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ぐるりぐるり

作者: 山田さん

 不思議な名前を付けていますが、水蒼寺夫は「蒼い水=地球」、留奈美は「ルナ=月(地球の衛星)」填星君は「填星=土星」小樽は「小樽=ちーたん=チタン(土星の衛星)」そして「カッシーニの間隙」とは土星の輪にある裂け目のことです。

 体は人間で頭だけが星になっている人物、なんてのを想像しながら書いたので、こんな名前になっています。

 昭和初期の穏やかな時代の雰囲気が出ていれば、と思います。

 填星てんせい君は「カッシーニの間隙」の通り名を持つ奇病に苛まれていた。正規の学術用語はとんと覚えてはおらぬが、皮膚病のひとつらしい。伊太利亜の医師「カッシーニ」によって発見されたので、そのような通り名が付いたと聞いている。表皮に細い亀裂が走ったかとおもうと、あれよあれよとその亀裂は真皮、皮下脂肪組織にまで達し、もう二度とはその亀裂が塞がれることはないそうである。填星君の場合、その「カッシーニの間隙」が右の側頭部に発病してしまった。

 伝染性はなく、また痛みも殆ど伴わないということらしいが、放っておくと亀裂はどんどんと拡大し、場合によっては死に至る。治す手立ては今のところなく、放射線治療による亀裂の拡大を防ぐのがやっとであるという。一年間ほど、毎日その放射線治療を受ければ、塞がらないまでも亀裂の進行は止まるとのこと。実は患者にとって、「カッシーニの間隙」そのものよりも、この毎日繰り返される放射線治療が苦痛なのだそうだ。始終体は倦怠感を覚え、食欲も減退する。深い睡眠は取れず、ベッドの上では常に悪夢を見ているような状態に陥るらしい。そして何よりも治療費が高い。難病指定されておらず、保険が効かないのだ。幸いにも填星家は先祖代々の資産家であり、治療費に困窮することはなかったが、折悪く初めての子が出来たばかりであった。名を「小樽ちたる」という。女の子である。出来ぬ出来ぬと長年嘆いた末、填星君の歳が四十を半ば超えた時になりやっと授かった子である。填星君の喜びはそれはもう破格であった。しかし至上の日々も長くは続かなかった。高齢出産が祟ったのか、奥さんの産後の肥立ちが悪く、二週間ほどの入院による懸命の看病も虚しく他界してしまった。不運は重なるもので、奥さんの葬儀も終わり、やっと心の整理が出来たと思われたころに填星君は「カッシーニの間隙」を発病してしまったのだ。



 填星君と私、水蒼寺夫みそうてらおは大学時代からの朋友であり、既に二十余年の長きにわたり交流を絶やさずに今に至る。生涯の友を誓った仲である。窮した際は互いに助け合い、慶事の際はお互いに心から祝杯をあげようと約束した仲である。竹馬の友、とはいかないが互いの人生の半分以上は苦楽を共にしてきた。奥さんの葬儀の時にみた填星君の落ち込んだ姿、そして傍らですやすやと眠っている小樽ちゃんの姿は多くの参列者の涙を誘った。填星君は気丈にも涙ひとつ見せずに、参列者に対応していた。私は填星君に掛ける言葉を持っていなかった。

「何か出来ることがあったら遠慮なく言ってくれ」と言うのが精いっぱいだった。

 そんな填星君が当家をひょいと訪ねてきたのは、庭の彼岸花の白い花が涼風にゆらりゆらりとなびいていたから、初秋の頃であったろう。一年前のことだ。

「どうした、浮かぬ顔をして」

 最近は軽い冗談を交わせるまでに立ち直ってきていた填星君ではあるが、やはり未だ奥さんのことを引きずっているのかと思い、こちらもあえて軽い口調で訪ねてみたのだが、填星君はおもむろに頭を横に向け、右の側頭部を指差した。

「『カッシーニの間隙』が発病してしまったのだよ」と填星君は沈んだ声で答えた。

 実は私はその時まで「カッシーニの間隙」という病気を知らなかった。暗く落ち込んだ声で淡々と説明する填星君によって初めて知らされた訳だ。なるほど、確かに填星君のそこには、細長く黒い亀裂が入っている。

「それは難儀だ」としか答えようがない。

「なぁ、寺夫、是非とも頼まれてほしいことがあるのだ」

「なんだ、僕と君との仲じゃないか。遠慮なく申してみぃ」

 填星君は今にも泣き出しそうな顔で続けた。

「僕はこれから一年間、毎日放射線治療を受けることになる。それはとても辛い日々になるとのことだ。でも僕は耐えられる。耐えてみせる。心配なのは小樽のことだ。妻が亡くなってから僕は僕なりに小樽の面倒を見てきた。さすがに仕事場までは連れてはいけぬ。ゆえに僕が仕事をしているときは保育所に預けている。だが休みの日などは、それこそ朝から晩までずっと面倒をみてきた。お乳を与え、おむつをかえ、子守歌を歌い、むずかればだっこをし、小樽の背中をトントントンと軽く叩いてやったりもした。しかし僕が入院してしまったら、いったい誰が小樽の面倒をみてくれるのだろう。しかもこれから一年間の長さだ。保育所に頼む訳にもいかん」

 填星君はそこまで一気に話すとしばらくは自分の手の平を眺めていた。これからの入院生活の不安を思っていたのだろうか。あるいは小樽ちゃんの行く末を案じていたのだろうか。そして眺めていた手の平をぎゅっと握りしめると、今までに見たことのないような真剣な面持ちでこう切り出した。

「なぁ寺夫。僕が退院するまでの一年間、小樽の面倒を見てくれないだろうか。信頼出来るのは君の所しかないのだ。この通り」

 填星君が再び深々と頭を垂れたと同時に、スーっとふすまが開き、妻の「留奈美るなみ」が部屋に入ってきた。どうやらふすまの影で僕と填星君の会話を盗み聞きしていたらしい。「申し訳ありません。お二人の会話が耳に入ってきてしまったもので」と妻が申し訳なさそうに頭を下げると填星君は顔を上げ、「いやいや、留奈美さんにもご迷惑をおかけすることにもなるかと思います。どうぞご一緒に聞いては下さいませんか」と妻にも同席を促すのである。

「君の不安は最もなことだと思う。君の顔つきから余程悩み抜いた末の頼み事だと承知した。それに君と僕との仲。僕に異存は無いが、やはり僕の一存だけでは如何ともし難い」と言い、妻の顔色を伺う。

 我ら夫婦に子は無い。いや出来たことは出来たのだが、流産してしまったのだ。我ら夫婦は悲嘆に暮れた。その後、二度と懐妊の吉報は届かず、適齢の時期は過ぎてしまった。最早諦めていた子の面倒を見るという好機が巡ってきた訳である。ただし一年間という期限付きではあるが。

「わたくしなら構いませんことよ。填星さんもお困りでしょうし。わたくし、お子を育てたことは御座いませんが、わたくしにも女のさがが流れております。きっとつつがなく大役をお勤め出来ると思いますわ」

 私はしばし、妻の顔を眺めた。そこには強い意志で何かを成就させようと願い望む表情があった。一度は授かった子を流してしまったことに対する許しを乞う気持ちもあったのだろう。女として生まれてきたからには、子育てという大任を仰せ付かるべきという義務感もあったのだろう。

「一年後には填星君にお返しすることになるのだぞ。別れは辛いが、それでもよいのか?」

「別れとおっしゃっても、また当家に遊びに来て下さるのでしょ?」

 妻は小首をひょこりと傾げて填星君を覗きこむ。

「ええ、勿論です。寺夫君とは生涯の友。留奈美さんにも散々お世話になっておりますし、大変な子育てを押しつけようというのです。これからの小樽の成長を共に見守って欲しいと乞い願っておりますし、折々こちらに小樽共々お邪魔させて欲しいのです」

 そこまで言うと填星君は畳に手を付き「ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします」と額を畳に付けるのだった。

「わかった。当家で預かろう。ささ、頭を上げて。預かる以上、私も妻も全身全霊を小樽ちゃんに捧げよう。だから、君も安心して病の克服に専念しなさい」

 私がそう言うと妻が隣で「きゃ!」と小さな叫び声をあげた。顔を見ると頬は紅潮し、まるで女学生のようにきらきらとしているではないか。そんな妻を見るのも悪い気はしない。ただ一年後の別れを思うとやはり妻の、いやいや私自身もそうなのだが、その寂寥感は並大抵のものではないだろう。再び夫婦揃って悲嘆に暮れることがなければ良いが。

 填星君は何度も何度も礼を述べ「では明後日にでも小樽を連れてまいります。必要な品々も一緒に持ってまいりますので」と言うと「そうして下さいな。わたくしも母乳までは与えられませんので」と妻が珍しく冗談を言った。こりゃかなり嬉々としているなと思うと、私の頬も自ずと緩んでくるのであった。



 小樽ちゃん、いや填星君は「ちーたん」と呼んでいたので、我ら夫婦も「ちーたん」に慣らうことにしよう。初めて当家の門をくぐった時にはちーたんは乳母車の中でぐっすりと寝入っていた。小さな顔、小さな手、小さな足、そして小さな胸を律動良く上下させている様は、まさにその小さな体で懸命に生きている証であった。

「ああ、なんて可愛いのでしょう」が妻の第一声であり「おお、なんて美しい」が私の第一声であった。

 填星君は名残惜しそうにちーたんの顔を眺めていたが、意を決したようにすっと私の目をまっすぐに見つめると「頼んだぞ寺夫。僕はこれから直ぐに病院へいき、入院の手続きをする。明日にでも放射線治療は始まるだろう。僕も負けずに治療に励む。だから、本当に頼んだぞ」と手を握りながら哀願してくる。

 私は「うむ。判った。案ずることなく治療に専念してくれ」と答えると、填星君は今度は妻に向い「留奈美さんにもご迷惑をおかけしますが、なにとぞよろしくお願いいたします」と哀願する。そして再びちーたんの顔を覗き込み、しばらくはじっとその寝顔を見つめていた。

「では、そろそろ行く。あまり煩わせたくはないのだが、たまには小樽を連れて見舞にでも来てくれると、治療にも張り合いがでる。どうぞお願いいたします」と一礼すると、くるりと背を向け当家から、そしてちーたんから離れていった。我ら夫婦は填星君の後姿をずっと見送っていた。填星君は振り返ることもなく、病院への道をひたすら歩き続けていた。いや、一度だけ、たった一度だけ填星君は振り返った。泣いていた。人目を憚ることなく泣いていた。長い付き合いの中で、私が填星君の涙を見たのは初めてだった。



 ちーたんは本当に手のかからない子であった。勿論むずかる。粗相もする。涎も垂らす。大声で泣きわめくこともある。それらは全て子の特権である。大人になってから安易に出来る事柄ではない。ちーたんはその特権を思う存分に奮っているのだ。そう思えば我ら夫婦の苦労なんてものは、それこそ屁みたいなものであった。

 月に一度は私と妻、そしてちーたんの三人で填星君を見舞った。放射線治療によるものなのか、見舞の回数を重ねるたびに填星君は痩せ衰えていくようであった。それでも我らの見舞に填星君は破顔一笑した。そして細くなった両の腕を真っ直ぐに伸ばし、ちーたんの両の脇にそっと差し入れると、顔の前までちーたんを抱きあげ、「そうら、ぐるりぐるり」と抱きあげたちーたんを自分の頭を中心に右に左に振り動かすのである。「きゃっきゃっ」とちーたんは大声を上げて喜ぶ。すると填星君も負けじと「そうらもっともっと、ぐるりぐるり」とちーたんを右に左に、何度も何度も振り動かすのである。私の耳には、そして妻の耳にもそうであろうが、填星君の「ぐるりぐるり」の掛声とちーたんの「きゃっきゃっ」と喜ぶ声が今でも残っている。これこそ親と子の愛情深き会話。未だ言葉を発することの出来ぬちーたんと、妻に先立たれ、自らも「カッシーニの間隙」なる難病に侵され、毎日を辛い放射線治療で明け暮れる填星君の両者を結ぶ、何者も侵すことの出来ぬ太い絆の証の響きであろう。

 六度目に見舞った時、私は「ちーたんのお口の中を覗いてごらん」と填星君に告げた。填星君はそぅっとちーたんのきゃっきゃっと笑う口を覗き込むと「ああ、歯が生えているではないか! でかしたぞちーたん」と今にもベッドの上で飛び跳ねんばかりに喜んだ。ちーたんのその真新しい歯を初めて発見したのは妻の留奈美であった。その時の我ら夫婦の喜びようは尋常ではなかったが、「本来なら填星さんがこの喜びに浸るべきなのですよね」との言葉に、私は填星君の不憫を思うと同時に填星君に非常に申し訳ない気持ちに陥った。目の前で狂喜乱舞している填星君をみるに、やっとその後ろめたさから解放された思いがする。初めておすわりが出来た時、初めてはいはいが出来た時、初めて「まんま」と言葉を発した時。全ての「初めて」を我ら夫婦が享受し、その都度填星君に対して後ろめたい気になったものだが、填星君は恨み事ひとつ言わず、いつも体全体で喜びを表現してくれた。そして填星君とちーたんの「ぐるりぐるり」が始まると、いかに我ら夫婦が愛情を込めてちーたんに接していようとも、やはりこの両者の間には入り込むことは出来ないのだという一抹の寂しさを感じたりもしたものだ。

 季節があと少しで一巡しようとしていた。填星君の「カッシーニの間隙」もその亀裂の進行は収まり、放射線治療もやっと終わりを告げ、あとは簡単な薬による治療に移った。既に出来てしまった亀裂は埋めようもないが、とにもかくにもこれでひと安心である。見舞もこれで四十数度目を数えた時、填星君の口から「あとひと月程の辛抱だそうだ。今まで本当にありがとう。感謝している」との言葉を聞いた。私も妻も非常に喜ぶと同時に、これでちーたんとの生活も終焉を迎えるのかと物悲しい気持ちにもなった。恒例となった填星君とちーたんとの「ぐるりぐるり」を見るに及んで、親と子が再びひとつに暮らせるのだという喜びと、我ら夫婦の手から離れていってしまう寂寥感とが気妙な形で混淆とし始めた。

 一年間というものは短いようで長い。長いようで短い。生まれてまもない新しい生命にとっては、それこそあまたの変化、成長を遂げる時間でもある。私も、そして多分妻も、これまでの一年間、ちーたんと共に笑い、驚き、さまざまな初めてに巡り合えたことを、走馬灯の如く脳裏に映し出していた。

 やがて填星君は無事に退院した。「カッシーニの間隙」もその亀裂は生々しく残ってはいるが、もはや再発の恐れもないという。しばらくは自宅で休養の日々を送り、頃会いを見計らってちーたんを迎えにくるという。

 妻はいつもどおりにちーたんの世話を焼いている。ちーたんもここが生まれた家だと言わんばかりに泣き、笑い、そして日々成長している。離別の日は刻一刻と迫っているのだが、こうして普段と同じにした生活を送ることで気を紛らわせようとしているかのようだ。



 そしてその日がきた。

 昨年と同じように庭の彼岸花の白い花が涼風にゆらりゆらりとなびく中、填星君はちーたんを迎えに当家を訪れた。

「まだまだ体力が万全ではないが、このとおり無事に退院することも出来た。これもひたすら寺夫君と留奈美さんが小樽を預かってくれたから。本当に感謝しております」と言うと填星君は深々と頭を垂れ、手土産として持参した芋羊羹を手渡した。

 ちーたんは妻の腕に抱かれてすやすやと寝入っている。彼岸花を撫でた涼風がそのままちーたんの真新しい頭髪を撫でる。妻は先ほどからじぃっとちーたんの寝顔を見つめたまま、顔を上げることもない。

「無事の退院、おめでとう。もうすっかりといいのかい?」と私が訪ねると「ああ、側頭部に出来た亀裂は如何ともしがたいが、もうその深みや幅を拡げることもないという。しばらくは頓服薬の世話になるがそれもあと数か月のこと。来週より仕事にも復帰する目途が立った。あとは日常に少しずつこの体を慣れさせればよい。それ程の時間もかかるまい」と填星君は晴れ晴れしい顔で答えた。

「それではちーたん、いや小樽ちゃんも手元に置くというのだな」私は既に決まっていることとはいえ、訪ねざるを得なかった。妻の両の肩が「はっ」としたように上下に振れた。

「ああ、出来ればそうしたい。片親とはいえ、やはり小樽にとっては親と一緒に暮らすのが一番だと思う。それに小樽は僕にとっての希望でもある。いずれは嫁にいってしまうだろうが、それまでは片時もそばから離したくはないのだよ」

「そうか……」私は一瞬目を伏せたが、思いなおしたように填星君をきっと見つめた。

「一年とはいえ、小樽ちゃんと一緒に暮らせたことは本当に感謝している。私も妻も小樽ちゃんにはこの上ない情を抱いている。幸せにしてやってくれ。そしてたまには小樽ちゃんを連れて遊びに来てくれ」

 妻の両の肩が小刻みに揺れていた。声をあげずに静かに泣いている。実子のように一心に愛情を注いできたのだ。いや、妻にとっては実子と変わりないのかも知れない。私とて、今にでも泣きだしたいところである。ちーたんを預かる際に、いずれは別離の時がくることを覚悟していたはずである。それでもなんだろう、この寂しさは。この悲しみは。私の心中に去来するこの感情をどう説明すればよいのか。

「では、落ち着いたら改めて小樽と共にお礼に伺う。寺夫、留奈美さん、本当に感謝している。ありがとう」と填星君は再び頭を垂れたあと、妻の方に顔を向けた。

 妻は何も言わず、胸に抱いていたちーたんをそぅっと填星君に渡した。填星君の胸に手渡ったと同時にちーたんが眠りから覚めた。そして妻の方に両の手を差し出しながら大声で泣き始めた。幼いながらもちーたんにも判ったのであろう。永遠の別れではない。永遠の別れではないが、この一年、共に過ごしてきた貴重な日々をちーたんだって判らない訳はないのである。それが明日から無くなってしまうのだ。

「ああ、ちーたん」妻も号泣する。が、決して手を差し出したりはしない。そんなことをしたら余計に別れが辛くなる。ちーたんは次に私の方に手を差し伸ばしてきた。その小さな手の平を力の限りに広げて、私に掴まろうとしている。私は泣きたくなるのを必死に堪え、填星君に目くばせをした。

「それでは失礼いたします」填星君はそう告げると、ちーたんをしっかりと胸に抱いたまま、当家を離れていく。

 ちーたんは泣きやまない。填星君の胸の中、必死に両の手を伸ばしている。どんどんと遠くなる填星君とちーたんの姿。私は縁側に立ち、そんな二人の姿をじっと目で追った。妻が涙を拭きながら私の隣に立った。ちーたんの目に妻の姿が再び映った。そして今までに発したことのない新しい言葉を、ちーたんは妻にむかって叫んだ。

「おかあしゃーん」

 填星君の歩みが止まった。ただしそれは一瞬のことであった。填星君にも我ら夫婦のこの気持ちが判ってくれているのだろう。ここで躊躇してしまうと、別れが余計に辛くなる。

 妻は堪え切れずにしゃがみ込み泣き続けた。私もずっと我慢していた涙を、ついに持ちこたえることが出来ずに流した。涙で霞む填星君とちーたんの去りゆく姿。填星君が振り向いて我ら夫婦に頭を下げた。長い付き合いの中で、私が填星君に涙を見せたのは初めてだった。



 しばらくの時が流れ、我ら夫婦もやっと落ち付きを取り戻し、またいつもの二人きりの穏やかな日常に暮らしていた。そんな折、填星君から一枚の写真が届けられた。手紙も何も同封されてはいなかったが、その写真一枚だけで全ては伝わってきた。

 妻にもその写真を見せる。

「あら……うふふ」涙を流すこともなく、微笑みながら写真を見つめる妻。そして私にこう問いただしてきた。

「ねぇ、あなた。やはりお子は欲しかったですか?」

 しばらく沈黙したのちに、私はこう答えた。

「なに、世話の焼ける女房が一人いるんだ。それだけでこちらはてんてこ舞いしている。それだけで充分じゃないか」

 その答えを聞いた妻はいたずらっぽそうにこう言い返してきた。

「なにいってるんですか。それはこちらの台詞。本当にいくつになっても世話が焼ける旦那様と一緒じゃ、お子にまで手は回りませんわ」

 そして二人で大笑いした。


 そよ風が填星君からの写真をふわりと持ち上げ、そして静かに元に戻した。

 そこには「カッシーニの間隙」によって生々しく亀裂が入ってしまった填星君の側頭部が映ってはいたが、填星君の手をしっかりと握り、満面の笑みを浮かべ、幸せそうにきらきらと輝きながら「ぐるりぐるり」と填星君のぐるりを回るちーたんの姿が映っていた。

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