深淵の奥底
夜空の明星が人知れず輝き、黒色の大地へ光を与える。
豊かな情愛を我が子に注ぐ人間にも。草原にて弱者を狙い牙を研ぎ澄ます野生にも。満天の星空を孤独に泳ぐ翼を持つ者にも。上を見上げず伏せる者達にも光は等しく降り注ぐ。
時が進むのを止められぬように、それは当たり前の光景として世界は回る。
しかし、その光ですらこの仄暗い谷底に眠るモノを目覚めさせる事は叶わないだろう。
大地に開いた大きな亀裂。ヴィカロ大陸の中央山岳地帯の東部に位置するこの亀裂は通称、宵闇の胃袋と呼ばれている。
山際に南北へ走るこの亀裂はまるで城を守るお堀のように存在し、平地に生きる人族と山岳地帯の内側に生きる魔族や龍族との境界線になっていた。
魔族を統べる王が遥か昔に刻んだこの亀裂は、悠久の時を経て多種多用な生物が育む地となっていた。
暗い視界のせいなのか、目が退化し代わりに触覚を発達させた触手生物。又は、微かな光を得るために身体の体積の殆どを目が占める生物。果てにはもはや光を得るどころか他の感覚までも捨てた無機物が如くの岩石様の生物までもが進化の過程で出現するなど混沌とした生態系を構成していた。
この地の多種多様な生態系の頂点に君臨していたのは龍族である。
地龍と呼ばれるモグラによく似た見た目に強固な皮膚で覆われた巨大な龍がいた。モグラと聞けば随分と可愛らしい見た目を想像出来るが実際の地龍は違う。
長く鋭利な爪は堅固な地盤を容易く掘り抜き、その手は叩きつけるだけで金剛石すら砕く。
体表を覆う逆立つ毛の様に見える鱗はむしろ針ねずみと例えても良いかも知れない。どちらにせよ、魔を搔き消し矢を折り剣を砕く鱗の強靭さには変わらないのだから。
また旺盛な食欲の為に十数年に一度の活動期では、この地底の奥底の獲物だけでは飽き足らず地上に繰り出すこともあり、縦横無尽に食糧を食い荒らす姿は歩く災害と例えられる。
発見もしくは痕跡を見つけただけで一国の軍隊が動く事態となり、別名、国喰らいとも呼ばれる。
その国喰らいが地の奥底で横たわっていた。完全に意識が無いのか微動だにしない。
ただ目を閉じているのならば眠っている様にも見えただろう。しかし、よくよく観察して見ると瞼は大きく開かれているが肝心の瞳がそこには無いことが分かる。黒き空白となった眼窩は星々に照らされた夜空よりも深い。
地龍の開いた口には人間如きならば甘噛みで充分殺せるほど鋭い牙が並び、一つ一つの歯がまるで国宝と賛美される刀剣の様な輝きを持つ。もしこれを手にした者がいればそれだけで英雄と呼ばれるかも知れない。それだけの尊敬と畏怖の念を感じさせる。
「……」
尚も地龍は沈黙したまま、身動ぎ一つしない。
よく見れば口の中には歯以外のモノは無く、舌も周りの肉も歯と皮だけを残して無くなっていたのだ。
地龍の成長は蜥蜴などの爬虫類と同じように脱皮をして成長する。ならばこの歯と皮だけの姿は脱皮の後なのと推測も出来る。
だが、その推測は間違いである。
地龍の腹部にへばり付くように黒い粘体がいた。
それは暗い視界と相まって何をしているのかはよく見えないが、極々僅かに、辛うじて認識出来る程度に動いていた。
黒い粘体は地龍の鱗を少しずつ剥ぎ取り、皮膚を破り、血を肉を露わにさせ自らの身体で覆い隠す。そして肉を取り込むとまた同じような作業を繰り返す。黒の絵の具で塗り潰される画用紙のように、地龍の身体は黒い粘体で覆われていく。
なんとも言えぬ、醜くおぞましい光景だ。少なくとも私はそう思う。
自らの姿が目の前で地龍を屠る粘体と同じである事に私は些か気分を害する。
黒き粘体は私の視線など御構い無しに獲物を貪る。覆い、千切り、取込み、消化する。言葉で口にするだけならば大したことは無い。問題は肉を千切る音や消化した際の腐った酸の臭いが鼻の無い筈の私ですら不快感を感じさせる。嗅覚など無いはずなのに、身体の内側から臭ってくるのは恐らく目の前で食事をしている粘体が私の一部だからなのだろう。
強欲な粘体。
かつて私を討伐しようと襲ってきた人間達はそう呼んだ。剣で私を切り裂き、槍で貫き、炎で焼き、なんの躊躇いも無く殺そうとした。
私はその全てを喰らい尽くした。後には何も残しやしなかった。
「……」
今もなお無心で地龍に貪りつく分体は私自身の性格を表しているのか、もはや残骸となった龍に意地汚くへばりつき体毛の一房まで体内に取込み喰らい尽くしている。
もはやそれは食事というよりも喰らい尽くす欲を満たす為に咀嚼しているようにも見える。
欲。
そう、私は全てが欲しいのだ。
地位も、金も、名誉も、色も、人望も、憧れも、尊敬も、賞賛の声を。
強さを、命を、自由を、静を、孤高を、妬みを、畏怖を、賛美の声も。
肉を喰らい血を啜り、自由を愛し孤独を謳歌し、自らの名を歴史に刻みたい。
ありとあらゆる、この世の全てが欲しいのだ。
分体は地龍の身体を覆い尽くし、彼の者がこの世に存在した痕跡の一切を取り込んだ。
それを理解するとほぼ同時に私の黒き肉体は力が湧き上がってくる。
喰らえば喰らうほど、欲すれば欲するほど私は強くなる。その事に気が付いたのは私がこの世界に来て間もない頃だった。
覚えているのは人間だったという事。
分かっているのは私は本来この世界の住人では無いという事。
記憶に刻まれているのは光を放ち迫り来る飛翔体。それが私の身体を消滅させた事。
それ以外は大したことは覚えていない。自分の名前も。人となりも。いや、忘れてしまったと言うべきか。
この世界に来てから幾星霜。この夜空を見上げるのも何度目なのかは分からない。もはや人間だった頃に食べた最後の食事も思い出せない。それだけの年月は経っている。
何かきっかけがあれば人の記憶を思い出せるかもしれないが、わざわざ思い出そうとは思わない。そんなどうでも良い事は思い出すまでも無い。
私の中にある一つの思い。それは……
「グルル……」
獣の呻くような声が聞こえ私はそちらに注意を向ける。
見るとそこには先ほど存在ごと喰らった地龍と同じ姿で若干小さめのモノがいた。
目を爛々と光らせ、牙を剥き出しにし身体中に力が込められている。溢れ出る殺気は夜露一瞬で蒸発させるかのような熱すら放っている。
恐らく先ほどの個体と血を分けた存在。子供か何かだろう。殺気は見事だがどこか青臭い感じがする。
私にとってこの程度のモノは餌に過ぎ無い。
飛び掛かって来た地龍を私は身動ぎ一つせずに待ち受ける。鋼すらも裂く牙が私の身体に触れていく。
「図に乗るな下郎が。蜥蜴ごときが私を喰らえると思うなよ」
私の身体は牙で二つに裂かれると片方が地面に落ちる。もう片方は地龍の胃袋へ飲み込まれていった。
私を飲み込んだ地龍は満足気に舌を舐めずりし、空へ向け咆哮を放つ。悠然とした動きで歩き出すその様は新たな王の誕生を思わせる。
もっとも、それを祝うモノなどいやしないが。
地龍の腹が突然爆ぜる。内側から爆発するように飛び出た衝撃波に地龍は困惑の表情を浮かべる間も無く地に伏せる。口はだらし無く開かれ、眼球はまだ自分の身に起きた事に気が付かないのか誇りと驕りが浮かんでいた。
私は腹部に空いた穴から這うように抜け出すと私を喰らおうとした間抜けな強者を一瞥する。
いかに強靭な肉体を持つモノであっても内側からの破壊には耐えられない。溢れ出る血の流れが辺りの香りを変えた時、ようやく地龍は自らの腹が爆ぜた事に気が付いたのか口を僅かに動かした。
「喰らえ」
呆然とする地龍を尻目に、私は別れた分体に命令する。私の言葉を聞くやいなや、分体は一つが二つにわかれ二つが四つになり瞬く間にその数を増やしていく。周辺の地面や岩壁を覆うほどまで増えていくとそこで動きが止まる。
「お残しは許さん。完全喫食だぞ?」
私の言葉を合図に分体達は地龍に群がる。皮膚を破り肉を屠り、血を飲み込み骨を砕き、香り立つ血の臭いと生命の終わりを告げる断末魔さえも黒き粘体達は貪り尽くしていった。
その光景を私はただ呆然と見ていた。いや、違う。
自らを強者と思っている弱者が、何も出来ず死ぬ光景を愉悦交じりに観ていたのだ。
強者は一人で良い。頂点に立つものは一人で良い。
その一人が私であれば良いのだ。
やがて地龍の身体にこの世から消え去り分体達も地面に吸い込まれるように消えていった。残ったのは私の身体に滾る地龍二匹分の生命力。
私は満足気に溜息をつき、空を見上げる。そこには全てを照らす夜の月が孤独に浮かんでいた。
「いずれ、貴様も喰らってやる。その座で待ってるが良い。神畜生如きよ」
大地の切れ間から見える丸い月に私は憎たらし気に言葉を吐き捨てる。
見下ろされるのは好きでは無い。私は見下ろすのが好きなのだ。
だから私は目指す。
「私は最強。私はこの異世界の頂点になってやる……」
最弱と呼ばれるスライムに転生した私の胸に残るのは、最強の存在になる為の野心だけであった。




