行進する感情
心臓が飛び出るかと思った。
振り返ると一番見られたくない人がそこにいた。エレノア嬢だ。
なんで、こんなところにいるんだ?
と、一瞬驚いた。それから……
どこにでも顔を出すな。この女。そもそも、屋敷を出るなと言いおいた筈なのに、人の言うことを本当に聞かない
と、その態度に少し苛立ちを感じた。そして……
絶対、誤解しているだろうな、これ。さてどうしたものか
と、すぐに冷静に思考を巡らせ始めた。
その間、ほんの瞬き一つ二つぐらいの短い時間のことなのだが、稲妻のような感情のうねりに我ながら驚いた。自分にこんなたくさんの感情をあるなどとは想像もしていなかった。
「これは、これはエレノア様。こんなところで出会うとは意外ですね」
感情の行進の殿を務めたのは億劫であった。怒りのような炎のような熱さもなければ、嫉妬のようなうそ寒いものないぬるま湯のような感情だった。それでいてじめりとした明らかに負の感覚であった。
正直に言おう。こんな感情を感じたのは生まれて初めてであった。これもゼノの呪いの発現なのだろうか、とも思うが確かなことはなにも分からない。とにかく、億劫な気持ちから、生み出された負の感情に苛まれながら、次に続くであろう展開にうんざりした。
とにかくこちらの感情を気取られないように平静を装うに努力したが、ちょっと声が上ずった。それでも言い直すのも不自然なので言葉を続ける。
「一体なにをしているのですか?」
とぼけた会話で押しきりたいところ
「それはこちらのセリフです。
子供に乱暴を許しませんよ!」
ダメだった……
眉をキリリと上げて、本気で怒っているようだ。
軽い目眩、いや既視感か?
また、大騒ぎになりそうだが、もう少し粘ってみよう。例えば、なにを言っているのか分かりません、みたいな雰囲気を醸し出せばいけるか?
「乱暴……?」
少し首をかしげて、目の焦点をぼかして、戸惑った風で呟いてみる。
……どうだろう。
駄目だ。
眉の角度が3°ほど上がった。逆効果だ。ますます怒らせてる。
「奥様、ゼノ様は今治療中なんです」
雷が落ちるかと諦めた時、意外な助け船が現れた。エレノア嬢の横に立っていた女性が弁明をしてくれたのだ。
服装から看護師だと分かる。
ゼルヴォスの記憶によるとナタリーという名前に思い当たった。なんにしてもありがたい。思わず、うん、うんと頷いてしまった。
「ほえ? 治療中?」
今度はエレノア嬢が困惑した表情を見せた。
ナタリーが耳元でなにかを囁いた。
「治療? でも、あの子、嫌がってるじゃないの」
と、エレノア嬢。そこにナタリーが粘り強く説明を続けてくれている。彼女の声は良く聞こえないが、また、エレノア嬢は叫んだ。
「そ、そうなの?」
比較してみると、エレノア嬢がものすごくうるさい……もとい、元気があるのが分かった。色んな意味で規格外の存在なのだ。
「いやはや、思い込み激しいというか、早とちりと言うか。相変わらずですね。あははははは」
止せば良いのに、つい正直な感想が口を出た。とたんにエレノア嬢の顔がみるみる赤くなる。
「ちょっと!
確かに間違えたのは悪かったけど、もっと他の言いか―――」
今回ははすぐに自分の間違いに気づいたようだ。
自分の間違いに気づいてそれを是正できる人間は珍しい。
色々葛藤しながらも実践しているエレノアと言う女性は素直で真っ直ぐな気性なのだだと分かった。
なるほどヘンドリックが贔にするのも分かる。一緒にいると気分が良くなる。早とちりなのが玉に瑕……、いやむしろ
「その辺が可愛いところとも言えるのですがね」
思わず、可愛い等と言う単語が口をついて出てしまったのは自分でも驚きだった。
「か、か、か、可愛い?!」
エレノア嬢の目が飛び出るかと思えるほど大きくかつ真ん丸に見開かされ、顔が熟れすぎたリンゴのように赤くなる。暗闇で見たら光って部屋を照らしてくれそうだ。
自分以上に驚いてくれたのはありがたかった。これで冷静になれた。で、なければ自分の方が照れて狼狽して醜態を晒すところだ。
「なにどさくさに紛れて口説いてるのよ!
こっち一応人妻なのよ! 分かって言ってる?」
あっ、怒った。
しかし、相変わらず言葉の選択が面白い。人妻って……
間違ってはないけど、それを言うのならば貴女は私の妻なのです。
まあ、偽装ではありますけどね。
そう言ったらどんなに反応をするのだろうか。
試してみたい!
そんな、強い衝動をなんとか抑える。
「勿論ですとも。
それより屋敷から出ないでください、とお願いしたと思いますが?」
取り合えず当たり障りのない方向へ話題を持振ってみる。すると、エレノア嬢はすぐに乗ってきた。
「これは食事を運ぶ人手が足りないって言う話だったから仕方なしに来たのよ。仕方なしだからね。それにここも伯爵の病院なら屋敷の敷地内みたいなものでしょ」
うーん、理屈が通っているような通っていないような、微妙な言い訳だった。
外へ出歩きたくなる気持ちは分かる。だが、不用意なことをしてもらうと、思わぬところから偽装結婚がばれる可能性があるし、なにより彼女が危険に晒されるかもしれない。ここは、釘を刺しておくべきだろう。
「はぁ~、料理人の次は御者の真似事ですか?
本当に落ち着きのないお方ですね。
素人が手をだすことが他の人の邪魔になると思わないですか?」
「邪魔ってなによ?! わたしがいつ邪魔をしたっていうの?」
刺さるように敢えて嫌味ぽく言ってみたが、エレノア嬢はとても素直な反応を返してきた。実に可愛らしい。内心、にやけてしまうところを隠しつつ言葉を続ける。
「今、まさに。
奥様との無駄話が私の治療リハビリの邪魔をしているとは思いませんか?」
「分かりました。お邪魔して申し訳ありません。これ以上邪魔しないように退散しますわ」
エレノア嬢は悔しそうに答えると部屋から出ていった。のっしのっし、と足音がしそうだった。
やり過ぎたか……な?
歩き去っていくエレノア嬢の後ろ姿を眺めたまま
少し反省した。
2023/03/11 初稿




