44.尾張統一戦、北畠と志摩地頭十三人衆による志摩沖海戦の事(1)
伊勢湾、平均深度19.5mしかなく、最深部の湾中央でも38mと非常に底が浅い、しかも湾口が狭く盆状になっているので外海との海水交換が少ない上に、木曽三川や新川・庄内川などの川から栄養の豊富な水が流れてくる。
つまり、赤潮が発生する湾なんだよ。
私が三河の民を虐殺したという噂の原因です。
ふふふ、せっかくはじめた海苔の養殖と生け簀の魚を全滅させやがった。
私に苦心を駄目にした報いを受けよ。
と……やってしまったのが、黒潮の引水です。
伊勢湾口のずっと先に湾曲の壁を作り、巨大な海底トンネルを伊勢湾の底に通し、弥富沖、熱田沖、大浜沖、豊橋沖に4つの海底トンネルの出口を作ってやったのです。
黒潮の流れ道に海ドーム状の引水口を作ると、勢いよく流れ込んでくれます。
4カ所の海底トンネルを通って吹き出してくるようになったのです。
ははは、間違って彷徨ってくるカツオを湾内で取れるのは伊勢湾だけだよ。
これで海水が湾を常に循環するようになった。
黒潮の潤沢なミネラルを含む海水が流れ込み、湾の海水は常に外海へと押し出されてゆくからだ。
つまり、赤潮はもう起こらない。
(いいえ、起こります。私は知りませんでした。時として黒潮の流れが変わるのです。流れが変わると押し込む力が弱くなり、伊勢湾沖に黒潮が押し出されなくなることあるのです)
ははは、我が怒りを思い知ったか!
さて、私が何をいいたいのかと言えば、伊勢湾は常に外洋へ、外洋へと潮の流れる湾になってしまったのよ。
風は南東から吹いています。
志摩水軍は湾口に近いという利点を生かし、湾口の風上に陣取っています。
佐治水軍は帆を閉じていても、潮の流れで湾口の方へ流されます。
せめて静かな湾ならばよかったのにね!
停泊して鉄砲の遠距離射撃で威嚇することでもできないのです。
佐治水軍、日の出からピンチでした。
◇◇◇
【 佐脇藤八 】(ナレーション忍)
練習船3・4番艦は暗い内から出島から出航しました。
3番艦に藤八は軍監として乗船しています。
軍監というのは軍を監督する人のことであり、軍師に近い仕事をする者のことです。
一番後方で指示する人です。
練習船3番艦の鵜飼 実為、水野 守次の指揮を見て、いずれは軍の指揮ができる武将に育ってほしいという願いで船に乗せました。
というのが建前で、他の戦場に配置すると先鋒と一緒に飛び出して行きそうな気がしたのよ。
水軍のみなさんは大喜びです。
我らには赤鬼の寵愛を受けた小姓がいる。
この『戦は勝った』と、士気高揚のマスコットボーイとして大切にされています。
海の男は験を担ぎます。
何でも私は山の神(女性神)らしい。(第一章20・21話)
そのご寵愛の男がいれば、負ける訳がない。
なんというこじつけですか!
藤八を死なせるような事があったら、もう水夫の補充とかどうでもいい。
志摩水軍・北畠さんらは太平洋の真ん中にでも転移してあげるよ。
外洋船でない船でどこまで生き残れるか知らないけどね。
運よく、島に辿り着いた人の命までは取らない。
そんな連中とは二度と顔を会わせたくない。
万が一の時の話だ。
沖島で鵜飼、新海、久松、岩川、荒尾、花井、岡部の弁才船(安宅船)2隻、関船20隻、小早180艘が集まった。
(推定乗員数:練習艦2隻180名、弁才船2隻200名、関船20隻1000名、小早180艘2700名、計4080名)
練習船3・4番艦を中心に弁才船、関船、小早と取り囲むように密集陣形を組み、ゆっくり進むと湾口に敵の姿が見えたのよ。
『帆を閉じよ』
鵜飼の指示で船を止めたのです。
「何故、帆を閉じるのですか?」
「鉄砲を生かす為に距離を開けます」
「こちらは風下ですが潮の流れがあるので、このまま中央突破がいいと思うのです」
藤八はどうも慶次の影響を強く受けて、派手な戦い方が好きなようです。
練習艦の攻撃力があれば、中央突破は難しくありません。
慶次が指揮官なら絶対にそうします。
そして、敵の旗艦に移乗攻撃をするに決まっています。
悪い作戦ではありませんが、危険も大きいのです。
鵜飼は危険な作戦を採用しません。
弓の届かない距離から鉄砲で攻撃する方が安全でした。
鉄砲隊が乗っている弁才船、関船、小早が横に三列に並べて敵と睨み合います。
敵の志摩水軍は、北畠を旗頭に志摩地頭十三人衆が弁才船(安宅船)7隻、関船25隻、小早300艘を出していたのです。
(推定乗員数:弁才船7隻700名、関船25隻2500名、小早300艘4800名、計8000名)
『『放て!』』
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
ダダダダダダダダダダダダ~~ン!
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
ダダダダダダダダダダダダ~~ン!
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
ダダダ~~ン!
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
佐治軍の鉄砲隊が一斉に火を拭き、圧倒的な火力を見せ付けます。
敵の攻撃は強弓を扱える者のみです。
意外と数を揃えてきたのは驚きでしたが矢盾に阻まれて織田方に被害がなく、一方的に北畑・志摩連合軍に被害が出ます。
鉄砲の威力は偉大でした。
精強な兵が次々と倒れてゆき、志摩軍は浮き足立ちます。
鉄砲隊の各船に一人2丁の鉄砲を用意して、最初の連続射撃は精神的なダメージを与えたに違いありません。
志摩水軍も鉄砲の威力に驚いたことでしょう。
和弓の中で長弓は非常に優れており、120メートル先を狙った三十三間堂の通し矢で『1分間に9本射た』と記録にあります。
『土佐物語』巻第十三「勝瑞の城没落の事」では、「8町(約870メートル)ばかり沖の船腹を横様に射抜けば、潮が入って沈没し、敵は1人も残らず死んだ。」と書かれています。
少し大げさですが、相当な遠間から射ることができたみたいです。
でも、そんな長弓を扱える強者はわずかです。
一般の鉄砲は飛距離が500~700mです。盾板を抜ける有効射程距離は50~100mと短くなります。
那古野の鉄砲は江戸時代初期の火縄銃くらいの進化を続けています。
現代でも火縄銃を用いた世界大会があるそうですが、江戸時代の火縄銃は現役として使われています。
日本の火縄銃は非常に優秀だそうです。
那古野式の火縄銃はライフリングこそありませんが、まっすぐな溝が掘られ、長い銃身が飛距離800mを実現し、有効射程距離200mです。
長弓には及ばないかもしれませんが、通常の弓は90mくらいしか届きませんから脅威でした。
鵜飼実為は200mくらいまで接近して、盾を貫通させて志摩軍の兵を倒したのです。
鉄砲二丁の釣瓶打ちです。
一方的にやられて志摩水軍は慌て、総崩れしそうになったのですが、持ち直したのです。
誰の指揮でしょう?
船が潮に流されて距離が縮まれば、弓の射程に入ってきます。
弁才船と関船の鉄砲は打ち手と玉入れに分かれて一人の打ち手が4丁の鉄砲を回して連射を続けますが、小早は15~16人程度しか乗っておらず、打ち手と玉入れに分ける意味がないのです。
私は意味があると思うけどね!
小早に乗っている人って、血の気が多いのよ。
どちらかが裏方に回る気がないのね!
銃身が焼けるのを防ぐ為に交互に使っているに過ぎません。
3発目から鉄砲の音がまばらになった事に気が付くものも多かったでしょう。
そして、しばらく我慢の時を終えて、一斉に反撃の矢が放たれたのです。
『放てぇぇ!』
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ!
「拙い!」
「父上、ここままでは拙いです」
「このままでは拙いのです?」
「いいえ、まだ、これからです」
鵜飼は少し渋い顔をしていますが、慌てたようすはありません。
『銛、用意』
練習艦3・4番艦には、銛を発射できる発射台が腹部に4機設置してあったのです。
『放て!』
ズド~~ン!
くじらを狩る強力な武器です。
こちらも有効射程が弓並に短いことが欠点ですが、弓が届くということは銛も届きます。
ズゴォ!
銛が命中した小早は床を突き破ります。
後は穴が空いて浸水が始まり、あっという間に沈没するしかありません。
但し、命中すればです。
5発発射して、命中は1発でした。
練習船4番艦は位置が少し幸いします。
射線上に関船がいました。
的が大きければ、外すこともありません。
3発が命中し、横穴があいた関船はまもなく沈没するでしょう。
これを見て慌てたのは北畠軍です。
弁才船と関船を多く貸し出しているのは北畠だからです。
(正確には、北畠が借りた船です)
すぐさま、織田南蛮船(練習船)から距離を取るように指示が出されます。
「織田南蛮船は小早に任せろ! 我らは他の船を狙え!」
横に三列に広がった前衛に、敵は左右に開いて包み込むように迫ってきます。
矢の数がさらに増えてゆきます。
誰の指揮か知りませんが的確な指示で佐治水軍は苦境に立たされたのです。
鵜飼 実為、息子の福元が戦況の不味さを感じたときには、半包囲が完成していたのです。
鉄砲の威力に驚いて距離を開けると思っていたので、逆に包囲殲滅されるなど想定外でした。
敵大将が馬鹿なのか、優れて豪胆なのかのどちらかです。
ここで藤八が位置取りのおかしさに気づきました。
「おかしいのです。どうして、向こうの船は潮の流れに影響しないのです?」
「佐脇様、敵が陣取っているのが湾口だからです」
「湾口では船は流されないのです?」
「今日は東南の風が吹いております。外海から風で潮が押し寄せ! 丁度、この辺りで重なります。どちらにも流されない最高の漁場となっております」
「判ったのです」
鵜飼の誤算は湾に流れる潮の流れが予想より速かったことです。
弓の射程外から鉄砲で攻撃し、敵を疲弊させてから後続の突撃部隊を突っ込ませて殲滅するつもりだったのですが、完全に裏目に出ました。
敵は引くように見せて、後方が横に広がっていたのです。
佐治水軍は潮に流されて、開いた口の中に自分から飛び込んだようなものです。
そして、湾口に飛び込んだ佐治水軍も停泊し、後続の船が次々と流れてきて密集度が上がってゆくのです。
「後続の船の距離が縮まって、いい的にされているのです」
「申し訳ない。私の失態です」
「失敗を反省するのは後なのです」
「はぁ」
敵は練習船の周りに小早が集まり、他の弁才船、関船に敵の弁才船、関船が当たるという徹底ぶりを見せてきます。
味方の突撃隊は鉄砲隊が前を防いでいるので真価を発揮できません。
左右の小競り合いに終始して、死兵と化しています。
このままでは包囲殲滅されるのを待つだけでした。
鉄砲は完全に弓の連射性で負けています。
敵の兵力は単純に倍であり、佐治水軍は袋叩き状態です。
実為も弓と鉄砲の撃ち合いが、これほど鉄砲に不利と思ってもいませんでした。
鉄砲の威力を過信し過ぎたみたいね!
「父上、ここは一度引いて体制を整えるべきです」
「それしかないか!」
「それは無理なのです」
「佐脇様、それはどうしてですか?」
「それは荒尾のじいさんが迂回をして敵の左翼に横槍を入れようとしているからなのです」
荒尾衆で構成される小早20隻が無防備な敵の横から魚鱗の陣形で突っ込みを掛けようとしていました。
完全な独断専行です。
こうなると予想していたのか?
荒尾のじいさんは後ろから迂回して、敵に横腹に痛い一撃をぶつけるようです。
包囲せんと広がる敵の外側が薄くなります。
横槍を入れるのは有効な戦法です。
ここで本隊が引けば、彼らを見殺しにすることになってしまいます。
荒尾衆はスピードを落とさずに突撃を敢行します。
敵は前と横から攻撃を受けて、敵左翼の前衛が混乱します。
見事な横槍が敵の左翼前衛を潰してくれたのです。
「お見事なのです」
荒尾衆がこのまま前進すると、敵中央の分厚い壁を通過することになります。
足を止めれば、その場で全方位から攻撃を受けて終わってしまうのです。
荒尾のじいさんはそれを承知で一撃離脱ではなく、突撃を敢行します。
「敵を食い破れ!」
敵中央には弁才船、関船が待っており、荒尾衆はどうするつもりなのでしょう?
否ぁ、荒尾 空善は練習船4番艦に乗る荒尾 善次にすべてを託し、ここで華々しく散るつもりなのです。
「進め! 周りは敵だらけだ。狙う必要もない。弓は撃て、槍は突け、櫂は漕ぎ続けろ! 一人でも多く殺せ!」
「「「「うおおおおおぉぉぉぉぉぉ」」」」
「若様を逃がせ!」
「「「「うおおおおおぉぉぉぉぉぉ」」」」
「根性をみせてみろ!」
「「「「うおおおおおぉぉぉぉぉぉ」」」」
やたらと元気のいい一団です。
敵左翼前衛を完全に崩しました。
つまり、逃げ道を作ったのです。
「抜け出すぞ」
「それは駄目なのです」
「佐脇様、ここで抜け出さねば、小太郎殿が無駄死にとなります」
「見捨てるなど、もっての他なのです」
藤八が実為をまっすぐに見つめます。
まっすぐ過ぎる瞳に、実為が笑みを零してしまいます。
「鵜飼船長、法螺を鳴らすのです。信号旗は我に続け!」
「法螺を鳴らせ!」
「中央から突撃して、そのまま右に抜けます」
「なるほど、それならば敵の中央が崩れて、荒尾衆が抜けてくることができなすな!」
「そういうことなのです」
「帆一杯、進め!」
突然に白い帆が開かれて、一斉になびき、向かい風を受けた練習船が風上へと、ぎしぎしと船を動き出すのです。
練習船の全長は52・16m、小早はばらつきがありますが全長11.10mです。
風の力で進む練習船は、小早を無視して進むことができます。
そうです。
象が馬を押しのけて進むようなものです。
『乗り移れ』
敵中に突撃した練習艦は味方を後方に引き連れて、周りは敵だらけになりました。
敵の声が甲板まで聞こえてきます。
「ふっ、味方が回りにいなければ、やりたい放題なのです。焙烙玉を放つのです」
火を付けて時間を数えると、船の外へ放り投げます。
ズド、ドドドドドォ!
10発ほどの焙烙玉が練習船の周りで爆裂します。
もちろん、一発で終わりません。
ありったけの焙烙玉が船外へ放り出されてゆきます。
小早に乗っている敵の兵も慌てます。
というか、逃げる以外の手段がありません。
「もっと遠くに放り投げるのです」
「狙う必要はない。とにかく投げ込め!」
敵は交通渋滞を起こしながら引いてゆきます。
そこに練習船4番艦も3番艦に続きます。
2隻が開けた道に他の佐治水軍の船が押し寄せてゆきます。
「斜め前、関船に銛撃て!」
ズドォ!
「無駄弾はいらないのです。大きい船は横腹を狙うだけなのです」
『各自の判断に任せる。撃ちまくれ!』
鵜飼船長が好きにしていいと言うのです。
ズドン、ズドン、ズドン!
間髪を入れずに、炮烙玉を放り投げていますので爆発音を途絶えません。
こうなると小早も逃げ出して、勝手に道を開けてくれます。
射程内に入ってくる弁才船・関船も狙います。
弁才船・関船も逃げ出すので、さらに混乱が混乱を呼びます。
「敵は何を考えておる!」
敵の罵倒が聞こえてきそうです。
帆船という利点と圧倒的な火力を持っているからできる無茶でした。
慌てて、敵の弁才船・関船が一斉に左に避けてゆき始めます。
「こちらも右に転舵なのです」
敵が左右二つに大きく割れました。
「あっ、いけないのです。ちょっと行ってくるのです」
「佐脇様、どうされました」
「進路このまま、風上に向かうのですよ」
「それは承知しています」
そういうと藤八は槍を片手に甲板から飛び出していってしまったのです。
ここまで読んで頂いてありがとうございます。
◇◇◇
※).知多の木田城主、
〇荒尾小太郎空善
荒尾 空善は、荒尾氏は鎌倉の御家人の出です。尾張国知多郡にある荒尾郷で荒尾氏を名乗ります。荒尾小太郎空善は知多郡木田城主であり、今川氏の尾張侵入によって戦死し、知多郡大野城主佐治為貞の子善次が空善の婿となって荒尾氏を継承したと伝わります。
ちょっと待って下さい。
荒尾 善次は、作品の中では大永8年、享禄元年(1528年)としていますが、資料には永正5年(1508年)の記述がみられます。弘治元年(1555年)に今川義元が尾張への侵攻を開始し、同三年には知多の諸将らは今川氏の軍門に降ったとあります。
仮に永正5年(1508年)が正しかったとしますと、佐治為貞は永正5年(1508年)時点で13歳以上でないと拙い事になります。
つまり、佐治為貞は明応4年(1495年)以前に生まれたことになります。
その弟にあたる佐治 信方は天文22年(1553年)生まれと言われます。
佐治為貞が58歳以上で生まれた子供です。
そして、佐治家では、永正5年(1508年)から天文22年(1553年)の45年間の間も男子が誕生しなかったのか、誕生してもすべて死んでいた事になります。
だからと言って、荒尾善次の生誕を疑う事もできません。
天文時代から今川が尾張に侵攻を開始した訳です。
天文年間に荒尾小太郎空善は死亡した事になるのです。
おかしいのは善次の生誕が永正5年(1508年)という記述です。
永正5年が空善の生誕であれば、すっきりするのです。
(作中では、この推測を採用しております。)
〇佐治四郎為景
佐治四郎為景はお犬の方を妻に娶った佐治 信方に父と有名であり、生誕は定かではありません。
お犬の方はお市の方(天文16年(1547年))の妹と言われ、信秀晩年の子であり、天文18年か、天文19年の産まれと思われます。(少なくとも16年以降)
佐治家は駿河守宗貞が近江の国から尾張知多分郡守護の一色氏に従って移住したと伝わります。
一色満範(在歴:1392年-1409年)
一色義貫(在歴:1409年-1440年)
大野城は観応元年(1350年)知多半島に勢力を伸ばした三河国守護職の一色五郎範光が築城し、佐治宗貞は一色氏の家臣から台頭し、主家の内紛に乗じて大野城を奪って3万石を領した。
駿河守宗貞のあと、上野守為貞(為景とも)、八郎信方(為興とも)、与九郎一成と続いてゆきます。
系図を見ますと、
為綱―為勝―為次―為平―為興
為綱:伊佐野上野守 住尾張大野
為勝:???
為次:対馬守
為平:左馬允
為興:佐治八郎信方
為興が信方ですから、4代前に大野城を横領した駿河守宗貞が為綱なのではないでしょうか?
よく判りませんね。
初代 佐治駿河守宗貞 享禄3年(1530年)没とありますから、佐治 為景の生誕はそれより前になります。二代の佐治上野守為貞は弘治2年(1556年)没と残されております。
系図の為勝が存在するとするなら、為勝が幼少ゆえに後見役として入ったのでしょうか?
知多にはまだまだ研究の余地が残されております。




