42.尾張統一戦、稲生の戦いの事(2)
【 織田信安 】(ナレーション忍)
織田 信安(※)の祖父は敏信であり、敏信は織田大和守敏定の嫡男です。
信長ちゃんの祖父である織田信定と謀って、衰退した岩倉織田伊勢守に押し込んだのです。
父が亡くなると家督は信安が継ぐことになったのですが、まだ幼い信安に信秀が乗り出し、弟である織田 信康を犬山城に入れて、信安の後見役となることで騒ぎを治めました。
信安にとって弾正忠家は恩人の家であり、逆らいたいなどと思っていません。
信長ちゃんとは猿楽などを楽しんだ仲だそうだしね!
嫌いな訳ない。
岩倉伊勢守が安泰なのは、弾正忠家の後ろ盾あっての事であったのよ。
しかし、弾正忠家の急激な拡大は今川家や斉藤家の反発を招き、伊勢守家も弾正忠家に飲み込まれるという噂が立ち、家老達が騒ぎ出し、果ては犬山城の織田 信清も弾正忠家打倒を言い出すともう家臣団を止めることができなくなった。
天文15年9月25日、信安は三国と申し合わせた日時に陣触れを出しました。
その日、逢魔時に那古野の城主代行の信勝より一通の書状が届きます。
「逢魔時に来る使者とはな!?」
逢魔時は昼でなければ、夜でもない、まどろみの時間帯です。
魑魅魍魎が徘徊する時間です。
地獄の門を開きにきたのか?
『明日、9月26日、巳の刻を持って、稲生ノ原で雌雄を決したき候』
本当の地獄の門が開かれたようです。
最も難関と思われていた土岐川(庄内川)の渡河が簡単にできると喜びますが、一部の武将から騙し討ちの可能性が出されます。
「油断している所を強襲されれば、一溜りもありませんぞ」
「然れど、土岐川を挟んで対峙すれば、我らの不利は必定ですぞ」
「清州はすでに前田家を調略し終えたと申しておった。明日の昼には那古野城に攻め掛かると豪語しておったわ」
「返答は如何致しましょう」
俺に聞くな!
家臣団が勝手に始めた戦です。
自分達で決めてくれという感じです。
しかし、家臣達がじっと信安の言葉を待ちます。
「那古野の思惑は何であるか?」
「よろしいか」
「但馬守は戦に反対でなかったか」
「今も反対でございます」
但馬守、山内 盛豊は家老の一人で開戦に反対し、中立が無理だというならば、那古野に同盟を申し込んで助力を得るべきだと言っていました。
那古野と同盟など結べば、三カ国に獲り潰されると袋叩きになっていましたが持論は変えていません。
「よい、申せ!」
「那古野の思惑は岩倉軍と清州軍を同時に相手したくないという事です」
「当然であろう!」
「いいえ、那古野には5万以上の人夫を抱えております。兵にすれば、2万以上を用意できます。我々と互角以上の兵力を持っているとお考え下さい」
「2万じゃと!」
「那古野の狙いは、朝方に我らを下し、昼以降に清州軍を叩く。各個撃破を狙っていると思われます」
2万以上という数字に今更驚いています。
少し那古野の城下町を見にゆけば、判るだろうと山内は呆れ顔です。
今更、動揺が走ります。
勝ち戦と思っていたら、ちゃぶ台をひっくり返された気分でしょう。
「そんなことは杞憂だ。俺が見てきた所、女・子供が多かった。武器をロクに持てない連中だったぜ。あれは使えん。使える兵は3,000だ。もしかすると、2,000くらいかもしれん。気にすることはない」
犬山城の織田 信清が山内の意見を完全否定します。
「おぉ、そうか!」
「大丈夫そうじゃ!」
「十郎左衛門様が見てきたなら間違いない」
しばらく、信清と山内が互い意見をぶつけあいます。
山内が判らないのは、どうして岩倉と那古野を戦わせたいのかということです。
信清の思惑が読めません。
岩倉と争って、困るのは弾正忠家です。
弾正忠家に近い信清が、何故?
「ここは敵を引き付け、川沿いに兵を配置して、林の居城を討って、相手の出方を見るのが最良です」
「手緩い。清州に手柄を全部持っていかれるぞ」
「我が岩倉が残れば、それで上々でしょう」
「那古野に利する行為ですな!」
「負けぬ戦いが肝要です」
「弾正忠家と内応していたと疑われて、三国に攻められかねない」
「そんなことはあり得ない」
「那古野の宝を清州で全部くれてやるつもりか?」
岩倉の武将達は手柄が欲しかった。
女も金銀、永楽銭、様々な宝も欲しかった。
「那古野には『天上の酒』も眠っているかもしれん」
「「「おおおぉぉぉぉ!」」」
みんな、那古野にある金銀財宝と手柄が欲しかった。
悲しい生き物ですね。
那古野での決戦に乗ることが決まった。
先発隊が4,000人、その内、200人が街道の確保に残り、犬山城などから後詰めの1,000人を集める。
先発隊は今夜中に出発し、明け方までに渡河を終わる。
先発した本隊が那古野の兵を討ち破った所で、後詰めは林家の居城を襲う。
もしも決戦に負けた場合は本体の援軍に向かうと決まった。
鬼が出るか、蛇がでるか、行ってみないと判らない。
信安は憂鬱な気分でした。
◇◇◇
約定通り、渡河を終了し、陣立てを終えて対峙します。
やっと口上合戦が終わりました。
鏑矢を交換して戦がはじまります。
うおおおおぅぅぅぅ!
那古野軍3,000兵に対して、岩倉軍3,800兵がぶつかります。
岩倉軍は本陣に200兵を残し、前衛を3つに割って左斜めに並べてきました。
所謂、雁行の陣形です。
初手は林のおっさんが預かる兵は自らの与力と傭兵と加世者で構成される混成部隊です。
弓矢を撃ち合うと、足軽が互いに出てぶつかってゆきます。
古典的な戦いのはじまりです。
林のおっさんの兵は700人の予定でしたが、林の与力衆が青山・内藤の下に付くのを嫌ったのです。
結局、右翼に回りまします。
右翼1,000人に増え、青山・内藤が400人に減ったので、本陣の信勝から200人を回しました。
千代女ちゃん、前衛と後衛のみ決めて、後は林、青山・内藤に委ねたのよ。
で、予想通りの配分にありました。
右翼の林隊1000人、秀吉黒鍬衆500人、中央の信勝本隊400人、弥助黒鍬衆500人、左翼の青山・内藤隊600人という鶴翼の陣形になっています。
結果論ですが、敵左翼1,200兵と味方右翼1,000兵が互角の戦いをしています。
「双方、互角でございますな!」
「長門、互角では拙いぞ」
「そうでございますな。後退して鉄砲隊を巧く利用してくれればいいのですが…………!」
無理でしょうね!
こちらの傭兵が敵を食い破っていますが、こちらも一部が食い破られています。
双方、食い破られた所に援軍を送って戦線を維持するのです。
しかし、時間と共に敵の中央が突出し、林のおっさんの左手から襲ってきました。
左手から瓦解がはじまります。
林のおっさん、すぐに撤収を開始します。
『銅鑼を鳴らせ!』
太鼓の音が進め、銅鑼の音が後退の合図です。
ジャン、ジャン、ジャン、音を聞いた味方がゆっくりと後退を開始します。
もちろん、全員が一斉に引く訳ではありません。
そんなことをすれば、全軍が瓦解します。
引く味方に襲い掛かる敵、その敵に横槍の一撃離脱を噛ます遊撃が陣中を忙しく駆け廻るのです。
「糞ぉ、数が多すぎる。これでは引く前に瓦解するぞ!」
「口を回る暇があれば、足を回せ!」
「愚痴くらい言わせろ!」
戦は前に進むより、後に下がる方が難しいのです。
うおおおおぅぅぅ!
敵中央隊に横槍が入ります。
ナイスタイミング、青山・内藤のじいさん達もやるじゃん!
あぁぁぁぁ…………そう思ったのもつかの間です。
「数が圧倒的に少ないのに中央突破なんてできる訳ないでしょう。あそこは一撃離脱でしょう」
「そうですな! ただ、単に統率ができていないだけでしょう」
「もっと最悪よ」
「忍様、大丈夫です。青山も内藤も歴戦を生き残った強者です」
「そう、見えないのよ」
左翼の青山・内藤が本来の持ち場を離れて中央へ突撃し、敵中央の横腹を潰します。
しかし、同時に敵の右翼の横を晒しているのです。
その弱点を見過ごしてくれるほど敵が甘い訳もありません。
倍の兵を持つ敵が一瞬で青山・内藤隊を呑み込んで隊が瓦解したのです。
総崩れです。
「あちゃ、やっぱりそうなった!」
「流石、逃げの内藤様です」
「何ぃ、その『逃げの内藤』って?」
「軍が崩れると、一目散に逃げることから、その異名が付きました。内藤様と同じように動けば、必ず生き残れると家中の者が申しております」
なんじゃ、そりゃ?
でも、何となく判った。
内藤が逃げ出すとみんなも逃げ出した。
回れ右が速過ぎる。
完全に青山のじいさんが取り残された。
「青山様は逃げる狼狽の演技の巧みさより、『釣りの青山』と呼ばれています」
「嫌ぁ、あれは完全に怖がっているよ。演技じゃないよ」
泣き顔に鼻水を垂らして、必死な形相で抵抗して逃げています。
馬も投げ捨てての逃走です。
右へ、左へ、とにかく逃げます。
「中央へ逃げると正面にも敵の左翼が待っているぞ!」
「そうでもないようですな! 3部隊が中央に集まって行き足が緩みましたぞ」
あぁ、確かに!
交通渋滞だ。
青山隊はおのおのが右往左往に逃げているだけです。
「青山様の逃げは芸を極めていると大殿が申されています。青山様を追う敵は、他を忘れて夢中になり、その隙を突いて敵本隊の強襲を加えるのが容易になるそうです」
「囮部隊に向いているってこと?」
「そうみたいですな! 巧い具合に中央の信勝様の正面に集まって来ております」
本当だ!
青山の部隊の人って、みんな天然さん?
どんな軍師でも、この潰走を演出できないわ。
「もしかして、林の与力衆が青山や内藤と一緒に戦いたがらないのは、囮専門部隊だから?」
「はっきりとは申せませんが、力自慢の武将は青山や内藤と組みたがりませんな。そういった武将は林様か、平手様の下に行きたがります。特に林様の与力方はそうです。武勲を立てたい者は林様の下で戦うことが一番でしょう」
確かに、平手のじいさんは武闘派ではない。
豪の林、智の平手、天然の青山・内藤ですか?
青山を追うのに夢中になった敵右翼が、弥助隊の前に警戒することなく、身を晒します。
ダダダダダダダァ~~~~~ン!
300丁の鉄砲が一斉に火を拭き、ばたばたと人が倒れます。
「慌てるな! 鉄砲は連射できん」
ダダダダダダダァ~~~~~ン!
撃ち終わった鉄砲を新しい鉄砲に持ち替えて、再び、次弾が放たれます。
ダダダダダダダァ~~~~~ン!
一人に5丁を持させています。
撃ち終わった鉄砲は回収し、織田式早合弾が補充されて、元の場所へ戻されてゆきます。
ダダダダダダダァ~~~~~ン!
信長ちゃんが、武田と『長篠の戦い』で新戦法の「三段撃ち」を試したと伝わりますが、あれは嘘です。
三段撃ちは新戦法ではありません。
数丁の鉄砲を回して撃つのは、別に信長ちゃんが考える前に他でもやられていました。
ただ、馬鹿高い鉄砲を大量に用意するのが普通は出来なかっただけです。
ダダダダダダダァ~~~~~ン!
ダダダダダダダァ~~~~~ン!
おっと、藤吉郎の方も援護射撃がはじまった。
林隊を追っていた敵左翼は味方が次々と倒れたのを見て、すぐに追撃を中止します。
青山を追い駆けていた敵左翼は隊が横に伸びてしまって、組織的な後退ができないようです。
頭に血が上った小隊が弥助の陣に近づこうとしますが、それこそ鉄砲の餌食です。
敵左翼が組織的に四方から攻めれば300丁の鉄砲だけで防げませんが、少数の突撃では鉄砲のいいデモンストレーションです。
敵左翼の足が止まり、じわりじわりと後退を開始します。
「藤吉郎はできる気がしていたけど、弥助も凄いわね。ちゃんと一軍を扱えているじゃない」
「弥助には瓢 八瀬を護衛に付けております。おそらく、彼女が指揮を取っているのでしょう」
八瀬ちゃんならできそうね!
塵尻に逃げていた青山の武将達が中央に集まって必死に逃げてきます。
追って来ているのは、敵中央の部隊のみでなっています。
鉄砲の音が一時的に止んでいるのです。
藤吉郎が赤と白の旗を振ります。
八瀬ちゃんも赤と白の旗を振らせます。
そして、青山の最後尾がセーフティーラインを超えた瞬間に左右から銃弾が撃ち放たれたのです。
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
鉄砲5丁の釣瓶打ちです。
左右から大きな鉄砲の音が聞こえる度に仲間がドサっと倒れます。
ぱぁ~~~~ん!
透き通った破裂音が2つ響きます。
『だんちゃ~~~~~~~~~~~~~~~~く、いま!』
ズド~~~ン!
ズド~~~ン!
信長ちゃん考案の迫撃(花火)砲です。
炮烙玉をベースにした花火玉が着弾する直前に爆発させる『なんちゃって迫撃砲』です。
この迫撃砲の恐ろしい所は後方を直接に襲うことです。
空中で爆発すると広範囲の敵にダメージを負わせることができます。
ぶひぃぃぃぃぃん!
馬は怖がり屋です。
激し音と破片に襲われた馬が暴れ、乗っている武将は馬から振り落とされる者が続出するのです。
敵前衛の足が止まります。
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
とりあえず、3発だけ補充した鉄砲隊が再び、銃撃を放ち、銃撃が止むと、迫撃砲が後背を襲う。
「今です。下知を」
『皆の者、掛かれ!』
信勝の護衛をしていた百地 三太夫が声を掛け、信勝が突撃の合図を出します。
待っていましたと柴田勝家と前田利家が突撃を敢行します。
通り過ぎる青山を横目に、足軽200兵が敵に迫ります。
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
「「放て!」」
ダダダダダダダァ、ダダダダダダダァ~~~~~ン!
勝家と利家が敵に接近するまで援護射撃が続きます。
足が止まり、指揮者が混乱している敵など、勝家と利家の前に蹂躙されるだけの運命だったのです。
「引け、引け!」
勝家と利家に遅れること、ホンのわずか!
最初に逃げた内藤が部隊を再編して追撃に加わります。
林の隊も「遅れるな!」と突出します。
敵中央の部隊を三方からタコ殴りです。
敵の援軍が迫った所で、林が後退の銅鑼を鳴らしたので、勝家と利家、内藤も兵を引いて開始線に戻っていったのです。
お互いに200人程度の命を奪い合う大混戦でした。
まぁ、那古野の被害はほとんどが青山隊でした!
他の部隊はそれほどの被害もなく、十分にやれるという手応えを掴みます。
士気が上がっていました。
◇◇◇
【 織田信安 】(ナレーション忍)
岩倉の鉄砲という新兵器をどう対応するかで、士気がダダ落ちです。
本陣の信安の元に皆が集まります。
「誰か、何か案を言え!」
皆、唸るばかりです。
「大炊助(稲田貞祐)、何か申さぬか! そなたが願った戦であろう」
「申し訳ございません」
「但馬守、何か策はないか?」
「鉄砲のみならば盾を二重に持たせて、三方から攻撃すれば何とかなると思いますが、大筒が厄介です。空から降ってくるのでは、防ぐ手立てがございません。指揮する者を狙われて、戦になりませぬ」
「本当に何もないのか?」
「消極的ですが、敵が攻めてくるのを待てば、鉄砲も大筒も使い道はなく、清州軍の到着を待って、挟撃する以外の手はございません」
「そうであるか」
「よき策が浮かばず、申し訳ございません」
「あいわかった。この名塚を守りつつ清州軍の到着を待つ」
「「「ははぁ」」」
「守りを固めよ。決して深追いをするではない」
「「「畏まりました」」」
信安が武将達に指示を飛ばします。
「清州に使者を送り、清州軍の到着時刻を確認されるのがよろしいかと」
「そうであるな。但馬守、その使者を送れ!」
「畏まりました」
那古野の陣形が鶴翼なのか?
戦略が守勢に重きを置いていることに疑問を感じなかったみたいね!
千代女ちゃんが放った三本目の矢に、信安も但馬守(山内 盛豊)も気づいていなかった。
千代女ちゃんは怖い子だよ。
※).織田 信安の検証
(何度でも当惑しています。)
信安の父は織田敏信、あるいは織田敏定とされます。
岩倉織田敏広:死没、文明13年(1481年)3月。
岩倉織田寛広:永正元年(1504年)以降、文献から途絶える。
岩倉織田広高:天文6年(1537年)頃まで。
織田敏信:織田大和守敏定の嫡男、死没、永正14年1月26日(1517年2月16日)?
清州織田敏定:死没、明応4年7月5日(1495年7月26日)
織田敏信が死没した年(永正14年)に信安が生まれたと仮定します。
織田信安:0歳。
織田信秀:生誕、6歳〔9歳〕、永正8年(1511年)〔永正5年(1508年)説〕
織田信康:生誕、5歳〔8歳〕以下、信秀の弟(生誕は不明)
岩倉織田広高が天文6年(1537年)頃まで健在だと仮定します。
信安が敏信の子と仮定すると、天文6年の時点で信安は20歳です。
天文6年の時点で信秀は26歳〔29歳〕、信康は25歳〔28歳〕以下です。
信安は織田弾正忠家当主・織田信秀の弟で犬山城主・織田信康の補佐を受けた?
信秀・信康の補佐を受けて、敏広の実子広高を追い落とし、織田大和守家出身とされる織田信安が岩倉織田伊勢守に納まったと訳せます。
おぉ、まとまった。
いいえ、そうは問屋が卸しません。
そうは巧くいかないのです。
☆信安の子である津田 正盛は天正11年(1583年)に生まれています。
正盛は信安66歳の子供となります。
(これはかなり苦しいのではないでしょうか?)
信安の享年74歳〔天正19年(1591年)10月24日〕、享年97歳〔慶長19年(1614年)〕または享年94歳〔慶長16年(1611年)11月27日〕に没したとする説があります。
不可能ではありませんが、長生きし過ぎですね。
(90歳代は息子達の没年じゃないでしょうか?)
いずれにしろ、どうやら10~15年の誤差があるように思えます。
可能性としては、
1.織田敏信の死没が20年間違っており、父が死んだ時は10歳くらいだった?
2.織田敏信の子ではなく、孫であった。
3.織田広高の子だが、敏信の子とした。
4.織田広高は岩倉織田寛広の子ではなく、織田敏信の子であり、寛広の養子に出されていた。
私の見解では、4番ではないかと思うのです。
明応5年(1496年)に斎藤氏の後ろ盾を失い織田伊勢守家は、尾張守護の斯波義達がいたので辛うじて存続して行けました。
しかし、永正12年(1515年)8月に今川との戦いに敗れて没落します。
岩倉織田寛広は永正元年(1504年)以降の文献から途絶えています。
可能性の1つとして、岩倉織田寛広は斯波義達と一緒に遠江へ出陣し、その武功で伊勢守家への復興に掛けていたのではないでしょうか?
出陣前に大和守家の織田達定が義達に処分されています。
遠江で武功を上げれば、尾張国上四郡・尾張国下四郡を束ねた尾張守護代になれる可能性もあった訳です。
あるいは遠江守護代という可能性もあります。
しかし、戦いは大敗でした。
永正13年(1516年)頃、義達は諱を『義敦』と改め、家督を義統に譲らされます。
織田寛広も失意の中で没落し、そのどさくさに紛れて、三奉行の一人の織田弾正忠家、勝幡城主である織田信定によって織田大和守敏信の子であるの広高を、織田伊勢守寛広の養子として押し込んだのではないでしょうか?
つまり、大和守から伊勢守に移ったのは信安ではなく、広高であった。
また、広高は信安の父であり、天文6年頃に亡くなり、10歳くらいの信安の後見役として、信康(25歳くらい)が犬山城に入った。
時系列を見ると、これが一番しっくりするのです。
新しい文献が見つかるといいですね!