一人殿軍
糸を使う職業と聞かれればなんと答えるか。はた織り、服飾関係、人によっては忍者と答える者もいるかもしれない。正直なところ、糸を使う職業と聞いてピンと来ない者が大多数だろう。
では、糸を使う生物と聞かれればどうだろうか。大多数の人は口を揃えて言うだろう。頭に思い描くだろう。
それは蜘蛛だと。
だがしかし、俺達の前に現れた蜘蛛は頭の中で想像したモノを遥かに超える巨体を誇っていた。
「ンッだよあのデカさはァッッッ!?」
まるで机の上の消しゴムのカスを払い落とすように振るわれた一撃は容易く兵士達の命をこの世から落としていった。
先端鋭い脚部の先にこびり付いた血肉を蜘蛛は口元まで持っていき、巨体に似合わない器用な動きで舐めとっていく。
(悪いけど、今のうちに……)
俺は気付かれないように一歩ずつ後ずさる。できればアロイスや兵士達の生死を確認したい。だがあのデカさの蜘蛛はいくら銃を持っていたとしても手に余る存在だ。さらに言えば俺の両手は塞がっている状況だ。蹂躙された兵士達には申し訳ないが、この隙を自分の為に使わせてもらう。
「……ルチア、糸、糸切って……」
「う、うん。……これ剣でやって大丈夫かな? こっち来ないよね? 振動とかさ」
さすがのルチアもあの巨体を前に身を縮こませている。剣をゆっくり抜いて構えたはいいが、心配そうに俺へ質問をする。
蜘蛛の糸とは獲物を捕らえるために使われる。獲物を蜘蛛糸に絡め、その振動を触知する。動けば、暴れれば、もがけば、抵抗すればするほどに振動は伝達しやがて蜘蛛は獲物を捕らえた喜びに震える。
剣で斬るのは一瞬で済むが、その一瞬で捕食者は狙いをこちらに向けるだろう。物理的な手段で切断するのは悪手と言える。
「俺のライター使え。胸ポケットに入ってる。右ポケットな」
動くと振動が伝わってしまうので声だけで場所を示す。ルチアは指示されたポケットに手を入れると指でまさぐった。
「これだっけ?」
「違う。それは発煙筒の着火剤だ」
何でもかんでもポケットに詰め込む癖は治さなければいけないと思った。いざという場面で物を素早く出せない。
「これかな?」
「そう、それだ使い方は分かるか?」
「いつも見てるからね」
押しボタン式のスイッチを押すとルチアの手元にターボライターの真っ直ぐな火が立つ。それをゆっくりとした動きで糸に近付けると、糸はゴムが縮こまるようにプツリと切れた。支えの一点を失った糸は地面の上に吸い込まれるように落ちていった。
「よし、行くぞ。ゆっくりな?」
「もちろんよ」
これで一先ずの安心を得た。あとは気付かれないようにこの場から去るだけだ。
幸いにも女王と呼ばれる蜘蛛は文字通り自らの手で得た獲物兼食事に夢中になっている。今ならば逃げ出せる。俺は注視しながら後ずさる。
「……ル……」
腕の中の少女が僅かに動いた気がする。蜘蛛から目線を外して下を見るとその目は開かれ、必然的に目と目が合った。
上質な蜂蜜のように透き通った黄色の虹彩。まだ目覚めたばかりでぼんやりとしているのか焦点が定まらない。
こうして見ればオークというのも可愛いと思えるが、この可愛さに至るまでの経歴を考えると素直な感想は安易に口から出せない。この可愛さの分、泣いた者達がいるのだ。
「大丈夫か?」
胸に下げた翻訳の魔結晶がオークのような存在にも通じるかは分からない。しかし例え通じなかったと分かっていても俺はこの言葉を掛けたはずだ。
「……ルゥ……」
しかしオークの少女は声掛けには答えようとしない。依然としてぼんやりとしている。
「ハジメ、とりあえず今は……」
「あぁ」
ルチアの言わんとしてることは分かる。優先すべきは身の安全の確保。建物近辺の住民の避難。そして増援の要請だ。あの馬鹿でかい蜘蛛を捕らえて来たのがラルクならば、再び彼女に捕らえてもらうしかない。
(あの百歳美少女は変なことばっかりしやがって!)
種族の怨恨でオークを差別する気持ちはまだ分かるかも知れないが、いくら研究のためとはいえあのような巨大な蜘蛛を生かしたまま街の地下に確保しておくのはさすがに賛同できない。次に会うときは文句の一つでも言ってやらねばならない。
「ルゥ……ルァ?」
「ん、お前もそう思うか?」
依然としてお姫様抱っこの形で抱えられてるオークの少女に小声で声をかける。だが、彼女のぼんやりとした黄色の眼差しは俺の方を全く見ていなかった。
ただ、ぼんやりと後ろに向けていた。進行方向とは逆の。出口の方ではなく、蜘蛛がいる方を。
「ルゥガァァァッッッ!!」
「ッあっぶなッ! おわっと、とと!?」
突如として少女は暴れ出す。腕の中でもがき、抗い、俺の身体を蹴り倒すように跳んで離れる。
「ちょっと! 大丈夫!?」
態勢を崩してしまった俺の身体を咄嗟にルチアが支える。おかげで尻餅をつくことは避けれたが、抱きかかえていた少女を腕から離してしまった。
あの体勢からだと地面にそのまま落としてしまうかと思ったが、さすがは人間では無いと言うべきだろう。猫のように身軽な動作で地面に着地する。
「ルゴガァァァッッ!」
面を上げるとほぼ同時に少女は吠える。その声は怒号のようにも悲哀のようにも感じ取れた。咄嗟に押さえた自分の耳の奥、鼓膜が振動で揺れるのを感じる。
「アイツが、アイツがァ! 仲間ヲ、よくもォ!」
叫びが俺の耳に届いていく。人の言葉では無いはずのオークの言葉が分かる。これがウェスタによる翻訳の力なのか、それとも種族の垣根など超えるほどの怒りからなのかは分からない。
ただ一つだけ分かることは……
「馬鹿野郎かテメェッ!」
千切れた鉄格子の棒っきれを拾い、今にも蜘蛛へと突進しようとする。駆けだそうとする身体を背後から抱きしめるように持ち上げる。そしてそのまま回れ右で全力疾走した。
「ナッ!? 離セ人間野郎!」
ジタバタと暴れ回られるが出血により体力が消耗しているせいなのか、抱えて走るのにはそれほど苦労はしない。先ほどより大きな声の丁寧な言葉遣いの方が厄介だ。いや、すでに厄介の範囲では無いかもしれない。
「暴れんな! 大人しくしろって! もう気付かれてんだよッ!」
振り返らなくても分かる。足元へと響く振動まるで劇が始まる合図の幕上げのようにゆっくりと響いてくる。
振り返らなくても分かる。方向転換を終え、今まさに逃げる獲物を追いかけんと身構える蜘蛛の姿が。
「うわわわ、ハジメ来ちゃってるよぉ!」
「言われなくても分かってらぁっ!」
ルチアの声の振動よりも早く伝わる蜘蛛の足音の振動。全力疾走で走っているはずなのに一向に距離が開く気配は無く、むしろ全身に感じる振動は大きくなっていく。チラリと顔を向けてみれば蜘蛛はその巨体が災いし瓦礫などの障害物に足を取られながら進んでいる。
「一歩がでけぇんだよ!」
それでも巨体は巨体。一歩の歩幅は人間のそれとは比べものにならない。緩慢にも見える歩みだが信じられないことに距離は縮まっていく。その事実が俺の体に冷や汗を流させる。
「あぁ、クソッ! 仕方ねぇ」
俺はある決意をし、抱えたオークの身体を持ち替える。
「おいオークの、お前の名前は?」
「……人間に名乗る名前は無い!」
「あっそう。じゃあとりあえずお前はルゥ子な?」
「る、ルゥ子!?」
ルゥ子と仮名した少女は戸惑いの目を向けてくる。最初にルゥっと唸ったことから付けた名前なのだが安直過ぎただろうか。いや、今は仕方ない。
「ルチア、ルゥ子、よく聞け。俺がアイツを足止めする」
「ちょっとハジメ、正気?」
信じられない。というよりかは何を馬鹿なことをというニュアンスでルチアは俺の顔を見る。
「充分正気だ。俺が足止めしている隙に外に逃げてくれ」
この建物は多数の魔物を保管しているだけあり大きい。出口は見えているのだがまだ距離があり、そこに到達するまでに確実に蜘蛛は追いついてくる。そうなれば俺達は全滅するしかないのだ。
ならば、どうするべきか。簡単な話だ。誰かが殿を務めるしかないのだ。敵を足止めし、味方を逃すための時間稼ぎをしなければならないのだ。
当然、その役目は俺がやる。こんな危険な役目を誰かに任せるわけにはいかない。
「……ダメって言っても聞かないよね?」
ならば自分がと言わない辺り、ルチアは俺のことが分かってくれているようだ。危険な役目や何かあると単独行動をとりがちな俺のことを。その感情は諦めや放棄でないことを祈りたい。
「ダメって言って欲しいけどな。聞かねぇけどよ」
そう言うと口だけはまだ元気なルゥ子を渡す。一瞬速度を落とし、まるで抱きかかえるようにルゥ子を抱いたルチアは俺に親指を立てる。その顔に笑顔はなかった。
「全力で走って、全力で助けにいくから」
その言葉に俺は親指を立てる。
「ワタシでも分カる。お前のソレハ蛮勇だゾ?」
「なんだよ、心配してくれてるのか?」
ルゥ子は目を閉じ舌を出して俺に渋い顔を向ける。飴玉をあげたり名前をつけたりしたからなのか、その表情は檻の中で出会ったときよりも幾分やわらかいモノに見えた。
走りながら大きく呼吸をする。酸素が身体に行き渡り、集中力が増した気がする。
「任せろルチア」
「任したよ。ハジメ……」
俺はそこで振り返り、蜘蛛の姿を捉える。
改めて、元の世界ではまずお目にかかれないサイズの蜘蛛だ。ギネスブック載せてあげたいぐらいだ。
「さて、どうするかな?」
生きる。その覚悟の上で自分の判断が間違っていることを理解しながら俺は銃の安全装置を解除し、射撃を単発に合わせる。
守る。その覚悟の上で自分の判断が正しいことを理解しながら俺は照準を合わせ、そして撃った。