を制しただけだ」
玄間は静かに、しかし、凄まじい圧迫感を持って言葉を紡ぎ続ける。
音を立てて壁が崩れていく。
「この世界の闇は深い、そして限りがない」
「……バカ……な」
この時、初めてヴォルフは動揺した。
玄間に分身を投げられ、不意を突かれた時ですら、冷静に最善の一手を打ったヴォルフが今、動揺していた。
人生で初めてだろう。
優秀な魔術師しか使えない魔術をあっさり使いこなしてしまった時、自身の想像を超える魔術の威力で壁にデカい穴を開けてしまった時、実父を殺害した時、日本でおびただしい数の自販機を目にした時、木原達とハールトが共謀して『暁の6』を殺めたのだと察した時も。
そのどれも、ヴォルフの心を揺さぶることはなかった。
この瞬間がヴォルフをかつてないほどに揺さぶった。
「対人課長が、お前に負けてるようじゃ、『黒葬』は成り立たねぇんだよ」
玄間はヴォルフの方へと足を踏み出す。
――俺が……負ける? この俺が?
ヴォルフは、自分がいかに矮小であるかを感じてしまった。
不可能を乗り越え、無敵と信じる壁を生み出し、それが破られた。
ヴォルフの思っているよりも世界は広く、魔術は完全でなかったのだ。
ヴォルフは自身の完全なる敗北を悟った。
「ぁ……」
言葉が出ない。
常に自分が一番上だった。
自尊心は砕け散り、そこにあった感情は。
悔しさ。
酷く惨めで滑稽な自分を思い、悔しさを噛みしめる。
あと数年修行をこなしていればまだ戦えていたかもしれない。
更に爆発の火力があれば玄間を削り切れていたかもしれない。
『届き得ぬ向こう』を早く会得していれば更なる戦術のパターンが。
否。
――違うな。
全てを否定されたヴォルフだったが、それでも。
――それはふさわしくない。
ヴォルフはただ、目を閉じた。
人生初めてのことだ。激しい想いに駆られながら、一度口を固く閉じ、歯を食い縛り、そして、ヴォルフが最後に口にした言葉は――
「――見事だ」
強者への賛美を持って、ヴォルフは口を閉じた。
「……あばよ、ヴォルフ」
対人課長、玄間天海の拳はヴォルフの上半身を無慈悲に撃ち抜いた。
長めのあとがきです。もちろん、読まなくても大丈夫です。
~補足~
・シャルハットはハールトともにピザを食べて、日本のピザへの偏見をちょっと改めたみたいです(89話)
・本文にある通り、ヴォルフは『暁の6』殺害の犯人を薄々察していました。ゼフィラルテ復活において『暁の6』殺害はあまり嬉しくないですが、起きたものは仕方ないので咎めることはしませんでした。まあ日本の自販機の多さと並べられているようにレイパンドお爺ちゃんの生死はどうでもいいみたいです。
~おまけ~
前回のサブタイトルと今回のサブタイトルを合わせると、「井の中の蛙、大海を知らず」のもじりとなっています。
当初悔しさに激情を吐き出し無様にやられるヴォルフを書く予定でした。テーマとしてもそれが理にかなっているのですが、書いているうちにヴォルフはそんなことを言わない気がしてきたので、変更しました。彼の美学なのか何か捨てきれない誇りがあったのか、玄間を認める形で散ります。
玄間は強者と戦うことを楽しみとする性格ではないので、認められてどうとかはありませんが、それでも何か感じる物があったのではないでしょうか。
p.s.何か気になる点などあったらお気軽に聞いてください。私も忘れてるかもですので……