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Everybody meets on the street

作者: ゆうかりはるる

キャスト


サラ(カプチーノが好き)

ルルー(ブス猫)

カコ(ヘビースモーカー)

スウィート・セシル(理想の女の子)

ジュール・ナイト(セシルの恋人。好青年)

ロビン(よく喋る。酔っぱらいの見本のような男)

タイガー(忙しない男)

トマ神父(無口な老人)

ジョン・コダック(仲間の集まるバーの経営者)

ショコラ(夢見る少女)

スィースィー(コダックの姪)

ドロシー(嘘つきの少女)

パン屋のおばあちゃん(なんちゃって予言者)



EMS-001


 ジョン・コダックの経営するバーは仲間のたまり場になっていて、それぞれ仕事などが終わったあと、夕方の六時頃からばらばらに集まり始め、最初から最後までジンをロックで飲み続けているロビンがカウンターに突っ伏す頃になって最後にセシルが現れることになっている。

 サラはだいたい決まって、四、五人が店のいちばん奥まったいつもの席で、ジョン・コダック特製のキノコのリゾットをつついているような時間に行くようにしている。何となくその時間の店の雰囲気がいちばん好きだからというのもあるし、先に来ている連中はどちらかというとあまり深く知った仲でもないので、アルコールが充分に回っていないところをうまく相手できる自信がない。それに、カコがやってくるのもそのくらいの時間だ。

 そもそもサラをここの連中に紹介したのは彼女で、サラと彼女の出会いもちょっとした偶然からだった。どこか田舎の方へ旅行に行ったとき飛行機で隣り合って、彼女の方からサラに声をかけて、サラにしては珍しいことだったがなぜかすぐに仲良くなって同じホテルに泊まり、温泉でお酒を酌み交わしたりした。

 この集まりを何と呼んだらよいのか、クラブ、イギリスなんかの古いコミュニティーとしての社交クラブみたいな雰囲気もあるし、大学のサークルのOB会といったノリもないことはない。つるんでいるというほどにはまとまっておらず、やはりクラブとかソサイァティという感じである。

 サラがメンソールのタバコに火を点けて、ふと顔を上げて入り口の方を見ると、カコがちょうど入ってくるのが見えた。



EMS-002


 変な夢を観てサラは目を覚ました。夢から目覚めへと移行するその瞬間に突然シャッターが勢いよく下りて、夢の内容は忘れてしまった。

 それでもベッドの上に半ば身を起こして、パジャマ姿のサラは、なおも夢の尻尾をつかまえようとしてみる。頭を眠っている状態に近づけていくことで夢の中身を思い出せることは多い。それは眠りとは正反対の運動で、例えば夢のなかの雰囲気や、夢のなかで自分が感じていた気分、出てきた人間など、手がかりになりそうなイメージをあれこれと、自分の記憶と照応させていくという作業を無意識にするのであって、ただ単に思考を停止させているのではない。思考を意識の水面下のレベルに切り替えている、と説明できるかもしれない。

 こんなときにチャイムが鳴ったり電話がかかってきたりするとそれまでの努力はいっぺんに吹き飛んでしまう。ネコに鉢植えをひっくり返されたようなものだ。もしネコが鉢植えをひっくり返すとしたら。そんなことを考えたら鳴ってもいない電話のベルを聴いた気がして結局何も思い出せないまますっきり目が覚めてしまった。

 腕を上げて伸びをして、最初に目を覚まして身を起こしたときには気づかなかったが、お腹の上に飼い猫のルルーが載っているのを見て、今日見た夢を思い出した。



EMS-003


 サラはコーヒーが飲めない。苦いとか苦くないとかじゃなくてあんなに真っ黒いものを体に入れるなんてとても耐えられない。だから口にしたこともない。ところがサラはスターバックスコーヒーにはよく行く。牛乳入りコーヒーは大好きなのだ。コーヒーなんて牛乳に加えるちょっとしたエッセンス。でもカプチーノってどちらかというとコーヒーがメイン、という人がいても気にしない。だって黒くないじゃない、とサラは言う。好きなもののことでとやかく言われるなんて大嫌い。コーヒーと同じくらい嫌い。

 どうしてもカプチーノを飲みに行けない日というのがあって、そんな日のサラはとても辛い。会社の向かいの喫茶ジョルノのテイクアウトのカプチーノは値段が高い上に余計なものが入っていてサラはあまり好きじゃない。ところがサラのデスクの隣のアケミちゃんはここのカプチーノが大好きで、ときどき外出した折りに気を利かせてサラにも買ってきてくれたりするものだから、内心ではあーあと思いながらサラは過剰な笑顔でカプチーノを口に含む。だいたい生クリームが載っていて、しかも最初から砂糖が入っているから甘いんだよ。アケミちゃん、悪い人ではないんだけどね。

 サラの飼い猫のルルーもスターバックスのカプチーノが大好きだ。駅からの帰り道、スターバックスがまだ開いている時間のときは、グランデサイズをテイクアウトで買って帰って、小さなマグに自分の分を注いでから残りはルルーお気に入りのミルク皿に入れてやる。ルルーは小さな舌をつかってぴちゃぴちゃと舐める。カプチーノを飲むときルルーは目を細めていて、そのちょっと不細工な感じがサラはたまらなく好きだ。家まで帰ってくるあいだにちょうどよい温度になっているのでルルーが火傷をする心配はない。サラも実は猫舌なのだ。



EMS-004


 カコはヘビースーモーカーである。常に火の点いたタバコを手にしているイメージがある。写真などを見ても、たいてい目を伏せて、くすんだ紅色の唇に細いメンソールタバコを当てている。

 髪の毛も目も濃密に黒く、着る服も黒いものが多い。大人しいというよりは落ち着いた印象、女というよりは女性、あるいはマダム? 夏でも革の手袋を填めていそうな雰囲気がある。実際には冬でも彼女は手袋をしないのだが。

 そのように、人の印象とは多かれ少なかれ、その人物を取り巻く者達によって型のようにつくられるものだが、そうしてできたイメージと当人とはそれほど合致するわけではない。それに人には表向きの姿と表には出さない性質とがあって、印象の方は幾分本人による、こう見られたいという操作もあるかもしれない。面白いのはカコのイメージの場合、非常に静的な性質のもので、決定的に彼女の本質を表す言葉を誰もが持ち得ないがためにイメージの全体像そのものがぼやけた輪郭になっているということがある。彼女の印象深さは実際に彼女に会ったことのない者に対しては説明のし難いもので、だから彼女を描写する言葉は地味で暗い感じに落ち着く。そして、最後には誰もがタバコのことを口にするのである。

 だから実際に彼女が吸ったタバコの数を数えてみたら、それほど少なくはないにしても、やはりヘビースモーカーとされているロビンと比べたら、同じか、あるいは少ないくらいではないか。仲間うちではタバコを吸わない者も多いので、何にしてもタバコ吸っている姿は意外と目立つのである。例えばセシルとショコラは嫌煙派、サラとタイガーは普通に吸う。トマはパイプ派で、ジュールは去年の秋になって突然やめた。



EMS-005


 雨の日のサラは、ベッドにもたれて体育座りをして、屋根に当たる雨音をずっと聴いている。初めは一粒ひとつぶを聞き分けていたはずが、いつの間にか耳は雨音を追うのを忘れ、あるいは無意識に追ったままに思考が感覚から遊離して、遠い記憶がふっと浮かび上がりそうになる。夢とはまた違う、前世に起こった出来事の感触が手に触れた瞬間に、耳には降りしきる雨が幾重にも響き、体育座りをしている自分に戻る。傍らではネコのルルーが丸くなって眠っている。

 休日の雨はこのようにいつも感傷的で、何もしたくないとは思わなくても何をすることも思いつかない。意識と無意識のはざまを漂って、暗い部屋の中、窓にぶつかる雨を見て、誰かの声が聴きたくなって。だが、結局は何もしないまま日は暮れて、そのまま眠ってしまったりする。

「ルルルルル……」電話が鳴って、暗闇の中に半ば身を起こしたサラは、繰り返すコール音を把握すると、ベッドサイドのライトを点けて、腕を伸ばして受話器を取り上げた。「もしもし……」

「あ、もしもし、サラ?」陽気なカコの声。「もしかして寝てた? ごめんね。や、ちょっと近くまで来たものだから。これから行っていい?」

 すぐにカコはやってきた。軽く酔っているらしく、サラの部屋に着いてもなお陽気なままだった。「ハイ、コレ、おみやけのコーヒー牛乳プリン」そう言ってコンビニのビニール袋を差し出すと、雨に濡れたコートを脱いで、自分でハンガーに掛けて吊す。部屋をざっと見渡してからテーブルの前に座り、寄ってきたルルーを抱え、咽を撫でてやる。サラはお茶の用意をしてテーブルに着くと、メンソールのタバコに火を点ける。カコは喋るわけでもなくてふたりは目を合わせたり逸らしたりしながら、雨の音を聴いている。



EMS-006


 休日の雑踏。ジュールとセシルが腕を組んで横断歩道を渡っていく。すれ違う恋人たちと恋人たち。真っ黒いサングラスをかけたカップル、眼鏡にポロシャツの男と、少しお腹の大きな女が手を繋いで歩いている傍らを、黒人のカップルが互いの体に腕を回して大股に通り過ぎていく。そして、それ以外の目立たないくらいに個性的な服装の、同じような愛すべきカップルたち。ジュールとセシルもいつの間にか人混みに紛れて見えなくなってしまった。

 通りは緩やかに登っていく辺りから街路の木々の緑が鮮やかになって、人通りは絶えないながらも、喧噪は消え落ち着いた雰囲気になる。木々の梢には鳥がとまり、ときおりどこから聞こえてくるのか振り返って確かめる者がいても、その出所までははっきりわからないような不思議な声でさえずり、それが枝から枝へとこだましていく。求愛する鳥たちのダンス、背後で聞こえる地上のざわめき、愛の言葉たち。

 ひっそりと木のうろから出入りするリスの兄弟が、枝の先まで伝っていって枝ごと上下に揺れているのをひとりの女の子が見つけた。隣の男の子に顔を寄せてそのことを話している。男の子は目を細めて聞いていて、やがて二匹のリスを見つけると大きく頷いて恋人たちは顔を見合わせた。そしてそのまま別の話題に流れていく。

 ジュールとセシルはどこへ消えた? 信号が変わり、人々が歩き始め、また新しいカップルたちがリスの兄弟の足元、鳥たちが愛を踊るその下を通り過ぎていく。赤青木緑白、人々は流れ、立ち止まり、別の流れに合流し、流れから逸れ、思い思いの方向へと消えていく。リスの兄弟のうちの弟の方が一歩前に出過ぎたせいで枝が大きくしなり、あっと思った瞬間には石畳に着地して、カップルたちが指さすなかを二匹のリスは草むらへと走り去った。



EMS-007


 甘酸っぱい味が好き。大好き超スキ。フルーツのたくさん載ったタルト、フランボワーズにブルーベリー。それさえあれば、もう幸せ。

 そんなわけで三皿目のケーキを注文したセシルの姿を唖然としながら見守るジュールがいる。ちなみにふたりともランチのプレートを平らげた後。ジュールはタバコが吸いたくなった。去年の秋にふと思いついて止めてみたのだけれど、たぶんこれと言った理由はなかったと思う。いまはどちらかというと、吸い始めるきっかけを探している感じかもしれない。

 セシルは新たなケーキが運ばれてくるなり食べ始める。

「お茶、頼まなくていいの?」とジュールは訊くが、「ううん、せっかくケーキ食べてんのに紅茶なんて飲んだらもったいない」とセシル。

 それでジュールはセシルの食べる様子を眺めたり、周りのテーブルの様子を見回したりして、実は店のなかにはほとんど女の子しかいないことに気がついた。そして、よくよく見ればそのほとんどがケーキを食べているのだ。やれやれ、である。

「あんたは何でケーキ食べないの?」と三個目のケーキをほぼ平らげたところでセシルが訊く。

「え、男だからじゃない?」

「そうなのかな。前のカレシは甘いモノ好きな人だったけど」

「や、そういうヤツはいることはいるけど、だからと言ってケーキを三つも四つもばくばく食えるかって言ったらそういうもんでもないと思うな。女の子とは胃のつくりが違うんだよ。や、むしろ舌かな」

「ふーん、かわいそうに」そう言ってセシルは最後のひとくちを口のなかに入れた。それを見ると、何となくジュールもケーキが食べてみたくなった。



EMS-008


 仲間うちにはみんなからトマ神父と呼ばれている初老の男性がいて、彼の存在がこのグループを何か特殊な性質のものに変えていると言えなくもない。彼はジョン・コダックの古い知り合いで、そのためほとんどいつもコダックのバーにいるものだから、サラが店に行くと必ず彼はロビンの向かいでスコッチの瓶とパイプを抱え、ひっきりなしに喋っているロビンの話を聞いているのか聞いていないのか、半開きの目をして黙々とパイプを磨き、ときおりグラスの中身を飲み干しては自分で注ぎ直している。

 サラもわりと早く到着する方なのでトマとは長い時間顔を合わせていることになるが、直接口を利いたことはまだ一度もない。何か喋っているのを端で耳にすることはあるが、それもごく稀にであって、基本的には大人しい老人にしか見えない。

 サラは仲間の人間たちのことをあまり詮索したくないので、というのも、それは都会人特有の無関心さ、面倒に巻き込まれないための用心が無意識に働いていたからであったが、この老人のことは一度カコに訊ねてみたことがある。それでわかったのがコダックの古い知り合いだということと、外国で生まれ、昔は船に乗っていたらしいこと、そしてどちらか片方の耳がほとんど聞こえないらしいことだけで、カコもやはりそれ以上のことは知らなかった。おそらくほとんど関心が無かったのだろう。

 そんなトマ神父の好物はカボチャのサラダで、これはときどきバーに姿を見せるコダックの姪のスィースィーの発明で(彼女はメンバーとは親しく口を利く存在だったが、特別仲間というわけでもなかった)、仲間うちでは賛否両論の品でもあったのだが、決まって誰かが注文して、結果的にはいつもトマ神父が平らげた。彼はものを食べている姿もあまり目立たないので、いつのまにか器は空になっているのだ。



EMS-009


 とにかく忙しない男、それがタイガーである。タイガーというのは彼がかつて飼っていた犬の名前で、その犬は彼が子どもの頃からの友人でもあったのだが、その犬が死んだとき、犬の名前を彼が受け継いだという話だったが、もちろん本当かどうかはわからない。

 ひょろっとしたやさ男のタイガーは、もてあまし気味に膝を折り曲げて椅子に座ると、その途端に小刻みなリズムを取り始めて次に立ち上がるまでそれが永久に続く。貧乏揺すりじゃない、絶えず頭のなかで鳴っている音楽に共鳴しているのだ、と本人はもっともらしいことを言っているが、彼は別にミュージシャンでもなければ楽器を手にしたことさえない。酔った席で誰かにそのことを突っ込まれると憤慨して彼は言う。「当たり前だろ。楽器なんか練習していたら誰がオレの音楽を奏でればいいんだ」

 実際のところ彼はロクに席に座っていることがなくて、常に席を移動して周り、あるいはカウンターに行ってコダックと話してみたり、店の外に出てどこかに電話をかけたりしていて普段は誰も彼の貧乏揺すりを気に留めたりはしない。だいたいいつも騒がしいし、誰も他の人間のことなんかまともに見ているわけでもないのだ。

 互いの落ち着きのなさが祟ってか、ロビンとタイガーは折り合いが悪い。席もなるべく離れて座るし、仲間うちでも幾つかのさらに小さなグループに分かれると、ほとんどふたりの接点はないことになる。ロビンはだいたいが男同士で飲む男であり、タイガーはセシルにもショコラにもちょっかいを出し、ときどきはカコとサラにも愛想を振りまきにくる。

 サラはタイガーのことを嫌ってはいないが、しかしその忙しなさには我慢のならないものがあって、なるべく近づかないように、視界にいれないようにはしている。苦手キャラなのだ。



EMS-010


 カウンターに置かれた小さなテレビの前に陣取った何人かの男たちがひっきりなしにわめいている。その中にはタイガーも含まれていて、カラーの出ない粗いテレビの画面では、どうやらフットボールの試合が行われている様子である。

 平日の雨の日には客は少なく、いつものメンバーもあまりやってこない。仕事のないジョン・コダックはタバコに火を点けて腰を下ろし、真っ白い煙を吐き出しながら画面の半分しか見えないテレビを眺める。男たちは次々にグラスを空にして、カウンターに叩きつけるように置く。コダックはさっとグラスを下げると新しいグラスにロックを落とし、バーボンやらスコッチやらを注いでもとの場所に置く。男たちは味方チームのエースの不甲斐ないプレーに対して、テレビ越しに罵声を浴びせかける。

 ふと、あつあつのフライド・ポテトが食べたくなって、コダックはじゃがいもの皮を剥き始める。ついでにカウンターの男たちの分までつくろうと考えて。

 コダックが火にかけた油の鍋の前で、ポテトの揚がり具合を確かめているところへ、姪のスィースィーが入ってきた。カウンターの片隅の、テレビの前の男たちに視線を投げてから、反対の端に座る。コダックは、フローズン・ダイキュリだったかストロベリー・ダイキュリだったか、そんなカクテルを適当に出して、カウンターのスィースィーの向かいの席に座ると、タバコの箱を手に取って、一本を口にくわえて火を点ける。スィースィーの恋の悩みの話があったり、スィースィーのパパ、つまりコダックの弟の新しい愛人の話があったり、コダックの生やしている口ひげはもう時代遅れよ、と言ってみたり、フットボールに熱中する男たちはみんなバカだ、動物だ、と言ったりする。

 コダックのつくるフライド・ポテトはとても美味しい。



EMS-011


 サラは二分に一回腕時計で時間を確かめている。それは彼女が田舎から出てきて初めて買ったもので、ピンクゴールドのベゼルがチープに輝いて、彼女はそれが自分に相応しい感じがして気に入っている。サラはそれほど物持ちがよくはなかったので、二年半もの間、なくすこともなく同じ腕時計を使い続けているのは珍しいことだった。もっとも、この時計を買う以前にはひとつの腕時計も持ってはいなかったのだが。

 それはさておき、サラは周りの連中の会話にも上の空で、それもいつものことではあるものの、カクテルにもあまり口をつけず、背を向けた入り口の方に絶えず注意が向いていて、それで時間を確かめている。そろそろカコが来てもいい頃合いだが、果たして今日は来るだろうか。というのも、この三週間、カコとの連絡が途絶えている。コダックの店に姿を見せない上に携帯も繋がらない。メールを書いても返事が来ない。一度カコの住むマンションまで行ってみたが、オートロックなので呼び出しに応じなかった以上、いるのかどうかはわからなかった。

 こういう感情を何と呼べばいいのか、サラにはわからない。純粋に心配しているようでもあるし、あるいは寂しい気持ちもなくはない。けれどサラ自身はカコに対してセクシュアルな感情を抱いていると思ったことはなく、しばらく会わないからと言って特にどうということも実際にはないはずである。お互いもう大人なんだから、一ヶ月や二ヶ月会わないことなんて当たり前で、その間にはそれぞれのやるべきことが十分に詰まっていて時間などあっという間に過ぎ去ってしまう。そんなことをぼんやり考えてみても、やはり何となく物足りない感じがしている。



EMS-012


 ルルーはいまでこそ身分の低い生まれの都会のマンションのワンルーム暮らしの女の部屋に住まうなど身をやつしているものの、かつてはさる王族の姫君という大変に尊き出のものである。

 サラの部屋でルルーの定位置はテレビの上だが、それは、ルルーが乗ることのできるうちでいちばん高い場所がテレビの上であるためで、下々のものを見下ろすことと下々のものの前を歩くことが高貴なる定めを受けた自分の特権であることを知っているからである。

 そうは言ってもルルーはいまのつましい生活に不満があるわけでもなく、至らぬところがありながらもかいがいしく世話をしてくれるつきびと(サラのこと)の働きには感謝の念すら抱いている。高貴な方は大変ゆかしくいらっしゃるのだ。

 食べ物のことにしても、65円の最低のランクのものでない限りは我慢してネコ缶でも食べることにしている。もっともそのせいか近頃ではすっかり舌も俗世間の味覚に染まってしまって、たまのイワシの尾頭付きも、野蛮なこと、と言って削り節にしか口を付けないこともしばしば。それにスターバックスのカプチーノがありさえすれば、まったく文句はないのだ。

 そんな気品溢れるルルー姫にしても、ふと故郷の思い出に胸を痛める夜もある。お前だけは他の兄妹とは違ってぶさいくな顔をしているねと冷たく仰った父王の陰で、わたくしをいつくしみ可愛がってくださった母君さま。父王に倣って辛く当たる兄妹たちのなかで、末の妹だけは姉さま姉さまと言っていつでもわたしのあとを付いてきたっけ。かあさま、今頃お元気でいらっしゃるだろうか……。

 そんなルルーの想いも知らず、可愛らしいつきびとのサラは、足元にすり寄ってきたルルーを抱き上げ、その宵はひとつの床で眠るのであった。



EMS-013


 石畳のごつごつした舗道、黒い革のブーツのつま先を眺めながら、急な坂道を注意深く下りていく。秋めかした服装、丈の長いスカート、タイトなジャケット、パッチワークの鞄。昼下がりに人通りはほとんどなく、風のないのんびりとした時間、黄色の落ち葉は道端にかたまっている。

 毎日通るたびにそこに映る自分の姿を確認している、何に使われているのかわからない鏡張りの建物があって、今日もサラはその前で足を止めたのだが、実はその建物は建築事務所になっていて、サラが鏡と思っているものはマジックミラーで、中からは丸見えである。本当は夜には反対に中の様子が見えるのだが、不思議とサラはそのことに気づいていない。帰りは道の反対側を通ることが多いせいかもしれない。

 もちろんそんなサラの姿についつい恋してしまった青年がいて、彼の名前はここでは明かされないが、彼は実は猫よりも犬のほうが好きである。

 ともかく、今日もサラはその建物の前で足を止めて、斜めに映った自分の姿を眺めながらゆるりと体の向きを変えて、中からその様子にひっそり見とれている青年に向かってまっすぐになる。一瞬表情を曇らせてから、今日は鏡に向かって顔を近づけて顔の向きをいろいろ変えてみる。

「あー、やっぱり前髪、切りすぎちゃった」とサラは思っている。鏡の内側では、青年が、髪が短くなって、ますます可愛いや、と思っている。それから一週間続けて、そのような場面は繰り返されることになる。



EMS-014


 ロビンの最近の趣味は郵便配達であるらしい。

「俺は素面のときしか配達はしないんだ」と彼は言った。そう喋っている彼はもちろん素面などではなかった。今日はタイガーの来ない日で、ロビンは仲間の座ったテーブルの真ん中で、立ち上がって、機嫌良くいろんなことをまくしたてていた。それに今日はコダックの姪のスィースィーまでが一緒に飲んでいるのだった。

「手紙ってのはいいもンだ」とロビンは言った。手にはウィスキーの入ったグラスを持っている。

「天気のいい日は郵便配達にはうってつけの日だ」ロビンはシャワーも浴びずに着の身着のままで外に出ると、まず自分のアパートの集合郵便受けを全部あさって(彼の隣に住む女のところにはことのほか多くの手紙が届く)、その日、彼が配達すべき郵便物を仕入れる。そしてそれを手に掴んで出かけると、鼻歌なんかを歌いながら、空を見上げるわけでもなく、ほとんど夜の酔っぱらったのと同じようなだらしない歩きぶりで通りを闊歩して、気に入った郵便受けに手紙を投函していく。「そのとき俺は、その手紙がたどってきた旅のことを考えるンだよ。わざわざ紙と封筒を買ってきたヤツがいて、そいつが誰かに宛てて手紙を書く。俺は手紙なんてもらったことがないから、そこにどんなことが書かれているかなんて想像もできない。でも、なんだかきっと、いままで誰にも知られてないような、すごい秘密が書かれているような気がするンだな。その手紙が俺に配達されるためにアパートまでやってきて、俺がその世界の秘密を本当の宛先に届けるンだ。俺にはそんな秘密、聞いたってわかりっこないだろうけど、そいつが正しい郵便受けまで届くためには俺が必要なんだ、っていうのはいいもンだよ。俺は神に選ばれた郵便配達人てわけさ」



EMS-015


 カコは北国の生まれだが雪は嫌いだった。「あのね、雪がきれいで嬉しいのは一瞬のことなの。あとは靴まで浸みこんでびしょびしょになったりとか、吹雪のなかでダイヤも何も全然ないのと同じのバスを待ったりとか、晴れたら晴れたで車粉が降り積もって黒くなってたりとかね」

「でもほら、かまくらとか、雪だるまとか」とサラは言ってみた。

 エアコンのききが悪いサラの部屋はすきま風がひどくてこごえるほどだったが、カコの買ってきてくれたスターバックスのカプチーノにミルクを足して温めなおして飲んでいる。ルルーはまっさきに少しぬるくなったカプチーノをお気に入りのお皿にもらって夢中で舐めると、音の入っていないテレビの上で丸くなって眠ってしまった。炬燵がないのでサラはいつもルルーのためにテレビをつけてルルーの寝床を温めてやる。カコは言う。

「大人になっちゃったら雪のなかで遊んだりだってしないもの。そして雪と共存しよう、って考えるには都会すぎる街だったの」

 でも私はきっと雪が好きだな、とサラは思った。雪で家が埋まってドアや窓が開かなくなったりするなんて、サラにはうまく想像することができなかったが、そんな日は仕事を休んで、暖かい部屋で、大きな暖炉の前で(そんなものがある家がないことをサラは知らない)ルルーと並んで丸くなって、あるいはロッキン・チェアに揺られて、昔の恋愛小説のページを開いたままうつらうつらしたり。絨毯なんてびっくりするくらい分厚くて、一歩あるくたびに足が沈むくらいふかふかで。そんな街に育ったらよかったのに、とサラは思った。

「でも、自分でもどうしてかわからないけど冬は好きなのよね」とカコは言う。「たぶん街をあるく人がみんな厚着をしているのが嬉しい。ほっぺたを真っ赤にして、身を縮こませて……」



EMS-016


 いつかのリスの兄弟は今頃どうしているだろう。都会の雪のない冬は風が強く、寒さをしのげる場所は小さな生き物たちで取り合いになる。ネコよりからだの小さいリスたち、カラスよりも体が小さい上に飛べもしないリスたちの武器は素速さだけだったので、見つけたエサを他の生き物より先に捕まえることができたが、元来頑丈な歯を有する彼らは結局ネコにもカラスにも食べることのできない堅い皮で覆われた木の実を好む。

 クマが冬眠するというのはよく聞く話だが、そもそも冬眠という機能は冬の寒さをしのぐことと冬の食糧不足をしのぐための策であるから、都会派のクマは冬眠なんてもちろんしない。厚い毛皮のおかげで冷たい風も平気である。小さなリスの兄弟はそんな立派な毛皮は持っていなかったけど、都会は冬でもエサには事欠かなかったから、やはり冬眠の本能はいつのまにか消えて、風が強すぎる日にもぐりこむ小さな隙間を見つけておけば十分である。しかもネコが首をつっこむには狭すぎ、カラスが留まる余裕もない場所を。

「今日は寒いねー、お兄ちゃん」「昨日も寒かっただろ」「昨日の寒さはいま思い出してもいま寒いことになんないけど、いまの寒さはいま寒いもん」「あ、こんにちは、ネズミの奥さん」「あら、今日は寒いわね。ウチにあったかいスープがあるから、良かったらいらっしゃいな」「えっ、おばちゃん、本当?」「いえ、せっかくですが僕たち、いまダイエット中なんで」「あらそうなの? 残念だわ。春になったらいらっしゃいね。さよなら」「お兄ちゃん、なんでそんなウソ言ったのさ。僕、おばちゃんのスープ飲みたかったな」「や、オレあれ嫌いなんだよね」「お兄ちゃん、好き嫌い多いからなー」

 今夜も小さなリスの兄弟はどこかの屋根の下、身を寄せ合って眠っている。



EMS-017


 どれほど仲の良い者同士でも、気持ちのうまく噛み合わない日がある。かれこれ半日ものあいだ、サラとルルーは喧嘩をしている。

 そもそもの始まりが何だったのかははっきりしない。明け方、寒い部屋を横切ってトイレに行く途中、座布団の上に丸くなったルルーのしっぽの先をサラはうっかり踏んだのだが、サラはそのことを覚えていない。そしてルルーもサラが戻ってくる頃にはふたたび寝入っていたのだから、おそらくもう忘れている。

 サラが朝ご飯の用意をしているあいだに起き出したルルーが、傍らに転がっていたサラのブラジャーに気がついて、サラがパンと目玉焼きとサラダの載ったお皿を部屋に運んできたときにはブラジャーはぼろぼろになっていて、いつもならそんなことでは怒らないサラだったが、その日は少しむっとした。

 ルルーはその朝本当はスターバックスのカプチーノが飲みたかったのだが、それがどのような過程を経て自分の目の前に現れるのかわかっていないルルーは、サラが自分のことをわかってくれていない、つきびとのくせに、まったくもう、と思ったかどうかはわからない。

 そのようなすれ違いはごく日常のものだったが、たまたま心の隅にひっかかったつまづきがルルーとサラの対話をぎこちなくさせる。「なによ、もう、ルルーのバカ」とサラは言った。ふにゃーん、とルルーは鳴いた。顔を上げた拍子に目が合っても互いに知らないふりをした。

 夕食の買い物に出かけたサラはスターバックスに寄ってカプチーノを買った。まだちょっと怒っていたのでトールサイズにした。家に帰ってドアを開けるとルルーが待っていてにゃーんと鳴いたので、サラはカプチーノを全部ルルーのお気に入りのお皿に開けてやった。それで仲直り。



EMS-018


 坂道を上りきる前に、サラは立ち止まって振り返った。来た道を見たのではなかった。空の高さを確かめたのだった。空はあまり近づいてはいなかった。

 舗装された山道はかえって歩きづらく、風の吹かない陽射しの強い午後。こめかみのあたりに浮いた汗の滴が目尻に伝った。

 都会はとてもとても遠いところにあるはずだ。

 木々に囲まれて都会の街並みを思い出す。森はサラにとっては極めて相対的なものだった。峠を越えた。

 予想に反して見えてきた家並みはそれほど古い感じのものではなかった。ここ十年以内に建てられたと思われるものがほとんどで、そのような地方の山間の風景はよく見慣れたもののように感じた。

 スニーカーのかかとを引きずらないように注意しながら歩く。背中に手を回してリュックサックの位置を直す。

 垣根の隙間からときおり庭の様子が見える。たいていはそこそこ手入れされた芝生が見える。そうでなければプランターに並んだきれいな花がある。サラはそれを見ても自然が切り取られているとは思わない。生や美は、もっと単純なものだから。

 舗装されていない土と砂利の横道を、悠々と歩く一匹の猫がいて、偶然立ち止まってサラの方に振り向いた。サラもできるだけ自然を装って、立ち止まる。妙な模様の入り方をした猫で、少しは都会の猫よりも逞しいのかしらとサラは考える。そしてもちろん、サラはルルーのことを考える。

 猫はつねに猫全体、ということを書いてある本を読んだことがある。サラはそのときこの世の真実のすべてを知ったと思った。そしていま、いままでで一番その言葉の意味を理解していると感じる。

 旅に出て良かった。



EMS-019


猫    「あんた、誰?」

ショコラ 「ショコラです」

猫    「ふーん」

ショコラ 「猫さんは、何してらっしゃるんですか、ここで」

猫    「や、昼寝とか」

ショコラ 「よいですねえ」

猫    「別に。ただの昼寝だし」

ショコラ 「そうですねえ」

猫    「あんた、なんか、変わってるね」

ショコラ 「猫さんの方が変わってますよ。喋ってるし」

猫    「猫だって喋りたいときもあんだよ」

ショコラ 「変なの」

猫    「ところでなんか食いモン持ってないのかよ」

ショコラ 「ガムとかしかないんだけど」

猫    「ガムなんか食わねえよ」

ショコラ 「喋るからってニンゲンと一緒ってわけじゃないんですねえ」

猫    「当たり前だろ、猫だよ、オレは」

ショコラ 「猫さん、お名前は何ていうんですか」

猫    「えー、いいだろ、何だって」

ショコラ 「あ、照れてる」

猫    「ま、もったいつけるわけでもないんだけど」

ショコラ 「じゃあ、あたしが付けちゃおうかな」

猫    「コラ、ダメだって」

ショコラ 「じゃあ教えてよ」

猫    「しょうがねえなあ」



EMS-020


 サラは紙袋を開けてグランデサイズのタンブラーを取り出した。もちろん中身はスターバックスのカプチーノである。サラの足元まで寄ってきたルルーは立ち止まってあくびをひとつした。サラはルルーのお気に入りのミルク皿をルルーの前に置き、向かいに屈んでカプチーノをそこに注ぎ込んだ。ルルーは小さな舌をつかってゆっくりと飲み始めた。

「ねえ、ルルー、聴いて? あなたに秘密の相談事があるの」

 サラはそう言ってルルーの顔を覗き込んだ。ルルーは一瞬舌を止めサラを見るような仕種をしたものの、すぐにまた続きを飲み始めた。

「聴いてるの? ルルー」

 サラはやさしい眼差しで猫の様子を見つめ、そっと首のつけ根に触れ、何か声にならない言葉で語りかけた。

「ねえ?」とサラは言った。「わたしは互いに決して隠し事をしないって、前に約束したでしょう? どんなことでも相談し合うって」猫は忙しなく、カプチーノを舐め続けている。「それは信頼とかルールとかじゃないの」サラは言葉を区切ってちいさく瞬きをした。「それは、ふたりだけの秘密だけど」

 しばらくして部屋の片隅、ベッドの上、よそゆきの格好のまま眠ってしまったサラ。そしてその傍らには丸くなったルルーが眠る。



EMS-021


 涙が流れたり流れなかったりする夜のうつくしさのなかに佇んで、時の過ぎる音に耳を澄ませて目を閉じる、部屋の空気のあたたかさやさしさ、心のざわめきは姿を固定しないまま溶け出して、やがて散り散りに消えていく、家の前を自動車が通り過ぎる音、高い声で鳴く外の猫、それを聞いてルルーは起きあがり、部屋のなかを一周してまた元の場所で丸くなった、サラは、それもただ眺めているだけだったが、愛しさとはこういうものなのだと意識して、猫に手を触れたい気持ちが強くなったが、相手に伝わらない感情もまた大事なことなのかもしれないと、そういう考えになる夜のような気がしてまた、何度目かわからないが目を閉じて息を吸う音を確かめ、そしてさらに耳を澄ませるように意識を研ぎ澄まして、何かはっきりしないものの尻尾を掴まえようとする、バイクが一台走り去る、思考の脈絡はうやむやになった、そのとき、電話が鳴ったら何かが始まるかもしれないとサラは思った、実際には電話は鳴ったわけではなくてただサラは電話に目を留めたのだったが、サラが電話をきちんと見るのは鳴っていないとき、死んでいるか眠っているかとにかく、鳴らない電話に意味はあるのかどうか、パジャマの袖で目をこすり、このまま目がすっかり覚めてしまうのではないかと思ったりして、明日の朝の眠たい自分を想像し、猫の丸まった背中を目でなぞり、ふと明かりの落ちたスターバックスの店内が思い浮かび、開店の時間が近づいて照明が入りまたいつもと同じようなお店の一日が始まっていく様子を想像し、夜には自分がカプチーノを注文してから受け取って店を出ていく姿があって最後の客を見送るとドアがロックされ片づけと清掃の後照明が落ちて店は再び眠りに就いた、想像に一段落がついてサラはまた眠くなってきた、涙のことはもう忘れている、夜のやさしさとうつくしさのことも。



EMS-022


 波打ち際へ向かって走っていく、ふたりの子供たちのあとを、風が追っていくのが見える気がした。

「カコにこんな小さな兄弟がいるなんて知らなかった」とサラは、バスケットのなかで丸くなっている、ルルーの耳のうしろのあたりを、目を伏せて見て、それから軽くカコの方へ顔を向けながら言った。

「まあ、ヤツらのチビッコぶりときたら」とカコは言う。「あたしでも戸惑うくらいというか、ヤンママならあたしの子供でも普通くらいのトシだから」

 サラにとって、それが始めての双子体験だった。同級生で双子の子供というのもいたけれど、自分が大人になってみると、子供の双子というのは、ほとんど同じ姿の人間がふたりいるようにしか見えないという不思議さがある。

「しかしまあ、ルルーなんか、海へ連れてきても全然無駄だね。わかってないね」

 カコはタバコを口にくわえると、ジッポーのライターを何度か鳴らして火を点けた。髪が風になびいて、頬にかかる。

「ルルーは都会っ子だから、お魚もあまり食べないし」

 サラは波打ち際で泥の山をつくり始めた弟たちの様子を見ているカコの横顔を横目でうっとりと眺める。足元のバスケットのなかで、ルルーは耳とヒゲだけ動かしている。

「うーん、素敵」とサラは言う。

「双子がでしょ」カコは頬にかかる髪を指で払う。

「うん。なんて言ったらいいのかな。うん、面白い、面白いねえ」

「や、ほんとそう」

 双子たちは、大人たちの見守るなか、低い砂の山に尻餅をついて、笑顔で振り返った。その脇を風が通りすぎる。



EMS-023


「雪虫って知ってる?」ジュール・ナイトは向かいの席に座っている、ロイヤルミルクティにシュガーを幾つ入れるか頭のなかで考えている最中の秋の乙女、スウィート・セシルに、少し遠くを見るような表情を残したまま見がら、話しかけた。

「ゆきむし!」セシルはシュガーをとりあえずひとつ入れてスプーンを手に取った。「それはなんだか素敵そうな虫ですな?」

 ナイトは少し頷くようにして、それは実際には肯定の頷きではなく、予想通り、の頷きであって、説明する。「優雅な名前だよね。しかも、確かに見た目にもうつくしいんだと思う」セシルの手の先で、スプーンがカップのなかを滑る。それをナイトは見ている。セシルはナイトを見ている。

「雪みたい?」

「そう。真っ白の綿に包まれた虫」

「見たい」

「その年初めて雪が降る少し前に、いつのまにか雪虫はいる」

「どこに?」

「そこら中に。雪が舞うように空中を漂っている」

 ナイトはそこで腕を組んで、また思い出すような、想像しているような顔をしている。セシルは自分の想像のなかで、いちばんうつくしい記憶から引き出した光景を見ている。そのときふたりを包む世界は無音の調べを奏でている。赤々と燃える薪のある暖炉、黒い煙を立ちのぼらせる煙突の煉瓦の煤、痩せた枝に一枚だけ残った枯葉。そんなものはここにはなかったが、心の問題として、そうしたものが似つかわしい空気がある。

 ナイトは黒いコートに留まった雪虫を見下ろしているいつかの自分のことを思いだしている。うっかり潰してしまわないように注意しながら手で払う。髪のなかに紛れ込むのが厄介だった。けれど、そのときそこにあった不快感は、時と空間を経ていま、ただうつくしいイメージだけを放つということにナイトは少し驚いている。驚きは感動という言葉で言い換えられる。あるいは時間軸との関係で、感傷という言い方もある。

 目の前には、うつくしい想像のなかを漂っているうつくしい娘がいる。世界は過去の時間のなかでもなお、解体と再構成を繰り返していることを彼は今日知った。やさしさは彼女のミルクティのようにあまく、あたたかく。



EMS-024 冬のエニグマ


 サラはコタツの上で丸くなって眠っているルルーをぼんやりと眺め、冬の外猫たちのことを考えている。猫たちにとって、寒さとはどういうものなのだろう。猫たちにとって、春の蝶がひらひら飛ぶのを見ることや、猫たちにとって家から流れてくるカレーの匂いや、猫たちにとって遠くの踏切の音や、猫たちにとって月の夜や、猫たちにとってやさしいメロディはどういうものなのだろう。ブス猫ルルーにとってコタツの上で寝ることとテレビの上で寝ることはどう違うのだろうか。わたしが、とサラは考える。わたしが朝六時に起きることと、朝七時に起きることに違いはあるのだろうか。トーストにバターを塗ることとママレードを塗ることは? 赤いペンと青いペンは? スカートとパンツでは? マフラーの色は? サラは不思議な気持ちでいっぱいになって、いつのまにか眠ってしまって、夢のなかでも自分に向かって、思いつく限りの質問を続けた。ルルーはそのあいだも、コタツの上で猫の幸せの夢を、サラの疑問の答えの夢を見続けた。



EMS-025


「絵を奏でるように歌う……? よくわかんない」

「それはそうだよ。これは奇蹟についての話だから」

 上から見下ろした世界のことを想像する。上ってどこだろう。空という言葉は地上から見たものだから、やっぱり上としか言いようがない。そこで自分は、雲の上にいるのでもなく、ただ浮かんでいるのでもなく、何か透明な存在になって、とは言っても想いだけの存在というのでもなく、どちらかと言えば、視覚だけの存在として世界を見下ろしている。その世界にはそんなわけで当たり前のように自分もいて、自分の想像する比較的無表情な顔つきをしたりしている。俯瞰された世界に音はなく、従って静寂もなく、何かスローモーションのような時間の断裂または間延びを感じる。それを絵と呼ぶ。絵の世界に会話はないけれど、調べはある。言葉はある。そして何より音楽がある。それを聴く耳は音を聴く耳とは少し違う場所にある。それは聴き、奏でる。しかも自然に始められるものである。そして奇蹟の軌跡を描く。

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