偵察任務
〜〜一年前。冬。演習場にて〜〜
深夜の時間帯にも関わらず頭の中は冴えている。斥候という緊張感溢れる行動をしているのもあるが、一番はこの寒さのおかげだ。開眼している瞼に霜が降り、瞳の奥に張り付く寒さは慣れていない者ならば音を上げてしまうかもしれない。
肩に積もる雪の棚を払いのけもせず歩く。時折向かい風になる空気は雪の結晶を共に運び、心の臓へとこびりつく。
無垢な白を踏み潰し、行先は定まらぬままにまた一つ潰し、雪の悲鳴は鼓膜の奥へと吸い込まれる。
「こちら斥候二班。感明送れ」
先行く者の足跡を辿らなければこの景色に迷ってしまう。吹く風、降る雪、積もる足場、その全てが行動力を奪っていく。
「……以後は敵陣緊迫の為、通信閉所。終わり」
流れていた通信音が途切れる。無線機の電源を落とし、無用の長物となったそれを背負っていたリュックサックの中に押し込んでいる。
「タケさん。もう敵陣近いんですか?」
無線機を力任せに押し込む後ろ姿に俺は声をかける。タケさんは飛び出たアンテナをくの字に曲げて紐付きのカラビナで無理矢理止めている。機器を管理する通信係が見たら激怒するような雑さだ。
「それを調べるのが斥候だろ?」
つまり分からない。むしろ分かっていたのならばわざわざマイナス二十度の世界で歩く必要は無い。その為の斥候なのだ。
「この辺りの地図を見る限り、あと二キロほど北に行った所に陣の構築に適した場所がある。恐らくはその辺りだろうな」
地図と方位磁石を交互に見やり俺に説明する。赤の遮光が施された懐中電灯は使用せず、月明かりを頼りに地図判読を行う。
「沢があるが……この雪だ。埋まっていて通れないだろう。こっちの林内を通る。枯れ木で偽装効果は低いが二人仲良く道を歩くよりかは見つかりにくい筈だ」
話を聞きながら俺は身の回りの装備を点検する。弾倉や銃剣、携帯円匙に水筒。そしてこの訓練の肝であるレーザー照射装置の有線コード。全て異常無しだ。
「暗視眼鏡は使いますか?」
戦闘用ヘルメットに装着している暗視眼鏡、通称V8と呼ばれる夜間暗視装置だ。
俺は片手でV8を下ろし、右目の所で位置を調整して電源を入れる。
右目に広がる暗視装置特有の緑の視界。目の前のタケさんはくっきりと見えるが周りの風景は降る雪で少々見づらい。左目は夜の闇の中の雪。右目は絵の具をぶちまいたかのような緑一色。両極端な視界は慣れてない者であれば頭が痛くなる。
「いや、使わん。視界が狭くなるしこの月明かりだ。無くても見えるだろ?」
「そりゃ見えますけども……」
貴方と比べると見えませんよ。その言葉は飲み込んだ。
あくまで噂話なのだが、タケさんは視力も並外れているらしい。健康診断の数値上では視力は俺と同じ数値であるが、それはそれ以上測る指標が無いからというもの。聞いた話によると、訓練中に数キロ先の敵散兵を裸眼で補足し砲迫要求で撃破したという逸話まであるとの事だ。当然その時の天気は今のように雪景色では無いが、それでも人並み外れていると言えた。
「さぁ、いくぞ。動かないと身体が冷えきっちまう」
タケさんは地図をしまい、肩にこびりついた雪を払うと前を歩き出す。
「あっ、待ってくださいよ!」
荷物と装備を持ち直し、俺とタケさんは風と雪に気配を溶かし敵陣へと進んで行った。
―――――
「なんで俺がこんな事をしなきゃいけねぇんだよ!」
「言うな! 私も苦肉の策なのだぞ」
四角く整えられた生け垣の裏で俺とリーファは肩を寄せ合う。筋肉質な俺と女性にしては大柄なリーファが小さな生け垣に隠れるには身体を密着させる必要があったのだ。
吐息が皮膚を撫で、汗に混じった女の匂いが俺の神経を鋭敏にする。昨日の昼にルチアのミニスカートを見て無ければ俺の中の劣情が暴走していただろう。
「来た来た来た! 姫様だ!」
「お嬢様な? この街じゃそう呼ぶ約束だろ?」
鼻息を荒くするリーファの視線の先には教室がある。その真ん中の席に座るプリシラを認めると、隠れている生け垣から今にも飛び出しそうなほど身を乗り出す。俺が慌てて押さえなければそのまま前のめりに倒れてしまう。
「あ〜らら、緊張してんなアレは。双眼鏡使う?」
「いらん! 私は目が良いからな」
「さいで」
せっかくの申し出は丁重に断られてしまう。仕方無しにと俺は自分の双眼鏡を覗き込む。
「これが魔法学園ね。意外普通のよくある学校みたいな形なんだな」
学びの場というのは世界が変わっても基本的には変わらないのだろう。天を移動する空中楼閣を想像していた俺は普通過ぎる建物の構造にやや落胆していた。せいぜい珍しいのは大きな時計台の時計が魔法陣の模様というだけだ。
「今日が初日だからな。姫様の勇姿をこの目にしかと焼き付けなければ……っ!」
「何も戦場に向かう訳じゃあるめえしよ。ただの自己紹介だろ?」
俺達が草葉の陰から変質者紛いの行動をしているのには理由がある。
明朝の食事の時間の際にリーファから頼まれたのだ。曰く、今日がプリシラの転校初日であり、本来なら自分が側に付いて姫の安全を守りたかったらしい。
しかし、学園側に護衛の同行は他の学生に迷惑という理由で拒否されてしまい、リーファはプリシラに付いて行くことが出来なくなってしまった。そこで大人しく聞き入れれば話はそこで終わるのだが、終わらなかったからこそ今ここにいる。どうすべきかと悩んだリーファは学校に忍び込むと言い出したのだ。当然、俺を含めて皆が止めた。
それで止まればどれほど楽だったか。
結果的に全員の制止を振り切って強行しようとする。そんな聞く耳持たないリーファを見かねたバルジが一つ提案する。
誰か常識のある大人が一緒に付いて行けば良いですぞ。っと。
白羽の矢が立つとはよく言ったものだ。
バルジは同行を拒否し、ジェリコはいつもの散歩で不在。ノウとファムは子供だ。ルチアに関してはリーファが拒否、もし何かあったら困るとの事。
消去法で選択肢は消えていき、最終的に生贄に選ばれたのは俺でしたという話だ。
「あぁっ! 姫が立った!」
「立つぐらい普通だろ。生まれたての子鹿じゃねぇんだからよ」
先ほどからこの調子だ。教室から離れているのを良い事に、忍び込んでいるにも関わらず大きな声を上げている。四周を警戒する俺の身にもなってほしい。
双眼鏡越しに映るプリシラは教室の前側、教壇の横に立っており何やら文字を黒板に書いている。俺にはその文字がなんと書かれているか理解出来ないが、自己紹介といえば自らの名前を名乗る場だ。恐らく自分の名前を書いているのだろう。
「わたしはぷりしてら……いえ、ぷりしらといいます……」
「えっ、なんだよ急に?」
隣でブツブツと呟くリーファに俺は思わず距離を取ってしまう。引き気味な俺を一切気にすることなくリーファは一点を凝視し言葉を呟く。
「読唇術か?」
読唇術とは声が聞こえなくても唇の動きで言葉の内容を読み取るというモノ。習得にはかなりの訓練と期間が必要だが慣れてしまえば隠密行動や情報収集に便利な技術である。
「フッフッフッ。凄いだろう? たとえ姫が声を発することが出来なくなっても言葉が分かるように身につけたのだ」
その熱意と努力は評価するが、リーファのプリシラを見る視線のおぞましさが素直に賞賛することを許さない。
「あっ!? 姫、言葉が出てこないのですか? ぬぅ、周りもヤジを飛ばすなっ! あの赤髪のガキめ、頭カチ割られたいのか!」
もう一度双眼鏡を覗くとプリシラが口を噤んでもじもじと身体をくねらせているのが分かる。どうやら緊張のあまり何を自己紹介すればいいのか分からなくてなってしまったように見える。沈黙が続くにつれ教室の空気もざわつき始め、中には暇を持て余しヤジを飛ばす生徒もいる。
「なっ、赤面女だとっ!? おのれ……お前の頭の方が真っ赤だろうが! 生意気そうなボサボサ頭めが!」
リーファの目にはヤジを飛ばす生意気な生徒が見えるのか酷く憤慨している。
「お前って姫の護衛なんだよな? それにしてもちょっと過保護過ぎないか?」
ただの護衛にしては少々行き過ぎている感がになめない。子を心配する母の心情とでも言うべきか。とにかくリーファのプリシラを見る目は普通では無い気がする。
「当たり前だ! 私は姫がまだヨチヨチ歩きの頃から見守っているのだぞ。今日に至るまで、姫の趣味嗜好に下着の色まで把握している!」
「お前、今変な事言わなかったか?」
前半は忠義溢れる騎士の台詞なのだが、後半の台詞が不審者の言う言葉に聞こえたのは俺の気のせいだろうか。
「あぁ! 姫が私の選んだパンツを履いていると考えただけで身を包む多幸感! この感覚……まさしく愛だッ!」
「お、おい、お前の頭は大丈夫か!?」
興奮してきたのか身をよじり悶え、隠れているのにも関わらず大きな声で叫ぶその姿に俺は真冬の雪原に似た寒気を感じてしまった。
「あぁもうっ、我慢ならんッ! 姫を助けに行ってくる!」
「バカかお前ェ!? 何で隠れてるのか忘れたのかよ!」
身を隠していた生け垣を飛び越えリーファはズンズンと教室に向かって歩き出す。慌てて俺は後ろから羽交い締めにして止めようとする。
「邪魔をするなッ!」
「うっそぉ!? 力強すぎだろ!?」
腕を掴まれるとまるで濡れタオルの水切りのように思いっきり振り回され飛ばされてしまう。
それもそのはずだ。リーファは片手で身の丈を超える槍斧を振り回しながら飛龍の手綱を操るだけの腕力があるのだ。並みの男など袖にされてしまう。
しかし、いくら力の差があろうとも俺は男の子だ。自衛官として日々鍛錬を積み、タケさんの激烈指導にもついていった自尊心が成すすべもなく負けることを許さない。
「だぁぁッ、クソッ! 上等だ。力尽くでも止めてやらァッッッ!!」
俺はリーファの腰に抱きつくように掴みかかり全体重を乗せて後ろに引く。
「むぉ!?」
さすがに八十キロ越えの男の全体重は支えきれないのか、リーファは姿勢を崩し俺を下にする形で地面に倒れこむ。
「えぇいこの変態男! ついに本性を現したな。ルチアのみならず私まで肉欲の牙にかけようというのか!? 私の身体は奪えても姫の貞操は奪えんぞ! むしろ私が貰い受ける!」
「お前は何言ってんだっつーの!」
支離滅裂で散々な物言いに反論したいところだが、生憎にもそうはいかない。
鍛え抜かれた背筋は筋肉質であるのだが硬すぎることは無く、むしろ女性特有の柔らかさがある。手に感じる腹筋の割れ目も同様だ。男勝りの怪力の裏にこのような女の武器を隠し持っていることに俺の股座は否応無しにも反応してしまう。
「違えって! あ、くそっ、暴れんなコラッ。待て、そこは蹴るなって!」
揉みくちゃになりながらも俺はかつてタケさんに習った柔道の寝技技術とレスリングのグランド技術を駆使して優位に立ち、遂にマウントポジションを取る。
(勝ったッ!)
一つの困難を乗り越えた喜びに俺は思わず握り拳を天に突き上げる。
「……あの〜、そこの不審者さん。何をやられているのですかね?」
不意に言葉を掛けられ、声がする方向を見る。そこには手に鋏を持ち生け垣の手入れをする茶髪の優男がいた。
若い見た目に細めの肉体。糸と見紛う細目に丸いフレームの眼鏡を掛けている。服装は俗に言うアカデミックドレスという海外の大学行事に着る服によく似ている。
鋏を服のポケットにしまいこむと男は服の裾に付いた葉っぱや枝のカスを振り払い俺の元に近付く。そして何やら呆れた様子で大きなため息を吐き出す。
「あのですね。ここは学び舎ですよ? 行為に及ぶなら子供達の目に届かない所でお願いしますよ?」
「……えっ?」
言われて俺は自分がどのようなことをしているのか気付く。
俺の股下にいるリーファは着衣が乱れ呼吸も荒い。動いたおかげで頬もほんのりと赤らめている。対する俺も似たようなモノだ。
百人が見れば百人が言うだろう。事案の現場だと。
背筋に冷たい汗が伝う。俺は恐る恐る、学校関係者と思しき男に己の胸の内の不安を伝える。
「け、警察だけは勘弁してください……」
ドラマや映画で聞き慣れたこの台詞をよもや自分が言うとは夢にも思っていなかった。俺のあまりにも情けない姿に茶髪の男は勿論のこと、未だに下にいるリーファまでもが呆れ顔で困惑してしまっていた。




