偽善行為
自室で書類を見ている時だった。
ノックの音がした。
「どうぞ」
ドアが開くとエレノア嬢の姿がそこにあった。
「私になにかご用ですか?」
「ごめんなさい。少し相談をしにきました」
これは珍しいこともあるものだ、と思ったが黙っておいた。下手なことを口走るとまたろくなことにならないと思ったからだ。だが、彼女も口をつぐんだまま、一向に口を開こうとしなかった。たっぷり3秒はまっただろうか。その間、入り口に突っ立ったまま部屋に入ろうともしない。
「相談? 一体なにですか」
埒があきそうになかったので、こちらから水をむけた。するとようやくと決意を固めたのかエレノア嬢は部屋に一歩足を踏み入れた。
「マールのことです」
私の方へゆっくりと近づきながら、彼女は言った。
「マールを看護師にさせたいのです」
「なんですか?」
「マールは……、あの子は看護師になりたいと思っています。その夢を叶えさせてあげたいのです。そのためにお願いに上がりました」
「マールはキッチンメイドです。失礼ですが奥様は看護師が高度な技能職だということをご存じですか? 台所仕事を馬鹿にするつもりはありませんが、求められる仕事の精度が違いすぎます。台所でミスをしたとしてもせいぜい鍋を焦がして怒られる程度です。しかし、看護師が間違えれば人が死ぬかも知れないのです。お分かりですか?」
「分かっています。勿論、今すぐというわけではないのです。それなりの勉強と経験を積ませてからの話です」
「つまり、マールを看護師の学校に入れたい、と?」
まったくこの人は何を考えているのだろうか
マールはようやう文字が読めるようになったというところだというのに、看護師の学校で勉強させろ、とは……
それに具体的にどこで学ばせるか、とか、そのための費用をどうするかなど何も考えていないのだろう。まったくこれだからお嬢様育ちというのは性質が悪い。
「その費用はどうするつもりなのです?」
「わたしが出します」
「あなたが? まさか伯爵様の財布をあてにしてますか?」
「してません。
これでもわたしの実家も貴族の端くれですからそのぐらいの費用は出せます」
「はて、その実家は借金まみれで伯爵様の援助を受けていたと思いますが」
「それはそうだけども……」
「彼女の学費だけでは済みませんよ。
稼げるようになるまでの生活費もあります。
それに彼女の仕送りで彼女の家の生計が成り立っていることをご存知ですか?」
まくし立ててみたものの、この辺は実のところ屁理屈でしかない。腐っても伯爵家。子供一人の教育費、いや一世帯程度の生活費が捻出できないことはない。やりたければやればよいのだが……、問題の本質はそこではない。
「それに、何故マールなのですか?」
何故マールだけなのか。それが一番の問題なのだ。
「はい?」
「マールを援助したい。その気持ちは分かります。しかし、マールのような子は他にもたくさんいます。その子たちに対してあなたはどう考えています?
まさか、その子たちも援助しようと考えていますか?
そんなことできませんよね」
「なにがいいたいの?」
「つまり、あなたの考えていることは自己満足の偽善行為だということです。
表面しか見えていない子供の浅知恵、というところでしょうか」
各領の教育制度はその各領の領主に任されている。つまり、伯爵である、私が責任者ということになる。
その責任者としての立場として、エレノア嬢が言ったようなことを考えたことはあった。勿論マール一人ではなく領にいる子供たち全てが対象だった。例えば子供たちに読み書きなどの基礎的な教育を補助をする制度などだ。だが駄目なのだ。設備や人などを対応するのには多額の資金が必要になる。それに農村や町の主要な人々への聞き取りでは不要と言う声が大多数だった。農村でも町でも子供たちは貴重な労働力で、それを教育などという良く分からないものに取られたくない。それが大人たちの本音だった。
故に断念した経緯があった。理念は正しくとも全ての者をあまねく救うことは不可能。それが厳然とした現実だった。
「わたしのやろうとしていることはただのお遊びだと、そう言いたいのですか?」
エレノア嬢の言葉で我に返った。
「そうは言いません。困っている人を助けたい。それは尊い考え方だと思います。ただ、やり方が良いとは言えない、と思うのです」
一人二人は救えても、全てを救うことが出来なければ意味がない。無理に実行すれば、それは不公平という不満を生み、新たな争いや不幸を呼ぶ。それでも強行するとなれば、それは結果として自分の欲望だけを満足させて他者を不幸にするだけの偽善行為だ。
「でも伯爵様も同じようなことをされているではないですか。見ず知らずの子供たちを自分の病院で治療されているでしょう?
それにあなたも協力してるじゃないですか。
それとわたしがしようとすることのなにか違うのです?」
チクリと胸の奥が痛んだ。
あまり触れて欲しくないところへ針を刺されたような気がした。
あの病院はそんな善意で出来たものではない。
ゼルヴォスの移植魔法の術式を実践するための実験場。そして解呪研究のためのカモフラージュでもあった。彼女は知らないだろうがあの病院には重度の呪いを受けた者が数多く入院していた。呪いを解くと言う名目ではあるがその実態は様々な呪いの症例を集め伯爵家にかけられた呪いを解くための手掛かりを見つけようとしていた。高潔な理念も理想もなにもない、100%我欲まみれの代物なのだ。
「ああ、あれですか。あれは自己満足ですらない。もっと俗なものです。
とにかくです、エレノア様のご提案には賛同できかねますね」
これ以上、病院の成り立ちには触れて欲しくなかった。故に強引に話を打ち切りにいった。
「つまり、目の前の些細なことを解決しても物事の本質はなにも変わらない。無意味なことだ。そうおっしゃりたいのですね」
「そうです。ご理解いただけたようですね」
こちらの空気を読んだのかエレノア嬢は肩を落とした。
あきらめてくれたようだ。
酷い言い方ではあったが、諦めて納得してくれたようだ。内心ホッとした。
「いいえ、ちっとも分かりません。
世界中の溺れている人は助けれないと言うことが、目の前で溺れている人を助けない理由にはなりません。喩え自己満足と言われても見えているところ、届くところに手を伸ばさなくてはなにも始まりませんもの。
わたしも賛同いただけないのは残念ですが、それではそれで、勝手にやらせていただきますわ」
エレノア嬢はいつものような啖呵切るとそのまま部屋を出て行った。
またやってしまった、エレノア嬢が出ていったドアをぼんやりと見つめながら思う。
そして、ガツンと頭を殴られたような気がした。
『世界中の溺れている人は助けれないと言うことが、目の前で溺れている人を助けない理由にはなりません』
それは言われるまで思いもつかなかった考え方だった。
この言葉がいつまでも頭の中をぐるぐると回り続けた。
2023/05/13 初稿




