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雨は優しき月の傘

作者: ┏┛†┗┓

 いつもフードを目深にかぶり、いかにも魔術師然とした黒いローブを好んでまとう寡黙な友人が彼女の下を訪れたのは、朝から一向に降り止む気配のない静かな雨の日だった。

 まるで忍び泣くようにしとしとと降り続ける無数の雨粒を受け、彼のローブはぬれたカラスの羽のようにいっそう黒く染まっている。学院の研究室に足を踏み入れた彼の長いローブの裾からは雫がとめどなくしたたり落ち、ずぶぬれになるほどの距離か時間を雨と共に過ごしたらしいことが一目で見て取れた。

「ずっと小雨なのかと思っていたけど、そうでもなかったようね。それとも雨に打たれる実習でもしてきたの?」

 彼女は何の前触れもなくやって来た友人に冗談めかしてそう尋ねたが、彼はフードの下でにこりともせず、どこか緊張の感じられる声音で「君に伝えたいことがある」と唐突に言った。

 自分より少しだけ高い位置にあるフードに隠された友人の顔を見上げ、彼女は奇遇ねと呟くように応じる。

「私もちょうどあなたに伝えたいことがあったのよ」

 その言葉は彼にとって意外だったのだろう。普段何事にも動じない友人が珍しく驚いているのがフード越しにも彼女には判った。

「先に切り出したのはあなただから、まずはあなたの話を聞きましょう。今日はもうおしまいにするわ」

 彼女はそう言って手早く片付けを始め、ものの数分で帰り支度をすませると、未だローブからぽつりぽつりと雨を降らせている友人と共に研究室を出た。身長差が十センチもない彼と肩を並べ、寮にある自分の部屋へと向かう。

 その途中で何人もの学生や教授とすれ違ったが、彼らのうちの五人に一人は彼女に気付くと声をかけてきた。

「やあノーラ、もう帰るの? いつも夜中までこもっているのに珍しいね」

「ノーラ、今度また勝負をしようよ。この前の仕返しをしなくちゃ」

「あら、ちょうどいいところに! ねえノーラ、今――ええと、あの、忙しそうね。教えて欲しいことがあるから、明日訊きに行ってもいい?」

 黒いフードを深々とかぶって影のように隣を歩く彼女の友人に怯えたのか、最後にすれ違った者は返事も聞かず、そのまま足早に立ち去ってしまった。

「相変わらずあなたは怖がられているのね。学院の中でくらいフードをぬげばいいのに。それだけでたぶん評価が変わるわよ」

 皆からノーラと呼ばれた彼女はそう言って愉快そうに笑い、一方の友人はそれに何も言わず、ただ小さく肩をすくめてみせただけだった。

 彼らは二人とも細身の長身で目を引くが、彼の場合はどちらかというと悪目立ちに近い。全身黒いローブに身を包み、顔が見えないフードを常にかぶっているその姿は、まるで絵本に描かれる悪い魔法使いのように見える。それがそのまま本の外に出てきたのではと思わせる彼の様相は、魔術学院の中でもどことなく不気味で異様に見えた。

 そんな彼が感情の読めない淡々とした口調で「君は人気者だな」と言うと、今度は彼女の方が肩をすくめて「みんな妖精族が物珍しいだけよ」と応える。

 しかし、実際のところノーラは確かに学院の人気者だった。

 先端の尖った長い耳が特徴的な妖精族は他の種族との交流が少なく、その姿を見かける機会自体がほとんどない。その稀少性に加えて、彼女が持つ妖精族特有のこれといった特徴がないゆえの端正な容貌と、はかなげな見た目に反して物怖じせず論理的にはっきりとものを言う性格や、明るく穏やかな人柄が男女問わず人々を惹きつけた。

 専門である治癒術を研究する学者としても彼女は評価され、注目されている。

 もちろん求愛する者も少なくなかったが、彼女が選んだのは今隣を歩く無口な友人だった。


 寮の部屋に着くと、ノーラは扉を開けながら「さすがにここではそれをぬいでもらうわよ」と言って友人の着ている黒いローブを指さした。

「床に水たまりができてしまうわ」

 そう言って微笑むと彼から雨でぬれたローブを奪い、入口の傍にしつらえられた外套かけに引っかける。そして彼女は荷物を片付けたり着替えをするために自室へ行き、その間に友人はまるで我が家であるかのように迷いなくキッチンに向かうと、湯を沸かしてお茶を淹れる用意を始めた。

 互いの家に行ったら、訪れた方が最初にお茶を淹れるのが彼らの暗黙のルールだ。住人の方が帰った時にやることが多いだろうということから自然と決まったことで、どちらが客でも主でもなく、いつでも二人は平等だった。

「雨の日だというのに元気がなさそうね」

 そう言いながら身軽な服装で居間に戻ってきたノーラは、友人から温かな湯気の立つお茶の入ったカップを笑顔で受け取った。そして夕方にしては暗い窓の外へと視線を送る。

 その目にはゆっくりとガラスを伝って落ちる雨の雫が見えた。

「雨はあなたの味方だと思っていたけど」

「私が元気そうに見えた時があったか?」

 彼女の隣に立ち、窓の方を向いて呟くように応えた彼の語調からは相変わらず感情らしいものが読み取れない。

 その青白い横顔を見やり、「あなたなりにはね」と答えてノーラはカップを傾けた。

 そんな彼女に今度は友人が目を向ける。その両者の横顔はどちらも病的なほどに白く、血の気の感じられない色はどこか月を思わせた。

 その肌にかかる色彩を失った銀に近いプラチナブロンドのノーラの髪と、彼女の友人の黒髪はあまりにも対称的だ。彼女が昼の月なら彼は夜の月で、同じ妖精族の彼らは血がつながっていないにもかかわらず、傍目には双子のようにさえ見えたことだろう。

 元来色白の者が多い妖精族の中でも異常な彼らの肌の白さは、この二人の間では『当たり前』になる。それがノーラにとって彼が特別な存在になる理由の一つだった。

「私に伝えたいことがあると言っていたけど、あまりいい知らせではなさそうね」

 ノーラがそう切り出すと友人は数秒の間彼女の顔を見つめ、それからおもむろに懐から封書を取り出すと、それを無言で彼女に差し出した。

「……私宛てではないわね。かと言ってあなた宛てでもないようだけど」

 封筒に共通語で書かれた見覚えのない宛名を読み取り、いぶかしむような表情を浮かべてノーラは友人の顔を見上げる。

 しかし彼はやはり口をつぐんだまま、中の手紙を読むようその赤い瞳でうながした。

 ノーラは手渡された封筒を裏返し、そこに記された差出人の名前と、開けられた形跡のある封蝋に捺された印璽を見て眉根を寄せる。

 だが何も言わないまま、カップをテーブルの上に置くと手紙を読み始めた。

 その表情が徐々に険しくなっていく。

 やがて手紙を読み終えた彼女は顔を上げ、問い詰めるように友人に目を向けた。

「エンリェード」

 硬い声音で彼の名前を呼ぶ。

 そんなノーラの追及をさえぎるかのようにわずかに目を伏せ、彼女の手の中にある書状に視線を落としながら彼は呟くように言った。

「私の父宛てに届いた要請状だ」

「でもあなたのお父様は……」

 驚いたようにそう言いかけたノーラに一つ頷き、彼は「すでにこの世を去って久しい」と応える。

 エンリェードの父親は、彼が子供の頃に精神的な要因で衰弱死したと聞いていたので、今になって死者宛てに手紙が届いたとなると、それを受け取る義務は息子である彼にあるということになるのだろうとノーラは理解した。

 だが――。

「戦争に行くつもり?」

 その手紙に書かれた仕事を果たす義務も彼に生じるのだろうか、と彼女は思う。

 手紙の内容は彼が言った通り、兵を連れて参戦することを求める『要請状』であり、それは盟約の下に果たされるものだと記されていた。

 それは拒否する権利がないことを暗に告げている。

「戦争なんて大げさなものじゃない。領主同士の小競り合いだ」

 友人はそう言ってノーラの手からするりと要請状を抜き取り、元通りに折りたたんで封筒にしまう。

 その様子を見ながらノーラは慎重な口調で言葉を紡いだ。

「領主と言うけど、その名前の持ち主は現在の月夜の民を統べる実質的な王だわ。相手の領主の名前も知っているわよ。変異種狩りで有名だもの」

「変異種の間ではな」

 封筒を再び懐に戻した彼は顔を上げ、ノーラの薄い青色の目を真っ直ぐにとらえて視線を返す。

「君が知っているとは思わなかった」

 友人のその言葉に今度は彼女が目を伏せ、独り言を言うような口調で言葉を返した。

「あなたが月夜の民――変異種だと知った時に、私はもっとあなたについて、月夜の民について知るべきだと思って調べたのよ。それで偶然知ったわ。そしてその時から、あなたが彼にかかわる日が来ないことを祈っていた」

「……」

 ノーラは小さく息をついて友人の下へ歩み寄り、その顔をのぞき込む。

 そんな彼女を静かに見つめる赤い目こそ、彼が月夜の民、変異種と呼ばれる者の証だった。

 月夜の民でなくても赤い目の者はまれにいるが、鮮血の赤を持つのは彼らだけであり、その目は人を支配する魔力を持っているとも言われている。

 また、他の人間よりも高い身体能力や特殊な能力を持つ場合が多いが、魔力の高い者の中からごくまれに変異的に生まれる彼らは数が少なく、子供をもうけても変異種の特性が引き継がれる確率は低い。

 その『少数の強者』という立場と、月夜の民の命の糧である魔力摂取のために人を襲い、人体の中でもっとも魔力濃度が高いと言われる血液を奪う者がいたことや、魔力の結晶である魔石を強奪、独占した過去もあって嫌われ、差別されることも珍しくないのが現状だ。中には人類の敵として根絶やしにすることを望む者もおり、その筆頭が変異種狩りで知られる件の領主だった。

「本当にあなたでなければいけないの?」

 確認するように尋ねるノーラに、彼は「他に父の名代が務まる者がいない」と答えた。

「兄姉たちの方は代替わりしているし、一番血が濃く、変異種に連なる者として生まれたのは、昔も今も一族の中では私だけだ」

「でも、あなたの一族の参戦を要請したのも王ではなくその名代だわ」

 ノーラは要請状の最後に記されていた署名が王自身のものではなく、代理人の名であったことを見逃していなかった。

「月夜の民の王は封印されたままのはず」

「それを取り戻すための戦いだ」

 淡白に言う友人にノーラは「無謀すぎるわ」と声をあげた。

「一勢力として恐れられた月夜の民の結束は王の力と人望によるものだったと聞くし、その王を取り戻すためとはいえ相手が悪すぎる。吸血鬼狩りの異名さえとる容赦知らずの一大領主なのよ、負けるに決まってるわ」

「私だって勝てるとは思っていないし、おそらくこの要請状を送った者もそうだろう」

「……死にに行くと言うの?」

 ぽつりと言うノーラに彼は小さく肩をすくめてみせる。

「変異種が不死者と呼ばれているのも知っているだろう。死ぬことはないさ」

「もちろん知っているわ。変異種を殺せる狩人がいるということもね」

「……」

 ノーラの反撃に彼は沈黙を返し、言葉を探すように雨の降る窓の方へその身を向けた。

 しかし暗い窓の先には声を殺して泣く誰かの落としたまばらな雨粒と、それを優しく受け止める薄闇しか見えない。

「それでも行くのね」

 静かにそう言ってノーラは友人の黒い服の袖を小さく握った。

「そうでなければ、あなたがわざわざその手紙を見せに来るはずがないもの」

 雨が降る中、日光に弱い変異種の肌を守る大事なローブをぬらしてまで。

「これを逃せば、父の交わした盟約を果たす機会はもはや永久に訪れないだろう」

 窓の方を向いたまま微動だにせず、雨粒が一つ落ちるかのように彼は言ってかすかな息をつく。

 それにノーラは反論しかけたが、「借りを作ったままにするのは君だって嫌っているはずだ」と指摘され、彼女は大きなため息をこぼした。

「確かに私があなただったら、同じようにするでしょうね」

「理解を得られて嬉しいよ」

「喜ばないで」

 不機嫌そうにノーラは言い、聞えよがしな嘆息をもう一度ついてみせる。

 それから少しの間、彼女は眉間にしわを寄せて黙り込んでいたが、やがて「言っておくけど」と、感情を殺した声音で前置きしてから続く言葉を口にした。

「私はあなたが帰ってくるまで待てないわよ」

 それを聞いて友人がはっとしたような表情で振り返り、彼女を見下ろす。

 ノーラはそんな彼から視線をそらすことなく見つめ返した。その青い瞳は彼の記憶にある印象よりも数段色が薄く、白に近い。

「……そうか、それが君の私に伝えたいことか」

「ええ」

「まだもう少し時間があるかと思っていた」

 友人はそう言って自分の袖をつかんでいるノーラの手にそっと触れ、静かに持ち上げる。

 彼女の温かな手を包むそれは冷たく、まるで人形か何かのように感じられた。生きている者の気配がしない月夜の民の体は、たとえるなら動く死体がもっとも近い。

 だが、ノーラはそれを恐ろしいと感じたことは一度もなかった。

「私も――もう少し時間があれば、とは思っていたわ」

 そう応えてひやりとした友人の手を握り返す。

「決意は変わらないんでしょう?」

「……すまない」

「謝らなくていいわ。お互いのやるべきことをやりましょう」

 体温のない彼の手が自分の手のぬくもりで少しずつ温まっていくのを感じながら、ノーラはにこりと笑顔を作ってみせた。

 友人の肌が青白く血の気がないのは変異種だからだが、彼女の肌の白さは病気によるもので、その治療法は見つかっていない。ごくまれに先天的に抱えることのある難病であり、致死率は十割という『死に至いたる病』だ。徐々に体から色素が失われ、硬化し、最後には白い結晶のようになることから白屍病と呼ばれている。

 ノーラは自分の寿命には間に合わないだろうと知りながらも、その治療法を研究し続けてきた。いずれ完治させる方法を見つける――その手がかりを少しでも後世に残すことが彼女のやるべきことであり、自分に課した使命だ。

 それは彼も知っていることであり、お互いに捨てることのできない役目を背負っていることをこの時二人は認め合った。

「……君が事前に知らせてくれるとは思わなかった。君のことだから何も告げず、帰ってきた私に『返しそびれていた本を代わりに返しておいて欲しい』というような書き置きを一つ残すくらいかと」

 呟くように言った友人の言葉を聞いてノーラは愉快そうに声をあげて笑い、「それは確かにとても私らしいわね」と微笑む。

 そして握ったままの彼の白い手に視線を落とし、小さく息をついて言った。

「知らせたのはあなたにだけよ」

「私も要請状のことを伝えたのは君だけだ」

「私以外に友達がいないからでしょう?」

 生真面目な口調で応じた友人にそう言ってノーラはいたずらっぽい笑みを向ける。

 彼はそれに一度肩をすくめてみせたあと、「君は私以外にも友人がたくさんいるのに、何故私に?」と尋ねた。

 彼女には信頼している恩師とも言うべき教授もいる。考えればいくらでも彼女が知らせておくべき相手は他にいるように彼には思えた。

 そんな彼にノーラは一言、あっさりと答える。

「親友はあなただけだから」

 そして温かくなった友人の手を離し、くるりときびすを返してテーブルに置いたカップに腕を伸ばした。

 ほどよい温度になったお茶をおいしそうに一口飲み、満足そうに息をついて顔を上げる。

 そして窓の傍に佇んだまま彼女を黙然と見つめ返す友人に、ノーラは「そうだ」と何かを思いついた様子で口を切った。

「どうせなら勝負しましょう。あなたが無事に帰ってきたら私の勝ち。どう?」

「君の勝ちになるのか」

「そうよ。あなたは死なない戦いは得意でしょう? 『今度は』勝たせてくれるわよね?」

 今度は、という部分を彼女が強調して言ったことに気付き、彼は少し驚いたような表情を浮かべてノーラを見返した。

「まさか、あの試合の復讐戦を?」

「ええ、あんな悔しい負け方をした試合はあれが最初で最後だったんだから」

 くすくすと笑いながら機嫌良さそうに彼女は頷く。

 その言葉は間違いなく、彼らが最後に興じた盤上遊戯の試合のことを指していた。

 それぞれが与えられた駒をあやつり、砦や橋を築き上げ、地形や環境を利用しながら相手の駒を減らすという戦略性の高い遊戯で、試合の進行やシステム管理などを務めるルーラーが実況や解説を交えながら進行を行うことも多く、娯楽性、競技性の高さも相まって学院内では定期的に大会が開かれるほどの人気がある。

 その遊戯でノーラと彼が戦い、後半までノーラが圧勝に近い勢いで押したが、犠牲を最小限に抑えるような戦い方をしていた彼が終盤になってノーラ側の視界不良を利用し、彼女の本軍を狭い地形に誘い込んだあと、死なせないことを最優先にして逃がし続けた生き残りの兵たちで半壊させ、逆転勝利をおさめたことがあった。

 試合中、思わぬ窮地に立ってからもノーラはあきらめず、船で回り込んで抵抗を試みたが、天候に見放されて雨による鈍足効果を受け、反撃が間に合わなかったことが雌雄を決したと言える。もしもあの盤面で雨が降らなければ、彼女が勝つ可能性もまだ充分にあったはずだった。

「私を含め、誰もがあの砦の生き残りの役目に気付いていなかったわ。最初の小競り合いで早々に敗走したんだもの。死ななかっただけで、もうあとはろくに何もできないだろうとみんなが思っていた。そんな弱い兵ばかり生き残ったところで、ってね。それが――まさか最後まで生き延びて昇格しているなんてね。封鎖権限を得て、狭い場所に追い込んだ状況を作り上げたのを見た時は、正直いかれてると思ったわ」

「そんな状況でも打開しようと、船で迫った君も相当だと思うけどな。あれは肝が冷えた」

「天気運に見放されたのが本当に悔しかったわ。雨が完全にあなたの味方をしたんだもの」

 そう言って冗談めかした恨めしげな視線を向けるノーラに、彼は珍しく微笑を浮かべてみせる。

「あんな勝ち方は二度とできない」

「それ、試合が終わった時にも言っていたわね。あの時のことは忘れられないわ。今でも学院の伝説になっている一戦よ」

 ノーラも彼に笑顔を向けてそう言葉を返すと、記憶をさかのぼるように宙に視線を向けた。そこに浮かぶ情景は今でも彼女の中で鮮明なままだ。

「あなたは被害を最小限に抑えて、普通は見捨てるような味方も見捨てなかった。そうして生き延びた兵を最適な場所で使って勝ったんだもの。あんなに悔しくて、あんなに面白く、いい試合だったのはあれだけよ」

 ノーラは心底愉快そうに笑い、温かなカップを傾ける。そして何口かお茶を味わったあと、付け足すようにぽつりと言った。

「あなたの笑い声を聞いたのもあの時が初めてだったわ」

 自分でも信じられない勝ち方をした彼と一緒に、思わず二人で笑ってしまったことを思い出して彼女は目を細める。

 そして少し残念そうに「もう一度あなたと試合をしたかったわ」と微笑んだ。

「……それは私も残念に思う」

 相変わらず淡々と、しかしどこか惜しむような声音で友人が同意する。

 そんな彼に再び歩み寄り、ノーラは頷きながら「でも」と言った。

「これで良かったのかもしれないわ。少なくとも私は悔いがないように生きてきたし、あなたにも会えたもの」

 彼女の人生においてそれは一つの大きな成果だった。

「体からだんだんと色が失われ、力が衰えていくのと一緒に私の心からも色が消えてなくなっていく気がしていたのに……あなたがバカみたいに何度もこの髪の色を美しいとほめてくれるから、少し今の自分の姿が嫌いではなくなってしまった。何もかも白く失われていくのに、肌の色を失うごとにあなたに近付いていくのを見ると、何だか新しく家族を得たようですらあったわ」

 ノーラはそう言って友人にもたれかかるようにわずかに身を預け、両手に持ったカップの中をぼんやりとのぞき込む。そこにはにじんだ彼女の白い顔がはかなげに映っていた。

「……君はその病気がなければ、今私と共にいなかったんじゃないかと時々思うよ」

 おもむろに彼がぽつりと言って、また窓の方へと目を向ける。その様子は彼女の返答を期待していない風だったが、ノーラは友人の顔を見上げながら言葉を返した。

「そうかもしれない。でもそれを言うなら、あなたもたぶんそうだったと思うわ」

「どういう意味だ?」

 彼は不思議そうに訊き返すが、彼女は微笑んだだけでその問いには答えなかった。

 その代わりに首をめぐらせ、窓の向こうに音もなく降る雨を彼女も見やる。

「戦場でも雨が多く降ればいいのに。そうしたらあなたはきっと負けないでしょう? あの試合でも雨はあなたの味方だったんだもの」

 そう言ってノーラは微笑んだ。

 雨が降れば、日光に弱い彼の肌が蝕まれることもない。未だ治療法のない彼女の病気は雨が降っても止まることなく、その名の通り彼女をいずれ白く結晶化した屍にしてしまうけれど。

「シェリアノーラ」

 友人は彼女の名を呼び、無慈悲な白に飲まれかけている瞳をその目にとらえる。

 同じではないが奇しくも二人を似た姿にしてつないだものを――彼女を連れ去るそれを彼は恨めずにいた。

「君がその病を憎むとしても、他でもない今の君が君としてここにいることを私は嬉しく思うよ」

 その言葉に彼女はもう一度微笑み、雨上がりの空に浮かぶ澄んだ月のような声音で応えた。

「あなたがそう言ってくれるなら、私は今の自分にもう不満なんてないわ」

 それきり二人は黙り込み、自分が生きている間に帰ってきて欲しいとも、自分が帰ってくるまで生きていて欲しいとも言うことはなかった。

 ただどちらからともなく腕を伸ばし、手をつないでぼんやりと窓の外を眺める。ガラスの向こうには夜の闇が押し寄せ、冷気をまとった寒々しい風がカタカタと小さく窓を揺らしていたが、彼女が隣にいる限り彼の手が体温を失うことはなく、またその後何十年、何百年と孤独が続こうとも、彼がそのぬくもりを忘れることは決してなかった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

エンリェードが戦争に行った時の話、その後、黄昏の地と呼ばれる死後の世界へ行ったあとの話がシリーズにあります。

もし拙作に興味を持たれた方は、良ければそちらもご覧ください。


屍師シリーズ:https://ncode.syosetu.com/s9938h/

戦中の話:https://ncode.syosetu.com/n0635ji/

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