ep,18 放火魔の孤独8
「フレーム……?」
そう、と純白の翼を携えた彼女は、コクンと首を縦に振った。
使力の後躯体さ。それは前駆体たるオリジナルと本質を同じくする強化型――もしくは、オリジナルと異なる性質を有した特異型。使力っていうのは自身そのもの。在り方そのもの。魂の変質化、在り方の変化、嗜好性の変容――いずれかの要因が、進化へと影響を与えるらしいよ。フレーム:β、γって呼んだり使力一期、二期後躯現体とも呼ばれてるね。
魂……。そう言えば、フェルトもそんなことを言っていた気がする。
「プロトコルの使力がそれだって言いたいのか?」
察しが良くて助かるよ。――そう、彼の使力はフレーム:β。対象の人物の心の奥に根付いた強烈なトラウマ、悪夢を引き起こし、囚う、そんな能力。
「……この光景が、僕のトラウマ?」
いいや。さっきも言ったけど、ここは君の深層心理、思念空間。彼が見せる悪夢じゃない。少しだけ手を出させてもらってね。予定より少し早かったけど、悪夢から捕まる前に、君をここへと引っ張ってきた。
「じゃあ、僕が今無事でいるのは、君のおかげってことか」
それは違う。それは適切な表現ではないね。さっきも言ったでしょ、ぼくは君、君はぼくなんだ。
「僕が……君」
うん。だから、ようするに自力で君はここまで来た――そういう解釈でいいよ。
……うーん。あまり釈然としないが、彼女がそういうのだから、そういうことで間違いないだろ。
「とりあえず、僕はアイツを倒したい。どうすればいい?」
今のままじゃ、間違いなく勝てない。殺されるだけだよ。
「じゃあ、どうすればいい?」
……プロトコルとまともに戦うためには、前提条件として悪夢に打ち勝つ必要がある。
「悪夢……アイツの使力か」
そうだよ。彼の見せる悪夢、トラウマを打ち超えない限り、彼をまともに捉えることはかなわない。……彼がタイマン最強と謳われていた所以はここ。彼は悪夢のセカイに陥れた人間を自在に操ることが出来る。――しかも、本人はそれを自覚することが出来ない。彼の使力のなかみを理解しない限り、それを自覚することはできない。何も理解できないまま、自分の身体を思うままに弄られるんだ。
理解できない――自覚できないまま……なるほど。僕の身体がおかしな方向にひん曲がったのは、それか。確かにあれは、何もわからないうちにすべてが終わっていた。片が付いていた。
「そういうことなら、僕はもうアイツの使力を理解してるわけだし、大丈夫なんじゃないのかな」
そうだね。悪夢に打ち勝つことが前提として、ね。
「勝てる。勝ってみせるよ」
自信家だねえ。まあ、ぼくなんだから当然か。
言って、何もない真っ白だった世界に黒い歪みが生まれる。
――なら、ぼくから言うことはもうないよ。……けど、ここから出る前にもう一つだけレクチャーする。
思念空間っていうのは、言うなれば個人の認識の世界なんだ。君の脳が物事を思考するその時間、思念空間を彷徨うその間は、君の身体は無防備なんだ。
「待ってくれ。きみの言うことが確かなら、ここは思念空間でその間の僕は無防備な状態ってことだ。――今この状況が、まさしくそれなんじゃないのか?」
……うーん。今言ってもわからないだろうけど、この思念空間は特別でね。虚数混沌、その海――ていうらしいんだけど、ここには時間もなければ空間っていう概念すらない。
「混沌? 虚数……って複素数がどうだのっていうあれのこと?」
違うよ。でも、まあ結局は同じことか。ぼくもその辺の知識には疎いから、詳しくはシキナガに聞くといいよ。
「……? シキナガって誰?」
いつか会えるよ。ヤなやつだけど、博識なのは確か。
知り合いなのか、その表情からは懐かしさと、少しばかり憂いのような寂しさが伺えた。
「わかった。ソイツに会ったら詳しく聞いとく、君のこともね」
……ぼくのことって。……さっきも言ったけど、ぼくは君――――まあ、そのうち分かるよ。確かに今はまだその時ではないからね。これまたさっきも言ったけど、君がここに来るのは予定としてもっと後のはずだったんだ。だから、今回はなけなし。不可抗力みたいなもんなんだよね。
彼女の言っていることはいまいち、彼女風に言うならば我がことながら、よくわからない話である。
しかし。彼女の言葉に嘘や偽りはない。これはたしか。
少なからず、彼女は本気だ。
「わかった。――いや、わかってないけど、とりあえずは目の前の事を片付けないとだ」
彼女に背を向け、黒く歪みがかった円状の窓に歩みを進める。
「また会えるかな」
会えるよ、絶対。
そっか。呟いて、今度は振り返らずに、進んだ。
――――振り返らないで。
決して。
今度の君は、ぼくにはならないで。
◆
暗く湿った空気、仄暗い水底を思わせる。水面のように揺れる風景。
ここはどこ。わたしはだれ。
自我はある。意識なんてのはあってないようなもの。
まるで万華鏡。合わせ鏡を見ているよう。
ああ、僕だ。自分で自分を俯瞰する。
ここはなんだ。
ここはどこなんだ。
どこだっていい。とにかくここは、なにかヤバい。
早いところ、ここを離れた方がいい。直感的にそう悟った。
歩く。歩く。ひたすらに歩く。
歩けど歩けど、壁というものに一切たどり着けず。
この暗闇はどこまで続いているのか。
体感時間にしておよそ十分、歩き続けてようやく何かそれらしい物が見えてきた。
「扉……?」
ギィ。躊躇なく開く。すると、急に明かるげな光が差し込んできた。
眩しい。明順応するのに数秒要した。
眼前に広がったのは見覚えのある風景。
どこかしらの大型ショッピングモールだろうか。子連れ夫婦やカップルや友人同士といった客でにぎわっている。
「ここは……」
頭が痛い。記憶が混濁する。
お腹が痛い。内臓が捩じれるように蠕動する錯覚。
体が重い。水の中で身動きしてるよう。
ああ、ここは。そうだ――――
瞬間、セカイが黒く染まり。同時、時間が停止する。
そうだ。ここは―――これは、ハヤトが消えた日の光景だ。
黒い靄。否、黒い渦。どっちでもいい。結果的に、どちらも変わらない。
消えるハヤトをただ茫然と眺めるだけの僕。怯えて、身体全体が小刻みに揺れている。
なんて、情けない。
いや、止めに入らない、外野でこうして俯瞰しているだけの僕も、言えた義理じゃない。
そうこうしているうちに、僕の親友は完全に焼失した。
◆
暗転。次いで、明転。
ここは……?
ここはハヤトの家。眼前に見えるのはハヤトの妹。
立ち尽くす僕に、ただただ背を向けるだけの彼女。
謝る。謝罪。謝辞。僕の頭で思いつく限りの詫び言を並べた。
「……してよ」
わなわなと、血が出るくらい強く握りしめる拳。
「返してよ! お兄ちゃんを、返してよ!」
そんなの、僕だって返して欲しい。
でも、起きてしまったことは、もう覆りようがないんだ。
「……消えるのが、アンタだったらよかったのに」
呟くように、吐き捨てるようにボソリとソレを零した。
◆
なんだこれ。何だってんだ、コレ。
痛い。痛い痛い痛い。
悪夢か。地獄だここは。
こんな場所一秒だって居たくない。
◆
黒い。黒と赤。赤と黒。綺麗だ。コントラスト。はは、笑える。
生暖かい液体。ドロリと鼻腔にこべり付くねばっ気。口内には執拗に滞る饐えた鉄の味。
黒いフローリングは凍るように冷ややか。対して僕の方はというと興奮して高揚していた。
はあ、はあ。目を血走らせながら小刻みに息を吹く。沈まれ、静まれ、鎮まれ。
いけない、これ以上はいけない。
これ以上気持ちよくなると、もう戻れない。アッチに、戻れない。戻りたくない。戻りたくない? なんで?
なんでって。なんでだろう。
わからない。判らない。
唇についた血痕。拭うように親指で、なぞるように。閉じた唇を歪ませる。
◆
恍惚とした気分。反して、今にも吐き出しそうな不快感。腹の底から虫が這って昇ってきているような。そんな錯覚。か細い手が、喉元を掴む。
黒いローブの気色悪い男が覆いかぶさる。そのまま、僕の意識を削るように、張り詰めた糸を切り裂くように。喉元を掴んだ手を、思い切りに、徐々に徐々に絞めていく。
ああ、ダメだ。これ以上はいけない。
これ以上は絞まらない。締まるわけがない。
握りすぎて、僕の首はとっくにてるてる坊主だ。
やめろ、離せ。痛いだろうが。
呟くように、それでいて叫ぶように吐き捨てて、首元を絞める細い腕を握りつぶした。
ザラリ、と砂が落ちる感触。手にかかる生暖かい粒状体。
『ヒヒ……痛くないようにシてやろうと、思ったのニ……ヒヒ……ヒヒヒ』
ザア、と砂塵に帰す黒ローブの男。
ああ、そうか。ここは、プロトコルの使力が見せるトラウマのセカイ。
悪い記憶の回想、その循環。
これが、そうなのか。
自覚することすら残酷。自覚しないまま、堕落できていたならどんなによかったか。
さっきの首絞め男を退けたということは、精神面での支配・攻撃はあれで最後なのだろうか。
だとしても、僕は肝心かなめの出口。ここからの脱出方法を知らない。
「さて、どうしたものか……」
しかし、今この瞬間にも僕の肉体は無防備なままだ。それを思えばそう悠長にもしていられない。
早く出口を探さなきゃ。
◆
歩く、歩く。
歩くだけじゃ飽き足らず走る、奔る。
「……一体どこまで続いてるんだ」
まるで果てのない荒野。慣れる頃にはきっと足が止まらなくなってる。
「…………はあ、はあ」
息が荒い。そりゃそうだ。この方止まることなく数時間ものあいだ、動きっぱなしなのだから。
前に繰り出す足を振り下ろした瞬間――まるで底が抜けたように体が崩れた。
「な―――」
足場が消失する。奈落へと落ちる気分だ。
まもなくして地に足が付く。そこは――
「ここは……」
『親友の消えた瞬間』
ああ、またこれか。
幾数回と繰り返した光景。
「ていうか、君だれ」
おもむろに、いつの間にか僕の後ろに立っていた人影に語りかける。
『お前だよ』
その姿、容姿、姿形。それは僕だった。まるで僕だった。寸分違わず僕だった。まったくもって、僕であった。
「僕?」
『他に何に見えるって言うんだ』
そりゃそうだ。
『僕はお前の中のお前、お前は僕』
そんな存在、と答えた。
さっきの彼女ではない。その姿は僕そのものだった。しかし―――
「君は……僕じゃないね」
言って、僕と同一の姿をしたナニカを臨む。
『……なんで、そう言えるのかな』
「なんでって言われても、納得して貰えるような根拠はないよ。……でも、僕じゃない誰かから『僕はお前だ』なんて言われても到底信じれないだろ」
『…………』
沈黙。しばらくして、口を卑しく開いた。
『へえ。勘がいいのかな? ご名刹。騙して悪いけど、僕はお前じゃないよ』
汚らしい笑顔で、そう答えた。僕の顔で、そういうのやめて欲しいなあ……。
『でも、なんでわかったのかな。僕の言ってること、彼女のそれとそう大差ない内容だったはずだけど』
「君の言葉には真実性がなかった。彼女の言葉にはあった。それだけだよ」
なるほど、と手を打つ。
『そう言えば、嘘を見抜く能力を持ってたな。こりゃ失敗。前回もしてやられたけど、お前達相手にからめ手は無意味だね、どうも』
前回? お前達? 何を言っているのかあまりよく分からないな。
「君は一体なんだ? どうして僕と同じ顔をしてる?」
『僕? 僕はお前が使力だと思ってる物だよ』
使力だと思ってるモノ?
「僕の剣が、君だって言うのか? でも、剣に意識なんてあって、あまつさえどうして僕の悪夢に出てくるんだ?」
『そりゃあ意識くらいあるさ。僕達は色んなのがいるけど、どれもこれもそんじょそこらの物質で構成されていない。この世の物理法則に反する架空原則。0の産んだ調律の祭器。まあ、今はお前のもんだからさ。お前の姿形をしてるって寸法だよ』
またまたよく分からない話になってきた。
『お前をここに落としたのには理由がある。僕としても、ここでお前に死んで貰うのは本意ではないからね』
「死ぬって、たかだか悪夢じゃないか。そりゃ、時間はかかるだろうけど、いつかは慣れると思うんだけど」
『慣れるってのがそもそもダメなんだよ。こんな風景に慣れきってみろ、それこそ廃人だ。この世の恨み辛みを集約した怨嗟や醜悪で悪辣な世界風景。慣れるだって? そんなやつはそもそも人間で無くなっているんだよ』
「……なるほど」
『だから、少しだけ手助けしようと思って。具体的に言うと、僕はお前の力を底上げすることが出来る』




