The Rose Emblem
最初、フライパンの底を頻りに触っていたので手入れでもしているのかと思いましたが、しばらくすると彼女の右手の甲のところが光り始めました。光はフライパンの底にも現れました。
わたしはエレノアに気づかれないようにそっと扉を閉めると喘ぎながら廊下の壁にもたれかかりました。胸に手をやり、驚きで暴れる心臓をなだめます。
なんと言うことでしょう。
あれは魔法の行使です。しかも、その魔法の行使の方法が、彼女がイルシャーリアンであることを示していました。
まさかと思っていたことを唐突に目の前に突きつけられたわたしは激しく動揺しました。
エレノアの右手の甲で光る紋様は薔薇の形をしていました。イルシャーリアンの薔薇の一族と呼ばれる部族のもので間違いないでしょう。なにより驚いたのは遠目でもはっきりと分かるほどの鮮やかな紫色だったことです。それは彼女が王族の血縁である事を意味していました。
絶滅に瀕しているイルシャーリアンの、それも王族の血縁がまさか目の前にいようとは……
最初の目的など頭からすっかり消し飛んでしまいました。この事実にどう対処すれば良いかわからず、なにもせずふらつく足取りで自分の部屋に戻りました。
ゼノ様へ言うべきか、それとも言わざるべきか、その夜はずっとその事ばかりを考えていましたが、思考は堂々巡りを繰り返すばかりで結論は出ませんでした。
そして、次の日。
わたしは通信鏡を使いカディス様と連絡を取ることにしました。
「あれ、クラリスだけか。ゼノはいないのかい?」
カディス様は開口一番そう言われました。
「はい。実はカディス様に折り入って頼みがございまして。ゼノ様にはご内密にです」
「……ほう。ゼノに秘密とは穏やかではないね。
悪いが、主人の承諾もない使用人の依頼を聞くわけにはいかないな、と言いたいところだが、君の事は僕もそれなりに信用しているのでね。内容と理由次第では聞いてあげない事もないよ。
それで、その頼みと言うのはなんだい?」
「エレノアについて調べて欲しいのです」
「エレノアって、あのエレノア伯爵夫人の事かい?」
全ての事情を知っていながらあえてエレノアの事を伯爵夫人と言うカディス様に少し不快の念を抱きましたが、それが声に出ないように、ただ事実を淡々と述べている風に聞こえるように細心の注意をします。
「はい。実は少々怪しいところがありまして。もしかして反乱者たちと内通している等ということが無いと言いきれるのか心配しています」
「反乱者に内通している? ……まさか」
カディス様は一瞬表情を強ばらせましたがすぐに柔らかな笑顔で否定してきました。
勿論わたしも彼女が反乱者達の仲間だとは微塵もおもっておりません。ただの方便です。本当に知りたいのはイルシャーリアンである彼女がなんで辺境伯爵の令嬢に収まっているか、でした。彼女の経歴を調べることでその謎に迫れるのではないかと考えているのです。けれど、そんなことをまともに言えばカディス様が引き受けてくれない可能性が高く、さらにエレノアがイルシャーリアンである事をゼノ様が知ってしまわれる虞がありました。
ゼノ様がもしもエレノアがイルシャーリアンであることを知ってしまわれたなら、自分の呪いを解くためにより一層彼女に近づかれることでしょう。それは断じて避けたい事でした。
「はっきりは分かりませんが、彼女はお屋敷の離れの地下に侵入したのです」
これは事実です。
「地下には魔法の鍵が掛かっていて、ゼノ様とわたししか入れない筈なのに、何故か侵入してきたのです。その方法は謎ですが、そもそも離れに足を運んで来たことが怪しいと思うのです」
これもまた事実です。
何一つ嘘は言っておりません。
勿論、あの女は単なる好奇心根性で離れに来ただけなのでしょう。
そんな事は、日々エレノアの生活態度を見ていれば分かります。なんにでも首を突っ込んでくるお節介さといったら!
……今はそれは置いておきましょう……
とにかくも、そんなことは関係ないのです。
これは事実を断片的に伝えることでカディス様が勝手に誤解をしてくれれば良い、程度の単純な駆け引きでした。
しかし、カディス様はまんまとわたしの術中にはまってくれました。
深刻そうな表情を見せると言いました。
「ふむ。まさかとは思うが、一度来歴を調べて見よう。しかし、なんでゼノに内密にしなくてはならないのだい?」
「それは、はっきりしたことが分かるまではゼノ様にご心配をさせたくないためです」
「……なるほど。まあ、あいつは真面目だから変な情報を持たせると態度に出てしまって相手に気取られる可能性もあるからな。分かった。少し調べて見よう」
「ありがとうございます。宜しくお願いします」
頭を下げるとわたしはカディス様との通信を切りました。




