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泉璃雪は、暗闇の中、一人ひっそりと生きていた。
滑らかな生地の着物を着せられ、何をするでもなく。規模に対して人が少なすぎる静かな屋敷で。
正しく、彼女は生かされて生きていた。
閉ざされた世界の中、泉璃雪は指先で世界を知る。
外を知らない、一五の娘の世界のすべては、どこまでも続く闇と間近に迫っているらしい森の香り、そして、完全なる静寂で形作られていた。
響いたのは、木の葉を掻き分ける音。
「……?」
聞きなれない音に、顔を上げる。
「ちょ、ま!」
静寂を破ったのは、誰だろう。
小波は、山の中を歩いていた。
「地元の山で、しかもそんな大きくない山で道に迷うとか、どんだけだ」
そんな独り言も虚しい。ひとりため息をついた。
自他共に認める方向音痴ではあったが、これはさすがに酷い。そもそも、道がなくなった時点で引き返すべきだった。下へ下へと向かえば山を下りれるはずだが、それも怪しい。
前方を見据えると、どことなく木々が少なくなっているように見えた。出れるか? と一歩足を踏み出したとき―――。
小波の足は、宙を踏んでいた。
「ちょ、ま!」
どんな崖かと足元を見れば、そこに広がっているのは暗闇。視界に入ったのはほんのわずかで、何事か完璧に理解する前に、小波の背中は地面に叩きつけられていた。
「いっ……」
うめきながら、身体を起こす。目を開いて頭上を見上げれば、そこにあるのはぽっかりと空いている穴。子どもが遊んで作ったのだろうか。はた迷惑なことこの上ない。
視線を戻し、辺りを見回す。そして、絶句した。
「どこだここ」
目の前にあるのは、どこの古都に迷い込んだかと思うほど立派な日本庭園。見るも雅な池まである。自分の住んでいる町にこんなすごい場所があったのかと、小波はため息を付きながら立ち上がった。どろどろになった制服を、気休め程度にパンパンと叩く。
日本庭園、大きな池。それは、当然それ『だけ』で成り立っているわけはない。
少し離れた場所にあるソレを見て、小波は額を押さえた。あるのは、日本庭園を前にして遜色ない巨大な木造平屋建て。さすがに小波の頬も引きつった。
(……偶然迷い込んだとはいえ、これ、不法侵入とかいうやつ?)
どこぞの大富豪か知らないが、セキュリティはどうなっているのだろう。この時点で警備局に連絡入ってたりしたら?
生憎、小波の友人に大富豪など存在しない。赤外線だの、監視カメラだの。色々考えているうちに、小波は小さく苦笑した。
(……もういい、俺は帰る)
こちらが庭で、向こう側に屋敷があるなら、屋敷をぐるりと回ればどこかに出口はあるだろう。幸い、遠くに見える山々は見覚えがある稜線を描いているため、自分の町ということには確信がある。低く呟いて、一歩踏み出す。
そのとき、屋敷の方角、こちらに面した縁側の戸が開く音がした。
「そこにいるのは、誰ですか」
か細い少女の声に、小波は動きを止める。
真っ先に目を奪ったのは、鮮やかな赤だった。
日に触れたことがないかのような白い肌、肩で切りそろえられた絹のような黒髪、落ち着いた色合いの和服、細くとも凛と通る声、そのどれもが常人のレベルからかけ離れたものであるにもかかわらず、真っ先に目を奪ったのは目元。そこに本来あるべきものは、なぜだか布で覆い隠されていた。
小波が今まで見てきたどんなものよりも鮮やかな赤。ソレはまるで、他の全てが色褪せてしまったかのような錯覚。
ぞくりと、小波の背筋にしびれが走った。
「律……? いえ、律ではないでしょう?」
その声に、目を覚ます。ずっと起きていたはずなのに、そんな感覚を抱くのはなぜだろう。巨大な屋敷、こちらに面した縁側に、彼女は立っていた。
「あなたは、どなたですか」
目隠しをされた和服の少女が、柱に両手で触れたまま、こちらに問いかける。
「あ」
何か問いかけられている。何か、言わなければ。小波はそう口を開いた。けれど、続く言葉はなかなか出てこない。少女が何を問いかけてきていたのかも、理解していなかった。
「山で、道に迷って。穴に落ちたら―――」
どこのアリスだ。いっそうさぎを追いかけていたことにしようか。
「……あなたは、どなたですか?」
それが二度目の問いだとも気付かずに、小波は答える。
「小波です」
相手につられ、思わず敬語で返した。すると名乗った瞬間、遠目からもわかるほど、無邪気な笑みを少女は口元に浮かべる。
「泉璃雪と申します。―――律以外の人と話すのなんて久しぶり。小波さん、ご迷惑でなければ、少しお話しませんか? こちらにいらしてください」
「……は?」
小波のその返答をどう勘違いしたのか、璃雪はこちらに来るよう、手をパタパタとふった。
「早く、こちらにいらしてください。今、家には誰もいないので、お茶菓子を出すことは出来ないのですけど―――」
「いや、そうじゃなくて」
池をよけて、小波は慌てて璃雪に近寄る。帰らせてくれ、という言葉が喉まで出かかって、ひとまず食い止めた。小波の足音を頼りにか、璃雪が小波のほうを向く。
「声を聞く限り、私と同じくらいの年齢だと思ったんですが」
「はぁ」
だから何だ。
「違いましたか?」
「いや」
小波はすべての反発を諦めた。要するに、目の前の少女は暇なのだろうと察する。
「どんな話がしたいんだ」
小波は苦笑しながら、縁側に腰掛けた。
「それで、夕方まで延々と喋ってたの? 初めて会った女の子と? あんたが?」
放課後の教室、机に行儀悪く腰掛けつつ、いちいち疑問符をつけて問いかけてくるのはクラスメイトの笹木だった。大抵のクラスメイトが小学校の頃からの知り合いだが、笹木とは中学の時クラス委員で一緒になって以来、友人関係が続いている。
「ほんとに人間だったの? 狐に化かされたんじゃない?」
「突っかかるなぁ。それかなり酷い言い草だってこと、わかって言ってるか?」
「突っかかりたくもなるわよ。変化のないこの町における、珍事だもの」
それはお前にとって、だろう。小波は肩をすくめて視線を逸らした。笹木はなおも問いかけてくる。
「で、その目隠しってなんだったのよ」
問われて、小波は返事に詰まった。璃雪の目元を覆っていた赤い布、その意味を何度か問いかけたものの、結局最後まで答えてもらっていない。はぐらかすか話題を逸らすかのどちらかで。小波がとりあえず何か言おうと口を開いたとき、掃除を終え、教室に戻ってきたばかりの男子生徒が声をかけてきた。
「そういえばさー。こないだ誰かから聞いたんだけど、体育祭のあのすごい絵、小波が描いたって?」
ぎくりと小波は男子生徒のほうを向く。どこから聞きつけたのか、別のクラスの男子が最初の男子生徒に背中から覆い被さって同意した。
「あー。そうそう。俺も聞いたときびっくりした。あの絵はすごかったよな」
ちょうど頃合だったのか、どやどやと掃除を終えた男子の一団が帰ってくる。女子はどこに行った。
「なんてなんてー? 絵? 体育祭の?」
「は? あの高さ三メートルくらいあった入場門? あの、紅白二枚絵? 小波がひとりで描いたとか、嘘だろ。無理だろ」
「いや、それがまじらしーって」
最初の一人は確かに小波に問いかけてきていたはずなのに、話題に参加してくる人数があまりにも多すぎて小波本人が置いていかれている。苦笑を浮かべながら、小波はその会話を見守った。笹木もやれやれ、と肩をすくめている。
「いや、何人で描いたにしてもすごかった。ホワイトタイガーとフェニックス?」「白虎と朱雀だろ。カタカナにすんなカタカナに! 我ら日本人!」「うるせー。つーかお前は課題出せ課題! 大学行く気あんのか!」「英語以外八割とれば何とかなる気がする」「いうて、お前進学しないだろう。豆腐屋の息子」「つーかどうせなら青と緑も欲しいよなぁ」「青龍と玄武?」「四色対抗とかクラス足らんね。うちの学校じゃ無理。紅白で我慢しろ」「二色ならシンボル中国神話から持ってこなくったって……」「つーかなんだそのゲンブとかって。お前らナニイッテンデスカー!」「そういうお前は日本を学べ。キトラ古墳とか知らんのか」「いや、中国神話だから。中国の方位司る神様な」「古墳の壁画なら飛鳥美人知ってる! アルタミラとかー」「キトラ古墳ときて壁画ってのはわかるんだ」「つーか世界史に行くな。アルタミラは洞窟だ。古墳と違うし」「俺、玄武が入るなら緑より黒がいいなぁ。かっこよくね? 黒ハチマキ」「いや、目立たねぇって」「ってかなんで黒。どっからきた。玄武ってつまりカメだろう。緑だろう」「玄武は亀と蛇の合体したヤツだって」「うわ、何気詳しい奴がいる。つーか蛇ならどっちにしろ緑でいい気が」「いいじゃん別に。なんとなく黒って感じがする! 流せ!」「……玄武岩?」「うぉ、懐かしい! 中学の理科でチラッと習った!」「つーか今さら玄武岩を思い出すお前をオレは尊敬する」「いや、選択地学だし」「地学!」「うちの学校そんな科目あったのか!」「去年の三年はなかったらしい。」「笑え、受けてるのは俺とコイツだけだ」「二人とか!」「……よく授業無くならなかったな。その人数じゃ、授業選択の時点で授業開かないって話もあっただろうに」「余裕があるんじゃねぇ? 授業料高いとか聴いたことないけど」「てか、そもそもこの学校公立? 私立?」「いや、それくらい知っとけ?」
すでに話は全く別の方向に向かっている。いまさら小波が看板の絵を描いていたとかいう話にはならないだろう。小波は静かに椅子から立ち上がった。すぐ横の机に腰掛けている笹木が、ポツリと小波にだけ囁く。「玄武って、その言葉自体に黒って意味があるんだよ。知ってた?」心底どうでもいい。
ふと呼ばれた気がして振り返ると、教室の後ろのほうから、女子が小波を呼んでいた。男子の騒々しさに呆れ半分びびり半分だろう。ドッと場がわくたびに、声の大きさに驚いてか肩をすくめている。
「担任が呼んでる。美術室に来なさいって」
薄々勘付いていながらも、小波は、またか。と肩を落とす。体育祭が終わってから、小波はたびたび担任に呼び出されていた。
事情を知らずきょとんとしている女子と笹木に手を振り、小波は教室を出た。
迷路のような校舎を黙々と歩いていく。この学校を設計した人物がいったいどんな意図を持ってこんなつくりにしたのか、甚だ疑問だった。来客が校内で迷うと校内放送がかかり、その時校内にいる生徒総出で捜索が開始される。そういった出来事が、少なくとも半年に一回のペースで起きているのだからどうしようもない。探し出される来客も恥ずかしいことこの上ないだろう。そもそも、全校生徒に対して敷地が広すぎるのだ、この学校は。
恐らく行こうという意思と、道順を知っていなければたどり着けないであろう校舎最奥の美術室までたどり着き、小波は唸る。言われるままに来てしまったが、無視して帰っても良かったかもしれないと今さらに思った。
「や、今からでも遅くないか」
踵を返そうと足を引いたとき、ぽん、と肩を叩かれる。
背後から、にこやかな担任の声がした。
「よくきたな、小波」
なぜ、教官室にいない。
「で、考え直してくれたか?」
問いかけつつも、美術が専門である担任はキャンバスに向かっている。教官室、廊下に続く扉を背にして、小波は「いいえ」とはっきり返した。不服そうな表情を浮かべ、担任が振り返る。
「お前みたいな人種を知ってるよ。―――何があっても、描かずにはいられないタイプだ。描くことを一生やめられない人種だ。あれだけの絵をあんな楽しそうに描けるなら、間違いない」
断定的な担任の言葉に、小波は顔をそむける。
担任の言う通り、小波は絵を描くのが好きだった。そして担任が持ちかけているのは、要約すれば「美術部のような何かを作ろう」と言う話。先日行なわれた、体育祭の看板制作に取り組む小波の姿を見てから、担任はしつこく誘いをかけてくる。もう一人、同じクラスの「みなせ」とかいう転校生もしつこく誘われていることを、小波は知っていた。
「確かに、俺は絵を描くのは好きです」
ため息を付きながら、小波は答える。
「けど、俺には描きたいものがありません」
描いたことがないものは描く。けれど、あれが書きたいという意思も衝動も、小波は持ち合わせていなかった。花も木も風景も人も、目に映るたいていのものはすでに描き終わった。体育祭の看板も、配色こそ小波が決めたけれど、下絵を施したのは人外を描くことを得意とする「みなせ」だ。小波はその下絵に色をのせただけ。
「描かずにはいられないというのも、意味はわかります」
そうでなければ、授業ノートの片隅が関係のないもので埋まるはずがない。新品のノートを、休み明け早々一週間で使い終わったりはしない。このノートは授業用ノートじゃなかったかと首を捻った。軽く自分に引いたくらいだ。けれど、だからこそ、
「今の俺には、絵の具なんて必要ないんですよ」
紙とペンさえあればいい。担任の誘う活動のメリットは、高い画材がある程度好きなように使えるという点だったが、生憎と小波にソレは必要なかった。
「他をあたって下さい。そろそろ失礼します」
必然的に「みなせ」が標的になると解っていながら、小波はそう言った。よく知らないから、そんなことが言えるだけだ。軽く頭を下げ、小波は踵を返して美術教官室を出る。ふと、凛と響く少女の言葉を思い出した。
『よろしければ、また来てください』
思考は一気に切り替わり、次はいつ行こうかと、数日分の放課後の予定を思い出す。
2009/6/18




