電車
日がコンクリートに落ちて、夏が本番に入っていくのが感じられる。
僕は卓。地元の高校に通う15歳。遠くから手を振っているのは友人の明だ。
「よう卓。もしかして待った?」
「いや、それより急ごう。23分の電車に間に合わないかも」
真夏の駅のホーム。蝉が鳴いていることが忘れられるほどに、この駅は東京行きの観光客に埋め尽くされ、ざわめいていた。
今日は7月29日。今から明と一緒に東京へと遊びに行く。
「卓ってこういうときに限って静かだよなぁ・・・」
「そうかな?」
ホームの間の日差しに吸い込まれそうになるほど、空は奥まで透き通っている。夏らしい雲は一つも見えない。
―――三番線に電車が参ります。お客様は黄色い線の内側に・・・
明は僕に小さく合図をして電車へ乗り込んだ。やはり満席で僕たちは立つしかなかった。
「はぁー・・・電車ン中は涼しいなぁ・・・」「でも人が多くてちょっと息苦しいね」
こんな内容の会話をした。一体電車の中の何組が同じような会話をしたかは謎だ。
電車は音を立てて走り出した。
車窓にはしばらく街並みが映っていたが、あたかもそれがかりそめの姿であったかのように、緑の世界へと移って行った。
会話が途切れる。だけど、決して居づらくはないような、心地よい沈黙。車内のざわめきも消え去り、車窓の緑がいっそう綺麗に思える。
7月15日。僕は親を殺した。
そんな事実さえ、忘れさせてくれるような空間があった。
「なあ卓。この間の話、聞かせろよ」
「何の話?」
「あれだよあれ・・・百恵さんの好きな人の話」
「あれ?それ話してたのって僕だっけ?」
こんな他愛のない話にさえ、驚かされる。
「まさか、誰も知らないだろう」
全くだれにもばれていないようで。
「この人、僕のこと知ってるんじゃないか?」
すべての人に筒抜けのようで。
怖かったんだ。
明との会話の中で、僕はじっと遠くを見ていた。つり革を握る手が汗ばむ。
本当に、車内と外界の境目に窓が存在しているのか試したくなるほど、緑が近くて。
親友である明は、すごく遠くにいる気がした。
―――えーお次は××ー、××です。・・・
車内アナウンスで、意識が戻る。
横にはやはり、スマホをいじっている明がいて安心した。
「あと何駅くらいかな」
今回は自分から声をかける。
「んーと、7駅くらいか?分かってのとおり俺もあんまり詳しくないから期待するなよ」
「確かにまあそのぐらいかな・・・」
―――まもなく、××、××です。お出口は左側です。・・・
扉が開く。空気が入れ替わるが、客の出入りはほとんどない。
―――発車します。
「でもな、百恵さんはきっと雄二のことが好きなんだと思うよ」
静かな空間を埋めるように、さっきの話題を振った。
「やっぱ卓もそう思うか?だよな!好きじゃなきゃ一緒に帰ったりしないって!」
「えっ、一緒に帰ってたの?」
「そうそう。俺見たんだよ。先週の木曜?だっけな」
「それもう確定じゃん!ってかなんで僕にその話を聞いたの?」
「だからさー、お前がこの間百恵さんがヨシタケに告白したーとか言ってたからだろうが・・・」
「言ったかな?・・・それいってたの剛志じゃない?」
「あっ・・・?そんな気がしてきたかも」
くだらない会話であることがかえって嬉しかった。
すべては一瞬で決まるんだなと、両親が死んだとき、思った。
「ここでこうやったら、この先どうなるんだろう」
そんな危険な発想は、意外にも怒りや憎しみではなく、好奇心や探求心から沸き起こるものだ。
親に送った一通のメール。
なんでもない、ただのメールが2人を殺したんだ。
気づけば僕と明を沈黙が包んでいた。
それを見計らったように車内はざわめきを取り戻していく。
「卓はさ・・・いや、なんでもないや」
明が口を開いた。
「なに?言ってみてよ」
「いや・・・ご両親が亡くなったんだよな。そしたらこれからはどこに住むんだ?」
「・・・叔父のところに住むよ。でも学校からはむしろ近いから、まだ僕は転校しないぜ」
「そっか・・・それは、良かった」
彼自身、僕の地雷を踏んでしまったことを察したのだろうか。また話は途切れた。
「いやぁ・・・違う学校に行くかもしれないって時だったからさぁ・・・よかったよ本当に。転校となるとテストとか受けるんだろうぜたぶん」
このまま行くとずっと沈黙が続くだろうと思い、今回は僕から口を開いた。
明に悪い思いをさせないようにか、必死に笑顔を作っている自分がいた。
それからしばらく雑談は続き、何駅かすぎて行くなかで。何度か僕は15日のことを忘れかけていた。
そのための旅行だった。全て忘れるための旅行、逃げ。
「つーかマジさぁ・・・卓は生物の課題終わった?」
「あれは終わらないだろうなぁ・・・なんせ教科書丸写しとかイカれてるとしか思えないもん」
「だよな!石川って本当なんなんだよ、生涯独身だからって俺たちに当たりやがって」
会話の中に愚痴が増えていく。
担任の石川、数学の長谷部、2組の上橋、そして友人のヨシタケや雄二。
笑えるような話ばかりだったが、自分も裏では言われているのだろうと感じた。
ーーーお次は、上野、上野です。・・・
上野のアナウンスが鳴り、よそよそと乗客が準備を始めた。僕たちは結局一度も座れなかった。
・・・
なにかが切れてゆく。自分の中の。細い糸が。
移り行く景色は灰色に染まり、街並みが人々を狂わせる。
自分の世界が歪み、精神が保てない。
ここで逃げ切れば、永遠に逃げ切れると感じた。
罪の感覚、そんなものを繋ぎとめていたのは常識という糸。
切ってしまえ、そんな糸は。
全て終わったのだ。忘れればよい。
母親に送ったメール。
「今日、自殺します」
死ねばどうにかなってしまうのだろうか。
そんな好奇心が自殺をしようという行動を生んで、常識の糸は切られた。
心配で車を出した両親は僕に何度も電話をかけていた。
結局僕は、7月15日に死ななかった。
常識的な人間性によって、ビルの上で踏みとどまった。
そんな中、両親は事故死した。
きっと、雨の中、慌てて車を出したせいだろう。どう考えても、僕のせいだ。
そして、僕はいま、ここにいる。
生きている。
明とくだらない話をして、笑えたし、人間である。
ーーーまもなく、上野、上野です。・・・
「おい、卓。何で泣いてんだ・・・」
何も答えられない。自分自身、はじめて泣いていることに気がついた。
少しして、明は僕の両親を思い出したのか、察してくれた。
「・・・ごめん。ごめん。」
僕は何を謝っているんだ?
逃げ切れ、逃げ切れ。
旅行をして忘れてしまえ。忘れれば誰も咎めることはない。
「俺が・・・そうなんだ。メールを。送った。だから死んだ。両親は死んだ」
死んだ?何を言ってんだよ。僕は。
逃げ切るなんてバカだ。忘れるな。お前は
「両親を、殺したんだ」
ーーー上野、上野です。