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お金持ちの会社での用事が終わった後、僕たちは日比谷公園へと立ち寄った。開けた芝のスペースで僕はお金持ちの首輪からリードを外してあげる。リードから解放されたお金持ちは嬉しそうに辺りを駆け回り、ジャケットを着たまま仰向けに寝っ転がり、背中をかくように身体を左右へ身動ぎさせた。
「せっかくの高いジャケットが汚れちゃうよ」
僕はお金持ちを立ち上がらせ、背中についた草や土を手で払ってあげる。
「お金持ち、お手」
僕はお金持ちの前に手を出し、そう命じた。お金持ちは膝立ちになり、左手をお行儀よく僕の手の上に乗せた。僕がお次におかわりというと今度はきちんと右手を乗せる。ちんちんと言うとすくっと両足で立ち上がってみせる。
よしよし。僕は再び膝立ちの格好になったお金持ちの頭を撫でながらつぶやく。そして喉の調子を整え、僕は自分を指さしながら言った。
「お金持ち。ゆーうーすーけ。ゆうすけ」
「……」
しかし、お金持ちはきょとんとした表情を浮かべるだけで、何も喋ろうとしない。僕は小さくため息を付きながら、バッグに入れていた『お金持ち育て方ガイド』を取り出し、躾の仕方という章を開いた。
【お金持ちは知能がある一方、プライドが高い生き物なので、躾をするのが難しいと一般的に言われています。しかし、一度心を開いたご主人に対しては情愛や忠誠心を持つようになります。そのような絆を結ぶことで、お手やおかわりだけでなく、ご主人の名前を呼ばせることも可能になります】
僕はガイドをパタンと閉じ、もう一度お金持ちの方へと向き直った。
「お手やおかわりまではできるようになったから、後もう少しだよね」
僕はそう言うと、お金持ちは不思議そうに小首をかしげた。なんでもないよと僕は笑いながら立ち上がり、周囲を見渡す。太陽は黄色からオレンジ色へと変化し、遠くから五時を告げるモノ悲しげなサイレンが聞こえてくるような気がした。
「よし、お金持ち。あそこの入り口まで競争だ」
僕はそう言って走り出す。後ろを振り返ると、お金持ちも嬉しそうに顔をほころばせながら僕の後ろを追いかけてきていた。僕は周りをはばかることなく大きな笑い声をあげる。するとやまびこのように、僕の後ろを走るお金もちの笑い声が聞こえてきた。