仔蜘蛛の糸
とある日のこと。
コンクリートの卒塔婆が林立する現世からの毒気に侵された極楽の地にて、マスクをして咳き込んでいる御老体が一人。俗にお釈迦様と呼ばれるお方でございます。
お釈迦様はずいぶんと汚れてしまった蓮池の、茶色く枯れた蓮の花を物悲しい表情で眺めながら、少しばかり昔の出来事を思い起こしておられました。
今では現世の民がせっせと流し込んだアスファルトが蓋をしてしまいまして容易には眺めることも出来なくなってしまいましたが、この蓮池の水面からはかつて、咎人が落とされるべき地、地獄のその底が透けて見えておりました。
かつては翡翠色をしていた蓮の花の上に美しい蜘蛛がおりまして、お釈迦様はその日、極楽から一人の咎人に向かって蜘蛛の糸を垂らしたのでございます。
殺人や泥棒などの大罪を犯したその咎人は生前、たった一つの善行を行っておりました。通りがかりに小さな蜘蛛を一匹、助けたのです。
咎人はお釈迦様の垂らした蜘蛛の糸をのぼって極楽へと向かおうとしましたが、途中でふと下を覗き込んだところ、大勢の者達が細く頼りない糸に群がっているのを発見します。
このままでは糸が切れると思った咎人は「俺の糸だぞ、降りろ」と言いました。
その途端、蜘蛛の糸はぷつりと切れて咎人は地獄へと真っ逆さまに落ちていきました。
さもありなん。
己の浅ましさの為に、この咎人は地獄へと逆戻りをしてしまったのでございます。
お釈迦様は戯れに、今一度誰かの頭上へ蜘蛛の糸を垂らせばどうなるのかしらと思い立ち、蓮池のまわりをゆっくりと歩きながら蓮の花の上の蜘蛛をお探しになられました。
やがて一匹の蜘蛛が見つかり、その銀色の糸を紡いで、そろりそろりと、現世へ垂らすことにしたのでございます。
この柔らかく繊細な蜘蛛の糸では固く閉ざされた地獄へは到底届きません。ですので、お釈迦様は現世のとある街へと向けて糸を垂らし、はじめにこれを見つけた者がのぼってこられるようにされたのです。
さて、酷く疲れた顔をしたサラリーマンが交差点の真ん中に垂れ下がっている蜘蛛の糸を見つけたようです。
サラリーマンは目を輝かせて糸に捕まり、せっせとのぼりはじめました。
お釈迦様はじっとその様子をご覧になっています。
やがて、かつての咎人の運命をなぞらえるように、他の者達が蜘蛛の糸の下に集まって来ました。
彼らは垂れ下がった蜘蛛の糸にしがみつくことをせず、サラリーマンの服を掴んで引き摺り下ろしました。
代わりに別の若者がのぼろうとすると、また他の者がそれを阻止してしまいます。
蜘蛛の糸は切れずにそこに残ったままです。
誰かがのぼり始めると他の誰かが集団でそれを止めさせてしまい、一向に誰も、極楽へはのぼれません。
お釈迦様は不思議に思いました。
あの時は、誰もがその糸へと群がり我先に極楽を目指したものです。
ですが今、人々は糸を遠巻きに眺めながら、のぼろうとする者を糾弾することに夢中になっているようです。
辛抱強くお釈迦様は蜘蛛の糸を握りながら待ちましたが、もはや誰もそれに捕まる者はなく、やがて糸は放置され朽ちて、風に舞いいずこかへと、消え去ってゆきました。
お釈迦様はまたひどく咳き込み、震える体を手でさすりながら、蓮池のほとりから立ち去ってしまわれました。