第一章 理解という名の距離
私が子供の頃、母はよく言った。
「美咲、お母さんはね、あなたのことなら何でもわかるのよ」
嘘をついたとき、母は見抜いた。悲しいことがあったとき、母は気づいた。言葉にしなくても、母は私のことを「わかって」いた。少なくとも、私はそう信じていた。
だから、母が私のことを「わからなく」なったとき、世界が崩れていくような気がした。
◇
母が私の名前を忘れた日のことを、私は正確に覚えている。
二月の寒い朝だった。実家の居間で、母は私を見て微笑んだ。いつもと同じ、穏やかな笑顔だった。
「あら、いらっしゃい。どちら様?」
その瞬間、私の中で何かが凍りついた。
母の目は私を見ていた。でもその目は、三十八年間娘を見てきた目ではなかった。初めて会った人を見る目だった。礼儀正しく、よそよそしく、どこか警戒を含んだ目。
「お母さん、美咲だよ。美咲」
私は自分の名前を、まるで外国語のように発音した。
母は首を傾げた。その仕草は昔と同じだった。私が子供の頃、算数の宿題を見せたときと同じ角度で首を傾げた。
「美咲さん。美咲さんね。ごめんなさいね、最近物忘れがひどくて」
母は申し訳なさそうに笑った。でも「物忘れ」ではなかった。母は私を「忘れた」のではなく、私という存在が、母の世界から消えていた。
私は泣かなかった。泣けなかった。代わりに、私は「理解しよう」と決めた。
母の病気を。認知症というものを。母に何が起きているのかを。
理解すれば、きっと何かが変わる。そう信じて。
◇
その日から、私は本を読み始めた。
認知症の医学書。介護のハンドブック。当事者の手記。家族のための心構え。ありとあらゆる本を買い込み、付箋を貼り、ノートにまとめた。
「認知症とは、脳の神経細胞が壊れることで起こる症状の総称である」
私はその一文を何度も読んだ。読むたびに、少しわかった気がした。
「記憶障害、見当識障害、実行機能障害などが主な症状として現れる」
そうか。母が私を忘れたのは「記憶障害」だ。時々自分がどこにいるかわからなくなるのは「見当識障害」だ。料理の手順がわからなくなったのは「実行機能障害」だ。
名前がつくと、安心した。
名前がついているということは、理解されているということだ。研究されているということだ。対処法があるということだ。
私は母の症状を観察し、本に書いてあることと照合した。
「ああ、これは『周辺症状』だ」
「これは『中核症状』に分類される」
「この行動は『アパシー』と呼ばれるものだ」
私は認知症を「理解」していった。少なくとも、そう思っていた。
◇
実家に通うたびに、私はノートを持参した。母の言動を記録した。いつ、何を忘れたか。どんな行動をしたか。どんな言葉を発したか。
「2月15日。朝食を食べたことを忘れる」
「2月18日。私の名前を思い出せない」
「2月22日。夜中に起きて外出しようとする」
記録することで、私は少し落ち着いた。混沌としていたものに、秩序が生まれる気がした。
でも母は、私がノートを取っていることを嫌がった。
「何を書いてるの?」
ある日、母が聞いた。その声には、かすかな警戒があった。
「お母さんの様子をね、メモしてるの」
「私の様子? どうして?」
「……お医者さんに見せるためだよ」
嘘だった。医者に見せるためではなかった。私自身が安心するためだった。
母は黙った。そして、窓の外を見た。
「私、おかしくなってるのね」
その声は、静かだった。悲しみも怒りもなく、ただ事実を述べるような声だった。
「そんなことないよ」
私は言った。でも、その言葉は空虚だった。母も私も、それが嘘だとわかっていた。
◇
母を施設に預けることを決めたのは、その年の夏だった。
一人暮らしは危険だった。火の消し忘れが何度もあった。鍋を焦がした。やかんを空焚きした。一度は、ボヤを起こしかけた。
夜中に外に出て、警察に保護されたこともあった。パジャマ姿で、三キロ離れた駅まで歩いていた。
私は仕事を休んで、母の元に駆けつけた。警察署で、母は小さく座っていた。パジャマに、誰かが貸してくれたカーディガンを羽織っていた。
「お母さん」
私が呼ぶと、母は顔を上げた。
「あら、どちら様?」
その瞬間、私は決めた。もう限界だ、と。
「お母さん、施設に入ろう」
私がそう言ったとき、母は意外なほど素直に頷いた。
「そうね。迷惑かけちゃうものね」
その言葉が、胸に刺さった。母は「迷惑」という言葉を使った。
「迷惑じゃないよ」
私は言った。でも、それは本当だっただろうか。
私は仕事を持っていた。夫もいた。自分の生活があった。母の介護を続けることは、正直に言えば「大変」だった。大変だから、施設を選んだ。
それを「迷惑じゃない」と言えるのだろうか。
私は、自分が嫌になった。
◇
施設は、思っていたより明るい場所だった。
清潔な廊下。大きな窓。庭には花が咲いていた。スタッフは皆、穏やかな笑顔で接してくれた。
「お母様、ここがお部屋ですよ」
職員が母を案内する。母は部屋を見回して、少し不安そうな顔をした。
「ここで暮らすの?」
「そうよ、お母さん。私もよく来るから」
「そう。そうなの」
母は窓辺に立って、外を見た。何を見ているのか、私にはわからなかった。
「きれいな景色ね」
母は言った。
「うん、きれいだね」
私も言った。
でも私は、母と同じ景色を見ていたのだろうか。母の目に映っているものと、私の目に映っているものは、同じだったのだろうか。
◇
「美咲さん、最近すごく勉強されてますね」
介護士の田村さんは、私の分厚いノートを見てそう言った。
田村さんは母が入所している施設の介護士で、五十代の女性だった。穏やかな声と、決して急がない動作が特徴的だった。白髪交じりの髪を一つに束ね、いつも淡い色のエプロンをしていた。
「わかりたいんです」私は言った。「母に何が起きているのか。母が何を感じているのか。わからないと、何もできない気がして」
田村さんは少し黙った。それから、不思議な質問をした。
「美咲さんは、お母様のことを、わかりたいんですか? それとも、認知症のことを、わかりたいんですか?」
「え?」
「同じように聞こえるかもしれませんが、違うと思うんです」
私は答えられなかった。
その二つは、私の中では同じだった。母を理解するためには、認知症を理解しなければならない。認知症を理解すれば、母を理解できる。それは当然のことのように思えた。
「母の病気を理解することが、母を理解することだと思います」
私はそう答えた。
田村さんは微笑んだ。否定も肯定もしない、ただ受け止めるような笑顔だった。
「そうかもしれませんね」
彼女はそれ以上何も言わなかった。でも私は、何か大事なことを聞き逃したような気がした。
◇
母の症状は、本に書いてある通りに進行した。
最初は短期記憶から失われた。さっき食べた食事を忘れる。さっき会った人を忘れる。さっき言ったことを忘れる。
次に長期記憶が曖昧になった。私の子供時代のことを、少しずつ忘れていった。
「美咲は、バレーボールやってたんだっけ?」
母が聞いた。
「バスケだよ、お母さん。バスケットボール」
「あら、そうだった? ごめんね、忘れちゃって」
その「ごめんね」を、私は何度聞いただろう。母は何度も謝った。忘れることを。覚えていられないことを。
私はそのたびに「大丈夫だよ」と言った。でも、本当に大丈夫だったのだろうか。
母が私の過去を忘れていくことは、私の過去が消えていくようで、怖かった。
◇
そして、人を忘れ始めた。近所の人を。親戚を。古い友人を。
「田中さんって、誰だったかしら」
母が写真を見ながら言った。田中さんは、母の四十年来の友人だった。
「お母さんの友達だよ。よく一緒に旅行に行ったでしょう」
「そうだった? 全然覚えてないわ」
母は不思議そうに写真を見つめた。そして、そっと置いた。
「きれいな人ね」
母は他人の写真を見るように言った。
◇
そして、私を忘れた。
母が私を「親切な人」として扱うようになったとき、私は理解していたはずだった。これは病気の症状だ。母が悪いわけではない。脳の神経細胞が壊れているのだ。
理解していた。頭では、完璧に。
でも胸の奥が、理解を拒んでいた。
私は毎週母に会いに行った。母は毎週私を忘れた。毎週、初対面の挨拶をした。毎週、私は「美咲です、娘の美咲です」と名乗った。毎週、母は「まあ、娘さんがいらしたの」と驚いた。
それを「理解している」と言えるのだろうか。
私は認知症について、たくさんのことを知っていた。症状の名前を言えた。進行のパターンを説明できた。適切な対応の仕方を暗記していた。
でも母のことは、何も「わかって」いなかった。
母が何を考えているのか。母が何を感じているのか。母の世界がどんな色をしているのか。
本には書いていなかった。いや、書いてあったのかもしれない。でも、それを読んでも「わかった」とは言えなかった。
◇
ある日、母が窓の外を見て言った。
「あの人、まだ待ってるのかしら」
私は窓の外を見た。誰もいなかった。駐車場と、枯れた花壇と、曇った空があるだけだった。
「誰のこと?」
「あの人よ。ほら、あそこに」
母は何もない場所を指さした。
私は本で読んでいた。「幻視」という症状があることを。認知症の種類によっては、存在しない人や物が見えることがあると。
「お母さん、誰もいないよ」
私はそう言った。正しい対応だと思った。
でも母は悲しそうな顔をした。
「いないの? あの人、ずっと待ってたのに」
「誰を待ってたの?」
母は黙った。何かを思い出そうとしているようだった。眉間に皺が寄った。口が少し開いた。でも、言葉は出てこなかった。
「わからない」
母は小さく言った。
「わからないの。でも、大事な人だった気がするの。待たせちゃいけない人だった気がするの」
私は何も言えなかった。
母は「幻視」を見ていたのかもしれない。でも母にとって、その人は確かにそこにいた。その人を待たせていることが、母を苦しめていた。
私の「理解」は、何の役にも立たなかった。
◇
その夜、私は泣いた。
施設から自宅に戻り、一人でワインを飲みながら泣いた。夫は出張で不在だった。広いリビングに、私の嗚咽だけが響いた。
私は何を「理解」しようとしていたのだろう。
認知症という病気を理解すれば、母を理解できると思っていた。症状を知れば、母の行動がわかると思っていた。適切な対応を学べば、母を助けられると思っていた。
でも違った。
私が理解したのは「認知症」であって、「母」ではなかった。
母という人間を、私は知らなかった。いや、知っていると思っていた。三十八年間、一緒に暮らしてきた。母の好きな食べ物を知っていた。母の口癖を知っていた。母の怒るポイントを知っていた。
でも今、母が窓の外に見ていた「誰か」を、私は知らない。
母が人生で何を待ち続けていたのかを、私は知らない。
母が何を後悔し、何を恐れ、何を願っているのかを、私は知らない。
私は三十八年間、母の「何」を見てきたのだろう。
◇
その夜、眠れなかった。
ベッドの中で、私は母との思い出を辿った。
幼い頃、母に手を引かれて商店街を歩いた。母は八百屋のおじさんと親しげに話し、肉屋のおばさんと笑い合い、パン屋の店主と天気の話をした。私は母の手を握りながら、母が世界中の人と繋がっているような気がしていた。
小学校の運動会で転んだとき、母は真っ先に駆けつけてくれた。膝をすりむいて泣いている私を抱き上げ、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれた。その声は、今でも耳に残っている。
中学生になって反抗期を迎えたとき、私は母に冷たくした。「うるさい」「ほっといて」と言った。母は悲しそうな顔をしたが、何も言わなかった。ただ、私の好きなおかずを作り続けてくれた。
高校受験に失敗したとき、母は泣いている私の背中をさすって言った。「美咲は美咲のままでいいのよ」と。
大学を卒業して就職したとき、母は泣いた。「立派になったね」と。
結婚したとき、母はまた泣いた。「幸せにね」と。
その全ての瞬間を、私は覚えている。でも母は、もう覚えていない。
母の中から、私との思い出が消えていく。
それは、私の人生の一部が消えていくようで、とても怖かった。




