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第二章 わからないという場所


田村さんは、不思議な人だった。


他の介護士が忙しそうに動き回る中、彼女だけがゆっくり歩いていた。でもそのゆっくりさは、怠けているのとは違った。一つ一つの動作に、意味があるようだった。


入所者に話しかけるとき、田村さんは必ずしゃがんで、相手の目線に合わせた。声は決して大きくなく、でも確実に届く声だった。


「芳江さん、今日のお昼、おいしかったですか?」


母は田村さんのことを覚えていないはずだった。でも田村さんが来ると、母の顔は少し和らいだ。名前は忘れても、何かを覚えているようだった。


「田村さんは、どうして介護の仕事を?」


ある日、私は聞いた。面会を終えて、廊下で田村さんと話す機会があった。


「母を看取ったからです」


田村さんは、窓の外を見ながら言った。夕日が廊下を照らしていた。


「私も、美咲さんと同じでした。母が認知症になって、必死で勉強しました。本を読んで、講座に通って、専門家に相談して。母の病気を『わかろう』としました」


「それで、わかりましたか?」


「いいえ」


田村さんは静かに首を振った。


「わかりませんでした。最後まで、わかりませんでした。でも、ある日気づいたんです。私は母を『わかろう』としていたんじゃない。母を『わかった状態に置きたかった』だけだったんです」


「どういう意味ですか?」


田村さんは少し考えた。言葉を選んでいるようだった。


「わからないものを、わからないままにしておくのが、怖かったんです。だからラベルを貼りたかった。『これは認知症の症状だ』『これは記憶障害だ』って。ラベルを貼れば、安心できる。『わかった』気になれる。でもそれは、母を見ていたんじゃなくて、ラベルを見ていたんです」


私は黙った。


田村さんの言葉が、胸に刺さった。まるで、私の心の中を見透かされたようだった。


「母が亡くなる前日のことです」田村さんは続けた。「母は私の手を握って、何かを言おうとしました。でも言葉になりませんでした。口が動いているのに、音が出ない。私は必死で聞き取ろうとしました。『何? お母さん、何が言いたいの?』って」


「それで?」


「結局、わかりませんでした。母が何を言いたかったのか、今でもわかりません。でも、その夜、母は穏やかな顔で眠りました。私が手を握っているのを感じながら」


田村さんは私を見た。その目は、悲しみと温かさが混ざったような色をしていた。


「わからなかったんです。でも、わからないまま、そこにいました。それが私にできた、たった一つのことでした」


 ◇


「わからないまま、そこにいる」


私は、その言葉を何度も反芻した。


帰りの電車の中で。夜、眠れない布団の中で。朝、コーヒーを飲みながら。


私はずっと「わかろう」としてきた。わかることが、愛することだと思っていた。わかることが、寄り添うことだと思っていた。


でも、もしかしたら違うのかもしれない。


私は母のことを「わかりたい」と思っていた。でも本当は「わからない母」が怖かったのだ。


母が私を忘れた。それは「記憶障害」だ。ラベルを貼れば安心できる。母が幻を見た。それは「幻視」だ。ラベルを貼れば対処できる。


でも母は、ラベルではない。


母は、私の「理解」の外側にいる、一人の人間だ。


 ◇


夫にそのことを話した。


「田村さんって介護士さんが言ってたんだけど」


私はベッドの中で、天井を見ながら言った。夫は隣で、黙って聞いていた。


「『わからないまま、そこにいる』って。それが大切だって」


「うん」


「私、ずっとお母さんを『わかろう』としてた。認知症のこと、たくさん勉強した。でもそれって、お母さんを見てたんじゃなかったのかもしれない」


「うん」


「私、お母さんのこと、何も知らないのかもしれない」


夫が私の手を握った。暗闘の中で、その手は温かかった。


「知らなくてもいいんじゃないか」


「え?」


「全部知らなくても、全部わからなくても、娘であることは変わらないだろう」


私は何も言えなかった。


夫の言葉は、単純だった。でも、その単純さが、胸に沁みた。


 ◇


次に母に会いに行ったとき、私は本を持っていかなかった。


ノートも持っていかなかった。


ただ、母の隣に座った。


母は窓の外を見ていた。今日は誰もいないようだった。穏やかな午後だった。日差しが母の白髪を照らしていた。


「お母さん」


私は呼びかけた。


母が振り向いた。いつものように、私を知らない目で見た。


「あら、いらっしゃい」


「美咲です。娘の美咲」


「まあ、娘さん」


母は微笑んだ。その笑顔は、私を「知っている」人の笑顔ではなかった。でも、優しい笑顔だった。


「今日は何かご用?」


私は、何も言えなかった。


用事。私が母に会いに来る「用事」とは何だろう。


母の様子を見るため? 認知症の進行を確認するため? 娘としての義務を果たすため?


どれも違う気がした。でも、本当の理由が何なのか、私には「わからなかった」。


「ただ、会いたかったの」


私は言った。


母は首を傾げた。あの懐かしい角度で。


「会いたかった? 私に?」


「うん」


「どうして?」


どうして。


私は答えられなかった。


どうして私は母に会いたいのだろう。母は私を覚えていない。私が来ても、五分後には忘れてしまう。会話も成り立たないことが多い。それでも私は毎週ここに来る。


「わからない」


私は言った。


「わからないけど、会いたかったの」


母は不思議そうな顔をした。でも、嫌そうではなかった。


「変な人ね」


母は笑った。


「でも、なんだか嬉しいわ。わからないけど」


その「わからないけど」が、私の胸に響いた。


母もまた、「わからない」の中にいた。


私は「わからない」母を見て、困惑していた。でも母だって、「わからない」自分を生きていたのだ。


自分が誰かわからない。ここがどこかわからない。目の前の人が誰かわからない。


それは、どれほど怖いことだろう。


でも母は、その「わからない」の中で、私に微笑んでくれた。


「変な人ね」と言って、笑ってくれた。


その笑顔に、私は救われた気がした。


 ◇


帰り道、施設の庭を歩いた。


桜の木があった。まだ蕾だったが、もうすぐ咲きそうだった。


母が好きだった桜。毎年、母と一緒に見に行った桜。


来年の桜を、母は見られるだろうか。


そんなことを考えて、私は立ち止まった。


「美咲さん」


声がして振り向くと、田村さんが立っていた。仕事を終えて、帰るところらしい。


「お母様のところに?」


「はい。でも、今日は……少し、違いました」


「違った?」


「母が笑ってくれたんです。私のことは覚えていないけど、笑ってくれた。それで、なんだか……」


言葉が詰まった。


田村さんは黙って聞いていた。


「なんだか、それでいいのかなって。わからなくても、笑ってくれたら、それでいいのかなって」


田村さんは頷いた。


「少しずつですね」


「え?」


「美咲さん、少しずつ、変わってきていますね」


田村さんは桜の木を見上げた。


「最初に会ったとき、美咲さんは『わかりたい』って言っていました。お母様のことを、病気のことを、わかりたいって」


「はい」


「でも今は、『それでいい』って言った。わからなくても、笑ってくれたら、それでいいって」


私は自分の言葉を振り返った。確かに、そう言った。


「それは、大きな変化です」田村さんは言った。「『わかる』ことを諦めたんじゃない。『わからない』ことを受け入れ始めたんです」


「違いがありますか?」


「あります。諦めは終わりですが、受け入れは始まりです」


田村さんは微笑んだ。


「美咲さんは今、新しい場所に立とうとしているんだと思います。『わかる』と『わからない』の間にある、名前のない場所に」


 ◇


その日から、私は「わかろう」とするのをやめた。


いや、やめたというより、「わかる」と「わからない」の間にいることを、受け入れようとした。


母のことを、私は「わからない」。でも「わからない」と言い切ることもできない。


三十八年間、一緒に暮らした。母の癖を知っている。母の好みを知っている。母がどんなときに笑うかを知っている。


でも、母が何を考えているかは「わからない」。母の世界がどんな形をしているかは「わからない」。


それは矛盾しているようで、矛盾していない。


私は母のことを「知っている」。でも「わかって」はいない。


その「間」に、私は立っている。


 ◇


ある日、母が突然言った。


「あなた、手が冷たいわね」


私は驚いた。母は私の手を握っていた。いつの間に握ったのか、気づかなかった。


「ちゃんと食べてる? 無理してない?」


母の声は、昔と同じだった。私が風邪をひいたときに心配してくれた、あの声だった。


「お母さん……」


「若い人は無理するから。ちゃんと自分を大事にしなきゃだめよ」


母は私の手をさすった。その手は温かかった。節くれだった指。爪は短く切られていた。施設のスタッフが切ってくれているのだろう。


「寒いときは、温かいものを飲むのよ。おばあちゃんがいつも言ってたでしょう」


おばあちゃん。母の母。私にとっての祖母。もう二十年以上前に亡くなった人。


母の中で、時間は混乱していた。私を娘として認識しているのか、それとも別の誰かだと思っているのか。わからなかった。


でも、母が私を「心配している」ことだけは、確かだった。


「ありがとう、お母さん」


私は言った。


母は微笑んだ。そしてまた窓の外を見た。


「今日はいい天気ね」


話は終わっていた。母はもう、さっきの会話を覚えていないだろう。


でも私は、その温かさを覚えている。


母の手の温かさを。心配してくれた声の響きを。「大事にしなきゃだめよ」という言葉を。


 ◇


田村さんに、そのことを話した。


「母が、私の手が冷たいって心配してくれたんです。私が誰かはわからなかったと思います。でも、心配してくれた」


田村さんは頷いた。


「記憶がなくなっても、残るものがあるんです」


「残るもの?」


「言葉では説明できないんですけど」田村さんは少し考えた。「知識としての記憶は消えても、身体が覚えていることがあるというか。誰かを大切に思う気持ちが、身体に染み付いているというか」


「それは『理解』できることですか?」


「いいえ」田村さんは首を振った。「理解はできません。でも、感じることはできます」


感じること。


私は、ずっと「理解」しようとしてきた。言葉で。概念で。論理で。


でも母がくれた温かさは、言葉では説明できなかった。「認知症患者にも感情は残っている」という知識として「理解」することはできる。でも、あの瞬間に感じたものは、そういうことではなかった。


私は母のことを「わかって」いない。


でも何かを「感じて」いる。


その「何か」に、名前はなかった。


 ◇


施設の廊下を歩いていると、他の入所者と目が合うことがある。


ある老人は、いつも窓辺に座って外を見ている。ある老婦人は、いつも人形を抱いて話しかけている。ある男性は、いつも同じ歌を口ずさんでいる。


彼らのことを、私は何も知らない。名前も、人生も、何を考えているかも。


でも、彼らもまた、「わからない」の中にいるのだと思う。


自分が何者かわからない。ここがどこかわからない。目の前の人が誰かわからない。


それは、とても怖いことだろう。


でも彼らは、毎日をそこで過ごしている。わからないまま、そこにいる。


 ◇


私は、「わかる」ことがそんなに大切だと、いつから思うようになったのだろう。


子供の頃、私は「わからない」ことが平気だった。


空がなぜ青いのか、わからなくても空を見上げた。花がなぜ咲くのか、わからなくても花を摘んだ。母がなぜ私を愛してくれるのか、わからなくても母に抱きついた。


いつから「わかる」ことが、「愛する」ことの条件になったのだろう。


いつから「わからない」ことが、こんなに怖くなったのだろう。


私は大人になった。知識を得た。論理的に考えることを学んだ。わからないことを「わかろう」とすることが、成熟だと思っていた。


でも、もしかしたら、それは違ったのかもしれない。


本当の成熟とは、「わからない」ことを受け入れることなのかもしれない。


 ◇


ある雨の日、私は施設のロビーで他の家族と出会った。


三十代くらいの男性が、車椅子に座った老婦人の隣に座っていた。老婦人は窓の外をぼんやりと見ていた。男性は黙って、その横顔を見つめていた。


「お父さんですか?」


私は話しかけた。


「母です」


男性は言った。


「そうでしたか。お母様も、認知症ですか?」


「はい。もう五年になります」


五年。私より長い。


「大変ですね」


「最初は大変でした。母が僕を忘れたとき、正直、絶望しました。僕の存在が消えたみたいで」


私は頷いた。その気持ちは、痛いほどわかった。


「でも最近は」男性は続けた。「少し違うんです」


「違う?」


「母は僕を覚えていません。でも、僕が来ると笑うんです。知らない人なのに、なぜか笑う。それを見て思ったんです。記憶がなくても、何かが残っているんだな、って」


老婦人がこちらを見た。そして、微笑んだ。知らない私にも、微笑んだ。


男性が言った。「その笑顔で、十分なんです。今は」


 ◇


その言葉が、ずっと心に残った。


「記憶がなくても、何かが残っている」


それは、私が田村さんから聞いた話と同じだった。


でも、頭で「理解」することと、心で「感じる」ことは、違う。


私はまだ、その境地には達していなかった。まだ、母に「わかって」ほしいと思っていた。まだ、母の中から自分が消えていくことを、受け入れられずにいた。





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