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助手席に僕、後部座席にお金持ちを乗せ、お父さんは車をゆっくりと発進させる。銀座へと向かう車内の空気は梅雨の季節のように重たいものだった。お金持ちは散歩に連れて行ってくれていると思っているのか、どこかせわしげだった。お金持ちには何も話していない。どこに向かっているのか、何のために向かっているのか、そして僕たちが今度どうなるのか。お父さんが沈黙にたまりかねて学校はどうかと僕に話題を振ってきたが、それに付き合うつもりはなかった。もうお金持ちを家では飼えないという事情は理解できていたし、お父さんのことを憎んでいるというわけでもない。それだけ僕の心の中は、これから訪れる別れの悲しさでいっぱいだった。
お父さんが銀座三越の前に車を停めた。お父さんは僕に目で合図をし、そのまま車を降りる。僕とお金持ちはお父さんの後に続いて車を降り、三人で歩道へ出た。
「お金持ち、とても辛いけど……これでお別れだよ。これからお前は自由なんだ。好きな時間に会社に行けるし、夜遅くに外出することもできるんだよ」
僕は両手を上に伸ばし、お金持ちの両頬に手をあてる。お金持ちは困惑の表情で僕とお父さんを交互に見つめる。そして、僕の言葉の意味を理解するやいなや、驚きと悲しみの入り混じった表情を浮かべた。僕はそのお金持ちの表情を見て、胸が張り裂けそうになった。
「祐介」
お父さんがわざとらしく咳払いをし、僕の名前を呼ぶ。
「運動をちゃんとするんだよ。働きすぎは良くないからね。好き嫌いはせず、ちゃんとお野菜も食べるんだよ。それから、それから……」
お父さんが僕の肩を強く叩く。僕が振り返ると、お父さんは肩をすくめ、無念そうな表情で首を左右に振った。僕はお金持ちから手を離した。そして、お父さんに腕を掴まれ、車の中へと押し込まれる。お金持ちはどうすることもできず、ただただその場に立ち尽くしていた。
車のドアを閉め、お父さんが車のエンジンをかける。お金持ちは躊躇うように車に近づき、両手を窓ガラスに当てた。お父さんがアクセルを踏み、車がゆっくりと動き始める。お金持ちも車と並行して走り出す。それでも少しづつ、僕たちの距離は離れていく。お金持ちの足がもつれ、固いコンクリートの上で激しく転倒した。
「お金持ち!」
僕はお金持ちの名前を叫んだ。通行人が何事かとこちらを振り返る。それでもお父さんは車を停めてはくれない。お金持ちの姿が少しづつ小さくなっていく。僕は窓を開け、もう一度お金持ちの名前を叫んだ。お金持ちが立ち上がり、離れていく僕を追いかける。
「ゆうすけ!!」
お金持ちが僕の名前を呼んだ。そしてそのタイミングで、車は左折し、お金持ちの姿は僕の視界から消えてなくなった。