幸せ者とは
初投稿です。
長編物の小説を書くにあたって、投稿の仕方を知るためにこの短編小説を書きました。
始めに
「無知は罪なり」という言葉があるが、私はそうは思わない。
なぜなら、無知だからこその幸福があると信じているからだ。
私は小学生から高校生までの間に、ゲームや漫画、友達付き合いを知っていった。
だが同時にいじめ、進路、政治などの、面白くない物も知ることになった。
例えば今この瞬間にも、人が生を与えられ、奪われるというサイクルが行われている。
この事実に対してあなたはどう思うだろうか。
生が与えられるというところに重点を置くか、奪われるというところに重点を置くかは、それこそ人それぞれ出あるけれど、それでもこの瞬間にも人が死んでいるということに何も感じない人はいないだろう。
何が言いたいのかといえば、こういった自分ではどうしようもない暗い話しに振り回される位なら、元から知らなかった方が良かったのでは?ということだ。
他の例を挙げるならば、ここに初々しいカップルがいたとする
男性の方は女性に純粋に惹かれて交際を決め、女性は男性の高額収入に目を引かれ、交際を決めた。
互いの本音を知らない二人は、端から見れば正真正銘の純愛カップルに見えることだろう。
だが事情を知る我々には、男性に対して哀れという感情すら沸いてくる。
男性は、女性の事情を知らず、ただ純粋に恋愛をしている。
これを幸福者と呼ぶか、不幸者と呼ぶか。
第三者としては不幸者という考えの人がいるであろう。だが、本人はいたって幸せの時を過ごしている。
これに幸か不幸かを第三者が決めるのはエゴではないか。
無知は罪なりということばと知らぬが仏という言葉がある。
筆者としては、どちらもあっているが、どちらも間違っていると思う。
人の幸せを決めるのは情報量ではなく、あくまで感情なのだから。
歳を重ね、多くを知る。
この一連の流れの果てに人類が、進化を極めた時幸せの基準は変わっていることであろう。
そして、こういった考えに至るのではないか。
「知らない方が幸せだった」
進化の先は自滅、きっとこの言葉のいう自滅とは、無知の方が良かったとすべてを振り出しに戻す行為だと筆者は解釈している。
筆者はまだ20にも満たないためわからないが、高齢者に一度子供の頃は今に比べて幸せでしたか?と聞いてみたい。
人の闇を知らない頃は物事を純粋に楽しめた。
だが今では、この行為の裏に、どれ程の資金が動いているのか、など、下らないことを考えるようになった。
だが過去に戻りたいかと聞かれれば、私は首を横に振るだろう。
今の人生に、満足感と、希望を見いだしているから。
故に私は幸せ者である
読んでくださりありがとうございました。
まだまだ文章構成などが至らないと思いますが、これも人生経験だと思って精進します。
感想など頂けると幸いです。