嘘つき
『世界中の溺れている人は助けれないと言うことが、目の前で溺れている人を助けない理由にはなりません』
この言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
言われるまで思いもつかなかった発想だ。
などと考えていると再びノックの音がして、ドアが勢い良く開け放たれた。
「すみませ~ん。マールの事で話に来ました」
満面の笑顔のエレノア嬢が立っていた。
「はぁ?」
混乱した。
マールの事はさっき話したばかりのはずだ。
結局物別れに終わり、全く納得していなかったからきっとまた何かしら言ってくるとは思っていたが……
いや、早すぎだろう
まだ30分も経っていないのではないだろうか。
知らない間に時間が逆行してまた同じ話が始まったのかと勘ぐってしまった。
「その話はさっき既にしていると思いますが……」
「違うの。さっきの話はマールが看護師になるための勉強をさせて欲しいって話。今度のはマールを病院で働かせて欲しいって話よ」
「だから、マールを病院で働かせる訳にはいかないとも言った筈です。貴女は患者を殺したいのですか?」
「あら、別に病院の仕事は患者の治療や看護ばかりではないわ。床掃除やら食事の用意とかほかにもたくさんあるでしょう」
「つまりそれは……」
一旦言葉を切り、エレノア嬢を見つめる。
彼女の瞳はキラキラと輝き、口許は面白そうと言わんばかりの笑みをたたえていた。総じていうならまるで悪戯の結果をワクワクしながら見守っている悪戯っ子だ。腹が立っと。と
同時に美しかった……
心臓の鼓動が自然と早くなった。
認めようとても魅力的だ。
「マールを病院の住み込みメイドにする、と言うことですか?」
高鳴る心臓を気取れないようにいつもよりゆっくり喋る。ちょっと顔がひきつる感覚がした。奇妙に思われなければ良いのだが……
「違うわ。メイドの仕事もするけど本分はナースの手伝いをすること。それでナースとして必要な知識を学ぶの。見習いのナースって言うのかしら。見習いだけど仕事をするんだから当然それなりの給金も出してもらうわ。
それで経済的な問題を解決する。それがこのアイデアの骨子よ」
エレノア嬢はかなり早口でまくし立ててきた。
自分の感情を抑えきれないようだ。だが説明は練り込まれいて言いたいことは分かる。確かに聞いただけなら良いように思えた。それを反芻して吟味しようと思ったがエレノア嬢は許してくれない。さらに畳み掛けるように喋り続ける。
「ナタリーから聞いたの。
ナースは女性の間では成りたいって思う人が多い人気の職業だけど慢性的な人手不足だって。
その原因のひとつがお医者さんと一緒でナースになるのには手間隙がかかる。つまり、お金がかかるってこと。
だから、都市部の比較的裕福な家庭の子供しかなれない。逆の言い方をすれば、マールのように貧しい家庭の子供たちがナースになれる道を開けば人材を確保できるってことよ。
これがもう一つの課題へと答えよ。
マール一人だけを特別扱いするんじゃないってこと。誰だって公正に機会を与えつつナースの人手不足も解消できるわ」
さらりと聞く限り上手く行きそうな気もしたが、そう言う話こそ慎重に判断しないと後々後悔するものだ。
いとまず保留とすべきだ。軽々しい返答をすべきではない。理性がそう言ってきた。
そんな制度や設備を用意するのにどれ程経費が必要なのか、とかそんなに都合良く人材を集めることができるか、とかやれなさそうな理由を上げて保留にするのは幾らでもできそうだった。
「いいでしょう」
だが、出てきたのは何故だか承諾の言葉であった。
「ほぇ?」
変な声が聞こえてきた。
多分、彼女も私がこんなにあっさり認めるとは思っていなかったのだろう。
「なんですか、その肯定なのか否定なのか良く分からないリアクションは?
なにかご不満なのですか?」
「あ――、いえ、ご不満なんてとんでもない。
あっさり承諾してくれたので、意外すぎて、変な声が出た……、いや、いや、こっちの話」
エレノア嬢はすっかり安心したようなだが、安心するのはまだ早い。承諾したのは大筋のところだけで、その遡上にマールが乗れるかどうかはまた別の問題だ。マール個人に看護師になれる資質を問う必要があった。
「単純に興味深い提案だったからです。それに安心するのはまだ早いです。承諾には条件があります……」
マールに看護師の勉強をさせるかどうかの試験を1週間後に行うことを決めるとエレノア嬢は満足して部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送ると、これから起こるどあろう面倒ごとにため息をついた。
夜の勉強の内容について少し見直しが必要だろう。それに文字の読み書きだけではなく算数も教えなくてはならないだろう。さて、困った。看護師になるのに必要な知識がなんなのか改めてみると良く分からない。時間をつくってナタリー辺りに話を聞くべきかもしれない。
そんなことを考えているとまたまたノックの音がした。
なんだ。また彼女か? 今度はなんのようだ。と思っているとドアが空いた。しかし、入ってきたのはエレノアではなかった。クラリスだった。クラリスが離れから出て本館の私の部屋に来るのは珍しい。もしかしたら初めてではないだろうか。
「なんだ。クラリスか……」
正直少しがっかりしていた。だからそんな言葉がうっかり漏れ出てしまったのだが、クラリスは意に介することもなく無言で部屋に入ってきた。
「なにか用かい? わざわざこちらに出向くとは珍しい」
「なんでお認めになられたのですか?」
クラリスは私の目の前まで来るとようやく口を開いたが、一瞬何の話をしているのか分からなかった。
「幾らでも断る理由があったでしょう。なのに何故奥様の要望を受け入れたのですか」
そう言われてようやく理解できた。
「……その話か。何故と言われても。特に理由はないよ。アイディアを純粋に面白いと思ったからさ」
「本当に?」
本当に……とは?
妙な問いに戸惑う。興味深い提案を為政者として取り上げみた、それ以上でも以下でもありはしない。と、一瞬、エレノア嬢の悪戯ぽい微笑みが頭に浮かんだ。
な、なんだ?!
心の中でエレノアの笑みを振り払う。
「勿論……だとも。為政者として人々がより良い生活が送れる提案を積極的に取り入れようとしているだけさ。
それ以上でも以下でもない。本当さ」
最後に本当さ、と付け加えた時、胸がチクリと痛んだ。
本当なのだろうか。どこかに別の思いがなかったと言えるのだろうか……
「……分かりました」
結構の間をおいてクラリスは答えた。その声を聞いてまた少し胸が痛んだ。
2023/05/20 初稿




