深き森の装甲車
いつの間にか、俺は目を開けていた。目を開けていると気付いたが、視界は真っ黒だった。目を左右に動かしても、何も変わらない。光も、なにも。
(…………俺は、生きているのか?)
手足に力が入りづらく、非常に緩慢な動きしかできない。
ピッ、ピッ、ピッ。
身体の左側から何かの音が聞こえる。音の羅列は規則正しいリズムを刻み、俺の鼓膜を揺らす。
ピッピッ、ピッピッ、ピッピッ。
音は間隔を変え、続けて俺の耳に届いた。胸の辺りがなにやらモゾモゾする。
(なんだろ?)
記憶の奥を探ろうとするが、思考がうまくまとまらない。
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。
ブー、ブー、ブー。
突然、音が変わった。
胸の振動が強くなり、俺は反射的に右腕を動かす。
暗闇の中、手探りで左胸の辺りを探ったが、振動の発信源をなかなか掴めない。
その瞬間――
「フォッ!? き、起床!」
大音量でラッパの音が鳴り響く。
自衛隊の駐屯地で毎朝六時に鳴る、起床のラッパ。その音を聞いた瞬間、身体が勝手に跳ね起きた。
「痛え!?」
勢いそのままに、頭に何かを思いっきりぶつけた。俺は頭を押さえながら、胸元のポケットから鳴り続ける物を取り出す。
次の瞬間、白い光が暗闇を切り裂いた。
反射的に目を強く閉じ、痛む頭を押さえながら重い瞼を開けると画面に数字が表示されていた。
6:00
左上には見慣れた表示があった。
圏外
(スマホ。圏外……ね)
電波はともかく、ちょうど明かりが欲しかったところだ。
画面を懐中電灯代わりにし、辺りを照らしてみた。全てがハッキリと見えた訳ではないが、視界は充分に確保される。そこには銃火器や食料、発煙筒、弾薬。見慣れた装備が、雑然と積み込まれていた。
(……うん。同じ)
武器監視の際に他の隊員から受け取り装甲車に詰め込んだものと一致する。この狭い場所は俺が乗っていた装甲車の中。それで間違いない。
(それにしても……)
意識を失う直前の光景が、頭をよぎる。
焼け付くような熱。耳を捨てたくなる爆音。そして粉々に砕かれたはずの身体。目の前で炎に焼かれた同期。北村由紀。彼女の事も思い出した。
(夢だったのか? いや、夢であって欲しいッ!)
最期に見た光景から逃れるように瞼を擦り、頭を振って払う。そうであってほしい、と願う一方で、胸の奥ではそれを否定する感覚が静かに広がっていた。俺は短く息を吐き、意識を切り替える。
ゆっくりと起き上がり、頭をぶつけないように中腰になる。足元を確認しようとスマホの光を下に向けた。
「あ……」
89小銃。装甲車の床に転がっていたそれを、俺は無言で拾い上げる。ついでに弾も。
掌に伝わる金属と樹脂の感触。慣れ親しんだ重さ。自衛隊の携行火器であり、厳しい訓練を共に乗り越えた俺の武器であり相棒だ。無機質な冷たさが、胸のざわめきをほんの少しだけ鎮めた。
スマホを胸ポケットにしまい銃を片手に持ち後部ハッチの手動レバーをゆっくりと動かす。ギギギッという不快な音を出しつつもドアは開いた。隙間から漏れ出す光はスマホの光とは比べ物にならず、俺の目を痛烈に刺激する。細い視界で力任せにレバーをさらに引く。ドアは完全に開かれた。
「なんだっ……てぇ?」
視界いっぱいに、深い緑が押し寄せてきた。
目線の先にある木は見上げるほど太い幹、背も高い。深緑の葉は空を覆い隠すほど茂っている。木の幹に張り付いてる蔓も、運動会の綱引きに使われる綱のように太い。周囲三百六十度。樹の海と言えるほどの緑に包まれていたのだ。
しかし、装甲車がある場所の周辺だけは木が一本も生えておらず、草地だけが、円を描くように残されている。さながら台風の目。いや、ミステリーサークルの中心といえばロマンな心をくすぐってくれるだろう。
俺は何度も目をパチパチと瞬きをしてもう一度森をじっくり見る。野営地はむき出しの地面に作られていたはず。間違ってもこんなに大きな木があるような森林の中ではなかった。
「どういう事だよ?」
混乱する頭の中を落ち着けようと俺は何度も頭を強く叩く。先ほどぶつけたところがズキりと痛むが、そんな無駄な事をしても目の前の現実は覚めるはずがなく、鈍い痛みを残しただけであった。
「……悩んでいても時間の無駄か」
装甲車から地面に降りた。
ずちゃり。
足裏に伝わる地面の感触。その瞬間、これは夢ではないと、妙に現実感を伴って理解してしまった。
鼻から息を吸い込む。湿った土の匂い、新緑の葉が放つ若い生命の香り。深緑の葉から醸し出す濃厚な命の薫り。深い。あまりにも、深すぎる森のニオイだ。
(……気持ちいい)
そんな感想が浮かんだことに、自分で驚く。
現代日本でここまで澄んだ空気を吸える場所があるだろうか。いや、世界中を探してもこんなに澄んだ空気はないはずだ。
俺は気が済むまで深呼吸をし、周りを見渡してみた。
周囲三百六十度、全てが木々で囲まれている。その中にポツンとある装甲車のなんとも場違いな様子に俺はつい笑ってしまった。森林迷彩の車体の色が少しでも森の色に馴染もうとしているのがなんとも滑稽に見える。
(人の気配は……ないな)
俺は胸ポケットから煙草を取りだし、一本咥える。火を点けると、人工的な臭いが鼻を突いた。
先程の新鮮な森の匂いとは、天と地ほどの差だ。身体に決してよくはない煙を身体は嬉々として受け入れていく。
紫煙が、静かに森へと消えていく。
ガサッ、ガサガサッ。
視線の先、草むらが揺れた。
「……誰かいるのか?」
返事はない。
俺は無警戒に、現実感のなさに足を引かれるように、音がした場所へ歩いた。
ガサガサッ。ガサッ、ゴソゴソッ。
視線の先にある草むらが大きく揺れる。俺はその場に足を止め、念のために持ってきた弾を弾倉|へ込めて銃へ装着し、槓桿|を引く。弾丸が薬室|へ送られる感触を、指先で確かに感じた。
装填をした理由は二つ。
ひとつは相手が鹿ではなく、熊や猪といった危険な野生動物だった場合に備えるため。
そしてもうひとつ。
(やっぱり……これは夢じゃない。現実だ)
慣れ親しんだ動作、銃の感触。どこか夢現のようなこの状況が、確かな現実であると再認識した。
俺はゆっくりと息を吸い込み、吐き出し呼吸を整えた。煙草の臭いが一層不快に感じる。
「誰か?」
草むらに向けて誰何する。
…………返事はない。
「誰かッ」
先程よりも力強く声を出す。
……返事はまたもない。
「誰かッッ!」
威圧的な怒鳴り声を草むらに向ける。
返事はなかった。
だが、返事の代わりに草むらからソレは姿を現した。
俺はソレを見た瞬間に驚き、不覚にも尻餅をついてしまった。冷えた地面の感触が臀部と身体全体を一気に冷やす。
それは小さな人間のようであった。大きさは小学生の子供ぐらいだろう。だが、その顔は子供の可愛らしいモノではない。
長く伸びた鼻と耳。血走った目。耳の近くまで裂けた大きな口。黄ばんで汚れた歯。ボロ切れのような服。体の割には長い手足に伸びきった爪。その手が握るのは錆びきって刃も欠けたナイフ。そして何よりも人ではないと判断できたのはその身体の色だ。
全身が緑色だったのだ。
「ゲギャギャギャー!」
醜悪な口から薄汚い声が聞こえた。誰がどう聞いてもそれが人語ではないことは分かる。そいつは俺が尻餅をついてあたふたしていると、下卑た笑みを浮かべ勢いよく走ってきた。
「お、おい! とト、止まれ、止まらんと撃つぞ!」
俺の裏返った声にそいつは聞く耳を一切持たず加速して迫る。
(クソっ、止まれよ! 恨むんじゃねぇぞ)
俺はそいつの足元に照準を合わせ、引き金を引いた。
カチリ。
やけに大きく、その音だけが響く。
弾は……出なかった。
猛然と迫る醜い化け物。混乱が頭を埋め尽くす。
「はぁ!? なんで出ねぇんだよ!」
反射的に槓杆を引く。金属音とともに弾が入れ替わる。
この距離ではもはや悠長なことは言っていられない。迫り来るそいつに狙いも定めず、引き金を引いた。
それでも弾は出なかった。
「クソッ……安全装置、入ったままかよ!」
分かっている。分かっているのに、指が言うことをきかない。親指がレバーにかかるが、手袋が引っかかり、最後まで倒しきれない。
周りと己を守るための銃の機能。だが、その安全が今は俺の命を奪う。
時、すでに遅し。
ナイフが俺の胸に振り下ろされた。胸に走る鈍い衝撃。俺にできたのは、醜い悲鳴を上げることだけだった。




