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異能 PSYCHIC(二)


「……彩子さん?」

 のぞき込んでいる二人。一人は、いくらか青ざめて、またなのかという焦りと不安をありありと浮かべていた。もう一人は、真っ直ぐで穏やかな問いかける視線。見詰め返すと、安心して目を細めて微笑んだ。

 騎道の微笑みは、ほんの少しの表情の変化なのに、語るものをよどみなく伝えてくる。相手が、照れ臭さに戸惑うほどだということにも気付いてはいないようだった。

「ヘーキ。大丈夫だって。三橋にはいつも迷惑かけてて悪いと思ってるけど。一々そんな顔しないでくれる?」

「だって、彩子さ。プッツン切れると、すっごいバカ力出すんだもの。あれが本性だと思うと、翔君、および腰よっ」

 無理に明るい。彩子には、この三橋の気遣いが照れ臭い。

「ごめんね。自分でも、話し程度でこんな風になるなんて、思わなかったから」

「こいつ、火見るとキレちゃうわけ。火事場のバカ力ってやつ。騎道も気をつけてくれよな。ほんと。危ない奴なんだ、これが」

「育君が炎に巻かれるイメージが浮かんだらもうダメだった……。体が震えてきちゃった……。

 怖かったでしょ? お姉ちゃんも、そんな目に遭ったことあるから、よくわかるよ。まだ子供なんだから、怖いの当たり前よね。でも、もう大丈夫だからね。

 心配しないで、戻ってきていいのよ?」

『帰ってこい! 彩子!』

 呼び声が果てしなく繰り返されて、彩子はその通り、意識の混濁状態から現実に引き戻された。それは何かの物語にあった、天上から垂らされた蜘蛛の糸みたいだと、時々思い返していた。あんな細い糸が、なぜ切れたりしなかったのか。今も、彩子は不思議でならなかった。

「さすがだ。ふむふむ。毎月カウンセリング受けてるだけのことはあるな」

「……大当たり。尾上先生の受け売り」

 いつものお茶らけ攻撃。次は何を言い出すつもりか……。

「心配すんなっ、俺の胸に帰って来いっ」

「! そこまで言う?!」

 バン! テーブルを叩くっ。

「わーっ! また二人で壊す気?」

 昼間、ユンカースを破壊したのもこのパターンだった。騎道の一言は、みごとに的を得ていた。




 残すところ、垂直尾翼のみ。佇むユンカースに、試しに尾翼をはめ込んた騎道は、目だけで三橋に賛同を求めた。

 重々しくGOサイン。三橋は接着剤を手渡した。

「……これで、いいわけ?

 ね? 向こうのと、全然、迫力違ってない?」

 子供に戻りきって、達成感にうるうるの男二人は、彩子の呟きにガックリ肩を落とした。

「仕方がないの。こっちは初級者向けだから」

「要は、男の約束なわけ。彩子にゃわかんねーよ」

 育も、丁寧に接着される尾翼を食い入るように見詰めている。指先が、僅かな歪みを修正し、離れていく。

 プロペラが今にも回り出しそうに、二時四十分を示していた。精巧に作られた大空のロマン。人工の、風。

 不自由な両手が、翼を支え、目よりも高く差し上げた。

 何気なく指先が翼から離れた。失速、墜落……のはず……。

「飛んだ……」

 初めて聞く、小さな一言。それを合図に、飛んだ。

 彩子が物音に、チェストを振り返ると、整然と、様々な航空機が離陸を開始していた。空中に舞い上がり、それぞれが自信に満ちた航空ショーを始めた!

「すごいな。この前より、数が多い」

 騎道は悠然と構えて空中を見上げ、そう漏らした。

「な、なんだ?」

「これ……」

 常人の精神しかない三橋と彩子は、声を上げていた。

「神経系の障害を持つ子によく現れるんだ」

 乱舞する、模型飛行機。まるで意志を吹き込まれたように、数十機が飛行し続ける。

 一番嬉しそうにしているのは、育自身だった。

「障害がある分、それを補おうと感性や精神が鋭くなって。結果的に、こんな風な能力に至る場合もあるんだ」

「……超能力……、でしょ?」

 呆然と見上げながら、尋ね返していた。

「そう。でも、そんなに驚かないんだね。二人とも」

「あっ、当ったり前。こんなの、TVで何度も見てるわい」

「何、威張ってるの? 格好つけることないでしょ?」

「わーかったっ。一々、男の威厳をなし崩しにしないでくれる?」

 男の威厳を楯にしようとする三橋を無視して、彩子は騎道に打ち明けた。

「ちょっと免疫があるのよ、三橋も私も。稜学の生徒はほとんどね。ここまで、すごくはないんだけど」

 本当はかなり驚いていたが、彩子はよく知っている、もう一人の、恐らく不幸な超能力者を思い出していた。

「去年の二学期、大騒ぎになったことがあるの。中学生だったんだけど、超能力者が見つかってしまって。

 運悪く、今の二―Dの壁新聞にすっぱ抜かれちゃって」

 現在は更に過激な内容を誇る学内新聞紙になっていた。

「目も当てられなかったよな。天下の秋津様が、血相変えてもみ消しに掛かってさ」

「秋津?」

秋津(あきつ)静磨(しずま)現生徒会長の弟さんだったの。そのせいもあるのね、書きたてられたのも。新会長に当選直後だったし。

 推薦で、学園への入学が決まった後だったから、問題はなかったけど。しばらく登校できなくなったくらい。精神的なショックは大きかったみたいなの」

「たかがフォークを曲げたくらいで、ガタガタ騒がなくたってさ。中坊相手に。青木もあざといぜ」

 当時は大スクープで、編集責任者の青木園子には出世作となったのだ。

「園子はあの時、必死だったのよ。新聞部を退部同然に追い込まれて、どうしても巻き返したい理由があったのよ。

 後悔してるわよ、今でも」

「その力って、PK、念動力だけ?」

 興味をもったらしく、騎道は彩子を促した。

「たぶん。秋津会長が、力を使うことに神経を尖らせていたみたいだから、突発的なケースしかないの。自分では制御できていないみたいだったし。だからバレたのよ。

 でも、本物なのよ。

 どうしてああなったのか私もよくわからないんだけど、目の前で、家の鍵が曲がっちゃったのよ」

「なんだよー! 彩子見たの?」

 三橋は、羨ましそうな目を彩子に向けた。

「だって、帰り道偶然、数磨(かずま)くんと会長とばったり会って」

 あの時、くの字型に曲がってしまった鍵。たらっと青ざめた彩子を余所に、秋津静磨は鋭い目で、自分の弟を睨みつけた。彩子が落とした鍵を、数磨が拾ったという一瞬のことだった。

「ごめんなさい。でも、僕……、わからないよ……。ごめんなさい、兄さん」

 激しく首を振る数磨は、本当に哀れなほどだった。脆弱な白い肌は、さらに色をなくす。瞳は、彼にとっては最後の神、兄静磨の信頼を失うまいと怯えきっていた。

 ふっと視線を緩ませた静磨に、彩子は心底ほっとした。目の前で自分に降りかかった超常現象よりも、他人の目前だというのに見せた、あの鋭い怒りの視線の方が背筋は震えた。

 すぐに色合いを変え、彼は自分の激しい動揺を微かに恥じていた。こんな厳しさで律することが、弟のためになる。そんな願いの片鱗が、静磨がようやく吐き出した吐息に含まれていた。

「あの……、私平気です。スペア、持ってますから」

「ありがとう、本当に。君でよかったよ」

 数磨は、零れ落ちた涙を擦り上げながら、不思議そうに彩子を見詰め返していた。

「心配しなくてもいいのよ。すぐに、今まで通りになるわよ。元気出して。君にはお兄さんがついているじゃない?」

 今まで、彼の力を目の当たりにして、誰一人としてこんな風に語りかけた他人はいなかったのだろう。誰もが、好奇の視線と異物を眺める視線で、少年を追い込んできたならば。人一倍、感受性の強い秋津数磨には、拷問に等しいだろうに。過敏になるのも無理はないことだ。

「……はい」

 彼はほんの少し、彩子に心を開いた。




 ブーンと、頼りなげだがそのシンプルさが美しい双発機が、彩子の前に飛んできた。ゆらゆら横揺れするほどのスロースピードを更に落として、彼女の目の前に静止しようとしていた。受け止めようと、両手を上げた。羽毛のように軽い空中ランディングを、彩子はみつめていた。

「こういう飛行機っていいわね。体中に風を受けて。きっと乗っていると、ほんとうに空を飛んでいるって感じがするんだろうな」

 三橋といえば、呆れ返っていた。

「何、いきなり詩人をやってるの。急に黙りこくったかと思ったら、これだもんな。女ってよくわからん」

「ちょっと思い出してただけよ。秋津会長、ほんとに弟さん思いだなって」

「ありゃ、ただの過保護なの。ま、それくらいでないとだめになりそうな弟だから、許せなくもないがな」

 三橋の同情に、騎道もうなずいた。

「そうみたいだね」

「秋津兄弟に会ったのか?」

「偶然ね。それから、その力は出ていないの?」

「ええ。なんだか、十二月に入ったらぱったり」

「去年騒がれた分、今年も一騒ぎあるんじゃないのか?」

「園子は蒸し返したりはしないわよ」

 親友でもある彩子は、擁護に回った。

 騎道は、育の手を包むように掌を重ねた。

「もう帰してあげようか。育ちゃんも、また熱が出るよ」

 表情にはさほどの変化はないが、育の瞳だけは少し輝いて、飛行機たちを見上げていた。すっと、その光りが奥へと沈んでいくと、一つ一つが静かに元の場所に戻っていった。

「おい!」

 声を上げた三橋に、安心させるように騎道は頷いた。

 育は、騎道の胸の中にうなだれてもたれていた。

「嬉しいことなんかがあると、力が出るんだ。前に僕が一機完成させた時よりも、ずっと沢山飛んでいたから、よほど嬉しかったんだね」

 額の熱を見てやろうとすると、甘えるように両手で顔を隠そうとする。まだ十歳の子供なのだ。

「普段表に出ない感情を、一度に出してしまうから疲労するんだ。不安定な能力だから」

 三橋は、ぽつりと漏らした。

「秋津数磨と変わりがないってことか」

「そうだね。二人ともかなり不安定で、今の逆の感情で暴走する可能性だって、ないとは言えないから」

「それじゃ、まるで映画みたいじゃないの」

「可能性の話、だって。彩子ちゃんてば心配性」

 彩子の真剣な心配を茶化すとは、いい度胸だった。

「でも、不思議な話しだな。その数磨君。

 さっきの秋津統磨さんとは従兄弟同士になるんだろ? 

 すぐ近くに格好の被験体が居たんだろうに。

 彼、育ちゃんに、無理にESP実験をさせていたんだ。今のあの人の標的は、育ちゃんの能力らしいよ」

 彩子は再び背筋が震えた。

「だから、あんなに怯えたの?」

「たぶん。褒められたやり方じゃないから」

「やっぱ、そーゆー魂胆があったのか」

 本当に、三年前と進歩の無い男だった。彩子の怒りもふつふつと湧いてきていた。

「チッ。悪い。俺、帰るわ」

 鳴り出した、カバンのポケットベルのスイッチを切って、三橋は立ち上がった。騎道は、三橋がポケベルを呼び出される姿を見るのは初めてらしかった。

「大した用事じゃないんだよ。ちょっと遅れるとすぐこれだから、ヤになるぜ」

「早く行ったら。課長さんが待ってるんでしょ?」

「ヘイヘイ。鬼課長よか彩子の方がうるさいんだから。

 育、また来るぜ。次のあの野郎、追い払ってやるからな」

 髪をくしゃくしゃっとされて、育は目を丸くして三橋を見送った。

「何? あいつ」

「放課後はね、経理させられているんだって。駅前近くの『三橋百貨店』。跡取り息子だから、大変みたいよ」

「知らなかったな」

「若いうちの苦労させられているのは、三橋だけじゃないのよ。秋津会長もどこかの馬主らしいし、藤井香瑠お嬢様は日舞の師匠だものね。お金持ちって大変よね」

 はあー、とひたすら騎道は感心しきっていた。

 秋津、藤井、三橋といえば、この辺りでは財閥御三家と有名だった。

「……苦労知らずは統磨さんだけね。秋津本家の唯一の跡継ぎで、我が儘一杯に育てられたみたいだし。

 でも、ちょっとは人間らしい所があるみたいで安心した」

「何が?」

「数磨君のこと。数磨君に、突発的にしろ超能力があるとわかっていながら、実験対象にしなかったこと。

 出来なかったのよ。あの人たち、実の兄弟だもの」

 騎道は心底驚いたようだった。

「本家の血筋が絶えそうになったから、養子として差し出されたらしいの。知っている人は少ないんだけどね。あたしも三橋から教えてもらったくらいだから。

 感情を無視したオカルティストだけど、自分の弟だけは、肉親としかみれなかった。

 それを考えると、あの人、三橋が言うとおり切れてるけど、少しは救いようがあると思わない?」

「その通りだね。彼が二人の辛さを、理解できるようになると、いいね……」

 そう……、騎道の願いは、とても深い。統磨だけでなく、二人を傷付ける全てへと向いている。

 彩子はもう一面、騎道の騎道らしさを受け止めていた。



 

 幸江の帰りを待って、彩子と騎道はアパートを辞した。

 疲労して、少し眠そうな育を見て、幸江は何が起きたのか察したようだった。「良かったわね」と微笑んだ姿に、彩子は異能者を受け入れている最後の肉親、秋津数磨にとっての兄である静磨の姿が重なった。

「ね。育ちゃん、何が言いたかったのかな?」

 並んで歩きはじめてすぐ、彩子は騎道に尋ねた。

 帰り際、育は彩子の頬に手を伸ばし、二言目を呟いた。

「『泣かないで……』って、やっぱりあたしのことよね。

 でも、最近泣いたことないけどな」

 大体、『泣く』なんてこと、滅多に起されたりしないのよね。と、彩子自身不思議で仕方なかった。

 よく悟っているようで、騎道は苦笑していた。

「だったら、予知かもね。彩子さんだって、女の子なんだから、悲しいことはたまにはあるでしょう」

「だってって、何よ。はっきり言ってよ」

「いえ。悪気はありませんよ」

 おとぼけて。涼しい顔で、あっさり受け流された。

「泣けるようなことって、もう無いと思うんだけどな」

 自分ではどうにも出来ない、炎にかきたてられる去年の春の記憶。あの時間以上に悲しい思いは、彩子にはもう訪れたりしない気がしていた。どんな悲しみも、無意識に照らしている冷めた自分がいた。悲しみも怒りも、限界を超えたあの頃、あの後の苦しみには比べられなかった。

 予知の言葉。彩子にはその意味の大きさに、少し疑いを感じずにはいられない。それは、すでに神の領域ではないか。

「お母さんは認めているのね。育ちゃんの力」

「そう。だから育ちゃんはあの位で済んでいるんだ。

 もしも、お母さんまで否定していたら、もっとひどい精神障害が出ていると思う。本当に、優しい子だから」

 最悪のイメージは考えたくなかった。

「精神が安定していると、比例して力も強くなるんだ。両親の愛情が注がれていた頃は、今以上だったらしいから。

 あそこでは言えなかったけど、力を目の当たりにして、耐えられなくなって家を出て行ったんだ。父親なのに。まるで他人みたいだったと、お母さんは教えてくれた。

 なのにね、お父さんが戻ってくるかもしれないからと、ここを離れようとしないんだ。余所へ行って、ちゃんとした教育を受けることが一番いいとわかっているのに」

 言葉に含まれる微かな嘆き。子供嫌いなのに、育にだけは優しかった光輝という青年と、同じように育を理解している騎道。育には、父親代わりの二人。

 常識に縛られて逃げ出した実の父親と、崩れそうな心を守ろうとしている二人と、どちらが世間に認められるのか。彩子にはどちらの感情も理解できる気がした。

 日が暮れて、夕餉の香りが、住宅街を縫う路上に立ち込めていた。

「彩子さん、この方向違うんじゃない?」

 思いついたように、騎道は立ち止まった。

「いいの。今日は、夕ご飯に呼ばれているの」

「どっち?」

「式津町。あそこ、ちょっと見えるマンションよ」

 早く、と促して彩子は先に立った。

「父さんの夜勤の時に、たまに呼ばれるの。おば様のお料理美味しいから、いつも楽しみにしてるの」

「ね……、その人って。彩子さんの婚約者さん、の母上?」

 彩子は、驚いて騎道を振り返った。

「どーして知ってるの? 三橋じゃないわよね、吹き込んだの。婚約のこと、あいつ絶対認めてないから」

 騎道はくすくすと含み笑いをして、

「いろいろと教えてくれる人が居るんだ。

 そっか、やっぱり本当だったんだ。婚約というのは」

「ちょっと。からかうの止めてよね。

 生まれる前の親同士の口約束なだけ。当人同士は気にしてないわよ。家が近くて幼馴染な程度で……」

 知ってるんだぞー、と言わんばかりにニコニコしている。

「でも、事実上の恋人同士なんだからいいんじゃないの?」

 抵抗のある単語。去年までだったら、とことん浮かれていたかもしれない単語だった。

 賀嶋(かじま)亮浩(あきひろ)は硬派で通る悪くはない男だった。女子にも人気はあったようだが、誰一人として表立った噂にならなかったのは、たぶん彩子が居たからだと、彩子自身、よく知っていた。自慢にはしていないことだが。

「もう関係ないわよ。地球の裏側に行って一年になるんだもの。三橋がうるさいから建て前にしてるだけ。

 それに、どちらかが嫌になったら、即解消できるの。

 お手軽で面倒がなくて、いい関係でしょ?」

 なんでこんなこと言わせるのか、騎道を恨んでいた。親兄弟にだって話したことがないのに、『建て前』だなんて、

 周り中が『そうなる』と期待していて、一人残されはしたけれど、彩子としては取り繕うことが、一番無難と信じていた。平然と構えて、時々おばさんに甘えてみせて、おとなしく過ごす。それが去年の春、全ての人に心労を掛けたことへの、彩子なりの償いだった。

 騎道はこちらを見ようとはしなかった。横顔のまま、一番星を探しているように顔を傾け。

「強いね。彩子さんらしい」

 この一言は、この日一番、彩子を怒らせていたことに、幸運にも騎道は気付かなかった。

「……どうでもいいけど、騎道はこっちの方向だったの?」

「あ、そういえば、違うんだった」

「いったい今どこに住んでるの? まさか忘れたとか」

「彩子さん。じゃ、もうすぐだから、送らないでいいね。

 それじゃ、おやすみ」

 騎道若伴とは、そうやってはぐらかす奴だった。




 賀嶋(かじま)篤子(あつこ)は、去年の春に起きた出来事に関しては、我が子ながら、亮浩の行動を誇りに思っていた。

 父親を早くに失い、女手一つで育ててきて、男親の強さ潔さを知らずに育っていたのではないかと、彼女は不安を抱いていた。それを彼は、自身の非に自分を責め、打ちひしがれて世界を閉ざそうとしていた一人の少女を、現実へと引き戻した。

 毎日、学校から病院へと通い、呼び続け。虚脱状態の少女を辛抱強く見守り続けた。

 呼び、励まし、自分でも絶望を感じながらも、病室へ足を向ける日を絶やそうとはしなかった。

 篤子自身、少女を引き戻せるのは誰でもない、亮浩だと確信していた。誰もが祈るしかなかった、一ヶ月。

 待ち続けた日が訪れた時、彼の想像以上の成長に、篤子は驚きと、育てるという重荷から解放された気がしていた。

 アメリカに留学したいと告げられた時も、すでに男としての彼に信頼を置いていた篤子は、何も問わなかった。

 一年が経ち、彼は帰国しなかった。その時点で、篤子の不信は広がり、昨夜の国際電話によって、決定的な混乱に陥っていた。

「……こんなおいしい手料理ほおり投げて出て行けるなんて、ほんとにどういう神経してるんでしょうね?」

 うっかりと滑らせた、先程の篤子の言葉が気に掛かっているのか、彩子はそうつぶやいて笑ってみせた。

 つい深刻な表情になっていた自分に気付き、篤子は内心叱咤した。

『……彩子ちゃん、話は亮浩から行ってると思うんだけど』

『? 何かあったんですか? 亮浩』

『え? あの子から、電話か何か行ってないの?』

『いいえ。電話なんか一度も。手紙も、クリスマスにカードが一枚届いたかな』

『まあ、なんて子。そんな子だとは思ってもいなかったわ。そうね。いいわ、先にお食事頂きましょう』

 微かに強張った彩子の頬を、篤子は見逃せなかった。すぐに動揺を隠してにこやかに振舞うのは、彩子の優しさの現われだった。それが、篤子にはひどく辛いものに今日は映った。

 母親を六年前に亡くしている彩子は、一家を切り盛りするようになってからは、元々頭の回転が速いせいか、しっかり者に成長していた。

 正義感が強くて情の深い所は父親似で、すべてをくるめて、篤子は娘のように、可愛がってきたつもりだった。

 父親同士が勝手に許婚と決め合った時に、女二人は子供達の為に、しっかりと釘を刺すことを忘れなかった。

『どちらかが、NOと言ったら、無理強いはしない。即刻、婚約破棄すること』

 これが認められないのなら離婚しますと、まだ若かった二人は、脅しをかけたのだった。

 それがこんな形で、こんな風に、根付いていた願いと期待を絶たれてしまうとは。篤子は、先に逝った悦子も共に悔いてくれるだろうと、沈んでいた。




『昨日、電話があったの』

『亮浩からですか?』

『そう。……あなたとの婚約を破棄したい、と』

『そうですか……』

『彩子ちゃん、……』

『おば様。あたし、気にしてませんから。

 そんな風になるんじゃないかなと、思ってましたから。

 おば様や、亮浩には、去年ずっと迷惑かけたし。

 あたしのおかしいのも、直るにはずっと時間かかるらしいし。いつまでも、迷惑をかけていられないし』

『彩子ちゃん、それは違うわ。迷惑だなんて、私は思ってない。私は、悦子さんの代わりに、彩子ちゃんを見守っていたいだけよ』

『私も、おば様大好き。婚約なんて、あったようでないようなものだったもの。おば様と、これからも会えたり、遊びに来てもらえるだけで十分。

 あー、これでせいせいしたっ。これからは、亮浩抜きでお付き合いできて、気楽ですよぉ。

 だってあいつが居たら、嫁姑の図でしょ? まだ若いおば様には、失礼ですよね』



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