27.竹千代がやってきたの事。
ぱくぱく、がつがつと餃子と飯を豪快に食べる孫(信光)さん。
「那古野は飯まで美味い。おかわり」
「ご飯も美味しいなのです」
「おかわりです」
「負けられないのです」
「信長様も負けてはいけないです」
「判っておる」
「ゆっくり噛んで食べなさい」
「申し訳ございません」
「は~いなのです」
「は~い」
「忍って、お母さんなのね!」
違うわい。
慶次様と宗厳様も割と食べるのが早い。
孫(信光)さんが来ると、どうしても早食い競争が発生する。
それに触発されて、信長ちゃん、藤八、弥三郎も競争に参加する。
早食いは戦国の習わしの1つかもしれないけど、認めないぞ!
まぁ、慶次様と宗厳様と孫(信光)さんはどんぶりを使用しているが、信長ちゃん、藤八、弥三郎は茶碗なので同じ量を食べている訳ではない。
でも、藤八は信長ちゃんの3倍速だ。
どこに入るの?
今日の添え物は『八宝菜』だ。
八宝菜をどんぶりの上に掛けて、八宝菜丼にして食べている。
「箸が止まらん」
「いい加減、話を始めたら!」
「仕方ない」
孫(信光)さん、ペースを落として話をはじめた。
◇◇◇
事のはじまりは本證寺の第十代住職の空誓らしい。
あの騒動の後にあの辺りの開墾をやってあげたよ。
後は信広さんの『織田普請』に任せたきりで行っていない。
麻や綿の苗を植える事業は順調だと聞いている。
「確かに普請は巧く行っておる」
「持って回った言い方ね」
「うむ、本證寺周辺の稲は枯れ! 本證寺の境内の松などがすべて枯れたのだ」
あっ、塩害だ。
海水に大量の塩を混ぜた高濃度の塩水が植物を枯れさせた。
回収するの忘れていたわ!
「何か思い当たったみたいね」
「千代女ちゃん、私が悪いみたいに言わないで欲しいな」
「でも、忍よね」
「私のせいじゃないわよ。ちょっと忘れていただけだからさ!」
「何を忘れたのやら?」
枯れる木を見て、空誓は赤鬼様が怒ってらっしゃると思ったらしい。
矢作川を渡った岡崎の勝鬘寺、上宮寺に働き掛け、岡崎周辺の城主などに寝返るように動きをかけた。
その調略は岡崎城の松平 広忠にも及んだ。
すでに岡崎城の家老の半分が織田に寝返っていいと言っているらしい。
空誓、がんばったね!
さらに、その魔手は東三河、遠江、駿河の寺々まで及んでいる。
東に行くほど、禅宗や日蓮宗が強くなるので、三河ほどの影響力はないが、地味な嫌がらせになっていそうだ。
しかし、広忠は頑なに今川への義理を立てていると言う。
「広忠は余程、織田が嫌いと見える」
「そりゃ、そうでしょう。自分達を追い落とした(松平)信定に正室を送った家でしょう」
「まぁ、そうなるな」
「孫(信光)さんはその(松平)信定の娘を妻にしている訳でしょう」
「そうなるな」
広忠は10歳の頃に父の清康が死去し、大叔父の松平信定に岡崎を押領された。
広忠の譜代の衆が敵に周り、殺されそうになった所を阿部大蔵定吉の働きに救われた。
そして、吉良持広の庇護を得て伊勢国の神戸まで逃れた。
持広の死去後、養嗣子・吉良義安の織田氏加担で庇護者を失う。
広忠は岡崎帰参を今川義元に取り成してもらうべく駿河へ赴いた。
そして、義元の取り計らいで松平信孝と松平康孝の協力を得て岡崎へ帰城に成功したのだ。
松平信定は憎い敵、その協力者の織田も憎い敵だ。
一方、義元への恩義は非常に厚い。
簡単に寝返る訳ないでしょう。
「広忠の恩義は本物であれ、偽物であれ、広忠に組している仁木の配下の服部が東美濃の岩村遠山氏の寝返りに介入している」
「あっ、何となく判ったわ」
「今川は広忠が裏切っていると思っていると、空誓は広忠を説得したそうだ」
「疑心暗鬼になりそうな話ですね」
「私は何もしていないよ」
「判っておる。すべて空誓の独断だ。空誓の説得で岡崎周辺の城主は焦った。こちらの要請に応じて、いつでも寝返るという約定が何通も届いている。東三河からも届いておるぞ」
知らない間に三河を統一しそうな雰囲気になっている。
「叔父上。末森の家老衆はどうされるのでしょうか?」
「家老衆で決められる問題であるまい。放置だ。放置。兄上が回復されてからという事になっておる」
「それじゃ、那古野に来る意味がないわね。本当に餃子を食べに来たの?」
「そうならよかったのだが、残念ながら違う。本題はこれからだ」
孫(信光)さんがにやりと笑った。
◇◇◇
今川義元は広忠の忠誠を疑っていないと言う使者を送って来た。
これで一安心!
んなっ、わけないよね。
一度、疑心暗鬼になった岡崎衆は、いつ今川から背中から討たれるか判らない恐怖に怯えた。
織田と今川のサンドイッチ状態だ。
そりゃ、怖いです。
広忠は三歳の竹千代を駿河に送って忠誠の証とする事を決めました。
家臣の息子も人質として同行させる事で今川への疑念を少しでも軽くし、背中から討たれる危険を減らそうとした訳です。
「もしかして、田原城の戸田が寝返った?」
「流石。よくお判りで!」
「何となく、そんな気がした」
「松平竹千代他、お供七名が大浜に届けられております」
「末森はどうするのぉ?」
「人質として使いません。というか、使う訳にいきません」
そりゃ、そうだ。
安祥城まで攻めさせてから撃退する計画が台無しになる。
史実の話では、渥美半島を支配する継母の父である戸田 康光は、千貫文で織田に竹千代を売ったと伝わる。
一武将なら千貫文は大金だけど、一国の領主が千貫文で今川を敵にするか?
馬鹿げた話だ。
嘘を吐くならもう少しマシな嘘を吐いた方がいい。
〔 1貫文=100疋=1,000文=1石=1,000合=米150kg=6万円 〕
身代金に千貫文(6,000万円)は妥当な金額かもしれない。
しかし、隣の国と戦争になれば、数万~数十万貫文(数億~数十億円)の銭が吹っ飛ぶ。
渥美半島の石高だけでも2万石(2万貫文)もある。
交易や漁を含めれば、5万石相当かもしれない。
つまり、千貫文なんて、50分の一だ。
はした金だ。
これで戦争を始めると言うなら馬鹿以外の何ものでもない。
あの話は真っ赤な嘘だね!
家康の父、松平広忠は織田にも屈して、竹千代を人質に出した。
そして、再び竹千代を見殺しにして今川に寝返った。
〔岡崎を追われ ~ 今川で岡崎に復帰 ~ 織田に負けて臣従 ~ 竹千代を見捨てて今川へ寝返った〕
織田と今川の間をコロコロと寝返った経歴を詐称する為に、竹千代は騙されて織田に連れて行かれたと嘘を戸田に押し付けた。
死人に口なしだ。
家康、得意の歴史の改ざん、嘘八百だ。
雪斎和尚さん、家康に嘘を吐いてはいけませんと教えなかったのかな?
◇◇◇
私が家康の嘘を糾弾する物思いにふけっていると、孫(信光)さんがトンでもない事を言った。
「でだ。竹千代殿とお供7人を那古野で預かって貰いたい」
「ウチは保育園じゃないよ」
「承知しているが、末森も丁度よい人材がいない」
「こっちもいらないよ」
「すまん。三郎、この通りだ」
孫(信光)さんが深々と信長ちゃんに頭を下げた。
頼まれると中々に嫌と言えない信長ちゃんに頼むのは卑怯だぞ。
信長ちゃんが私の顔を困ったように見るのよ。
「判った。判った。千代女ちゃん、何とかならない」
「私に振るのは止してよ!」
「困った時の千代女ちゃんって、言うじゃない」
「言わないわ」
「あのぉ!」
「はい、八瀬ちゃん」
「川原寮に入れるのはどうでしょうか? あそこなら100人規模で子供を受け入れられます」
う~~~ん、どうするかな?
川原寮は河原者が運営する寮であり、甲賀、伊賀、柳生、飯母呂、鉢屋、倉街、川原の子供達が住んでいる。
寮の横に学校を併設しており、通うのに不都合な子供や共働きの両親を持つ子供や倉街を拠点にする子供も入っている。
倉街にも学校があるんだけど、学校というより研究所か、開発所に近い。
読み書きそろばんを教える学校は出島しかない。
午前は共通の授業を受け、午後から専門に分かれて授業や農作業の手伝いをする。
そりゃ、甲賀には甲賀、伊賀には伊賀の流儀がある。
そこまで口を出す気はない。
「でも、出島の学校に入ると、後で戦国時代に更生できなくなるよ」
「その言い方だと、私達がトンでもなく、好ましくない生活態度で暮らしているように聞こえるんですけど」
「ははは、今更、元の生活に戻れると思っているのぉ?」
「そりゃ、思ってないわ」
「我々は少々、豊かな生活に慣れてしまったのかもしれません」
「うむ、餃子のない生活はもう無理だな」
孫(信光)さんは感化が早すぎです。
「5合飯で満足した自分が懐かしいな」
「それは判る」
「肉のない生活は無理なのです」
「味のない一汁一菜は無理です」
「甘い物のない生活も嫌です」
「同意」
慶次様と宗厳様は相槌を打っていない。
今は戦国時代だ。
もし無くなっても仕方ないと割り切っているのだろう。
おそらく、男の忍者衆も同じなのだろう。
女・子供とは感性が違うのか?
否、孫さんがこっち側だ。
よく判らん。
「あのぉ!」
「はい、八瀬ちゃん」
「出島の生活に慣れさせれば、織田を離れて生活しようと思わないのではないでしょうか?」
パク、パク、パク、チーン!
(首を左右に何度か振って、最後に指を鳴らす)
「うん、悪くない。それで行こう。孫さん、竹千代を引き受けましょう」
「忝い。戸田共々、よろしくお願いいたす」
「戸田も? 押し付けないでよ」
「そこを何とか!」
「はぁ、判ったわ」
「重ね重ね、忝い」
「八瀬ちゃん、竹千代らは川原衆と同じ、忍者特有の訓練なしで暮らさせて!」
「はい、伝えておきます」
川原衆の午後は農作業などの手伝いがメインになっている。
『働かざる者、食うべからず』
これが私のモットーだ。
3歳の幼児だって甘やかせないよ。
遠目で視察!
あれが狸親父になる家康の卵ですか?
う~~~~~ん、狸、狸、狸か、判らん。
幼くて、ちっちゃかった。
でも、かわいいとは思わない。
拗ねた顔をしているからかな?
でも、夕食を食べると、笑顔が溢れたらしい。
食事は気にいったみたいだ。
デザートのプリンを家臣の分まで奪って怒られたとか?
露天風呂で身ぎれいにして、最後にふかふかの布団付きのベッドだ。
虫の音を聞きながら、ゆっくり眠れ。
ははは、明日の授業から『デカルチャー』したまえ!
ここまで読んで頂いてありがとうございます。
◇◇◇
※).竹千代を奪った戸田康光はどんな人?
戸田 康光:三河田原城を根拠地としつつ、二連木城(豊橋市)などに一族をおいて三河湾一帯を支配しようとしたが、北からは松平氏、東からは今川氏など、はるかに大きな戦国大名が東三河に進出してきたため、これらに屈服を余儀なくされた。初名は宗光で、松平清康の偏諱を受けて康光と改める。
竹千代とその随員からなる一行は岡崎城を徒歩で出立し、渥美半島に入って老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅近く)から舟で駿府まで送り届けられる予定であったが、一行を乗せた舟はそのまま三河湾を西に進み、今川氏と敵対していた尾張国の戦国大名・織田信秀のもとに到着した。
戸田 宣成は天文6年(1537年)牧野氏の吉田(今橋)城を奪い城主となり、天文15五年11月15日に今川軍は三河吉田(今橋)に攻め込み、戸田宣成を滅ぼしています。(松平広忠は今川の命で参戦)
宣成は田原城主戸田氏の第2代の戸田憲光の次男といわれ、これが事実なら康光は松平広忠に娘(側室の真喜姫〔田原御前〕)を嫁がせるが、広忠は次男の仇にもなります。
〔時系列〕
1546年(天文十五年)十一月十五日、吉田(今橋)城で戸田宣成が殺された。松平広忠も参戦しており、次のターゲットは田原城なのは明らかです。
1547年(天文十六年)八月二日 人質として駿河護送中の松平竹千代を拉致して尾張国に連れてゆく。
1547年(天文十六年)九月五日 今川義元は田原城攻略し、田原戸田氏滅亡させる。
こうして、見ると戸田康光の竹千代拉致は一連の流れであり、決して裏切ったと言うよりも、織田に助けて貰う為に手土産にしか過ぎません。
しかし、敵対している戸田の居城に近い老津の浜から駿河に送ると言うのは滑稽な話であり、戸田康光が竹千代を売り渡したとする逸話は後世の創作であり、岡崎城を攻め落とされた松平広忠が降伏の証として竹千代を人質に差し出したのではないかとされています。
(父、広忠は織田に降って、人質を差し出したという汚名を隠す為です)
竹千代を人質に差し出したとされる戦いは、『渡河原の戦い』であり、松平信孝が広忠を破っております。
さらに、1548年(天文十七年)三月十日付の織田信秀宛北条氏康文書では、岡崎の支配権が織田にあったように書かれています。
しかし、広忠が本当に織田に屈していたのか?
それを疑う史料もあり、真実の程は定かでありません。
竹千代の拉致は唐突でおかしく、広忠が人質を差し出したにしては、広忠が今川よりの行動を取っている。
矛盾です。
しかし、広忠が竹千代に虫けらほどの価値を持たない人格破綻者であったとするなら、竹千代を人質に差し出して、織田に屈した振りをしたと言う解釈もできます。
もし、戸田康光が拉致をしていなかったとするなら、何故、康光に罪を着せられたのでしょうか?
継室として真喜姫の子である市場姫の嫁いだ八ツ面城主・荒川義広が、三河一向一揆において一揆方に荷担し家康に刃向った恨みとかじゃないでしょうね。
家康は陰湿な面もあるから、あながち嘘とも言えなかったりします。
【 年表 】
1540年(天文 九年) 六月六日 織田信秀、三河国安城城を奪取。
(桜井、佐々木、三木(合歓木)の各松平諸家や酒井、大原、近藤氏の一派が織田信秀方に寝返った)
1541年(天文 十年) 水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)八月 十日 第一次小豆坂合戦
十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)七月十二日 水野忠政、没。
八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)八月二十二日 松平長親、死去。
九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
この月 松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年)十一月十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)八月二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
1547年(天文十六年)七月八日以前、今川義元は医王山に砦を普請。(広忠救援のための物か)
九月五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
1547年(天文十六年)(※)吉法師の大浜攻撃、信秀の岡崎奪取
(★)二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
1547年(天文十六年)九月二十二日 岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候〔日覚書状〕
(★)二十八日 渡河原の戦い。松平信孝、広忠を破る。
十月二十日 松平広忠、筧重忠に松平忠倫暗殺の感状を出す。
十二月五日 大樹寺、田畑寄進。(広忠岡崎に健在)
1548年(天文十七年)三月十日付 (★)織田信秀宛北条氏康文書、殊岡崎之城自其国就相押候(この時点まで、岡崎城は織田の支配化にあった)
1548年(天文十七年)三月十九日 第二次小豆坂合戦
四月十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)三月六日 松平広忠、暗殺される。