森の中で一夜
左腕に着いた果実の真っ赤な汁は乾き、白シャツに跳ねたカレーうどんのように存在感を著名に現す。
乾いた部分をそっと舌先で舐め取り、唾も飲み込まず二分ほど放置し、味を確かめる。水満載の灯油ポリタンクにガムシロップを一つ入れたくらいの甘みだ。つまり、甘く無い。味を確認したのちに飲み込み、腹の中で胃液と混ぜる。
「多分、大丈夫か? 遅効性の毒とか勘弁だぞ?」
林檎とバナナを足してグレープフルーツで割ったような、なんとも言えない白い実を俺は観察する。
見れば見るほどに、元の世界では見たことのない果実だ。たまたま手が届く範囲にあったので取ってみたが、味に関してはイマイチである。だが果実の水分量がとても多く、これが食用可ならば水分補給には困らなくなるので水源を探す猶予が生まれる。
「腹は平気か、いっそ飲んでみるか?」
正直これは攻めた判断だ。未開の地で毒か薬かも分からぬモノを接種するのは冒険が過ぎる。しかしながら、体力と余力が残っているうちに飲食可の判断をするのは悪く無い。今際の際で一か八かの勝負をするのは、消費者金融で借りた金でパチンコをするぐらい無謀な賭けなのだ。
逡巡し、結局一口分飲んでみることにする。意外にも喉ごしは爽やかではあったが、全く甘くないスイカジュースを飲んでる感覚に近い。白いところを延々と齧ってると言えばよいか。
三十分ほど時間をおいても体調に変化は無いので次に移る。
「さて、水のあとは食べ物だな」
干し肉と飴は食べない。これらは貴重なタンパク源とエネルギー源だ。いざとなればこの二つで命を繋ぐ最終ラインとなる。ならば、初日で最終ラインを越えるなぞ、計画性など皆無と言われても仕方がない。
では、何を食べるのか。それは最新にして最古からの栄養食であると過言してもまだ足りない逸品だ。
「まさか、虫を食うときがくるとはなぁ……」
キャンプの材料集めや寝床の整地の際に、倒木集めや土の掘り返しをした。そのときに見つけたのがまるまると太ったデカい幼虫だ。パッと見た感じはカブトムシの幼虫だが、その身体の大きいことよ。俺の手の平よりまだデカい。
自衛隊に入隊してよく言われる、蛇とかカエルとか虫とか食べるのかという話題がある。八割は否だ。
レンジャー訓練においてならばそういうのを食べると聞くが、自衛官全員がレンジャーではない。食べないパターンが多いのだ。
そもそもの話、サバイバルとは最終手段。あえて自衛隊含ませるが先進国の軍組織とは後方支援等の兵站が確立されてるので糧食が行き渡っているのだ。戦地で虫や蛇を食うのは創作物の影響を受けすぎである。
もっとも、今現在の俺の状況がまさしく創作物であるが。
「生じゃ食いたくねぇー……」
幼虫をまな板代わりの石に押さえつけ、銃剣で頭を切り落とし、手ごろな木の棒で中身を押し出すようにしごき出す。黄色と黄緑色と黒の内容物がドロリと垂れるが、見た目に反して不快な臭いはしない。ただ土臭さだけが鼻につく。
こんな幼虫にまで毒があるとは考えずらいが、用心に用心は重なるべきだ。大抵の毒はしっかりと火を通せば無毒化する。この異世界に加熱しても無駄な生体毒があるならば、残念だが念仏を誰かに唱えてもらうしかない。
大きな幼虫のちょうど腹の中心に、銃剣で削り尖らした木の枝を刺す。頭を取って臓腑を絞り出され、挙げ句の果てに身体を串刺しにされてもこのデカい虫はピクピクと短い手足を動かす。生命力溢れる食材だが、イカ刺し等魚介類の新鮮な刺身と違ってワクワクも食欲も全く沸かない。
石を使って立て掛け、焚き火の小さく燃える火に当てると白い体表が徐々に黒い焦げ目がついてくる。
「これはウェルダンにしないとな。生が美味いとかありえねぇ」
とある動画サイトに、はるか昔のテレビ番組でお笑い芸人が海外の部族の生活を体験し、その中のワンシーンで幼虫を生で食べる映像があった。
あの時の俺は子供だっだが、それでも虫を食うなんてイカれてると心底思い、絶対に将来は虫を食べることのない仕事をしようと思っていた。何の因果か、結果的に最も近い職を選び、今はこのザマだ。
「焼けたか?」
水分が熱せられ膨れ上がり、膨張した熱は皮を破る。パチっと小さく爆ぜると中から肉汁が垂れてくる。これがA5だの稀少部位だの名前だけで涎が垂れてくるような美味しい肉なら良いのだが、ここにあるのは地面に潜ってた名も知らぬ幼虫のコゲ肉。
全身真っ黒にする勢いで火を通し、あとは焚き火から少々離して弱火で中まで熱が入るようにする。
「うん。しっかり不味そうだ」
気味が悪いほど白かった幼虫の体は食欲が全く湧かない。二十分間トースターで加熱して燃えカスにした食パンの方がまだ食べれそうである。
銃剣の背で大まかにコゲをこそぎ落とすと、アレコレと考えるより先に丸ごと口の中に頬張る。
願うならば、意外と美味いことを天に願うのみ。
「水風船噛んでるみてぇだな。それも一年前の祭りで買ったヤツみたいな」
率直な感想、食感は下の下。グニグニとした質感はお世辞にも咀嚼して楽しいとは言えず、ただ食べづらさを助長させている。噛むたびに表面のコゲが舌の味蕾を痛烈に刺激し、苦味以外の感覚をシャットダウンする。
苦心しつつも奥歯で虫を二つに噛み切ると中から虫の肉が溢れ出る。
「んー、飲み込もうと思えるのが悲しいな」
虫の肉は意外なことに食べれる味であった。焼肉のタレどころか塩すら使ってないのでなんの味もしないが、飲み込もうとは思える。
味の評価は甲乙付け難く、牛にも豚にも鳥とも比較できない。一番近いのは値段が馬鹿みたいに安いソーセージをビニールの外装ごと茹でて丸ごと食べる感じだ。
「ふう、腹は満たされたか」
火に当たり、水分を接種し、食事を摂る。これにより疲労が溜まっていた身体は幾分かは元気を取り戻す。
焚き火に新たな薪をくべ、火が付くまで眺めた。その間、頭の中を整理することにする。
(時刻は夕刻。まずは一日、このまま陽が落ちて終わりだ。あとはどれだけ体力の回復に努められるかだ)
一日の締めに関して文句はつけようが無い。これが人の住む集落の中であればだ。
前提として、まず間違いなく夜は熟睡できないだろう。理由は簡単、危険だからだ。
野生の動物こそ昼間見ることが無かったが、この森の獣は夜行性なのかもしれない。夜間に俺を襲ってくる可能性は大いにある。
念の為、木を削り穂先を鋭利にした木の槍を何本か作ってみたが現代火器と比べるとどうも頼りない。
「手段は一つかぁ」
焚き火の近くに薪を多く用意し、すぐに補充できるようにする。そして俺はゴロンと作ったばかりの寝床に横になる。
「覚悟決めて休むしかねぇな」
全力で休息を取る。この一択に俺の命を全賭けする。
この状況でいかに打開策を考えようと、いかに知恵を絞ろうと、何の意味もない。無駄に体力と気力を削るのみだ。あーだこーだと足掻き、明日の活力を使い切ってしまってはサバイバルはやっていけないのだ。
「目覚めたらまた檻の中とかは勘弁だぜ。特に人喰い民族とかな」
手製の槍を傍に置き、銃剣を弾帯から外して両手で握り締めると俺の意識は火のチラつきと共に微睡んでいく。