タガ
なんだか最近、心がふわふわとして落ち着かない。
精神的なものだけでなく、実際に歩いていると目まいがして、頭がくらくらとする。まるで、ずっと飛行船の上にいるみたいな不安定さを感じる。地に足が着いていない――ここは、私の本来の居場所ではない。そんな風に、感じるのだ。
会社の同僚と話していても、なぜだか会話が噛み合わなくて、上滑りしてしまっているみたいだ。あぁ、うん、そうだねと、なんとなく相槌を打ってはいるのだけど、向こうの話が全然頭に入ってこない。相手の口から発せられた言葉が、文字が、まるで他国の言葉のように耳を突き抜ける。意味の抜けた音。会話は成立しないままに、でもこれ以上話を続けたってうまく着地はできないだろうと、やがて向こうから見限られて、適当に「じゃあ」、と別れる。そんなやりとりが、連日続いている。
どうしてこうなってしまったんだろう。そう思う。昔っからそれなりの、人間関係を築けていたはずだった。幸い顔は悪くないし、身長は百八十あるし、三十半ばに差し掛かっても髪はふさふさしている。私は自分自身が、まわりから『疎まれている』だなんて感じたことは今までに一度だってない。誰かがいじめられているのを黙って見ていたことはあったけれど、それをおもしろいと感じたことは一度も無かったから、参加したことも無かったし、自分がいじめられるようなことも無かった。平和だった。今までの人生。誰もが何より欲しがる『普通』を、私は難なく手に入れていた。みんなと同じように、愛する女房がたった一人いて――浮気したこともない――愛する、十歳になる娘が一人いる。誰が見たって、私は幸せに見えるだろう。……そうだろう?
午前七時ちょうどの電車に乗るために、並んで待っていると、隣にいた五十過ぎのおばさんが電子時刻表をポーッと眺めながら、しれーっと私の前に割り込んだ。
私は列の一番前にいて、後ろには十人以上の人が二列になって並んでいたはずだった。ハァ、と、私は心の中でため息をつく。
人って、恥じらいを無くしたら終わりだなぁ、と思う。恥じらいを無くすと人は、悪に走る。怠ける。ズルをする。このおばさんのように。
このおばさんだってかつてはうら若き乙女であったはずだ。男に容姿をちょっと、一部分でも褒められたりしたならば頬を染め、真っ暗な部屋の中でだって好きな男の前ではカラダを手で隠したろう。それが今や平気ですっぴんを晒し、悪気無く列に割り込みが出来るようになったわけだ。注意でもしようもんなら「あら、列があったの? 知らなかったわ」とでも言いそうなすっとぼけたその表情はなんなのだろう。「ごめんなさいね」と、羽毛より軽い言葉を吐くだろう。でも心の中ではきっとこう思っているに違いない。『いいじゃない少しくらい! 年上を敬いなさいよ!』
ヘドが出る。
私はそのおばさんを目の前の谷底に落としてやりたくなった。谷底というのは、もちろん比喩だ。つまり、死んでしまえ、と思った。
結局、私はそんなことはせずにそのまま電車が来るのを待って、数分後にやってきた電車に乗った(ちなみにおばさんは私より先に乗った)。私は人をかき分けて座席の前に行き、一人分空いたスペースに滑り込んで鞄を荷台に上げ、両手で吊革を掴んだ。痴漢になんか間違われたりなんかしたら、社会的に死ぬ。
会社では部長が今日もいつも通り、偉そうに振る舞っていて、私は『無能のくせに』と心中で毒づきながらニコニコとやり取りをした。イイコぶった対応をする自分がちょっと嫌になる。あぁ、その禿げ上がったヒタイ。ひっぱたけばいい音がするのだろう。
仕事のひと段落した午後。ウォーターサーバーからコップに水を注いで、自分の席に戻る時に、ふと視界に違う部署で働く派遣社員の女性が目に入った。容姿の良い、能力も高い娘で、一回だけ話をしたことがあったが、私は好印象を持った。
私は右手に持ったそのコップを、その女性の上で逆さまにしてみたい衝動に駆られた。きっと水はコップ内から弾け出て、重力に従って全身を濡らし、彼女は驚愕の表情で私を見るだろう。周りのみんなもざわざわと雑音を奏でながら、こちらの様子を盗み見る……。
そんな夢想をしながら席に着くと、私は水を一口飲んでキーボードを再び叩いた。
帰りの電車はまた混んでいて、すし詰めだった。汗や脂、加齢臭やら化粧の臭いやらが混じり合って、湿気も相まって不快でたまらない。辛うじて立っていると、両開きのドアについた窓の向こうでは地下の闇が走っていて、そこに私の顔が写っていた。
死人のそれのように生気が感じられない私の顔は、ひょっこりと飛び出ていてまるで生首だ。闇の中の自分としばらくの間目が合う。
……生きているのかい?
駅前の駐輪場から安もののママチャリを出して、帰っていると、目の前で一台の自転車が信号無視をした。
赤い光の中を、後ろに女の子を乗せた男が突っ切ってゆく。
死ね。
……私は今まで心の中で何人の人を殺してきたのだろう。傷つけてきたのだろう。
みんなはどうなんだろう。
私に前科は無い。暴力を振るい合うケンカをしたことだってない。でも、誰かに対して『死ね』とは、しょっちゅう思う。
……もちろん、本気で思っているわけじゃないさ。実際、さっきだって信号無視した自転車が突然現れた車に轢かれようものなら、急いで救急車を呼んだろうし、車が逃げようものなら正義感を発揮してナンバーを控えただろう。
でも、実際どうかね。人の心は綺麗かね。行いの善い人の心は完全に真っ白か? 悪人の心は真っ黒か?
私の心は、白と黒のマーブル模様なんだ。みんなもそうじゃないだろうか。
それとも、私だけだろうか。
家に着いた私は自転車を停めると、ふと衝動に駆られて、若い頃によく乗っていたロードバイクを倉庫から引っ張り出した。あちこちがサビ、タイヤはぺしゃんこだった。でも、これで昔はいろんなとこに行ったものだった。
海が見たかった。
私は家には入らなかった。嫁と娘に見つからないよう、静かにロードバイクのタイヤに空気をぱんぱんに入れた。タイヤのゴムは思っていたより劣化していなかった。
チェーンに油を吹きかけて、走れるようにすると、私は上着と鞄を草むらの中に隠して、さながらスパイのように家を飛び出た。もちろん、ロードに跨って、だ。
ペダルに力を込めて、まわす。まわす。アルミのフレームは軽く、細く大きなタイヤは滑るようで、軽やかに私の身体は運ばれて行った。
いよいよ、私はオカシイのかもしれない。そんな風に思ったら、なんだかにやけてしまった。
五キロほど走って、私は荒川に着いた。金八先生なんかで有名なあの大きな川だ。最終目的地は決まっている。海だ。この川をひたすら海に向かって走る。二十キロくらいで着くはずだ。
私は真っ暗な河川敷を、頼りないライトを照らして走った。軽いギアで、ひたすらにペダルをまわした。小さい羽虫が身体にぱちぱちと当たる。風を斬る音が耳元で唸る。おもしろいくらいに汗が吹き出て、顔面を流れてポタポタ落ちる。シャツの袖をまくって、肘が出ると涼しさを感じた。少し走ると裾もまくって、膝を出した。シワとかはもうどうでもいい。スーツは何着かある。なくなったら買えばいい。明日も、もし疲れが残っていたのなら、休んでしまおう。病気だとか、嘘をついてしまおう。そんなことは今まで一度もしたことが無かった。でも、いいだろう。たまには。そして、明日は家族で過ごそう。……無心で自転車を走らせる中で、自分にとって大事なものの輪郭が、はっきりとしてきた。
三十分も走っていると、股間が痛くなってしかたなかった。若い頃には感じたことの無かった膝の痛みまで出てきて、「歳、かぁ……」と小さく口をついて出る。
上半身全てを使って呼吸をするように、深く激しい息をしていた。両肘も両手も痛んだが、ハンドルを握るポジションを変えて痛みをごまかした。やがて、ヘドロのような川の臭いに、潮の香りがまざってくる。
ライトに一瞬照らされた赤は、小さなカニだった。海が近いのだ。見上げると、右手にそびえ立っていた東京スカイツリーは遥か後方にあって、目の前には川を跨ぐように首都高速道路がかかっている。
ようやく、河川敷の先端にたどり着く。目の前には黒いタールのような海が、波がうねっている。それでも、波の打ち付ける音は爽快だった。見上げると、満開の星空が――なんてことは無く。ポツポツと一等星が辛うじて見えて、羽田空港に向かって飛ぶ飛行機なんかも見える。
海を眺めていると、あることに気付いた。海の上の向こうの空が、やたらと暗いのだ。ぽっかりと空いた穴のように、真っ黒に暗い。それに比べて、今まで走ってきた後方の空は明るく、雲の輪郭まではっきりと見える。
なぜだろう……。雨雲がこっちに向かってきているのだろうか。だとしたらマズイ。私は後ろの空を振り返って見たり、前方の海の上の空を見比べたりした。
そして、わかった。後ろの空が明るいのは、人間の作り出す光のせいだと。そして、向こうの空が暗いのは、人間の光の及ばない、海の上の空だからだと。
後ろを振り返ると、高速道路や工場、ビルやマンションの放つ灯りで明るい。それは、人間の押し付けがましい善意のようだった。前を向くと暗い。でも、それが本来の夜の黒であるはずだった。太古の昔より変わらない、自然由来の黒。さぞかし、そこから見える星は綺麗だろう。
ポケットの中の振動に反応して、とっさに携帯電話を手にした。画面は眩しく光って、会社からの電話を告げる。
ふと、この掌の中の、携帯電話を投げつけてやりたい衝動に駆られた。
あの黒の中に……。
私はゆっくり立ち上がると、海に向かって歩いた。手の中で、振動は続いている。
テトラポッドの上で、慎重に足を運んだ。足元で波が砕けている。目を上げて、首都高の向こうの黒い空を見た。
そして、息を止めて、手にした携帯電話を思いっきり、前方に向かって投げつけた。
ふてくされた野球少年が、ムキになって、全力でボールを投げるように。
耳元で、腕がビュンと、空気を斬る音がした。
「……クソッタレェッ‼︎」
どうせ誰も聞いてやしないと、叫んだ。
向こうの方で、小さくボチャンと、水が爆ぜる。
心の重荷をそこに捨ててきたかのように、帰りは軽やかだった。
……あとで諸々面倒なことになったのは、言うまでもない。