捨てる神あれば
気がついた時には既に動いていた。
日頃の訓練や稽古で丸太のように太くなっていた俺の腕は、ウェスタの首を締め上げて宙に浮かす。
両手で首を絞めるように持ち上げた手は自分でも信じられない程の力が込められていて、ウェスタの苦しげな嗚咽が耳に響く。
何も考えない真っ白な思考で、反射運動に近い行動に一番戸惑っていたのは俺だった。
「今お前、なんて言った?」
聞こえてくる声は生涯を共に過ごした自分の声の筈なのに、まるで初対面の赤の他人の声のように感じる。口にした途端に背筋が凍るほどの低い声が無意識の中に溢れていく。
「かはっ……そ、そのままの意味です……」
苦しそうに咳込み、荒く上下する胸が酸素を欲している事の証明だ。
「今なんて言ったって聞いてんだよッ!」
息も絶え絶えに答えたウェスタの言葉を無視し、俺はさらに力を込める。指に、手に、全身に、今まで感じたことが無い程の熱を感じる。
「は、ハジメくん!? やめるんだ! 止まれッ!」
尚も万力が如く力で締め付けられるウェスタを見て、イオンは慌てて俺を止めに入る。背中に触れる小さな手が俺の熱を冷ましていく。
「そのままの意味です。俺が殺ったんですよ! 由紀先輩をッ!」
「テメェっ!!」
吐き捨てられた言葉に冷めかけた頭は一気に沸騰し、俺は力を込めた握り拳でウェスタの顔面を殴り抜く。殴った瞬間、拳の皮膚がめくれ手の骨が折れる感覚がしたが、俺はその痛みを一切感じなかった。
「んがっ……っ! ゴホっ、ゴホ……」
殴り飛ばしたウェスタは地べたに這い蹲り、荒く苦しそうな呼吸を続ける。赤く潰された鼻からは赤い液体が流れ落ち、口からも唾液混じりの赤が吐き出された。
「やめろと言ってるだろうっ! ウェスタ、君もだ。もっとマシな言い方は無いのか!?」
俺とウェスタの間に立ち、庇う様に対面するイオンに対し、折れた右手で指をさす。
「イオン……お前は、お前も……お前は知ってたのかっ……?」
「知らない! だが、君が馬鹿なことをしているのは分かるさ!」
「……っ」
震える手に徐々に痛みが戻りつつある。イオンの叱責により俺の頭は一瞬冷静になる。
「イテテ、昔戦った巨鬼の一撃より痛えっすわ」
片手で鼻を押さえ、ウェスタは覚束ない手と足取りで立ち上がる。鼻は血で真っ赤になり、折れたのか腫れも出ている。殴られた衝撃からか、目から涙が零れ落ち顎先を伝っている。
「西野、お前、冗談じゃ済まさねぇぞ……っ! お前が由紀をどうしたって言った?」
「日本士長。俺は冗談を言う性格じゃ無いですよ?」
皮肉めいた口調とは裏腹に、その眼光は至って真剣であり揺るがない意志を感じる。だがそれがまた俺の正常な思考を消滅させた。
「……分かった。そんなに死にたきゃブッ殺してやるよッ!」
我を忘れて一気に飛びかかる。
「やめろと言ってるだろうハジメくんッ! お互い冷静になるんだ!」
だが、その身体にイオンが抱きつき俺の身体は行き場の無い怒りを秘めたまま止まる。
胸元にしがみつく様に抱いた手をイオンは離さないように自分の指を絡める。仄かな石鹸の香りが俺の荒い呼吸に吸い込まれる。
「二人とも、いい加減にしろっ! これは僕個人では無く、幻想調査隊の監視者としての意見だ!」
イオンの悲痛な叫びが狭い室内に木霊する。
「俺は事実と現実を伝えているだけです。俺を殴って気が済むのならいくらでも殴られてやりますよ!」
「上等だ。俺の気が死ぬほど殴られただけで済むと思ってんのか?」
売り言葉に買い言葉で俺と西野の意見は一致した。
イオンを引きずったまま歩みを一歩進めると不意に身体が軽くなった。そして次の瞬間、腹部に強烈な衝撃が走る。
「うぐぅ……っ……」
俺はその場にしゃがみ込み、腹部を押さえて悶絶する。苦痛に歪んだ顔を上に向けるとイオンがバツの悪い顔で俺を見下ろしている。
「……今のは監視者として上官に刃向かう部下を処罰しただけだ。使い古しのお気に入りの靴は弁償しなくていい」
床を見るとボロボロに破けた靴らしきモノが転がっていた。蹴りの衝撃でもはや二度と履くことは叶わぬそれはただのゴミと化している。その残骸の成れの果てが蹴りの威力を物語っていた。
未だに腹を押さえている俺の首をイオンは掴み、ズルズルと引きずり出す。部屋の出入り口まで俺を連れて行くと部屋の外へ投げ捨てた。
「……ハジメくん、一度冷静になるんだ。これは僕個人の……君の友人としての言葉だ」
「……」
思いやりよ言葉に、視線に、俺は目を背けて無言になった。真っ直ぐな意志を持つ金の瞳が俺の黒い心を隙間無く照らし出しているように思えたからだ。
イオンは懐から革の小物入れを出し、そのまま俺に投げ渡した。床に伏したままの顔の横に落ちたそれはジャラリと金属同士が触れ合う音を鳴らした。
「王都の宿に一泊するのには十分すぎる金が入ってる。休め、一旦頭を冷やして来るんだ。いいね?」
それだけ言うとイオンは部屋を閉めた。鍵を締める音だけが聞こえ、俺は一人暗い廊下に取り残された。




