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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

追憶の懐中時計

作者: らりなな

切ない? 系のBL小説ですので、苦手な方はブラウザバックを推奨します。

それでも良い方はどうぞ。

 時計の針の音が、心臓の音と重なり合う。




 隼川拓海はやかわたくみは、他界した父、時屋ときやがかつて営んでいた「隼川時計修理店」を継ぐ二十六歳、たった一人の息子であり店長を務めている。かつて大手会社へ勤務することも考えたが、結局はこの店が好きなのだ。店といっても田舎にある小さな時計屋で、お世辞にも綺麗とは言い難い建物である。白い外壁は一部が黒ずみ亀裂が入っているし、店の名前が書かれ入口の真上に設置されている看板は、文字が掠れて読めなくなっている。「知る人ぞ知る」といった店だが、それでも近所の人や時々県外の人から時計の修理を依頼されることがあった。


「拓海さん」


 肩まで伸びた髪を後ろに一括りにした後、休憩がてら新聞を読んでいると、引き戸の音と共に店の入り口から聞き慣れた声がした。


「涼介」

「今日も来てしまいました」


 少し茶色がかった髪を大人しげに下ろし、戸口で穏やかに笑う飯田涼介いいだりょうすけは、時屋が死ぬ直前までこの店でアルバイトをしていた。といっても、時計の修理をするのではなく、掃除や書類の整理といった雑用を任されていた。それでも涼介はその仕事を喜んで引き受けていた。約一年半続けていたのだが、時屋が死んだ直後、あまりのショックを受けバイトを辞めたのだ。が、数ヶ月後、どんな心境の変化か知らないが週に二、三回は店に来るようになった。



 拓海は涼介を店の中へ入るよう促した。涼介の行く場所はとっくに分かっている。拓海の思惑通り、涼介は店の一角にある「時屋が作った時計」が沢山飾られたコーナーへと足を踏み入れた。柱時計や置時計、古傷があるものから比較的新しいもの、数字がユニークなデザインだったりと個性的な時計がコーナーを取り囲む。

 涼介はそのまま、コーナーのど真ん中に置かれたアンティーク調の木の椅子に座り、机の上に置いた鞄から本を取り出した。


「涼介、飲み物コーヒーで良いか?」

「あ、ありがとうございます」


 例え涼介が断ったとしても、拓海は構わず飲み物を差し出そうとする。涼介もそのことが分かっているから遠慮はしないのだ。


 涼介の元から立ち去る間際、拓海は涼介の細い首元を見た。


(……やっぱり、つけている)


 涼介の首元には、かつて時屋が涼介の為に作った懐中時計がぶら下げられている。涼介が着ているパーカーの下に隠れている為、時計の部分は見れないが、首元のチェーンの金色や大体のつくりでそれが懐中時計だと拓海には分かってしまう。

 それを見る度に、涼介が今でも時屋を大切にしていることに嫉妬している自分を意識してしまう。切なくなり、胸が締め付けられると分かっているのにも関わらず、拓海はその首元を毎回確認してしまうのだ。



 時屋が死去した後、涼介がこの店のコーナーに立ち寄る様になり約一年が経つ。


 拓海は、涼介が時屋に片思いしていることに、何年も前から気付いていた。涼介がアルバイトを始める前……何度もこの店に来ては、時屋と話しているのを見ていた頃から。しかし時屋は既婚者であり、涼介の恋は叶うはずがなかった。それでも涼介はアルバイトを始め、時屋と共に過ごそうとした。今も、まるで時屋に寄り添うかのように時計に囲まれ寛いでいる。そんなことをしても、時屋は戻ってこない……なんて言える訳がないのだが。


 拓海は台所へ行き、コーヒーを淹れる準備をした。時屋はこだわりが強く、コーヒーはインスタントではなく豆を自ら挽いたものをドリップして飲んでいた。拓海もその影響を受けてか、豆を挽いたものを使うようにしている。


 淹れたコーヒーをお盆の上に乗せ、涼介の元へと持って行った。


「涼介、コーヒーできたぞ」

「ありがとうございます」


 カチャリ、とソーサーを机の上に置き、そのまま去ろうとしたら涼介に声を掛けられた。


「何だ?」

「……少し、お話しできませんか」


 そう言われて断る訳がないだろうと内心思いつつ「いいよ」と答え、涼介の向かいの席へと座った。



 話をしたいと言ったのは涼介の方なのだが、躊躇っているのかなかなか話そうとしない。拓海が辛抱強く待っていると、やっと涼介は口を開いた。


「あの、俺、別の店でバイト始めようと思うんです」


 そうか、と普通に受け入れようとして、引っ掛かる感覚がした。涼介が発した言葉の意味を頭の中で整理した途端戸惑いを感じた。唐突に訪れた動揺を隠しながら「どうしてだ?」と訊いてみる。


「これ以上、時屋さんとの思い出に浸っているままではいけないと思いまして」

「……」


 拓海は、涼介の言葉を脳内でまとめてみた。要するに、時屋さん……俺の父さんとの思い出に浸っているこの状況から脱する為に、新しいバイトを始めて無理やりにでもこの店に寄る機会をなくしてしまおう、という訳か。


「拓海さんに一応伝えておこうと思いまして。ここ最近、しょっちゅう店に寄っていましたから。急に寄らなくなると不審に思われるかもしれないので」

「……そうか」


 なぜ思い出から脱することを望んでいるのだろうかと拓海は疑問に思ったが、涼介の個人的な話だから訊くのもどうかと思い、軽い返事で済ませた。


 時屋が作った時計に囲まれたコーナーで、静かに針の音を聞いて過ごしていた涼介。涼介の思いは時屋にしか向いていないと分かっていると云うのに、拓海は涼介がこの店に来てくれる、というたったひとつの事実に喜んでいた。

 しかし、そんな涼介すら見れなくなってしまうのだ。いつかそんな日が来ると、拓海自身分かっていた。が、いつかは自分のことを見てくれるかもしれない、とどこか期待していた節もあった。その可能性を、ゼロにはしたくない。涼介が、時屋のことを考えながらここに来ているという時点で可能性はほぼゼロに近いのだが。


 拓海は自分が、涼介と「もう会えなくなる」という事実に耐えられないのではないかと思った。じゃあどこかで会う約束をすればいいのではないか、とも考えたが、涼介が思い出に執着するのを止めるのならば自分の存在は邪魔でしかないのではないか、という考えも頭に浮かび、結局どうするべきか分からなくなる。


「……良いんじゃないか? バイト」


 一大決心をしたような真剣な眼差しを向ける涼介を前に「考え直せ」という利己主義利な発言が出来る訳もなく、拓海は自分の心と正反対のことを口走ってしまった。



 涼介と話をし、時計のメンテナンスを行っていた。ふと気が付けば、作業机の左側に取り付けられた窓がすっかり茜色に染まり、机を樺色かばいろに染め上げていた。拓海は一度作業に取り掛かると周りのことが見えなくなってしまうことが度々あった。コーナーからは相変わらず時を刻む音が聞こえてくる。いつの間に涼介は帰ったのかと思い念のためコーナーを確認すると、そこには顔を机に突っ伏して眠っている涼介がいた。


 近付いてじっと顔を見つめてみる。サラサラの髪に覆われ見え隠れしている顔は「涼介」という名前の通り涼しげで、拓海にとってものすごく貴重な姿に思えた。

 この姿を目に焼き付けいておこうと下心ありありのことを考えながら見つめていた拓海が、ふと、涼介のうなじに光るチェーンを視界に捉えた。時屋が作った懐中時計の、チェーン部分。黄金に輝くそれは、金の砂の様にどこか特別なものに見えた。


 拓海は先程の涼介の話を思い出した。涼介はここに来なくなるし、このコーナーに飾られている時計を見ることもなくなる。が、たった一つ、涼介と時屋を繋ぐものがある。それは、涼介が身につけている懐中時計だ。いくら時屋との思い出に浸るのを止めるからといって、懐中時計を捨てることはきっとしない。どこかで、時屋と居た日々は現実にあったという証拠を残しておきたいと考えている筈だ。


 悔しさや、やるせなさが込み上げてくるのを拓海は感じた。拓海が涼介と繋がる手段はいくらでもあるが、形だけであり本当に繋がることはできない。例え涼介に拓海が作った時計を差し出しても、父さんの時計ほど涼介が大切に扱い、肌身離さず持つことは、きっとない。涼介は物自体ではなく、その先にある時屋との思い出を見つめているのだ。


「……」


 拓海の脳裏に、邪な考えが浮かび上がる。

 涼介にそっと近付き、懐中時計のチェーンの留め具部分をそっと外す。涼介が起きないかヒヤヒヤしたが、相変わらず熟睡している様子に安堵する。嫌な汗が、額に伝う。指紋一つない金メッキ製の外蓋が艶を帯びている。よほど大切にしているのだと見て取れる懐中時計に傷一つつけない様、チェーンの部分をそっと持ち、作業机まで持って行った。

 時計の裏蓋を慎重に外し、中の部品を一つずつ、一つずつ外してゆく。そうして現れたネジを、時計が止まるか止まらないかの寸前の所まで緩めた後、再び外した部品を取り付けた。

 もしもこのネジが緩んで時計が止まってしまったら、何週間後かに再び俺の店に修理を頼んで来てくれるかもしれない。そんなことを考える自分は大人げないと分かっている拓海であったが、その行為を止めようとは思えなかった。


 懐中時計を片手にコーナーへ行く。まだ、涼介は眠っていた。拓海は再び慎重な手つきで涼介の首に懐中電灯をぶら下げ、パーカーの中に時計の部分をしまい込み、何もなかったかのように作業机へと戻っていった。





 あれから一ヶ月が経った。涼介は店に来ない。きっとバイト探しをしているか、すでに採用されてどこかの店で笑顔を振りまきながら働いているのだろう。

 コーヒーを片手に新聞を読む。でかでかと政治に関わる記事が載っている面を流し読みし、コーヒーを啜り一息つく。何だか味気なく感じた。

 こうして別のことをしている時でさえ涼介のことが頭に浮かんでは消え、を繰り返す自分に嫌気がさす。だからといって涼介を忘れることもできず、椅子の上から動こうとしない自分がいる。


 そろそろ仕事に取り掛かろうかと、拓海が壊れた時計が入った白い箱を手に取った時、外からドタドタと誰かの足音が聞こえてきた。その音が段々と近付いて来たと思えば、勢い良く引き戸が開く音がこちらの部屋まで響いてきた。


「拓海さん……っ!」


 慌てて戸口まで駆け寄り、目の前に立つ人物を見た拓海は驚愕した。そこには汗まみれになり過呼吸を繰り返す涼介がいた。転んだのだろうか。傷はないものの、白いシャツが僅かに土で汚れている。


「どうしよう、時計が、時計が――」


 涼介の震える右手には、時が止まった懐中時計が握り締められていた。



 とりあえず店内に入ってもらい、コーナーには案内せず作業台近くの椅子に座らせタオルと冷えたほうじ茶を差し出す。


「時計、直りますか……?」


 タオルで体を拭く前に、お茶を飲む前に、涼介が泣きそうな顔で拓海に訊いてくる。

 拓海は大きな後悔の波に飲まれていた。会えて嬉しい筈なのに、今、涼介をこんな顔にさせているのは自分のせいなのだ。

 今の拓海には、涼介に笑い掛けることさえ許されない気がした。俯いたまま「直せるよ」と呟いたその言葉が、語尾に近付くにつれ力をなくしていく。



 涼介を落ち着かせている間に、時計のネジをきつく締める。一度外した部品を再びつけ直し、姿は元通りになった。が、この時計はもう「時屋が作った時計」ではなく「拓海も手を加えた時計」へと化してしまった。もう、貰った頃の時計とは違う。そうさせたのが自分自身だと拓海は再び思い知らされ、心が苦しくなった。


「涼介」

「時計、直りましたか! ありがとうございます」

「……」


 修理代を払おうと財布を取り出す涼介を見て慌てて「無料だから」と何度も言うと、涼介はしぶしぶと財布をしまった。自分が時計のネジを緩めたことを言わない自分に、さらに腹が立つ。純粋に喜ぶ涼介を見ていられなくなり、思わず呟いた。


「……ごめんな」


 涼介の動きが止まり、不思議そうな顔で、俯きながら突っ立っている拓海を見た。


「何がですか? 謝ることなんてないですよ?」

「……」


(違う。俺は、涼介が思っている程良いやつじゃないんだよ。面と向かって自分の思いを吐き出せないくせに、こっそりと涼介の大切な懐中時計を奪って、細工してまで自分を優先させたがる、最低なやつなんだよ)


 しばらくして、顔を上げた拓海は、涼介が安心した表情で懐中時計を見つめるのを眺めていた。ふと、涼介の表情から微かに光る粒が見えた。その粒が集結し、滝となる。

 涼介が、涙を流していた。その光景に唖然としてしまった拓海は、慌ててズボンのポケットからハンカチを探るが、涼介に先程タオルを渡したことを思い出した。


「ごめん」


 もう一度、謝る。涼介は何か話そうとする度にしゃくりあげ、次々と溢れる涙を白いタオルで拭った。言葉になり損ねた嗚咽が時計の針の音と共に部屋の中に響く。


「違うんです。拓海さんは何も悪くないです……ただ俺が、泣いているだけなんです……」


 拓海は、俯いた涼介の表情を読み取ることができなかった。が、今はただ、そっと隣に居るべきなのかもしれない。そんな権利はないのだが。と思いつつ拓海は涼介の背中に右手で軽く触れた。何度もしゃくりあげ、上下する背中。自分より小さな背中にどこか愛おしさを感じる拓海であった。



「……俺、時屋さんが亡くなってから、バイトは辞めたものの、ずっとこの店に通い続けて時屋さんが作った時計が動き続けていることを確認していました」

「ああ」

「時屋さんはもう居ないのに、時屋さんの作った時計が動いていることに安心していたんです。その時計達が、俺にとって時屋さんの分身のように感じていたのかもしれません」


 時屋が生きていた頃の涼介は、拓海以上の熱い眼差しで、椅子に座って作業をする時屋の少し丸まった背中を見つめていた。発する言葉一つ一つに真剣な気持ちが篭っていた。


「このコーナーにある時計の針の音を聞くと、時屋さんとの思い出が蘇るんです。時屋さんはぶっきらぼうな所もありつつ、優しい方でした。まだ未熟な俺を見てくれた、あの時屋さんの眼差しが、俺は――」


 カチリ、と、長針が動く。午前十一時を告げる鐘の音が鳴り響く。涼介が結露のできたグラスを左手に取り、中身をごくり、と飲んだ。そのグラスを置き、ふう、と息を吐くのを拓海はじっと見つめる。


「俺……ずっと時屋さんのことが、好きだったんです」


 拓海から目を逸らして、再び泣きそうな表情を浮かべて涼介は続ける。


「ごめんなさい。ずっと、拓海さんの父親に邪な気持ちを抱えていました。想いを抱えたまま、今まで時屋さんや拓海さんと接していたんです」

「涼介」

「ずっと罪悪感でいっぱいで、でも離れるのは辛くて、ずっとこの気持ちに蓋をしていました。本当は、今すぐにでも時屋さんに謝りたいんです。例え同じ空間に居ても時屋さんと俺が見つめていたものは、全く別のものだったということや、あの精練された手で作り上げられた懐中時計を、俺は『時屋さんが俺の為だけに作ったもの』として見つめていたことに。時屋さんの傍に居るなら、俺も時計の精巧な造りに興味を持つべきだったんです。なのに俺は……」


 喋り疲れたのだろう。グラスに残っていたほうじ茶を、涼介は一気に飲み干した。

 拓海は、時屋と居る時の涼介がずっと幸せそうな顔をしていたのを思い出す。その表情の裏にあった、時屋に対する熱い思い。既婚者である時屋に抱える気持ちは、涼介をずっと苦しませてきたのだろう。


「……それでも父さんは、涼介を大事にしていたさ。それは変わらない事実だ」

「でも……」

「例え涼介が恋心を抱えていようが、父さんは愛されていた。それはとても喜ばしいことなんだよ」

「……拓海さんは、気持ち悪くないですか? 俺が男の人を好きだなんて」

「そんな訳ないだろ」


 ふと、拓海は時屋を偲ぶんだ。仕事が終わった後、家族三人で食事を摂っていた時、時屋はいつも涼介のことを話していた。その度に胸の中に蟠りを生じる拓海であったが、時屋の表情が数年前に比べて穏やかになったのは、涼介の影響だなとしみじみ感心していた。

 そのことを涼介に語ると、涼介は次第に、にこやかな表情を浮かべた。

 拓海の中で温かな気持ちと、自分の恋はきっと叶うことはないのだと分かっているはずの事実に落ち込む気持ちが入り交じる。


「拓海さん」

「ん?」

「もう一度、もう一度だけ、この店に居ていいですか?」



 この店の一角にあるコーナー。そこに飾られた幾つもの時計。時屋と涼介を繋ぐ、時を刻むもの達。

 涼介はその時計一つ一つを見て回り、時計の装飾を触っては「ありがとう」と呟いていた。その様子を盗み見ていた拓海は、今度こそ最後だ、と自覚した。涼介が時屋との思い出をゆっくりと反芻することも、俺が涼介と会って会話をすることも。

 拓海はそっとコーナーから離れ、作業机の前にある椅子に座り、壊れた時計の修理を始めた。




「……一年というのは、あっという間だな」

「はい、その通りで」


 店の外に佇み、山間から覗く沈みかけの夕陽をぼうっと見つめる。涼介が、口を開いた。


「やっぱり俺、時屋さんのこと忘れられそうにないです」


 涼介が自分自身に呆れたかのような笑みを零した。


「俺、駅前の喫茶店でバイトしているんです。もし良かったら、来てください」


 涼介はズボンのポケットの中を手探り、皺くちゃになった「珈琲一杯無料」と書かれたクーポン券を取り出した。が、あまりの見た目の悪さに決まりが悪かったのか、申し訳なさそうにそれを拓海に差し出した。拓海は素直にそれを受け取る。


「……俺さ」

「はい?」

「ずっと涼介のことが、好きだった」


 今更、こんなことを言うのはどうかと思ったが、自分なりのけじめとして伝えることにした。涼介が、時屋との思い出に浸かるのを止めたように。

 静寂に包まれたこの場所に、まるで告白した声の部分だけが切り取られたかのように拓海には大きく聞こえた。

 涼介もそうだったのだろう。驚愕した表情から、どうやら俺の気持ちには一切気が付いていなかったんだな、と拓海の気が抜ける。次第に涼介の表情が緩み、元の顔つきに戻っていった。


「ありがとうございます」


 いつもの穏やかな笑顔で、涼介は拓海にお礼を言った。しかしそれは、拓海にとって失恋の言葉でもあった。


「もしも、その懐中時計が壊れたら、またいつでも店に来いよ」

「はい」


 街を照らす夕日が眩しい。涼介が時折こちらを振り返りながら、まるで茜色の光の中へ吸い込まれていくように歩いてゆく。やがてその後ろ姿は、拓海の視界から静かに消えていった。





 時計の針の音が、心臓の音と重なり合う。

 数年前に貰った喫茶店のクーポン券は、今でも机の引き出しの中に保管されたままだ。


 朝日を浴び、作業机の前に座る。新聞を片手に、コーヒーを飲む。依頼された時計の修理をする。何気ない一日が、始まる。


 あれ以来拓海は、茜色の光の中に消えていった涼介に会うことはなかった。

読んでくださりありがとうございました。

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