一時の癒し
頭上で大地に満遍なく温もりを与えていた太陽はやや西に傾き始め、頂点から降り始める。身体を包む風は稽古で疲れた身体を程よく冷まし、体力はもちろんのこと気力も回復させてくれる。
靴底に付いた砂や埃を玄関で手早く払い落とし、汗拭き用に持っていたタオルで仕上げる。
「そんくらい部屋の掃除も丁寧にやってくれれば、あたしも楽になるんだがねぇ」
しゃがれた声が聞こえてきてその方向を見ると、杖を片手にこちらを注意深く見るクラフがいた。皺だらけの顎をこれまた皺だらけの指でなぞる姿はどこか貫禄がある。
「そのまま上がったら殴るつもりだったろう?」
「当然じゃ。可愛いルチアに言い寄る蛆虫を、ブチリと潰すのがこの婆の役目じゃからな?」
殴りつける口実を失い、どこか悔しそうな面持ちでクラフは俺を睨みつける。
「残念だったなババァ。これでも礼儀はわきまえてんだよ」
「ふん。礼儀がなってりゃレディというもんだ」
無礼な口調で言い返し、歯噛みする老婆の脇を通り抜け自室へと向かう。
「待て小蝿。これを持っていけ」
クラフは俺を引き止めると杖をつきながら玄関横の部屋に入っていき、すぐに出てきて何やらカゴを俺に渡してきた。カゴは中身が見えないように布が掛けられているのだが、香ってくる良い匂いで俺は中身を判断する事が出来た。
「クッキーか? すげぇ美味そうな匂いだな」
チラリと左腕の腕時計を覗くと時刻は三時。渡されたクッキーは午後の紅茶に相応しい。客人をもてなすのにもってこいの茶菓子といえる。
香ばしくもどこか優しく甘い香りが、呼吸と共に疲労した全身に広がっていくのがよく分かる。
「悪い虫のお前の為じゃないぞ? あくまで客人の為じゃ。勘違いするなよ」
口では悪態をついているが俺がカゴの中身を褒めると、少し照れた様に口角を上げる。
「ありがとよ婆さん。美味しく頂かせてもらうぜ」
「ふんっ、礼なんぞ虫酸が走るわ。客人はお前の部屋じゃ。さっさと行けッ」
ぶっきらぼうに言い放ち、杖を床に打ち音を鳴らすとクラフは近くの部屋に消えていった。俺は玄関に背を向けて二階へと続く階段を上がる。
手入れが行き届いた塵一つ無い階段を登って三階に到達し、赤いカーペットが敷かれた廊下へ出る。廊下の左右には等間隔でドアが並び、その数だけ部屋がある事を示していた。
数ある扉のうちの一つ。木製のドアに茶色の塗料が塗られ、表札に日本語の文字が書かれた部屋の前に俺は立つ。
「ふぅ……」
俺は一呼吸を置いてから鍵のかかってないドアを開ける。内開きのドアはゆっくりと開いた。
「ノックもしないのかい? 随分とマナーが無いんだね?」
「ここは俺の部屋だぞ」
部屋の奥から聞こえてきた声に対しぶっきらぼうに答える。俺の答えを聞くと奥の窓際からは小さな笑い声が聞こえてきた。
「落ち始めの光と風が気持ちいい。理想的な部屋だね」
「なら、その仮面取ればいいんじゃ無いのか?」
窓の近くで黒い仮面に黒一色の服を纏い、のんびりと佇む姿に俺は言う。
「それもそうだね。君には見られてるから、今更隠しても意味は無い」
陽の光を名残惜しむ様にゆっくりと動くと近くのテーブルに着き、その仮面を外しフードも下ろす。
金色の目が窓からの斜めの光を反射し片目がやや強く輝く。その反面、青い髪が仄かに影を落とす。
「その方が似合ってるぜ? イオンちゃん」
「むっ……むぅ……」
俺の言葉を聞くとイオンは何か思うところがあったのか唇をとがらせる。しかし吹っ切れたように大きくため息を吐き出し、諦めと苛つきが混じった指で机を強く叩く。揚げ足を取られ駄々を捏ねる子供のような目で俺を睨みつけてくる。だがその行為は素の顔立ちが可愛らしいことも手伝って少女の様な幼さが出てきただけであった。膨らました頬がさらにそれを増長させている。
「冗談だ。傷の具合は?」
デュラハンとの死闘からはまだ幾日も経っていない。
特に傷を負ってはいなかった俺でも疲労を回復させるのに丸一日はかかった。軽傷の身ですらその有様なのだ。調査からの帰路は元気な様子を見せていたイオンだが、その消耗具合は俺の比では無い筈だ。
「言っただろう? 僕は不死者だ。魔力さえ残っていれば君が心配するほどのモノでも無いよ」
大した傷では無い。っと言わないという事は、やはり深手だったのだろう。イオンは貫かれた胸の辺りを軽く摩る。
「なんなら傷痕を見てみるかい?」
イオンは黒いコートの胸の辺りのボタンを一つ外す。細い指が滑らかに滑り、コートの内側に身に付けている白いシャツが露わになる。
「やめとけ。恥じらいを持つのはイイ女の条件だぞ」
イオンがそんな事を言うものなので俺は軽く笑って受け流す。本人も冗談で言っただけなのか、口にしただけでそれ以上の行動には移さなかった。
「それよりもそのカゴ。いい匂いがするね。中身はなんだい?」
鼻で部屋の匂いをスンスンと嗅ぎ、その匂いの発信元が俺が手に持っているカゴだと気付くと、イオンは顔をにやけさせ右手の人差し指の爪先を向ける。
「クラフさんのクッキーだね? 彼女が作るお菓子は全て美味しいんだよ」
「毒でも入れてんじゃ無いのか? あのババァ俺の事が嫌いみたいだしよ」
「彼女は入れるんじゃなくて毒を吐く方さ。そうだろ?」
「ハハッ! ごもっともだな!」
冗談とも本心とも取れるイオンの言葉が俺にはどこか皮肉に思えて笑ってしまった。釣られたイオンもその幼げながらも整った顔を崩して笑う。
「さぁハジメくん、紅茶を淹れてくれ。午後のお茶会には美味しいお茶と甘い菓子、そして親愛なる友人が必要だ」
「友人ね。そりゃごもっともなことで」
友人という言葉がやけに胸に引っ掛かる。俺はその胸の引っ掛かりを敢えて無視し、部屋の壁際に置いてある茶器棚へと向かう。
やはり、あの告白めいたことは考えなくてもよさそうだ。ひとまず思考から外そう。
棚を開けるとそこには乳白色を基調とした茶器が置いてあり、取っ手のついた陶器の器は俺が使って無いにも関わらず埃一つ付いていない。管理と清掃が行き届いている証拠だ。
その中の一つを手に取った俺はそこで固まってしまう。顎先を指でなぞり、そのまま左手の人差し指を立て鼻先もなぞった。
「どうしたんだいハジメくん?」
棚の前で棒立ちする俺を不思議に思ったのか、イスの上でイオンは怪訝な様子で声を掛けてくる。
「イオン一ついいか。結構大事な事なんだけどよ」
「なんだい?」
茶器を手に持ちながら振り返り、イオンの方へ向く。目と目が合うとイオンは俺の神妙な面持ちに何かあると感じたのか、目が真剣になる。金色の瞳が一層明るくなったと錯覚してしまうほどその目には力が篭る。俺はイオンの目力に負けないようにゆっくりと口を開いた。
「俺、紅茶の淹れ方知らね。お茶なんてインスタントコーヒーしか作ったこと無いもん」
「はい?」
正直な言葉に何を言われたのか理解出来なかったのか、イオンは呆けたように口を開けたままにする。そこから数秒の沈黙が流れるとイオンはやっと言っている事が理解できたのか、呆れ混じりの乾いた笑いを一つすると立ち上がって俺の元にくる。
目の前に立つと身長差からおのずとイオンは俺を見上げる形になり、金の瞳を上目遣いにして俺を見る。
「全くしょうがないなハジメくん。僕が淹れてあげるからそこに座ってなよ」
俺の手から優しく茶器を奪い取ると顔の動きで俺を席へと誘導する。
「ごめんなイオン。でも俺が淹れて不味くするよりはいいだろ?」
「味より気持ちさ、客人をもてなすのは主の役目だよ?」
俺の言い訳をあっさりと切り捨てるとイオンは早速準備をする。
茶器棚の引き出しを開けるとそこには赤い色をした小さな結晶と一昔前の洋燈のような外観の道具を取り出す。見慣れぬ道具だがイオンは手慣れた動きで作業し最後に金属製の器を道具の上に置きテーブルの上の水差しから水を注ぐと、あれよあれよと言う間にお湯が出来上がる。
そこからいくつかの行程を終えると俺の目の前には仄かに白い湯気が沸き立つ紅い液体が器に注がれていた。
花の香りを思わせるそれは俺が日本にいた時によく飲んでいた市販の紅茶とは格が違っていた。
「さぁ、御賞味あれ」
勧められるままに一口啜ると仄かな甘味と格別な香りが味覚と嗅覚を優しく包み込む。
イオンが淹れてくれた紅茶は思わず破顔してしまえる程の充足感をたったの一口で味あわせてくれる素晴らしい出来だった。
「美味いな。うん、スゲェ美味い! それ以外何も言えねぇや!」
「それは良かった。そんなに喜んでくれると僕も淹れた甲斐があるよ」
語彙力の無い感想をイオンは嬉しそうに頬を緩ませ聞いてくれた。僅かに見えた歯は陶器の器よりも白い。
クラフ婆さんが作ったクッキーを一口頬張ると香ばしさと甘さが際立つが、それを行き過ぎないようにと紅茶がしっかりと纏め上げる。
「ゆっくりすんのも良いなぁ」
「優雅なティータイムは人生を幸福にするのだよ?」
無言の空間に甘い香りと花の優しい香りが充満し、それらを余すことなく西日が包み込む。優雅な空間の休憩は俺の心と身体を満たしていった。




