耳目醜何
目が覚めて一番最初にやるのは耳を澄ますこと。目を閉じ耳に全ての情報を集約させる。
目を開いても周囲は暗く、異世界に来てから幾度となく感動した星空の綺麗さも深い森に飲まれて散り散りにしか見えない。
鼻腔を巡る湿った空気、肌に纏わりつく衣服。舌奥には虫の臓腑の苦さが僅かに残る。
体感の時刻はおおよそ深夜二時と見たが、左の腕時計を見ると時刻は夜の十時を過ぎたところだ。夜はまだここからである。
顔を横に向けるとオレンジの火が僅かに残っており、油断すると吹き消えてしまいそうだ。
俺はあらかじめ乾かしていた樹皮の束を小さな火元に投げ入れる。すると徐々に勢いを取り戻し始め燻っていた薪に火が灯る。
(またやることないな)
暇なのだ。もう一度言う。暇なのだ。
このサバイバル環境では優先すべき事柄として体力の温存がある。となれば無駄な事はせず陽が出るまでひたすらに身体を休めることが重要だ。暗い中、視界が悪い状態で下手に動き回って転んで怪我でもしたらこれからの生存率が大きく下がる。
やれることといえば、火を絶やさないこと、耳を澄ますこと、あとは寝るだけだ。
山にて野晒しで寝たことがある人間ならば経験あるだろうが、どんなに疲れていても意外と長時間の睡眠を取るのは困難なのである。
異世界で生活の質は落ちたとはいえ、フカフカのベッドで寝れていた。野営とはいえ道具を使って整地し、寝袋を使って寝る。見張りがいるので安心して寝れる。
一方で今、俺がいるのは掘り起こしただけの地面に幾らか葉っぱを撒いた地面。雨だけは防げる屋根、そして周りは危険度を測ることすら出来ない未知の森。そして一人ぼっち。
こんな状況で熟睡できるヤツの肝を見たい。いくら俺が訓練慣れ野営慣れしてる自衛官であっても、途中で何度も起きる細切れの睡眠になってしまうのだ。
こればっかりはどうしようもできない。時刻は十時だがこれまでに三回ほど起きてる。一時間に一度は起きてしまっているので休息できているかといえば微妙である。
この目が覚めたタイミングの有効活用が耳を澄ませることだ。
虫のせせらぎが綺麗とか森が風で揺れるのがうるさいとか、そんなモノを聞くのが目的では無い。
耳を澄まし、この森に夜行性の獣がいないかの確認と水の音を探すのが目的だ。
獣の音を探すのは身の安全を守る為と、いざというときに食べ物が存在するのかの確認だ。幸か不幸か、一切動物の気配と音がしないので俺が夜這いをかけられる心配はなさそうだ。
後者の水の音。これが最重要である。
夜というのは昼に比べて音が遠くまで届きよく聞こえる。俺は専門家ではないので詳しくは知らないが、経験則で認識している。夜間訓練や夜の斥候、歩哨訓練で嫌というほど体験してるのだ。気温の変化や屈折率やら朝と夜の気温の変化によって等の理屈を否定しないが、この場は己の経験値がモノを言う。
感覚を研ぎ澄ましていると本当に小さな音が聞こえる。
虫の声、風の音、草木の擦れる音。ナニカが歩く音。
「っ!?」
俺はすぐさま焚き火に土を掛け消火する。頭の中が瞬時に夢うつつモードから臨戦体制に移行される。
火が消えたのを確認し、もう一度耳を澄ます。
ザッザッザッ。っとの音に続いてザッ……ザッ……っとの音が聞こえる。明らかにナニカが、それも二体いる音だ。
手製の木の槍を二本、左手でまとめて持つ。右手で銃剣を抜くと寝床から移動して森の中に身を潜める。
気のせいであればそれでいい。火なんかまた起こせばよい。問題なのは気のせいではない場合だ。
ケモノかヒトかそれ以外のナニカか。
獣の場合は危険だ。夜に動くということは夜行性の生き物の可能性がある。夜行性と聞いてすぐ思い浮かぶのはネコだ。もし今の足音がネコという可愛らしい生き物では無く化け物だったら危険だ。
草食動物だとしても日本の鹿のようにカワイイ感じならいいが海外のヘラジカのようにヤバイ生き物だったら草食動物でも危険だ。
足音はこちらに向かってきている気がする。距離は恐らく三十メートルといったところか。
人の場合はどうか。良いことばかりではない。
人間相手に助けを求める。至極当然な判断だが、こんな人の気配も動物の気配もない鬱蒼とした森を真夜中に歩く人間なんて異常だ。この世界に来てすぐでルチアが森で襲われていた実例もあるし、盗賊が蔓延る治安の悪さがこの異世界にはある。善性を持つ人間とは限らないのだ。
足音が近づく。先ほどよりも位置がわかりやすい音だ。距離にして二十メートルといったところだろう。
では、その二つ以外であった場合はどうするか。いかなるモノであろうと警戒レベルは最大値に設定すべきだ。
ゴブリンにゾンビにドラゴンにダークエルフ。この世界はファンタジーをそのままにしたヤツが多すぎる。今更多少の存在が現れても驚かない。この異世界に戦艦大和が現れたほうがよっぽど驚愕できる。
足音は、十メートルといったところだろう。真っ直ぐこちらに向かって来ているので野営の火を見られていたということか。身を乗り出して視認したいところだが、この暗さで行動してるのだ、夜目は効くと考えたほうがいい。
足音は六メートル程で止まる。周囲を警戒しているのか、音が一切ない。
(危険だが……)
俺は意を決して草葉の陰からそっと野営地の方を見る。
(確認しなきゃもっと危険だしな)
こっそりと顔を出し、相手を伺う。暗闇と密集した樹木の影響で視界は悪いが、たまたま差した月の光が目標周辺を明るくする。
(あれは……? マジか?)
人間を一回り大きくしたような緑色の皮膚を持つ生き物だった。
髪の無い頭に豚のような鼻と剥き出しの犬歯。筋骨隆々の体躯は見事といえる。腰蓑だけを身に付けている姿は異様ともいえる。どこか外見が人にも見えるが、決して人では無いことも分かる。
一言一句違わず、全く同じ感想を俺は遠く離れた北東の地、魔法都市で思っていた。
「オーク……」
魔法都市の先生であるロジーが、ことさらに強調して生徒に危険性を訴えていたのを思い出す。当時は大して考えもしなかったが、今ならば理解できる。
夜の闇に紛れたオークとはこうも恐怖心を煽るモノか。独りぼっちの夜に遭遇するとここまで小便ちびりそうになるとは。目撃するだけで命の危険を感じるほどなのだ。
今のところオークはしきりに周囲を見回し、ナニカを探しているようだ。俺という獲物でも探しているのだろうか。そっと草葉の陰に頭を伏せ、手に持った木の槍を握る力を強くする。いざとなったら刺し殺すぐらいの勢いで戦わねば。
ドスっ、ドスっと分かりやすい足音が近付いてくる。一つだけだ。一対一で不意打ちならばヤレるだろうか。いや、俺なら出来る。竹槍で航空機を落とすなんて馬鹿げた作戦よりも、木の槍でオークを倒す方がまだ成功する。
足音が一歩、また一歩近づいた。そして聞こえなくなる。
位置。目の前、直上。距離、目測の必要なし。一メートルも無い。オークの野太い呼吸音すら聞こえる。俺は必死に息を殺す。
(やるしかねぇ……っ!)
伏せた俺が飛び上がるよう槍を突き出せば、確実に尖った先端を喉元へ一直線だ。
静かな森とは打って変わって心臓は早鐘のように鳴り響き、俺の手が生殺を意識して硬直しだす。
(さん、にぃ……)
心のカウントダウン。ゼロを唱えたら、突き殺すと心を決める。
(イチ……)
握り締めた手にさらに力が込められる。
(ゼロッ……!)
革手袋がギチっと絞られ、俺の鍛えられた大腿二頭筋が躍動し、縮めたバネが解放されるが如く俺は飛び上がり全力の突きを繰り出す。
面白いことに、オークも人間と同じように驚くらしい。生物ならば当然か。そのまんまの意味で目を丸くして見開いている。
「ウコッギャアァァァっ!?」
野太さと甲高さを混ぜ合わせた大声、もちろん俺の声ではないが、オークの断末魔でもない。お互い声を出せなかった。
槍の切先、鋭利な木の先端はオークの喉元だ。その更に先、もう一匹が獅子のような巨大な手と爪で地面に縫い付けられていた。目の前のオークの頭の上に奇妙な管が見える。管の先端はパックリと二つに別れて毛の無い頭部を蛇の口のような先端で挟んでいた。
「おいおいおい、なんだよコイツはっ!?」
蛇の口が閉じられると、バツンっと音がして首の無いオークの完成だ。離れた位置で地面と縫い物にされていたもう一匹も身体の真ん中からの液体を流し、やがて動かなくなる。
突然の事態に全身の皮膚が泡立つ。混乱する俺は、微かに差し込んだ月の光で相手の様相を確認するのが手一杯であった。
獅子の頭、蛇の頭、そして今まさに俺と目が合った黒い山羊の頭を持つ生物。三種類の生物を夏休みの自由研究さながら、好き勝手にごちゃ混ぜたような歪な生き物。俺の目は複数の生き物の特徴を合わせもつ生命体を目の当たりにする。