四月二〇日 スミレの砂糖漬け
雷が落ちたような音と、水に何かが落ちる音。それを聞き、優子は急いで障子を開ける。縁側から庭へと出ると、ため池のあたりがどこか騒がしい。つっかけを履いてため池に出ると、なにかキラキラしたものがため池に落ちているようだった。
誰かがいたずらに投げ入れたのかと近寄ってみると、妙に大きい。見ると、西洋の甲冑がため池の中に沈んでいた。鯉たちが端のほうによって遠巻きにしている。
優子はため息をつくと、この大きな鎧をどうやってどかそうかと頭を悩ませる。すると、小さく人の声が聞こえることに気づいた。鎧を捨てた犯人かとあたりを見渡す。
「……あら、あらあら?」
優子が耳を澄ますと、どうやら忍び笑いだと思っていたものは人のすすり泣く声だったらしい。そして、それはどうやら目の前の鎧から聞こえているらしい。ピクリとも動かないそれにそっと手を伸ばし、震える手でその面頬を持ち上げた。
中にはやはり人がいた。嘆くでもなく、悲しむでもなく、ただただ鼻を鳴らしながら泣き続けている。サファイアの瞳から涙が流れ続け、何で濡れているのか区別がつかない。目の前に人がいることも、自分がどんな状況にあるのかも把握しているか怪しい。
優子がそっと鎧男の裾端を引いたが、ピクリとも動かない。困り果て、一度縁側へと戻る。ゆっくりと縁側に座って、一息ついてなお、鎧男はピクリとも動かない。優子はこめかみに手を当て呻くと、ふと顔を上げて台所へと向かった。水屋から紫色の小瓶を取り出す。ポットのお湯をマグカップに注ぎ、瓶の中身を一つ落とした。スプーンでかき混ぜ、両手で抱えて庭に出る。先ほどの体制からピクリとも動いていない男の元へ近づけた。甘い香りが漂い、ようやく男が反応を見せる。ぼんやりとした様子で、ゆっくりとマグカップを見つめる。
「そこにいたら寒いでしょう、こっち来て、体を拭きなさいな。あったかい飲み物もあるさかいね」
鎧男のサファイアの瞳が、ようやく優子をとらえる。ゆらゆらと視線がさまようが、優子が自分の隣の芝生をたたくと、やがてのそのそと立ち上がった。金属のこすれ合う音が響き、池の中から立ち上がる。立ち上がってはじめてわかったが、池の中にいてもなお優子より背が高く、体格もいい。
優子が手を引くと、おとなしく池から上がってきた。池のふちに座り込み、優子からマグカップを受け取る。暖かい湯気に誘われそっと口をつけると、冷えた体がぶるりと震えた。優子は一度その場を離れ、タオルを取りに家の中へ戻る。柔らかな味はどこか懐かしい。
「スミレの砂糖漬け、気に入ってもらえてよかったわあ。外国の人なら緑茶よりそういうののほうがええやろ?」
優子がバスタオル片手に戻ってくる頃にはカップの中身はほとんど残っていなかった。鎧の男はさっきとは打って変わって機敏に振り向くと、突然深く頭を下げた。優子にはわからない言葉で勢いよくまくしたて、周りをグルグルと見渡す。
ぱたぱたと手を振る男に、優子もおろおろと手を振って言葉をかける。やがて優子の言葉を聞いた男が悩むように眉間にしわを寄せると、小さな声でブツブツと何事かをつぶやいた。
「あー、助けていただき感謝する。ここは何処だろうか」
「あら、日本語お上手やわあ。ここは宇治の方やさかい、電車乗り間違えてきてしもたんとちゃいますかねえ」
優子の言葉を聞き、再びキョロキョロとあたりを見渡してはブツブツと何事かをつぶやく。
そして意を決したように優子の目を見つめると、聞き取ることさえ困難な国の名前を優子に尋ねた。
「聞いたこともないねえ」
「どうなっているんだ……」
「とりあえず……」
優子が口を開くと、男が少しかがんで声を聴こうとする。その様子をみてふわりと笑うと、優子は男の手を取った。
「まださむいやろ、スミレ湯のおかわりでもいかが?」
「……いただきたい」
これが、のちにユウと呼ばれる男との、初めての邂逅だった。