異能 PSYCHIC (一)
「ナイって言ったら、絶対ナイんだよっ!
いーかげんにしてくれよっ」
「ガキみたいな顔して、生意気言ってくれるぜ?
俺たちがおとなしくしてるうちに出せよ」
決まり文句で絡んできた目付きの悪い高校生が、周囲をゆっくり取り囲む。柄が悪く、厳つい六人組だった。
「ほんとにあんなの、みーんな兄貴の設計事務所の資金になったって……おわっ。信じてないナッ!」
「金だよ! 俺たちが欲しいのは! ええ?」
孤立無援、一対多勢。形勢は全く不利だ。
駅前近くの立体歩道橋には、今現在、他に頼りになるような人影は見当たらない。随分先を歩く学生服の少年は目に入るが、小脇に何か大きめの平たい箱を抱えた線の細い高校生で、頼みにするのは気の引けるタイプだ。
決めまくった揃いの変形学ランを遠目に見れば、大抵の通行人はこの場を避けて通るだろう。獲物にされた隠岐克馬も、ギャラリーなら、一目散に逃げ出すつもりだ。
唯一の楯、学生カバンを胸に抱えて、走り出した。
「待てっ!」
歩道橋のようやく中央を過ぎる。高二にしては小柄な方の隠岐は、逃げ足にだけは自信があった。人込みに、体だけは育ちまくった不良連合を巻いてしまえばなんとかなる。
「先輩の所まで行ったら、待ってやっても、いいよーだっ」
振り返って悪態をついた。それが余計な一言だった。
追っ手の執念に、火を付けることになったのだ。
「黙れ! 駿河なら、今度こそ叩き潰してやるぜ!」
本気だ。冗談口を叩ける相手じゃなかったと悟るが、遅かった。隠岐は素早く本気の逃げに転じた。
後退ると、何者かの壁に当たった。ヤバイと感じた瞬間、背中合わせた誰かを突き飛ばし、仲良くバランスを崩していた。
「な、なんだ?」
状況をわきまえない間の抜けた一言が、路上に背中からこけた、隠岐の体の下から聞こえてきた。その意味を考える間もなく、黒づくめに囲まれていた。
高圧的な意味を持たせて、一人のドカ靴が、路上に転がった模型飛行機の箱を踏み潰した。
「あちゃー」
呻くような一言は、体の下の持ち主のものだった。
「好きなように呼べよ。可哀相だがもう間に合わないぜ?
いずれ大事なセンパイも仲良くノシてやっから、安心しな」
余計な一言が多すぎる。いつも言われていた苦言だが、後悔先に立たずという格言も、隠岐のためにはあったのだ。
隠岐はもう息を詰めるだけ。歴戦の傷跡がくっきりと浮かんでいる大きな手に、襟首を掴まれて引き起こされた。
「荷物、退けてくれたのは有り難いんですけど。それ以上やると、追い駆けっこの範疇、越えてるんじゃありません?」
ぱんぱんと音を立てて、服を叩く音。佐田高総番の険悪な視線は、背後の『のんき』に移った。
「ひゃー。たすかったぁ」
手が差し出される。それを借りて隠岐は立ち上がった。
不良連の撤退した足音は、すぐに聞こえなくなった。型通りの捨て台詞を、二人ほど投げ飛ばした相手に残して。
「あー。すみません。こんなになっちゃって」
「いいよ。君が壊したんじゃないから」
「でも……」
「いいから。壊れる時は何があってもそうなるんだよ。今日はほんとの厄日だな。これでユンカースの撃墜は二機目」
そう言って、諦めきった笑みを彼は浮かべた。
ぐっちゃりと凹んだ模型飛行機のモデルは、ドイツ帝国軍最新鋭機『ユンカース』だった。
「騎道さんって、思った通りいい人なんですね。
今の佐田高の奴ら、しつこくてしぶといし、根に持つタイプで始末に負えないのに、バシバシ向かっていって。
僕には出来ないな。断然、放っておきますよぉ」
「……知らぬが花、って奴だったんだな……」
隠岐はしみじみ、騎道の人の良さに感じ入っていた。
一見、綺麗で女々しく感じる顔立ちも、まじまじと見れば、結構、凛々しい方だった。身構えた気迫は、逆に優しい顔立ちだから、なお不敵に怖かった。
同じ学年で、何かと噂に高い騎道のことは、クラスは違っても、好奇心旺盛な隠岐には興味溢れる存在であった。
「僕、先輩より、騎道さんと先に友達になってたらよかったな。駿河先輩、外面はいいけど、ひどいんだもの」
「あんなの相手にするくらいだから、喧嘩は強いんだろ?」
「後引く喧嘩ばっかりで。だから僕は、無闇といじめに逢うんだっ」
目を丸くした騎道は、隠岐のあまりの人なつこさに頬を緩めていた。
「さっき、設計事務所って聞こえたけど、もしかしてCADは有る? できたら、放課後借りたいな」
「ええ。ありますよ。そんなことぐらいで、騎道さんの役に立つならいくらでも。
人の資金だと思って、兄貴、湯水のように使ったから、一応一揃いありますよ。クイズ番組の賞金なんて、非労働報酬ですからね。パッと使った方がいいんですけどね」
「賞金って、事務所とCADだなんて、かなりの額だろ?」
「あっちこっちのテレビ局荒らしちゃったから」
テレビ番組にはうといみたいで、暫く間が開いた。
「……頭が、いいんだ」
「騎道さんだって、CADこなせるなら相当なものですよ」
CADは、並のコンピュータシステムではないのだ。
「いや。使うのは僕じゃないんだ。
これって怪我の功名だな。たすかるよ。どこで借りれるかと考えていて、ぼんやりしてたんだ」
「うちはたいした機密事項は扱ってないから、全然構いませんよ。それじゃ、いつから来ます?」
隠岐は、内心わくわくしていた。
「よければ、明日にでも」
「なら、明日の放課後。僕、迎えに行きますから」
五分後、騎道は再び模型飛行機店のカウンターに居た。
「おや、もう撃墜されたのかい?」
「厄日らしくって」
「ドイツ帝国軍の新鋭機も形無しだな。せめて組み立ててから、撃墜させてやってくれよ」
「……善処します。それで、予防線、張りたいんですけど。
一番簡単に組み立てられるやつ、下さい」
店主は、重々しくうなずいた。
「賢明な処置だな」
同じ店内に、騎道を探す二つの人影があった。
「いたいた。こっちに居たぜ、彩子」
「遅いじゃない、騎道。育くんとの約束、ホゴにしたのかと思って、ひやひやしてたんだから」
「また壊したのかよ」
目敏く、カウンターに乗るユンカースの残骸を見付け、三橋翔はこき下ろした。
お茶らけ上手で口の回る三橋と、おとぼけていて何にでも素直な意見で答える騎道と。騎道がこの二学期に転入してきてまだ三週間強だというのに、気の合う二人だった。
片や、どちらとも仲良くしたくはない、ただのクラスメートのつもりの飛鷹彩子は、なぜかこの二人のペースに巻き込まれていた。それはスーパーお茶らけ三橋が元凶であり、彩子本人は、常に不幸だと堅く信じていた。
「今度は、彩子さんのせいじゃないから」
「ごめんなさいっ。だから、ここで待ち伏せしてたのよっ」
「じゃ、これ壊さなかったら、すれ違いになってたわけだ。あー、なんて僕は運がいい」
どこか騎道には、疲れが滲んでいた。彩子たちは知らないが、つい先程、乱闘してきたのだから無理もない。
「おばかっ」
彩子は私情もこもった喝を入れた。
「てっ。僕、約束してるから。じゃ」
「待てって。ただ待ってただけじゃないんだぜ」
「そうよ。手伝うわよ。いっしょに行くから。
あたしは謝んなきゃならないし」
騎道は立ち止まり、二人を見返した。
「うれしいな。きっと、育ちゃん喜ぶよ」
加納育。もうじき十一歳になる少年だった。騎道の居たアパートの隣の部屋に、育親子は住んでいた。二週間ほど前、その関山荘は火事にあい、彼等は焼け出されていた。
育との約束というのは、模型飛行機を完成させることだった。
三橋に言わせると、『教師の目を盗んで内職をする、なんて高等技術は、お前には十年かかっても無理だ』。
その言葉通り、今日丸一日、騎道は時に教師の叱責と罵声を浴びながら、授業中に飛行機を組み立て続けた。難問を強いられるに至っては、右隣の三橋、左後方の彩子の絶妙なフォローで、約束を遂げようとしていたのだが。完成目前の昼過ぎ、事故に遭い大破させられていた。
三人は店を出て、いつもとは違う岐路を辿った。
「その育ちゃん、学校には行ってないの?」
「うん。障害児という判断で、この近くの学校にはみんな拒否されているからね」
身近にそういう子供がいないせいか、今一つピンとこなかった。拒否という言葉には、騎道の非難を感じた。
「あ。ね、三橋、私あれに乗ってみたいな」
「ほんとだ。気持ちよさそうだな」
騎道も空を見上げ、すぐに同調した。三橋は、ぶんぶんと首を振った。
「いかんっ! あんな危ないもん、彩子ちゃんは乗っちゃ絶対に、いかん!」
「乗りたい。あれ、三橋の家がチャーターしたんでしょ?」
三橋はダメの一点張り。空には大きな飛行船が浮かんでいた。膨らんだ胴体には、広告が描かれている。『三橋百貨店 誕生祭』。
一人息子の三橋なら、適えられそうなものだが。
ゆったりと涼しげに、飛行船は街を横切っていった。
「お構いなく。すみません。大勢で押し掛けちゃって」
母子二人で精一杯の、四畳半と六畳という、狭いアパートだった。必要最低限の家財道具しかないため、奥の六畳間は三人と一人の子供で丁度よく収まっていた。
「いいえ。騎道さんが来るのを、あの子ああみえても楽しみにしているんですよ。お客様は多い方が楽しいですわ」
「僕ら、留守番してますから」
騎道は勝手知ったるという風に、声を掛けた。
「ええ、それじゃあ。育。騎道さんたちにお菓子をお出しして頂戴。お菓子。戸棚の中にあったわよね?」
騎道のすぐ脇に座り込み、初めてみるお客、彩子と三橋をじっと見つめていた育は、言い聞かせられて、操られた人形のようにふわりと立ち上がった。
育の母、幸江はコーヒーでもと、流しに向かった。
開ききらない強張っている不自由な両手が、木製の菓子鉢をすくうように運んできた。
「ありがとう、育ちゃん」
騎道はいつものことように、丁寧に礼を言った。
彩子は、三橋を思わずうかがっていた。同じように、三橋も微かな驚きを浮かべていた。
育は、丸く小さなテーブルを囲んだ三人の中央に、鉢を押し出し、また、無表情に騎道に張り付くように座った。
サラサラの髪に、黒い大きな瞳、グレイのスエットの上下。じっとしていると、どこにでも居る小学生だった。
「お母さんの方針は、育ちゃんを普通の子供として扱うということなんだ。生まれつきの障害は手だけだし。
障害児だからと、甘やかしたりはしない。出来ることはなんでもさせてる。お母さんがパートの仕事に出ている時には、一人で留守番も出来るし、本も読める。
精神障害のせいでうまく喋れないし、考えを順序立ててまとめることも出来ない。手は少し不自由。でもそれ以外は、普通の子と変わらないんだよ」
騎道は模型飛行機の箱を、開けてごらんと手渡した。
少し動く親指と人差し指でピッと包装紙を破いて、箱をテーブルに乗せ、立ち上がってゴミを捨ててきた。
「自分で、何もかもうまく出来ないと思い込んでしまったからなんだ。感受性が強すぎて、自分を殺してしまった。
だから、否定しないで一つ一つを認めてあげたら、いつか閉ざされた育ちゃんの精神が目を覚ます。今は、自分で作った夢の中に居るようなものなんだ」
「ね、でも、今お菓子を持ってこれたということは、少しずつ良くなっているんでしょ?」
騎道は冷静に首を横に振った。
「何度か繰り返すことで、言われた通りの行動は出来るよ。
でも、意味は通じていない。知能は平均以上するから、本当は理解しているはずなんだ。理論上はね。障害になっているのは、行動と思考を一致させられないこと」
「別々に考えられない……の?」
「そう。意識が混濁して、みんな一塊に感じてしまうんだ。
十を知ることは出来ても、その中の一つを取り出すことは無理なんだ。区別さえつけば、育ちゃんの中の混乱はなくなるから、普通の子供と世間に認めてもらえる。
だから今みたいに、繰り返しいろんなことをさせるんだ。
海外での精神障害児が社会復帰した症例は、どれもほんの小さなきっかけが始まりでね。彼等は障害のない子供たち以上の能力を、開花させているらしいんだ。
せめて同い年の子供たちと、学校に行くことができたらいいなと、思うけど」
彩子は、二つの思いで言葉を無くした。障害という名の、無垢なはずの子供たちに与えられた枷。彼等をこんなにも理解できる、騎道若伴の持つ精神。不思議な奴、だった。
「大変、なんだな……」
気後れしたのは、三橋も同じようだった。
「お母さんは、ずっと、そうやってきたんだよね?」
騎道は、育を褒めるように覗き込んで、笑いかけた。
流し台から幸江が、瞳をうるませて二人の背中を眺めていた。化粧をしていない顔立ちは、それでも、彩子には眩しく見えた。彩子は立ち上がって、幸江の方へ向かった。
「私がいれますから。どうぞ行って下さい」
それじゃあ、と。明るく彩子に微笑んで、インスタントコーヒーの瓶を渡した。小柄だが、理知的な瞳の女性だ。
こんなにも強くなれるのは、母親だからだろうか。
ぼんやりと、流し台の上に細く開いたサッシから、出ていく幸江を見送った。
「!」
幸江は路上で、出くわした若い男に深々とおじぎをした。年は二十二、三歳。相手の男に、彩子は見覚えがあった。
「この度は、どうもありがとうございました」
「いや。育くんには、少し狭いんじゃないかと思いましたけど。気に入ってもらえて嬉しいですよ」
「本当に、秋津様にはお世話になりまして。お世話を頂いた仕事も、ようやく慣れましたし……」
ブランドのジャケットを着こなした青年。態度と視線に、支配階級特有の棘を潜ませ、それが当然と信じ込んでいる面倒な人種。その中でも、彼は特別に毒が多い男だ。
顔を、合わせたくはなかった。嫌悪かもしれない。彩子の中では、苦いものがこみ上げてきていた。
騎道のなだめる声が、そんな彩子の耳に入った。
「いいから、育ちゃん。大丈夫だよ。僕がここにいるだろ。
あの人には帰ってもらうからね」
振り返ると、小さな腕を騎道の肩に回し、育は騎道の腕に頬を押し当てていた。さっさと三橋は立ち上がって、育が何に怯えているのかを確かめに来た。
「何があったの? 育ちゃんに」
「こっちが聞きたいぜ。あいつのことか? 騎道?」
表情のなかった育の顔には、眉を寄せ、瞼は半分閉じ、不安があった。
「……じゃあ、顔だけ見て帰りますから」
幸江に告げる、声音だけは優しい。親切を装って。
「あの野郎だったら、俺も嫌いだぜ。育」
「知ってるのか? 三橋」
「当たり前。お前よりか、この街にいる時間は長いんだぜ。
秋津御本家の面汚しで、気違いオカルティスト。分家筋の秋津静磨生徒会長とは、天地に出来が違う奴でさ」
玄関先までの靴音が響き、近づいていた。
「……最近は、超能力にも興味があるって言ってたよ。
一応、育くん親子には、このアパートを世話してくれた恩人なんだけどね」
「あのやろーが恩人面すること事態、世紀末だぜ」
「……そこまで言ってくれて、心強いよ」
騎道は呆れていた。
ちょっと威張って、三橋はニカっと彩子に笑い掛ける。その仕種に、彩子は三橋の何か自分への企みを予感した。
「お久しぶりです、統磨さん」
あんたの為にドアなど開けてやるか。とばかりに、流しの上のサッシに手を掛けて、三橋は声を張り上げた。
統磨は、仕方なくその場に立ち止まった。
「三橋君。意外だな、こんなところで会えるとは」
「俺もです。もののついでだから、紹介しますよ。こいつが耶崎中の四神王の一人、南方守護朱雀、なーんて呼ばれてた、あなたはよくご存知の飛鷹彩子です。
例の、秋津本家最大の汚点になるはずだった、猫狩り事件。貴方の名誉のために、阻止した揚げ句、口を噤んでやった人間ですよ。名前くらいは覚えているでしょ?」
統磨は、悪意の微塵もない瞳を彩子に向けた。
容赦なく、肩に乗った三橋の腕を彩子は払った。触れられたくない話題なのは、三橋は知っているはずだった。
睨み付けても平然としている三橋に、背中を向けた。当然、虫唾の走る秋津に対しての、拒絶の意味も有りだ。
「今度は、何をハンティングしてるんですか? 事前に連絡くれれば、まっとうな忠告させてもらいますけど」
「ひどい言い方だな。もう僕は立派な大人なんだ。物の分別はつくんだ。昔そんなこともあったが、たかが野良猫程度、人生最大の汚点のような言い方はしてほしくないね」
「あなたの言う分別って、どういう分別なんですか?」
「ものの価値が解ったということさ」
「猫はもうその範疇にはない?」
「ないね」
「その猫たちに関わっていた、人間の愛情も?」
「あの老人には、気の毒なことをしたと考えているがね。天命だったんじゃないかな。僕のせいではないのだし」
「なるほど、そういう考えもあるもんですね」
いたく感心したポーズで答えた。
「入れては貰えないのかな?」
「たぶん」
「妙な言い方だな、それは」
「先客が居ますからね」
「また騎道君か。仕方ないな。育、また来るよ」
秋津統磨を相手に、細く開いた窓ごしで決着をつけられたのは、たぶん三橋くらいのものだろう。その点の手腕は褒めてやってもよかった。
けれど彩子の苛立ちは、プラマイ・ゼロに程遠い。
「私、駿河たちと違って、探偵ごっこからは手を引いたの。あの頃の話しなんか引っ張り出さないで」
「そ。彩子も、物の価値が解ったわけね。野良猫の二十匹だの、野良猫どもに注いでいた愛情だのは、もう価値がないわけだ。
年寄り二人が、いなくなった猫どもを探して、捜し歩いて、一人が事故に合って、残された一人はショックで後を追っちまって。人間二人のちっぽけな愛情を、あの野郎のくだらない迷信なんかで、踏み躙られて。
あの頃、お前ら四神王とやらは、最高に怒ったんじゃないのか? かなり、本気だったんじゃないのか?」
「今さら、もう終わったことじゃない」
「終わってねーよ。あいつが、あんなキレた野郎な限り」
溜め息をついて三橋の後ろ姿を見送った。三橋も、かなりの正義感の持ち主だった。それは、見認める。認めるけれど、突っ走った正義感がどれくらい危険なものであるか。『猫狩り事件』の後の、ある事件から、彩子は思い知らされていた。そのせいで、四神王と呼ばれる四人で居た『あの頃』は、考えたくない過去だった。
「彩子。お湯、沸いてるぜ。
おーし。育。今すぐユンカースを飛ばしてやるからな」
「ありがとう、三橋。育ちゃんに代わって礼を言うよ」
「よせよせっ。お前のその顔でニカっと言われると、女に言われてるよーで、気色悪いっ」
騎道、三秒、沈黙して。
「……どーして素直に感謝されて嬉しいと、受け止められないんでしょうね? 彩子さん」
「答えたくない。放っときなさいよっ」
「ちょっと、どーしてそこで救ってくれないの。え?」
三橋に救いなど無用っ。自力で這い上がってくるくせに。というのが、彩子の持論だ。違う出身中学で、稜明学園に入学してからの付き合いだが、毎日毎日三橋に付きまとわれてる彩子としては、承知の上の逆襲だった。
「二人とも、オーダーは? お砂糖、クリーム山盛り?」
「覚えて欲しいぜ、彩子ちゃん。ど渋いブラックでい」
立ち直りと身変わりの速さなら、誰にも負けない男だった。
「僕もそれでいい」
「おまえわっ」
「騎道わっ」
二人同時の発言に、騎道ははたと顔を上げた。
「おめーには自由意志というもんがないのかっ?」
「それでいいとは何よっ。それでって!」
無闇と一致した激しい剣幕は、常々騎道に対して積もり積もった鬱積ゆえだった。
騎道若伴には、自身の為の意志がない。さらさらと流されて、平然としている。たまに迷惑がっていることもある。しかし、それも苦笑して悩んでるフリをして、それまでだ。フリじゃないと言われても他人はそう見る。
「意志を持てっ、意志をっ!」
「じゃ、三橋とおな……」
彩子の眼光に、言葉は途切れる。
「ブラック……、お願いします」
「言えるじゃないの。育くんはココアね」
騎道にも、繰り返しの訓練が必要であるらしい。
彩子は、三橋と同じ納得をしていた。
「それ、僕じゃないよ」
「……だよな。やっぱ」
「それはね、僕の部屋の前の住人が、暇にあかせて作ってあげてたらしいんだ」
六畳間の唯一の家財道具、四段チェストの上には、びっくりするほど沢山の模型飛行機が乗っていた。狭いスペースにひしめくように整然と並べられて、育がよほど大切にしていることがうかがえる。
彩子は飛行機のことはまったく判らないのだが、三橋が最初に見つけて、一々感心している所を見ると、かなりのコレクションなのに違いなかった。
「最近のは、ないんだな。一次と二次大戦の頃のだけで」
「光輝は最近の機種は知らないんだ。変なとこにこだわる奴だから、店で見かけても無視してたんじゃないかな」
騎道は、懐かしそうに手を止めた。
「我が強い性格でさ。子供も大嫌いなはずだったのに、おかしいよ。関山荘のあの部屋で隣同士になっただけの育ちゃんに、ここまで出来るんだから。すごい心境の変化だよ」
もう騎道は、乗り越えられたのかもしれない。身寄りをなくして、一人で唯一の知り合いを尋ねてこの街に来た。
だが、辿りついた時には、彼は非業の死を遂げていた。
亡くなった青年を語るのに、彼は自然な表情を浮かべられるようになっていた。
「コウキって、例の通り魔殺人の被害者か?」
「そうだけど。三橋も知ってるの。光輝って有名人なんだ」
「変な名前だから覚えてるだけだっ」
彩子はチラリと自分に向けられた、三橋の視線を感じた。また余計な心配をしていると、彩子は受け止めた。
「ああ、そのせいかな。前にも一人、名前だけ覚えててくれた人が居たから」
「光輝との付き合いは、かなり長かったのか?」
「うん。まだ小さい頃、ずっとね。兄貴代わりだった」
微かに、三橋の瞳には真剣な光りが浮かんだ。
「四月に一年分、家賃は振り込んであったから、理由を話してそっくり大家さんから借りて、引っ越したんだ。
今度の火事で、それを少し返金してもらったから、暫くの生活費はなんとか出来て、助かってるんだ」
「はーん。お前、そのバイト免除の身で、なんかおかしなこと考えてやしないか?」
三橋はどっかり腰を落ち着けて、お代わりを要求した。
彩子は、台所に立ちながら、耳だけはそばだてた。
「世界一優秀な日本の警察でさえお手上げで、迷宮入りしかけてるのに。その犯人を捜しだそうとか、復讐とか」
彩子はギクリである。昔の彩子なら、いや、四神王ならば、とっくの昔の頭を突っ込んでいるはずの興味深い事件であることは、三橋なら読んでいるだろう。
「……。次は、僕かと、心配してくれてるわけ? おかしなことで焼け出されたりしたから」
「お前わっ! そーゆーのをっ、素直じゃないと言うぞっ」
この程度の発言で、おたつく三橋も素直じゃなかった。
「おめーのことなんぞ、欠片も心配してくれるかっ。俺が心配なのはっ、前みたいに彩子が足突っ込まないかと、と」
顔を上げる三橋。湯気の立つコーヒーを、彩子は三橋の目前に差し出した。険悪な気配を、三橋は即座に悟った。
「手を引いたって、言ってるでしょ? 聞こえないのね」
「や。……なら、いいけど」
と、しおれながらも、三橋は騎道をうかがっていた。
「僕だって、何があったのかくらいは知りたいよ。でも、手掛かりも何もないっていう話だし。わかったからって、あいつが戻ってくるわけでもないから。
今の僕は、光輝が願っていたことを、やってみるだけ」
そう友情に答える騎道を、育は見上げていた。願いとは、たぶん育を社会に連れ戻すことだ。光輝の話しをしているということは伝わったのか、育は寂しそうな目をした。
「前はまだ、少しはしゃべれたんだよ。笑ったりもできた。
あの火事以来、ずっとこうだ」
育は、おもしろそうに騎道の手元を見詰めていた。かなり騎道の手先は器用で、三橋は昔はよく造ったと威張る通り、慣れたものだった。彩子も、四つ離れた兄の手伝いをさせられていたから、何もわからないわけじゃない。
三人には、普段と違う時間が流れている。たった一人の小さな少年の為に、精密な時間を積み上げていた。
「ちょうどお母さんは出かけていて。一人で、炎に巻かれた部屋の中に、取り残されていた」
「お前が、助けたのか?」
騎道は、小さく頷いた。
「運が良かったんだ。何があったのか知らないけど、泣いてもいなかった。叫ぶことも出来たはずなのに。お母さんが、中に居ると叫ばなかったら、誰も気付かなかった」
火の回りの不自然な速さに、一時は放火説も流れた。火元は奥の一階だった。二階の奥が騎道の部屋、その手前が、育親子の部屋だった。
あの日、彩子は現場近くを通り掛かっていた。暗闇に、住宅越しに浮かび上がった木造アパート。炎は勝ち誇って、ささやかな幸福の園を巻き上げていた。
炎。逆巻く、紅蓮の舌。
紅いイメージが、頭の中に早鐘を鳴らしはじめていた。
「……嫌、やめて……。その話し……」
「彩子……!」
彩子には、見るなと堅く禁じられていた、炎。それは傷ついた精神を狂わす元凶だった。
あの日偶然、目の当たりにし、彩子には紅蓮の炎に引きずられる自分を、止めることは出来なかった。炎の中から呼ぶ幻は、実際に炎に取り巻かれながら、逃げ惑った彩子自身。助けを求める声が、気を狂わせるのだ。
『あの頃』。四神王と呼ばれた頃の突っ走った正義感が、彩子ともう一人、現職の刑事を危険にさらした。結果的に、炎の中で彩子は傷付き、彼の死によって、さらに彼女の精神は崩壊しかけた。
傷付いたレコードが、付けられた溝に沿って時間を越えるように。閉ざしたはずの過去へ、炎を引き金として、彩子の精神だけが引き戻されてしまう。その狂気の瞬間が、関山荘の炎によって、あの夜、呼び覚まされていた。
そんな、最も危険な状況に、騎道若伴は彩子の目の前に現れた。
炎の前に立ちはだかるように、現れ。同時に、過去の炎の残像を打ち消すように、何かの映像が、脳裏に浮かんだ。
その像を、それと感じたのはほんの一瞬のことで、何といえるほど知覚してはいなかった。ただ、それは深い蒼であった、微かな記憶が残った。鮮やかな蒼だった。