乳房温存療法
自分が「癌」だと告知されたらあなたは?
ユードラの着信音で、意識が戻った。うとうとしていたみたい。
マウスをクリックしてメイルを確認する。やっと来た。編集者から
の原稿だ。7メガバイトの添付書類が付いている。これで、しばら
く頭の中を仕事で占有させておくことができる。
解凍を始めておいて、キッチンへ立つ。換気扇を点け、レンジ横
においてあるシガレットケースから、セーラムを一本くわえた。灰
皿にしている深めの小鉢を手に持ち、シンクにもたれて火をつける。
頭の中で作業手順を確認しながら、煙を深く吸い込む。最初の一息
はいつも美味しい。見ると吸い口にルージュが付いている。化粧を
落とすことさえ忘れていたことに気付く。
時計が鳴った。深夜2時だ。文字盤をにらみつけ、頭の中で作業
量の見積りをする。仕事が先ね。そのあとでシャワーを浴びて化粧
を落とそう。火をもみ消し、換気扇を切る。
Macintoshの前に戻り、解凍した個々のファイルを確認する。3つ
に分かれたテキストファイルと、画像が20枚程ある。先に送られ
てきたレイアウト指示のファクスと照らし合わせ解凍したファイル
を一つ一つ確認する。今度の雑誌の担当はどうも抜けているから、
この段取りは気を抜けない。案の定、図5に相当するものが、見つ
からない。やっぱりね。と思いながら、考えをめぐらせる。まだ社
にいるかもしれないけれど、確実な線で携帯へ電話することにした。
するとセンターの留守電が起動した。まあ、いい。図が不足な旨、
吹き込む。あの担当でもさすがに、朝までには気付くだろう。
電話をしながらブラインドにすき間を作って外を覗いた。
外は、雨みたい。微かな雨音も聞こえる。明るくなるまで、3時間
はあるわね。さて、お仕事開始。テキストファイルを開いてクオー
クに流し込む。
昨日は、おかしな日だった。ネットで知り合った男と初めて会た。
初対面の男と1対1で会うようなことは普通しないのだけれど、そ
いつには、なぜか会ってみる気になった。実際、最初に誘ったのは
私のほうだった。何度かメイルを交わすうちに、気まぐれに近かっ
たのだけれど
「ちょっと、お茶でもしませんか?」と書き添えたメイルを出した。
そのために、普段しない化粧をした。昨日は、病院の予約があっ
たので、私の作業場に近い茶店を待ち合わせ場所に指定した。そい
つは、私が指定した店で、麻のジャケットを着て店の中央の大きな
テーブルの角の席にコーヒーを前に座っていた。
アメリカンを注文して、
「この店、わかりやすかったでしょ?」
とそいつと視線が90度交差する位置に座った。メイルの印象より
は、無口そうな男だった。
「はじめまして」が、そいつの最初の言葉だった。
そのうちに私、変な自分に気付いた。ぎくしゃくした話から打ち
解けそうな話題になると、なぜか早く話を切り上げたくなる自分に。
Macintoshの調子が悪いこととか、どうでも良いことを早口に言い切
り口調で話している自分に気づいた。そのうえこの私の気分は、そ
いつに伝わっているようなのに、なぜかそいつは落ち着いている。
見透かされているような気持ち悪さと、包み込まれるような優しさ
と、まるっきり異質の感覚の間を私の気持ちは行きつ戻りつしてい
た。私、ほとんど一人でしゃべりまくっていた。そいつは、私が落
ち着くのを待っているのかもしれない、ふとそんな気がした。
その日、そいつに会う前、私は病院に検査結果を聞きに行った。
そこで、ともかく切ることだけは、はっきりした。医者はカルテか
ら、目を私に移して言った。
「今までの検査の結果を申し上げます。一応1から5までのランク
分けがります。1から3までは癌ではありません。4で癌の疑いが
強く、5は癌です」
私は、ランク5を覚悟した。医師は、続けた。
「あなたのは、ランク4です。2cm弱の腫瘍が認められます。ま
だ初期の発見です。切りましょう」
切ってその場で細胞検査をして、癌なら切除するという対応が出
来るそうだ。入院と手術で2週間くらいと告げられた。切ってみな
いことにはわからないが、手術後に抗ガン剤投与、放射線療法も併
用する可能性があることも医師は、付け加えた。
少し気が軽くなったような気がしてた。切ってみて癌じゃなかっ
たなんていうラッキーもあるわけね。っていうお気楽な期待まで持
てた。でも最悪で乳房温存療法で済む。だから、私のこの小さな乳
房と乳首は何とか残る。切ってもう少し小さくなって、さらに放射
線療法で縮むかもしれないけれど。落ち込みそうな自分を励ました。
それでも切ることになったという事実が、時とともにわたしの落
ち着きを奪っている。そう思うことにした。あの頃のような鬱に落
ち込みたくはない。そう思った途端、私はそいつに今日の待ち合わ
せ場所を決めた理由を、そう、私には乳癌の疑いがあってその結果
を聞くためにこの近くにある病院へ行ったことを、しゃべる気になっ
た。この落ち着きの無さを隠していることは、無意味に思えてきた
からだ。そう覚悟を決めた途端、ゆっくり話せるようになった。
「私が緊張しているのには、気づいていると思うけれど、初対面
のあなたと会っていること以外にも理由があるの」
そして、半月前の集団検診に始まる一連の顛末と、先程聞かされた
ばかりの結果をそいつに話した。すると、そいつは真面目な表情で
私を真っ直ぐに見つめ、思いも依らぬことを言った。
「素直な気持ちを言わせて下さい。断られると思うし、こんなこと
をいきなり言うのはたいへん失礼だとも思いますが。時間がないの
で言わせてください。切る前の、あなたの乳房を見たいと、思いま
す」初対面のその場でだよ。驚きはしたが、不思議なことに私はそ
いつに、いやらしさを感じなかった。
「でも、時間がないって?」私は、問い返した。
そいつは、言った。
「なぜだか自分でも分からないのですが、今の話を聞いて、メスの
入る前のあなたの乳房を見届けておきたい、という気持ちが湧いて
きたんです。なんというか、突然ですけれどあなたの乳房がとても
いとおしいものに思えたんです。自分でも不思議な気持ちですが、
今伝えなければ、二度とこの気持ちを伝える事はチャンスはないで
しょう?手術までに時間がありませんものね。今、自分の気持ちを
伝えないという悔いを残したくないと思ったんです」
私は、努めて事務的に答えた。
「お見せする訳にはいきませんが、母に頼んで写真を撮っておくつ
もりです」
そいつは、答えず、優しく私を見つめた。
さっきまで、さっさと切り上げて一人になりたいと思ってた私な
のに、そいつと食事まで付き合った。というより私が、
「お腹空いたな」
と言ったのがきっかけだったからで、むしろ付き合ってくれたのは
そいつの方だったし、食べたいものも、店も、指定したのは私だっ
た。その上、そいつはおごってくれた。出版社からの入金前でお財
布の寂しい身としては、素直に嬉しかった。
ユードラの着信音、ネットにはISDNで接続したままだ。ファ
イルの不足分が到着した。担当も仕事してくれてるみたい。来週木
曜日に入院する。それまでに、この雑誌の仕事を掃き出してしまな
ければ……、
クオークで詰めのショートッカットを使いながら、思った。
「それにしてもあいつ、鬱病患者だった私よりその方面に詳しい」