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異能 PSYCHIC(三)


『そう。……あなたとの婚約を破棄したい、と』

『そうですか……』

『彩子ちゃん、……』

『おば様。あたし、気にしてませんから。

 そんな風に、なる……』

『そう。……あなたとの婚約を破棄したい、と』

『そうですか……』

「……そう……ですか……」

 彩子は掠れていた自分の声に、思わず唇を押さえた。

 このくらいは許してもらえるだろうと、早めにマンションを出た。いくら遠ざかっても、胸に石が詰まったような感覚は、薄れてはくれなかった。

 声に出しても、思い知らされるだけなのだ。

 頭の中で、何度も繰り返される会話。悲しい思いは、もう誰にもさせたくはなかった。

『そうなると思ってましたから。留学すると聞いた時、黙ってあいつが空港に向かった日。もう、これ以上、頼っていられないから。行かせてあげなきゃいけなかったから。

 本当は、私が先に言い出さなければならなかったんです』

 そう言っていたら、もっとおば様は悲しい思いをしていた。良く出来たわよ。

 飛鷹彩子の頭のどこかは狂っているのに、まだ、うまくすり替えられるくらいは正常なんだ。

『彩子は卑怯。あいつだけを悪者にして。優しいことにすがって甘えてた。だから、直接言ってもらえなかった……』

「卑怯なのは彩子、意気地無しも彩子。

 良かったじゃない、毎日びくびくしなくて済んで」

 ……やっと、蜘蛛の糸、切れてくれた。

 自分が、微笑んでいると彩子は信じていた。




「もう帰ろうよ、(いくみ)ちゃん。もっと遅くなるかもしれないよ?」

 すぐそこの角を曲がると、彩子の家だった。聞き覚えのある声。彩子には、目の前の霧が、少しだけ薄れてきたような感覚が昇ってきた。

「もう少し居る? 何があったの? 彩子さんに」

 石造りの門前に佇む小さな少年の黒い影。かがみこんで目線を合わせ、尋ねている身長のある痩身な影。

 スエットの少年が、ふいに顔を上げた。

「彩子さん。育ちゃんが会いたがったから、連れてきたんだ。こんなこと初めてなんだけど」

 よくここがわかったのね、とか、何かあったの、とか、彩子は尋ねたかった。喉が、作り物のように、もうずっと凍り付いている。黙って、足を進めるだけだった。

 街灯の弱い光に照らされた育は、真っ直ぐに彩子を見詰めていた。手が伸びてきた。彩子には、わかっていた。

 立ち止まり、膝を曲げてかがみ、小首を傾けた。

「……泣かないで……、泣かないで……」

 囁く高い声。育が伸ばした手に、彩子は頬を押し当てた。

 頷いても、誰かへ向けたものではなくて。掌が、燃えるように熱かった。彩子の全身もほてりだしていた。

「彩子さん!」

「聞きたくない。引き戻さないで……」

 両手で顔を覆う。平衡感覚も重力も、失った。

 手の中には熱い潮。隙間から零れ落ちていった。

 そう……。滴と同じように、もう戻らない。

「彩子さん?」

 耳元の問い掛けにも答えられない。支える騎道の腕は確かだけれど、心にまでその手は届かない。

「!」

 小さな二つの手が、彩子の手を隠すように重ねられた。

 暖かい。言葉のない声が、そこから届けられていた。ずっと。暖かい魂の糸。耳を澄ませ、噛み締めた。

 優しい超能力者に癒される、夜だった。




 放課後。チャイムの残響を押し退けるように、教室から学生たちが出て行く。騎道もその内の一人である。隠岐克馬は、騎道の姿を探していた。

「待って、騎道」

 騎道を追いかけて廊下に出た彩子を見止めて、慌てて隠岐は顔を合わせないように背を向けた。

「昨日は、ありがと。迷惑かけちゃって」

 そっと振り向くと、照れたように彩子の頬は赤い。

「あー、良かった。彩子さん、立ち直れなくて、もうずっと口利いてもらえないのかと思ってた」

 騎道は素直に、ほっとした言葉で答えている。

「……だって。照れ臭くって」

「誰だって、あんな時はあるでしょ。いつでも、何かの時は呼んでかまわないから」

 騎道さんは優しい。隠岐は納得しながら、あの底無しの優しさには抵抗も感じていた。

 隠岐は約束通り、騎道と共に、兄の経営する設計事務所に向かった。途中、一人の小学生位の少年と合流した。

 加納育と騎道に紹介された少年は、一言も喋らず、右手で騎道の手を取り、左手に小型の模型飛行機を持っていた。

「この子が、ですか?」

「CADのマニュアルは読んであるよ。IQは高いから、実践で十分カバーできるよ」

 カバーできるはいいんですけど、相手は……。と、隠岐自身天才少年と呼ばれていながら、信じられなかった。

 騎道は丁寧に手を取って、キーボードの操作を教えていた。その両手とも不自由で、更に隠岐は頭を傾げた。

 CADとは、コンピュータによる設計システムを指す。ここに設置されている機種は、その中でも最新機種。高速で情報を処理し、大まかな性能テストも可能だった。

 グラッフィク機能だけでなく、三次元機能もあり、設計マシンとしては最上といえた。

「ラッキーだな。これも使える?」

 騎道はマシンの脇にあるボックスを差した。

「使って構いませんけど。こんなものまで知ってるんですか? ただ者じゃないな、騎道さん。新製品なんですよ」

 CADにはオプションの、スキャナーだった。たとえば、ボックス内部に探査対象品を入れ、スキャナーで大まかにポイントを読み取り、細かい修正をオペレーターが入力する。対象品がある場合は、これを使えばかなりの時間を短縮できるし、技術的な部分もカバーできた。

「もしかして、これ、ですか?」

 疑う余地はなかった。無口な天才少年に、スキャナー、CAD。そして大事そうにしている模型飛行機。

「そう。CADの3Dモードの中で、飛ばしてみる」

 自信ありげな騎道。模型飛行機をアクリルボックスに収めて、走査させた。

 ディスプレイに走り始めたグリーンの走査線に、小さな少年は、魅入られたように、真剣なまなざしを向けた。

「なんていう飛行機なんです?」

「『ユンカース』だよ」




 翌日、六時限目も半ばを過ぎた数学の授業中。騎道は電話だと呼び出されて、授業終了しても戻らなかった。

 教室を出た彩子は、珍しく眉を寄せている彼を見つけた。すぐに引き替えして、騎道の学生カバンを手に飛び出した。

「誰からだったの?」

「うん……。育ちゃんのお母さん。仕事から帰ったら、家にいなかったって。心当たりはないかと、聞かれた」

 歯切れ悪い返答は、何かを決めかねているためのようだった。騎道にしては珍しい優柔不断な態度だ。

「心当たりがあるのね?」

 彩子の断定形に、騎道は少し目を丸くした。

「いつも感心するけど、彩子さん勘がいいよね」

「ばか言ってないで。どこなの? 行くわよ」

 口より手の方が早い彩子は、カバンを放ってから言い捨てていた。背後で騎道は、まいった、なんて呟いている。

「本当言うとね。全然わからないんだ、育ちゃんの方向性。

 知ったようなふりしてるけど、僕なんか、育ちゃんの変化にどうすればいいのか、悩んでばっかり。

 だから、いつも叱られるんだ……」

 重度の落ち込みに、彩子は一瞬ひるんだ。

「あなたがそんなこと言っててどうするの? ちょっと根性ないわよ? 育ちゃんを、あなた放り出せるの?」

 彩子だって気持ちは解らなくはない。騎道若伴は、普通の人間でまだ学生の身分で、一人の人生どうこうできるような存在じゃないし、力もあるはずがない。でも騎道は、頼られて信頼されている。その事実は代えられない。

「彩子さんも、期待しているわけ? 僕が、魔法か何かが使えるんじゃないかって」

「……してちゃいけない? 期待させたの騎道の方よ?」

 育の前の騎道は、静かな自信と優しい確信に満ちて、育の全てを包み込んでいたのだ。

「かなり心強いよ。味方が出来て。行こうか」

 照れたような微笑みが、彩子に向けられた。




「もうすぐ、飛び立つよ」

 設計事務所に居た青年が、騎道に声を掛けた。

 騎道と彩子、途中拾った幸江。幸江は、ここに育が来ていたことは知らされていなかった。丁寧に、お世話になりますと、隠岐の兄にお辞儀をした。

 奥の、仰々しい機器に囲まれて、育は真剣にディスプレイを見詰めていた。幸江も感じたようだった。育の様子は、彩子が知る限りでも、最も異質な気配を漂わせていた。

「育くん、昼休みには来ていたよ。楽しそうだね」

「そうですか」

 その言葉に頷き、騎道は背後に立って進み具合を覗いた。

「騎道さん、もうすぐ出来るんですって? 早いよな、やっぱり、育くん天才ですよ。

 あ……、彩子さんも、来てたんですか……」

 部屋に飛び込んできた隠岐克馬。気まずそうに口を濁す所は、感情を隠し切れない彼の甘さだ。口数が多いのも全然変わりがないと、彩子はすぐに感じた。

「彩子さんと、知り合いだったの?」

 騎道の問いに、隠岐は答えようがなくカハハッと笑った。

「ああ、そういえば四神王。西方白虎の隠岐って、君か?」

「そんな昔の話し、騎道さんよく知ってますね」

 彩子に気を使ってか、誤魔化してみせた。けれど、視線はもの寂しそうに彩子を伺っていた。

「もう騎道と友達になったの? 人なつこいのも変わってないのね」

 子犬のように、元気にうなずく隠岐。

「騎道さん、いい人だから。尊敬してるんです」

 騎道は、目を白黒させて振り返った。

 無闇と一直線なのも、騎道と似て相変わらずだ。おかしくて、『あの頃』に戻ったようで、彩子は少し辛かった。

 去年の夏、四神王の核だった賀嶋が渡米した。もう一人、抑え役の駿河と、彩子が派手な喧嘩をして以来、四人は完全な絶縁状態に陥っていた。暫く街を離れていた隠岐は、駿河の信奉者だったせいで、知らないうちに彩子に避けられる存在になっていた。

「何やってるの? あれ」

「ユンカースをあのコンピュータの中で、飛ばすんです」

「出来るの?」

「勿論。最新機器ですからね、データさえ間違えなければ」

 理数系の天才は、自信をもって答えた。

「簡単そうなのね……」

「……。機械音痴なのも、全然変わってませんね、彩子さん。あれ、そう簡単なものじゃないんですよ、実際は」

 育に代わって騎道がキーボードを叩く。画面が目まぐるしく変わっていった。

「これでいいね」

 画面を初期画面に戻す。全ての入力が完了した。

 右手のマシンが、データを解析してゆく。

「……やっぱり、騎道さんも使えるんだ」

 感嘆の呟きが隠岐からもれた。

 画面が明るくなり、コンピュータグラフィックスに切り替わる。中央に、銀色に輝く戦闘機が浮かんでいた。

「その前に、背景を入れてあげようか」

「……うん」

 明瞭な答えが、育の口から吐き出された。

 見守っていた幸江に動揺が走った。彩子も、その意味が何であるか悟った。

 彩子が幸江の手を取ると、その手に涙が落ちた。

「あの子、今まで……、あんな風に返事を返したことなんてなかった。わかるんです、理解して判断できているんです」

 今、育は、目の前のものが何であるか、何をしようとしているのか、自分自身が何を望んでいるのか、把握していた。一つ一つのイメージが、彼の中では連動して、紛れも無く正常に思考されていた。

 複雑な数値を処理し、指示を入力し、それを根気よく繰り返す。騎道というサポーターの意見も受け入れて。

 障害児と名指されない少年にとって、当たり前の行為を、彼は自然に行っていた。

「ある種の天才ですよ。育君は」

 隠岐の言う通りだった。

 育の指先が画面に色を乗せた。大地はグリーン、空は果てしなく青い。テイク・オフ。

 飛行機は静かに滑り出し、緑の大地を飛び立った。

「左の囲みの中は、予測される全てのデータなんです。あれを見れば、この設計が完璧かわかりますし、予測速度なんかもわかるんです。今は性能を試験している段階です」

 予測速度の数値は赤い。隠岐は続けた。

「判断するには、少し時間がかかるんですよ」

 育も、騎道も息を飲んで見守っていた。

 レッドシグナルから、グリーンへ。フライ・インの文字。

「すごいや……」

 騎道は、ほっとして肩を下ろした。そしてもう一度、キーボードに指を走らせた。

 銀一色の機体に、くっきりと文字が書き込まれる。

「ユ・ン・カース……」

 育は、騎道を見返した。二人の視線が重なり、

「お兄ちゃん!」

 体を投げ出すように、育は騎道に抱きついて叫んだ。

 幸江は目頭を押さえ、言葉を無くして肩を震わせた。

 精神と頭脳の完璧な合致。名前を、育が理解した瞬間。

「え!」

 足元から昇る不思議な感覚。その場の誰もが感じていた。

「うわぁ?」

「お、おいっ!」

 見渡すと、なお滑稽な光景。……飛んでいた。その場の全員が、床から浮遊していた。

 少しだけ顔をのぞかせ、育は彩子をうかがっていた。悪戯っぽい少年の黒い瞳を輝かせ、唇を引いた。

 すぐに眠るように、彼は目を閉じてしまった。

「育!」

 幸江は真っ先に駆け寄った。

 魔法の解けるのはとても早かった。一度に、五人の人間を浮遊させてしまったのだから、模型飛行機の比になる力ではないはずだった。

「大丈夫です。気を失っただけですから。彩子さん。尾上先生の病院を教えて。そこが、今は一番いいと思うんだ」

 騎道は育の体を抱き上げ、出口に向かった。

「兄貴、車を出して。騎動さん」

「すまない、隠岐君」

 騎道の厳しい表情を、彩子は初めて目にしていた。




 尾上医師は、今夜一晩このままゆっくり休めば元通りになると告げた。尾上は彩子に、心配そうにささやいた。

「問題なのは、あの子自身じゃないようだね」

 騎道と幸江のようすをうかがって、引き取っていった。

「でも、お母さん、戻るのはいつも通りの育ちゃんです。さっきの、ユンカースに夢中になっていた彼になれるのは、時間と適切な設備が必要です。

 育君は、今よりもっと変わることができます。育君には黙って無茶をさせてしまって、申し訳なかったと思っています。でももう、僕にできることはありませんから。

 ここから先は、お母さんが判断を下してください。彼のことを一番考えているのは、誰でもない、あなたですから」

 幸江は頬を強張らせ、何も語ろうとはしなかった。

「お母さんが望むなら、できる限りの手は打ってもらえるように、僕は稜明学園学園長代行に依頼するつもりです。

 代行には、心当たりがあるそうですから」

 このことだった。騎道が決めかねて足踏みしていたことは。育の為に最後にしてやれることは、育の優しさを断ち切り、今度こそ家族を引き裂くということだった。

 幸江は、静かに首を振った。

「いいえ、騎道さん。決めるのは、あの子です。

 あの子が目を覚ましたら、尋ねてやって下さい。きっとあなたになら、答えられますわ。あの子が本当は何を望んでいるか、騎道さんは、おわかりなんでしょう?

 ……私には、聞かなくてもわかっていますから……」

 薄く、複雑な微笑みを浮かべた。

「私は卑怯な母親です。あの子、本当は気付いているはずなのに。それでも、嘘を付くことが止められなかった。

 あの子の父親は、もう二度と戻ってきたりはしないんです。あの人、もう、新しい家庭を持って幸せに暮らしているんですから。私、本当に愚かでした」

 母親である前に、女性であって、そのどちらも強い意志を抱いて過ごしてきた人だった。改めて過去を閉ざす決意は、悲しみを越えて、尽きることなく優しかった。




「育。気が向いたら遊びにこいよ? おい、騎道。

 それぐらいには、なれるんだろうな?」

「勿論だよ。その為に、僕らと別れるんだから」

 一人っ子の三橋は本当は寂しがり屋なものだから、別れは苦手だ。怒ったような軽口を叩いていないと、寂しすぎるのだ。騎道はわきまえている様子で受け答えている。

「出会ったばかりなのにね」と、彩子。

 今日、育親子はこの街を離れる。別れの挨拶に、二人は稜明学園を尋ねた。

 騎道は二通の封筒を、幸江に差し出した。

「学園長代行からの紹介状です。これは、FISラボの雪村社長宛てです。これさえあれば、何も心配いりませんから」

 北門に止めたタクシーに乗り込んでも、育は騎道の手を離そうとはしなかった。その手をぐいと引いて、騎道の背後の一角を見詰めた。

「……泣いてる……」

 初めて会った日と同じ、意味の不明な細い一言。彩子には深い悲しみの訪れを囁いた、未来の言葉だった。

 視線を辿ると、そこには隠岐と、その背後に隠岐に連れてこられたらしい秋津数磨。もう一人の超能力者だった。

 騎道は少し沈んだ面持ちでうなずいた。

「わかったよ、育ちゃん」

 二人の乗るタクシーを見えなくなるまで見送り、騎道は一人、踵を返して隠岐と数磨のもとへ向かった。

「ちょっと、数磨のことで相談に乗ってもらいたくて」

 隠岐と数磨は、パソコン仲間で付き合いがあった。

「僕も、君と話しがしてみたかったよ」

 騎道の静かな声に、数磨は少し顔を上げた。




「騎道、このところずっと寂しそう」

「そう? ん。そうかもしれないな。

 なんだか、光輝を知っている子だってわかったら、ほおっておけなかったから」

 どこかに気を取られてるような陰りを、彩子は騎道に感じていた。育と別れて、二日たち。

 身寄りのない騎道にとっては、深く関わってしまった少年との別れは、彩子以上に感じるものがあるのだろう。

 日曜の早朝、街外れの広い空き地に呼び出したのは、気晴らしのつもりもあった。三橋も気付いていたのか、先にこの話しを持ちかけてくるのだから、いい友情だ。

 空き地には、白い飛行船。三橋百貨店がチャーターした、彩子が乗りたいと言った、飛行船だった。

 船室の窓は三六十度、アクリルガラスで囲まれていた。

「でも騎道って、超能力者のことよく知っているのね?」

「本当は、ほとんど学園長代行の入れ知恵なんだ。

 僕は言われた通り、育ちゃんの潜在能力を確かめてみただけ。ある程度の能力の発現が無いと、ラボには受け入れてもらえないだろうし。最初はどうしたらいいのか、ほんとに全然悩んだ」

 にしては騎道は胴に入っていたし、悩んでいたのは一番最後くらいにしか、彩子には見えなかった。

「あ。やっと来たわ」

「? 三橋、秋津兄弟も呼んだの?」

「私が数磨君を呼んだの。育君の代わりにね」

 車を降りた数磨は、真っ先に飛行船に駆け寄ってきた。

「おはようございます、飛鷹さん。うぁ、騎道さんもいっしょなんですか? 嬉しいな。僕、すっごく楽しみで」

「三橋にお礼言ってきた?」

「いけない……」

「もうすぐ出発よ。早くね」

 大きくうなずいて、船室を出ていった。定員は乗務員を含めて五名まで。彩子と数磨、騎道がこの飛行のゲストだった。

 当の三橋翔は、秋津兄弟に礼を言われて、鳥肌迷惑といった顔をしている。席が開いていて、彩子が言い出したからだよ、と言い張っているのかもしれない。

 秋津静磨は弟に、もう行くように促した。慄然とした生徒会長の顔は消え、はしゃぐ数磨をゆったりと眺めていた。

「数磨君に、なんて言ってあげたの?」

「何も」

「冷たいのね、騎道って」

「本当に、何も言う必要ないから。

 人間って、誰か大切に思ってくれる人が側に一人居れば、何があっても大丈夫なものなんじゃないかな。数磨君には、ちゃんと、そういう人間いるだろ?」

 彩子には身に染みて納得できる言葉だった。

「距離が出来た時は、不安な部分はあるよ。その時は、僕らで代わりをするか、二人の信頼関係を繋ぎとめてあげればいい。今はかなり不安定な状態みたいだけどね」

「そうね」

「彼が居る限り大丈夫だよ」

 数磨はシートに落ち着き、兄に手を振ってみせた。

 騎道のいう彼とは、兄静磨のことだ。

「ほんとに、三橋乗らなくていいのかな?」

「いいのよ。高所恐怖症を公然と認めたくないの」

 友情の片割れは、乾いた笑いでうなずいた。

 御曹司だから危ない真似はできない、というのは建て前。あと一つのシートを空けたまま、離陸作業が開始された。

「育ちゃんが、何を予知したのかは聞かないけど。もう、大丈夫なの?」

「え? あ。もういいの。ごめんね、びっくりさせて」

 乗り越えた後ならば、一人ぼっちになっても大丈夫だから。彩子は騎道に答えながら、そう決意していた。

「そ。なら良かった。僕、スーパーマンじゃないが。誰も彼も守れるってわけじゃないし」

「守ってくれなんて、言った覚えないわよ」

 あの夜、泣き崩れかけた時、騎道の腕に支えられた。あれは、思い出しても頬が熱くなる失態だった。

「それじゃ、離陸します」

 若いパイロットが告げた。

 微かに振動が体に伝わってくる。地上と繋ぎとめていたロープが、するするっと空中に躍り上がった。

 軽い重力の次に、つま先から登ってくる不思議な浮遊感。それは育の放った力と同じだった。

「うわぁ……、飛んだ……!」

 彩子を振り返って、数磨は顔中をほころばせた。胸を熱くさせる、ストレートな感情。

 それは、きっと育も浮かべただろう、満面の笑み。

「……なんだか、ほっとするな。あんな顔されると」

 目が覚めたように、騎道はささやいた。

「ね、きっとみんな不思議な力、もっているんじゃない?」

 無邪気だった子供時代、純粋だった頃。彩子も、誰もが。

 誰かを、心だけで。癒せた。



 『異能 完』


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